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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第47回 第6章 社会人編 19

by staff on 2016/5/10, 火曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

<ご注意>
最近お店にいらっしゃるお客様から「原さん喉の具合が悪いんですってね、ヨコハマNOWで見ましたとよ、大丈夫ですか?」と言われます。 “横浜、街と風”はヨコハマNOWさんに投稿させていただいてる私のヒストリーで、25年以上前のお話です。連載ものなので過去の記事を読まずに読んでしまうと誤解される事が多いようようです。
現在は喉の調子も快調ですので、そうぞ誤解のないようにお願いいたします。

 

横浜、街と風(社会人編) 33(48)

契約

いよいよ意を決し契約に臨みました。

このお店の場所は関内相生町2丁目の角地、有名なジャズの老舗バーバーバーの向かい(以前出てきたディスコ“マジック”の跡地)にある7階建てのビルで一階がみなと寿司。広さは16.5坪、小さいテーブルが8個位あって20人位が入れる感じでブルーを基調とした店内でした。

家主さんは綺麗な女性でここで“アダム”という名前で女性が接客するパブを経営していたそうです。この人はバブルの時代から関内で“イブ”というお店を経営していたママさんで、2店舗目がこのアダム(アダムとイブ?)で、バブルもはじけ立ちいかなくなったのか、誰か借りてほしいということで話が私の所へ来たようです。

ビルの大家にはママから言っておくという事で、いわゆる又貸し状態で、ママと私で契約書を作る事になりました。これがあとで騒動になるのですが。。。

条件として色々大家との問題もあるのでアダムという名前は変えないで欲しいとの事、開店後お客様からライブハウスじゃないみたいとか、ホストクラブみたいな名前だねと言われ続け、仕方ないので頭にライブの文字を入れ“LIVE IN CAFE アダム“を正式名称にすることで何とか我慢しました。

スタッフ探し

名前も決まり今度はスタッフ探し。以前から慕ってくれていたバーテンダーのS君がやってくれるという事で店長を任せることに。S君は自分より10歳位年下で水商売のベテラン。少しこわもての運動会系の人でちょっと酒癖の悪いのがタマに傷でした。

困ったのはお料理を作る人。最近は冷凍食品も美味しくなっているのでそんなにプロを雇わなくてもいいんじゃないかとのお話をいただきましたが、自分としてはどうしても美味しい料理を出したい、そんなにメニューはなくても美味しくないと思うものを自分の店ではお客様に提供したくない、と考えていました。しかし、そんな人は周りにいないし、、、と途方に暮れていたらまるで天から降って湧いてきた様なお話がありました。以前お世話になったエルエラ<17(32)に登場>のFチーフが元町にフレンチのお店を出すのでその準備期間が空いているとの事で、2か月位ならお手伝いしましょうか? と言ってくださいました。彼の料理の大ファンだった私は天にも昇る気持ちでした。この時もう一人決まっていたスタッフのT君に2か月の間に料理の基本とチーフのレシピを教えていただく事をお願いしました。T君は中華料理店の厨房を経験しておりフライパンや包丁はある程度使える人だったので、たった2か月でこの時チーフの作ってくれたレシピをバッチリ受け継いでくれました。開店してから「アダムのお料理は美味しい」と評判が良く、現在に至るまで「ハートの料理は美味しい」、「ライブハウスで出す料理とは思えない」など、ありがたいご意見をいただきます。それもこれも最初にエルエラのチーフFさんがレシピを残してくださったからです。今でも当店一番人気の昔ながらのナポリタン、辛口キノコのスパゲティ、ピッザなどはこの時からのメニューです。Fチーフは2か月後アダムをやめレストラン“エルエラ元町”のチーフとして活躍し、お店を発展させました。エルエラは現在元町に3店舗をかまえるフレンチ。イタリアンのレストランで研究熱心なオーナーやチーフの下、常に新しい世界を追求し続け美味しいお料理でたくさんのファンを魅了しています。

