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書評 「日本人よ、かくあれー大和の森から贈る48の幸せの見つけ方」 ウェッジ 岡本彰夫(著),保山耕一(写真)

by staff on 2021/4/10, 土曜日
 
タイトル 日本人よ、かくあれー大和の森から贈る48の幸せの見つけ方
単行本 176ページ
出版社 ウェッジ
ISBN-10 4863102305
ISBN-13 978-4863102309
発売日 2020/8/19
購入 日本人よ、かくあれー大和の森から贈る48の幸せの見つけ方

「日本の魂がここにある。日本人すべてに読んで欲しい、心豊かな現代の“五輪書”です」のさだまさしさんからのメッセージが目に飛び込んできた。読みはじめてみて、とても手ごわいもので、何度かひるんでしまった。はじめにで「自国の力だけでは、立ちいかぬ状態にさらされている事も自覚できました。天地自然に対して、あまりにも小さすぎる人間の存在も自覚することができました。過度の経済追求への虚しさも覚悟できました。つまりこれらの案件に対して、これからどうして生きていくかを思い定めねばならないのです。」と書かれます。

第1章は「誇り」と「決まり」を大切にする

一ツ松(やまにやまれる想いで動く)の所で

かくすればかくなるものとしりながら
     やむにやまれぬやまとだましひ 吉田松陰
われなわで誰かは植えむひとつ松
     こころして吹け志賀の浦かぜ  明智光秀

「史実はどうであったかはわからないが“俺がやらなきゃ誰がやる”ということである。人生には何度かこんな場面に遭遇することがある。逃げず隠れず“俺にしか出来ぬ”の決断のもと果敢に事をなしとげようとする“勇み”ということが必要なのだと思われてならない。」と語る。

伝承の重み(理想の姿は想いの中にある)の所で

「史実で無い事はとかく軽んぜられるという風潮がある。しかし本当にそんな扱いでよいのであろうか。講談や浪曲で喧伝された“忠臣蔵”には、史実に無い咄がワンサカ盛り込まれている。」「心の入らぬ教育よりも、こちらの方が、いかほど情に訴え、涙を誘い、心に染み入るか知れないと思う。故に私は“浪花節的教育論者”を自負している。義理や人情は古いのか。こんなご時世だからこそ、義理や人情といった古い規範が必要なのではなかろうか。」言いたい放題、やりたい放題のみを自由というのなら、誰が責任を持つのであろう。

鎖国のススメ(八割の幸せで生きよう)の所で

「いっそ鎖国したらどうだろう。疫病は入ってこない。たちまち食糧が無くなるから、休耕田は全て無くなり、農家も増える。都会暮らしに辟易した若者や、定年後の時を持てあます人々は帰農してくれる。すると地方も活気づく。」「平安時代にも国を閉じたが、国風文化が勃興し、日本人の智慧と技術と美意識が開花して独自の工夫が謳歌した。江戸時代もそうだ。日本を深く追求する事が始まり、全国の生産力が向上し、都市部と農村、中央と地方に人材が平均的に行きわたった。」「何より床の間が復活して、掛軸やら置物が日の目を見るから、表具や日本画や陶芸もかっての盛況を呈してくる。床の間は精神空間だから、心を大切にする事に気付き、心を養う必要性に目覚めると、企業から心を病む人が減り、無駄やヒマの大切さが判る。」とめどない欲望の渦に巻き込まれ、百二十パーセントの幸せを、すべての人が望むことによって、国を挙げて金儲けに突進して、自滅全滅の道を突進する我々を止めようとする途は最早、鎖国しかあるまいと思う、と言われる。

