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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第51回 第7章 独立編 4

by staff on 2016/9/10, 土曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

 

横浜、街と風(独立編) 4

説得

開店から10か月もするといわゆる常連と言われる人たちが少しずつ定着。「原が店出したから一度行ってやろう」というお客様はいなくなりましたが、こういう方々が連れてきてくれて気に入っていただいた枝のお客様や、私の以前を知らない初めてのお客様がまた新たな常連になりました。

店長のT君中心にバイト達数人で慣れたある日、求人誌を見てアルバイト希望で面接に来たのが松下尚子さん(以下、松下さん)でした。以前は雑誌社で長くOLをやっていてその後ライブ会場やペットショップのアルバイトを経て当店に来ました。美人で性格もよく受け答えもはっきりしています。当時26歳位でした。即採用。週に3日ほどのバイトでしたが素直で仕事の飲み込みも早く、なにより彼女がいるだけでお店の空気が明るくなります。

家内もいたく彼女を気に入り、二人で社員になるよう説得しようと相談しました。それから仕事が終わると毎日のように松下さんを誘って飲み会、松下さんもお酒が大好きでよく付き合ってくれました。そこで必死の説得! 元々彼女はライブハウスという所に興味を持ちましたが長くやるつもりは無かったようで、また昼の仕事で就職しようと考えていました。

あの手この手の説得が功を奏し正社員として働いてくれることになったのが丁度開店1年目を迎えるころ。読みは当たり彼女は最高のムードメーカーになりこれ以降お店の営業は徐々に上向きになっていきました。

JJ

ベースのR君はイケメンで人気者、特にベースソロの時髪を振り乱しながらチョッパーを弾く姿はお客様を喜ばせました。しかしどうしても定休日の日曜以外もう一日休みたいという事で水曜日だけ女性ピアニストのMSさんと黒人のベーシスト “ジャニー ジョーンズ”(以下JJ) をお願しました。MSさんは日本人離れしたリズム感をもったファンキーなピアニスト。そしてJJは身長が2メートル近いマイケルに似たイケメンベーシストでしたが、シャイで無口、近寄りがたい雰囲気を持っていました。そしてそのプレィは圧倒的で、ジャズからフュージョンまでなんでもこなし、そのしなやかで力強いビートはまさに血が違うと思わせる完璧なものでした。その弾き方も独特で、指先でタップするように弦を弾くのですが、親指でひっぱたくチョッパーよりもはるかに力強く聞こえます。後にも先にもあんな弾き方で弾くベーシストを他に見たことはありません。また、ファルセットが素晴らしい。ミラクルズの “ウーベイビーベイビー” を得意にしていましたが、明らかに黒人は声帯が違うと思わせるハスキーで力強く限りなく美しい裏声でした。確か2年ほどアダムに出演して、私と一緒にプレイしてくれましたが、その後東京でプレイしていると聞いたのを最後に噂を聞きません。どなたか消息を知っていたらぜひ教えていただきたいです。

アダムス通信

そしてR君と二人の日にMTさんという美人ピアニストが参加してくれました。

そのうちゲストボーカルも入れてみようという事になり、月に数日ですが有名ソウルバンドのボーカルにお願したり、元GSの方にお願いしたり、ポップスも歌える女性シンガーを頼んだりと今のスタイルの原型が作られました。やがて日によってイベントも組むようになりベンチャーズナイト、ビートルズナイト、ゲストミュージシャンもハーモニカだったりブルースギターだったり。まだネットもまだそんなに普及していない時代なので、それではダイレクトメールで出演者スケジュールを送ろうという事になり、アダムス通信というのを作りました。丁度1年目の頃です。月のスケジュールに今月のサービスボトル、出演者紹介、それに毎月1枚歴史的名盤レコードを選び私がうんちくを語るコラムを入れて作成しました。予算は大してありませんから家内がパソコンで打ち込み自宅で印刷、確か最初は100通位だったと思います。現在はハート通信になりダイレクトメールは1200通位送っています。

 

ここからは原の音楽夜話 - 原の勝手な視点で様々な音楽を語ります。
ソロボーカル(ブラック男性編9)

時代が少し前後しますが60年代にモータウンレコードと共に黒人音楽の隆盛を支えたのがアトランティックレコードです。まずはアトランティックの歴史からみていきましょう。

アトランティックレコード

アトランティックレコードは、1947年にニューヨークで白人ながら黒人音楽を愛してやまないアーメット・アーティガンらによって設立され、ジャズやR&Bの黒人音楽の名作を次々世に送り出しました。50年代にはレイ・チャールズ、ドリフターズなど当時流行に最先端を行くサウンドで次々とヒットレコードを連発して成長。アトランティックレコードの黒人音楽のヒットを受け、当時アメリカンヒットチャートのビルボードにより「R&B=リズム&ブルース」という呼び名が確立され、人種の壁を越えて黒人音楽が広く親しまれる一助となりました。いまの若者が使うR&Bとはちょっと違いますが、、

アトランティックレコードが凄かったのは優秀な人材に恵まれていたことでもあります。敏腕プロデューサーで後に副社長になるジェリー・ウエクスラー。プロデューサー、エンジニアとして数々の名作を残したトム・ダウトなど、作曲陣もエルビスのハウンドドッグの作曲者リーバー&ストーラーなどがヒット曲を提供していました。

