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都田舎の津久井便り 16日目 中野山探訪

by staff on 2017/2/10, 金曜日
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中野山探訪

こんにちは 津久井の髭親爺です。
僕の住んでいる相模原市緑区青山は6年前に津久井郡四町(藤野町・相模湖町・津久井町・城山町)が相模原市と平成の大合併で一緒になり神奈川県の北西部の平地と山間地を有する大きな市となり津久井と言う名称は行政呼称からはなくなりました。
しかし、僕は合併後の今でも、城山ダムからこちら山側の住み慣れたこの地域を津久井と呼んでいます

この津久井と言う名は、三浦半島に津久井浜と呼ばれる地名がありますが、実はその周辺の豪族、三浦一族の筑井氏が中世(鎌倉時代)に現在城山と呼ばれている津久井城を築いたことから呼ばれるようになったと言われています。
その昔は奥三保と呼ばれていたそうで、相模国、甲斐国、武蔵国の国境に位置していたので非常に微妙な立場の地域だったそうで、税もそれぞれの国に等分に払い、それを領主も認めていたそうです。
中世から戦国にかけては小田原北条の出城として、関東北西部への守りの戦略的重要拠点になっていたようです。
江戸時代に入り徳川の直轄地になり代官所が設けられ、伊豆の反射炉を作ったことで有名な江川英龍も代官を務めていたことがあります。有能な彼は植林を奨励し城山には今も江川檜林と呼ばれる林が残っています。
明治期にはこの地域の特産であった蚕から糸を紡ぎ、絹地を作り、製品化し横浜から絹製品を輸出するという一大産業が生まれ近代日本の一翼を担いました。JR横浜線(旧横浜鉄道)や国道16号線はまさに「絹の道」として作られました。
そんな津久井も第二次大戦中から戦後にかけて、京浜臨海工業地帯の水需要急騰により相模湖、津久井湖と水源地が作られ脚光を浴びましたが、都会に近いにもかかわらず山間のため交通事情がなかなか改善されず都市開発の波には乗れず、取り残された地域でした。

しかし時代って面白いもので、そのような状況で虫食い開発されずに残った城山が実は中世城郭史にとって大変貴重な手付かずの山城遺構と言うことが発掘調査で分かってきました。
今、GoogleEarth等の地図ソフトで津久井周辺をみると圏央道、16号、20号等の国道、JR横浜線、中央本線、京王線、小田急線に囲まれ、そして津久井湖、城山湖、相模川、串川、ゴルフ場等が点在する緑の丘陵地帯と言うことをはっきりと見る事が出来ます。
そのような自然豊富な津久井も、あと20年もすればシニア人口が70%にもなろうかと言う過疎に怯える町になると予測されていますが、次世代を見据えた町づくりとはいかなるコンセプトが必要か悩み多き今日この頃です。

そんな折、もっと津久井を知ろうと開発の手が入っていない、丘陵地を歩こうとシニア予備軍が言い出し、歩く事になりました。

元旦の焼山登山から3週間、疲れは癒えて元気が充満しているのでルンルン気分。朝10時半にお弁当を持って津久井商工会館前集合でいざ、中野地区と串川地区に挟まれた中野山(堂所山)を目指す。
今回は焼山の経験から登山用ストックを両手に持ち軽快に進む。戦後の40年代初頭ころまでは、津久井地区に唯一の山本書店に教科書をはじめ月刊誌、週刊誌、文芸誌、教養書等々文化の香りを求めて、串川地区や青山地区の人々がこの丘陵を歩いて越えて買いに来たそうです。道路はまだ砂利道で埃がもうもうの道を歩くより、山越えの方がはるかに簡便だったそうです。バスだと運賃が必要だったしね。

