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「近代地図に見る東海道と三宿」を読み解く(神奈川宿~保土ヶ谷宿編)。
横浜都市研究会 石黒徹さん

by staff on 2011/3/10, 木曜日

イントロダクション:このシリーズについて

 ”「近代地図に見る東海道と三宿」を読み解く”は、「市民グラフ ヨコハマ」に載せた「近代地図に見る東海道と三宿」を多少加筆修正して掲載する予定でした。加筆修正するにあたって、明治の基本地図を「迅速測図」から視図が描かれている「迅速測図原図」に切り替えました。これにより「迅速測図」には描かれず原図にのみ描かれた「視図」を資料として利用しようと考えたのです。視図に描かれた地形・地物は、著名なものだけではなく、路傍の樹木や祠[ホコラ]、社寺仏閣、坂や河川の断面図などがあります。作業を始めてみると、机上作業では坂道等の従・横断図から空間性を読み取ることが難しいとことが分かりました。そのため今回の掲載分から、地図を片手に東海道をブラ歩きしつつ視図に描かれた空間を追体験し、ビジュアルに「近代地図で東海道と三宿」を読み解いていくことにしました。

台町~追分

 青木橋を渡り、坂を登りきると幕末に横浜居留地警備のために設けた神奈川台関門の跡がある。ここから坂はゆるやかな下りになりその途中に「上台[カミダイ]橋」が現れる。上台橋付近には神奈川宿の上方見附があったそうで神奈川宿の西の端といえる場所である。近辺を迅速測図原図(以下「迅速原図」)で見ると、東海道の南側は「平沼」と記された入江になっている。上台橋から横浜駅方面を眺めると、神奈川県下有数の商業地として高層ビルが林立しており、平沼の沖合いを陸蒸気が煙を棚引かせながら驀進していたことを思い描くことは難しい。

 迅速原図には上台橋付近から東海道の北側(陸側)に長さ約320m、幅約30mの細長い池と、概ね下りが終わる付近に「高嶌[タカシマ]橋」が描かれている。この池や高嶌橋は江戸時代後期に作成された「東海道分間延絵図」には描かれていない。察するに、この池は横浜・新橋間の鉄道敷設に伴い神奈川停車場から横浜停車場(現桜木町駅)間を線状に埋め立てた時に、高台を突き崩しその用土を船で運搬した痕跡であり、高嶌橋の橋名は鉄道敷設を請負った高島嘉衛門に由来すると思われる。この池の北側の高台は、その後の平沼の埋立にも利用されたようで、突き崩した跡の崖はさらに現在の「沢渡中央公園」北側まで後退し池は消滅している。


上台橋から横浜駅西口を臨む
 

 東海道をさらに進むと「環状1号線」に合流し、南西に約500m行くと「浅間下交差点」に行き当る。この場所から「横浜道」(現在の横浜生田線)が南東に分岐している。この横浜道は開港場建設のために築造されたもので、芝生(シボウ)村から海岸沿いに戸部坂、野毛の切り通しを経て吉田橋の関門に至っていた。

現在の浅間下歩道橋から横浜道を遠望すると、その延長線上中央に現代の横浜のシンボル「ランドマークタワー」が聳えている。何か横浜道が、開港から現在までの時空間的つながりを垣間見せてくれているようである。

 
浅間下交差点から横浜道遠望

 浅間下交差点から東海道は環状1号線と別れるが、道筋の一部が「浅間下公園」になり失われている。多少迂回して進むと富士の裾野に通じるといわれた「富士人穴」で有名であった「浅間神社」がある。迅速原図には「浅間社入口」の視図に描かれている。その姿は、現在と比べてみても概ね同じ構図になっている。


視図(浅間社入口)
 