学問(真偽を照らし見るための鏡)の所で

「学校は学問するだけではダメである。人格の涵養をしない国は滅亡してしまうだろう。」鎌倉時代の名僧が「学問するは心を直さんためなり」とおっしゃっているそうだ。
   ◇学問をするのは自分の心を直すためである。
   ◇学問とは、その真義が何であるかを考えて、自らの心が正しいのか、
      間違っているのか、心理の鏡に照らして、誤りは正し、
        良い処は益々伸ばして努力することを言うのである。
   ◇勉学にいそしむとも、向上心の無い者、人のため、世のために
      生きようとする心が無い者には、天地の加護は与えられず、
        運にはめぐりあい難いのだ。
   ◇机上の学問では駄目だ。手足をやすめず修行する。つまり実践あるのみである。
      修業とは行うこと、活動すること、実現に向かって行動していく事である。

「日本は国土も狭い、物資も乏しい。この国を立派に存続させるために必要なのは人材なのである。人を育てる事こそ最重要であろう。」その根本は家庭そして学校と社会である、と。

第2章は神・仏・祖先をうやまう

儀式の解読(想いを未来に伝える)の所で

「大和を代表する神事に、十二月十七日の”春日若宮おん祭”がある。この祭礼の大きな特徴の一つに、音楽で神を祭るという形態がある。神楽・田楽・細男・猿楽・和舞・東遊・舞楽と実に様々な音楽が神前で奉納される。全てが日本芸能史を語る上で看過できない珠玉の古典芸能である。」「全国にはあらゆる形に発展をとげていった田楽が伝承されているが、おん祭の田楽は世襲で伝承され、その歴史をひもとくに相等しい古態を存している。」「儀式には後世に伝えるメセージが篭められているのだ。形に託して物や事、そして心や想いを未来へ伝えようとしたのが儀式である。」著者の故郷の祭礼では次のようなことが行われている。神酒だけは八ヶ村で神前の瓶子がいっぱいになるよう、銚子に入れて各村々より伝進する。つまり八つで一つなのだ。力を合わせよ、という事を毎年神の前で誓わされているのである。

第3章は自分のふるさとを知り、愛する

京の雅と奈良の鄙日(違いを楽しもう)の所で

「雅とは宮廷風のことで、優雅で品格があること。鄙とは田舎風のことで、簡素で素朴なこと。神事のなかで体得できたことが、春日若宮のおん祭では若宮本殿から神様が、お御所の御仮殿へと遷られて、その御前で数々の古典芸能を奉納し、神事が営まれる。」「御仮殿では神様に鄙をお楽しみいただくという趣向になっていることがわかる。雅の空間から鄙の空間へ、そしてまた新しくなった雅の空間へとお戻りになる。まさに日本の文化は、雅と鄙が交錯し、且つ双方を重んじると共に、これを賞でてきたのである。」こんな素晴らしい価値観を持ち合わせた、日本の文化をしみじみ味わってもらいたい。今日の雅を楽しんだ後は、大和の鄙を賞でるのも一興の旅となるのではなかろうか、と言われる。

第4章は人の話を我が事として考える

石工の誓い(死ぬ気で事に当たる覚悟)の所で

「高松塚古墳の壁画に、カビが生じた事件をご記憶だろうか。石室を開ければ問題がおこるのは必至で、責任の所在を明確にすることは出来難いとおもった。その厳しい世論を受けて解体修理を施すこととなり、数多の手練れが集められた。石を扱う職人として白羽の矢が立ったのは、奈良の石工・左野勝司氏であった。」「この人が自らの勘と経験を頼りとして見事、高松塚を解体され、その功によって、文化庁長官表彰と吉川栄治文化賞を受賞された。」「人間国宝でもない、芸術院会員にもならぬ、路傍の技術こそ、日本の技の根底をなすもの。本日石工の技がかくも価値ある賞を得た事は、今まで誰も見向きもしなかったその技に光が当てられたのだと思う。」とその宴席で述べられた。翌日佐野さんは、社務所へ饅頭を持って飛んで来られたそうです。「権宮司、ようオレの言いたいことを言うてくれた。アンタの挨拶が一番よかった!」と丁寧なお礼の言葉を言われたと。

