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2011年6月 「人道主義」

by staff on 2011/6/10, 金曜日

 平成23年、西暦2011年の本年にも、薄暑の候、そして青葉の候、美しい6月がやってきた。 そして11日で大震災から3ヵ月となる。 各地でいろいろな催しがあるようだ。 横浜では脱原発パレードが行われる。 鎌倉とどけ隊は、支援を通じて交流ができた石巻市十三浜で音楽と癒しと食のイベントを行う。 日本列島、そして日本を思う海外の人々の心の中で、継続的支援が続くことを祈る。  センター南では、いつもの迷子のペットを紹介するボランティアの人たちがいた。 その中に二匹、福島県の原発地域の犬がいた。 聞いてみるとあまりに多くのペットたちがいて、助けられたのはほんの一握りだったという。 横浜市中区山元町の商店街からの宮城県山元町への支援第二弾を行うのと合わせてYOKOHAMA NOWでも、宮城県山元町への第二弾を行うことになった。 私も微力を尽くしたいと思う。 空いた家を持つ人たちのなかには、無償で家を提供したいと申し出ているひとたちも多いという。 しかしマッチングは少ない。 なぜだろうか。 物資がなかなか被災者の手元にうまくとどかない問題に、「ふんばろう東日本プロジェクト」 という必要な分を必要な場所に送る動きもでている。 市民による自主的な動きの底堅さと助け合いの精神の輝きを感じる。 信念なきところ、 秩序も進歩もない。 心の輝きで世界に日本を知らしめる必要がある。 その日本の伝統の一端を最近いくつかの事例で知った。

 時は今をさかのぼる1870年代、場所は横浜港だ。 そのころ二つの事件が起こった。 ひとつはイギリスの貿易商による【あへん密輸入事件】だ。 ジョン・ハートリーという英国商人は、明治5年(1872年)の初犯から何度も摘発されながら、優越的地位を巧みに利用し、横浜税関長を相手取った法廷闘争に明け暮れた。 その期間はなんと21年に及ぶ。 当時の不平等条約下では、英国人である被告の裁判権はイギリス領事にあったことや、あへんは、英国が中国を懐柔し乗っ取るための手段であったことから、領事裁判所での判決は同人に極めて甘かったのであった。 しかし歴代税関長は、ハートリーに対して粘り強く断固たる態度で臨み、21年かけて最終的に勝利した。 【アンタッチャブル】(手をくだせない難物)と恐れられたシカゴのマフィア、アル・カポネに対して、エリオット・ネスが、脱税を証拠に勝利したことを想起させる、横浜発のひとつの実話である。現物がある限り、違法物件の輸入に関して、執拗に訴え、懲罰的関税と社会的不名誉をもぎ取り、商売を不可能としたものと思う。

 もうひとつの事件は、人権にかかわる深刻なものである。 1872年7月10日、231人の清国人の船客(実際は奴隷的身分の苦力)を載せたペルー船「マリア・ルス号」が、清国からペルーに向かう途中、嵐に会い、帆柱が折れ、修理のため横浜港に入港した。 入港7日目、近くに停泊していた英国の軍艦「アイアンデューク号」の船員が、ふなべりにすがっていたマリア・ルス号の清国人「木慶」を救った。 話を聞くと、「船客とは名ばかりで、仲間はすべて監禁され、奴隷のような扱いを受け苦しんでいる」と話した。木慶は県庁で保護されたが、船長は県令(県知事)に会い、将来は親切に扱うと約束した。 これより20日たってイギリスの代理公使ワットソンから外務卿(外務大臣)の副島種臣に書簡が届けられた。 内容は、「マリア・ルス号は中国の沿岸からペルーに人夫を運んでおり、船中では残虐なことが行われている模様である。  領海でのこのような無法の行いは日本国政府としては許容しないものと判ずるが、追求する場合にはできる限り協力したい。」 といったものであった。 米国代理公使のセパードからも 「人権を無視した不正な奴隷輸送を行っている彼らを厳しく罰するよう期待する」 という連絡が入った。 政府ではこの問題に対して意見が分かれた。司法卿の江藤新平(佐賀出身の政治家、後に佐賀の乱にて処刑。享年40歳)と、神奈川県令であった陸奥宗光(不平等条約改定で有名な後の外務大臣) は我が国に法的権限なしとして、ペルーとのいさかいを避ける判断だった。 これに対し外務卿の副島種臣と神奈川県参事の大江卓は人道と正義を貫くべしとの意見で、政府はふたつに割れた。 結局、陸奥は辞職し、25歳の大江が陸奥の後任の県令となった。

