横浜アーティストのサポーター役に徹しています
株式会社 高野商店 専務取締役 高野慈子さん
「ヨコハマ趣味人」第8回目は、株式会社高野商店の専務取締役高野慈子さんです。高野さんはご自分で詩を作るだけでなく、横浜のアーティストのサポーターとしても八面六臂のご活躍です。そのバイタリティーに迫ります。
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高野さんの趣味はどこから始まったのですか
私は厳しい家庭に育ちました。祖父が大学教授(哲学、英語、ドイツ語)。父がレコード制作会社、母が小学校の先生、叔父がN響のホルン奏者、叔母がピアノとフルートの先生だったせいもあって、幼い時から詩や音楽・バレエ・日舞が好きでしたね。
とにかく流行に敏感でした。中学校の文化祭では、フォークダンスを有志でゴーゴーダンスに替えてしまったことも・・・後で校長室に呼び出されて大目玉を食らいました。グループサウンズを聴くと不良だって言われた時代です。そう、ミニスカートを履いたのも小さな町では一番早かったと思います。反抗期だったしね(笑)。
高校卒業後、1年間アメリカのアリゾナ州に留学しました。メキシコに近い場所だったことも影響してラテン的な性格になったようです。すべてが「アスタマニャ~ナ(明日なんとかなるさ)」「ケンセラセラ」の毎日でしたから(笑)ボランティア活動も留学時代に経験しました。
OL時代は映画に夢中でした。年間100本の映画を殆んど試写会で観ました。映画のモニターをしたりキャッチコピーを考えたりしていました。ジョーイという映画が上映された時「ジョーイの笑顔が涙の中で光って見えました」という私のキャッチコピーが映画館の前に大きく書かれてあった時は凄く感動しました。
英語の歌詞を訳すアルバイトをしながら、自分の詩も書きました。厚いバインダーに綴じて持ち歩いていました。レコード会社に3~5,000円で売れた時は本当に嬉しかったです。ペンネーム「安希子」っていう名を考えたのですが、世はシンガーソングライターの時代に移っていき、詩は全然売れなくなりました(苦笑)
結婚されてからの「趣味生活」はいかがでしたか
25歳でお見合い結婚をしました。嫁ぎ先は、1950年創業の「冷凍冷蔵空調部材商」の老舗でした。周囲から結婚に反対されましたが、夫に惚れてしまったので・・・(笑) 今思うと主人は働き手が欲しかったのですね。なぜって、姑とは40歳の年の差がありました、姑は早く嫁さんに仕事を移したかったに違いありません。今の私がそう思いますから、息子に圧力をかけたと思いますよ。(笑) 店は舅と姑と私の「3ちゃん経営」で、夫は空調や厨房の設備施工に出て留守が多かったです。 横浜で有名なシウマイ工場や中堅スーパーがお得意様でしたから・・
1980年に長男が、翌年に長女が生まれました。子育ての傍ら、私は経営にも参画して1982年から1年かけて、財務管理をコンピューター化しました。1990年には高野商店を「株式会社」にしました。急激な改革に舅がとうとう挨拶以外の口をきかなくなりました。本当に腹が立ったのでしょうね。 幼い娘が私と舅のパイプ役でした。
社員が増えていくと私はいろいろな会合に出るようになりました。xxxクラブとかxxx会とか、いろいろな役を引き受けて有頂天になっていましたね。趣味の生活よりもセレブな生活に憧れた「おバカな頃の話」はそのくらいにいたしましょう。
人生の転機をどう迎えたのですか
1999年に社長が脳出血で倒れて右半身付随になってから、生活が一変しました。
夫のリハビリーを手伝う毎日の中で、身障者の会「やたろう会」を作りました。「なんでもやってやろう」という気持ちを大切にしようと、ボランティアグループを作りました。グランドゴルフやレストランでの食事会、音楽会への参加など行いました。(現在は活動をしていません)
バブルが崩壊する直前の頃です。まさか建築業界がこうも冷え込むと思ってもいませんでした。だから借金をして4階建ての新社屋を建てました。 |
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やがて厳しい現実が会社の経営に数字となって現れます。社長が現場に出られなくなって、工事の受注が無くなりました。その上、不渡りをつかまされてしまい心中をも考えました。
気持ちの逃げ場を探しに、ある中小企業家の集まりに出てみました。そこで「重荷を下ろす時は、どう下ろすかを考えなさい」という一つの言葉に助けられます。下ろし方を考えれば「下ろしていいんだ」と思いました。退職金の支払いが出来る内に、社員全員に辞めてもらいました。
