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がんばろう東北! がんばろう山元町!!
2011年4月4日 宮城県山元町に支援物資を届けました

by staff on 2011/4/10, 日曜日

東日本大震災発生 支援物資をかき集める

 3月11日に起きた東日本大震災の後、仙台市若林区に住む叔母と電話連絡がとれたのは2週間後の3月26日の朝でした。叔母夫婦の様子については従姉から聞いていたので安心していましたが、それでも肉声を聞いたときは思わず涙がこぼれてきました。
 叔母に私が支援物資として衣類を集めていることを伝えたところ、「私たちのことはいいから、避難所で困っている人たちに下着を届けてあげて・・・」と言われました。ダメもとだと思って宮城県災害対策本部に電話をかけてみました。

※1 衣類を集めた支援活動についてはこちらをご覧ください。
http://yokohama-now.jp/home/?p=4291

 なんと一回で電話がつながり、そのとき宮城県の担当者から言われた言葉が山元町へつながりました。
 「下着が100枚程度集まっているので、被災している方々に届けたいのですが・・・。」
 「宮城県南部で被害が大きかった亘理町や山元町へ直接届けてもらえるなら、お願いします。」
 私はそのとき山元町という名称を初めて耳にしました。早速、町のホームページを見て津波で町は壊滅状態になり物凄い被害が出ていることを知りました。(16000人強の人口のうち死者・行方不明者が1000人程度、避難している方が3000人以上)

※2 被害状況は日々更新されています。詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.town.yamamoto.miyagi.jp/jishin/oojishin.html

横浜と宮城。2つの「山元町」を繋ぐ

 山元町災害対策本部に電話して下着類を届けたいと伝えました。
 「津波による被害が甚大なのに、マスコミに取り上げてもらえなくて支援物資が集まりにくいのです・・・。」と隣の角田市から応援に来ているという担当者に窮状を訴えられました。山元町のホームページには不足している物資が詳しく記載されています。電話を切った後に、支援物資を何とか現地に届けたいという思いが湧いてきました。

 山元町に支援物資を届けよう・・そう決心した時に、「山元町って、うちの近所の山元町と同じ文字だね。」と夫に言われました。「そうだ。横浜の山元町の方々にも協力を仰ごう。」思い立ったらすぐ行動です。
 横浜の商店街を熟知している「坪倉商店」の坪倉良和さんに相談いたしました。坪倉さんは電光石火に山元町二丁目商栄会の方々との面談の場を作って下さいました。

 「同じ名称なのも何かのご縁だね。困っているときはお互い様だよ。」と山元町二丁目商栄会の皆様は快く支援を約束してくださいました。山元町商店街だけでなく山元町の町内会も支援物資を集めるための回覧板を全戸に回してくださったのです。そして宮城県山元町に私が伺った際に先方に渡して欲しいと支援のメッセージを託されました。

※3 山元町の支援活動は4月8日の神奈川新聞に「同じ地名つなぐ支援」として掲載されました。
東日本大震災:同じ名前の被災地の山元町に支援、日用品など提供呼び掛け
-カナロコ 神奈川新聞社-

 私は宮城県山元町のパンフレットから、そこが「いちご」や「りんご」の産地だと知って、とりたての果物を横浜の山元町で販売できればいいな・・と勝手に考えていました。
 宮城県山元町の担当者に横浜の山元町が支援したい旨を電話で伝えたときに、「山元町のいちごをこちらで販売できればいいですね。」と話してしまったのです。
 「渡邊さん・・山元町のいちごのビニールハウスはすべて津波でやられました。うちの町から出せるモノは何もないのです。」そう言われたときに私は今回の被害の凄さを改めて知らされたのです。

※4 宮城県山元町のパンフレット
http://www.town.yamamoto.miyagi.jp/kankou/pdf/map.pdf

※5 4月5日の毎日新聞に、「東日本大震災:「仙台いちご」打撃 津波でハウス流され」という記事が掲載されています。
http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20110406ddlk04040088000c.html

