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「レッドライト」 (連載第5回)

by staff on 2011/8/10, 水曜日


写真)現在、横浜メソニック・テンプルでは、スコットランド・グランド・ロッジ管轄の「東方の星 No.640」 と
日本グランド・ロッジ管轄の「極東ロッジ No. 1」のふたつが集会を開いている。

*今回の記事は二ヶ月連続掲載の第2回になります

 俗に「学校の怪談」とよばれる噂話がある。音楽室に貼られたベートーベンの絵やトイレの花子さんの類だ。その多くはちょっとした作り話である。しかし、噂話に物証があったらどうだろう。

 「港の見える丘公園」のはす向かいに位置する「横浜インターナショナルスクール」(以下、Y.I.S.)。校舎から陣屋坂を少し下ったところに、同校の体育館がある。その地下室のヒミツ。それは1986年から2002年まで、世界的会員組織フリーメイソンの拠点となっていたことだった。学校が秘密結社の根城……? 思わず失笑するほど現実味に乏しいが、「横浜メソニック・テンプル」の公式サイトに書かれているので、間違いのない事実だ。こんな例が世界のどこにあるだろう。日活無国籍映画さながらだ。横浜の街は、はなから現実を超越している。

 もし興味を覚えたら、ご自身で足を運んで確認して欲しい。ロッジが移転した現在も陣屋坂に面した体育館地下入り口の向かって右側の壁に、「このテンプルはメソニック・ホール株式会社(以下、MHL) によって建設された。この礎石は1985年9月28日に、1975年から10年間極東地区のグランドマスターだったブラザー・A.L.パーヴスによって設置された」とスコティッシュ系組織の名義で記されている(写真)。

 もっとも同校の在校生や卒業生たちには、事実関係は伏せられていたらしい。わたしの友人に Y.I.S.卒業生がいるが、「1988年卒業なのでその時期は在学していましたが、知りませんでした。学校で語られていた記憶もありません。1986年竣工の体育館です。あんな一等地に寄付だけで建てられるなんて信じ難いと思っていました」と語っていた。

 そもそもなぜ学校の地下にロッジが建設されることになったのだろうか。それは旧ロッジをシェアしていた「東方の星(Lodge Star in the East) No. 640」と 「極東ロッジ( Far East Lodge) No. 1 (Far East Lodge No. 124 から改称) 」および「東洋の星第2支部( Star of the Orient Chapter 2)」 間の確執、そして戦前から山手町三番地に居を定めていた旧ロッジの老築化が原因だった。

 1960年代後半、山手のロッジは大規模な修理を必要としていた。あるときなど、ロッジの時代がかった電気配線が原因で、横浜中心部の決して狭くない市域が停電状態になったという。事態を重く見た市当局が、ロッジの閉鎖を通告したほどだった。

 1971年、横浜ロッジの委員たちは、東京のメソニック協会に70万円の援助を願い出たが、461,247円のローンが申し入れられただけだった。ここには60万円におよぶロッジの修繕費は含まれていなかった。

 ロッジの将来が危ぶまれた。1950年代末、神戸地区の一団が、東京や横浜でのアメリカ系支部の台頭に不満を覚え、横浜ロッジの主導権を握ろうと工作した時期があった。ふたたび神戸側が介入してくるおそれがある。

「極東ロッジ No. 1」と 「東洋の星第2支部」は全会諮問会議を要求したが、横浜ロッジの名義人である MHL は却下した。二つのロッジは、単なるテナントにすぎなかったからだ。

 双方が弁護士を雇う内紛になり、事態は法廷に持ち込まれるものと思われたが、 最終的に MHL は不動産の売却に成功。状況は前に向かって転がり始めた。一方、 MHL と揉めていた「東洋の星第2支部」は1981年に消滅した。

 不動産を売り払った MHL は、売却益の運用と新たな拠点の獲得について時間をかけて協議した。しかしこの土地を売っても、山手地区に同規模の土地を購入し、ロッジを建設するには予算不足だった。その結果はじき出されたのが、件(くだん)の体育館地下のロッジ建設という結論だったのである。

 Y.I.S.体育館のロッジは、学校との間に相互リース契約が交わされていた。それは体育館全体を学校側にリースする代わりに、学校側は地下室をメイソンにリースする、という互恵的な内容だった。

 すべては順調に推移しているように見えた。しかしまたしても問題が発生する。Y.I.S.の相互リース契約破棄である。学校側は地下室を、ダンススタジオと PTA の倉庫に改装したいと考えたのだ。

 メイソン側はこのロッジの使用を諦めざるをえなくなった。しかも MHL 前理事のリース料着服が発覚し、状況をむずかしいものにした。ロッジを失ったメイソンは山下公園に近いインドレストランの宴会場をはじめ、市内のあちらこちらを転々とした。そしてようやく現在地である本牧緑ヶ丘に落ち着くのである。

