「横浜の魅力は無限大」です。
株式会社ジョビア代表取締役 吉備カヨさん
お名前 | 吉備 カヨ(きび かよ) |
お生まれ | 50代後半 |
お住まい | 中区在住 |
お仕事 | 株式会社ジョビア代表取締役 |
HP | https://www.jobia.jp/ |
趣味 | 旅行 |
フィギュアスケートのトップ選手だったそうですね
横浜市神奈川区の済生会病院で生まれました。
生まれたときから活発で体を動かすことが大好きでした。
2歳から日本舞踊をやり、そのほかにクラシックバレエ、バトントワリングやお琴も習っていました。父が60歳代のときに生まれた一人っ子だったので、何でも好きなことはやらせてくれました。数ある習い事の中で続いたのが、小学校1年生から20年以上やっていたフィギュアスケートでした。
フィギュアスケートとの出会いは、神奈川区の子安小学校に入学した頃に親戚に連れていかれた近所のスケートリンク(現 横浜銀行アイスアリーナ)でした。それからフィギュアスケートに夢中になって、関東学院大学付属の中学校・高校になっても続けていました。
競技での実績も出てくると、練習場所が東京になり、終電に乗ってスケートリンクに行って練習して、始発に乗って帰ってくる生活をしていました。高校1年生のときには、シングル競技でインターハイ、国体に出場しました。
高校2年生になる頃、コーチに「世界を目指すならアイスダンスに転向したら・・」と言われ、決断を迫られました。悩みましたが、世界を目指したいという気持ちが強かったのでアイスダンスを選択しました。
ちょうどその頃、ソ連の牙城だったアイスダンスの世界を変えたイギリスのカップル、ジェーン・トービルとクリストファー・ティーンが登場していました。彼女たちは1981年から4年連続世界選手権で優勝し、1984年のサラエボオリンピックで金メダルを獲得した「ボレロ」の演技は、伝説となっています。
私は彼女たちに憧れて、あのような優雅で芸術性の高い演技をしたいと日々練習に励みました。経験豊富なパートナーと組んで全日本ジュニア選手権で優勝、全日本選手権で6位と順調な滑り出しだったのですが、パートナーから解消を言われて・・・。
それからはパートナーに恵まれなくてコーチ(道家恵子さん)と二人で練習をしていました。横浜出身の7歳年下の男性(田中衆史さん)とカップルを組んで、全日本選手権に出場したのは4年後のことでした。1990年から3年連続で3位になり、1993年についに初優勝を果たして世界選手権にも出場されました。
優勝のときの写真
その後競技を続けるかどうか迷ったそうですが、「やりつくし感」があったのと、オリンピックを目指すならば1998年の長野になるので、そこまではできないと引退を決意しました。そのとき27歳になっていました。
学業の方ですが、高校卒業後、1年間の浪人時代を経て英語の専門学校に2年間通い、上智大学の比較文化学部に入学しました。授業がすべて英語だったので、単位を取るのが大変でしたね。我ながらよく頑張ったと思います。
現在は、ボランティアでフィギュアスケートの指導者をやっています。
最近は忙しくてできなくなっていますが・・・
スポーツとの関りでは、公益財団法人横浜市スポーツ協会の副会長とスペシャルオリンピックス神奈川の理事を拝命しています。
母上の会社を継がれたそうですね
フィギュアスケートの選手を20年以上にわたって続けてこられたのは、母(白幡マサ子さん)の物心にわたる援助があったからです。
母は1959年、横浜高島屋の開業にあわせて、横浜マネキン紹介所を立ち上げて40年以上にわたって、販売スタッフを紹介する会社を経営してきました。
私は一人っ子なので、スケートを引退したら母親の仕事を手伝わないといけないなと考えていましたので、迷いなく母の会社に入社しました。
仕事については何も知らないので、まず伝票整理から始めましたね。このときようやく、母と子の時間が持てましたと感じていました。
29歳のときに友人から結婚相手を紹介されました。彼は私の結婚の3つの条件を満たす男性でした。
1. 女房が社長でもいいこと
2. 横浜に住んでくれること
3. 私より頭がいいこと
サラリーマンをやっていましたが、そこを辞めてうちの会社に入社してくれました。
31歳のときに母が体調を崩して、私が後継者になりました。母の手術の5時間後に第一子(長女)を出産しました。ベビーベットを会社に持ち込んで仕事していましたね。
34歳のときに母が72才で他界して、2011年3月に私が2代目の社長になりました。このときは看病しながら子育てもして仕事もして、今思うと一番つらかった時期ですね。
私が社長になったことで、長年働いていたの社員の独立劇もありました。
このときは、30年間やっていた会社をやるしかない、自分にはこの道しかないのだと自分に言い聞かせ、周囲から、その都度アドバイスをいただいて気持ちを奮い立たせていました。
弊社は、創業以来「女性のライフスタイルに合った働き方」を提案してきました。
1999年の労働者派遣法の改正等により販売職の派遣も可能になり、大手の人材派遣会社が、販売職の派遣を始めました。これは私たちがこれまで人材紹介で培ってきたノウハウを脅かすものでした。
2011年11月に社名を株式会社JOBIA(ジョビア)に社名変更して人材紹介業に加えて人材派遣業にも進出しました。「人の温かさで人と企業を結ぶ」をモットーに、売り場の運営管理を担当する業務請負や販売業務代行へと事業の業態を拡げてきました。創業当時よりスタッフの親睦会があり、永年勤続表彰5年から45年まで、互助的な福利厚生、教育制度などがあります。
株式会社JOBIA(ジョビア)
https://www.jobia.jp/
2008年、業績も安定してきたときに、リーマンショックがおきました。