いざ、宮城県山元町へ

 ありがたいことに「ヨコハマNOW」でお世話になっているスタジオ・リスト―ナの親会社イディアコーポレーションから支援物資の運搬用のトラックを出していただくことになりました。
 神奈川県中小企業家同友会の会員から送られた支援物資と私の自宅に送られてきた支援物資を2トントラックに積み込んで、我が家からは自家用車で4月4日の早朝宮城県山元町へ出発しました。
 宮城県山元町に向かったメンバーは、「ヨコハマNOW」の編集長の辰巳、秋田高校の同級生の今野さん、そして夫と私です。
 東北自動車道は何の問題もなく順調に通過しました。
 車窓に広がる風景はのどかな田園地帯でしたが、福島県に入ると屋根がビニールシートで覆われている家が見えて、地震による被害を感じさせました。

 
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左から今野さん・ドライバーの岡本さん・渡邊・辰巳(ヨコハマNOW編集長)

 宮城県白石インターチェンジの駐車場で、私たちはトラックに「がんばれ!東北 がんばれ!山元町」のメッセージを貼りつけました。

 トラックは一路、山元町役場に向かいました。それまでの道中では津波による被害を見ることはありませんでした。到着した山元町役場は高台にあり立派な建物でした。役場前には自衛隊の自動車やテントがたくさんあり、非常時だということが感じられました。お昼時だったので役場の隣の中央公民館では自衛隊による炊き出しが行われていました。

 
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 役場前には伝言版があり、いまだに安否確認のメッセージが貼られていました。伝言版の横には津波が着た地点と時刻を示す地図が貼られていました。赤い線のところまで津波がきていました。町の半分近くが津波に襲われたのです。

 
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 役場の中は騒然としていて人で溢れていていました。背広を着ている人は一人もいません。職員は皆、あわただしく動き回っていました。私がこれまで経験した役所の雰囲気とはまるで違っていてどこか殺気立った様子でした。役場の中には「りんごラジオ」というエフエム放送局があって、安否確認などの情報を放送していました。

 
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 災害対策本部は役場を入ってすぐのところにありました。山元町二丁目商栄会からの文書は、災害対策本部の伊藤さんに渡しました。「座るスペースもなく立ったままですみません。この文書は町長に渡します。」と言われました。総務課長の庄司さんにもお会いすることができました。

 
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 役場の前で支援物資の受付を済ませて、私たちは支援物資の集積場所となっている体育館に向かいました。
 支援物資は役場の職員にチェックされ、必要なものだけ受け付けられます。食料品や下着類は受け取ってもらえましたが、衛生用品(トイレットペーパー・おむつ・生理用品など)は必要十分です。とお断りされました。
 体育館では若い自衛官がかいがいしく働いていました。

 
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 体育館の中を見せていただきましたが、段ボールの多さに圧倒されました。これが3000人を超える方々の食料品、日用品なのです。仕分け作業を担当しているのはほんの数人のスタッフでした。

 
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 私は衣類の仕分け作業を経験していましたので、仕分けスタッフの方々の労苦がしのばれました。
 自治体が個人からの支援物資を受け付けないのは、少量の物品を仕分けて該当数になるまで保管・管理していくことが大変だからです。本来は3000個の同じ物品が届けられるのが望ましいのだと思います。

 持参した支援物資の半分をトラックに残して、私たちは避難所となっている坂元支所に向かいました。
 国道6号線を走っていくと、「津波の凄さ」を目の当たりにしました。海沿いには何もなくなっていたのです。
 津波が全てを持って行ってしまったのです。一面のがれきの山、まるで爆撃を受けたようです。胸がしめつけられ、涙があふれてきました。あまりの衝撃に言葉も出ませんでした。

 
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 坂元支所は、国道6号線から少し山間部に入ったところにあり、暖房も通っていて避難している方々も落ち着いている感じでした。秋田から「きりたんぽの炊き出し」を行うグループが到着していました。

