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「レッドライト」 (連載第3回)

by staff on 2011/6/10, 金曜日


写真)鉄の道(鎌倉トレイル) 途中、切り通しがいくつかある

 港南区、特に区役所の近くには厚い砂鉄の層があり、かつて頻繁に落雷があったという。すぐそばを流れる日野川は沈殿した砂鉄のせいで、川底が赤くみえたそうだ。この砂鉄を集め、釜で溶かし、炭や藁を使って鉄をつくる集団、すなわちタタラをつかう製鉄職人たちが住んでいたというのも、自然な話である。

 伝説によれば、港南区日野に製鉄技術を伝えたのは、東征中のヤマトタケルだったとのこと。この周囲一帯にはたくさんの横穴墓があり、人骨やさびた刀剣が掘り出されていることから、いにしえより鉄作りが行われたことが伺える。

 頼朝が鎌倉幕府を開き武家政治が始まると、鎌倉は各地からの武士やその一族らで溢れた。たちまち武具や農具の需要が上昇。砂鉄と大量の炭を確保するための山林、そして良質の湧水が容易に手に入る日野や栄区一帯は、幕府を支える重要な兵站(へいたん)基地となった。

 そういうわけで、鎌倉時代に入っても日野には刀鍛冶の集落があった。日野川の下流から円海山の麓あたりまで、あちらこちらで「タタラの火」が、赤々と燃えていた。遠くからみたその様が、まるで火の海のようだったことから「火野(現在の日野)」とよばれるようになった。

 日野の周囲には「火」や「金」に由来する地名が多い。鍛冶ヶ谷(栄区)はその代表で製鉄関連の炉が18ヶ所、鉄精錬の炉が14ヶ所、製銅の炉が1ヶ所、砂鉄を掘り出した竪穴遺構、鍛冶ヶ谷式の横穴古墳などさまざまな製鉄関連の遺跡が点在している。

 氷取沢は、鎌倉時代には「火取沢」と呼ばれていたことが、鎌倉幕府の公的史書『吾妻鏡』の建暦3(1213)年の条に記録されている。
 区名にもなった「金沢」は、遠方の刀鍛治たちが金沢区の釜利谷(かまりや)の谷戸に移り住んだことに由来するという。埼玉県の秩父から鎌倉入りした畠山重忠は鍛冶職人たちをつれていたが、彼らは鉄鉱石の産地で武具生産の盛んな秩父の金沢村の出身だった。新しい土地にはまだ名前がついていなかったため、自分たちの出身地「金沢」の名をそのまま移したのだといわれる。

 さてタタラでつくった鉄鋼は、高度に発達した現代の冶金術をもってしても再現ができないほど、優れたものであるという。この技術の流出を防ぐためタタラ場は囲い込まれ、周囲から隔絶していた。そこは他に類を見ない異界だった。散る火花、走る湯玉、鳴り響く鎚の音。屈強なタタラ衆はある種、異形の衆であった。彼らはザンバラ髪で、一年中タタラを踏んでいるため足が片方だけ発達している。おまけに鉄の精錬具合を確認するため顔を近づけて火の粉にやられ、片目が潰れてる者もすくなくない。近隣の者は考えた。これは人間でない。片目、片足の妖怪だ。

 そのせいだろう。製鉄が行われていた土地ではお決まりのように「ダイダラボッチ(タタラ法師)」と「一目連(一つ目小僧)」の民話が伝わっている。( 港南区日野のダイダラボッチ伝説

 妖怪として語られたタタラ衆。察しがつくように、彼らと周囲の村落の関係は必ずしも良好ではなかったらしい。そこには血塗られた歴史もあったようだ。
 その一方、彼ら刀鍛冶たちは神の手を持つ人々でもあった。この時期に鎌倉郡でつくられた刀剣の中には、三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎が「金子に糸目をつけないから手に入れろ」と全国の古美術商に号令を懸けたことで知られる相州伝の「正宗」のような業物があった。

 タタラ場が点在していた栄区から港南区南部一帯は、古都鎌倉から見て「鬼門」の方角に当たる。「鬼門」は文字通り、鬼や霊魂が出入りする方角だが(*註)、刀槍や鏃(やじり)を注文する武士や鍛冶職人の通り道でもあった。

 そればかりか、ここには坂と切通によるいわゆる「鎌倉七口」以外の抜け道もあった。元弘3(1333)年の鎌倉幕府最後の日、中級下級武士は監視の薄い天園や氷取沢の山中をたどり、尾根道を下って磯子まで逃げ伸びた(横浜市内の鎌倉落ち武者伝説)。

 丘陵地帯のこの道は、東京湾と相模湾の分水嶺で武相国境の一部だった。標高は100メートルあるかないかでしかないが、壁のように切れ目もなく長大で国の境としてふさわしい存在だった。 この国境の道をたどってみると、栄区が旧・相模国鎌倉郡に属していることが分かる。一方、この道は港南区を南北方向に分断していることにも気づく。港南区は武蔵国と相模国の国境をまたいだ区なのである。横浜全区の中でも、歴史の連続性を無視して区境を策定したのは、港南区だけだ(余談になるが、横浜18区の大半は武蔵国に属していた。神奈川県にありながら、主要部が武蔵国に属していたのは興味深い)。

 かつて鍛冶集団が神霊や鬼達と共に通った道は、現在「鉄の道」と命名され、「鎌倉アルプスのトレイル」としてトレイルランナーやハイキングを楽しむ人々に親しまれている。道祖神や庚申塔の脇を抜け、山林にそびえる横浜市最高峰の大丸山(156メートル)の頂上に立てば、八景島や横須賀市内の眺望が楽しめるほか、空気が澄めば遠く房総半島の鹿野山を確認することが出来る。そればかりか遠い歴史の息づかいを感じることさえもできるのだ。

写真)ときおり、木々の隙間から広大な下界の広がりを俯瞰することができるのだが、山の麓まで迫った住宅地のあまりの近さに驚いてしまう。

写真)大丸山の頂からは、八景島や夏島を一望できる。
 
 

*註 横浜霊園や鎌倉霊園がこのあたりに存在するのは、鎌倉からみた方位が理由だと思われる。

 

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

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