Skip to content

セカンドライフ列伝 第17回
小山弥兵衛(こやまやへえ)と心諒尼(しんりょうに)

by staff on 2020/8/10, 月曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第17回 小山弥兵衛(こやまやへえ)と心諒尼(しんりょうに)

流人となった至誠の人に訪れた奇跡

 この話がフィクションとして書かれたものであったなら、稚拙なストーリーでの美談だと思われてしまうかもしれない。しかし事実は小説よりも奇なりという古い言葉を思い出すまでもなく、本当の奇跡とはこのようにして顕(あらわ)れるものかと感動する。

 小山弥兵衛(こやまやへえ、1705(宝永2年)~1792年(寛政4年)8月22日、享年88~本稿で年齢は数えです)は1738年(元文3年)の大晦日、但馬の国(兵庫県北部)東河庄(とがのしょう)での、のちに言う元文一揆の首謀者の一人として捕縛された。22名が詮議のために京都に送られ、6名が死罪で内5名が獄門、弥兵衛ら8名が遠島、8名が所払いとなった。

 弥兵衛は壱岐に流されたものの、現地で開拓や農業振興、子供たちの教育に尽くし、その誠実さと高い能力で人望を得ていった。

 そして一揆から30年後、弥兵衛の孫のやえが8歳の時に仏壇におじいさんの位牌が無いことに疑問を持ち、壱岐に流刑になっていることを知る。おじいさんに会うことを心に誓い、9歳で比較的自由往来ができる身分である尼になり、全鏡との法名を与えられた。そして25歳で上司の庵主に自分が尼を志した本当の理由を話し、理解を得て西への旅に出る。壱岐島に物資を届ける船に、人々の善意で潜り込み、ついに1789年に弥兵衛との面会を果たす。その後は度々海を渡り、弥兵衛臨終までの世話をしたという。後に法名、心諒を贈られる。

 この話は柴田東一郎氏が職員旅行で壱岐に渡った時にこの史実を知り、約10年をかけて郷土資料等を掘り起こし、小説仕立ての物語にまとめたものに依拠している。

第1の人生~野村の庄屋、名字帯刀の小山弥兵衛

 小山弥兵衛は但馬の国、東河庄野村の、名字帯刀十石扶持の裕福な庄屋であり、30歳過ぎの若さであったが、学識と人望があり、代官所から公文書の代筆を頼まれるほどであったという。

 しかし天候不順が続き、ついに元文3年(1738年)の凶作で年貢米の納入ができず、現在の兵庫県朝来(あさこ)市の野村、久田和村、殿村などの村々の庄屋達が集まり対策を協議したが、野村の年寄役の小山弥兵衛も加わり、年貢米軽減等の願い状をしたためた。

 大晦日に、庄屋達は代官所の掃除を手伝いに行くと触れていたにもかかわらず、鋤や鍬を持った百姓が3千人も集まり、暴徒化してしまった。おそれをなした代官所は年貢米を4割に減らすことと、来年の収穫期までの貸し米を約束した。

 しかしそれはその場しのぎの嘘であって、年が明けてすぐに一揆の先頭に立ったものらは捕らえられ、やがて厳しい吟味が始まった。4月に首謀者22人が特定されて京都送りになり、詮議の上でそれぞれの量刑が定められ、江戸幕府の承認がとられた。7月12日に判決が言い渡されが、6名が断罪(斬首刑)、内5名が獄門。8名が遠島、8名が所払いとなった。弥兵衛は断罪のところ、名字帯刀と全財産の没収により罪一等を減じて遠島となった。彼は35歳であり、その時、息子は8歳であった。

高瀬川と高瀬舟(京都市内、2018年6月)

現在の郷ノ浦フェリーターミナル(2016年10月)

