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横浜は、「繋がりの街」 flowerdesign陽Haru 代表 村山陽美さん

by staff on 2022/10/10, 月曜日

今回は、この人に会ったら元気になれる! そんな風に思える素敵な笑顔とパワフルさでワークショップを開催しているflowerdesign陽(はる)代表の村山さんをご紹介します。村山さんは子連れでも楽しめる場を作ることも目指し、ボランティア団体・花音(かおん)を立ち上げ、ご自身の活動を通じて地域に恩返しができたらと話されていました。

村山陽美さん
 
flowerdesign陽Haru 代表
村山陽美さん
 
お名前 村山 陽美(むらやま はるみ)
お生まれ 昭和47年11月(港北区綱島)
お住まい 旭区白根町(現在西区東久保町)
ご家族 夫・子供3人 犬と猫(タイ生まれ)
お仕事 flowerdesign陽Haru 代表
NFD公益社法人日本フラワーデザイナー協会 講師
子育て支援ボランティア「花音」代表
趣味 音楽(フルート)

 

「しっかりした子」 面白味の無い子でした。。。

私は長女で、2歳下に弟、7歳下に双子の弟たちがいて、幼い頃から弟の面倒を見ていました。小学3年までは綱島に住んでいました。近所のおばさん達からも「しっかりした子だねぇ~」と言われていて、幼いながらもその期待に応えて「まじめ」に生きる(笑)面白げの無い子だったと思います。

当時は、ちょうど第二次ベビーブームの頃で、幼稚園に入るのに入園にテストがありました。テストの結果は「完璧」で、ここでも「しっかりした子だ」と言われたのですが・・・入園して1週間は、登園を嫌がり泣き出して周囲を困らせたそうです。

母が花好きで、いつも花を植えて手入れをしていました。そのせいか私も花が好きでした。小学校低学年の夏休みの自由研究で、押し花で「花図鑑」を作りました。その花好きが今に繋がっています。

得意科目は国語・体育・音楽でした

綱島の住まいは借家でした。小学3年生の時に旭区白根町に家を購入し、引っ越すことになりました。家の近くに公園があり、引っ越した次の日にそこで遊んでいる子と友達になりました。 転入生はなかなか周囲に溶け込めないことがあるのですが、偶然にも公園で友達になった子が同じクラスで、すんなりと受け入れられました。

小学校では国語と体育と音楽の授業が好きでした。綱島で習っていた習字とそろばんは、習字の先生を見つけることができなくて、そろばんだけになりました。そろばんは中学1年生の時まで続け、弐段を取って辞めました。のちにご縁があってパートでそろばんの先生を5年余りやりました。

体育は跳び箱や平均台などの器械体操が好きでした。走るのも速い方で、町内会の運動会で活躍したのを見た人からミニバスケットの駅伝大会に出て欲しいと誘われ出場したことをきっかけに、小学校高学年ではミニバスケットをやっていました。当時、人気のスポーツは男子が「野球」で、女子は「ミニバスケット」でした。

小学1年生の頃、弟たちと4人で

吹奏楽部に入る

小学生の時に、ミニバスケットの大会での音楽隊のドリル演奏を見て憧れを抱くようになりました。中学校では「吹奏楽部」に入部しました。フルートを吹きたかったのですが、パーカッションを担当することになりました。
家にはローンの支払いがあり、決して裕福な家庭ではありませんでした。 下には弟3人が控えていました。
子供なりに分かっていて、普段「おねだり」はしたことが無かったのですが、フルートをどうしても諦められず初めて両親に「フルートを買って欲しい」と頼みました。 買ってもらった時の嬉しさを今でも鮮明に覚えています。

高校の吹奏楽部では念願のフルートになれました。高校2年の時に篠原台青少年の家(現在は廃館)の講座に「フルート講座」があるのを見つけて受講しました。その講師の先生に個人的にレッスンを受けることになり、ますます「音楽隊」でフルートが吹きたいと夢が膨らみました。

子供心に大学進学は諦めていて、高卒で就職すると決めていました。「音楽隊」や「吹奏楽部」のある就職先を探し出し、仲の良かった英語の教師に相談すると、「その公務員試験は、早稲田大学を卒業した私でも不合格だったのだから、あなたには無理じゃない?」と言われました。これが私の闘志に火をつけました。「絶対に受かってみせる」と猛勉強を始めました。「夢を掴み取る」ための猛勉強でした。遅いスタートでしたが、努力の甲斐あって見事に合格、公務員になりました。

