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認定NPO法人 かながわ311ネットワーク 代表理事 伊藤朋子さん

by staff on 2022/3/10, 木曜日

 

認定NPO法人 かながわ311ネットワーク 代表理事 伊藤朋子さん
 
認定NPO法人 かながわ311ネットワーク
代表理事
伊藤朋子さん
 
お名前 伊藤 朋子(いとう ともこ)
お生まれ 1957年1月21日
東京都/目黒区
お住まい 神奈川区大口仲町
ご家族 夫と二人暮らし
(娘2名は独立)
お仕事 認定NPO法人 かながわ311ネットワーク 代表理事
趣味 観劇、読書

 

防災の大切さを伝えることがライフワークになりました

2011年3月11日に起きた東日本大震災から10年が経過し、11年目の春を迎えようとしています。この大震災から私たちは多くの教訓を得ました。まずは備えること、「備えあっての憂いなし」と言いますが、備えあっても憂い有りが震災です。

震災直後は、全国で防災グッズセットやラジオ、懐中電灯やヘルメット、水や保存食品などが飛ぶように売れて関心の高さが窺い知れましたが、10年が経過すると防災袋のチェックは忘れられ、賞味期限切れのビスケットや水が入っているものを見かけるようになりました。電池やカセットコンロ用のボンベを常備しておくとか、飲用水をストックするとか、あんなにTVで奨励していたことも10年が経つと意識の低下や風化が見られるようになりました。

私達「かながわ311ネットワーク」は当初は震災地の応援活動が中心でしたが、「貴方たちの地元にも必ず災害は来るのだから、備えを欠かさないように」という現地で貰った宿題の実現を、まずは学校での子ども達や教員向けの研修からスタートしました。

私の住む神奈川区や隣接する西区、中区はマンションやアパート、商業施設や会社のビルが立ち並ぶ地域です。横浜の市民の半分は集合住宅住まいです。ところが既存の「防災」は「戸建て住宅」を前提にしているものが多く、マンションの防災はどうすればいいのか、情報は余りありませんでした。
「かながわ311ネットワーク」では、熊本地震をきっかけに地元での防災力の向上に力を入れ始めました。マンションの防災からはじめて、今は自治会や地域防災拠点出張講習会などを開いて、防災の重要性を広めています。

余暇を使ってボランティア活動を始めたのがきっかけ

子育てをしながら、テクニカルライターとかマニュアルライターと呼ばれる専門的な「マニュアル/取り扱い説明書」を書く仕事をフリーでしていました。大型コンピューターのマニュアルやプロ向けのデジカメのマニュアルなど、開発や製造した人から聞いたことを文章にする仕事です。海外のマニュアルを翻訳することもあり、忙しい時は仕事が重なって寝る間を惜しんで働きましたが、不規則な仕事なので暇になることもあります。余暇を楽しみながら、知人の「ものづくり教室」のワークショップを手伝ったことがきっかけで、ボランティア活動もするようになりました。

そこで起きたのが3.11東日本大震災でした。たまたま、応募していた被災地支援の情報ボランティアのルートで連絡をもらい、県民センターでの横浜で被災者を支援するボランティア募集説明会に参加しました。

もう一つ災害ボランティアに応募した理由の1つは、『阪神淡路大震災』の時にパソコン通信で次々に情報が流れてくるのに、「何もできなかった」という思いがあります。

幼い頃の思い出

私が2歳7ヵ月の時に弟が生まれました。その時のことを鮮明に覚えています。幼いながらに「お姉ちゃんになるんだ」と自覚したのでしょう。その次の思い出は幼稚園に入ってからなので、印象的だったのですね。弟とは公団の階段の踊り場や近くの公園で遊びました。私の友達と弟の友達が集まり、そこに近所の子達が集まって来て、鬼ごっこや泥まんじゅう作りなどなど一緒に仲良く遊んだ事を覚えています。

小学校6年生臨海学校千葉県岩井海岸

1年生で引っ越し 6年生でも引っ越し?