 そして高瀬舟で大阪に送られて入牢した。関西の遠島の罪人は京橋の東町奉行所に集められ、季節に1回の流人船で流刑地に送られる。夏の流人船に乗り換えた所で、初めて壱岐島行きであることを知らされた。とは言え、彼らには初めての海の、さらにその果て、どこにあるとも知らぬ島だ。瀬戸内を抜け、玄界灘を渡り、およそ十日の後、1739年7月25日に壱岐島南端の郷ノ浦に着いた。

流刑地一口メモ

 江戸時代、江戸からの流人は伊豆七島へ。関西圏の流人は、隠岐・薩摩・天草・五島・壱岐などへ流された。壱岐にはこの上方流人のほか長崎流人も送られた。長崎流人は刑事犯で、身分も無宿人などで、島で再犯や島抜けを企てるものもあった。一方上方流人は思想犯が多く、穏健で教養が高かったという。(文献1引用の、中上史行著「壱岐の風土と歴史」より孫引き)

壱岐島(いきしま)豆知識

 現在もフェリーが博多港から出るが、壱岐島は長崎県に属し、行政区分は壱岐市である。南北17km、東西14kmであり、九州と対馬の中間に位置するが、周囲には23の属島(内有人4島)がある。壱岐島内陸の深江田原(ふかえたばる)がかつては長崎県で最大の平野であったが、諫早湾の干拓地ができて県内2位になった。つまり比較的豊かな土地である。またクジラの回遊路にあり、捕鯨が盛んであったという。

 縄文時代から人が住んでいたが、弥生時代には大規模な集落があった。現在は原の辻遺跡として知られているが、魏志倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都であったと特定されている。朝鮮半島との経路にあり、文化の中継地であると共に、賊に襲われることが幾度とあり、特に元寇の時は凄まじい殺戮があったという。(壱岐市立一支国博物館展示および学芸員解説より、報告者まとめ)

第2の人生~流人弥兵衛

 港で8人はばらばらにされ、弥兵衛は10kmほど北の箱崎の明王山見性寺(けんしょうじ)に預けられ、近くの流人小屋で暮らすことになり、荒れ地を畑として与えられた。既に名字は無く、呼び捨てとなった。月に3回、住職に面会することが義務であった。

 弥兵衛は自分の畑を作るだけでなく、近隣の人々の畑作業を手伝ったが、農作業の手際が良く、評判になった。故郷の但馬ではすぐに凶作になるので、そのぎりぎりの状態の中で培った農業技術が、壱岐でも活きたのだ。またクジラの油にまみれて作業をする鯨組にわらじを提供したが、その滑りにくい機能が評判になった。

 海に囲まれた壱岐島では塩害が激しい。山中の但馬では経験をしたことのないものであった。そこで畑を柿や栗の木で囲った。さらに島では多くある棕櫚も植えた。

 1748年に歴史的な大風が吹いたが、弥兵衛の畑は塩害も無く、無事であった。これを見た近所の百姓達は次第にその知恵に学んだ。柿は酢や柿渋の原料になるという副産物も生んだ。弥兵衛は人々の信頼を得ていった。

 島に来て15年が経った。一緒に流されてきた仲間たちは全て死に、弥兵衛一人になってしまった。そんな時に、弥兵衛は杉の植林計画を立ち上げ、住職の許可を得た。島に来たばかりの頃の弥兵衛は生き延びることだけに精一杯であったが、ゆとりができた現在は、島の人々に喜んでもらえる事業に生きがいを見出そうとしていた。種から苗木を作り、山を切り開いて植林をしていった。杉林は徐々に拡大し、弥兵衛はまず間伐材や下枝を住民に提供した。

 さらに弥兵衛は読み書きができることが知られると、住民の手紙の代筆という仕事が増え、和尚の寺子屋の手伝いもするようになった。そして島に来てから50年が経った。

 85歳という高齢になっていた。

第一の人生~孫娘、やえ

 安永元年(1772年)、弥兵衛の息子、次郎右衛門の三女、やえは8歳であったが、家の仏壇に疑問を持った。おじいちゃんの位牌が無い、という不思議だ。その疑問に対し、次郎右衛門は子供たちに元文の一揆の話をした。やえは何も悪いことをしていない、偉いおじいさんがいること、遠い壱岐で生きていることを知った。(心が強くつぶやく、会いに行きたい。)

