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しあわせの「コツ」(第55回) 日常の「奥」

by staff on 2021/7/10, 土曜日

第55回 日常の「奥」

まいにち まいにち ぼくらはてっぱんの
うえで やかれて いやになっちゃうよ
あるあさ ぼくは みせのおじさんと
けんかして うみに にげこんだのさ
 
(「およげ!たいやきくん」 高田ひろお 作詞 佐瀬寿一 作曲)

私たちの日常は、毎日決まりきったことの繰り返しで終わることがほとんどです。たいやきくんのように、型にはまった日常に嫌気がさして逃げたくなる人もいるでしょう(逃げた先に新天地が開けると信じて・・・)。

現代の私たちは、たいやきくんのような生活を自虐的に捉え、変化に富んだエキサイティングな生活にあこがれています。けれども昔の日本人は、判で押したような習慣化された生活をとても大切にしていました。

朝起きて、歯を磨いて顔を洗う。食事をして出かける身支度をする。毎日繰り返される日常の行動は、ほとんど無意識のうちに行われています。ところが、いつものスムーズな流れは、シャツのボタンがはじけ飛んだり、靴紐が切れたりすると、とたんに滞ります。また、思いがけない幸運に出会う(茶柱が立った、虹が見えた、とか)とテンションが上がり、物事がはかどることもあります。

「今日は運勢が良くないのかな、気をつけよう」
「なんだか幸先がいいな、今日はいいことがありそうだ」
などと、思うのです。

朝の虹は吉兆と言われています

型にはまった日々のルーティンがあるからこそ、ちょっとした変化に気が付くことができるのです。もし、毎日行き当たりばったりに過ごしていたら、「変化の予兆」を感じにくくなっていることでしょう。

規則正しい生活の繰り返しの中で、些細な変化に気づく。一見何でもないようなことですが、実はこうした反応が「直感で未来を感じる能力」を培っているのです。日常生活のルーティンは、もっとも簡単な「未来予知のトレーニング」なのです。

「未来予知」だけではありません。炊事や掃除、洗濯などの日常作業は、地味で、評価されにくいものですが、実はこれこそ「魂を磨く」絶好の手段なのです。

掃除に関して、私が好きな仏陀の弟子のお話をご紹介しましょう。

仏陀にシャーリパンタカという弟子がいました。
シャーリパンタカは大変もの覚えが悪く、自分の名前すら覚えられず、いつも周囲から笑われていました。

そんな自分の愚かさを嘆き、もう弟子をやめようと思って仏陀のもとに行きました。すると、そんなパンタカに、仏陀はこう言ったのです。

「自分を愚かだと知っている者は智慧ある人なのです。
自分を賢いと思いあがっている者こそ、本当の愚か者なのです。」

そして、1本のほうきを渡して、
「『塵を払い、垢を除かん』と、掃除をしながら唱えなさい」と教えました。

こんなに短い言葉でしたが、シャーリパンタカは一生懸命覚え、周囲の弟子たちに助けられながら、来る日も来る日も「塵を払い、垢を除かん」とただひたすら唱え続け、無心に掃除を続けたのです。

1年、2年、3年、そして、10年、20年と、パンタカは毎日ひたすら唱えながら掃除をしていました。

パンタカのそのひたむきな姿に、最初は馬鹿にしていた弟子たちも次第に一目置くようになり、やがてそれは尊敬に変わっていきました。

そしてついにシャーリパンタカは掃除を通して悟りを開き、「阿羅漢」の境地に達したのです。

彼が誰よりも早く悟りの境地に達したことを周囲が驚いていると、釈迦は静かに言いました。

「悟りを開くということは、多くのことを学ばなくてはならない、ということではない。見よ、シャーリパンタカは、掃除することに徹してついに悟りを開いたではないか。」

シャーリパンタカ像

難解な経典を学ぶこともなく、ただ与えられたほうきを持って無心に掃き続けたシャーリパンタカに、一体何が起きたのでしょう? きれいになったのは掃除した場所だけでなく、パンタカの心だったのではないでしょうか。掃除を続けるうちに、「自分は愚かだ」と思う心もいつしか消えていったのでしょう。

