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セカンドライフ列伝 第1回 紫式部

by staff on 2012/1/10, 火曜日

連載開始の御挨拶

布袋像と榎本氏
台湾の台中市にある宝覚寺の30m高の布袋像です。腹を撫でると金満になるとか。

 

 セカンドライフ(第二の人生)を充実して過ごすことは不可避の課題です。ひとつは寿命が延びたことで、60歳定年とした場合に、女性で28年、男性で23年(厚生労働省統計)もの長いながい老後があります。この一方で終身雇用が、特に民間では維持が困難になり、大規模リストラや事業整理、倒産などによって、人生のまだまだ半ばと考えていた時期に転職を余儀なくされています。また子育てや介護を終えた人が、自分のために残りの人生の時間を有効に使いたいという意識が高まっています。さらに意欲的な事業主では、天職としてその仕事に打ち込むことはもちろんであるが、同時に趣味以上の何かに取りくみ、引退後の活動につなげたいと準備し、また実践している人が多いように思えます。

 このような時代に、我々の先人たちのセカンドライフの事例を集めてみることは、大いに参考になると考え、シリーズとして書かせていただきたいと思いました。いろいろと応援いただければと思います。

第1回 紫式部

その生没年

 さて初回は源氏物語54帖などの作者、紫式部である。生没年は不詳であるが、970年代の生まれは確実であるという。与謝野晶子らの978年説もあるが、ここでは私の趣味にして小説的な想像力を働かせるために、生まれの早い973年説を採用する。一方没年であるが、更級日記の作者である藤原道綱の母は熱烈な源氏物語読者であり、その全巻を叔母から貰うのが1021年、しかし作者に会いたいとの記述がないので、この時期には死去していたと考えて、これに整合する1016年説を採用する。いずれにしても400年近く続く平安時代の中期であった。

 

 紫式部はシェークスピアと並んで、おそらく現代において文学博士を最も多く輩出させているのではないだろうか。源氏物語は外国の大学の文学部のサイトにも研究用に掲載されている。それが書かれたのが千年の昔であることは驚きであり、しかも女性であることは類を見ないと言われている。

第一の人生

 そんな彼女の人生は、受領(ずりょう)の妻として始まる。現代流に言えば、中央から派遣される県知事の妻である。彼女の家系は藤原氏の中枢につながるが、祖父の代から受領階級であり、これは中央政権から外れたということになる。父の藤原為時は越後(今で言う新潟県)の知事の時代があり、彼女も赴任先での生活を経験しているという。そして彼女の夫になる藤原宣孝も筑前(福岡県の一部)や山城(京都府南部)の受領であった。受領は中央から見れば位は低いが、蓄財ができるそうだ。まんざらでもない。

 夫の宣孝は彼女より20歳程度も年長であり、最近流行(はやり)の「年の差婚」である。紫式部は997年に越後から帰京し、998年に結婚、1000年に賢子を出産している。25歳の結婚は時代を考えれば遅いようだが、更級日記の作者は30歳過ぎでの初婚であり、事情次第と言うことか。その宣孝は何と1001年に急逝してしまう。

 <閑話休題>
 確か2001年の東映「千年の恋 ひかる源氏物語」では主演の紫式部役の吉永小百合が垂衣(たれぎぬ)をつけた市女笠(いちめがさ)を被り、杖をついて単身で上京する場面があったが、それは違うのではないか。あの更級日記の作者は、上総(千葉県の一部)の受領の子であり、信州の受領の妻であることから、紫式部と全く同じような階級であるが、石山寺縁起絵巻には、彼女の一行が参詣した時の様子が描かれている。彼女自身は車に乗っていて姿を見せないが、我々が牛車して知るものと同じ立派なデザインのリムジンであり、それを4名が徒(かち)で引く。さらに騎馬の供が4名、徒の供が2名の10名と言う構成であり、騎馬のひとりは身の回りの世話をするための女性である。紫式部も県知事の娘であるから、それなりのお供があったはずだ。

モラトリアム期

 さてこの「年の差婚」を不幸と見る説もあるようだが、私は幸せであったと想像している。この夫は極めて外交的であり、一方彼女は内気な質であった。そこに良い調和があったのではないだろうか。

 突然の夫の死後、1年程度で源氏物語の執筆を始めているという。それを近しい友人達に見せては、巻を重ねていったらしい。このきっかけは、亡き夫へのオマージュという側面も、必ずあったと思われる。

第二の人生の開始

 彼女の運命を変えることとなる幾つかのことが同時に進行していた。時の一条天皇には990年に藤原道隆の娘、定子が嫁いだが、995年に関白道隆が死去し、後に権力を掌握する藤原道長の序列がぐんと上がる。999年に定子は敦康親王を生むも、同時期に道長は娘の彰子を入内させる。1000年に定子を皇后、彰子を中宮とする二后冊立となるが、この年末に定子が次女の出産で死亡してしまう。当然道長の次の望みは彰子の男子出産である。そのような流れの中で、既に源氏物語の作者として知られ始めていた紫式部が招集された。その狙いは彰子のサロンに天皇をなるべく多く来させ、長く滞在させるための戦術の強化である。紫式部は1005年の12月に初出仕した。(1006年説もある)

