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ピノキオクラブ主宰 内海宜子さん

by staff on 2019/11/10, 日曜日

今回ご紹介するのは、「お話は心の泉、生きる力」をモットーに、草の根的な活動で、子供たちの心を育むことに貢献なさっている内海宜子さんです。ヨコハマを終の住処として四半世紀という内海さんに85年間の素敵な人生の歩みと、今でもキラキラ輝いていらっしゃるその秘密をお話しいただきました。

ピノキオクラブ主宰 内海宜子さん
ピノキオクラブ主宰
内海宜子さん
 
お名前 内海 宜子(うつみ よしこ)
お生まれ 1934年8月28日
お住まい 横浜市
お仕事 ピノキオクラブ主宰、
宮澤賢治朗読
趣味 水泳、一人旅

 

今年で85歳になられて、水泳に、朗読に、ピノキオクラブ主宰にと、お元気に活動されていらっしゃいますが、まずは内海さんのルーツについてお聞かせてください。

1934年8月28日東京世田谷に生まれました。いわゆる山手のお嬢ちゃんで、青山の名門、青南小学校に通っていました。が、1945年3月10日の東京大空襲(幸い家は無事でしたが、、、)で急遽父の故郷、熊本県天草に疎開しました。銀座吉野屋のピカピカ革靴を履いていた「山手のお嬢ちゃん」から、藁草履で野山を駆け巡り、麦刈り,稲刈り、波止場での海遊びとわんぱくな「天草っ娘」になりました。
その頃の忘れられない光景をあげると、波止場でアメリカ戦闘機の機銃掃射、島の向こうで炸裂の光を見た長崎の原爆投下、天皇陛下の玉音放送はガーガーと雑音のするラジオから聴きました。

戦争によって、生活が一変したのですね。

そうです。高校生として再び東京に帰って来るまで、四年の歳月を天草、福岡と転々としました。戦争は家族をバラバラにし、多感な少女時代に、不安と劣等感と孤独感も味わいました。
一方で, その苦労は私を逞しくポジティブな女の子に育ててくれたのです。
その根っこになったのは、母の揺るぎない信仰、事業に失敗した父の奮闘する姿、姉の手厚いサポート、そしてもう一つは天草での自然との触れ合いから生まれた、「宇宙観」でした。ある夕暮れ、海に差し込む太陽の矢のような光に, 大いなる宇宙の中のちっぽけな自分、宇宙の中の自分を感じた経験でした。

それらが内海さんのルーツなのですね。では、次に東京にお帰りになってからのことを教えてください。

姉の後を追って入った、東洋英和女学院での高校生活は、演劇部活動に明け暮れて、演出の面白さを知りました。演劇には人間構造の全てが含まれていました。

人間構造のすべてとはどういった意味でしょう?

人間の持つ喜怒哀楽、狂気、愛、すべての感情を舞台上に表現するのが演劇だということです。演出の役割は、その作品の意図を的確に読み取り、そこに自分なりの色を塗って素敵な舞台に仕上げることだと思っています。

大学でも演劇をなさっていたのですか?

はい。大学は早稲田大学の文学部に進んで早速、演劇部に入り演出を目指しました。が、女性不足との理由で入部早々、女優として、島崎藤村の「破戒」のお志保をやらされました。
当時は安保闘争の真っ最中で、議論、議論の部活動について行けず、ついには演劇部を辞め、早稲田名門の「童話会」に転部したのですが、このときはつくづくと、自分の根っこが如何に、お嬢ちゃん育ちであるかを実感しました。

当時の早稲田キャンパスは、戦後の日本から前へと進むある種のエネルギーに溢れていました。同期にも精彩を放つ素晴らしい学生がいました。貧乏学生だった友人からは、芥川賞を取った三浦哲郎、「ひょっこりひょうたんじま」の作者、山元護久などが世に出ましたね。

早稲田大学時代、一番左が内海さん

才能ある方々と語り合い、さぞや刺激的な学生時代だったことでしょうね。卒業後の進路はどうなさったのですか?

育英資金とアルバイトの貧乏女子学生がやっと手に入れた職は、女性雑誌「それいゆ」編集部でした。

当時のおしゃれ女子たちの心をつかんだ、中原淳一さんの雑誌「それいゆ」ですね?