毎日掃除してもたまり続ける塵や埃は、まるで人間の心に芽生え続ける煩悩のようでもあり、その様がパンタカに何かを悟らせたに違いありません。

少し話がそれますが、シャーリパンタカは、「レレレのおじさん」に似ていると思いませんか(笑)。いつもほうきを持って往来を掃いているレレレのおじさんは、悩みなど持ったことがないかのような、軽やかな明るさを振りまいています。赤塚不二夫さんはシャーリパンタカを知っていたのでしょうか? バカボンのパパの口癖「それでいいのだ」も、悟りの言葉のようですし、「天才バカボン」は意外に深い話かもしれませんね。

レレレのおじさん もしかして、すでに悟りの境地に?

話を戻しましょう。
掃除だけではありません。炊事も大事な悟りの手段です。禅宗では炊事を担当する僧を典座(てんぞ)と呼び、とても重要な仕事として捉えています。しかも典座は、高僧にしか与えられることがない称号だというのです。道元が「典座教訓」を書いたのも、仏道を修めるのと同じくらい、食にかかわることは大切なことだからです。

道元「典座教訓」 藤井宗哲著 角川ソフィア文庫

実は道元が生きていた当時、日本の禅寺では典座は一段低く見られており、実際には寺男などに任せっぱなしだったようです。ところが、宋に留学した際、現地で自ら干し椎茸を買い付けにやってきた老典座と出会い、道元は考えを一変させました。

「山川草木悉有仏性」(=山川草木にはすべて仏性が備わっている)とは言いますが、食材にも仏性が宿っていることを忘れてはなりません。食べ物の命に感謝して丁寧に調理することで、同じく仏性の現れである人間の身体を作り、心を養う。食事を作ることは、そのまま仏道の修業でもあるのです。

永平寺の現代の典座 三好良久さん

きちんと手入れされた調理器具を使い、心を込めてゴボウを洗い、豆腐の水を切り、ゴマを煎り、丁寧に食材に包丁を入れる。一つ一つの所作が、そのまま命への感謝となると同時に、味付け、できばえなど料理のすべてに隠すことのできない自分が顕れてしまうのです。だからこそ、己を鍛え、我をそぎ落とさなければ、良い料理ができないのです。料理は嘘をつきません。これほどの修業があるでしょうか?

これには、私自身経験があります。出産後、まだ体が動けない時に、何回か家政婦さんに来てもらいました。家政婦さんも色々なタイプがいるので、昼食にはやきそばとかそうめんのように、あまり料理の腕に左右されない簡単なものを作ってもらうのですが、中には「どうやったらこんなにまずく作れるか聞いてみたい!」と思うほど、ひどい料理を作る人がいるのです。

かと思うと、本当に美味しく作る人もいます。その違いは何だろうと、観察して分かったのは、発する「バイブレーションの違い」だということです。いかに綺麗に装おうと、態度でごまかそうと、料理を作らせると、その人の本質が顕れてしまうのです。大雑把な人は料理も大雑把ですし、我の強い人は味付けが濃く、だらしない人は下拵えや後片付けがきちんとしていません。いやいや作れば、エサのような料理となり、食べ盛りの子供ですら「まずい」と言って残してしまうのです。

道元が言うまでもなく、本当に料理にすべて現れてしまうのです。

料理、洗濯、掃除。
毎日繰り返すこの終わりなき営み。これをかつての日本人は人間陶冶の修業と考えていたのです。滝行のような非日常の荒行と違い、誰でもが平等に、いつでもどこでもできる修行。しかもそれに徹すれば、シャーリパンタカのように、難行苦行を実践する他の弟子たちよりも早く悟ることができるのです。

日常に徹するといつの間にか悟りへと導かれていくようにできている―これはもう、宇宙の法則としか言いようがありません。だからこそ昔の日本人は毎日繰り返す当たり前の生活を尊く感じていたのです。たいやきくんが海に出ていく前に、そのことを教えてあげたかったですね。

筆者紹介

 
本 名 田尻 成美 (たじり しげみ)
略 歴 著述家・都市拡業株式会社取締役
著書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)
主な訳書「都市革命」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「空間と政治」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「文体論序説」(M・リファテール著 朝日出版社)
比較文化的視点から、日常の出来事をユーモアを交えて考察していきます。
著 書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)



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