現在の浅間神社入口

追分~本陣跡

 東海道を浅間神社からほぼ南南西に向かうと「八王子道」が分岐する追分に至る。この八王子道は、開港当時は八王子から生糸を運ぶ「絹の道」として横浜を支えた歴史の道の一つである。
 追分を抜けると迅速原図に東海道の両側約350mにわたり松並木が描かれている。現在の「(興福寺)松原商店街」の店の並びは、松並木にちょうど重なっている。この賑いのある商店街は昭和27年に「松原安売り商店街」として発足したとのことであるが、『松原』という名称は松並木があった土地の記憶が反映したものであろうか?
 「国道16号」を渡り迅速原図に描かれた松並木が概ね途絶えた附近に「江戸方見附」の跡があり、ここから「保土ヶ谷宿」ということになる。


追分付近
 
松原商店街(2011.01.29 午前)

 保土ヶ谷宿は、日本橋を出て品川・川崎・神奈川に次ぐ4番目の宿場で、慶長6年(1601)に成立している。日本橋からは8里9町(1里は約4km、1町は約109m)の距離にあり、神奈川宿からは1里9町という極めて近接した距離にあった。保土ヶ谷宿は保土ヶ谷町、岩間町、帷子(カタビラ)町、神戸(ゴウド)町の4町から構成され、宿内の町並みの延長は18町余りであったという。

 相模鉄道の天王町駅を通り過ぎたあたりに帷子川に架かる「帷子橋(新町橋)」があった。帷子橋は「江戸名所図会」にも挿絵が掲載されている本格的な板橋であるが、迅速原図では帷子橋が帷子川の川筋に直交して架けられていることにより、東海道の道筋は約45度折曲がり、橋を渡った位置から再び元の道筋と並行する線形になっている。帷子川は戦後の河川改修により現在の位置に川筋が移動し、相模鉄道天王町駅の南側にある「天王町公園」に帷子橋跡のモニュメントが設置されている。

 
帷子橋(江戸名所図絵 著者蔵)

 帷子橋跡から旧保土ヶ谷宿内を約1km進むと杉田、金沢、鎌倉に向かう「金沢鎌倉道」が分岐する入口に「金沢横町」として昔の道標が置かれている。

 さらに「東海道本線」の踏切を渡ると正面に保土ヶ谷宿の本陣跡が現われる。その地点で東海道は約110度に折れ曲がる。迅速原図には旧本陣の場所に「保土ヶ谷警察分署」の視図があり、火の見櫓と半鐘が描かれている。当時の警察は消防も兼務していたようである。

 現在、この本陣跡の前で東海道の道筋は「国号1号」が合流している。保土ヶ谷付近の国道1号は、関東大震災後の復興事業の一環として、保土ヶ谷宿から離れた東海道本線に並行した幅員18~22メートルの新設路線として整備された。

 この迅速原図に描かれた保土ヶ谷宿の町並みは約3kmにわたって連担しているが、神奈川宿に較べると沿道の家並みは密集しておらず近世の景観が色濃く残っていたようである。

 
視図(程谷駅警察分署)
保土ヶ谷本陣跡(正面)

近代の保土ヶ谷周辺


 

 近代の保土ヶ谷周辺では、明治20年(1887)7月に横浜・国府津間の鉄道が開通、保土ヶ谷駅が開設された。
 さらに、昭和元年(1926)12月に神中鉄道(現相模鉄道)の二俣川・星川(現上星川)間が開通、昭和4年2月には西横浜まで延伸している。
また、大正12年(1923)4月に保土ヶ谷・南太田間の南部道路が整備され保土ヶ谷と横浜関外との結びを強めた。
 なお、帷子川流域では川の水利を利用し、明治期から輸出用のスカーフなどを生産する中小の捺染[ナッセン]工場が上流に立地するとともに、下流には大正期にすでに富士瓦斯紡績、東京麦酒(後に大日本麦酒が買収、その後日本硝子)、東洋電機などの大規模工場が進出し、工業地帯として様相をみせていた。しかし、現在は工場移転等によりその跡地は業務施設や大規模マンションに様変わりしている。

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