そうです。少人数の組織の中で、花森安治さんと肩を並べる女性雑誌制作の中原淳一さんの下で、沢山の経験をしました。たくさんの著名人たちにインタビューをさせていただき、記事を書きましたね。

記者時代の内海さん、中原淳一デザインのワンピースに身を包んで

たとえば、どのような思い出がありましたか?

作曲家の吉田正さんには、取材のとき、確か銀座のコロンバンで、「さぁさぁ! おあがりなさい!」とチョコやフルーツの乗ったパフェをご馳走になりましたね。駆け出し記者に注いでくれた優しい眼差しが忘れられません。文豪、武者小路実篤さんのところに、原稿を取りに行った際には、原稿を催促する言葉に、「黙らっしゃい!」、と一喝され、ひっくり返りそうになりました(笑)。中原邸に我が家のように顔を出していた、シャンソン歌手の高英男さんと言葉を交わしたのはほんの数回でしたが、「君はなかなか知的ですね」と、すれ違いざまにを声を掛けてくださり、しばらく胸が高鳴りましたね。面と向かって評価されることなど初めての小娘でしたから。

銀座でOL,しかも「それいゆ」の若き女性記者とは、まさに誰もが憧れる花型の職業ですね

私としてはまだまだ続けたかったのですが、親や姉の意向もあり、まさに記者として脂がのってきたころ、転勤族の夫と出会い、仕事を辞め、三人の子供の親となり、兎にも角にもこうしてヨコハマに辿り着いた私です。

結婚式のウエディングドレスも中原淳一デザイン。
ドレスの裾が短めなのがモダンで可愛い。

子供たちの情操教育のため、内海さんが23年間、主宰なさっている「ピノキオクラブ」について教えてください

アルバイトの塾講師時代に、究極的に言って、子供たちに大切なのは「路地遊び」であると確信しました。思い立ったら、行動するのが私です。63才からピノキオクラブという会を打ち立てました。初めは、地区センターの講座の一つとしての開催でしたが、その後も、入会希望の子供たちが途切れることがなく、ついには独立した会となりました。学校も幼稚園もバラバラな、4才から小学校6年生迄の子供たちを対象に、読書と自己表現を組み合わせたプログラムを用意して、共に学び、表現し、楽しむ会を月一回開催しています。私がこれまでに手に入れた人生体験の「ご馳走」を明日に育つお子さん方に提供しています。子供は正直です。ワクワクドキドキ、面白くなくてはついてきませんから、こちらも毎回のプログラムをひねり出すのに必死です。たくさんの子供たちがピノキオクラブから巣立ってくれました。中には、静岡放送のプロデューサーになったり、web小説大賞の銀賞を受賞したり、劇団で活躍したり、、、嬉しい限りですね。「ピノキオクラブ」のモットーは「お話は心の泉 生きる力」です。

ピノキオクラブ の活動の様子。 「はらぺこあおむし」を皆で作りました

内海さんのそのような意味のある草の根活動に、大きなエールを送りたいです。最後に、ご自身がライフワークとしてされている宮澤賢治の朗読についてお聞かせください。

賢治の朗読を本格的に始めたのは、3.11の東日本大震災がきっかけでした。賢治の作品を広めたいという以上に、被災地の子供たちにできる貢献をしたいとの思いからでした。宮澤賢治の作品を朗読する会を開き、収益をご寄付をするという形で、これまで大槌小学校、楢葉小学校、大川小学校、閖上、釜石、など合計で28校の小学校にミキハウス出版の「宮澤賢治絵本全集」を贈ることができました。可愛い挿絵の入った素敵な絵本です。被災地に行って感じたのは、役に立つのはお金か本である、ということでした。帰ったら、それで終わりではない物、本は私たちが帰った後でも、被災者に寄り添って心を癒してくれますものね。

原宿のカーサ・モーツァルトにて。
宮澤賢治の『なめとこ山の熊』を全編暗記で朗読されました

素敵なお話をありがとうございました。最後に、内海さんにとって、横浜とは?

「楽しい私の大切なふるさと♪」ですね。これからもこの横浜で子供たちと楽しく関わってゆきたいです。

内海さんにとってヨコハマとは、、、
「楽しい私の大切なふるさと♪」です。

(インタビュー&文:井上千鶴

 

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