50年代にはアトランティックはすでに名門でしたが、60年代に入るとレイ・チャールズや人気歌手の相次ぐ移籍、更にビートルズなど英国勢の進出により苦戦を強いられます。しかしアレサ・フランクリン、ウイルソン・ピケットらの活躍。また、ウエクスラーのつてで南部の地方レーベルだったスタックスの全米配給会社になったことにより、オーティス・レディング、サム&デイブなどを傘下に加えて盛り返し、60年代黒人音楽をモータウンレコードと共に両輪として支えていきました。

しかし、60年代後半から70年代にかけては黒人音楽と共に白人ロック産業にも進出、ソニー&シェールのヒットを皮切りにバファッロースプリングフィールド、CSNY&Y、そしてクリーム、レッドツェッペリンと契約したり、イエスなどのプログレッシブロックにもいち早く目を付けブリティッシュロックのNo.1レーベルとして大きなマーケットに進出していきます。

その後、ビジネスの巨大化に伴い企業規模を拡大する必要に迫られ社長のアーティガンは大手企業ワーナーの傘下に入ることを決意します。その結果資金を得、ローリングストーンズの販売権を獲得、ワーナー側もアトランティックの実績と名前を利用して黄金時代を迎えることになりました。しかし、ロック路線を進めることにより、アトランティックは黒人音楽から離れて行かざるをえなくなります。すると黒人音楽にこだわったウエクスラーなどは離れていきました。昔ながらのファンはアーティガンの事をロック長者と批判的な意見を言う人もいました。しかし、50年代には人種音楽として扱われた黒人音楽を愛し、アトランティックが黒人音楽の一つの時代を切り開いたことは後の時代に評価されることでしょう。その素晴らしい音楽を残してくれたアーティスト達を特集していきます。

レイ・チャールズ

レイ・チャールズ・ロビンソン(本名)は、1930年9月23日ジョージア州に生まれフロリダで育ちました。6歳の時、緑内障にかかりましたが貧乏の為ろくな治療も受けられず7歳で失明してしまいます。
10歳で父を、15歳で最愛の母を亡くし、人種差別の厳しい時代に黒人で盲目の孤児として生きていかなければいけない運命を背負ったのでした。

目や口が不自由な人の国立学校に通っていたレイは、そこで点字で楽譜を読み、クラシックピアノとクラリネットを学びましたが、当時流行していたブギウギピアノの方が興味があったようです。学校中退後、地元のバンドに参加、3年後、クラブシンガーの仕事を見つけ19歳でレコードデビュー。このころのレイは、ナットキングコールのスタイルを真似て人気を得ましたが、彼はそれに満足せず少しずつゴスペルをベースにしたR&Bスタイルの独自のボーカルスタイルを確立していきます。

そして1952年、アトランティックレーベルに引き抜かれ、ここで数々の名曲・名演奏を残すことになります。当時のレイのレコードは海を越え英国の若者たち、まだ無名だったビートルズ、ズトーンズ、クラプトンなどに多大な影響を与えました。プレスリーなども 「I Got A Woman」 など聞くとレイから、影響を受けている感じに聞こえます。ビートルズのBBCなどで残された音源を聞くと、さらにこれをコピーしているようで、彼の音楽は今日のロックンロールのルーツでもあるといえるでしょう。

名曲 「What’d I Say」 は、58年のある夜、お客のアンコールに曲がなくなり、困ったレイがその場でフレーズを作り、バックコーラスのレイレッツに同じフレーズを繰り返させ、即興でできた一曲です。これが大うけに受けてしまい、レコーディングしたところ全米6位まで上昇、彼の名を知らしめることになりました。

人気に火が付いた59年11月に大手ABCレコードに移籍、60年11月には 「Georgia on my mind」 で初の全米No.1、61年 「旅立てジャック (Hit the road Jack)」、62年 「愛さずにはいられない(I Can’t Stop Loving You)」 と立て続けにNo.1を出し、押しも押されもせぬ世界の頂点を極めたのでした。

余談ですが 「愛さずにはいられない(I Can’t Stop Loving You)」 は、元々カントリーのナンバー。彼がこの曲を歌おうと思いついた時、黒人が白人のカントリーを歌ったりしたら今までのファンを失うことになるとレコード会社や周りの人間は猛反対しました。しかし彼は 「俺流に歌うのだからどんな曲でも俺の歌になる」 と周りを説得。結局その歌声はその曲の魅力を余すところなく引き出し、彼にとって最大のベストセラーになったのです。

また、レイはジョージア州の黒人差別に反対するため同州のコンサートをキャンセル。同州は彼を追放処分にしましたが、74年に追放を撤廃、 「Georgia on my mind」 は正式にジョージア州の州歌に認定されました。

80年には映画 「ブルースブラザーズ」に出演、85年には 「ウィ・アー・ザ・ワールド(We Are The World)」 に参加、90年にはサザンの 「いとしのエリー」 を歌い話題になりました。そして、2004年には伝記映画 「レイ」 が公開されましたが、同年、肝臓がんで74歳の生涯を閉じました。ローリングストーン誌の選ぶ世界史上もっとも偉大なシンガーの2位に選ばれています。

次号へ続く

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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