都田舎の津久井便り 16日目 中野山探訪
中野山探訪
こんにちは 津久井の髭親爺です。
僕の住んでいる相模原市緑区青山は6年前に津久井郡四町(藤野町・相模湖町・津久井町・城山町)が相模原市と平成の大合併で一緒になり神奈川県の北西部の平地と山間地を有する大きな市となり津久井と言う名称は行政呼称からはなくなりました。
しかし、僕は合併後の今でも、城山ダムからこちら山側の住み慣れたこの地域を津久井と呼んでいます
この津久井と言う名は、三浦半島に津久井浜と呼ばれる地名がありますが、実はその周辺の豪族、三浦一族の筑井氏が中世(鎌倉時代)に現在城山と呼ばれている津久井城を築いたことから呼ばれるようになったと言われています。
その昔は奥三保と呼ばれていたそうで、相模国、甲斐国、武蔵国の国境に位置していたので非常に微妙な立場の地域だったそうで、税もそれぞれの国に等分に払い、それを領主も認めていたそうです。
中世から戦国にかけては小田原北条の出城として、関東北西部への守りの戦略的重要拠点になっていたようです。
江戸時代に入り徳川の直轄地になり代官所が設けられ、伊豆の反射炉を作ったことで有名な江川英龍も代官を務めていたことがあります。有能な彼は植林を奨励し城山には今も江川檜林と呼ばれる林が残っています。
明治期にはこの地域の特産であった蚕から糸を紡ぎ、絹地を作り、製品化し横浜から絹製品を輸出するという一大産業が生まれ近代日本の一翼を担いました。JR横浜線(旧横浜鉄道)や国道16号線はまさに「絹の道」として作られました。
そんな津久井も第二次大戦中から戦後にかけて、京浜臨海工業地帯の水需要急騰により相模湖、津久井湖と水源地が作られ脚光を浴びましたが、都会に近いにもかかわらず山間のため交通事情がなかなか改善されず都市開発の波には乗れず、取り残された地域でした。
しかし時代って面白いもので、そのような状況で虫食い開発されずに残った城山が実は中世城郭史にとって大変貴重な手付かずの山城遺構と言うことが発掘調査で分かってきました。
今、GoogleEarth等の地図ソフトで津久井周辺をみると圏央道、16号、20号等の国道、JR横浜線、中央本線、京王線、小田急線に囲まれ、そして津久井湖、城山湖、相模川、串川、ゴルフ場等が点在する緑の丘陵地帯と言うことをはっきりと見る事が出来ます。
そのような自然豊富な津久井も、あと20年もすればシニア人口が70%にもなろうかと言う過疎に怯える町になると予測されていますが、次世代を見据えた町づくりとはいかなるコンセプトが必要か悩み多き今日この頃です。
そんな折、もっと津久井を知ろうと開発の手が入っていない、丘陵地を歩こうとシニア予備軍が言い出し、歩く事になりました。
元旦の焼山登山から3週間、疲れは癒えて元気が充満しているのでルンルン気分。朝10時半にお弁当を持って津久井商工会館前集合でいざ、中野地区と串川地区に挟まれた中野山(堂所山)を目指す。 そんな話を聞いていたので気楽に思っていたのですが、商工会館を出て、農協前を右に折れるとすぐに丘にかかり意外と急坂で厳しいです。住宅街を登りきるといよいよ山道が始まります。財産区の方々の努力で、山道は雑草など刈払われており散歩コースとしても良い道です。 |
(クリックで拡大画像) |
ランドマークタワーから、高島屋の屋上から、外人墓地(馬鹿馬鹿しくって外国人墓地とは言いません)から西に見える丹沢山塊に抱かれた津久井をたまに望んでみてください。夕日が綺麗に落ちて行きますよ!
髭親爺が手を振っているかも?
ドローンの映像
(文・写真:髭親爺)
筆者紹介
梅澤 勉 |
相模湖・津久井の本格薪窯ピッツェリア | ピザレストラン「童人夢農場 | ドリームファーム」オーナーオーナーシェフ 梅澤勉さんのインタビュー動画。
緑あふれる津久井の魅力、童人夢農場(ドリームファーム)のこだわり、デザートピザへの想い
についてオーナーシェフの梅澤勉さんが語ります。ご覧ください。
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ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。 |
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