K女の涙(“粧ひ”はイキミタママツリ)の所で

「君がやっている事は、イキミタママツリなんや。人はなあ、苦しいことや悲しい時がある。そんな時自分で自分をいたわってあげる。ほめてあげる事が大事なんや。これが生御霊を祭るということや。美しい着物を身に纏ってあげる。美味しい者を食べさせてあげる。綺麗に粧ってあげる。そうして自分を励ましてあげるのや。つまり“粧ひ”ということは、生きていく上で必要なことなんや」と。順風満帆の人には、言葉が心に入らないだろう。倒れて傷ついた人にこそ、忠告はしみわたっていくのである。

美しく老いる(何事も釣り合いが大事)の所で

「素晴らしい骨董を有して、ボロボロの風体では釣り合わぬ。いわゆる高価な骨董を持つなら、それなりの資格や条件が無いと、それは虚構に過ぎないということだ。」どんなに優良な企業でも、社員が幸せを享受し、創業者の家庭も整っていなければ釣り合いがとれていない。大社長でも奥方の前では縮こまっている人を何人も知っている。いくら財界の雄と称えられても、奥方に尊敬されず家庭内では只のオッサンに過ぎないなら、これも虚構であって、均衡が取れていないという事である。」しかし明らかに若い頃よりも美しくなった老人がおられる。“美しく老いる”ということは内面の素晴らしい人生をおくってきた人にしか、なし得ない結果なのではなかろうか、と言われる。

すたとら(円熟には長い時間が必要)

「たった一人の我妻にさえ尊敬されぬ人間が、人様の前に立って、偉そうなことを言っても、誰も賛同してくださることは無い。夫たるもの、妻には全てをさらけ出しているのであるから、妻は自分の素の姿を見知っている唯一の存在である。その妻に尊敬されようという人は、ひとかどの人という事になるわけである。加えて夫婦は一心同体であるからして、旦那に不都合があれば、すぐさまそれは妻に及ぶので、妻だけは夫に対して本当の事を言う。そもそも人間というものは本当の事を言われると、怒り出すという癖を持ち合わせていて、図星を突かれると慌て出すのである。」「大和柿は突然変異で甘柿になったが、そもそも突然変異というものは、ふつうにしていては起きない物だそうで、災害で枝が折れるとか、危険に遭わぬと、進化しないのだという話を聞いたことがある。」人生もあまたの苦難を乗り越えねば、夫婦関係も円熟せず、家族も進化しないのだ、といわれる。良い仕事の出来る人は、家庭も整い、幸せな人でなければならないのである。

余白(無駄と思われることを大切に)

「若い時、神社への通勤途上、その日の段取りで頭がいっぱいになり、足元ばかりを見つめながら歩いていた。ちょうどお昼時分になって流れてくるラジオ放送が耳に入ってきた。“奈良公園はサルスベリが満開を迎えています”と。毎日歩いているその道で、サルスベリなんか一本もみたことがない。翌日の朝、歩きながら頭を上げてみると、果たして、頭上はサルスベリが満開であった。それ以来、歩みながら花を賞で、鳥の囀りに耳を楽しませる様な人生を送らねばならないと心に決めた」余白は無限の空間、未知へのステップだ。余白は希望なのである、と語る。

おわりに ー 祈りの風景(保山耕一さん)

「私が大和で最も美しいと感じる桜、それは春日大社南門の脇で参拝者を迎えるように咲く枝垂れ桜である。」「私が大和で撮影する被写体はまさに祈りの風景なのだ。レンズを向ける風景の奥には果てしない祈りの時間が続いている。」「満開の枝垂れ桜を前にして、今日までこの枝垂れ桜が生きてきた時間を想像してみると、途切れることのない祈りの時間がこの枝垂れ桜をこれ程までに美しく咲かせているのだと、心で理解することが出来る。」

今、コロナの経験を超え、人が人として再考を促される時なのだ。

(文:横須賀 健治)

 

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