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喫茶店「もうひとつの時間」オーナー 山本芳寛さん

by staff on 2018/3/10, 土曜日
喫茶店「もうひとつの時間」オーナー 山本芳寛さん
喫茶店「もうひとつの時間」オーナー
山本芳寛さん
 
お名前 山本 芳寛 (やまもと よしひろ)
お生まれ 60代後半
お住まい 横浜市南区在住
ご家族 ご夫婦で2人暮らし
ご職業 喫茶店「もうひとつの時間」オーナー
趣味 音楽全般 特にギター演奏など

 

どのような少年時代だったのですか

山梨県甲府市に生まれて生後3カ月まで過ごしました。
父親が気象庁職員で、羽田、入間、成田など飛行場あるところが勤務地だったので、小学校は4回転校しました。そのため、知らない人たちと仲良くしていく術を、小さいときから身につけていったのかもしれませんね。

中学校、高校は公立で転校しませんでした。
母親が元教師で教育熱心だったので、真面目に勉強していました。
練馬区の中学校時代に、音楽部に入って、軽音楽をやっていました。
中学3年のときに、親にエレキギターを買ってもらって、家で夢中になって練習していまました。高校に入ってからは、軽音楽部に入って、4人グループで、ビートルズやグループサウンズの曲を文化祭などで演奏していました。ギターは大好きで趣味としてやっていこうと思っていました。

ちょうど学生運動の真っ只中で、通っていた都立高校にもその波が押し寄せていました。卒業式が活動家たちに、と言っても同級生ですが、封鎖されて、機動隊が突入されたのです。卒業式は中止となりました。活動家たちは、警察に連れて行かれました。その当時は高校生同士でいろいろな事を議論しあっていました。今の高校生よりも何倍も語り合っていたと思いますよ。

大学時代に喫茶店との出会いがあったとか・・・

音楽と反戦運動に明け暮れ、勉強どころではなかったので、一浪して大学に入りました。入学した大学も学生運動で有名なところでした。(これは偶然ですが~) ベトナム戦争などがあって、多くの大学生が、世の中を変えたい、自分は社会のために生きていきたいと思っていました。私もその一人で、国際反戦デーの集会に参加したりしていました。ただ、連合赤軍事件が起きて、行き過ぎた思想にはついていけないと学生運動とは一線を画すようになりました。

その当時でも、左翼、右翼の両方に友人がいて、交流していました。コミュニケーション力は、若いときからあった方だと思います。

学生運動の影響で大学の授業にはほとんどでなかったので、自宅のそばにある新小岩の喫茶店に行くのが日課になっていました。そこで過ごした時間が、今の私につながっています、その喫茶店では有線放送のジャズを店内に流していて、それを聴くのが楽しみでした。マスターたちと人生論を戦わしたり、音楽に関する新しい情報を教えてもらったり、私にとって、かけがえのない時間を過ごすことができました。私の青春は、あの喫茶店で過ごした時間でした。そこでの経験が、年を取ったら喫茶店をやって、人生で経験したことを若い人と語り合いたいと思うようになったのです。

システムエンジニアとして活躍されていたそうですね

22歳で、できちゃった婚をしたこともあり、大学卒業後は、電機メーカーに就職しました。結婚して横浜市南区に住んで以来、ずっと南区民です。その会社でコンピュータの仕事を担当して、コンピュータの凄さと面白さに目覚め、30歳のときに、コンピュータ関連会社に転職しました。

40年ぐらい前ですから、まだパソコンではなく、オフィスコンピューターの時代です。横浜支店でシステムエンジニアとして一生懸命働きました。中小企業に業務系のコンピューターが入りだした頃で、毎日終電までの忙しい日々でした。会計、給与、受発注、在庫と様々なシステム開発に携わりました。手書きだったものをシステム化するのですから、お客様のヒアリングから仕事が始まります。人の話しを整理してまとめないといけません。ここでもコミュニケーション力が培われましたね。また、仕事を通じて、経理や総務の仕組みも勉強させてもらって、今とても役に立っています。(笑) コンピューター導入により、業務の効率化が実現して、お客様に喜ぶ顔を見るのが、やりがいになっていました。オリジナル製品の開発チームを立ち上げたり、充実した日々でしたが、バブル崩壊で、人生が変わりました。