 副島は人道主義と日本の主権独立を主張し、清国人救出の法的手続きを開始した。 マリア・ルス号は出港停止を命じられ、清国人全員は下船、船長は訴追された。 県庁に設置された25歳の大江卓を裁判長とする特設裁判所は、清国人解放を条件とする出港許可の判定を下した。 しかし船長側はこれを不服とし、イギリス人弁護士を擁して、移民契約履行請求の訴えを起こし、清国人を船に戻すよう要求した。 移民契約の内容が奴隷契約であり、人道に反するから無効であるという判断に対しては、イギリス人弁護人より、日本において最も醜い奴隷契約があり、それは遊女の約定であるとして、遊女の年季証文の写しを提出した。 また弁護人は、条約のない国の国民を裁く場合は、横浜外国人居留地取締規則により、各国領事立会いのもとで処理するきまりであったため、途中からイギリス、アメリカ、ドイツ、フランスなど各国領事の出席を求め、裁判は困難を極めた。 大江は、最終的にアメリカ人顧問の意見を参考のうえ、清国人解放と、船長の責任は追及しないという判決を下した。  日本寄港の3ヶ月後、清国人は全員母国に帰り、後日【夜半鐘声】という冊子を数千部印刷して、各方面に配布して感謝の意を表したほか、副島と大江に感謝のことばを刺繍した大旗を贈った。 この旗は、現在神奈川県立公文書館に保存されている。

 翌年、ペルー政府は海軍大臣を来日させ、謝罪と損害賠償を請求した。 この紛争には、仲裁条約が結ばれ、第三国のロシア皇帝、アレクサンドル2世は、国際裁判において、1875年、「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず、妥当なものである。」 とする判決を下した。

 目の前の現実に対して真摯に立ち向かう。 この単純で素朴な態度こそが、人間であることに誇りをもつ者が自然に取るべき態度であろう。 当時の世界各国の経済格差や人権無視の実態に対して、一隅を照らせたかどうかが、当事者たる者の矜持(きょうじ=誇りの意)であろう。 麻生太郎元首相は、日本人たる者の矜持という言葉を語ったが、本来人間とは、矜持の為にこそ、生きる種族であると考えるのは私だけであろうか。

 さて、マリア・ルス号事件では、人道を唱えた英米であったが、時はその20年前にさかのぼる。 フォーティーナイナーズという言葉で有名な1849年に始まったサンフランシスコのゴールドラッシュ。 そこでは、上院議員から州知事となり、後に、亡くなった一人息子の為に、リーランド・スタンフォード・ジュニア・ユニバーシティという正式名称のスタンフォード大学を設立したリーランド・スタンフォードら、泥棒貴族(ロバー・バロン)と呼ばれた事業家たちが、北米大陸横断鉄道建設に精をだしていた。 1852年2月、清国のアモイ港から英国船でカリフォルニアに送られる途上、虐待に耐えかねた400人あまりの苦力(クーリー:炭鉱、鉄道などに従事した低賃金労働者)は、ついに蜂起し、船長ら7名を殺害した。 船は石垣島に座礁、上陸した380人の人々に石垣島の人々は仮小屋を建て、住まいを提供した。 しかし米英の海軍が三度にわたり島に攻撃を加え、上陸すると山中に逃亡した清国人労働者、100名以上を銃殺、逮捕、自殺、病死も続出する事態となった。 石垣島の島民は、ひそかに食糧や水を運び、粘り強く事件処理に関する国際交渉に持ち込んだ。 翌年1853年、琉球王国政府は、船二隻を仕立て、生存者172名を福州に送還した。  石垣島の唐人墓には、このときの犠牲者128人の霊が祀られている。 そしてこの年に、ペリーが浦賀に来航したのであった。

 人権のことを言うのはやさしい。 しかし、国の圧政や貧困、病気や偏見、差別や格差から生ずる人間の尊厳に対する冒涜は、戦争や暴動というかたちで表面化する前から、プレートの衝突や火山のマグマのように、人間の社会の各所で起きていることを忘れてはならない。 人類が進歩を信ずるのであれば、正義、共存、共生とは何かを問い続けなければならない。これは昨年来日したマイケル・サンデルも、ドラッカーも、ラッセルアインシュタイン、そして湯川秀樹らがみな訴えてきたことなのである。 原発問題の今日、二度の原爆と第五福竜丸での一度の水爆の被爆を体験している日本は、いかに考え行動すべきか世界でもっとも進んだ議論をすべき立場にある。 シュルツ米元国務長官は原子力を【人類が神から盗んだ火】と呼んだ。 米仏や中国、インド流に安全性を高めるよう投資する選択肢もあるだろうし、原発は新規はやめて行くというドイツ流の選択肢もあるだろう。 人間に完全な者はいない。 聖徳太子でもリンカーンでも蒋介石でも、ある時代の国際関係について歴史を連続的に、同時進行的に研究する意義は大きい。 そうすると人類は不完全な情報と認識に基づいて起こした失政や戦略ミス、不正や凌辱の限りを、いかにして正当化してきたかがより明確になるだろう。 そして人間の不完全性にはおかまいなしに、それでも地球は廻る。 そのうえで我々は胸を張って365日、前を向いて、歩きつづけなければならない。 知恵と工夫と負けん気と、そして根気と矜持の総合力により、着実に人類は地球の生物環境に社会貢献できるからである。 そして、大昔に思えるかもしれないが、ほんのちょっと前のことである、横浜市民と石垣島の島民の行為を誇りに思う日本人である必要があろう。 歴史は連続性の中にのみ意味がある。  ペルーの大統領選挙は、 フジモリ元大統領の娘が、同国初の女性大統領にはなれなかったが、左翼軍人出身の対立候補に肉薄した。  時代はまわる。 中島みゆきの名曲、その歌詞を噛みしめて歩きたい。

