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山手本牧今昔散歩道(1)

by staff on 2011/2/10, 木曜日

 皆さんは、西岸良平さんの「3丁目の夕日」たぶんご存知かと思います。昭和20年代から30年代、戦後の変貌していく人情や文化をとおして私たちになんともいえない郷愁を感じさせてくれます。

 私は生まれてからほとんどを中区の山手駅周辺から動いていません。(途中新婚時代を港南台の カンカンアパート* で過ごしましたが)最近、横浜の中区それからこの山手駅から本牧にかけて繁栄どころか、どんどん町に元気がなくなっていくのがとても寂しく感じられます。何とか地元を活性化させたいと思ったのですが、まずはこの地域がどんなところであったのか。私の実体験を元に皆さんにお伝えしながら新しい何かを生み出せていけたらと、ヨコハマNOWさんにお願いしてこのシリーズを書かせていただくことになりました。

 私は、昭和31年に市大病院で生まれました。それまで両親は武蔵中原のお寺に下宿していましたが、母の妊娠をきっかけに当時、県の住宅供給公社がモデルとして作った団地に引っ越しました。それが山手駅近くの竹之丸住宅です。この住宅は入居のハードルは高かったと聞いています。(所得も高めに設定されていたようです)。そういえば、隣はパンナム(もう無いですが)のパイロットでしたし、松竹の俳優、外資系 etc.もちろん当時は山手駅なんてものはその影すら見えず、立野小学校の脇には引揚者の住宅が並んでいたそうです。

 私が物心ついた時には引揚者の住宅こそなくなっていましたが、団地の周りは防空壕だらけの山。清水が流れ小さな川になっていて溜りには鯉が泳いでいる。仲尾台の山には野犬の群れがいたりして、それはワイルドな土地でした。どうして県はそんな場所にモデル団地を建てたのでしょうか?何かありそうです。その後、根岸線が開通し山手駅が出来たときには山は崩され、立野小学校は旧校舎から新校舎へ移り、仲尾台中学は港中学の分校から独立していました。でもなぜ大和町商店街は駅もないのに山に向かって一直線に存在していたのでしょう。かなり長い直線の通りです。旧市電通りの入り口には映画館もあったし、なにか歴史的な意味がありそうです。私自身知らないまま地元で55年もいたのも恥ずかしく、この辺から探ってみようと思います。

 今私は14歳のときに引っ越した緑ヶ丘高校の近くの西武団地に住んでいます。本牧も変わりました。アメリカのベースキャンプがなくなった後、マイカルが出店、撤退。今はその残骸だけが残る町です。大和町から出発して本牧を終点にした散歩にしばらくお付き合いください。

*注 カンカンアパート
外階段の2階建てアパート。階段を昇降するとカンカン音がすることから。某財閥の息子が尋ねて来た時にこう評していました。

 

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