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第二回 『オッペケペー節』『横浜市歌』 ヨコハマドリームに満ち溢れた明治時代

by staff on 2010/6/10, 木曜日

横浜山手の事始め

 歌でつづる横浜の歴史第二回です。
今日は明治時代の山手の様子からお話いたしましょう。

 西洋文化がもたらした横浜山手の事始めは50を超えると言われています。そのうち私にとって代表的な3つを挙げてみます。まずビール。1870年(明治3年)、山手の湧水を利用してウィリアム・コープランドが、ビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」を開業しました。これは現在の麒麟麦酒株式会社につながっています。

 二番目がテニス。日本で最初の様式公園でもある山手公園にテニスコートが作られました。1874年(明治7年)にイギリスでローンテニスが始まり、その2年後の1876年(明治9年)には山手公園で初めてテニスが行われています。山手公園には、ウィンブルドン選手権が始まった翌年(1878年)にできた歴史のあるテニスクラブがあります。

 そしてヒマラヤ杉です。ヒマラヤ杉はブルックが、苗木をインドのカルカッタから、取り寄せて移植したのが始まりです。まっすぐ大きく育つヒマラヤ杉はヨコハマ山手付近だけでなく全国各地で見られますね。
 

心に自由の種をまけ

 横浜山手に西洋文化が入ってきたときの世相はどうなっていたのでしょうか。

 慶応3年(1867年)、徳川幕府15代将軍慶喜が大政奉還して、翌年から明治時代となりました。いわゆる明治維新です。幕末から明治にかけて、世の中はめまぐるしく変化していきます。250年の鎖国の遅れを取り戻すべく、日本中が欧米並みの近代国家を目指してまっしぐらでした。「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」。明治政府は明治4年、断髪令を発令して、チョンマゲや帯刀はご法度。欧米並みの制度にどんどん変えていきます。そして日常の暮らしぶりにまで何かと干渉していったのです。ペリーが横浜にやって来たときに、一番驚いたという既婚婦人のお歯黒や男女混浴の習慣にもこの頃、禁止令が出ました。

 明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が発布されますが、これは欽定憲法であり、国民の意思が反映されたものではありませんでした。国民の自由が制限されてゆく中で、川上音二郎(1864年~1911)という血気盛んな壮士は、自ら芝居の一座を興し、その幕間で強烈な政府攻撃を行いました。彼は関東での旗揚げに、この横浜の地を選びました。伊勢佐木町1丁目あたりにあった「蔦座」という芝居小屋がその場所だと言われています。明治23年(1890年)のことでした。

 
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横浜山手公園入り口ににある案内板
山手公園は日本初の洋式公園。横浜山手公園入り口ににある案内板
 
横浜山手テニス発祥記念館
横浜山手テニス発祥記念館
横浜山手テニス発祥記念館
横浜山手テニス発祥記念館
 
横浜山手テニスコートで汗を流す
プレイヤーたち
横浜山手テニスコートで汗を流すプレイヤーたち
 
横浜公園内のヒマヤラ杉
横浜公園内のヒマヤラ杉

 音二郎の人を食ったような口調で演ずる「オッペケペー節」の自由民権思想の口上は、庶民にヤンヤの喝采を受けたのです。うわべだけの文明開化風俗などを強烈に風刺しながら、「心に自由の種をまけ」とやったのです。横浜のリベラルな風土は、こんな歌を熱狂的に受け入れて、やがて「オッペケペー節」は全国に広まっていったのでした。

オッペケペー歌 (川上音二郎 作詞  作曲者 不詳)

亭主の職業は知らないが おつむは当世の束髪で
言葉は開化の漢語にて 晦日(みそか)の断り洋犬(カメ)だいて
不似合いだ およしなさい 何にも知らずに知った顔
むやみに西洋を鼻にかけ 日本酒なんぞは飲まれない
ビールにブランデー ベルモット 腹にも馴れない洋食を
やたらに食うのも負け惜しみ 内証でそっとへどはいて
まじめな顔してコーヒ飲む おかしいネ
オッペケペー オッペケペッポー ペッポーポー