その年の春、娘が関西の有名大学に合格しました。学費をどう工面しようか、大学2年の息子とも相談しました。「二人分の学費は無理よ」と言うと「社長になるのに学歴はいらない、外で働く妹には学歴が必要だ」と息子は大学を中退し、日中は会社で働き、夜間の電気専門学校に行ってくれました。嫁入り資金にと貯めたお金とアルバイトで娘は大学に行きました。
本当に死に物狂いでした。午前7時から午後9時まで休みなく働きました。生活費を切り詰めて人に言えないほどの赤貧生活を送りました。
その強さはどこから生まれてくるのでしょう
息子が会社を継ぐと言った時に母として強くなりました。息子に自分達の借金を残すことはできないと思いました。7年間がむしゃらに働いて3年前から無借金経営になりました。
今思うとそのときに私は変わりました。安いジーンズとTシャツを着て「専務」から「おかみさん」へ変身しました。
昔の3ちゃん経営だった頃のようにお店に出るようになって、忘れていたお客様の顔がはっきり見えるようになりました。お客様が何を求めてこの店に入って来られるのか、それにどう対応したら良いのか・・・朝7:45に店を開け、午後7時まではお店の仕事、日曜祭日は伝票の整理や入力を一人やりました。夜は誰もいないのでクラシックを聞きながら仕事していました。PCのキーを音楽に合わせてピアニストになったつもりで叩くのです。
長い時間があっという間に過ぎていきます。音楽が助けてくれました。社員が増えた今でも日曜、祝日と夜はピアニストになったつもりでPCを叩いています。
横浜のアーティストとはどのようなお付き合いですか
私は人と人とのつながりを大切にしたいのです。自分がここまでこられたのはいろいろな人たちに支えられたからだと思っています。無神論者だけれど、人生の大きな節目には大きな力に助けられました。今度は私が「助ける番」だと思っています。
横浜には才能がありながら、苦労しているアーティストがたくさんいます。その人たちのお手伝いをしてあげたいと思うのです。
ミニコンサートの企画をしたり、CD-ROMのデザインをしたり、ポスター、チラシ、プログラムの製作といろいろなことをボランティアでやっています。素人の自分の作品が評価されるのは嬉しいですし、応援しているアーティストが評価されるのはもっと嬉しいし楽しいです。
また詩も書き始めました。知人の娘さんに曲をつけてもらっています。「あおむし紋次郎蝶」はユーチューブで聴けます。今は苦手なピーマンやセロリも大人になれば食べられる日もくるから、無理して食べて「野菜嫌い」になってはダメよというメッセージのある歌です。大人の女の歌「いつわり」はご想像におまかせいたします。
人に生まれたのだから人にしか作れない「芸術」を理解しようと思っていますし、
人に生まれたのだから「情」を大切にし、人に優しくありたいと努力しています。
人に生まれたのだから「言葉」で人を不幸にしたくないと思っています。
人に生まれたのだから、いつも「人に生まれたこと」を考えるようにしています。
「あおむし紋次郎蝶」
歌: mizue Web: http://miziro.seesaa.net/ 作曲: みやしたまきこ Web: http://maco-lab.com/Top.html アニメーション: Sato Noriyuki Web: http://fotologue.jp/girandola/ |
「いつわり」
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今熱中していることがあるそうですね
今はITが楽しいですね。好奇心が強い性格で、楽天ショップに出店したのも早かったです。楽天ショップで売上がトップクラスのものもあります。「冷凍空調エアコン工具のメガストア」が楽天での店舗名です。
http://www.rakuten.ne.jp/gold/megastore/
インターネット上の付き合いも面白いです。twitter(http://twitter.com/yappinn)を始めて今夢中になっています。すぐ反応があるのがいいですね。実は昨年の11月まではITとETの区別もつかないくらいのレベルでした。ITの勉強会に参加しているのですよ。 |
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