会社の業績が思わしくなくなり、横浜支店を閉じることなったのです。お客様からサポートを続けてほしいという要望があり、1999年に独立して起業しました。2000年問題もあり、取引先からの信頼もあって新会社は順調でした。ただ65歳になったらやりたいこと、若い頃からの夢だった喫茶店をやりたいという想いは持ち続けていました。それで60歳を過ぎた頃から、コーヒー教室に通い始めました。5年ぐらい、カルチャースクールなどに通って勉強していました。喫茶店めぐりもしましたね。

それで3年半前に念願の喫茶店を開業されたのですね

地方でログハウスを作ってカフェをやるものいいなと、妻と一緒に物件も見学に歩きましたが、妻は横浜育ちなので、やはり横浜で開業することにしました。根岸森林公園に散歩に来たときの木の香りが好きで、開業する喫茶店は木で内装したいと店舗は自分で設計しました。

銀座にある「カフェ・ド・ランブル」という喫茶店が大好きで、よく通っていました。そこにあるガラス張りになっているコーヒー焙煎器具が素敵で、自分の店でも実現したいと思っていました。

木の香りがして、コーヒーの焙煎器具がガラス張りになって見える喫茶店「もう一つの時間」を2012年10月7日に横浜市中区山元町に開店しました。

「もう一つの時間」と言う名前は、仕事の以外の時間を過ごす場所というイメージ、自分の時間を過ごしてもらいたいという想いから付けました。

自ら焙煎したコーヒーを出す喫茶店という特徴だけでなく、軽食でも特徴を出したいなと考えて、「ガレット」を出すことにしました。「ガレット」は、フランスの料理でそば粉で作るクレープのことです。

渋谷のガレット屋さんに勉強に行って、開店前には、そこのオーナーが自ら来てくださってガレットの焼き方を教えてくれました。

ガラス張りの焙煎器

こだわりのコーヒーカップ

店内風景

開業されて、すぐ常連さんもできたとか・・・

うちのお店は、平日に週2~3回来て下さる常連さんが多いですね。土日は新規のお客様が、根岸森林公園の帰りに、ガレットを食べたいと来てくださいます。当初想像していた以上に、地域の皆様に受け入れられて嬉しいですね。「ここがないと困るのよ」と言われると、本当に有難いです。

マンションの理事会やママ友の集まりなどに利用していただいて、地域のコミュニケーションスペースになっているのだなと実感しています。ここでの交流からいろいろなご縁が広がってきて、自分が思い描いていた「もう一つの時間」を創り出すスペースになってきたなと思います。

おかげさまで横浜のカフェの本にも掲載されて、それを見て訪ねて下さるお客様もいます。これからも気負いなく、皆様にとって居心地のいい喫茶店を続けていければと考えています。

横浜カフェ散歩

山本さんにとって「横浜」はどのような街ですか

自分の「夢を実現させてくれた街」です。
そして、大好きな街です。

これまで失敗や間違いもたくさんありました。今でも迷ったり悩んだりすることもあります。でもこの街で出会った人たち(家族やスタッフ、お客様や地域の仲間たち)の協力でなんとか実現できたと感謝しています。

横浜市民になってまもなくの頃、当時、横浜市長だった飛鳥田一雄氏が先頭にたって、ベトナムに向かう荷物を村雨橋(神奈川区)の上で人垣を築いて足止めしたことがありました。先頭に座り込んでいた飛鳥田市長を見て、「横浜」には何て素晴らしい市長がいるんだと感動したことがあります。その後、三吉橋(南区)で飛鳥田市長を見かけて話しかけたら、気さくに応じてくれてそれにも感動しました。

それ以来「横浜」に住んでいることが私の誇りになりました。

夢を実現させてくれた街

<取材を終えて>

2017年10月に開かれた「もう一つの時間」5周年記念パーティーに私も参加しました。お店のお料理の他に、近所の方々がそれぞれの逸品を持ち込んで集まりました。山本さんのギター演奏や常連さんでセミプロの方の歌もあり、とても楽しい時間でした。山本さんのお店の前はバス通りですが、日中は人通りも少なくて・・・開業当時は何年続くのかなと思っていましたが、そんなのは全くの杞憂で、今や老若男女が集まる地域のコミュニティスペースになっています。若い頃に思い描いていた夢を実現できた山本さんの人生に乾杯です。

(インタビュー:渡邊 桃伯子)

 

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