ベーシストR君との出会い

肝心のライブをどうするか? 狭い店なので長年やっていたハーバーガイズと同じスタイルで、ベースと二人で演奏しようと考えていました。基本的には私のギターサウンドをメインに、シークエンサーを使い自分で作ったオケ。オケのない曲はリズムボックスを使うスタイルで行こうと決めました。そこでパートナーとなるベーシストを探さなければなりません。

そこでふと思い出したのが以前出会った若いベーシストR君。彼との出会いは、とあるお店で自分が弾き語りをしている時お客の中にじっと見ている25歳位の男の子がいました。演奏が終わると彼は寄ってきて「感動しました、うまいですね。自分もアメリカのバークレー音楽院でベースを勉強していました」と言って5千円チップをくれたのです。若いのにチップくれるなんて珍しいなと思い、ずっと頭に残っていました。R君は当時26歳で身長178センチ位。そして超イケメンで当時テレビドラマ“ウオーターボーイズ”で人気だった反町隆史に似ていました。もし彼がパートナーになってくれれば人気者になってお店も繁盛するでしょう。すぐにもらっていた名刺に連絡してみると、この時彼は関内のボーイズバーで仕事をしていて、ベースも今は全く弾いていないとのこと。ベーシストとして一緒にやってみないかと話をしてみると、興味はあるが今のボーイズバーの社長には大変お世話になっているのでやめることはできないという返事。もう開店までそんなに時間はありません。そこで私は家内と二人で彼を口説きにボーイズバーへ通いました。見れば見るほどのいい男。本人にはやりたい気持ちがあることを確認しボーイズバーの社長に直談判することに。この社長、若くイケメンで関内ではかなり名の通った人でした、会ってみると彼とは共通のお客さんも多いことから自分の事もよく知っていました。R君をくださいと話すと、最初は難色を示しましたが彼がやりたいというのならと言って快く送り出してくれました。

これでオープニングスタッフが揃い、いよいよ開店の準備に入ることになりました。

 

ここからは原の音楽夜話 - 原の勝手な視点で様々な音楽を語ります。
ソロボーカル(ブラック男性編5)
スティービーワンダー(モータウン)

ソウルの歴史においてと言うか現代ポピュラー史にこの人ほど多大な影響を与えた人はいないのじゃないでしょうか。この人の事は書いても書いてもページが足りそうにありませんので簡単な略歴と私なりのスティービー論を数回にわたり語りたいと思います。

少年時代

スティービーは1950年5月13日米国ミシガン州サギノウ生まれ。保育器の過酸素が原因で生まれてすぐ視力を失いました。4才の時デトロイトへ移住、普通の少年同様やんちゃな少年時代を過ごしますが、彼は並外れた聴覚をもっていました。幼年時代、テーブルに置くコインの音でそれが何セントか確実に言い当てたそうです。そして小さいころからドラム、ピアノ、ハーモニカ、ボンゴなどの楽器を弾きこなしていたそうです。ある日、10個の楽器を弾きこなす天才少年がいると噂を聞きつけたミラクルズのロニーホワイトが実際に聞いて驚きベリー・ゴーディJrに紹介。母と共に訪れたオーディションでモータウンと契約しました。この時11歳のスティービーがロニーに歌って聞かせたのは自作の「ロンリーボーイ」という曲だったそうです。それからモータウンの中で教育を受け、初レコーディング後デビューしますがあまり売れませんでした。12歳の時モータウンレビューと呼ばれた地方ツアーに参加。この時録音されたライブ「フィンガーチップスパート1&2」が評判になりシングルカットされると全米No1を記録。13歳での1位獲得は史上最年少の記録でした。

このころのスティービーのライブ録音された歌は絶品です。私の家にも兄のシングルレコードで来日記念版と書かれた「太陽のあたる場所」がありましたが、まだ15才位の時でしょうか、1番は普通に歌いますが2番からアドリブをかまし限りない音域を駆使してフェークなメロディ(元のメロディをその場の思い付きで変化させる)で歌いまくります。この辺はジャズの影響かも知れません。しかしスティービーはジャズに影響されていることをあまり感じさせません。難解な事をやっても難しく聞こえさせないのが彼のすごいところです。