 
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 避難所の受付をしていた自らが被災したという男性は、「ここには家が全壊した人たちが入っている。皆、着の身着のまま避難したので、家財道具はもちろんのこと預金通帳も持ち出すことができなかったんだよ。これからどうなるのか。不安だ。」と話されました。「そうですか・・・」私は何も言うことができませんでした。

 坂元支所で斎藤俊夫町長とお会いすることができました。斎藤町長は、横浜山元町からの支援については、とても有り難いとおっしゃって下さいました。今後の支援については、仮設住宅に入ったときに茶碗や箸など家財道具のすべてが必要になるのでそちらの支援をお願いしたいと話されました。昨年まで宮城県の職員だったという町長の顔には白髪交じりの無精ひげが生えていました。

 
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 トラックに残っていた衛生用品は、消耗品だから使って下さい。と強引にお願いして坂元支所に引き取ってもらいました。それでもまだ多くの支援物資が残りました。2トントラックから自家用車に積み替えましたが、ミニバンが段ボール箱で満杯になってしまいました。

震災の傷跡

 駅のほうに行ってみようと、私たちは車を走らせました。そこで見た光景は・・・一生忘れられないでしょう。国道を超えた津波は恐ろしい力であらゆるものを破壊していました。津波が人を生活を何もかも奪っていったのです。「いちご御殿」と呼ばれた豪邸も無残な姿になっていました。

 
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 常磐線の「坂元駅」があったところで車を降りました。駅の階段はぐちゃぐちゃにされ、線路は大きく曲がっていました。駅のホームは地盤沈下していてアスファイルトはうねっていました。駅前の案内版だけが津波の被害を受けずにポツンと立っていました。案内板の向こうにあった町は消えてしまいました。こんなことがあるのか・・・想像を絶する津波の威力の前に私は茫然と立ちすくんでしまいました。

 
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新しい出会い。そして支援を続る覚悟

 私たちと同じ時、同じ場所に一組の親子(成田さん)が言葉もなく立っていました。
 「どこから来たの・・・」と成田さんが私に話しかけてきました。横浜から支援物資を届けに来ましたと答えると、彼女は地震のときのことを話し始めました。
 「役場の防災無線が地震で壊れてしまったので何の連絡もなかった。家の外を郵便局の人たちが走っていくのを見て、津波が来ると思って急いで家族を車に乗せて高台に走った。一晩車の中で過ごして、自宅に戻って初めて津波による被害がひどいことを知ったの。」「友達も親戚も亡くなってしまったんだ。」
 息子さんは高校時代、毎日通学に使っていた駅の変わり果てた姿に言葉もないようでした。

 
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 荒涼とした町の姿を見つめながら話をしているうちに、彼女の家は坂元地区にあること、周囲には避難所に入れずに知人の家に身を寄せている人が多くいて、その方々には支援の手が回らないことなどがわかりました。それだったら、私たちの支援物資をその方々に渡していただけないかとお願いしました。そして善は急げと成田さんの家に行って、そこで残りの支援物資を引き取っていただいたのです。

 成田さんの家は壁が多少落ちているくらいで外見はほどんど被害がないように見受けられました。津波による被害を受けたかどうかで町民の生活はまさに天国と地獄、全く異なるものになってしまったのです。
 「津波を被った田畑は5年間は作付できない。」成田さんは悔しそう話されました。山元町はきっと肥沃な土地に美味しい農産物がたくさんとれる地域だったのでしょう。支援物資のお返しにといただいたホウレンソウはとても甘くておいしかったです。

 
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 豊かだった山元町の農地がよみがえる日がくるのでしょうか。その道のりは遠いかもしれません。
 でもあきらめません。東北はきっと立ち直ります。今こそ日本人の底力を発揮するときです。
 私たち一人一人が復興のためにできることから始めましょう。
 一人の力は小さくでも皆の力を合わせれば大きな力になります。
 がんばろう東北!がんばろう山元町!!

 私たちの戦いはまだ始まったばかりです。

 「ヨコハマNOW」ではこれからも東日本大震災で被災された方々への支援活動を続けていきます。
 皆様のご協力ご支援をよろしくお願いいたします。

 

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