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二度と戦争の惨禍を繰り返してはいけない。
戦後史を語り継ぐ、藤村勝典さん

by staff on 2021/11/10, 水曜日

皆さんは「中国残留孤児」という言葉をお聞きになったことがあると思います。報道番組や小説などを通じて、孤児の方々の波乱に満ちた生涯、戦争がもたらした悲劇についてご存知の方も多くおられると思います。その一方で、「留用」という言葉をご存知の方はそれほど多くないのではないでしょうか。私自身も今回の取材でお話を伺うまで全く知りませんでした。ネットで検索してみると、留用とは「人を自分の国にとめておいて使うこと」とあります。
今月の「ヨコハマこの人」に登場いただく藤村勝典さんのご一家は第二次大戦中にお父様の仕事で中国の大連に渡り、そこで終戦を迎えましたが、まさにこの「留用」によって中国に留め置かれ、昭和30年になってようやく祖国日本の地を踏まれました。中国で留用されていた時、そして日本に引き揚げてきてからも、多くの艱難辛苦を乗り越えてこられ、そして今、その経験を糧に横浜を中心に戦後史を語り継ぐ活動をされていらっしゃいます。今回、そんな藤村さんにお話を伺うことができました。

藤村勝典さん
 
藤村勝典さん
 
お名前 藤村 勝典
(ふじむら かつのり)
お生まれ 中華民国 旅大市生まれ、70歳
お住まい 横浜市緑区白山在住
ご家族 奥様と二人暮らし
趣味 戦後史、模型作り、音楽鑑賞、
マラソン

 

藤村さんのご両親が中国に渡られた時のこと、そして終戦後の「留用」を経て、日本に戻られるまでのことをお話しください。

私の父は福岡県出身で、「満州化学工業」という肥料や火薬などを製造する会社で電気関係の技術者として働いていました。母も同じ福岡県出身で、昭和19年に結婚するとすぐに中国の大連に転勤となりました。住まいは甘井子(かんせいし)という所で、1棟に2世帯が暮らしていました。
そして翌年、終戦を迎えると状況が一変します。日ソ中立条約を破棄したソ連軍が中国残留の日本人居住区を襲ってきました。母の話では、ソ連軍兵士が家の中に入り込み金品を物色していったとのことです。敗戦で亡国民となった民間日本人の多くが、ソ連軍ばかりでなく、中国国民からの憎しみも受け、攻撃、略奪、飢餓などで命を落としていきました。
両親はそのような状況から一刻も早く逃れたかったと思いますが、中国の国家再生のために必要な人材として、中国共産党は父のような工場技術者をはじめ医師、看護師、鉄道技術者、熟練工など多様な職業の日本人を「留用」という形で中国に留め置くこととしたのです。同じ境遇の人が約2万数千人いたと言われています。

藤村さんのご両親

終戦の年に姉の和子が生まれ、3年後に兄の伸一が、そして昭和26年に私が生まれて家族も増え、早い帰国を待ち望んでいましたがなかなかその日が訪れません。
そして、ようやく昭和28年になって留用されていた民間人の引き上げが始まり、旅大市(昭和26年に大連と旅順が合併)の寺児溝(じじこう)という所に数百人が集結しました。ここは、あまり治安のいい場所ではなく、買い物などで外出する時は許可証が必要でした。市場に行くとものすごい人で、兄の伸一が迷子になってしまいました。たまたま知り合いの医者が見つけてくれて事なきを得ましたが、一つ間違えば、兄はそのまま残留孤児になっていたかもしれません。
寺児溝では「招待所」という施設の中で暮らしながら帰国を待ちました。ところが、朝鮮戦争の混乱でいっこうに帰国の目途が立ちません。さらにソ連と中国の関係が悪化し、ソ連人技術者が帰国してしまったため、寺児溝に集結していた日本人が日を追って中国各地に散らばっていきました。我々家族も、8か月経ってから四川省へ移動することになりました。湖北省の武漢までは鉄路で移動しました。行けども行けども地平線が見える畑の風景が続き、汽車が進んでいない気がしました。やがて武漢に着き、そこで船に乗り換え揚子江(長江)を遡り四川省長寿県という所に着きました。帰国どころか、そこでさらに1年間集団生活を送ることになったのです。ただ、私自身は何故か「日本に帰りたい」という気持ちは湧きませんでした。日本を知らなかったからだと思います。
そして、ようやく昭和30年2月、私が3歳8か月の時に私たち一家を乗せた引き揚げ船「興安丸」は天津市の塘沽(たんくー)を出港し、舞鶴の港に帰ってきました。終戦からすでに10年近くの歳月が流れていました。舞鶴では九州の父方の親類が出迎えてくれました。

