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私にとって横浜は「diversity」 学校法人石川学園理事長・学院長 池田俊一さん

by staff on 2021/5/10, 月曜日

 

池田俊一さん
学校法人石川学園 横浜デザイン学院
学校法人石川学園 杉之子幼稚園
理事長・学院長
池田俊一さん
 
お名前 池田 俊一
(いけだ しゅんいち)
お生まれ 1956年9月生
ご出身 葉県市川市
ご家族 妻子 4人家族
お仕事 学校経営(専修学校・幼稚園)
HP 横浜デザイン学院
杉之子幼稚園
趣味 トレーニング、旅行、読書、日本拳法4段

 

幼少時代・・・

私は千葉県市川市で生まれで、3歳まで市川で過ごしました。私の父親は当時、東芝系列のキャッシュレジスターの製造メーカーに勤務しているサラリーマンでした。私が3歳の時に家族は神奈川県鎌倉市に引っ越し、幼稚園と小学校3年生までは鎌倉市腰越で過ごし、その後、父親の転勤により静岡県東部に位置する駿東郡清水町に移りました。小学校6年生の時にすぐ隣に位置する沼津市に移り、高校を卒業するまで富士山が絶景の沼津市で青春時代を送りました。高校を卒業してから大学受験のために浪人をしたのですが、父親が東京勤務となったために、再び引っ越して鎌倉に戻ってきました。

大学時代・・・

浪人を経て慶応大学法学部に入学し大学には鎌倉から通いました。大学時代は日本拳法部に所属して、毎日練習に明け暮れ、日々防具をつけて蹴ったり殴ったりのたたき合いをやっていました。当時、梶原一騎の「空手バカ一代」というマンガが流行ったのですが、体を鍛えぬくことに憧れのようなものを持っていて、真剣に強くなりたいと思っていました。日本拳法部は当時、大学に道場がなくて、等々力にある新日本プロレス道場で練習していました。当時の新日本プロレスにはプロレスラーのアントニオ猪木、坂口征二、藤波辰爾、山本小鉄、そして学生時代一緒によく遊んでくれたタイガーマスクの佐山さとるなどがおりました。ときどき、横浜市港北区にある慶応大学の日吉キャンパスで練習するときもあったのですが、当時は日本拳法部と同じように道場がなかった少林寺拳法部が同じようにキャンパスで青空のもとで練習をしていました。現在は日本拳法部と少林寺拳法部は慶応大学日吉キャンパスに建てられた同じ道場で練習をしています。少林寺拳法部の方の同期には現在衆議院議員をされている石原伸晃氏がいました。私は学生時代に激しい運動をしたせいか、現在、左膝変形関節症や狭窄症にかかり足腰が痛く、体は満身創痍の状態です。若い時に相手を蹴ったり殴ったりしていたのですが、これはその報いかもしれません。これを因果応報というのでしょうか。当時はベンチプレスで140kgを持ち上げることができました。一方の勉学の方では映画のアラビアのロレンスにあこがれて、中近東の政治を学ぶゼミに入っていました。いつかは中近東の砂漠を見てみたいと思いましたが、イスラム諸国は一部を除きお酒を飲めないから、実際には暮らせないなと思ったりしていました。でも、イスラム諸国を相手に貿易の仕事をしてみたいと思っていました。

