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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第52回 第7章 独立編 5

by staff on 2016/10/10, 月曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

 

横浜、街と風(独立編) 5

事件簿1・大乱闘

この頃は、狭い店でホールの隅から隅まで7メートル位。このスペースでいろんな事件がありました。ある日の事、入り口近くに15人位の団体と奥に10人位の団体が飲んでいて、ほとんど男ばかりでした。その間には柱が出っ張っていて、そこに一組のカップルのお客様。そんな店内の中で私は正に演奏中でした。手前の団体がふざけておしぼりを投げ合っていたのですが、それが運悪く隣の団体の人に当たってしまったのです。しかも悪いことにボス的な人の顔に命中してしまいました。収まらないのはそのグループの部下たちで、「てめえら何しやがる!」 と一人が隣のグループに殴りかかっていきました。もうその後は双方くんずほぐれつの大乱闘。私も演奏をやめスタッフ達と必死に止めに入りました。挙句は真ん中にいたカップルの男性も最初は笑っていましたが、突然キレて立ち上がり、「お前ら人が静かに音楽を楽しんでるのにいい加減にしやがれ!」 と参戦する始末。この人は昔からよく知っている港関係でブイブイ言わせたやんちゃな人で、店中が大変な事になってしまいました。昔の事なので結末がどうなったかあまりはっきりとは覚えていませんが、確かお互いのボスがそれぞれの部下を抑え、おしぼりを投げた方が謝ってその場は収まったと記憶しています。大したけが人も出ず警察沙汰にもならず本当に良かったと思っています。

事件簿2・優勝

2年目で良く覚えているのはやはり1998年、38年ぶりのベイスターズ優勝の夜。優勝するかもしれないとなったころから街自体の雰囲気が変わりました。どこに行ってもベイ一色で、そんなに野球に興味のなかった私でも引き込まれるほど街が大盛り上がりで、優勝の夜は一夜の祭り状態。窓から下を眺めていたら、車道も歩道もない感じで、沢山の人が大声で叫んで相生町を闊歩していました。

その後も日本シリーズ優勝で日本一! 地元チームが勝つというのはこういう事かと良くわかり、おかげさまでこの時は当店も盛り上がりました。

事件簿3・トイレ立てこもり

当店に当時よく来ていた元その道の方で、金払いも良く普段はおとなしく飲んでいるのですが、酔いが回ってくると危ない雰囲気になる時がありました。気を付けてはいたのですがちょっとした事が気に入らなかったようで、ある時しつこく私に絡んできました。金は要らないから帰ってくれというと、更に激高。これ以上しつこいと警察を呼びますよというと、
「俺が今度捕まったらどうなるか分かっていて言ってんのか? ちっとやそっとじゃ出てこれないんだぞ」
と今にも殴りかかってきそうな権幕でした。そこに登場したのがベースのR君! 私と彼の間に仁王立ちして「原さんを殴るなら俺を殴れ!」。

こいつがこんなこと言うんだ、、私も思わず唖然!!

そのお客も殴ったら自分がマズイと思い出したのでしょう。これが良いきっかけで「覚えとけよ!」と店を出ていきました。R君の男気に感心してしまいました。

他にも一つ。
その頃近所にあった外人クラブの女の子達が良く来ていました。そのうちの一人ヨーロッパ系の女の子とたまたま隣に座った元ミュージシャンの男性が打ち解けて仲良く飲んでいました。いつの間にか二人は一緒にトイレに入っていたようで、ほかのお客様からトイレに入れない苦情が殺到! ノックしても中から返事もありません。アダムのトイレは男女兼用。小さい店の割には化粧直しもできるおしゃれでゆったりしたスペースでした。1時間ほどして何食わぬ顔で出てきましたが、その間ほかのお店に頭を下げてトイレ貸してもらったり大変でした。一体何してたんでしょうね?