 しかし紫式部はそこになじめず、何と5ヶ月も引きこもってしまう。やがて復帰するが、なかなかプロの女房とはなりきれないでいた。この時代の女房とは天皇や貴族に仕えて庶務係、家庭教師、秘書などの公的な役割をするものであり、彰子のサロンには中央政権に直結するような血筋のものも多くいて、なかなか人間関係としても大変な世界であったようだ。紫式部は中途半端にお嬢様であったのだ。

自分の殻からの脱皮

 最初はプロ意識が欠如していて、いつも遅刻すれすれだった。しかも同僚は源氏物語の作者であることを知っており、30歳過ぎで結婚経験があるので、それなりに世間も知っていて才能を鼻にかけている、高慢な気難しがり屋だと思っていた。だれも打ち解けて話ができる相手が居ない。そこで紫式部は内心を押しとどめて、周囲との軋轢を極力排除し、おとなしくている作戦で対処することで、やがて前評判ほどのつきあいづらい人ではないらしいとの評価が出てくる。

 そして2,3年程度で紫式部は7番目位の序列に出世している。(私は全部で何人かは知らないが、移動で車に乗れる身分であった。)そして1008年の彰子の出産に際して、その記録係を担当した。紫式部日記はこの記録も下敷きにして、1010年に執筆したものと言われている。

 この日記は「突撃宮廷レポート」とも、「女房は見た」とも言えるもので、道長や彰子のすぐそばで見聞をしているので極めて具体的で興味深い。彰子は36時間の難産の末に、男子を生む。そこに至る僧侶達の祈祷のすさまじさはもとより、朗報を聞いた女房ら全員のよろこびようは、化粧がはげて誰だかわからないとリアルに表現している。出産は実家に帰ってのことなので、そこには道長がいる。道長は赤ん坊(親王)の首も座らないうちから抱っこしたりして大喜びだ。その親王が道長に抱かれた状態でおしっこをしてしまう。そのおしっここそは、極めて男性的なシンボルからのものであり、嬉しくて仕方ない。女房に服を乾かさせながら、几帳の陰でこれぞ念願が叶った証拠だと喜びを隠さない。

女房としての成長

 そしてこの彰子出産レポートを担当することで、彼女の意識も変化してくる。実は貴族の間では、定子のサロンが面白かったとの評価が、その死後10年でも衰えず、一方で彰子のサロンはみんな引っ込み思案でつまらない、取り次ぎさえ満足にできないと酷評されていた。定子のサロンのエースは、あの清少納言である。(二人は時期が違うため、宮中では会って無いらしい。)既に存在しない定子のサロンを超えることが、自らに課せられたミッションであるとの認識を深め、紫式部は外向きのサロン形成に努力する。

 所で一条天皇は、源氏物語を読んでいた。そこで道長は、源氏物語が天皇と中宮(彰子)との共通の話題であるとの認識から、豪華本の制作を命じる。これは天皇が今までに読んだことのない話を含む、書き下ろし版でもあった。どうしたか。紫式部の京都の実家から書きかけを含めた原稿を、本人が知らない間に持ち出して、清書して作ってしまったのだ。でもこの甲斐あってか、1009年に第二皇子の出産となる。後には漢文好きの天皇との会話のために、彰子に白居易の白氏文集の中でも、もっとも硬い新楽府(政治的な内容を含む)を進講している。そう言えば彼の長恨歌は源氏物語に影響を与えているという。女性は漢文をやらないのが建前の時代のことである。

まとめ

 さて、既にかなり長くなってしまったので、そろそろまとめに入ろう。
 紫式部は当時の女性としては並外れた漢学を含む教養を備えていた。紫式部日記では、弟が素読するのを聞いてすらすらと覚えてしまい、父親にお前が男だったらなあと言わせたとある。しかし彼女自身は世間知らずで、引っ込み思案であった。それはめったに家の外の人とは顔を合わせない時代の良家の少女としては当然でもあった。そして結婚し、経済的にも安定した生活であったろう。しかし夫の死によって人生最初の挫折を味わう。傷心の中で、源氏物語を書き始める。元々学問ができるとの評判があった上に、この著作という実績である。道長に所望されて中宮の女房となった。それでも最初は内気なお嬢様、紫式部は世間に擦れていなかった。でももまれる中で、持ち前の才能と、鋭い人間観察眼に加えて、彰子サロンを盛り立てるミッションの自覚により、平安期第一級の女房に育っていった。

そして死

 父の藤原為時は1011年に再び越後の受領に任命されて赴任したが、任期を1年残した1014年に突然辞任して京都に戻ってくる。紫式部の病によるとの説がある。為時は紫式部を死の床で孤独にさせず、暖かく看取ったのだろう。どんなに大切な子どもであっただろうか。

(主な参考文献 山本淳子編:紫式部日記、角川ソフィア文庫、2009年)
(注:紫式部に係る年代は私の独断であり、根拠に限界があります。内容も思い込みが先行しており、事実としては限定的に受け止めて下さい。)

(2012.1.1 榎本博康)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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