大連・長寿県の位置、移動の軌跡

引き揚げ船 興安丸

帰国されてからどのような生活を送られてきたのでしょうか。

祖国日本は共産圏から引き揚げた「留用者」を温かく迎えることはありませんでした。帰国直後は私たち一家は福岡の父の実家に身を寄せましたが、世間では「中共帰りの“赤”」という風評もあり、我々を受け入れてくれた伯父さん一家に肩身の狭い思いをさせてしまい申し訳なく思っています。

福岡の実家での写真

父は職を探しましたが、就職で差別されたり、中国で蓄えた財産に対する国の補償も皆無に等しいなかで、父が40歳で一家6人の生活をゼロから再出発させる苦労は並大抵ではなかったと思います。
まもなく父は実家の近くで「ラジオ修理店」をはじめましたが、1年近く経った頃、ようやく東京の計測器関係の会社に就職が決まりました。東京で単身赴任していましたが、その後、大連時代の知り合いの紹介で、三重県四日市の企業に転職し、そこで家族が合流し一緒に暮らすことになりました。私は四日市で小学校1年から高校卒業まで過ごしましたが、ここでも最初の頃は「九州から“赤帰り”がやってきた」という噂が町中に広まり、差別を受けることもありました。親が10年間も自分の人生を犠牲にしてきたのに本当にひどいと思いました。姉の和子は中国では中国人と共学で、中国語で授業を受けていたため学力が低いと見なされ、帰国後、本来は小学6年生のところ5年生に編入になりました。生活も貧しかったです。当時の日本は朝鮮特需で潤っている人もいて格差が気になったりもしました。
ですが、少しずつ地域の人たちとも打ち解けていきました。小学校2年の時の伊勢湾台風で多くの人たちが亡くなったのですが、この時に周りの人たちとの連帯感が生まれ助け合うようになったことがそのきっかけになったと思います。でも、小学校の頃は、あまりいい思い出はありません。
中学に入ってからは、ソフトテニス(軟式テニス)に熱中し大会に出たりして、気持ちが少しずつ変わっていきました。そして父の影響もあったと思うのですが、工業高校に進学し電気工学を学びました。小学生の頃、父から材料をもらって真空管ラジオを自作したりしていました。音が出た時の感激は今でも忘れることができません。
高校を卒業して就職しました。就職先は当時の松下電器産業(現在のパナソニック)で、大阪での勤務となりました。最初の3か月は、松下幸之助の経営理念等を徹底的な教育を受け、日常の行動規範である7つの精神を唱和したりもしました。松下幸之助さんご本人に会う機会もありました。夏頃、正式に採用が決まり、部品などの製造現場に配属されましたが、音響関係に興味があったので、自ら手を挙げ、希望の部署で仕事をすることができました。

お父様の背中を見て育って、同じ電気技術者としての道を選ばれたのですね。まさに日本の高度経済成長の頃で、お忙しかったことでしょう。それでも中国で生まれたという意識はどこかにあったのでしょうか。

高校の頃までは、自分が大連で生まれたことをあまり気にしないようにしていたのですが、就職の時に自分の戸籍を取り寄せたところ、生まれが「中華民国旅大市」となっていて、改めて出自を意識することとなりました。当時は蒋介石の時代でしたので中華民国となっていたのです。
そして、いつか生まれ育ったところを訪れてみたいという思いが強くなり、40歳のころ両親とともに大連に行く機会を得ました。かつて住んでいた場所にも行きましたし、父の働いていた工場も特別に見学させてもらいました。当時の機械がきれいにメンテナンスされて大切に使われていました。父を「同志」と呼んで歓迎してくれました。改めて、新中国の建設に貢献した日本人がいたこと、そして両親がその一翼を担ったことを誇りに思いました。

大連市のかつての自宅前で

横浜にはいつ頃越してこられたのでしょうか。横浜に来られてからのことをお話しください。

平成元年、38歳の時に大阪から横浜に転勤となり、以来鴨居の事業所で仕事をしてきました。そして定年まであと2年となった58歳の時、“人生の見方を少し変えてみたい”との思いから早期退職しました。
もともと生涯学習に興味があったので、退職後、町田で生涯学習の講座を受けたのですが、以前から抱いていた「自分は戦後の生まれで日本で成長したはずなのに、戸籍の出生地は中華民国旅大市となっている」という疑問をはっきりさせたい、また子供たちにも伝えたいという思いから家族史を作ることにしました。そして、終戦から10年間、中国に残留を余儀なくされた日本人家族の記録をまとめた「渇望郷」という本を執筆、平成24年7月に出版しました。中国でのことは、当時の私はあまりに幼く記憶も薄れていたので、姉の和子の記憶なども頼りにまとめました。