尚子チーフ

2年を迎える頃、メニューもそろそろ飽きられるのではと考え、月に2品は新メニューを強化しようという事で店長のT君を2か月程初代チーフの元町のお店エルエラに修行に出すことにしました。もちろん2か月のお給料とFさんへの謝礼はこちら持ちですが、これも投資と考えT君には料理のイロハを一から学んで来てもらう事になりました。

店長T君が不在になるためその間松下尚子(以下尚ちゃん)にうちのレシピを全てできるように短期間で覚えてもらいました。彼女は又T君と同じく料理のセンスも良くスピード・味・盛り付け・申し分なく、お客様から好評を得てクレームの出る事はほとんどありませんでした。

ケイちゃん

そんな頃、新たに社員希望で面接に来たのが栗又恵(以下ケイちゃん)君。茶髪にパンチパーマ、こわもての雰囲気で、こりゃえらいのが来たなと面接してみるとこれが中々いい感じで、ヨコハマ生まれのヨコハマ育ち。最近まで運送関係の仕事をしていたのが、バーに興味を持ち、夢はいずれこういうお店を自分でやってみたいと熱く語ります。とても気に入り早速社員に採用しました。その後、ケイちゃんの頭は丸坊主になり、人懐っこいその愛らしいキャラクターは接客面で生かされ、私の苦手なお客様もがっつり掴んでくれました。以後、わが社のホール主任として、ハートではなくてはならない存在になり、6年間勤めあげてくれました。その後、独立してスポーツ&ライブバー “フリーバード” を開店。その後も居酒屋 “恵三” を開き自分の夢を実現しました。1年ほど前に癌を発症。前向きに病気と向き合い闘病生活を続けてまいりましたが、2016年9月20日永眠されました。享年43歳。ケイちゃんは開店3年目頃からの当店の成長期を支えてくれました。いまでも心から感謝しています。彼の笑顔やキャラクターは関内において沢山の人を幸せな気持ちにしてくれました。ご冥福をお祈りします。

 

ここからは原の音楽夜話 - 原の勝手な視点で様々な音楽を語ります。
ソロボーカル(ブラック男性編10)

続アトランティックレコード

アトランティックレコードの男性ボーカルは、レイ以外にも沢山いますが、特に二人だけ取り上げます。やはり忘れてはいけないのが 「スタンドバイミー」 のベン・E・キングでしょう。

1958年に名門コーラスグループ “ドリフターズ” に加入。 「ラストダンスは私に」 など大ヒットを放っています。ソロになり、1961年アトランティックから出し大ヒットした曲が 「スタンドバイミー」。後にジョンレノンのカバーでナンバー1になり、映画にも使われ3度目のリバイバル。アース・ウインド&ファイヤーのモーリスホワイトのソロでもカバーされています。エリッククラプトンにして、この世で最も美しい曲、と言わしめた名曲 「スタンドバイミー」 は曲詩共にベンEのオリジナルで、録音の時、「ハウンドドッグ」や「監獄ロック」の作者リーバー&ストーラーの助けを借りてあのイントロが生まれ完成させたそうです。

たとえ空が落ち山が砕け落ちようとも君さえいてくれればいいと歌う内容は、ゴスペルが元になっていると言われています。そしてベンEの人柄が滲み出るような声のトーンは優しくてどこか物悲しい響きで正に癒しの一曲です。私が最初この曲のシングルレコードを買ったとき、B面に入っていたのが「ドントプレイザットソング」。これが又たまらなく大好きでした。ほとんど同じイントロで始まるこの曲のサビで、女性コーラスが “ダーリン、アイラブユー” と歌うと “嘘だ、俺の心をもてあそばないでくれ” と歌うベンEがシャウトが涙物です。

そしてもう一人、R&Bシンガーの代名詞といっても良いのがウイルソン・ピケット! この人の声を聴くだけで汗が飛んできそうです。「ダンス天国」、「インザミッドナイトアウアー」の大ヒットで知られています。夏に聞いたら熱中症になってしまいそうなほど熱い歌声。何を歌ってもこの人が歌えばすべてがR&Bになってしまいます。私の愛聴盤はアルバム「ヘイ・ジュード」で、タイトル曲はもちろんビートルズのカバーですが、全くの別物。R&Bとは何かを知りたければこの一曲で全てを知ることができるでしょう。余談ですが、このアルバムでギターを弾いているのがオールマンブラザーズバンドのデュアン・オールマン(「愛しのレイラ」でクラプトンとギターバトルをしたあの人です)。黒人のピケットが空を駆けるようなそのプレイをスカイドッグと呼び、白人のデュアンのギターをこよなく愛したというエピソードがあります。これも人柄でしょう。