幼稚園はミッション系でした。お稽古ごとはピアノや絵画、お習字などを始めましたが、長続きしませんでした。ピアノもお習字も同じことを繰り返し練習しますよね? 「繰り返し練習」が性格的にダメでした。飽きっぽかったのかもしれません。すぐに結果が出ることが好きでした。

住み慣れた東京都目黒区の公務員住宅を引っ越すことになったのは小学校に入学したばかりの5月のことでした。転出先は新大久保駅と大久保駅の間にある『戸山小学校』。大久保周辺は今でこそアジア系のお店が立ち並ぶ街ですが、あの頃は公務員住宅や国鉄アパート、都営住宅などが多い所で大きな工場もありました。

小学校は転出、転入の子供が珍しくないマンモス校でした。
本を読むのが好きだったので、おのずと国語の成績は良かったです。「科学と学習」という雑誌を購読していて「付録」が楽しみでした。理科系が好きになったのもこの頃からでしょうか?
運動は苦手でしたが、5・6年生になると水泳が得意になりました。競技会で賞を頂いたこともありました。

時代は昭和の後期に入ろうとしていた頃です。新宿通りに近いあたりは自動車の排ガスによる公害がひどい所でした。「光化学スモッグ」という言葉が出現したころです。母と弟が体調を崩して郊外に引っ越すことになりました。小田急線の百合ヶ丘に6年生の夏休みに移ることになりました。1年生になったばかりで転校してきた私は「入学式も卒業式も別々の学校になるのは嫌だ」と猛反対して、引越を延ばしてもらい、戸山小学校の「卒業証書」を手にすることができました。

1979年 大学の弓道場で

校則が2つしかない私立

運動で唯一得意だった水泳、プールのある学校に進学したいと思いましたが、入学した学校は四谷にある中高一貫教育の女子校でプールの無い学校でした。

「学校は?」との問いに「女子学院です」と言うと「どこの女子学院ですか?」と聞かれて「ただの女子学院です」と答えると「ああ、只野女子学院ですか」と言われるのが笑い話となっていました。

校則は「校章をつけること」と「校内では上履きに履き替えること」の2つだけ。制服は普段は白いブラウスに紺色のスカートの標準服、その他に式の時などに着るセーラー服がありました。
この「制服」も中学3年の時にすべて廃止になりました。このとき、生徒会の委員だった私は生徒会の仲間といっしょに抗議に行きました。制服の廃止にはみんな賛成でしたが、「生徒の意見を聞くことなく天下りに決定したプロセス」に抗議したのでした。東大紛争後の学生運動が盛んだった時代で、生意気な中学生でしたね。
校風は「自由」であるけれど、自由に伴う「自覚」や「責任」を学びました。ファッショナブルな服の生徒もいれば、セーラー服の生徒もいる、という自由さでした。ピアスの子も居ましたが、咎められることもなかったように記憶しています。服装も教育の一環だから、そこだけを注意しても仕方ない、という方針でした。

ミッション系の学校なので当時の多くの学校とは違い、土曜日もお休みでした。その土曜日に友人に誘われて「宝塚」を観に行ったのが演劇に興味を持つきっかけとなりました。そこから始まって、劇団四季、新劇など、そして狂言や歌舞伎とお芝居の魅力にはまりました。コロナの流行で最近はあまり観に行けていませんが、終息すればまたお芝居が観たいですね。

大学の研究室で

進学と就職

解き方をマスターすれば答えが出る「数学」や「化学」が好きでした。高校の化学の先生は若い女性で授業に多くの実験を取り入れて、物質が変化していく様を体験させてくれました。
理数系が得意で暗記が苦手、ということで友人は資格の取れる「医学部」や「薬学部」を目指していましたが、「そそっかしいから医者は無理」だと思い「理学部化学科」に進むことに決めました。中学、高校と女子校でしたから大学は共学校と思いましたが、受験科目の都合で、またまた「女子」の大学になりました。