 さて、公正なルールのもとでの競争が標準であるスポーツの世界に目を転ずると、中国出身の29才のテニスプレーヤー李娜選手が、パリのローランギャロスで行われたテニスの全仏オープンで優勝を飾った。 昨年優勝者のイタリア人、フランチェスカ・スキアボーネを破り、アジア人として初めて、テニスの四大大会シングルスで優勝した。 ダブルスは、1975年のウィンブルドンにて西宮出身の沢口和子と、カリフォルニア、サンフランシスコ郊外の日系人、アン清村のペアが優勝したり、横浜出身の杉山愛が、全米、全仏、全英にて計4回の優勝を遂げており、全盛期には、ダブルスでは世界ランキング1位を獲得し、ウィンブルドンのシングルスに57回の連続出場というギネス記録を保有していることも記憶にとどめておきたい。 とはいえ、今回のヒロインであるこの明るく陽気な中国娘は国のPRに大きく貢献し、中国各紙の一面を飾る大変な事態となっている。  男子テニスは、スペインのナダルが、史上最強のプレーヤーともいわれるスイスのフェデラーをまたも下し、かのスウェーデンから来た長髪の求道者にして貴公子、Donnayのラケットを持つこと、70ポンドの超堅さで張ることがファッションとなったあのビヨルン・ボルグの記録に並ぶ6度目の優勝を飾った。 時代がすすんでいくのを感じる。 日本のゴルフ男子ツアーでは韓国出身の29歳、J.B.パク選手が、日本ツアー初優勝を日本ツアー選手権で飾った。 まだ日本は2年めで言葉もたどたどしい。 昨年の日本ツアー賞金王のキムキョンテとは異なり、韓国での実績は乏しい。 韓流スポーツにまた新たなスターが誕生した。ハングリー精神は健在である。 現代自動車の世界への進出を見るにつけ、韓国人の粘り腰、勝負強さ、精神力の強さには改めて敬意を表したい。

 熊本出身の在日の政治学者、姜尚中(かんさんじゅん)が「悩む力」の中で述べていることだが、自分の人生を前向きに、自分の頭で考え抜いて、悩みながら生き抜くことの大切さを実感する。彼は老いて最強たれといっている。NHK教育テレビの日曜美術館の司会なども務めているこの人物の言葉は、その静かな語り口のなかに大きな真理を感じさせる不思議な魅力にあふれている。 人道と平和を心底から愛し、日々の競争の中から生じてくる矛盾を素直に感じ、それを是正するために、公正なルールの整備を考え抜き、追求しつづけることのみが、日本国民が、世界に台頭してきている新興国の諸国民、そして迷える先進国の諸国民に対して、正しく差別化し、指導理念を確立していく唯一の方法であると考える。 今世紀の国際法とはいかにあるべきか、我々は真剣に悩み、考え抜かねばならない。 姜尚中が、夏目漱石マックス・ウェーバー、そして自身を研究して、悩みぬき、悩みを克服してきたように。

 

小田切英治郎 プロフィール

昭和30年5月、北九州生まれ。牡牛座、A型。横浜と横須賀育ち、県立横須賀高校から一橋大学で国際法を学ぶ。米国駐在を含めた金融機関勤務、中堅企業やベンチャーでの仕事を経て、文化や経営、社会や歴史を中心とする翻訳や日本語や英語での執筆に従事。 米国のビジネス論文、大手企業の週刊文化発信、米国の社会改革の論文等の和訳に加えて、バイリンガルのライフスタイル雑誌・ウェブサイト・ブローシャー等の日本語版制作にも携わる。 ラッセル、ドラッカー、ガルブレイスに目を通し、中島みゆきに耳を傾けると、城達也の声や、淀川長治の顔が浮かんできた。21世紀の地球は、地上の星が満天の星と対等に挨拶できるような星になってほしい。三権+メディア+金融の五権の分立を基本として、ペンは剣よりも金塊よりも歯切れよく、人は大海に向かって船出し、笑顔で戻ってくるのだ。

 

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