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横浜スケッチ(第11回) T君からの電話

by staff on 2016/3/10, 木曜日

ペンネーム 成見 淳

本来エッセーは一話完結のはずである。それにも拘わらず12月号の海岸教会以来なぜか話がつながっているように思われる。書き手が同一人物であるから、問題意識や関心、また物の見方が同じで、時系列的につながって行くのは当然かもしれないが、それにしてもという思いがしている。

12月の中旬、大学前期のクラスメートから突然電話をもらった。T君である。
初めて会った頃からどことなく憂いを帯びたまなざしと、自分と同年代にしてはやけに大人びているのが印象に残っていたが、その理由は知る由もなかった。

「おう。久しぶり。どうしたの?」と尋ねると「実は・・。」と言って話し始めた。
「自分の父親は戸田五郎と言って広島で学校の先生をしていた。原爆が投下される日に2年生の生徒160名を率いて市内の疎開家屋を解体するようにとの軍からの命令を受けていた。ところが前日、道で出会った男の人にアメリカ軍機が撒いた爆撃予告のビラを見せられ、このことを巡って3年生37名を引率する前田先生と判断が分かれ対立、非国民と非難されるが苦悩と葛藤の末に自分が引率する生徒に自宅修練と称し休ませることにした。その結果2年生の大半は助かったが3年生はほとんどが命を失うことになった。
このことを父から聞いたのは相当長い期間が経ってからのことだった。父の手記は副読本となって授業にも使われた。父は2003年に91歳で亡くなったが父の判断と勇気により命を救われた教え子たちの手で電子辞書となり発刊されることになった。是非読んでやって欲しい。そして、多くの人に知って欲しい。」このような内容だった。

私はその時確認はしなかったが、連絡をもらったタイミングから、きっと横浜スケッチの「横浜海岸教会」に書いた、渡辺連平牧師が教会の屋根に上ってアメリカ軍機が落とした焼夷弾を拾い教会を守った話を読んでくれたからだろうと推測した。
「それはとてもいい話だから、是非エッセーで紹介させて欲しい。」と言って受話器を置いた。その時は原爆の話がどう横浜とつながって行くのかは考えていなかった。
ただただこの話を多くの人に知ってもらいたいという気持ちだけだった。

1月号は日米和親条約締結時に立ち合い、2度の大火にも不死鳥のごとく蘇った「たまくすの木」をテーマに日米友好関係にかける思いをYさんに語ってもらった。
2月号ではNさんの、「山下公園が金網の塀に囲まれていて中には進駐軍の家族の住宅があり外国人の姿がありました。どうやら私が小学校に上る前の実際の光景であったそうです。」という日本が占領されていた時代のかすかな記憶に触れた。

と、ここまで書いてベッドに入りTVをつけると偶然にもBS朝日で杉原千畝のことを放映していた。ご存じない方のために簡単に紹介する。
杉原千畝:外交官。第二次大戦下リトアニア領事として、ナチスの迫害から逃れるため領事館に集まったユダヤ人約6千人に政府の許可を待たず独断で日本通過ビザを発行し、家族を含め2万人の命を救うが帰国後職を奪われることとなる。長い間日本政府から消し去られた彼の功績は、彼のおかげで救われ在日イスラエル大使館の参事官となった方との再会を機にイスラエルより顕彰を受け、2000年10月10日に外務大臣河野洋平の演説により謝罪を受け、名誉回復されることとなる。86歳で亡くなられた14年後のことだった。「命のビザ」として知られるようになった。

外務省の命令に背いて6000人、家族を含めると2万人以上のユダヤ人の命を救った杉原千畝さんと戸田五郎さんとが重なって見えた。戸田さんと、救われた教え子の今田さんの手記を読んだ時、しばらく嗚咽が止まらなくなった。杉原千畝はどこにもいる。誰でもなりうる。それなのになぜ命を救った人が組織から抹殺され名誉回復を妨害されたり、戸田さん今田さんのように長い間苦しんだりしなければならないのか。