時代はアナログからデジタルに変わろうとしている真っ只中、大学では液晶などの新技術を学びました。
進学してみると、高校時代に思っていた化学は化学のほんの一部であることを知りました。大学の生物は化学に近く、大学の化学は物理に近く、物理は数学に、数学は哲学に、と1つづつずれているように思いましたが、結局専攻に選んだのは、物理に近い分野の「物理化学」でした。
「デジタル革命」が進んでいく中、4年間では学びきれない「新しいもの」に好奇心と興味がわき、大学院に入りました。

当時は、2年間の大学院を出た理数系女子を採用する会社は限られていて、その少ない選択肢の中から学校推薦で三菱化成の研究所に勤めることになりましたが、同じ学歴を持つ男子は本社採用。女子は学歴にかかわらず研究所での箇所採用でした。研修も同学歴の男子とは全く違っていました。男女雇用機会均等法の無い時代でしたから、大学院卒の私の存在は重宝がられたり、煙たがられたり・・・「デジタル革命」下の仕事は「新製品を創りだす」といったクリエイティブな仕事で面白かったのですが、待遇はあまり良くなかったと思います。

パリの友人と

パリ日本人会のフランス語教室

フランスへ

夫とは大学時代に出会い25歳の時に結婚しました。夫の海外留学が決まりフランスのパリに住むことになりました。私は第一子を出産直後でしたので少し遅れて後からフランスに行きました。住まいはパリの南の端、カルチェラタンのはずれのアパートです。中華系の食材が簡単に手に入る東洋系の住民が多い下町で、治安もさほど悪くない所でした。

大学での第二外国語はドイツ語でした。化学誌や論文はドイツ語で書かれたものが多かったからです。
フランスは自国語にプライドが高い国で、外国語は殆ど通じません。通じていてもフランス語で返事がくるような国です。夫を見送った後しばらく実家に戻り、子どもを預けて初めてフランス語を学んでいましたが、現地でも、はじめは、保育サービスのあった日本人会のフランス語教室に通いました。

この海外生活で、フランス人気質を学びました。「自分のことは言わないと誰も分かってくれない」と、全てに積極的になりました。「あなたはどうしたいの?」と出来ない理由を考えるよりも、やる為にはどうしたら良いかを考えるようになりました。私の人生の転機となりました。
積極的に情報を得ることで、家の近くにある保育園に子どもを預けることができると知り、行動範囲が広がりました。子どももフランス語を日本語と同時に覚えていきました。保育園に預けることで、市中のフランス語教室に通ったり、美術館や博物館、歴史的建造物を見学に行くことが出来ました。ペルー人やエチオピア人と一緒に学んだのは懐かしい想い出です。料理教室にも行きました。友人もでき、一緒にフランス語の個人レッスンを受けることができました。
「多様な文化の中で積極的に情報を得る」ことで何事にもポジティブになりました。

1989年 ルーブル美術館で

1988年 パリのまちかど

アルバイト

ヨーロッパの冬は寒いです。マイナス15℃を初めて経験しました。夫の2年間の留学(私は1年7ヵ月)中、フランスの各地を旅行しました。そして、第二子を妊娠し、つわりで大変な時に日本に帰ってきました。

帰国後、次女が1歳になった頃、アルバイトを始めました。専門誌「現代化学」に海外の論文の紹介記事を載せたり、研究者や企業のインタビュー記事を書いたりする仕事でした。
後にノーベル物理学賞を受賞する小柴昌俊(こしば まさとし)氏をインタビューしたことがあります。ニュートリノの観測に関するインタビューは、専門用語が多く難解で下調べに苦労しました。一般の人でも理解できる記事に仕上げるのが大変だったことを思い出しました。

