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しあわせの「コツ」(第53回) 「ぬか床」はどこ?

by staff on 2021/5/10, 月曜日

第53回 「ぬか床」はどこ?

 

毎年、ノーベル賞の話題が出る時期になると、日本では決まって「今年こそ村上春樹がノーベル文学賞を受賞するのでは!」と、メディアが騒ぎ立てます。しかし、評論家の松本健一さん(2014年死去)は、どれほどハルキフィーバーがあろうと、「村上春樹は決してノーベル文学賞を取れない」と一貫して主張していました。

なぜでしょう?

2006年、出版界が「今年こそ春樹か!」と盛り上がっていた時期に、松本さんはあるインタビューで「今年、村上春樹さんはノーベル賞を取りますか」と訊かれ、即座に「取りません」と答えています。「じゃあ、誰が取ると思いますか」との質問に、「トルコのオルハン・パクムでしょう」と答えました。

実際、その年のノーベル文学賞は松本氏が言った通り、『わたしの名は紅』の著者であるオルハン・パクムでした。村上春樹がノーベル賞を取れない理由について、松本さんは松岡正剛さん・隈(くま)研吾さんとの会談の中で、こう語っています(「匠の流儀」松岡正剛編集 春秋社)。

「村上春樹はたしかに世界中で読まれています。なぜあんなに世界で受けるかというと、朝起きて紅茶を飲んで、きれいな音楽を聴いて、美しい絵画を見て、都市の物語が始まる。これは世界的に通じるわけですよ。つまりイタリアでもフランスでも韓国でも中国でも売れるし、もちろん日本でも売れる。つまり村上春樹はどこの国のものでもないから、世界中で受けるんです。でもそういうものをノーベル賞が評価することはないんです。」(前掲書p.279)

松本健一 評論家・麗澤大学教授

それに対して、その年の文学賞を受賞したオルハン・パクムの「私の名は紅」は、16世紀のイスタンブールの細密画師の世界を扱ったもので、文明間の衝突と共存、イスラム原理主義の動静などを細密画さながらの精緻な構成で綴った作品だそうです(まだ読んでいないので、詳しいことは書けません)。描かれている時代は16世紀でも、現代にも通じる問題が西欧社会でも話題となり、2001年9月11日の数日前、「ニューヨークタイムズ」で大きな紙面を割いて紹介されたそうです。

「私の名は紅」
オルハン・パクム著
藤原書店刊)

オルハン・パクムの作品にあって、村上春樹の作品にないものとは、一体なんでしょうか?

一言でいえば、作品に「作者が生きてきた文化のにおい」が感じられるかどうか、ということなのです。どこに国にも属さない、バーチャルな都市の話は確かに万国共通のテーマを扱うことはできますが、人の魂に触れ、ものの見方を変えるような影響を与えることはできません。前掲書で、建築家の隈研吾さんも同様のことを言っています。

「建築の場合は、文化のにおいのない建築家は、国際的にも活躍できないということがおこってきています。(中略)いまや世界中の建築家が同じ土俵で勝負しなくてはいけなくなった。(中略)となると、どの建築家に頼むかというときの決め手は、「キャラが立っているかどうか」ということに掛かってくる。つまりその建築家が背負っている文化のにおいが、すごく重要になってくる。」(前掲書p.266)

「文化のにおい」がする―それは自分が育った文化的土壌からどんな養分を、どんな風に吸い上げて自分のものにしているのか、ということです。ちょうど漬物が放つ、ぬか床と素材の出会いが醸し出すえも言われぬ香りのように。

外国人からそのことを指摘され、改めて自分の出自である日本文化に碇を降ろし直した人は大勢います。
世界的なパイプオルガニストの児玉麻里さんもその一人です。児玉さんはヨーロッパを中心に活躍しており、ご自身の演奏に自負もありましたが、ザルツブルグでモーツアルト協会の重鎮にこう言われたのです。「音楽は言語学と同じなのです。あなたは、外国人がいかに文法的に正確に日本語を話しても、聞いたとたん、外国人だと分かりますね。音楽もそれと同じなのです。」
本質を突かれた言葉に、児玉さんは衝撃を受け、悩みぬきました。そして、今までバッハやモーツアルトを演奏するだけだった音楽人生をがらりと変える決断をしたのです。

「日本人のDNAを活かし、日本人でなければできないオルガン音楽を創ろう!」そう決意した児玉さんは、1995年、筝と尺八とパイプオルガンという編成で「サウンド・オブ・ピース」を結成しました。以後、和太鼓や笛、声明など、日本の伝統的な楽器とのコラボレーションに取り組み、日本の歴史からテーマを得た曲を自ら作曲して「日本発の新しいクラシック音楽」のジャンルを開拓し、広く欧米で好評を博するようになったのです。