 JR 山手駅から急な上り坂をあがって10分ほどゆくと、簡素な住宅街の一角に、目指す建物がある(写真)。茶色く平凡で、なんら目を引く要素は見あたらない。右隣のアパートの方が目立つくらいだ。ほど近い場所にある横浜緑ヶ丘高校の生徒たちが、なにも知らずにロッジの前を通り過ぎていく。「木を隠すなら森の中」と言わんばかりの光景に、少々倒錯的なおかしみさえ感じる。

 このロッジの建設は山手カトリック教会の施工をはじめ、寺社仏閣などの宗教建築で知られる「関工務店」が担当している。「メイソンのロッジを手がけるにあたって、なにか興味深いエピソードがなかったか訊いてみたい」という衝動に駆られたが、この会社は一昨年倒産していた。残念でならない。

 その代わりといっては変だが、ロッジから50メートルも離れていない場所に、「横浜における外国人富裕層の社交クラブ」とでもいうべき 「YCAC 」が控えていることに気づいた。ロッジを移転する際、この名門スポーツクラブの存在が考慮されたのではないだろうか。 あくまで私的な推測でしかないが、 「YCAC」で定期的に汗を流しているメイソン会員は、少なくないと思われる。というのも、創立当初はやはり外国人専用のスポーツクラブだった「横浜ヨットクラブ(YYC)」から、貴重な戦前のメイソン資料が発見されているからだ。戦時中の弾圧による機密書類散逸を防ぐため、会員が資料の一部を避難させたものらしい。さらに「Y.I.S.」の地下を去った後の放浪時代、本牧の「U.S.S.シーメンスクラブ」(2011年5月閉店)の物置がメイソンの荷物置き場として使われた、という事実もある。メイソンと YCAC。 富裕外国人の集まるふたつの施設が近接する背景を考えるとき、YYC やシーメンズクラブとの結びつきを引き合いに出すのは、不自然ではないと思う。

 かつて横浜には世界各国の領事館が建ち並んでいた。関東大震災以前の話ではあるが、最盛期には30もの領事館があったという。各国の外交官や商人らの社交の場として、あるいは潤滑油としてメイソンが重要な働きをしていた気がしてならない。今後の研究が待たれる部分だ。

 最後になるが、横浜のメイソン史を語る上で外すことの出来ないエピソードを紹介したい。前回述べたように、横浜ロッジの儀式は英語で行われている。しかし、過去になんどか日本語で行われた事もあったという。そのきっかけとなったのは、非会員にすぎない日本のとある老人の存在だった。彼の名はミヤガワ・ヒロシ。親子二代にわたり、横浜ロッジのお世話係を務めていた。会員たちから「ヒラム(Hiram)」というニックネームをつけられ、親しまれていたという。

 ミヤガワ家とメイソンのなれそめは1881年まで遡る。まだ「東方の星」が成立したばかりの頃だ。細かい経緯はつまびらかではないが、「ヒラム」の父・マンキチは初代お世話係になると、30年間メソニックホールで働いた。そして1916年に山下町のロッジで亡くなった。その後1892年生まれの三男・「ヒラム」が父の跡をついだ。彼は震災前の壮麗なロッジを知る数少ない人物の一人であり、戦時中、メイソンの機密書類を国家権力から隠し通す任務も果たした。彼はメイソン会員ではなく、メイソンの秘密を一切知らない雑役係にすぎなかった。にもかかわらず、空襲の間も逃げずに、ずっと閉鎖したままのロッジのそばにいたという。

 長い戦争が終わり、進駐政策下でロッジの活動が再開すると、「ヒラム」は復職した。今度は単なるお世話係ではない。集会の準備をし、ブルールームやレインボールームといった特別な部屋で行われる会合に参席して軽食を給仕した。親子二代にわたるミヤガワ家の献身は、およそ80年にも及ぶ。全世界のロッジを見渡しても、こんな例はほかに見あたらないという。

 「ヒラム」も彼の父も、メイソンの会員ではなかった。しかし彼らの姿は、正会員たちに大きな感銘を与えた。71歳の誕生日を33日すぎた頃、すなわち1963年3月6日。「ヒラム」は正式にメイソン会員として迎えられた。そのとき、横浜のメイソン史上はじめて、儀式の場で日本語が使われたのだった。

 現在もメイソンの活動は続いている。2006年12月現在、「東方の星 No.640」の会員数は64名。その多くが横浜市外もしくは海外在住だという。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)


写真)
現ロッジの外観
 
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Y.I.S. 礎石
 
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Y.I.S. 礎石にワインと油を注ぐ アレックス・ L ・パーヴス
 
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ミヤガワ・”ヒラム”・ヒロシ(1892~1966)

 

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

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