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しあわせの「コツ」(第19回) ナンバー1よりオンリー2

by staff on 2018/7/10, 火曜日

第19回 ナンバー1よりオンリー2

チチェン・イツァ マヤ文明の遺跡

「あなたはわたし わたしはあなた」
これは何だと思いますか?詩の一節ではありません。これは、マヤ人たちの「こんにちは」なのです。道で人とすれ違った時、マヤ人たちはお互いにこう言っていたのです。

「あなたはわたし わたしはあなた」。素敵ですね。現代の私たちとは違った世界観で生きていたことが分かります。

一体、マヤ人たちはどんな世界観を持っていたのでしょうか?簡単に説明しましょう。まず、丸いボールをイメージしてみてください。ボールは回転するので、球体の上に点を書いても、上下左右横縦という言葉で点の位置を示すことはできません。

マヤ人たちは時空間をそのような球体の存在としてとらえ、人間はその表面に置かれた点だと考えていました。球体の上下をひっくり返せば、上にあった点は下になります。つまり、どこにあろうと球体の表面ではすべての点は「平等」なのです。あるのは「個体差」だけ。だから「あなたはわたし わたしはあなた」になるのです。それはまた、「わたし=あなた」という自他一体の感覚でもあります。

方向性のない球形 その表面ではあらゆる点は平等になる

現代の私たちと何とかけ離れた感覚でしょう。
私たちは「自分」という存在を身体と同一視し、他人とは別の存在だと考えています。けれどもマヤ人たちは、違います。
彼らは、自分のアイデンティティの源泉は「身体」にはなく、自分と他者を一対の構造として認識する「意識」にある、と考えていたのです。

他者と一対になっている自分 ― これは物理学でいう「対生成」という考え方に似ています。対生成とは、ざっくり言うと陽子が反粒子と対になって飛び出してくることで、片一方が消滅するともう片方も同時に消滅します(それを対消滅といいます)。

常に二つでひとつ、どちらかが欠けたらその関係自体が消滅する「自他一体」の関係―「あなたはわたし わたしはあなた」とはまさに「対生成」のような関係なのです。

はたして現代社会を生きる私たちは、そんな風に自分と他人をとらえているでしょうか?自分と他人は離れ離れの孤立した存在だと、当たり前のように思っていませんか? 最近ではその「自分」すら誰だか分からない、という感覚に陥り、「自分探し」を始める人も大勢います。では「自分探し」をする自分は一体誰なのでしょう?まるで道端の石ころのように「自分」がどこかに落ちているとでも思っているのでしょうか?

こんな悲喜劇が起こるのも、私たちが自分と他人を「対生成」の存在として認識していないからに他なりません。

「自分探し」に出かける「自分」は誰?

自分と他人は二つでひとつ。
対とはそういう関係ですが、誤解しないでいただきたいのは「一対」は「一組」とは違う、ということです。

「一組」とは、鉛筆ニ本一組、乾電池二個一パック、というように、同じものをひとまとまりにしたものです。ですからばらばらにしても鉛筆は鉛筆のままで、ただ「一本の鉛筆」になるだけです。

鉛筆も乾電池などは、単品でも一組でも鉛筆は鉛筆、乾電池は乾電池

それに対し「一対」は、夫婦のように、どちらかが亡くなったり、別れれば夫と妻という関係はなくなります。また手足を見ればわかるように、「一対」という関係はそれぞれ違った働きを持ち、双方が合わさって初めて機能するようにできています。

例えば、右肩からも左手が生えていると考えてみてください。両方とも左手だったら柏手を打つことも、ご飯を食べることもできませんね。右手と左手が違う機能を持ち、補い合って働くことで初めて「手」として機能するのです。

両方とも同じ向きだったら・・・。使えませんね―笑

「一対」とは本当に不思議な関係です。
違っているからこそ「一体」になれるのです。マヤ人は自分と他人の関係を、両手のように対生成する「一対」という関係として考えていました。他人とは、わたしと切り離された存在というより、違いを持ちながら、いえ、違いを補い合いあいながら存在する自分の「片割れ」だと考えたのでした。

自分と他人は違います。しかし、その違いとは役割の違いであり、互いに補い合うべき違いなのです。違いこそが、お互いの価値であり、違いがあるがゆえに一つになれるというわけです。
コーラスでもそうですね。ソプラノが美しいからと言って、全員がソプラノになったら、誰が低音部を歌うのでしょう。曲がメチャメチャになってしまいます。ソプラノ、アルト、テノール、バスと、違っているからこそ美しいハーモニーが生まれるのです。

合唱コンクール東北大会中学生部門金賞受賞 郡山二中

遠い昔マヤ人たち、あるいはもっと他の先人たちもそう考えていたのでしょう。
彼らは、自分と他人の関係を「一対」と考え、両者の違いにこそ価値があり、違っているからこそ補い合い、補い合うからこそひとつになれる、という意識で生活していたのでした。

現代の私たちは「人はみな平等」と言う意識が染みついているので、ついつい他人も自分と同じだと思いがちです。そのため、少しでも他人に自分と違うところがあると、非難したり、いじめたりします。

でも、本当は、他人は私たちとは役割が違うのですから、違っていて当たり前なのです。ジグソーパズルのピースのように、同じ形ばかりだったら、全体は完成しません。皆自分と同じだったら社会は機能しなくなります。
「人はみな平等」というのは、お互いの違いを受け入れ、補い合う関係にあることを理解しあったあとに、初めて出てくる考えなのです。

ジグソーパズル どのピースも似ているけれど、一つとして同じものはない

「ナンバー1よりオンリー1」という有名な歌がありますが、世の中を支えている仕組みである「一対」に気づくと、オンリー1ならぬ「オンリー2」が正しいのではないでしょうか(笑)。

「違い」から出発して他者を見ると、少しでも共通点が見つかれば親近感がわき、仲良くなれるかもしれません。電気のプラス・マイナスのように、反対のエネルギーだからこそ引き合う、というドラマが生まれることでしょう。

鈴と、小鳥と、それから私
みんなちがって みんないい

金子みすず「私と小鳥と鈴と」

金子みすず (1903~1930)   直筆の詩

筆者紹介

 
本 名 田尻 成美 (たじり しげみ)
略 歴 著述家・株式会社エランビタール代表取締役
著書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)
主な訳書「都市革命」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「空間と政治」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「文体論序説」(M・リファテール著 朝日出版社)
比較文化的視点から、日常の出来事をユーモアを交えて考察していきます。
著 書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)



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