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しあわせの「コツ」(第9回) 日本人が変えた「米作り」、「米作り」が変えた日本人

by staff on 2017/9/10, 日曜日

第9回 日本人が変えた「米作り」、「米作り」が変えた日本人

伊勢神宮には、神様にお供えするお米を昔ながらの自然農法で育てている3ヘクタールほどの神田(しんでん)があります。

初夏に差し掛かるころ田植えがありますが、若く弱々しい苗は、ちょっとした雑草にも栄養を奪われてしまうので、30センチくらいに成長するまでは、1枚の田んぼで3回は草取りをしないといけないそうです。10月に入り、収穫が終わると、今度は田を深く掘り起こして、土に新鮮な空気と日光を吸収させながら肥料を施します。耕耘(こううん)と呼ばれるこの作業を4,5回は繰り返すのです。

田植え、炎天下の草取り、収穫後の耕耘。私たちの先祖はこういう作業を何千年も前から続けてきたのでした。

日本神話で、天照大神が孫のニニギノミコトが地上に降りる際に稲を渡し、これを食物として地上で栽培するように言われた、というくだりがあります。以来、米は日本人の大事な食料として今日まで続いています。

天照大神から稲穂を受け取るニニギノミコト

確かに、米は日本人の身体にあった食べ物のようです。明治時代に日本に滞在したドイツ人医師のベルツは、日本人の強靭な体力に驚き、その原因を探ろうとある実験を行いました。
ベルツが東京から日光まで人力車で行ったとき、車夫は休みも取らず、14時間半で着いてしまったのです。驚いたベルツは車夫を二人雇い、3週間彼らの食生活を調査しました。すると、彼らは米、大麦、イモ類、栗、ユリ根など、「高炭水化物・低たんぱく・低脂肪」という、西洋人の常識からは考えられないような食事をしていたのです。

そこで今度は肉類など「高たんぱく・高脂肪」の、典型的な西洋式の食生活に切り替え、毎日80キロの人を乗せて40kmを走らせたところ、3日目で疲労が激しくなり、米を中心とした元の「粗食」に戻してくれと車夫が言ってきました。やむなく元の食事に戻したところ、また元気に走れるようになりました。

こうした実験を通して、ベルツは日本人にはドイツの栄養学は全く当てはまらず、米を中心とした日本食が身体に一番合っている、という事を確信しました。また、ベルツは「女性においては、こんなに母乳の出る民族は見たことがない」とも記しています。米を中心とした「高炭水化物・低たんぱく・低脂肪」の食事が、いかに日本人の身体に合っていたかが分かります。
残念ながら、明治政府はこのベルツの研究結果を無視して、ドイツ式の栄養学を取り入れていったのでした・・・。

 
ベルツと妻の戸田花子   明治期の人力車

このように、日本人の身体は、米食で作られてきたといっても過言ではありません。

でも、おかしいですね。稲はもともと熱帯、亜熱帯の植物です。苗は摂氏8度以下になると生育が止まり、零下1度になると枯死してしまいます。それがどうして日本で、特に東北地方で盛んに作られるようになったのでしょうか?

東南アジアで作られるインディカ米は、背丈が高く場合によっては2mにもなり、湿地帯や沼でも育ちます。周囲に雑草が生えても、稲の背が高いのて陽光が遮られて生育が邪魔されることがありません。肥料を施すと背だけが高く伸びて倒れてしまうので、インディカ米の場合は肥料をやらないほうが収穫量が増えます。荒っぽく言えば、インディカ米は手をかけないほうがよく育つのです。

タイの沼地のような水田

ジャポニカ米は、まったくその逆です。人工の灌漑田は沼のように深くないので、背丈の低い方が適しています。が、背が低い分雑草に太陽を遮られて衰弱し、枯死してしまうのです。そのため、人間の手による田草取りは欠かせません。苗を田に植える時も一定間隔でないと、栄養が吸収されにくくなります。そして、無事収穫してもそれで終わりではありません。今度は次の田植えに備えて耕耘する作業が待っています。

でも、こうした手間だけが、日本に稲作を定着させたわけではありません。もっと根本的なことがあったのです。一体それは何でしょうか?

それは、一言でいえば「国土改造」です。
米を作るためには田んぼが必要です。急峻な山岳地帯が多い日本の国土では東南アジアのような平地や沼地がそのまま田んぼとして使えるわけではありません。山間の傾斜地を削ったり、盛り土をして水平にしなければならないのです。そして、近くの川から水路を作り、田に水が流れ込むようにします。田は何段もあるので上の田から下の田へと水が流れるようにするには水平に作らなければなりません。また水量をコントロールするためには、水路の大きさ、深さ、傾斜角度を正確に設計しなければなりません。

狭い日本の国土ではこうして人工的に「灌漑田」を造成しなければ米作りができなかったのです。神話にも「狭田(さなだ)」や「長田」に稲を植えたという記述が残されています。今日にも残る真田、長田、さらには山田、窪田(くぼた)などという苗字は、まさに山間の狭い土地を段々に水平にならして作った棚田を彷彿とさせませんか?

灌漑田を作るためには、精密な土地測量技術、土手や畔を作る土木技術が必要となります。当然これは個人でできるものではないので、田を造成するためには、共同体の運営技術も必要になってきます。米作りは、行ってみれば農業テクノロジーの総合システムなのです。
昔の日本人は、米作りのために、国土の改造から始めたのでした。そしてこの造成された国土は、やがて「里山」と呼ばれる、自然と人間とのコラボ環境として、私たちの心のふるさととなっていったのです。

国土を改造してまで稲作を受け入れた日本人。また日本に導入されたことによって一大農業システムとして社会構造まで変えてしまった稲作。それはまた、日本人の意識の在り方をも大きく変えていったのでした。

灌漑という人工的な要素を稲作に取り入れたことにより、農業に「考える」という要素が加わりました。堤防や水路作りの土木技術、苗の植え方、草取りや施肥のタイミング、天候や土壌についての知識が必要となり、先を見ながら、また現状を見ながら、農作業を進めたのです。当然字も読めなければいけませんし、数学的知識も必要です。

私の父は、米どころ庄内平野の出身ですが、小学生のころ、冬炬燵に入りながら、植木算や面積の計算を「遊び」として解いていたといいます。いずれも農作業に必要な知識だったからです。日本人は「地あたまがいい」と言われますが、日常的にこうした知識を活用していたからかもしれませんね。

また、よく日本人は勤勉で几帳面、清潔好きだといわれますが、草取りや耕耘など、手のかけ方によって収穫に差が出てくることを体験的に知っているため、おのずとこまめに手足を動かす習慣が身についているからかもしれません。

戦後GHQが「米を食べると頭が悪くなる」と言って、「パン食」を進め、今日に至っていますが、こうして米作りの歴史をたどってみると、米離れは稲作で培われてきた日本人の知恵や意識を大きく変えることにつながるのではないでしょうか?

筆者紹介

 
本 名 田尻 成美 (たじり しげみ)
略 歴 著述家・株式会社エランビタール代表取締役
著書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)
主な訳書「都市革命」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「空間と政治」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「文体論序説」(M・リファテール著 朝日出版社)
比較文化的視点から、日常の出来事をユーモアを交えて考察していきます。
著 書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)



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