とにかくステージに立つのが大好きで、当時大スターだったマービン・ゲイの前座を務めたとき、マービンのステージ前に観客をのせるだけのせてしまい、無理やりステージから担いで連れ戻されるという事がありました。スティービーは「ひどい目に合わせるつもりはなかった、ただ僕はみんなを楽しくさせたかっただけなんだ」というと、マービンは「勿論そうだと思うよ、けど、お茶の中に毒を入れてやるからな。」と冗談を言われたそうで、そのやんちゃぶりは相当周りの人をヒヤヒヤさせたようです。

初期のモータウンでは驚異的に歌が上手い天才少年。ステージでは何種類もの楽器を見事に演奏して観客を沸かせる。そんな色物的な扱いで始まったスティービーですが、10代後半になるとその作曲能力を認められ分業制の厳しいモータウンで作詞作曲部門でも再契約されて、自身や人の曲を作る事を許されます。しかし創作意欲旺盛な彼は、アルバム単位で自分の音楽世界を作品として表現したいと考えるようになりますが、アルバムプロデュースの権利を得るのには ‘71年マービンのワッツゴーイングオンの登場を待たなければなりませんでした。

成人

モータウンとの契約は少年の頃交わしたので21歳になるまでその印税収入は基金に預けられるというものでした。1971年、めでたく21歳を迎え契約の切れた彼は預けられていた印税を受け取ると、「もう僕はあなた方のいう事には従わない。僕との契約は破棄してほしい」こう言い残すとニューヨークに移り住みました。デトロイトのモータウンは大慌て。ニューヨークでは多額の契約金でスティービーを獲得しようと多くのレコード会社が待ち構えていましたが、スティービーはモータウンに自分の音楽を自由にプロデュースできる権利を約束させ、高いパーセンテージの印税と出版権を獲得して再契約しました。

‘69年スティービーはボストン大学に入学、正式に音楽理論と作詞作曲を学びなおしました。鬼に金棒ですね。そしてこの当時誰よりも早くシンセサイザーに魅せられ、いち早くこれに取り組んだのがスティービーでした。頭に浮かんだイメージの音を自由に再現できるシンセサイザー。当時はムーグシンセサイザーと呼ばれ和音は出せない単音楽器。しかも超高価で専門知識を勉強しなければ扱えない厄介なシロモノ。でっかいパネルに無数のつまみ無数のコードが接続されていてこれを見ただけで普通誰も手が出せません。

専門の先生をつけて学び真剣にこれに取り組んだスティービーはやがて新しい作品のイメージを確立していきます。

最盛期

デビューから10年間に27曲のヒットナンバーを世に送り出したスティービー。でも ‘70年より前の作品はモータウンの手法にのっとった作品なので別物と考えた良いでしょう。そして ‘71年マービンのワッツ・ゴーイン・オンが発表されるとスティービーの創作意欲にも火をつけたと思われます。又モータウンや世間も変化しつつありました。

プロデュース権を得た ‘71年発表の青春の軌跡、と心の詩の2作品はすべての作品を自ら作詞作曲し歌いほとんどの楽器を演奏しプロデュースしました。しかしまだ色々試した準備作のようなイメージを感じます。

やはりその才能が昇華するのは「迷信」「サンシャイン」を生み出した名作、‘72年発表のトーキングブックからです。続く ‘73年「インナービジョンズ」と ‘74年「ファーストフィナーレ」の計3枚のアルバムは3年がかりで作られた3部作でセットとも言える最高の芸術作品でした。

そして名作 ‘76年発表の「キーオブライフ」でその才能は頂点に達したと言えるでしょう。アルバムがでるとグラミー賞などは総なめでした。

その後もホッターザンジュライなど名作を作っていますが、それ以降はどのアルバムも前出の4作品の輝きには及ばない気がします。(個人的にはあまり売れなかった自然をテーマにしたサントラ「シークレットライフ」は好きですが、、。)

次回は色々な側面からスティービーを分析してみたいと思います。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL DATAMAP

HEART&SOUL
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営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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