20歳くらいフルート発表会

仕事の鬱鬱を癒してくれたのが花でした

念願の公務員になれましたが、音楽隊には入れませんでした。やはりここでもフルートの席が空くまで暫く待つことになりました。数年が経過した時にやっと音楽隊から声がかかりました。

念願の音楽隊です。意気揚々と入隊したのですが、私のような一般高校卒は少なく、音楽大学出身者との実力に差に自信を喪失していきました。差を埋めようと懸命に努力しましたが、専門教育を受けた方々との差はなかなか埋まりません。また、男性社会でしたので、今、思えば「パワハラ」のようなことや「モラハラ」「セクハラ」のようなこともあり、私は鬱鬱していきました。

音楽隊時代

仕事帰りに職場近くの銀座をふらっと歩いていた際、老舗のお花屋さんに出会いました。都会の真ん中で花屋さんの店先には季節が溢れていました。足を止めてのぞき込むようになりました。2階でフラワーデザイン教室が開かれていることを知り、花に癒しを求めて通うようになりました。それが私の師匠「故 鈴木紀久子先生」との出会いでした。仕事&子育てをしながら講師資格を取得しましたが、日々に追われお花からは遠ざかってしまいました。

その後子どもを出産し子育てとの両立が困難と感じ「音楽隊」から転勤させてもらいました。学校を回ったり、イベントなど行う仕事になりました。子供相手の仕事は私にピッタリの仕事でした。

お花を習い始めたころ 25歳

結婚、子育て、そして離職

結婚は部署が違いますが、同じ職場内結婚でした。子供にも恵まれ長女、長男、次女の3児を育てました。共稼ぎでしたから、子育ては実家の母にかなり助けてもらいました。

子供たちが反抗期を迎え、思春期に入る頃、不登校やひきこもりといった問題が次々と起きました。末っ子の小学3年の娘が原因不明の頭痛を訴えるようになりました。心因的なものだったのだと思います。それぞれの子供たちが発するSOSに気付き、「ママお仕事辞めて」と言われたことがきっかけで私の迷いも吹っ切れ、「後悔したくない」と24年余務めた仕事を辞めることにしました。

好きな事をやろう

子供たちと向き合い、子供の悩みを我が事のように悩み、子供に寄り添うことで、自分自身がストレスを抱えるようになってしまい過呼吸が起こるようになりました。「母親って元気じゃないとできない」と感じるようになりました。ストレス解消のための「好きな事をやろう」と思いました。 「私が好きな事はなんだろう?」と思った時に「お花」が目に浮かびました。お花に心身ともに救われ、一番辛かった時に癒してくれた「花」をライフワークにしてみたいと思うようになりました。

銀座の花屋さんはスズキフロリストと言って銀座で昭和28年に開店した老舗の花屋さんでした。奥様であり日本フラワーデザイナー協会の重鎮でもある「故鈴木紀久子先生」が花屋の2F「学苑サロン・ド・フルール」でお花を教えていらっしゃいました。

紀久子先生は、生花で作る「カーネーションの動物」を考案された方でした。今でも特に母の日の前には、全国津々浦々のお花屋さんにカーネーションで作られた可愛いプードルなどが並びます。
考案された時は周りの方に「特許を取れ」と散々言われたそうです。でも、「特許をとってしまったら限られた方しか作れなくなってしまう、そうではなく、生花で作った可愛いプードルを多くの方に楽しんで欲しいと思ったから特許を取らなかったのよ!」とおっしゃっていた満面の笑顔を今でも忘れることができません。

フラワーデザイナーとしてのアイデアやたくさんの引き出しを持っていらした先生で、音楽大学ご出身という異色の経歴を持っていらした先生とは良く音楽のお話に花が咲いたこともあり、お花に関する基礎はもちろん、感性や多くのことを学べたことが私のその後に繋がりました。

子供達が落ち着き始めたころ、お花の業界に派遣社員として勤めるようになりました。ブライダルを専門とするお花屋さんやホテル、銀座のお花屋さん、商店街や駅前のお花屋さんなど・・・その土地・その場所に花屋さんを必要とする人がいて・・・様々なお店で勉強させてもらいました。学苑サロン・ド・フルールで学んだことで、どんな店に行っても「即戦力」を発揮することができ、自信につながりました。