権利幸福きらいな人に 自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい
オッペケペッポー ペッポーポー
かたい上下(かみしも) 角取れて マンテルズボンに人力車
粋な束髪ボンネット 貴女(きじょ)に紳士のいでたちで
うわべの飾りはよいけれど 政治の思想が欠乏だ
天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ
オッペケペー オッペケペッポー ペッポーポー
 

  川上音二郎
川上音二郎 1864(文久4)年~1911(明治44)年
「オッペケペー歌」の一部をお聴きください

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横浜市民意識の高まりと開港50周年の記念事業

 明治政府は政治の近代化を求める自由民権運動には圧迫を加える一方で、「総選挙の実施明23年(1890年)で近代化を図りますが、これも選挙権は25歳以上で高額所得の男子に限るなどの厳しい制約がありました。近代国家の体裁と中身には大きな隔たりがあり、真の自由と平等を求める自由民権運動はその後も根強く進められていきます。

 横浜の市制が敷かれたのもちょうどこの頃、明治22年(1889年)のことです。当時の面積は5.4平方キロメートルで今の西区より狭く、人口は12万人でした。規模は小さかったのですが、人口密度は360万が住む今の横浜市の3倍もありました。日本全国から「ヨコハマ・ドリーム」を求めて多くの人たちが集まってきていたのです。一旗あげたい人が続々と集まってきた当時の横浜市民のエネルギーは凄かったでしょうね。

明治42年(1909年)には、横浜開港50周年にあたるということで、この年に市のマーク「市章」と市の歌「市歌」が制定されました。

横浜市市章  

 市章は市民から募集して作られたものです。当時の横浜市職員の応募作が採用されました。ハマの2字をデザインしたもので「浜菱マーク」と言われています。今でもマンホールの蓋で見ることができます。

 横浜市歌の作詞は皆様よくご存じの明治の文豪、森鴎外(森林太郎)です。作曲は東京音楽大学助教授だった南能衛(よしえ)です。当時の5代目市長の三橋信方さんが直接、森鴎外に作詞を依頼したと言われています。まず曲が先に完成してそれに森鴎外が詩をつけました。

横浜市歌 (作詞:森鴎外 作曲:南能衛)

わが日の本は島国よ (わがひのもとはしまぐによ)
朝日かがよう海に (あさひかがよううみに)
連りそばだつ島々なれば (つらなりそばだつしまじまなれば)
あらゆる国より舟こそ通え (あらゆるくによりふねこそかよえ)

されば港の数多かれど (さればみなとのかずおおかれど)
この横浜にまさるあらめや (このよこはまにまさるあらめや)
むかし思えば とま屋の煙 (むかしおもえばとまやのけむり)
ちらりほらりと立てりしところ (ちらりほらりとたてりしところ)

今はもも舟もも千舟 (いまはももふねももちふね)
泊るところぞ見よや (とまるところぞみよや)
果なく栄えて行くらんみ代を (はてなくさかえてゆくらんみよを)
飾る宝も入りくる港 (かざるたからもいりくるみなと)

  「横浜市歌」をお聴きください

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 この市歌は今でも市立の小学校で歌唱指導されていて、開港記念日(6月2日)や卒業式、市大会などの行事で、演奏・斉唱されています。横浜で生まれ育った人は、小学生から高齢者まで誰でも市歌を口ずさむことができます。日本では類を見ない実に100年以上にわたって歌い継がれているまさに「100年市歌」です。

 この歌で注目すべきことは、誇るべき港横浜の繁栄ぶりと共に開港前夜の横浜村の姿が描かれていることです。「~昔思えば苫屋の煙り、ちらりほらりと立てりし処~」の部分に象徴されます。もし1853年にペリー率いる黒船の来航がなかったなら、風光明媚な横浜村が開港場に選ばれることもなかったでしょうし、今の横浜もなかったでしょう。