ちょうどその頃、線維筋痛症という身体中が痛く感じるという病に見舞われて、2009年に社長職を夫に譲り、私は会長になりました。4年間の闘病生活を経て、体調が回復したので、夫が会長、私が社長に戻り、その体制が現在まで続いています。これまでもこれからも二人三脚ですね。
私は働きながら、一男二女の子育てをしてきました。長女は医学生、次女は大学4年生、長男は大学2年生になっています。
私は、子どもから得られることが大きかったと思います。子どもと一緒にいる時間は、気持ちが切り替えられるし、子どもを見ていると、仕事につながることがたくさんありますね。仕事を続けてこられたのは、素敵なパートナーにめぐりあえたからです。夫は8歳年上でいつも大きな気持ちで接してくれています。
仲間にも恵まれました。青年会議所時代のネットワークは、今だに健在ですし。商工会議所や法人会など、地元に根差した活動をしてきたことが今日に繋がっています。
経験してきたことを、点のままにしておかないで、点と点を線としてつなげていくことに意味があると考えています。
コロナ禍で新しいビジネスを始められたとか
コロナ前から、テクノロジーが進化していく中で販売員やホールスタッフの仕事が失われていくのを感じていました。このままでは「昭和女子」の働き場がなくなってしまうという危機感がありました。
コロナ禍で、人材紹介や人材派遣の仕事は大きな打撃を受けました。働きたい方は大勢いるのに、その方たちの仕事がなくなりました。また自社ビルのテナントの撤退も相次ぎました。そのときの私は、母から引き継いだこの会社を絶対に存続させなければ、「商いをストップさせてはいけない・・」という想いでいっぱいでした。このような状況の中で、「人生100年時代、70代の昭和女子が働ける環境を創出するにはどうしたらいいのか・・」を考え続けました。
そしてその答えが、「自分たちで製造加工を行う」ことです。ビルの空き室で野菜を作り、その野菜を使ったレストランをビル内で始める、さらに生産した野菜を加工してお菓子などを製造販売する。「食べる」からさか登っていって、行きついたのが野菜工場でした。これだと昭和女子の雇用が生み出せます。
2021年3月には「サステナス・プロジェクト」構想が固まりました。「サステナス SustainuS」とは、英語の「susutain(維持する・元気づける)」と「us(私たち)」からの造語です。
https://www.sustainus-project.com/
このプロジェクトは事業再構築補助金の支給を申請して採択されました。それを期にビルの全面改修に踏み切りました。「サステナス」ビルは、2022年1月11日にオープンしました。
SustainuS ビル
このビルの3階では、LED照明を使って20種類ほどの野菜やハーブやエディブルフラワーを栽培しています。そこで採れた野菜を扱う1階のカフェ、2階では採れた葉野菜をケーキや料理に加工しています。
3F:SustainuS farm
料理のブランディングやレシピには専門家(マカロン由香さん)にお願いしました。「サステナス・プロジェクト」については、予想以上にテレビ・ラジオや雑誌の取材が多くてびっくりしています。取材内容は、「ビルの空き室対策」や「都市における農業の可能性」などがテーマになっています。
レストラン・カフェ「ICONIC STAGE」はランチタイムはともかく、夜の集客が難しいので積極的にメディアに出るようにしています。この文章を、夜の集客に工夫をするため、ビル全体の個性の中での飲食の場としての在り方を模索しております。
ICONIC STAGE
https://www.iconic-stage.com/
1F:ICONIC STAGE café
今年の夏は、子どもたち向けの「ワークショップ」を計画しています。LEDの野菜工場を見てもらって、自宅でタネをまいて水耕栽培を体験してもらいます。レストランでは採りたての野菜の匂いや香りを感じてほしいですね。「ICONIC STAGE」にはピアノもあるので、若い音楽家の演奏会なども定期的に行いたいと考えています。
今後は、この事業を収益ベースにのせていくために、百貨店で催事をやったりオンラインショップで販売したりしていきたいです。業態は違っても、この会社を次の世代に渡していきたいですね。
あなたにとっての「横浜」とは?
中田市長のときに、4年間横浜市の教育委員をやらせていただきました。その経験は横浜を知るためにも貴重でしたね。
横浜には、まだまだ「のびしろ」があります。横浜はこんなものではない・・都市としてもっと羽ばたけるはずです。世界一を目指していきたいです。それには市民一人ひとりの意識改革が必要です。「とんがった感」を持ちましょう。「横浜の魅力は無限大」なのです。
私にとっての横浜の風景は、山下公園や山下町の港かしら・・。
横浜駅西口の駅のロータリー、慣れ親しんだ高島屋や岡田屋なども故郷としての横浜ですね。
私にとっての横浜は、
「横浜の魅力は無限大」です
<取材を終えて>
吉備さんは外見も生き方も凛とされている方です。
アイスダンスで世界を目指された日々、お母様の看病をしながら、会社経営と子育てに奮闘された日々、病と闘いながら様々な業態に挑戦された日々、どんなときでもまっすぐ前を見つめ、最善の努力を惜しまずされてこられました。
新しく始められている「サステナス・プロジェクト」。空きビルを活用して昭和女子の働く環境を創出するという、素晴らしい構想は花が開き始めています。このプロジェクトを微力ながら応援していきたいと考えています。
(取材・文責 渡邊桃伯子)
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