そして、鬱鬱としていた自分が花に助けられたこと、活力がアップし心とからだの健康につながったことから、自分と同じように子育てに悩むママさんが、子供を連れて行ける場所、疲れを癒し、おしゃべりを楽しみ、育児情報を交換できる場所・・・お花で子育て支援を行う「ワークショップ」を開きたいと思うようになりました。
flowerdesign陽Haruを立ち上げ、気軽に手軽にお子様連れで参加できる1DAYの「ママもみんなもお花でホッとタイム 花あそびワークショップ」という出張ワークショップや出張お花屋さんなど、定期的な場所を始め、お声を掛けていただきいた場所に出向いています。

出張ワークショップの様子

子育て支援ボランティア「花音」

始めた当初、お花を持ち込み子供連れでママさんが集まれる場所を探すのが大変でした。会場費が高いと子育て中のママさんたちの敷居が高くなってしまいます。スポーツセンターに目をつけて、あちらこちらに電話を掛けて、引き受けてくれたのが「西スポーツセンター」でした。(残念ながら運営者が変わってしまい現在はこちらでは開催していません)月1回土日に開くことに決めました。せめて花を安く仕入れようと仕入れ先を大田市場に変えました。東京の大田市場には十数件の問屋があり、品揃えが豊で値段にも幅があり、安価で良いものを揃えることができました。

そんな折り、西区役所にある「にしとも広場」で地域づくり大学校というのが開かれていることを広報で知り、「子育て支援ワークショップ」を開くにあたってのノウハウを教えてもらいました。そこで「にこまち助成金」制度があるという情報を得て、仲間と子育て支援ボランティア団体「花音」を立ち上げ代表になりました。

この2.3年はコロナ禍で、子育て中のママたちが集まれるイベントなどが激減してしまいました。でもこんな時だからこそ、子育て中のママさんを孤立させてしまうのではなく、「花や緑のちから」でホッと一息ついてもらえたらと思います。
「花音」は西区のどこかで月1回、1回1,000円のお花代のみで「託児付きのお花のワークショップ」を開催しています。
季節を取り入れた内容を毎月考えていますが、クリスマスシーズンに入るころはクリスマススワッグなどをみんなで楽しく作りたいですね。

今年の6月花音

あなたにとっての横浜とは?

子供の頃から大好きだったフルート。しかし、それを仕事にした時に味わった苦悩と挫折。ずっと演奏から距離を置いておりましたが、4年前再びフルートを手に取り、高校生の時に通っていたフルートの師匠に再度習い始めました。フルートの師匠「志村千鶴先生」は「てづくりの音楽会」を手掛け、テタール木管合奏団などでコンサートを開催しています。お話や映像と音楽を融合させた老若男女楽しめる0歳から入場可能なコンサートです。「日本ももっと気軽にコンサートが聴ける環境になって欲しい。音楽にプロもアマもない。もっと演奏を楽しんでどんどん発表するといいわよ。」と言う師匠の言葉に背中を押され、ボランティア活動で知り合った友人達と一緒に音楽ボランティアを立ち上げ、福祉施設などでランチタイムコンサートなどを開いています。

「私にとっての横浜」は「繋がりの街」です。
都会は人とひととの繋がりが希薄になっていると良く言いますが、私自身は友人たちや近所のおばちゃま方に辛いときに「井戸端会議?」で話や愚痴を聞いてもらったり、励ましてもらったり、お裾分けをいただいたり(昨日も近所のおばちゃまから栗ご飯とちらし寿司をいただきました((笑)))と、とても繋がりを感じており凄く助けてもらいました。
「いくつになっても子供は子供。大きくなっても成人しても結婚しても、一生子供の悩みは尽きないわよ!」とご近所のおばちゃまに言われたことが今でも脳裏に焼き付いています。
お花の仕事を自分でするようになってからは、更に繋がりが増え、ジャンルを問わず様々な方と繋がり助けてもらい、刺激をいただいています。
今回のこの記事のお話もまさに「横浜での繋がり」から導かれました!
生きていく上での障壁や生きづらさ悩みは、多かれ少なかれ誰もが抱えています。お花や演奏を通して繋がりがどんどん広がり、自分自身も、参加してくださる皆さんも抱えている重荷を少しでも降ろし、心身ともに元気になっていただければ嬉しいです♪

私にとっての横浜は、「繋がりの街」です

 

 

(インタビューと文:高野慈子平安山美春

 

 

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ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

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