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しあわせの「コツ」(第8回) 座り、立ち、歩く―この奥深い所作のひみつ

by staff on 2017/8/10, 木曜日

第8回 座り、立ち、歩く―この奥深い所作のひみつ

「やっとちゃんと歩けるようになりましたよ!」。
ある男性がテレビ番組で嬉しそうに語っていました。別に足の怪我が治ったわけでもありません。能楽を習って7年目、その男性はようやく能の舞台の上を「正しく」歩けるようになった喜びを吐露したのでした。

この男性は現役の医師のせいか、自分の技能習得を大変客観的に観察していました。能を始めるにあたって、まず「正しく座り」、「正しく立つ」ことを学ぶのですが、その過程で普段いかにいい加減に座り、いい加減に立っていたかが分かったそうです。
みなさんも背中を丸めて座ったり、腰を後ろに突き出しながら立ったりしていませんか?「座る」「立つ」―この当たり前で単純な所作は、実は意外に難しいのです。

座るときは、右足を引き、お尻を出っ張らせることなく、垂直の姿勢を保ってゆっくりと「湖に小石を落としてすうっと消えていくように」座ります。「立つ」ときはそのまま「一本の煙が立ち上っていくようにすっと」立ち上がります。

立って座れるようになったら、今度は「歩く」、すなわち「すり足」の練習です。「すり足」は膝を軽く曲げて、出ていく足に体が乗っかるように全体的に動きます。腰は安定させて、足裏を見せないように歩きます。

こうした動作を「正しく」行うと、正直きついです。翌日は筋肉痛になるほどです。というのも、上で述べた動作はすべて身体の深層筋、とりわけ上半身と下半身をつなぐ大腰筋が発達し、さらに「丹田」に力が入っていないとできないからです。昔の日本人は、それがだれでも楽々できていたのですから、凄いですね!

「ゆる体操」の創始者で運動科学研究所所長の高岡英夫氏は、江戸時代の平均的日本人の身体意識が、現代のアスリート級であることを解き明かしています。重い荷が入ったかごを両天秤でかつぎ、細い坂道をすいすい歩く物売り。江戸・大阪間570kmを2日で走る飛脚。高所でアクロバットのように作業する大工。こういった仕事は深層筋と丹田の発達と関係していることは言うまでもありません。

この浮世絵のうなぎ職人の左腕を見てください。
うなぎを押さえている左腕が伸び切っています。これは「肘抜き」といって、肘がゆるみ、脱力している状態です。そうすると、うなぎを押さえている力は腕や肩からではなく、体の中心から来るので、バランスの良い体の使い方ができ、疲れにくいのです。昔の人は一事が万事、深層筋を使いこなし、適度にゆるんだからだを闊達に動かして生活していたのでした。

下の写真は不世出の日本舞踊家武原はんの舞姿です。まるで浮世絵から抜け出てきたようなあでやかな立ち姿に、思わずため息が出ますね。このポーズは深層筋が発達していないとできないそうです

彼女は高岡氏が絶賛する、失われた日本人の高度な身体意識の数少ない体現者の一人です。95歳で亡くなりましたが、90歳を過ぎても舞台に立ち続け、料亭も経営していた大変エネルギッシュな女性です。年齢を重ねても、股関節、膝関節、足首の関節が柔らかく、しなやかな舞姿でファンを魅了し続けました。

思えば、身体を使う芸事に限らず、書道、華道、茶道(もちろん「武道」も)など、「道」とつくものには、それぞれの専門技術の底に共通する体の使い方と呼吸法があります。

たとえば茶道にしても、歩くときはすり足で、座るときは「湖に沈む小石のように」、立つときは「一筋の煙が上るように」振る舞うことがおのずと求められることでしょう。そして、息を整え、深層筋を使い、ゆったりと安定した座りの中から茶道の所作を行います。

書道にしても、「正しく座って」墨をすり、丹田に力が入っていなければ良い書を書くことはできません。筆を運ぶにあたって呼吸が大切なのは、言うまでもありませんね。

実は、この日本独特ともいえるこれらの所作は、心身の健康にとても効果があるのです。

「すり足」は、歩く際に自然にできる深い息の出し入れで、全身の新陳代謝が良くなり、頭もすっきりします。また、身体の軸がぶれていると正しい「すり足」ができません。「すり足」をすると、自然と体幹部を意識し、股関節を中心に背筋や腹筋、深層筋を総動員するので、身体のバランスが左右対称に整い、肩こりや腰痛と無縁の身体になります。

日舞では、「すり足」をしながら上半身は扇子で森羅万象を表現します。この腕を上げ下げする動きも肩関節周りの筋肉を柔軟にし、衰えを防ぎます。

深い呼吸と深層筋の発達。
これが日本の「道」とつくものすべてに共通する要素といえるのではないでしょうか。すでにそうした身体意識を身に着けていた江戸時代の人々は、「道」のつく習い事を通して、更にそれに磨きをかけたのです。

冒頭で紹介した能楽を習っている医師はこう言っています。
「昔の日本には漢方や西洋医学に匹敵するような医学はありませんでした。それは劣っていたといより、必要がなかったと言った方が良いかもしれません。日本では、座り、立ち、歩く、という日々の所作が、そのまま呼吸法であり健康法であるという高度に合理的な身体操法だったのです。」

よく病弱な子供に武道を習わせたら風邪を引かなくなった、と言う話を聞きます。これなどはまさに正しい身体使いを学んだ結果といえます。もちろん、昔の人もお腹をこわせば薬草を煎じて飲み、怪我をすれば手当をしたことでしょう。けれども普段から丹田呼吸をし、深層筋を使って動いていれば、怪我もしにくいでしょうし、病気にもなりにくいことでしょう。

最近、有名アスリートたちの「体幹開発法」の本が次々と出版されていますが、それは現代の私たちが、先人が当たり前に身に着けていた身体の使い方を忘れ、健康に不安をかかえているせいかもしれませんね。

アスリートたちの「体幹トレーニング」を目新しがっている今の私たちを見たら、ご先祖様たちはきっと笑い転げることでしょう。

なぜって、この写真を見てください(笑)。



左は戦前の農婦が米俵を背負っているところです。小柄な女性が1俵約60kgある俵を5個も背負っています! CGか? と思ってしまいますが、そうではありません。体幹部が鍛えられていると、こういう事もできてしまうのです。
右は1960年代頃まで、都内の電車でよく見かけた担ぎ屋さんです。自分の背丈を超える荷物を背負った女性たちがラッシュ時に乗り込んできたものでした。彼女たちはこの荷物を背負って駅の階段を上り下りしていたのです。

ごく普通の日本人が、当たり前に身に着けていた合理的な身体使い。
今、私たちは「健康ブーム」の中で改めてそれを再発見しつつあるようです。それにしても生活の欧米化と引き換えに、何だかとても尊いものを失ってしまったような気がしませんか?

筆者紹介

 
本 名 田尻 成美 (たじり しげみ)
略 歴 著述家・株式会社エランビタール代表取締役
著書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)
主な訳書「都市革命」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「空間と政治」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「文体論序説」(M・リファテール著 朝日出版社)
比較文化的視点から、日常の出来事をユーモアを交えて考察していきます。
著 書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)



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