年賀状に「もっと仕事がしたい」と書いたら、友人がテクニカルライター(マニュアルライター)の仕事を紹介してくれました。

マニュアル作り

こうしてフリーでマニュアルを書くようになりました。日立や富士通といった大手企業からの依頼で、開発担当者に直接お会いしてマニュアルを作ります。はじめの頃は、PCの画面をアナログカメラで撮影してその写真をマニュアルに掲載する、といったアナログとデジタルの過渡期の制作方法でした。フリーランスでクライアントも色々でしたから、デジカメのマニュアルや携帯電話、大型コンピューター、電話交換機の工事担当者向けなど、多種多様な仕事が不規則に入ってきました。
中には英語の取扱説明書を日本語に翻訳する仕事もありましたし、私が書いたマニュアルが18ヶ国語に翻訳されたこともありました。

新製品は発売日が決まっていて、たとえ開発が遅れてもその日までに「取扱説明書」を完成させなければなりませんので、忙しいときは夜中まで仕事してました。仕事の度に初めてのことを学ぶフリーのテクニカルライターは、飽きっぽい私にも向いている仕事で20年以上続けていました。子育てが終わってからは、仕事が暇な時には、芝居を見たり、旅行したり、ちょこっとボランティアをしたりで気ままな暮らしをしていました。
その仕事と仕事の隙間におきたのが、東日本大震災でした。

ボランティアに係わったきっかけは文頭でお話しましたので「被災地で感じたこと」をお話しましょう。

被災地で感じたこと

横浜での支援、のつもりで始めたボランティアでしたが、たまたまきっかけがあって、4月の末に岩手県の大船渡市、陸前高田市に行きました。現地に負担をかけないように食糧も水も持参して夜行バスで現地に入りました。被災地に近づくと道路の状態が悪くなりバスが大きく揺れました。被災地に入るんだと気が引き締まるのを覚えました。主な活動は津波に流されて汚れた被災者の思い出の品物の洗浄作業でした。
まだまだ手付かずの場所が多く、散乱したがれきの光景とそのにおいに、復興まで並大抵の努力では覚束ないと、被災地支援の重要さをひしひしと感じました。
その後、今に至るまで10年以上に渡って活動を継続することになったのは、あの風景を見てしまったからだと思います。

こうして始めた復興支援でした。この活動が終わるまでの2年間、現地の情報を集めホームページに掲載する、ボランティア募集の記事を書く、などを行う編集チームでチームリーダーを務めました。

2年間続いた「かながわ東日本大震災ボランティアステーション(通称ボラステ)」での活動から多くを学び、横浜でも起こりうる自然災害に向けて「課題」や「宿題」をもらったように思いました。ボラステで一緒に活動した仲間たちは、それぞれの思いによっていくつかの団体に分かれていき、私が代表理事を務める『かながわ311ネットワーク』もそのうちの1つです。

コロナ禍で体験した「有事」

話は再び「かながわ311ネットワーク」の活動に戻りますが、私達はコロナ禍において「有事」の際の混乱を少し体験しました。

「マスクやアルコール消毒剤を買うのに早朝から列に並び、ワクチン予約を入れようにも電話もネットも繋がらない、病院は逼迫していて自宅療養を求められる」といった混乱は地震などによる都市型災害の時はなおさらです。
大地震が来たら、電気、水道、ガスといったインフラは止まってしまいます。携帯電話も充電できずに電源が落ちてしまいます。

一度に何万人という怪我や火傷を負った人が出ます。医師も看護師も病院も消防署も全てが被災する訳ですから、救急に頼ることはできません。

コロナで薬局からマスクやアルコールや消毒液。うがい薬が消えたように、災害時には食料品店からは食糧/食料/飲料水が消えてしまいます。
家の近くにコンビニがあるから、スーパーがあるから大丈夫だと思っていませんか? 街は停電していますから、電動シャッターもレジもカードリーダも使えません。それどころか、買い物に行きたくても道路は瓦礫が溢れ、怪我人や故障した車で歩くことも出来ないでしょう。

また「有事」においてはデマや古い情報、間違った情報に踊らされてしまう人がいることを知りました。
正しい情報を得て、整理して伝えることの重要性に気付くことができました。