社会人として・・・

日本拳法部のOBの紹介で一部上場の自動車関連の部品を製造するメーカーに就職しました。同期が120人ぐらいおりました。今はやっているのかどうかはわかりませんが、新入社員研修でQC(Quality Control)を徹底的に勉強させられました。パソコンもない時代で、ましてやPowerPointというアプリケーションソフトさえ存在しない時代でしたから、模造紙に魚の骨(特性要因図)を書いて、徹底的に無駄を省くにはどうしたらよいかというテーマで、経費節減について同期と討論しました。当時は大学を出たばかりで、財務諸表であるBSやPLなどもよくわからず、固定費や変動費などの言葉も理解しないで、新入社員同士がよくも喧々諤々と議論していたことに今更ながら驚かされます。若さのパワーでしょうか。当時は若かったせいもあり、会社の歯車になるのは嫌だとか、このまま歳をとっていき、エスカレーター式に役職が上がって定年を迎えるという、まさに先が読める将来に恐怖を覚えました。このようなことを考えられたのは、当時は経済が右肩上がりの経済だったからだと思います。終身雇用制という言葉は今では死語になってしまったのに、今から思えば信じられない話です。若気の至りかもしれませんが、生意気にも会社の歯車になるのは嫌だというような考えは、何と浅はかかと赤面する思いです。なぜなら、歯車が一つ欠けたら、その組織は満足に機能しないのですから。見方を変えれば、当時は歯車になれることは幸せなことだったと思います。

入社したのが自動車の部品を製造している会社でしたから、社風は極めて真面目で保守的で居心地はあまり良くなかったです。車の部品を製造していることもあり、交通違反に異常なぐらい厳しい会社でした。交通違反を犯した場合は、上司への報告だけでなく、朝の朝礼でみんなの前に出て謝罪して、自ら懺悔することをやらされていました。東京支店の営業部に配属になってから、別の部署の課長が原付(50CC)のバイクで酒気帯び運転で切符を切られたことがありました。その課長はそのことを報告して謝罪したのですが、すぐにその課長は降格になったのを目の当たりにして、信じられませんでした。会社の休みにプライベートで犯した違反にもかかわらず、ここまで厳しくされることに関して、この会社には長くはいれないなと感じました。

結局3年でこの一部上場の会社を退職し、退職後にふとしたご縁で知り合ったベンチャー企業の中近東の専門商社の社長と出会い、そこに転職しました。当時、まだベンチャー企業という言葉は市民権も得ておらず、根付いてはいなかったのですが、その社長はカリスマ性もあり、その商社自体に若さと勢いがありました。中近東の政治を大学時代に勉強したこともあり、中近東で仕事をしたいという夢もありました。イスラム諸国ではなくて、当時の稼ぎ柱の国であるイランに行きたかったのですが、社内で行われた英語の試験で成績が悪かったこともあり、アメリカで英語を勉強してこいということになり、1986年にロサンゼルスに赴任することになりました。赴任当時、米国のスペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発事故の直後で、街中が半旗を掲げていたのを覚えています。ロサンゼルスにある現地法人の会社と新たに作ったフロリダ州マイアミのオフィスとを兼務することとなり、ロサンゼルスとマイアミを行ったり来たりするような仕事をしました。その後、前任者の離職で中南米のパナマの仕事をやらざるを得なくなり、ロサンゼル、マイアミ、そしてパナマを行ったり来たりする生活となりました。扱っていた商品は、通信機器、家電、写真フィルムなどです。アメリカ国内のみならず、中近東や中南米の国々を輸出する仕事やアメリカ製品を中近東で売る三国間貿易の仕事もしていました。1990年8月に起きたイラクによるクウェート侵攻により、1991年1月にペルシア湾岸地域の多国籍軍がイラクに攻撃するという湾岸戦争が始まって、立ちどころに中近東向けの仕事がストップし、販売代金の回収が困難となりました。イラクに駐在員達も出国もままならず、人質状態で、当時でいうところの「人間の盾」となりました。不測の事態が起きると経営者の本性が出るもので、会社内部が狂瀾怒濤の様相となりました。私はアメリカの永住権を持っていたのですが、自分の父親が病気になったことや私自身も独身でもあり、もう一度人生をリセットしたいという気持ちで、1994年に日本に戻り、会社を退職しました。通算で約9年、海外で駐在員をしていたことになります。

