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私にとって横浜は「素敵な思い出が詰まった玉手箱!!」 シャンソン歌手 井上千鶴さん

by staff on 2019/6/10, 月曜日

民話を歌で表現した『きつねだて』という歌曲を聴いたとき、歌で物語の世界をこれほど鮮やかに再現できるのかと感動しました。そして、お伽話に曲をつけて歌う『おとぎ歌』を作り始めました。また、『小さなピカソの会』を設立し、カンボジアの子供達が描いた絵で、便箋やクリアファイルなどを制作販売する支援活動を行っています・・・今月は、シャンソン歌手井上千鶴さんにお話を伺いました。

井上千鶴さん
井上千鶴さん
 
お名前 井上 千鶴(いのうえ ちづる)
お生まれ 8月生まれの獅子座
ご出身 横浜市中区石川町
お仕事 予備校勤務
音楽活動(シャンソン・おとぎ歌・作詞作曲)
司会・ラジオのパーソナリティ など
性格 気は細かいがおおらか

 

三つ子の魂百まで?

2才頃のことです、テレビで越路吹雪さんが『イカルスの星』を熱唱するのを聴きました。その人が越路吹雪さんという人、その曲がイカルスの星という曲であることを知ったのはずっとずっと後の事です。でも、そのときのテレビ画面を超えて迫ってくるような越路さんの歌の迫力には、幼いながらも『ガーン』と来ましたね。今思えば、それがシャンソンと私の鮮烈な出会いだったのかも知れません(笑)。

幼少期から、とにかく歌を覚えるのが早かったです。ストーリーはわからなくとも、アニメやドラマのオープニング曲、エンディング曲などは直ぐに覚えて、口ずさんでいました。近所では「鼻歌のチーちゃん」なんて呼ばれていました(笑)

横浜雙葉、そして恩師との出会い

石川町の駅前で、京浜東北線の水色の電車がガタゴトいう音を聴きながら育ちました。小学校2年から高校卒業まで山手の丘にある横浜雙葉学園に通いました。学校では人見知りでシャイな女の子でした。そんな私も家に帰ると、近所の子供たちを従えて、父のビルのネオン搭によじ登ったり、駅前の空き地で虫取り網を持ってトンボやバッタを追いかけたりと、かなりの「お転婆さん」でした(笑)。

高校時代は、数学が苦手でしたが、それ以外の科目はうまくいっていました。特に世界史が大好きでした。それは素晴らしい恩師との出会いのおかげです。世界史の漆原隆一先生の授業は、ただ歴史の事実を並べるだけでなく、出来事の因果関係がよくわかり、登場人物の息遣いまで聞こえてくるようないきいきとした授業でした。授業中は一言一句をもらさないようにノートを取り、テストはいつも最高点が取れるように頑張りましたね。

その漆原先生はその後、横浜雙葉学園の校長を務め、職を辞した後、ご夫妻(※注1)でカンボジアに移住され、カンボジアの子供達のために尽されました。

※注1:漆原隆一・恭子 活動の記録(是非ごらんください):https://www.facebook.com/kyokosnews

ミュージカルや演劇に夢中になった大学時代

歌が好き、ドラマが好きでしたから、高校の部活は「音楽部」か「演劇部」に入ればよいものを、役を巡ってのいざこざ、というような雰囲気は苦手で、気が付けばまったく違う部活に入っていました。その結果、「歌いたい」「演じたい」という気持ちをずっと抑えて過ごしていました。

大学は上智の文学部英文科に入りました。原語講読の授業で、劇団『円』の演出家でもあった故安西徹雄先生が「ロミオとジュリエット」を朗読されたのを聴いたとき、今まで我慢していた「演じること」への思いが再び湧き起こりました。その時代は、夢の遊眠社や第三舞台など小劇場を舞台とする大学演劇が盛んでした。そんな中、英文科の先輩が創ったオリジナルミュージカル劇団に創立メンバーとして加わり、大学生活の4年間はメインキャストとして都内小劇場での公演活動に明け暮れました。

そうこうするうちに、卒業後の進路を考える頃になります。先輩から、シャンソンという歌のジャンルがあり、それは歌の中でも演劇に近いものだと聴きました。クローズ寸前の『銀巴里』に行き、そこで金子由香里さんの歌を初めて聴き、その語るような歌い方に魅了されました。卒業後も歌に関わることをやりたいと思っていた時でしたから、是非「シャンソン」を習いたいと思いましたね。

シャンソン歌手誕生!