 翌年の初夏に、おばあさん(ひで)はあの世へ旅立った。このことがやえの心を開放した。父母に、弥兵衛じいちゃんに会いに行く決意を語る。そのために、交通の自由が得られる尼になると。わずか9歳の子供の、浅はかとしか思えない願いを両親が聞き入れるわけもなかった。

 早暁に、やえは決意を持って家を出て、約6kmの道のりを矢名瀬村の桐葉庵(とうようあん)に行き、庵主清月尼に出家を願い出る。先日亡くなったおばあさんのために、毎日祈りたいというのが理由である。連絡を受けた両親が来るが、やえの決意の前に、それを認める他なかった。しかしやえは壱岐におじいいさんに会いに行くという本当の目的は、両親以外に決して言わなかった。その時も、その後も。

第二の人生~孫娘、全鏡

 やえは全鏡という法名を与えられた。宗派は曹洞宗である。鏡というものは炎でも月の光でも、自分の中に溜めることはことなく、全てを反射して周りを照らす、そのように在りなさい、との意味だという。

 そして1789年正月松の内明け、全鏡25歳の時に、清月尼に壱岐行きの願いを初めて告げた。しかし仏門に入るということは、家族を捨てることである。この願いはわがままにすぎない。すぐに答えは得られなかった。これは清月尼がひとりで回答できる問題では無い。

 清月尼はいろいろと根回しをしたのだろう、梅雨も明けようとする頃、全鏡に道中手形と路銀を授けた。全鏡はふるまいを男のようにとのアドバイスを受け、「但州矢名瀬村桐葉寺 僧全鏡」と書かれた手形を懐に出立した。

 野村に寄って別れを告げてから、日本海を右に見て全鏡の旅は続いた。鳥取で壱岐に渡る船は無いと言われた。行く先々の港で聞いたが、隠岐行はあっても壱岐は無い。この海をどう渡れば良いか、心細い日々が続く。そんな中、下関の覚性庵で、福岡にある安国寺が壱岐の暦応寺と親戚筋にあるという情報を得た。海峡を小舟で渡り、小倉から福岡に向かった。

二つの第二の人生~全鏡と弥兵衛の面会

 安国寺に飛び込んだ全鏡は、和尚に全てを話し、加護を願った。和尚は彼女の話に心を打たれて、壱岐に渡る手はずを整えてくれた。ただし壱岐にとどまることはできず、船は5日目に引き返すので、一緒に戻らなければいけない。月に1度の船便であるから、毎月会うことができると。そして壱岐の暦応寺住職への手紙をいただいた。

安国寺(2016年10月)

 早朝、全鏡は船底に隠された。何も見ることができぬまま、船は玄界灘を渡っていく振動だけを伝えてくる。やがて郷ノ浦港に着く。人夫たちが荷を下ろし、あたりが静かになり、そして今なら誰も居ないからと、船底から出されて港に降りた。

 12kmの道を辿って暦応寺に着いた。そして和尚に手紙を渡し、これまでの仔細を説明した。すると和尚は我がことのように喜んだ。この霊麟和尚は1、2か月前まで見性寺に居て、老齢の弥兵衛の面倒を見ていた人だった。すぐに使いの者が走り、弥兵衛は暦応寺に呼ばれ、そして、壱岐で初めて座敷に上がることを許され、孫娘と抱き合った。