 
 明治42年(1909年)7月1日、横浜開港から数えて50年目、横浜市が制定されて20年目の開港記念日に、開港50周年の記念式典が盛大に行われ、その時に横浜の市章と市歌が発表されました。式典では、軍楽隊の「君が代」吹奏、小学校児童による市歌斉唱、来賓祝辞などが行われ、参加者には、市歌と市の徽章を印刷した扇子が配られたそうです。当初3日間の予定だった祝祭は5日間に延長され、約20万人を集めたと言います。(当時の横浜市の人口は約40万人でした)。

 開港50周年で忘れてはならないのは、開港記念会館が建設されたことですね。
開港記念会館は、横浜開港50周年を記念して計画され、市民の浄財を持ち寄って建てられました。思うように寄付が集まらずに難産をしましたが、総工費37万円をもって明治42年の地鎮祭から8年後の大正6年(1917年)に完成しました。設計担当の山田七五郎氏は横浜市の初代建築課長です。落成式には、当時80歳の大隈重信侯や、世が世ならば16代将軍であったはずの徳川家達公爵はじめ1000名の来賓で会館は埋まったそうです。

 開港記念会館は、現在も横浜市の公会堂として多くの市民に利用されています。
シンボルである時計塔は、「ジャックの塔」という愛称で親しまれていて、神奈川県庁(キング)・横浜税関(クイーン)と共に、横浜三塔を形成しています。三塔を一望できるスポットを巡ると願いが叶うと言われ「横浜三塔物語」として観光スポットになっています。

 このように開港50周年の記念事業で行われたことは、今でも私たちの生活の中で息づいています。昨年の開港150周年と比べるとその違いがわかりますね。(笑)

 
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横浜開港記念館(ジャックの塔)横浜開港記念館(ジャックの塔)
 
神奈川県庁(キングの塔)
神奈川県庁(キングの塔)
横浜税関(クイーンの塔)
横浜税関(クイーンの塔)
第29回横浜開港祭 2010.06.02
第29回横浜開港祭 2010.06.02
第29回横浜開港祭 2010.06.02

 

吹奏楽と国歌「君が代」の発祥も横浜

ところで、吹奏楽と国歌「君が代」の発祥も横浜なのですよ。

 日本人によって初めて吹奏楽の演奏が行われたのは明治2年(1869年)です。薩摩藩の青年30名が横浜に派遣され、山手のわきにある妙香寺に合宿してイギリス陸軍軍楽隊長フェントンの指導を受けたのが始まりと言われています。

 薩摩藩軍楽隊はめきめきと腕をあげ、翌年には完成したばかりの日本初の洋式公園であった山手公園の野外音楽堂で演奏会を行ったのです。

 フェントンは明治政府に国歌の制定を進言し、その作曲を引き受けました。歌詞は、薩摩琵琶歌「蓬莱山」の一節「君が代は--」の部分を引用したものです。「君が代」は編曲が繰り返され、1880年(明治13年)に国家として公に披露されました。

 妙香寺の境内には「日本吹奏楽発祥の地」と「君が代由緒地」の碑が建っています。毎年9月15日には本堂で吹奏楽の演奏会を行っています。

 
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日本吹奏楽発祥の地日本吹奏楽発祥の地・妙香寺内
 
国家君が代発祥の地
国家君が代発祥の地・妙香寺内

 

ヨコハマ・ドリームに溢れる街

 開港50周年当時は、ヨコハマで一旗揚げようという「ヨコハマ・ドリーム」があふれていました。その当時の横浜市民の心意気や気概を今こそ見習いたいですね。

 さて、時代は横浜港が世界に名前をとどろかせた大正に移っていきます。
次回は大正時代のお話になります。御期待下さい。

 
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横浜を一言で表すと、との問いに、斎藤さんは「横浜・ドリーム」と書いてくださいました。
横浜を一言で表すと、との問いに、斎藤さんは「横浜・ドリーム」と書いてくださいました。

参考サイト

 

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ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

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