歌との両立を考えて、英語の非常勤講師を勤めることになり、京浜急行で通勤途中、日ノ出町駅近くのお店のアーケードに「シャンソニエ」と書かれてあるのを見つけ、入ったのが故元次郎さんの店「童安寺(現シャノアール)」でした。私が恐る恐る店の扉を開けると、元次郎さんには私が幼く見えたのでしょう「おじょうちゃん、お客様?」と驚かれた様子。そこでは私の念願通り、銀巴里で歌っていらっしゃったシャンソン歌手、伊東はじめさんとの出会いがあり、レッスンを受けることになりました。元次郎さんにお店で歌う機会もいただきました。

そんなある日、父がクモ膜下出血で倒れ、介護をすることになりました。50代になった母も働くことになりました。シャンソン歌手への道は一時中断ということになりました。

家庭を取り巻く環境が大きく変わりました。そして数年が経過し、暮らしが落ち着きを取り戻した頃、元町中華街の老舗のシャンソニエ『デュモン』を紹介していただき、歌手活動の再開となりました。2008年から2015年にかけては、杉田劇場にて、計5回、『ヨコハマシャンソンフェスティバル』を主催し、ご好評をいただくこともできました。今は『デュモン』のほか、東京の『ウナ・カンツォーネ』 『シャンパーニュ』などでもライブ活動を行っています。

ウナ・カンツォーネにて
ピアノの中尾博行さん、パーカッションの本間修治さんと
新宿区舟町7 舟町ビル5F(最寄り駅:四谷三丁目)
ウナ・カンツォーネ:https://www.una-canzone.com

シャンソニエ デュモンにて
左からアコーディオン鳥海涼子さん、川島豊さん、井上千鶴、オーナー 日野敦子さん
中区山下町100-3 リレント山下町1F(最寄り駅:元町中華街駅)
シャンソニエ デュモン:http://www.dumont.co.jp

ライフワークの『おとぎ歌』

芸大名誉教授の故松本民之助氏がきつねの民話に曲をつけた『きつねだて』という歌物語を聴きました。長い曲でしたが、音楽そのものが物語の世界を深め広げて、「次はどうなるの?」とわくわくした気持ちで最後まであっと言う間でした。「お話を歌で表現するのもありなのか」と思ったのがきっかけとなり、いくつかの『おとぎ歌』を作らせていただきました。 新美南吉の『ごんぎつね』、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』、『おむすびころりん』『夕鶴』齋藤隆介の『花さき山』などです。2013年にはそれらが収録されたCDを制作しました。

カンボジアの子供達

カンボジアの子供達のために奥様と現地で活動されている(故)漆原隆一先生から「カンボジア通信」が送られてきました。その一通目の書き出しが『シェムリアップの町はシャンソンが似合う町です。』でした。この一行を読んだ時、私は先生から「井上千鶴さん」と名前を呼ばれた気がしました。

カンボジアはポルポト政権による知識階級の大虐殺の影響で教育が立ち遅れ、とくに音楽や美術といったものは遅れていました。ご夫妻は日本からピアニカ、絵の具や絵筆を集めて現地で子供たちの指導にあたっていました。そんなお二人の活動を助けたいと強く思うようになりました。

偶然なのか必然だったのか分かりませんが、雙葉学園の同窓会会長から総会の司会を頼まれました。1年目、2年目と都合が付かず断っておりましたが、3年目に引き受けることになりました。これがきっかけで母校と漆原先生への支援活動が太いパイプで繋がりました。当時同窓会会長だった布施毬江さんとともに企画をし、千葉前校長先生、田中前理事長先生を始め皆様のご理解、ご協力を得て、2010年7月、横浜の社会福祉センターホールにて、カンボジア チャリティコンサートを開くことができました。そこで思っていた以上の寄付金を集めることができました。

カンボジアの子供たちが描いた絵で作った便箋。裏が罫線になっている。
子供たちがが描く絵はのびやかで色使いが素敵。それぞれ10枚入り200円。

学校に通えないほど生活が苦しくとも、カンボジアの子供達の絵はのびやかで明るいのに驚きました。子供たちにこんな特技があるのなら、是非その特技を使って「寄付」を集められたら素敵だな、と思いました。子供達の作品を使って一筆箋や便箋、クリアファイルを作って販売する「小さなピカソの会」が誕生しました。 母校の先輩方と私、4人のメンバーが中心となって運営しています。

カンボジアチャリティ便箋をご希望の方は
「小さなピカソの会」事務局までお申込みください
080(3528)2733 (小さなピカソの会 事務局)

井上千鶴さんにとっての横浜は?

横浜は幼少時代の思い出、素敵な出会いに満ちた特別な街です。
そんな横浜は「私にとって宝物で一杯の玉手箱!!」です。

私にとって横浜は「素敵な思い出が詰まった玉手箱!!」です

(文:高野慈子

 

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