横浜出身の伴侶はどこで・・・

海外での生活が長く、独身貴族で小金も持っていたのでしばらくのんびり過ごす予定でしたが、周囲の目もあり何かしなければと考えていた時に、新聞で慶応ビジネススクールの存在を知りました。その試験を受けて無事に合格して2年間、ビジネススクールに通い、経営学を学びました。ビジネススクールでは企業派遣の学生が多く、平均年齢は30歳前後で30代半ばの私は少しばかり年齢が高い方でした。私は現場での体験を理論として学ぶことで、初めて知識として自分のモノになるという「格物致知(かくぶつちち)」の考えを信条にしていたので、理論で学ぶビジネススクールでの2年間は刺激的で有意義な毎日でした。企業派遣の学生は会社内の選抜試験を受けてビジネススクールに来ているわけで、本当に優秀な人たちが多く、まさにブルーワーカーの私にとって、彼らとの出会いはまさに未知との遭遇でした。今でもこの当時のビジネススクール時代の仲間と仕事でもプライベートでも付き合っております。特に当学園の評議員にはこのビジネススクール時代からの友人に務めていただいております。蛇足ではありますが、ビジネススクール時代に現在の妻を鎌倉の友人に紹介され、卒業後に結婚致しました。

※格物致知(かくぶつちち)
四書五経のうちの一つ『大学』の中にある言葉。書き下しは「知を致すは物を格すにあり」。人間本来の知恵、生きる力は、実際に物事にぶつかり体験することによって初めて得られると解釈されている。

石川学園とのご縁はどのようにして・・・

慶応大学のビジネススクールで経営学修士(MBA)を取得しました。ビジネススクール卒業後は、テレビ会議システムで日本進出を目指していたアメリカの企業の日本法人の仕事や前職の商社時代の先輩社員が設立した商社の仕事、それ以外には大学時代の友人の広告関係の会社に関わっていました。

結婚してから、横浜デザイン学院の上にあるマンション(横浜市西区)に住んでいました。この学園は、1948年に妻の親族が「公認戸部洋裁専門女学院」として開校した洋裁学校です。戦後、女性の自立を目指して日本全国に洋裁学校が雨後の筍ように創立されたと聞いています。ここも最盛期には1000人以上の学生がいたそうですが、私が結婚した頃は、専門学校の服飾・家政分野にあたる「洋裁」自体が衰退していて、入職したての頃は70人程度しか学生がいませんでした。幼稚園の方は園児の募集は順調でしたが、専門学校の方はこのままいけば、学生生徒が集まらずに廃校になって仕舞いかねないと危機感を覚えました。そのことが妻の方の家業である学校経営に携わったきっかけです。あれから20年あっという間に過ぎましたが、どんな組織もそうでしょうが、改革を断行するにあたっては紆余曲折いろいろありました。まだまだ微々たる力かもしれませんが、当時より学校の様相は大きく変わったと信じます。

私が学校経営に携わってから、2001年に横浜デザイン学院に校名を変更しました。学校名を変えたと同時に、服飾家政分野の学科であるファッション科に加えて、新たに文化教養分野の学科であるグラフィックデザインやデジタルデザインなどのデザイン分野の学科や情報ビジネスの学科を新設しました。

今後、ますます18歳人口は減少するということと、神奈川県は大学進学率が高く専門学校への入学者が減少していくだろうと考えて、日本語学科を設置して、海外から留学生の受け入れを開始しました。このことは、海外で仕事をしていた経験が生きたのではないかと思います。現在、コロナ禍のために海外からの留学生が入国できない状態ですが、日本語教育の関連団体と共に、永田町に留学生の入国の緩和を陳情する活動を連日行っています。早くコロナ禍が終息して、留学生の入国が再開されることを待ち望んでおります。

横浜デザイン学院

横浜デザイン学院について

横浜デザイン学院は中学を卒業してから入学する高等課程(3年制)と高校卒業以上が入学する専門課程(2年制)の二つの課程のある専門学校です。高等課程は高等専修学校ともよばれ、学科には総合デザイン科があり、デザイン、マンガ、ファッション専攻の3コースに分かれております。高等課程は通信制の高校と提携しており、普通高校の卒業資格が取れます。コースにはデザイン、マンガ、ファッション専攻があります。学生たちは各々の好きなことや得意なことを一生懸命がんばっています。

