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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第58回 第7章 独立編 11

by staff on 2017/4/10, 月曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

 

横浜、街と風(独立編) 11

コマズハウス

色々あった2階のお店ですが過ぎてみれば懐かしい思い出です。一生懸命に頑張っているうち3年が経ち徐々に常連も増え週末には入れないお客様が増えて少し手狭になってきたなと感じて来た頃、2階のお店があったAMビルから歩いて50メートルほどの距離にベイスターズの駒田さんがやっていたBar “コマズハウス” がありました。駒田さんが野球の世界へ戻るというのでお店が出来なくなるので私にやらないか? と言うのです。10坪もないような広さでしたが本店にすぐ近くてしかも路面店です。かねてから支店展開を考えていたのでやってみることにしました。出来れば違うコンセプトでという事でこちらは弾き語りを入れ日本語もOKというスタイルにしようと決めました! 近いので本店が混んでいる時待合に使えるなとも思いました。

こうしてフォークの館 “コマズハウス” (ハート2号店) をやることになりました。記念イベントで元オフコースの鈴木康博さんのライブを2階で開催したり派手にオープンしましたが、フタを開けてみるとほとんど閑古鳥。最初は別の人の弾き語りを頼んだり、私が本店バンドの休憩時間に掛け持ちしたりしましたが中々定着しません。スタッフも最初はバーテンダーと女の子で二人派遣しましたが、そのうち一人だけで寂しく店をみるようになり2店舗やることの難しさを痛感し、半年位やった頃たたむ決断をしました! 鈴木康博さんのライブで打ち上げを関係者達と “コマズハウス” でやった時、私のギターで延々ビートルズを鈴木さんとハモったのが最高の思い出でした。

馬車道常盤ビル

横浜には生演奏が入っている名店が数多くありました。私が出演していた伝説のディスコ “マジック”、その後に出来た“ジャズの老舗バーバーバー”、“酔いどれ伯爵”、“フランス小僧”、“コンズコーナー”。そのいずれかはもうすでになくなっているものもありますが、そのすべてがアンティーク調でありながら斬新なデザインの店舗、自由な発想とこだわり、そして気品のある高級感! それをデザインしていたのが武井晴久さん。私が21歳の頃出演していたマジックの経営者の一人だった人で、色々お世話になった方ですが、その後マジックは大繁盛で横浜に伝説を残しました。武井さんはこの頃は店舗デザイナーとして活躍しておられました。

“コマズハウス” が一段落し、いよいよお店の移転を本格的に考えるようになった頃、私のやりたかった夢の一つがこの武井さんに自分のお店を創ってもらう事。“コマズハウス” がダメになった今、支店展開より本店拡大に全力を注ごうという事になりました。

物件を探し情報を集め、関内を歩き何軒も見て回りました。そして資金繰りの銀行回り本当によく歩きました。

前回のもめごとで懲りていたので音だけは自由に出せる所が第一条件でした。色々見てみると物件の価格はオーナーの意向でまちまち、でも良い場所に良い物件はやはり高い、でも掘り出し物があるはずと、、するとある時お世話になっている方から情報がはいり馬車道に良い所があるよと!

行ってみるとレンガ調のおしゃれなビル “馬車道常盤ビル” の6階、広さは丁度50坪、2階の倍位です。3階続きのカラオケボックスの1フロアーをつぶすとの事。カラオケボックスだったのだから音は出せるだろうと、6階なので眺めはいいし地下鉄出口の真ん前で雨でも濡れずに店に行ける。JR関内にも5分ほど、もうここしかないだろうという感じでした。ここでお願いしたいと打診すると、数日後初老の紳士が2階の店に私を訪ねてきました。馬車道のビルのオーナーでした。彼はじっくりと店を見、私の人となりをじっくりと観察していきました。2度ほど来られ3度目によろしくお願いしますと返事がありました。逆オーディションだったのかもしれません。

改装

物件も決まり、カラオケボックスのあるものは使い少し改装すればそんなにお金はかからないんじゃない? と周りから言われましたが、武井さんに好きに作っていただくのが自分の夢! お金はかかってもスケルトンから一から作りたかったのです! 武井さんとは自宅で何度もどんな内装にしようか相談を重ねました。馬車道を見下ろせる窓を最大限利用しようとか天井は打ちっぱなしにしようとか、、、

目玉は2階のお店の長いカウンターがヒントになった19人座れる真っすぐの木のカウンター! そしてお金をかけた床材! ステージの床には砂袋を敷き詰めるのが音を落ち着かせる方法だとこの時初めて知りました。機材もすべて買い替えました。

一番彼がこだわったのが店の色。色の魔術師と呼ばれた武井さん。なんと鮮やかな赤と青を基調とするというのです。赤と青といえば一番ぶつかる色じゃないですか! 大丈夫? と思いました。

実は私は当初アンティークな家具とかの店内を想像していました。それを言うと彼は今はそんなんじゃだめだよと一言。「まあ、とにかくまかせてよ!」 この言葉を信じるしかありません。ここからは何も言いませんでした!

