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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第45回 第6章 社会人編 17

by staff on 2016/3/10, 木曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

<ご注意>
最近お店にいらっしゃるお客様から「原さん喉の具合が悪いんですってね、ヨコハマNOWで見ましたとよ、大丈夫ですか?」と言われます。 “横浜、街と風”はヨコハマNOWさんに投稿させていただいてる私のヒストリーで、25年以上前のお話です。連載ものなので過去の記事を読まずに読んでしまうと誤解される事が多いようようです。
現在は喉の調子も快調ですので、そうぞ誤解のないようにお願いいたします。

 

横浜、街と風(社会人編) 31(46)

ドゥ・ミュージック

1年間のリハビリのおかげで声も普通にコントロールできるようになり仕事も順調で、3軒のお店を掛け持ちする毎日が続き生活も安定していました。しかしこんな雇われミュージシャンをいつまで続けることができるだろうか? といつも心に不安を抱えていました。

そんなこの頃、私にはいくつかの夢がありその一つがいつか音楽学校をやってみたいという夢でした。しかし資金もツテもそれ程ありません。

そこで思いついた事がありました。私が深夜演奏していたハーバーガイズというお店の営業時間が午後8時から午前4時までで、午後7時までは全く使っていません。そこに目を付け、夕方の午後3時から7時までここを借りてお教室を開いたらどうかと、、、それを足がかりにお金を貯めいずれちゃんとした場所でロックやポップスを習える学校を開きたいと考えました。

ある日、社長のMさんに相談すると、男気のある社長は快諾してくれて、とても安い家賃で夕方の4時間を貸してくれることになりました。それではということで、ドゥ・ミュージック・スクールという名前を考え、関内で演奏活動をしている友人や先輩のミュージシャン達に声をかけ、ピアノ2人、ギター1人の先生が決まり、そして歌とギター弾き語りを私が担当、で4人体制で教えることになりました。念願の音楽学校が始められることになりました。

スクール

といっても生徒集めは中々大変で、最初は店に来るホステスさんやウエイターさん達、お店のお客さん達の中で興味を持ってくれた人や、その人たちの紹介で来てくれた人たちで最初は10人位から始まり、当時出廻り始めた「ぱど」に生徒募集を出して、気が付けば30人位の生徒さんが集まりました。でも、何しろ教室は一つだけ、夜のライブハウスを昼使うわけですから雰囲気は学校とは程遠く、西日から夜に向かう夕方の店内は暗く、異様な雰囲気でした(営業中は照明もあり最高のムードなのですが、、)。しかも時間は一日4時間。この時間を3人の先生達が交代で教えてくださいました。私はというと、まず午後2時に店を開け準備。わたしもギターと歌を教えていましたが、ほとんどは他の先生達が教えている時は店番と電話番をしていました。

この当時私の生活はと言うと、昼12時頃起き風呂に入り、午後2時には教室を開け、7時まで授業やら店番をやって、そこで片付けをやり、食事をして午後8時から深夜0時まで2軒の店を掛け持ちで演奏し、0時から30分で食事をして、そこから又ハーバーガイズに戻り、午前4時まで3回ステージをやる、こんな生活でした。生徒さんの数もそれほどではなかったので、週に3日か4日ほどでしたが、若かったから出来たことでした。

運営

「ぱど」を見て来てくれた人も沢山いました。でも中に入ると、えっ!?ここが教室? という顔をする人もいて、それきりの人もいましたが、それでも徐々に生徒さんは増えて、常時30人以上はいました。私も人にギターをちゃんと教えるのはこの時が初めてでしたが、人に教えるのがいかに大変かをこの時学びました。できる人ができない人に教えるのは、その人のレベルまで自分を落とさなければいけません。そして、じっとできるようになるのをアドバイスしながらじっと待たなければいけません。これは忍耐がいるし、実に喉が渇きます。私は経営していますから、生徒さんにやめられては困るので、何とか我慢してご機嫌を損ねないよう努力します。しかし、他の先生達はそうはいきません。生徒が宿題をやってこなかったりすると、「それじゃ先へ進めないじゃない。そんなんだったらやめちゃいなよ」と怒ったりします。横で聞いていてハラハラ。。。後で、「先生それじゃ困ります」といっても、基本的にはみんなアーティストで頑固です。説得も又一苦労。後は、生徒さんが来なかったり、貴重な時間を先生と二人ポケッと過ごしたり、そのまま来なくなって月謝も入らなかったり、、、月謝未納は全部こちらの責任。募集の記事は出さなければいけないし結構苦労がありました。

発表会

それでも生徒さんの上達は大きな喜びです。ドゥ・ミュージックではハーバーガイズのお店を使って年2度の発表会がありました。普段人前で演奏する機会などない人たちがほとんどで、友人や家族を連れてきたりして本人はドキドキ、緊張は最高潮に達しています。出番を待つ間他の生徒さんたちと仲良くなったり、他の人の演奏も聞きます。最後まで演奏できる人もいれば途中で止まってしまい、シーンとなって泣き出しそうになる人など、そんな人たちも自分のチカラで乗り切ったり、周りに助けられたり、みんなの間に一体感が生まれ頑張れとみんなが応援し合います。そしてやり切った時の生徒さんの嬉しそうな顔や感激して泣いている顔。それを見た時やって良かったと思いました。

 

ここからは原の音楽夜話 - 原の勝手な視点で様々な音楽を語ります。
ソロボーカル(ブラック男性編3)

