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しあわせの「コツ」(第56回) 無敵の人

by staff on 2021/8/10, 火曜日

第56回 無敵の人

羽生結弦選手2014年グランプリファイナルにて

他を寄せ付けないほどの結果を出す人を「無敵の人」と呼ぶことがありますが、これは「敵がいないほど強い」という意味ではありません。他人と競争しているのではなく、自分に課題を設定し、ひたすらその課題を達成しようとしているだけなのです。スポーツなど勝負の世界で好成績を残し、私たちに大きな感動を与えてくれるアスリートの中には、時としてそうした「無敵の人」が見られます。

フィギュアスケーターの羽生結弦選手も、その一人ではないでしょうか。とりわけ印象に残っているのは、2014年のグランプリシリーズ中国大会です。羽生選手は練習中に中国の選手と衝突し、しばらく氷上に倒れたまま起き上がることができませんでした。立ち上がろうと試みますが、起き上がることができず、救護隊が羽生選手の肩を抱えてリンクの外へ誘導する事態に。

中国の楊逸選手と衝突した直後の羽生選手

この流血の負傷で出場が見送られるかと思われましたが、何と羽生選手は頭とアゴにテーピングを施してリンクに姿を表し、4分半を見事に滑り切ったのです。

私は、負傷にもめげず素晴らしい演技をした羽生選手がエラいというつもりはありませんが、彼の「自己受容力」の大きさに深く感銘を受けました。

羽生選手は「本番直前の大怪我」という事態をそのまま受け入れ、その状況下で最善を尽くすことを自分に許したのです。その時、彼は他の選手のことなど念頭になかったでしょう。ただ、その時出し切れる力のすべてを注ぎ、ひたすら自分に集中しているように見えました。結果は2位。得点が発表されると、いつもはクールな羽生選手の目からは大粒の涙があふれていました。

彼は一体何と戦っていたのでしょうか。この大会で一位を目指すと言っていましたが、それは他の強豪たちのトップに立つということではなく、自分の中のトップに立つ、ということだったのです。どのような状況にあっても、その時の自分ができる最高のことをする。彼は自分の中の恐れや不安と戦い、それに勝ったのでした。そして、他人が作った表彰台の頂点ではなく、自らが作ったピラミッドの頂点に立ったのです。「無敵の人」の美しい姿は、今でも私たちの目に焼き付いています。

同じフィギュアスケーターの浅田真央さんも、やはり「無敵の人」ですね。今でも2014年のソチオリンピックでの、渾身のフリースタイルの演技が目に浮かびます。前日のショートプログラムが16位と、想定外の成績だった真央さんは、この時点でほぼ金メダルは絶望的でした。しかし、その状況下で、最高の演技をやり抜き、世界中を感動の渦に巻き込んだのです。

浅田真央選手 2014年ソチオリンピック

羽生選手にしても浅田さんにしても、自分が目指した演技、自分にとって最高の演技をすることが目的であって、結果は二の次なのです。浅田さんは、「浅田真央100の言葉」という本のなかで、この時のことをこう語っています。

「ショートで自分が悔いの残る演技をしてしまって、フリーでは自分の最高の、満足のいく演技ができて。メダルは結果として日本に持って帰ることはできなかったんですけど、自分の気持ちとしては、本当にやりきったという気持ちと、すべてを出し切った気持ちがあります。」

「浅田真央100の言葉 扶桑社」
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浅田さんにとって、他人と比べられる成績の上下より、自分にとって最高の演技をすることが大切だったことが分かります。浅田さんにとって自分ピラミッドの頂点に立てた喜びが、メダルを取ることより上だったのです。

なぜ羽生選手と浅田さんは世界中で人気があるのでしょう。それは二人が卓越したフィギュアスケーターだから、というだけではありません。スケートに対する二人の姿勢は、そのまま魂を磨く修行になっていることを、人々は無意識のうちに感じ取っているのです。

アスリートの中には、金メダルに届かぬまま、燃え尽きてしまう人もいます。それは他人と争うピラミッドを目指した結果です。周りは敵ばかり。あるいは、「打倒○○!」と特定の人をライバル視した結果、自分の中の、「自分磨き」という自分だけのピラミッドを作り忘れた結果にほかなりません。

浅田さんは2017年に現役を引退していますが、引退後の「サンクスツアー」など彼女のアイスショーは初回から千秋楽の200回目まで常に満席。どのステージも、まさにスケート人生の次のステージに上った彼女の活き活きした姿が見られます。将来は古民家に住んで自給自足の生活をしてみたい、と屈託なく笑う最近の彼女の姿は、燃え尽きるどころか、自分ピラミッドのあらたな頂上を目指し始めたように見えます。

浅田真央 老後の自給自足生活の準備?