まずは現存のカラオケボックス店をぶっ壊すことから始まりました。そしてそれが終わって、ガランとなった店内、思ったよりも広い、、、ここに自分が一から建てる店ができるのかと思うと不安と期待の入り混じった不思議な気持ちで空っぽの店内をじっと眺めていました。

設計も決まり、改装工事が始まり現場を見に行くとコンクリが宙に舞い真っ白! ゴーグルとマスクなしにはいられません。後は出来上がるのを待つだけでした。

 

ここからは原の音楽夜話 - 原の勝手な視点で様々な音楽を語ります。
ソロボーカル(ブラック女性編5)
ティナ・ターナー

初期

“ロックンロールの女王” ティナ・ターナー! やはりこの人をあげないわけには訳にはいきません。黒人女性なのにどうしてロック?? この辺も検証していきましょう。

アイク&ティナ・ターナーのリードボーカリストとして一世を風靡。その後独立しソロとして復活、大成功を収めるこの人の人生は正にドラマでした!

ティナは1938年生まれ。親の愛を知らず祖父母に預けられ育ちました。少し大人になったころ姉と二人でナイトクラブに入りびたり、地元の人気バンドのリーダーに惹かれますそれが、後のダンナ “アイク・ターナー” でした。ある時ボーカルが休憩時間に彼女のテーブルにマイクが置かれてそれを手に彼女が歌いだすとアイクは耳を奪われます。それ以降彼女はアイクバンドに加入。アイクから歌の指導、ステージングの手ほどきを受けてメインのボーカルになりました。

その後アイク&ティナ・ターナーとなり、1960年には最初のヒットを放っています! ティナの声はハスキーでエッジの効いた高音が特徴。彼女の本来のリズム感は黒人独特の粘りのあるリズム感ですが、タテノリやエイトビートにも対応できる柔軟性を持っていました。すらりと伸びた美しい脚線美にセクシーなボディで3人組のコーラス、アイケッツを従えてのウルトラ激しいアクションにコミカルな動きも交えきわどい所までセクシーに決めて観客の目を釘付けにしました。

アイク&ティナ・ターナー全盛期

1966年には鬼才プロデューサー “フィル・スペクター” と組んだ 『リバーディープマウンテンハイ』 が世界中でヒットしました。ティナの圧倒的な歌唱力、アイクが低音の効いたボーカルとギター! ホーンも入ったバンドと激しいパフォーマンスは評判を呼び、テレビにも出演して話題を独占、ショーは満員と順風満帆でした。当初、ドゥワップやR&Bを演奏していましたが、なぜ “ロックンロールの女王” と冠されるようになったのか? それはティナの声がロックフィーリングを感じさせるものを持っている事と、アイクがギターだという事、更に売れ出して白人の市場も意識したのでしょう。彼らはオリジナルにこだわることなくどんどん白人の曲もカバーし、ビートルズの『カムトゥゲザー』や、ストーンズ、中でも1971年に出したCCRのカバー『プラウドメアリー』が大ヒット! 確かにティナが歌えばどんな曲でもティナのオリジナルのようになってしまいますよね。

しかし私生活では大変でした。アイクには妻がいて最初は兄弟のように仲の良かった二人。しかし慢性のアルコール依存症とコカイン中毒のアイクはある日ティナを手籠めにしてしまいます。その後、二人は夫婦になりますがアイクはことあるごとに暴力を振るうようになり、彼女は自殺すらも試みたようです。そんな彼女の苦しみを救ったのが仏教でした(SGI創価学会インターナショナル)。

ある日ティナは着の身着のままガソリンのクレジットカードとわずか36セントだけを持って南無阿弥陀仏と唱えながら勇気を出して逃げ出しました。アイクから隠れる為、友人の間を転々として離婚の訴訟を起こし一年後離婚が成立して晴れて自由の身となりました!

奇跡のカムバック

しかし、その後は不遇の日々が続き、レコードを出しても売れず、地方の小さなキャバレーやラスベガスなどを転々として稼ぐ日々。しかし1981年、ロッドスチュアートからお呼びがかかり、旧譜『ホットレッグス』をデュエットすることに。これがきっかけになり、デビッドボゥイの働きかけで大手キャピトルからシングルを出すことになり、その後じわじわと売り上げを伸ばし、1984年に出したアルバムから『ワッツ・ラブ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット』が全米No.1の大ヒット。アルバムは全世界で1,100万枚を売り上げ彼女自身の最高売り上げを記録。グラミー賞は4部門を獲得。奇跡のカムバックを遂げたのでした! 『ウィアーザワールド』にも出ていましたね。

ティナはソウルをロックと融合させることに成功した数少ない黒人女性と言えるでしょう。又こんなに白人ミュージシャンたちに愛されたシンガーもいません、それが身を救うわけですから!

ベストアルバムは聞きごたえがあります、一家に一枚ですね!

その後は女優として何本かの映画に出演したり精力的に活動。まるでドラマの様な人生ですが、彼女自身がこれを本にして自初伝「ティナ」を出しました。これが又ベストセラー! 後に映画にもなっています。そして2000年引退を表明しますが、2007年にはライブを再開、少しずつですが活動をしているようです。ネットによると2013年73歳の時、57歳の男性とスイスで結婚したとあります。いまだにパワフルなんですね、まだまだ現役! さすがです。

次号へ続く

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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