専門課程(本科)には総合デザイン科、マンガ科、ファション科、総合日本語科、日本語研究科の5つの学科に分かれております。専門課程(別科)には初めて日本語を学ぶ留学生のために日本語学科という学科があり、初めて日本留学をした留学生は日本語を徹底的に学びます。ここを卒業してから留学生は大学、大学院、専門学校、あるいは就職などの次のステップに進みます。昨年末までで横浜ビジネス学院には約480名の学生が在籍していました。そのうち6割が留学生で残り4割が日本人学生です。留学生専門の学科が多いのですが、ゆくゆくはこの割合を半々にしていきたいです。昨年からのコロナ禍で留学生が今なお来日できずにおりますが、今回のコロナによるピンチをチャンスにして、オンライン授業など様々なことにチャレンジしていきたいです。

日本語学科の学生たちと

横浜デザイン学院の教育理念 「一燈照遇」について

横浜デザイン学院の教育理念は、天台宗の開祖である最澄の言葉と言われている一燈照隅(いっとうしょうぐう)を掲げています。最初は一隅を照らす小さな灯火でも、それが十、百、千、万と増えていけば、やがては国を照らす大きな灯りとなる。一人ひとりが照らす灯りは小さくとも、それが集まれば国を照らす大きな灯りとなり、それを一燈照遇万燈照国といいます。横浜デザイン学院を卒業した学生たちが、卒業後に社会に出てから、いかなる組織に所属しようとも、その場その場になくてはならない人となる。なくてはならない人がどんどん増えていけば、やがて日本は素晴らしい国となる。このような意味がこの教育理念に含まれています。まさにこの一燈照隅のような人財を輩出することが、私たち学園の使命と考えています。

この一燈照遇の教育理念の他に私が学生達に教えていることは、京都セラミックスを創った現代の名経営者である稲盛和夫氏が唱えた「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」の方程式です。いくら能力があっても熱意がなければ大きくならない。熱意は能力に勝る。しかしながら、その前提として「考え方」がしっかりしていないといけないこと教えています。「熱意」と「能力」の数字の範囲は、0~100までの範囲ですが、「考え方」だけはー100から+100までの範囲で、「考え方」自体がマイナス(―)であれば、この「人生・仕事の結果」の方程式の積は膨大なマイナスになってしまいます。「考え方」こそが人間学の中心であり、稲盛和夫氏が再三にわたって語っている「利他」の精神ではないかと思います。人生において、この「考え方」というベクトルが極めて大事だと思います。

杉之子幼稚園について

横浜デザイン学院には、同じ学園に併設する杉之子幼稚園もあります。杉の子幼稚園では3年保育と2年保育、そして横浜型預かり保育を行っております。杉之子幼稚園の教育理念は「遊遊一心」(ゆうゆういっしん)です。夢中になって、一心になって遊ぶことは、子どもの活力の源であり、遊びは学びに、学びは育ちに、育ちは心の形成へと繋がっていきます。遊びを通して子どもたちの五感を磨き、子どもたちの主体性、独立心、知的好奇心を磨き、生きる力と日本人の心を育んでいきます。教育方針には“みて、ふれて、かがやくひとみ”をあげて、一心になって遊んだ時に見せる子どもたちの表情の瞬間を大切にしています。

杉之子幼稚園

泥遊び

横浜デザイン学院の留学生の募集に関して

2001年に日本語学科を設置してから、外国人留学生の募集を開始しました。私自身がこの時、初めて学校法人の仕事に入職したばかりで、募集についても右も左もわからない有様でした。兎にも角にも、留学生を募集しないと生徒納付金収入が入ってこないわけで、そうなると教職員達への給料が払えなくなるので留学生を集めることに必死でした。日本語学科がスタートした頃は、主に中国や韓国からの留学生募集をしていましたが、中国の東北地方から入学させた中国人留学生が、不法就労をするために、途中から行方をくらましたことがありました。そのままにしておくと、入国管理庁から在籍管理が悪い学校とみなされ、ペナルティーが科されてしまうので、逃げた学生を捕まえるために夜の街に繰り出したことが何度かあります。信じられない面白い話はいくつもあるのですが、ここでは伏せておきます。

