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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第59回 第7章 独立編 12

by staff on 2017/5/10, 水曜日


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

 

横浜、街と風(独立編) 12

夢の店、馬車道店

馬車道常盤ビル6階に念願の新店舗が出来ました。19人が座れる長い真っすぐなカウンター、ブルーのテーブルに赤い椅子、テーブルの上にはお洒落なライトスタンド。1段高くて馬車道と横浜の夜景が見渡せるゆったりとしたボックス席、ゆったりとしたステージ。

当初は期待していたのとは若干違うなと思っていたのですが慣れていくうちその居心地の良さをとても好きになっていきました。やはり武井さんは天才でした。オープン前、親しい人たちを呼んでお披露目を兼ねて試験営業、終了後一人で店内に座り出来上がった店を見てここまで来たかと感無量でした。

そして2005年4月27日オープン! レセプションには沢山のお客様にいらして頂きました。普通営業も始まり順調に始まりましたが、倍の広さ50坪はやはり広く、当初お客様が少ないとガランとしてしまい良い雰囲気を出すことが出来ませんでした。スタッフもカウンターに2人ホールには4人位いないとお客様が安心していられる良い空気感が作れません。又、ステージも広いのでメンバー3人位ではとても寂しいイメージになりました。

天井や壁は当時流行りのコンクリート打ちっぱなし。雰囲気を出すために普通の壁や柱にもわざわざコンクリート壁のようにペイントしたりして苦労しました。でもそれが逆に寂しい雰囲気になってしまったようで、対策としてギターを飾ったり、カーテンを増やしたりしました。そして一番の問題は音のはねっ帰りでした。壁がコンクリートやガラスの為音を吸い込まずストレートに反射、それが色んな角度に反射するため音が暴れてしまいました。この対策は大変で、音を吸収する防音材を張ったり、外タレの音響をやってる凄い人に調整を頼んだりしましたがあまり効果なくこの問題は結構後々まで課題でした。

下駄のドラマー

結局大変な借金を背負ってしまい不安もありましましたが、念願の手作りの店が出来たのでそれもバネにしてしまおうと思いました。オープニングセレモニーではゲストを入れたりで華やかにイベントをやりましたが、この時新たな出会いがあったのです。このゲストバンドの中で出演していたドラマーの一人がリハーサルに下駄に作務衣、頭に手ぬぐいといういで立ちで入ってきました。本番で着替えるのかなと思っていたらそのままで叩き始めました。なんちゅうやっちゃと思っていたらドラムの腕が素晴らしい。こいつは面白い奴だと思っていたら向こうもえらくウチを気に入ってくれ、ウチで叩きたいといってきたのです。それが現在のファミリーバンドの今村功司でした。この時点ではハウスバンドは打ち込みを相手に私とギターのM君、そしてキーボードにゲストボーカルという4人編成でした。いつかはフルバンドでやりたいとは思っていましたが、まだ借金抱えたばかりだし打ち込みを使って十分にやっていけると思っていたのでドラムを使う気はありませんでした。それに打ち込みは機械だから一度作れば何度でも使えるしお金もかかりません。毎回同じだけどリズムは狂わないし文句もいいません。それに作りためたオケが400曲位。それにリズムボックスでやっていた曲や女性ボーカルの曲も合わせればレパートリーは600曲を越えます。だから厳しいんじゃないかというと、一週間くれれば全部演奏できるようにしてきますと言い譜面を全部コピーして持って帰りました! 本当か? と思いましたがちゃんと出来るようになっていたのです。これには本当に驚きました! そして今村のドラムは素晴らしい、今ではなくてはならないメンバーですがここから彼はハートの一員になったのです。

愛されるお店

当初こそ広い店を持て余していましたが日が経つにつれ店の雰囲気も安定しお客様にも浸透していきました。音も試行錯誤を繰り返し少しずつ落ち着いていきました。

最高のサービスと大人がゆったり落ち着ける店内と雰囲気、個性的で美味しい料理と美味しいお酒、そしてお客様が思わず腰が動き踊りたくなってしまうような音楽、一人でも大勢でも気軽に来れる店、2年後位にはイメージ通りにすっかり定着してきました。

スタッフは松下店長を筆頭にこの移転を機に主任の恵ちゃんが辞め一時離れていた戸巻が新たに主任に就任。キッチンにはTチーフが益々美味しい料理を生み出し(この後Tチーフに太鼓判を押された新しい凄腕 “I” さんがチーフを引き継ぐことになります)バイトのトモちゃんを筆頭に後にハートを支えてくれる優秀なスタッフ達が顔を揃えていました。ボーカルで活躍中のリエちゃんもオーディションで面接に来ましたがこの頃バイトでスタートしました。この後関内でミノリというお店を成功させるワカちゃんもバーテンダー社員で入社。今考えると個性的でみんなそれぞれがお客様に愛された凄いメンバーでした。

