横浜スケッチ(第22回) 終活の始まり
ペンネーム 成見 淳
2016年12月、高校の同級生を亡くした。享年70歳。2年くらい前から病を患っていたが同期会やクラス会には必ず参加してくれて、彼に会うことが逆に勇気づけられるようになっていた。愛鳥家で年の暮れが近づくといつも渡り鳥の写真を添えた鳥メールを送ってくれていた。
一列になって飛ぶ渡り鳥
琵琶湖の夕暮れ
昨年12月初旬に京都滋賀に旅行した際、琵琶湖上空を一列になって飛ぶ渡り鳥を見て彼の事を思い出し、『そう言えば今年は鳥メールがまだこないなあ。』と気になっていた。毎月すぐ返事をくれるヨコハマNOW12月号の案内メールにも開封通知はなかった。
不安になって携帯に電話すると。「動けなくなってね。今自宅療養中でパソコンも開いてなくてごめん。元気になったらまた会いたいね。」といつもの声が返って来たが、「役所の手続きをまずやらなければと思って。」と、どこか覚悟を決めたような様子にも思えた。
それから幾日も経たない21日に亡くなってしまった。その二日前位に「もう年を越せないかもしれない。お世話になった。ありがとう。」と主だった友人知人に自ら連絡をしていた。
彼らしく律儀な最後だった。
それまでにもクラスメートの何人かは亡くなってはいた。どんな死であれ悲しいには違いないが、どこか自分とはまだかけ離れているような気がしていた。でも大半が70歳を超えるようになって来ると、しかもこんな立派な死を目の前にすると「いよいよ自分達も心だけでなく、具体的な準備をしないといけない。」と思い知らされ、そんなことを告別式の後クラスメートと語り合った。
2016年12月、42年間通ったゴルフ倶楽部を退会した。ゴルフを始めたのは新卒の研修明けからだからもう48年プレーしたことになる。退会してもゴルフそのものを止めるわけではないが、競技とは縁が切れる。当然回数も激減するだろう。これも終活のひとつだろうか。昨年2月に鼠径ヘルニアという老化現象の一種で、病の内に入らないような手術のため四日間の入院をした。退院後許しが出てゴルフに行ったが、飛距離は20ヤード落ち、以来スコアもとうとう50を切れなくなってしまった。やっぱり体力の衰えは現実のようだ。常々50を切れなくなったら、少なくとも競技は止めようと思っていたので倶楽部を退会することにしてゴルフ場に向かい、お世話になったキャディーのIさんに「今日が最後になるかもしれないよ。」と打ち明けた。
「そんな怖いこと言わないで下さいよ。どうしてですか?」
「うん。この頃物忘れが多くなって。痴呆症が進んだみたいなので。」
「え! そうだったのですか。」(と納得したような顔)
「おいおい本気にするなよ。冗談だよ。」
「もう。冗談を言う場面じゃあないですよ。」
「いやあ、ごめん。ごめん。でも飛距離は落ちるし、スコアもひどいので。迷惑かけるからね。今のうちにと思って。」
彼女が別のキャディーさんにも伝えたと見えて、何人かに残念がられたり、引き留められたりした。その一人が寝姿山のスケッチポイントを教えてくれたYさん。
「お聞きしましたよ。でも他に良い趣味があるから良いですね。また見せて下さい。」
「今年は個展をと思っています。連絡します。」そう言いながらも心に引っかかっていたことを思い出した。
2015年6月頃ゴルフ場の近くのピザハウス「ドリーム・ファーム」の梅澤社長人から個展のお誘いがあり、当時は水彩画を習い始めたばかりで自信がなく、同じく会員の池田輝夫さんを探し出して一緒に「津久井湖会員二人展」として2016年1月16日から2月末まで行うことになっていた。
ゴルフ場に来るたびに絵になる所を探し回ってシャッターを押したり、描いたりしていた。だからキャディーさんのほとんどは二人展のことを知っていて、何人かにスケッチポイントを教えてもらうことが出来た。
Kさんのご自宅から夕焼けの寝姿山が良く見えるということで写真もいただいた。
Kさん自宅からの寝姿山
ちょうど観音様の眼に太陽が沈む時がある
ゴルフ場の対岸の名手地区から
山吹8番 正面に寝姿山
クラブハウス前 同じく寝姿山
Yさんには2015年9月、「毎朝道志橋を通って出勤するのですが、橋の上からの寝姿山はとても近くて、大きく見えますよ。」と教わった。すでにゴルフ場や津久井湖の対岸からの寝姿山は描き上げていたのを知っていたからだ。寝姿山というのは通称で、山並みが観音様の横たわっている姿に似ているからそう呼ばれているのだと思う。
その日はプレーが2時前に終わったので早速橋の上で描き始めた。これが何とも厄介で、大きな車が通るたびに揺れるし、橋の上だから風が強く、スケッチブックが飛ばされそうになるし、日射しは強い。おまけに車からは丸見えで不審がられる。そんな訳で出来栄えは良くない。