都市での防災とは

「避難所に行けば救援物資がある」と思われるかもしれませんが、救援物資が届くまでには時間がかかります。流通に支えられている都市は、流通の遮断には大変弱いのです。

「3日分の水と食料を確保したら万全の備え」だと思っている方が多いですが、首都直下地震のような広域で規模の大きい地震が起こったら、都市部では3日で混乱が収まるとは思えません。行政も7日間分の備蓄を、と呼びかけています。
水道管が破裂し水害が発生したり、液状化で道路が陥没することもあります。重機を使っても瓦礫を取り除く作業は容易なものではありません。しかし、その重機を入れるためにも道路の瓦礫を退かさなければならないのです。

食事時ならキッチンから火災が起きることもあるでしょうし、地下駐車場で漏れ出したガソリンに火が引火しビル火事になることも、閉じ込められたり、下敷となったり・・想定外のことが起きるのが災害なのです。

「避難所」は家を失った人の為の場所です。マンションは、かなりの揺れでも建物自体は被害が少ないと予想されます。戸建てでも耐震建築が増えてきています。「避難所」に行かず、在宅避難で災害後を過ごしましょう。その方がずっと快適です。でもそのためには準備が必要です。家具の固定などの耐震対策が必要です。また、日頃から、インフラがストップした中で「安全・安心」に過ごすことには何が必要かと考え、必要なものを備蓄しておきましょう。
簡易トイレ、食料品や水は当然ですが、他にも必要な物はいろいろあります。常備薬も揃えておくと良いと思います。そして応急手当の知識も得ておくと良いでしょう。

発災直後の救急救命も「自助、共助」で行うしか無いのが大規模災害です。防災訓練に参加して、応急処置を一度体験しておくと、冷静に行動できると思います。「自助、共助」は災害の直後だけでは無く、復興までの長い年月を過ごしていくのにも必要です。町内に社内に、いざと言う時に動ける人材、協力し合えるつながりを作っておくことが大切だと思います。

かながわ311ネットワーク

災害時には、「自助」と「共助」がとても大切だということはもうお分かりだと思います。

アパートやマンションには自治組織が無くて町内会と疎遠な所もあります。横浜市はあまりに大きくて、区ごとで防災の環境や条件が異なっています。防災訓練も地域防災拠点では何をするのか? 町内会、自治会では何をするのか? 訓練のしかたは今のままで良いのか? もっと現実的なやり方で行う必要があるのではないか?
そんな「?」に対応する取り組みを、「かながわ311ネットワーク」がお手伝いしています。

例えば、小学校では小学生向きにワークショップを開き、「ゲーム」をしながら各自が関心を持って防災活動に取り組めるようにしています。マンションや、自治会や町内会、会社、商業施設向けの防災研修や、防災マニュアル作り、訓練プログラムの開発など、多様なニーズに合わせ、ご提案ができますので、是非、お声をお掛けください。

あなたにとっての横浜とは?

横浜はいろいろな可能性が試せる街だと思います。
3日いれば「はまっこ」だそうですが、横浜生まれでは無い人が、自分の街として暮らしていける、懐の深い街です。

私にとっての横浜は「暮らしの場」であり、「仕事の場」であり、「憩いの場」です。

横浜は海の景観が楽しめる山下公園やみなとみらい、本牧や金沢のシーサイド地域ばかりではありません。美しい里山の風景もあります。公園が多く、雑木林をバックに四季折々の花々を楽しむことができます。この美しい横浜を未来に繋げていくためにも「命」を守りたい、人の命はもとより、生きている全ての命も守りたい・・・「守りたい」という気もちを大切に、これからも防災の大切さをお伝えしていきます。

私にとっての横浜は
  「暮らしの場」であり、
    「仕事の場」であり、
      「憩いの場」です

 

 

(インタビューと文:高野慈子平安山美春

 

 

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ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

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