私自身も中国、韓国、タイ、ベトナム、ネパール、ミヤンマー、インドネシア、モンゴルなどのアジア諸国やフランス、イタリアなどのヨーロッパの国々に留学生の募集に行きました。神奈川県の専門学校では一番早かった方ですね。2020年末まで30か国を超える国からの学生を受け入れていました。留学生達は日本語学科卒業後、全国各地の大学や専門学校などに進学しています。もちろん、内部進学で私たち横浜デザイン学院の専門課程に内部進学するものもおれば、日本語学科を卒業後に直接、日本で就職する留学生もおります。

留学生の中には日本のアニメやマンガにあこがれて来日する学生がおります。タイのバンコクの書店に行ってびっくりしたのですが、タイ語に翻訳された日本のマンガ本が本棚いっぱいに並んでいたことです。留学生達と話していても、アニメやマンガに詳しくて私はついていけません。日本文化に憧れて日本留学を決めた留学生が数多くおりますが、それだけ日本文化を代表するデザイン、マンガ、アニメ、ファッションには留学生を引き付ける大きな力があるのでしょう。もちろん、留学先に日本が選ばれるのは日本文化への憧憬もありますが日本が安全であること、欧米諸国などと比べて学費が安いこともあります。それに加えて、週に28時間のアルバイトが合法的に認められていることも理由の一つでしょう。なぜならば、スポンサーたる経費思弁者が富裕層でなくても来られるからです。現在、コロナ禍で来日できない留学生にモチベーションが下がらないようにオンライン授業をやっています。但し、ヨーロッパなど国々へのオンライン授業は、時差などの時間的な制約もあってなかなか難しいですね。一日も早くコロナ禍が明けて、入国できない留学生が大手を振って入国できる日が来ることを待ち望んでおります。

専門学校の役割について

数年前までは、専門学校と大学の違いが議論された時によく専門学校は教養よりも専門分野で即戦力になる人財を育て、大学は4年間かけて専門と教養を身につける人財を育むところと言われてきました。人工知能(AI)やロボット等の出現により、日本の労働人口の半分がコンピューター技術に代替される可能性が高いと言われています。この話をしたのはオックスフォード大学のマイケル・オズボーンという大学の先生ですが、この話は何と6年ほど前になります。医者になるためには大学の医学部を卒業してから医者の免許を取得する必要がありますが、専門学校で行う職業教育も、もしかしたら将来その仕事がなくなる可能性があります。この変化とスピードの激しい時代は、ソフトもハードもその製品寿命はますます短くなっていくのではないでしょうか。私ども専門学校で学ぶデザイン、マンガ、ファッションなどは感覚的認識が伴う感性の部分と手を使う作業がかなり多いので、すぐにAIやロボットにとって代わることにはならないかもしれません。でも間違いなく、AIやロボットの出現、そして今あるコロナ禍の中で人の仕事のやり方が大きく変わることは間違いないように感じます。専門学校は分野別に仕事の種類を分けておりますが、コンピューターやSNSの台頭により、その区分けが曖昧になりつつあります。仕事とは何かについては、第一に、人は仕事で生活の糧を得る。第二に、人は仕事を通して人と繋がる。第三に、人は仕事で社会に貢献する。第四に、人は仕事で自己を磨き成長する。
大学に進学しようが専門学校に進学しようが、どちらでも構いませんが、好きなことが自分の仕事になればこんなは嬉しいことはないと思います。これを喜楽労働というそうです。これら仕事の大切な要素が身につく場所こそが専門学校で実践している職業教育ではないかと思います。
どんな職業教育でも構いませんが、たまたま横浜デザイン学院ではデザイン、マンガ、ファッションを教えております。畳水練ではなくて理論と実践とを一体化する場所こそが専門学校と思います。技術的なことは時代とともに変わっていきますが、仕事をする姿勢(マインド)は変わらない。「この人と一緒に仕事をしたい」と思ってもらえる人材をこれからも輩出していきたいです。