出展した絵は全部キャディーさんや、見に来てくれた人に差し上げた。道志橋の上から描いた絵は出展しなかったが、せっかく教えてもらったポイントから描いたものだからとの思いからYさんに差し上げたものの、ずっと心に引っかかっていた。
そして言い難そうに「1枚いただいたのですけどもう1枚いただいても良いでしょうか?」と言われた。
『ああ、やっぱりあの絵は人にあげるような絵ではなかったのだ。』と申し訳ない気持ちになった。
「勿論です。あのポイントからではなかなか絵になりにくかったので別の絵を描きます。」
津久井湖ゴルフ倶楽部入り口からの坂道
ゴルフ場への坂道。最後の日。
結局12月22日が最後のプレーとなり、二日後に42年間の思いを込めて描き上げた。
なかなか自分で納得する絵は描けないし、たとえその時は納得しても時が経つと手を加えたくなってしまうことも多い。
さて、倶楽部を退会すると必然的にゴルフ回数もぐんと減り、車を運転する機会も減って来る。
昨今の高齢ドライバーによる交通事故を考えると、高齢者にならんとする身にとっては、少なくとも他人に怪我をさせるリスクは極力避けるべきだと考えるようになり、75歳を限度として車の運転は止めようと思っている。運転未熟は自覚があるが、運転過熟は自覚され難い。
終活の次のステップは自動車運転免許の返納となるのだろうか。
30歳代中ごろに中学の同級生がクモ膜下で急死し、その彼が夢に出て来て来た。夢の中で彼がリストのようなものを持っていた。
「おい。それ何? ちょっと見せて。」
「駄目だよ。見ない方が良いよ。」
「そう言われると余計見たくなるじゃあないか。いいから見せて。」と、ひったくるようにしてリストを見ると人の名前と、その横に数字が並んでいた。
「何? この数字は?」
「その歳まで生きられるという意味だよ。」
そのつもりで改めて目を凝らして見ると、自分の名前がすぐに飛び込んで来た。「78」
それ以来から自分の人生は78歳と思い、家族にも伝えていた。
そのくらいの歳なら思い残すこともないし、家族や世の中に迷惑を掛けることも少ないだろう。
これが自分の人生78歳説の根拠だった。
最近になって『当時より平均寿命もアップしたことだし、70歳代とするか・・・。』と拡大解釈することにした。
石原裕次郎の歌に「我が人生に悔いなし」という曲があるが、我が人生に悔いはなくともまだ少し未練はあるから。
「東京オリンピックまであと〇〇日」というようにゴールポイントを決め、逆算して計算すると、そこまでの計画が具体化出来る。やりたいこと、やり残したことがはっきり見えてくる。
79歳をゴールとすると今年は残り9年となる。ならば古希を期に個展をやろう。
生前葬のつもりで今年はマイナス1回忌。毎年行うことにして・・・。10年目を迎える前に本葬。
同時に人生も終了すれば計画通りで言うことなし。それこそ死んだ気になって、というより死ぬつもりだから頑張れるような気がする。
そんなことを思いながらも年が明け、新年早々高校美術部OBの方から出品のお誘いメールをいただいた。美術部でもなかったのにありがたいお話なのでお受けした。
さらに、告別式の帰りの電車の中でIさんから「あの人らしい最後ね。立派だわ。『私もいずれ行きますから待っていてね。』って語りかけたの。いつか生き残った人達で彼を忍んで泊りで行きたいわね。」と提案を受けた。
年明けにそのことを思い出して忍野の一泊花見会を企画し、あっという間にまとまった。亡くなった彼がIさんの言葉を借りて皆の気持ちを一つにしてくれたのに違いない。
次々と嬉しいことが続く。
とにかくあと9年。70代は人生の総仕上げ期。それまでどんな生き方をして来ようともこの総仕上げ期でその人の評価が決まる。スタートダッシュがあればフィニッシュダッシュもある。
*補足:
以上はすべて私の私見です。何歳になっても元気で活躍されている方もいますし、病を患っても楽しみはいくらでもあります。私自身79歳とか言っていても、心ならず大幅にオーバーするかもしれません。こればかりは全く予測出来ません。
*絵画展出品のお知らせ
水陽・季彩会展 3月21日~26日 横浜市民ギャラリーあざみ野 3点
鶴見高校OB展 5月 3日~ 9日 鶴見区民文化センター(サルビアホール)2点
ダダ・アートフェスティバル展(公募展)
8月9日~15日 横浜そごう9階 ギャラリー・ダダ 2点
筆者紹介
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