そして鉄壁のハウスバンド陣。ハード系が得意なギターとファルセットが魅力イケメンのYou君。キーボードもサミー君に加えオカポンや土師さんも加わりいずれも腕達者でサウンドもますます厚みを増しました。ベーシストはこの頃は4人衆でしたがみんな素晴らしいプロのミュージシャン。そしてドラムの功司! 毎週金曜日はゲストボーカルを入れずハウスバンドによるリクエストナイトが定着! お客様のリクエストに答える一日でいつも一杯でした。盛り上がるとお客様はステージ前に集まりみんな踊っていました! スタッフやバンドで言い争いやもめごとはしょっちゅうで、取っ組み合いになることもありましたが、みんなお店が良くなるために主張していることだったので、こういう事の繰り返しがお店を成長させていたのだと思います。あの当時お客様はあの馬車道店を本当に愛してくださいました。馬車道店には想い出が一杯です。

そして私は50歳を目前に控え、もう一つの一つの夢の実現に向かう事になります。

次回(最終回)に続く

 

ここからは原の音楽夜話 - 原の勝手な視点で様々な音楽を語ります。
ソロボーカル(ブラック女性編6)

ブルースについて(ビッグママソーントン)

ここで黒人女性ボーカルのルーツ、ブルースに少し触れたいと思います、私自身それほど詳しくはないのですがそれなりの考えを書いてみます。

ブルースといえば黒人音楽の正にルーツ、奴隷としてアフリカから連れてこられ、つらい労働の日々を忘れるためのワークソングが発祥と言われています。ドレミファソラシドの西洋音階のミとシが自然と半音下がり、独特の音階ブルーススケール(ブルーノート)が生まれます。これが彼らのビートに乗り進化したのがブルースと言えるでしょう。1920年代あたりから女性ブルースシンガーが数多くいたようですが、ジャズに行った人を除きコテコテのブルースで現代に通じる人としては “ビッグママソーントン” 。 あのプレスリーのハウンドドッグのオリジナルで有名です。ビッグママの名の通りその巨体から発する声は迫力の境地。少し歪んで聞こえるのは録音時あまりの声量にオーバーレベルになってしまったからでしょう。ブルースはスリーコード12小節のシンプルな構成で延々と繰り返すことが出来る音楽スタイル。ギターやピアノがアドリブで、間奏を演奏したりします(ビッグママのゴキゲンなブルースハープを吹いている映像があります)。 ボーカルはというと、「ブルース=憂鬱」ですから恋愛や人間関係のやるせない思いを歌詞にして物悲しいブルース音階のメロディに乗せます。ライブでは時には間奏にアドリブで思いついた歌詞やメロディを歌うこともあるようです。なにしろすべてがシンプルですから、いかに感情が伝わるかが全てです。そこには声量と良く響く声質が必要です。更に一口にブルーノート音階といってもただミとソを半音下げるだけではない微妙な音程がありまして、楽譜ではとても表現できません。これが本当に難しい! ビッグママソーントンの歌唱を聴けばすべてが分かると思います。そしてそんなブルースの世界から進展していったのがR&B。チェスレコードのエタ・ジェームス(Etta James)などがいます。ビヨンセが主演したキャデラックレコードのボーカルのモデルになった人です。基本ブルースですが、ソウル~R&Bに移行する橋渡しの頃ではないでしょうか。曲もただのスリーコードより変化しています。名曲「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド(I’d Rather Go Blind)」は彼女の名唱で知られています。あなたを愛せない位なら目が見えなくなってしまった方がいい、こんな歌詞を感情たっぷりに歌いきる。この当時の黒人ならでは世界。こんな歴史が黒人音楽のベースにあり進化していくわけです。

ナタリー・コール

時代は70年代に移行しますが、ブルースからジャズ、R&Bに枝分かれ、かたやジャズの世界からポピュラー、R&Bへ移行していくシンガーもいました。父を偉大なるジャズシンガーに持つナタリー・コールです。ビロードの声と呼ばれすべての黒人シンガーの憧れだったナットキングコール。その声を受け継いだ娘ナタリーはなめらかで艶やかな声をしています。そして天才的な音感をもっていました。1950年生まれ。母はやはりデュークエリントン楽団歌手のマリア・コール。11歳から歌い始め当初はジャズシンガーとして期待されましたが、アレサ・フランクリンやジャニス・ジョプリンに影響され、1975年R&Bシンガーとしてデビュー。翌年にはグラミーの最優秀新人賞を獲得しています。日本でも東京音楽祭で歌った「ミスターメロディ」が大ヒット。私らの世代はこれで彼女を知りました。ジャズ色の強いシンガーだなと思っていましたが、ある時車を運転している時ラジオのFENから流れてくるジャニスの「クライ・ベイビー」のカバーに耳を奪われました。明らかに黒人女性の声、ロックとソウルとジャズを融合したような灼熱のシャウト! あまりの素晴らしさに圧倒され聞いていると歌っているのはナタリー・コールとの事。すぐにレコード屋に行くと2枚組のライブに入っていました。このアルバムでナタリーへの認識はガラッと変わりました。しかし80年代にはヒット作が出ず落ち込み麻薬に手を出した時もあったそうです。しかし、88年「ピンク・キャデラック」のヒットで復活、この頃出した名曲「ミス・ユー・ライク・クレイジー」は忘れられません。この後、彼女はお父さんの作品「アンフォゲッタブル」にオーバーダビングしたデュエットナンバーをリリース。700万枚を売る世界的な大ヒットになり自身で最高の売り上げを記録しました。この後は少しジャズ志向になっていきました。ナタリー・コールは2015年心臓疾患のため亡くなっています。

次号(最終回)へ続く

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL DATAMAP

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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