※畳水練(たたみすいれん)
畳の上の水練とは、理論や方法を知っているだけで実際の役には立たないこと

地域企業や団体との連携は・・・

毎年、卒業制作展等色々なイベントを開催しています。ファッション科では、学生が自らモデルになって、自分の作品でファッションショーをやります。モデルかと思うぐらいの美人の留学生が結構おります。
行政や企業とのインンターンシップにも積極的に取り組んでいます。横浜西消防署のポスターや久光製薬のパッケージ等、学生たちが職業実践専門課程として皆様の目に触れるものも作っています。横浜中華街の萬陳楼の会社案内や西区の藤棚商店街の案内の制作など、地元の企業との連携にも力を入れています。青年商工会議所の国際大会では、パネルディスカッションにスウェーデンとイタリアの学生が話し合いに加わったこともありました。企業連携は横浜と密着するためにも大歓迎です。これからは日本語学科で培った日本語教育のノウハウを、特に横浜には外国人のお子さんがたくさんいますので、留学生だけでなく他の在留資格で日本に在住する外国人の間にも広げていきたいです。もちろん、その場合は日本語教育を必要としている子どもたちへの行政のバックアップが大切ですが、私たちが手助けしていく、このような地域に根差した活動を展開していきたいと考えています。これが地域貢献だと思います。

ファッションショーの写真集

卒業制作展を訪問

あなたにとって「横浜」とは・・・

最近読んだ本の中でもと神奈川県知事を務め、現在参議院議員である松沢成文氏の本に「横浜を拓いた男たち」という本があります。この本に横浜を舞台として活躍した破天荒力の男たち7名が紹介されています。泰平の眠りを覚ます蒸気船のペリー、初代日本総領事になったハリス、埋め立て事業で横浜を造った高島喜右衛門、明治学院大学を創設したヘボン博士、そして言わずと知れた慶応大学を創設した福沢諭吉。生糸貿易と三渓園で有名な原三渓、そして浅野財閥を作り上げた浅野総一郎など。この誰もが破天荒と言われる人たちであり、その破天荒な起業力が横浜を創ったとあります。戦後GHQに占領され横浜もアメリカ軍が進駐してきましたが、そのアメリカ文化をも吸収して横浜は発展してきました。横浜港は海外と繋がる貿易港でもあり、貿易を通して様々な業種が発展してきました。このことからすると、横浜は破天荒力な事業家の街でもあり、まさに坩堝のようにいろいろな文化を吸収してきた多様性の街ではないかと思います。ひと言で言ってしまうと今巷でよく言われる「diversity」ということでしょうか。

<取材を終えて>

2021年2月13日(土)の夕方、私たちは数人で、横浜デザイン学院で開催されている「卒業制作展」を見学に行きました。会場では学生さんたちが創造した作品(洋服・工芸品・まんが・アニメーション等)に圧倒されました。説明してくれる学生さんたちの熱意が感じられ、池田理事長が仰っていた、教育理念の「一燈照遇」、自分のいる場所を努力して照らす人になろうという精神が学生さんたちに伝播していることを感じました。
展示作品の中で目を引いたのは、海の環境問題をテーマにデザインされた衣装でした。(ファッション科 吉本梨花さん制作)その後、この衣装は3月27日・28日に開催された「かんきょう文化祭」にも展示されました。
かんきょう文化祭での展示はこちらをご覧ください。
https://www.ydc.ac.jp/pro/news/45343

そして取材の日、池田理事長は熱くご自分の教育理念を語ってくださいました。高等専修学校、専門学校、日本語学科の学生さん、様々な境遇の若者たちに「この人と一緒に仕事をしたい」と思ってもらえる人間になってもらいたいという池田理事長の想いが結実することを願ってやみません。

 

(取材/渡邊桃伯子)

 

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ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

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