さて、横浜とT君の原爆の話をどう結びつけるかと思案していたところに、発行人の渡邊さんから「横浜が原爆投下の候補地だった。」という思いがけない事実を教えられた。
「はまれぽ」の「横浜のココがキニナル!」によると調査結果は「横浜は早期の段階で原爆投下候補地だったが、のちに除外された。直後に横浜大空襲に見舞われた。」とのことだった。(なぜこの記事が「娯楽・文化欄」の範疇なのかは大変理解に苦しむが内容は一番詳しい。)
要約すると「1945年5月10日に(原爆投下の)目標委員会が開かれ、最も新型爆弾の威力を示せる所という条件からAA京都、広島、A横浜、小倉、B新潟が候補地としてあがった。この時点では原爆は未完成であった。5月28日に第2回の目標選定委員会で横浜は候補地から外され、その翌29日に、B29が517機、P-51が101機、落とした焼夷弾2570トンという大空襲に遭い、旧横浜市全域がほぼ消失した。」とある。
なお、横浜がAAから外れた理由のひとつに「日本中でもっとも厳重な対空砲火集中地帯の中にあったこと」と書かれていた。
私は1947年生まれだから戦争そのものは知らない。でも、これを読んでいて「小学校の高学年の頃まで、現在の子安台公園の所には米軍が駐留しており、その前は日本軍の高射砲陣地であったこと」「生麦中学校1年の時に校庭にカマボコ兵舎があったこと」「陸上競技部が幅跳びの施設を作るために校庭を掘っていたら大きな不発弾が出て来たこと」などを、その映像と共に思い出して、記憶と歴史的事実が結びついた。(ついでながら、当時第二京浜で未明に火薬トラックとダンプカーが衝突し、新校舎のガラスが全て割れ、国道には大きな穴が開いたこともあった。57年前のことだった。)

残念ながら体験の記憶は、時の経過によって持ち主と共に消えて行く。しかし記録や記述、映像などは後世に残る。だから今に生きる私たちは、それらの媒体から想像と共感によって同じ思いを追体験することは出来る。
杉原千畝、戸田五郎、今田耕二さん達の思いを無駄にしないためにも、想像力と共感力を研ぎ澄まして、貴重な資料を読み、伝え。広めなければならないと思う。

T君の、あの憂いを帯びたまなざしは被爆二世の抱える不安・悩み・痛みなどから来るものだったのではないかと気づいたのは、22歳の時に初めて彼と会ってから47年後のつい先月、この原稿を書いている時のことだった。

当時の姿を絵にすることは出来ないので、今月のスケッチは横浜市営地下鉄阪東橋駅徒歩1分の所にある「横浜平和祈念碑」としました。
と、ここで原稿は終わっていたのですが、先月27日に私の水彩の桝谷一夫先生にお会いする機会があり、この件をお話ししたところ、水彩画「原爆ドーム」の掲載協力をいただけることになりました。

「原爆ドーム」 「横浜平和祈念碑」
桝谷一夫 成見 淳
水彩スケッチ「水陽・季彩会」主宰講師
日本スケッチ画会展および日本ペン彩画会会員
水陽会所属講師
つきみ野カルチャーセンター
「水彩・ペン彩風景スケッチ」講師
本稿最下段 筆者紹介参照

戸田五郎さん、今田耕二さん、杉原千畝さん、T君、渡邊桃伯子さん、桝谷一夫先生、ありがとうございました。

お知らせ
水彩スケッチ「第6回水陽・季彩会展」
2016年3月21日(月)~27日(日)10:30~18:00
(初日13時より、最終日16時まで)
横浜市民ギャラリーあざみ野 2F展示室 あざみ野駅徒歩5分
賛助出品:桝谷先生。私は3点出品します。

参考資料

筆者紹介

Jun Ohsawa 大澤 淳さん  
お名前 Jun Ohsawa 大澤 淳
E-mail j-narumi@ug.netyou.jp
URL http://home.netyou.jp/kk/ohsawa/
成年月日 1967年1月15日成人式。おひつじ座。いわゆる団塊の世代。誕生日はもっと前。
年齢 その年の西暦 - 1947(3月25日以降)
生息地 横浜市鶴見区に60年以上在住。いわゆる浜ッ子。
血液型 いわゆる典型的なAB型
性格 内気、控えめ(だが信念は曲げない)、人前に出るのを極度に嫌う・・・だったが、 最近は少しずつ変わって来た。これもネット化のおかげかな。
割りと簡単に物事をはじめてしまう。(衝動的、意思決定が速い、好奇心が強い) 。忘れやすい。(最近特に)
趣味 絵画(スケッチ、油彩、水彩)ヨコハマNOWのお陰で、2015年より主に水彩画を中心に絵画を再開した。
文章を書くこと(エッセイ、旅行記など)。
フォルクローレ(アンデス音楽、ケーナ、サンポーニャ演奏・・・だったが、今はたまに聴くだけ。
年1回(と決めているわけではないが)の海外放浪の旅。
(心の洗濯:すぐ心が汚れやすいので。)
ゴルフ(1979年にホールインワンをしたことも。神奈川県津久井湖ゴルフコース、最近は月2~3回、ハンディキャップは全盛期13だったが、この頃は何とか10代後半。)
退職後は散歩や庭を眺めたり芝生の雑草を取ったり。
2015年作曲を始める。

 

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