現代の黒人ボーカルを語るうえで絶対に忘れてはいけないのがその歴史に大きな足跡を残した偉大なシンガー、オーティス・レディングです。黒人音楽のみならずロックミュージックに与えた影響は計り知れません。そして彼を世に出したスタックスレーベルを特集します。

スタックスレコード

スタックスレコードは、1959年メンフィスの片田舎の銀行で働く白人の姉弟が、閉鎖された映画館を買い取りスタジオとレコード店に改造してスタート。地元で人気物だったルーファス・トーマスとカーラの親子デュエットでヒットを飛ばしました。そして当時、R&BのNo.1レーベルだったアトランティックに目をかけられ契約、子会社として全国規模の販売網を持つことになりました。

当初スタックスのスタジオミュージシャンは、地元の腕っききが集められましたが、その中でオルガンのブッカーTジョーンズはまだ15歳。やがて彼が中心人物となりスタックスの殆どの録音をブッカーTとMG‘sが担当していきます。スタックスのサウンドは南部の黒人音楽のサウンドとは一味違っていて、それというのもブッカーTと、ドラムのアル・ジャクソンは黒人ですが、ギターのスティーブ・クロッパーとベースのドナルド・ダック・ダンは白人でした。南部にもかかわらず人種偏見はまるでなく和気あいあいとセッションを重ね、ブルースやジャズをベースにスティーブらのカントリーフレイバーがミックスされた、ポップすぎず泥臭すぎないスタックス独特のサウンドを生み出していったのです。(映画ブルースブラザーズに出てきたベースとギターの二人です) 彼らの素晴らしい演奏をバックにサム&デイブ、エディ・フロイド、そしてオーティス・レディングが数々の名作を生み出しました。

その後アトランティックレコードのアーテイスト達もスタックスのスタジオで名作を残しました。前出のウイルソン・ピケットの「ミッドナイトアウアー」は、スティーブ・クロッパーとの共作です。このコラボレーション当初は順調でしたが、南部ののんびりとした空気と都会のやり方が合わずやがてスタックスはアトランティックのアーティストとのセッションを拒否。他にも様々な軋轢から親会社アトランティックとの関係がうまくいかなくなり、サム&デイブはアトランティックに移籍、67年にオーティス・レディングが飛行機事故で帰らぬ人となるとスターを失って会社は低迷して行きました。

70年代に入ると公正委員会と呼ばれた黒人たちに会社はいいように操られ、仲良くやっていた白人たちは居心地が悪くなって会社を離れていきます。スティーブ・クロッパーもこの時スタックスを辞めました。一旦は勢いを失ったスタックスですが、アイザックヘイズが「黒いジャガーのテーマ」でアカデミー賞主題歌賞を受賞すると、折からのソウルブームにのって息を吹き返します。そんな1972年8月、スタックスは黒人による黒人の為のイベント “ワッツタックス” を企画します。 “ワッツタックス” は、1965年にロスのワッツ地区で白人警官の横暴に対して起きた暴動で、34人の死者を出した「ワッツ騒動」を記念するイベントでした。スタックスの黒人アーティストが一堂に会したコンサートで、ロスアンジェルスコロシアムに集まったのはなんと12万人! そのすべてが黒人で、黒いウッドストックと呼ばれていました。

このイベントの大成功により、勢いをみせたスタックスですが、手を出していた音楽以外の事業が上手くいかなくなり、又勢いをみせた黒人企業を面白く思わない金融関係や捜査当局からも圧力を受けて、1976年倒産。白人経営に銀行に乗っ取られてしまいました。

私的にはスタックスと言えば、60年代後半オーティス・レディングが歌いスティーブ・クロッパーのテレキャスとダック・ダンのベースがうなるのがやはりスタックス。次回はいよいよオーティス・レディングを特集したいと思います。

次号へ続く

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
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Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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