早期退職して、新たな人生の目的を見つけられたと言っても過言ではないですね。現在、どのような活動をされているのでしょうか。

町田で生涯学習を学ぶなかで、八王子生涯学習コーディネーター会のM会長(当時)と出会ったことが大きかったですね。そのつながりで、現在私は当会の監事を務めています。Mさんは、元NHKでプロデューサーをされた方で、原爆投下時のNHK広島放送局のことを伝える講座などを開催され、お手伝いさせていただく中で「戦後史を発掘し、語り継ぐこと」の大切さを一層感じるようになりました。
また、地元の緑区では、緑区市民活動支援センター「みどりーむ」の運営委員をやっておりまして、毎月、人と人のつながりを豊かにする活動として「サロンふらっと」を開催しています。今年の8月15日の終戦記念日には、私自身の経験をもとに中国での「留用」のことなどもお話しさせていただきました。実は、Mさんが“戦時中の歌や曲が作られたいきさつやエピソードなどを紹介する活動”をされているのですが、それを参考にさせていただき、「みどりーむ」で“ラジオドラマで綴る懐かしの昭和”という講座を開催しました。

講演中の藤村さん

また、今日同席いただいている佐々木京子さんは、地域活動の人材の発掘・育成を目的に緑区役所が主催している「ひとまちスクール」で知り合ったのですが、フィリピン・レイテ島で戦死したご自身の伯父様の手紙をもとに戦争体験を語り継ぐ講座も開催していただく予定です。実は、佐々木さんが取り持つご縁で、昭和19年10月のレイテ沖海戦で「海軍特別少年兵」として重巡洋艦「妙高」に乗艦し、米軍の攻撃を受けながらも、からくも生き延びた同じ緑区在住の吉井利夫さんとお会いする機会をいただきました。実は、私は模型づくりが趣味でして、「妙高」の模型を作る機会を頂き、とても嬉しかったです。
また、戦争体験とは少し違いますが、地元の鴨居でも地域活動をやっています。「鴨居駅周辺まちづくり研究会」の一員として、鴨居駅の清掃やイベントの開催、歴史散策、公園愛護活動などをやっています。鴨居駅の清掃は800回くらいやりまして、先日、JR東日本から表彰されました。

意欲的に取り組まれていて素晴らしいですね。今後さらにやってみたいことはありますか。

定年後の生活の三大要素は「地域活動」、「自己研鑽」、「健康」と思っており、これからも実践していきます。
なかでも地域活動については、今後も戦後史を語り継いでいきたいと思います。戦争の体験者はどんどん高齢化しています。いろいろな経験をされた方を積極的に発掘すること、そして、日本では学校で近代史をきちんと教えていないと思いますので、若い世代にきちんと伝えていく必要があります。そのため学校などとの連携が肝心です。さらに、個人的には横浜大空襲のことも調べてみたいと思っています。

最後に、藤村さんにとって横浜とはどのような所でしょうか。

私は、横浜でいろいろなことに挑戦してきました。地域活動もそうですし、健康づくりのためマラソンも始めました。還暦でホノルルマラソンを完走しました。国籍、性別関係なくそれぞれのペースで走ることは、生涯学習とも共通すると感じています。そして、挑戦することで自分自身が成長することもわかりました。
ですので、私にとっての横浜とは「挑戦と自己成長できる舞台!」です。一緒に描かれている動物はピューマです。「これからも挑戦して、まだまだ伸びるぞ!」そんな気持ちを表現したものです。まだまだ頑張りますよ。

横浜とは挑戦と自己成長できる舞台!

<取材を終えて>

藤村さんご一家は、中国に留用され、そして日本に戻られてからも筆舌に尽くし難い困難を乗り越えてこられたと思いますが、ご本人は「私よりもっと大変な経験をされた方がたくさんおられますよ。そういう方々を発掘し、後世に伝えていきたいと思います。」とおっしゃいます。
地道ではありますが、きな臭さも感じる昨今の国際情勢のなかで、藤村さんのような活動はますます大切になっていくと思います。
そして、少し驚いたのは「あなたにとって横浜は?」で掲げられた“ピューマ”の絵です。これからもその勢いで、活動の輪をさらに広げ、“二度と戦争の惨禍を繰り返してはいけない”という思いが世の中に根付いていくこと願っています。

 

(取材・文責 渡邊圭祐)

 

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