そんな話を聞いていたので気楽に思っていたのですが、商工会館を出て、農協前を右に折れるとすぐに丘にかかり意外と急坂で厳しいです。住宅街を登りきるといよいよ山道が始まります。財産区の方々の努力で、山道は雑草など刈払われており散歩コースとしても良い道です。
脇の畑はユンボが作業をしたが如く、30cm程度の穴がいくつも開いており、もう今春の植え付けの準備をしているのかと思ったら、なんと猪が餌を探して空けた穴だそうで、びっくり!!
30分ほど登るとY字路にでる。左に折れて10分ほどで監視台に出ます。 この監視台とは第二次世界大戦の折り、グアム島から東京や新潟に侵入するB29を監視していた防空監視所だったそうです。この監視台はここから西に直線で約10kmの青根地区にも現存しています。今日は時間が無いので割愛して右に折れます。さらに登りが続きます。普段机に向かっていたり、運転ばかりしているシニア予備軍には堪えます!
さらに30分ほど登ると東側が見渡せる尾根に出ます。横浜や東京の高層ビル群が見え、薄っすらとスカイツリーも見えます。今日はすこし靄っていて遠望が厳しいです。さらにこの場所に東電の高圧線の鉄塔がど真ん中に鎮座し、実に苦々しいです。この高圧線鉄塔は日本各地の眺望の良い所に必ずあり実に迷惑です。高度経済成長真っただ中に作られてきた鉄塔なので経済性重視で、景観は一切考慮されず、最短距離を一直線に日本列島にめぐらされていますね。 観光立国と言うのであれば、配置の見直しがぜひとも必要ですね。
そこを越えて5分で三等三角点の中野山(堂所山 標高370m)山頂に到着です。ここは東は杉林に妨げられ展望は有りませんが、西側に大きく開け、真下の津久井湖GCから丹沢、世界一の寝姿観音そして大月から陣馬山方面が良く見えます。
10時半に出発してちょうど12時です。持ってきたお弁当を広げて昼食です。風がややあり、汗ばんで火照った身体も急激に冷えてきます。
食後、一番若い(と言ってももうすぐ50歳 笑)事務局員に背負わせて持ってきたドローンを組立て撮影開始です。
本格的に動かすのは初めてなので、最初はゆっくりゆっくりと回転をさせて少し浮かせました。風切音が徐々に高音域になりゆっくりと浮上。そのまま上昇させ、木々に妨げられない高度まで上下運動をさせて操縦になれます。
慣れてきたところで上昇開始、英語の意味そのままに羽音を立てて上昇して行きます。やや風があり流されるのをスティックの操作でかわします。
結局、二度飛ばし最高高度120mまで上げました。標高を加えると約500mの高度です。送られてくる画像を見るとこの山と城山の緑と津久井湖の湖面と市街地に散らばる家々そしてゴルフ場の芝生と、津久井の現状がはっきりと見る事が出来ます。この熊ん蜂(ドローン)は素晴らしいツールですね。帰路は四方竹林、三つ葉躑躅の群生、蝋梅林(まだ植林間もないので低い)等の手入れをしている山道を西側に降りて行く。下山はやはり膝に来ますね。  40年代まで中野地区の簡易水道になっていた大沢川の源泉を下っています。 染み出ている所から2kmぐらいに取水堰跡を見ることが出来ます。玉石を組んで小さいながら今でも使える程しっかりとした施設です。
人家がちらほら見えてくると、ゴールは間近です。それにしても昔の人々の自然に対する敬虔な気持ちは素晴らしいですね。こんな小さな丘に2カ所の山の神の祠がありました。自然を敬うところから共生が出来るんだと改めて感じた、里山を歩く半日でした。
都会の方なら変化のある、お奨めハイキングコースです。しかもそこそこ整備されているし、高尾山のような喧騒とは無縁の静かな、長閑な愉しい丘でした。
中世から800年、自然と人が共生してきた、どこにでもありそうな里山ですが、我々シニアが次世代に繋ぐとすれば、この素敵な津久井をどのようにしていくか、どうして行こうか、素晴らしい、美しい未来を作るために真剣に大切に考えようと決意した冬の一日でした。

 

(クリックで拡大画像)

ランドマークタワーから、高島屋の屋上から、外人墓地(馬鹿馬鹿しくって外国人墓地とは言いません)から西に見える丹沢山塊に抱かれた津久井をたまに望んでみてください。夕日が綺麗に落ちて行きますよ!
髭親爺が手を振っているかも?

ドローンの映像

(文・写真:髭親爺)

筆者紹介

 

梅澤 勉
津久井の本格薪窯ピッツェリア(ピザレストラン)「童人夢農場(ドリームファーム)」オーナーシェフ
HP: http://dreamfarm-pizza.jp/
 
1949年生まれ。大学で食品工学を学ぶ。
パン会社に就職して菓子パン部門で勤務後、ピッツェリア(ピザ専門店)を始める。
イタリアのピザ職人学校 ”ApesPizzaSchool”(アペス・ピザスクール)に入学し、本場のピザ作りを習得する。現在も定期的にイタリア(ミラノ・ローマ・ベネチア・フィレンツエ など)に行きピッツァ(ピザ)の研究を続けている。

相模湖・津久井の本格薪窯ピッツェリア | ピザレストラン「童人夢農場 | ドリームファーム」オーナーオーナーシェフ 梅澤勉さんのインタビュー動画。
緑あふれる津久井の魅力、童人夢農場(ドリームファーム)のこだわり、デザートピザへの想い
についてオーナーシェフの梅澤勉さんが語ります。ご覧ください。

 

From → 津久井便り

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