Skip to content

「八日目の蝉」 角田光代 著 中公文庫

by staff on 2011/6/10, 金曜日
「八日目の蝉」 角田光代 著 中公文庫  

 走って走って、ふと空を見上げる。「これから私があなたに全部あげる。今まで奪ってきたものを全部返してあげる。海も山も、春の花も冬の雪も。」

 人間はなりたいものになっていく。しかしなりたくないと思っていると、なりたくないものになっていくといわれる。ここでは海も山も、春の花も冬の雪も、全部が生活として味わうことができる。しかし追われたくないと思っている限り追われてしまう。

 小豆島が重要な場所になっている。著者は別のところで次のように書いている。たまたま取材で小豆島を訪れた。鏡のごとく動かない静かな海、農村歌舞伎の舞台、段々畑、民家の庭から細いたき火の煙、四季の移ろいや行事が生活にしっかり根ざした街だという印象を受けたという。

営まれる生活の気配はなんとも美しいと。「ホテルにチエックインし、窓から海を眺めた。橙色に染まっていた海はゆっくりと桃色へ、紫色へ、紺色へと色を変え、それを見ているうち、何も決まっていなかったストーリーがするすると流れるように思い浮かんだ。」この美しい島がはじめての新聞小説を書かせたのであるという。

 映画化されて映画評論家の稲垣さんは「ここに出てくる女たちは、みな悲しみをまとっている。男たちは不実で無責任で、影が薄い。しかし女たちはそんな男を責めることより、母性に忠実に敢然と生きる。母は強い。その強さの奥には、フェミニズムの香が漂う。」と書く。

 さて、男たるもの複雑な心境になろう。命の発芽を全く意識することのない、ある面、蚊帳の外にいる。だからこそ本当の責任は男が背負うものであるはずなのに。命の誕生の意識より先に欲望の意識に追いかけられている。確実にしかしあたふたと。神がこの世に使わせた、命の誕生ということ、命の連鎖という意識を失ってしまう事のある男の現実を、著者はあぶり出す。男の未熟さといっていいのか、身勝手さとでもいうのだろうか。

 「希和子発見につながったのはアマチュアカメラマンによる一枚の写真だった。小豆島の行事を写した一枚の写真が新聞紙の地方版で賞をとり、全国版に掲載された。泣いている子どもに顔を近づける希和子が、斜めのアングルで撮影されている。」

 希和子は誘拐した犯人、薫は三ヶ月で誘拐された子である。今は真里菜という本名に戻っているが、同じような間違いをおこし、妊娠する。この命を大切にしたいとシングルマザーの道を選ぶ。そしてふとと言うより、フリライターの意識的に寄ってきた千草と旅に出る。怖くて近寄れないと思っていた小豆島に足を踏み入れる。あの誘拐され逃げて生活していた島がなぜか懐かしいと感じられるのだ。

 「突然、今日の目の前にある光景と目の前にない光景が混じりだす。メールを打つサラリーマン、凪いだ海に浮かぶ島々、一心不乱に掃除するおばさん、カーテンのようにまっ白い素麺、停泊しているフェリー、闇間にぴかぴかと光を放つビニールハウス、フェリーから下りてくる乗務員、鎖を握り岩の崖をよじ登っていく女のうしろ姿、光景は順不同に混じり合ってあふれるように次々に現れる。」「橙の夕日、鏡のような銀の海、丸みを帯びた緑の島、田ぼの緑に咲く真っ赤な花、風に揺れる白い葉、醤油の甘いなつかしいにおい、友達と競争して遊んだしし垣の崩れかけた塀、望んで手に入れたわけではない色とにおいが、疎ましくて記憶の底に押し込んだ光景が土砂降りの雨見たいに私を浸す。薫。私を呼ぶ声が聞こえる。薫。大丈夫よ。こわくない。」

 「八日目の蝉は、他の蝉には見られなかったものを見られるんだから。見たくないって思うかもしれないけど、でも眼を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと思うよ。」

 「海面で光は躍っている」での終わりかたが印象的だ。どのように映像化されたのだろうか。

(文:横須賀 健治)

<参考>

 

Comments are closed.

ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

Page Top