それから

 弥兵衛は3本の楠の苗を全鏡に託した。1本は弥兵衛の母親の実家へ、1本は弥兵衛の妻の実家へ、そして1本は野村の実家の庭にと。全鏡はすぐに野村に戻り、弥兵衛が無事でいることを報告し、苗を植えた。弥兵衛の代わりに故郷に帰る苗は、ご赦免の代わりだと、皆が喜んだ。全鏡はすぐに博多の安国寺に戻り、月に1回の船で壱岐に渡った。そのような生活が3年続いた。そして1792年8月22日、弥兵衛は人生の幕を閉じた。島の生活は53年に及び、享年88であった。遺骨は2つに分けられ、野村と壱岐に葬られた。

壱岐の弥兵衛の墓の入り口(2016年10月)

弥兵衛の墓(右)と2つの流人の墓。弥兵衛の墓の正面には彼の戒名が刻まれている。側面に俗名。
一方流人の墓は無名の自然石である。

 霊麟和尚は全鏡の帰郷にあたり、弥兵衛に戒名を授けた。
「吉祥院玄境了義居士(きっしょういんげんきょうりょうぎこじ)」

 流人の戒名としては立派すぎるが、和尚は弥兵衛の生涯にふさわしいと。意味は「遠く故郷を離れた玄海の果てで、人々のために自分を犠牲にした生涯を送ったひと」であり、流人ではなく、このような人として故郷の野村にお連れ下さいと。

 全鏡は1793年に帰郷し、遺骨を墓地に収めた。出家した身の全鏡は実家に戻ることはできず、円明寺を訪ねる。和尚は全鏡の労苦をいたわり、そして新たな法名「心諒(しんりょう)」を贈った。まことの心を持った人という意味である。そして円明寺の末寺である水月庵(臨済宗妙心寺派)の庵主となる。

 そして1803年12月、弥兵衛ら22名が赦免になった。名誉が回復され、村人たちは晴ればれと犠牲者たちのことを語ることができるようになった。心諒尼も弥兵衛の壱岐での行いを心ゆくまで話すことができた。

弥兵衛の読みであるが、柴田東一郎氏が採用している(やへえ)を本書では用いたが、
この説明板では(やひょうえ)である。また年齢であるが、柴田氏の文献1では83歳であるが、年齢の整合性を図ると88歳となるので、これはこの説明板の数値を用いた。
墓に至る道端の説明板(2016年10月)

 1843年1月18日、心諒尼は79歳の天寿を全うした。「無相心諒尼首座」。そして昭和3年(1928年)に改めて「妙心前堂水月中興無相心諒尼座元」との法名が贈られている。

柴田東一郎氏のこと

 私が小山弥兵衛のことを知ったのは日本経済新聞の文化欄であった。いま日経新聞アーカイブを検索すると2014年12月22日である。氏が執筆した本が市販流通していないので、手紙で氏に問い合わせると、さっそく本と資料集のコピーを送ってくださった。このセカンドライフシリーズに加えたいという目的も伝えた。ただしこの頃から仕事などが忙しくなり、セカンドライフ列伝を書き進めることが困難になってしまった。それでも2016年10月に壱岐島を訪問し、取材をすることができた。それからすぐにでも書くつもりであったが、それができないままに2020年になってしまった。

 改めて調べると、柴田氏は2017年12月21日に亡くなったと、神戸新聞にあった。満84歳。この拙文を生前に読んでいただけなかったのは残念であった。

 他のセカンドライフ列伝と異なり、資料は氏から提供されたものだけであり、本稿はほとんどアドリブを入れずに忠実に要約したものである。この物語をより多くの人々に知っていただくのが柴田氏の願いであり、本稿がその一助になればとの思いである。
やっとコロナ時間を利用して書くことができた。

(2020.6.24)

参考文献

  1. 柴田東一郎;遥かなり壱岐 流人小山弥兵衛と心諒尼の物語、北星社(2000.9)
  2. 柴田東一郎編;遥かなり壱岐資料集

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等を専門と一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。エレキギターのレッスンを始める。

http://www7b.biglobe.ne.jp/enomoto-pe-office/

 

Comments are closed.

ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

Page Top