50年代から60年代にかけては人種差別がまだまだ激しい時代でしたが、ポピュラーミュージックで黒人が成功を収めるためには白人たちにも受け入れられなければいけませんでした。先に述べてきた先人たちの業績から少しずつ白人たちの間にも受け入れられて行った時代でした。又、それを可能にしたのがレコードやラジオ、そして、更にテレビの普及が大きかったのでしょう。今現存する当時の映像や写真を見ると、この頃の黒人歌手はきちんとネクタイを締めてスーツに身を包み、時にはタキシードのような礼装や小奇麗なステージ衣装を身につけて歌っています。又、黒人の象徴である縮れっ毛はポマードなどでなでつけていたり、ストレートパーマ? などで真っ直ぐにしていたり、女性はカツラを付けていたり、白人に悪い印象を与えない努力をしていたようです。

モータウン

60年代からのブラックミュージックを語る上でまずでてくるのがやはりモータウン・レコードでしょう。黒人のアーティストが曲を作り歌いマネージメントまで全て自分たちでやってしまう画期的なレコード会社で、白人までもターゲットにした画期的なこの会社の音楽はモータウンサウンドと呼ばれ、アメリカを席捲し黒人音楽の普及発展に大きな功績を残しました。

1958年ベリー・ゴーディ・ジュニアが創立。ベリーは元々ミュージシャンとして活動していましたが、レコード店を開いたり事業にも手を伸ばしていました。先に書いたジャッキー・ウイルソンのために作曲したロンリー・ティアドロップスが大ヒット。この印税を元にレコード会社を設立。最初のヒットはバレットストロングが歌ったベリー作曲の“マネー”(後にビートルズがカバーして有名になる)。これが全米R&Bチャートの2位を記録しました。

当初タムラ・レコードと名付けられたこの会社は、自分たちの音楽の良さを白人たちにも知ってもらいたいという思いから始まりました。自動車の街ミシガン州デトロイトを拠点に置いたこの一軒家に事務所からレコーディングスタジオまでがあり、仕事は全て分業制。まず歌い手をスカウトし教育係から歌、ダンスをレッスン、ステージマナーからショービジネスの全てを叩き込まれます。別室では作詞作曲家チームが何組かいて、ヒットする曲を競って書き、それを編成会議で吟味し、どういうサンドにするか、アレンジにするか、誰に歌わせるかを検討します。さらにモータウンの専属ミュージシャンがオケを録音。選ばれたシンガー及びグループがそれを歌い、レコードにプレスし、全国網で販売しました。この時代はラジオ全盛の時代。ラジオでどう聞こえるか、実際に会議室にカーラジオを持ち込み全員で聞いてディスカッションして、心地いい音に仕上げようとしたりしていました。だから今デジタル時代のシステムで聞くと、分離の悪いサウンドなんですね、またモータウンの役員たちは、自分の子供達に学校へ行ったら今流行っている曲の白人の子達の感想を聞いて来いと情報を集めさせ、それを参考に白人のティーンネイジャーに受けるサウンドを目指しました。なるほど理にかなった営業活動です。そんな努力の甲斐あってかここから’60、’70年代のミュージックシーンにキラ星のごとく輝く素晴らしいアーティスト達が育っていきました。

スモーキーロビンソン

ベリーゴーディの片腕、後にモータウンの副社長になるスモーキーロビンソンは、モータウン設立後初の契約アーティストで第1号のスターでした。59年、スモーキーロビンソン&ミラクルズでゴーディと共作した曲「ショップアラウンド」が全米R&Bチャートの一位、立て続けにヒットを飛ばします。スモーキーは作詞作曲を自ら手がけそのクオリティの高さはボブ・ディランに(現代アメリカ最高の詩人)と言わしめたほど。ビートルズもユーリアリーガッタホールドオンミーをカバー。ジョージハリソンは大好きなアーティストにスモーキーを上げています。

またスモーキーは、モータウンの他のアーティストにも曲を多数提供していて、その中でもテンプテーションズに書いた「マイガール」は今聞いても最高の曲です。どこが頭拍? と耳を疑うトリッキーなベースからのイントロ。リードとバックの掛け合いを見事に使ったメロディライン。又、このメロディラインは俗にヨナ抜き(四度のファと七度のシがないので47ヨナ抜き)と呼ばれるドレミソラのたった五音階だけで作られています(さぶちゃんの函館の人もそうですよドーレミソーラドレミーミミミミー)。
このシンプルなメロディにストリングスがメジャーセブンスの音などを盛り込んで甘く切ない見事なサウンドに仕上っていて、何百回聞いても飽きることはありません。そして「ゲットレディ」は、70年代には同じモータウンから出た初の白人ソクルグループ“レア・アース”にもカバーされ、ダンスミュージックのウルトラ・スタンダートとなっています。

スモーキーは、70年代にはソロになり名曲を数々リリーズ。80年代にはモータウン副社長の仕事の傍ら、「ビーイングウィズユー」が大ヒット。ウィアーザワールドにもコーラスで参加していましたね。
スモーキーの声はファルセットをからめ表声とミックスさせたユニークな唱法で、普通は表と裏の声の境目が聞き取れるのですが、スモーキーの声は境目があまり解りません。そしてその声と細めのビブラートが上品さを醸し出していて、それまであまりないタイプの黒人ボーカルだったと思われます。名曲バラード「ウーベイビーベイビー」は、ファルセットを絡めた歌にメジャーセブンス系の4声コーラスが厚く重なり、それに甘酸っぱいストリングスが包むという70年代のスイートソウルと呼ばれたジャンルの先駆けになった曲だといわれています。いい曲です。

(続きは次号へ)

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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