パイプオルガニスト 児玉麻里さん

一時パリを席捲した日本人のデザイナーたちも、「やつし」の美学(川久保玲)、折り紙(イッセイミヤケ)、和服のような直線の魅力(ヨウジヤマモト)といった、日本文化の下地があったからこそ、あそこまで世界に受け入れられたのです。
ノーベル文学賞の話に戻せば、カズオ・イシグロ氏が受賞したのは、彼が英国という「ぬか床」にどっぷりと漬かり、英国人の感性でものを書いているからです。

3次元世界に肉体をもって生きている私たちは、必ずどこかの文化圏(大体は母国語の文化圏)に属し、言語はもちろんのこと、考え方や立ち振る舞いなど、無意識にそこから多大の影響を受けています。そして、外国人の目にはその「無意識の部分」こそがその人らしさとして映るのです。それをなかったことにして、インターナショナルな風を装っても、単なる「根無し草」でしかありません。

先日、ある施術家の知人から聞いた話です。その方のクライアントで大変日本の歴史に詳しい方がいました。「ずいぶんとお詳しいのですね」と感心したら、こんな話が返ってきた、と話してくれました。

その方のお嬢さんが高校生で、1年間のホームステイを終えて、アメリカから帰国してきたときのことです。成田で出迎えたお嬢さんは半分べそをかいて、いきなりこう言ったそうです。
「お父さん、日本って誰がいつ作ったの?」
「な、何でいきなりそんなことを聞くのかね? 何かあったのか?」
その方は面食らってしまいました。

お嬢さん曰く、到着初日、ホームステイ先の家族のお祖母さんに挨拶した時、「ところであなたの国は誰がいつ作ったの?」と尋ねられたそうです。アメリカの歴史は頭にあったものの、これまでの教育できちんと日本の建国の由来を習ったことがなかったお嬢さんは、「はた」と詰まってしまいました。
黙って下を向いている彼女に、お祖母さんはこう言い放ちました。
「自分の国のことも知らないで、外国のことを学んでも、何の意味があるのでしょう。」

このお祖母さんは、ホームステイの期間中二度と彼女と口をきいてくれなかったそうです。そうなるとホームステイ先の家族の他のメンバーも、なんとなくよそよそしく、大変居心地の悪い日々を過ごしたのでした。

 

お嬢さんの話を聞いたその方は、実は自分も「グローバルな人材」を自負し、英語が堪能ではあっても、日本の建国については知らなかったことに気づきました。そして、父子でこれから「日本の歴史」をちゃんと学ぼうと心に決め、まず「古事記」の口語訳から二人で読むことにしたそうです。それから父子で色々と日本史の本を読み漁り、いつの間にか「歴史通」になっていたのでした。
「国際派」になりたかったら、語学の習得以前に、まず自分たちが生まれ育った国について学ぶことをお勧めします。自分の中に語るべき内容があると、多少拙い語学でもなんとかなるものです。

私の体験を少しお話しましょう。
大学院博士課程の時、フランスの国費留学生が大学に来ました。彼女は「和漢朗詠集」を研究しており、それを修士論文にするというのです。文部省(今の文科省)は、国費留学生にチューターを付けることになっており、私は彼女のチューターに指名され、論文作成の指導をすることになりました。「和漢朗詠集」なんて、日本人でも滅多に研究していません。私も学びながら四苦八苦の思いで、何とかチューターを務めました。
やがて、2年たち、彼女が帰国する日が来ました。私は拙いフランス語を詫びましたが、彼女からは想定外の言葉が返ってきたのです。
彼女「今までありがとう。私はあなたを尊敬しています。」
私「尊敬?どうして?下手なフランス語で本当に恥ずかしかった。」
彼女「いいえ、それは問題ではありません。あなたは自分の国をとても愛していて、日本のことをよく知っています。私はそこを尊敬しているのですよ。」

その言葉を聞いた途端、私はあふれる感動を抑えることができませんでした。「そうか、人の敬意というのは、その人がどれほど文化のかおりを醸し、どれほど自分の国を知っているかどうかに向けられるのだ」―そこがフランス人の彼女の「尊敬」のポイントだったのでした。

ヨガやスピリチュアルワークで、「グラウンディング」という大地や自然とつながるワークがありますが、社会人として生きていくには、自分の生まれ育った文化にグラウンディングすることも必要です。ぬか床の風味を吸収した素材がおいしくなるように、生まれ育った文化からたっぷりとエネルギーと知恵をもらってこそ、舐められない「人財」として世界に通用するのではないでしょうか。

若い人たちの「自分探し」が盛んなのも、実はこうした「ぬか床」の忘却があるのだと思います。

 

筆者紹介

 
本 名 田尻 成美 (たじり しげみ)
略 歴 著述家・都市拡業株式会社取締役
著書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)
主な訳書「都市革命」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「空間と政治」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「文体論序説」(M・リファテール著 朝日出版社)
比較文化的視点から、日常の出来事をユーモアを交えて考察していきます。
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