羽生選手は前述した中国大会の後、2014年のグランプリファイナルでは見事優勝を果たしました。そのあとのインタビューで、「自分の力で君が代を流せたことが一番うれしい」と答えるのを聞いた時、私は静かな感動を覚えないではいられませんでした。「大怪我を乗り越えて優勝できてうれしい」と言っても当然のところです。しかし、羽生選手は国に貢献できたことの方が嬉しかったというのです。

「無敵の人」の自分ピラミッドは、決して自己満足の世界ではなく、「日本」という国とその文化や伝統の上に立っているのでした。羽生選手は個人の頂上を目指していると同時に、「日本」という国を背負って滑っていたのです。彼は自分のためだけに滑っているのではありませんでした。浅田さんも、「メダルを日本に持ってくることができなかった」と、日本という国を背負って滑っているという自覚を持っています。イチロー選手もそうでしたが、一流のアスリートは自分のルーツへの感謝と敬意を忘れることがありません。

2009年 WBC決勝戦でのイチロー選手の伝説的な決勝打の瞬間

一流のアスリートの中で気高くそびえる自分ピラミッド。自分を生んだ国と文化から養分を吸収し、目標を達成することで、そこへ自分が作った経験値を還元して文化を底上げしていく。これこそ「無敵の人」のスタイルにほかなりません。

不思議なことに、個人を極めると、おのずと全体の流れを引っ張り、全体をレベルアップすることができるようになります。ある人が達成した成果は、集団の経験値を底上げするのです。「人間はあんな素晴らしいこともできるのだ!」と大勢の人が思うようになると、やがてその「素晴らしいこと」をできる人が続々と現れてくるようになるのです。

翻って、私たち凡人は「そんな生き方は、一握りの特別な人だからできるのさ」と思いがちです。果たしてそうでしょうか。私たちは、羽生選手のような一流のアスリートの行動から学ぶことはできないのでしょうか。

多くの人は「子供がいる専業主婦だから」「体が弱いから」「お金がないから」と、人生の様々な要素をネガティブに捉え、それを勝手に「自分の行く手を阻む障害」に仕立て上げ、自分で自分の可能性を閉ざしてはいないでしょうか。

「ゆる体操」の創始者、高岡英夫さんのワークショップに参加したとき、高岡さんは受講生にこんな話を披露してくれました。

ゆる体操の考案者
運動科学総合研究所
高岡英夫氏

ある老人ホームに、寝たきりの老婦人がいたそうです。高岡さんが「ゆる体操」の話をすると、そのご婦人は「私はご覧のとおり体が動かないんですよ。だから体操なんてできません。」と言いました。

高岡さん「でも、手は動かせますよね。では、こうして右の手の上に、左の手をのせて、右手をそぉっとさすってごらんなさい」

高岡さんは老婦人のこわばった左手を右手の甲に載せました。そうして、ゆっくりと左手を動かして上げました。

高岡さん「こうやって、毎日1分でいいですから、手をさすってあげてください。左手でさすれるようになったら、今度は右手で左手をさすってくださいね」

寝たきりでも手は動くので、その女性は毎日1分と言わず、気が向いたときに両手をさすりました。すると、血のめぐりが良くなったのか、足先が温かく感じられるようになりました。そのうち手だけでなく、腕も動かせるようになったので、腕もさするようにしました。そうやって自分の手でさする場所を少しづつ増やしていったところ、数か月後には自力でベッドに上半身を起こせるまでになったのです。高岡さんは「そのうち、トイレも行けるようになるでしょう」と話していました。

自分が今できることを精一杯することで、次は開いてくるのです。私たちも羽生選手のように、どんな状況でも「その時にできること」の実行を、自分に許してあげませんか。そして、自分だけのピラミッドを命ある限り登り続けましょう。

筆者紹介

 
本 名 田尻 成美 (たじり しげみ)
略 歴 著述家・都市拡業株式会社取締役
著書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)
主な訳書「都市革命」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「空間と政治」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「文体論序説」(M・リファテール著 朝日出版社)
比較文化的視点から、日常の出来事をユーモアを交えて考察していきます。
著 書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)



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