『横浜』という名を製品に使っているから、『横浜』を皆さんに伝えることが使命です。
株式会社横浜ビール 代表取締役社長 太田 久士さん
「若い時は前に進むことしか考えなかった。 ある時、上空300mから自社を見ようと思った。すると地域が見えてきた。自分がどの位置にいて、何をすべきか見えてきた」・・・『横浜』という名を製品に使っているから、『横浜』を皆さんに伝えることが使命になりました。 横浜ビール「驛の食卓」で、太田社長のお話しを伺いました。
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地元の食材を使った食文化を伝えていきたいと思っています
横浜ビールの直営レストラン「驛の食卓」のメニューは手書きです。 活きのいい魚が入った時は「刺身」で出します。 食材が一番美味しく食べられる調理方法を提供しているので、「揚げ出し豆腐」が「本日のおすすめ」(写真)に載っています。 始めた頃は、料理長から「うちはイタリアンでは?」と訊かれたこともありました。 岩井の胡麻油と横浜醤油で作った旨ダレで食べる「横浜 はまポークの小龍包」は美味しいですよ、中華料理ですがね(笑)・・・
新鮮な食材を新鮮な内に食べてもらうためのメニューだからこそ、手書きに成らざるを得ない。以前、食べて美味しかったからと来られても、今日のメニューに無いことが・・それが「新鮮」とか「旬」であることの「こだわり」だと思います。 いつ行っても同じメニューなのを不思議に思わないと・・・ね!
したくなります。それが人に誇れる「食文化」に繋がるのだと思います。 生産者と消費者の距離を埋めることが、私の使命です。
苦手だから客観視することができました
以前は地ビールが苦手でした。約20年前に酒税法が変わり、最低製造数量基準が2000klから60klに緩和されたことを受けて、地域密着型、町おこし・村おこし型の地ビールブームになります。横浜ビールもその流れから生まれたのです。前任の社長はお酒が飲めない人で、私はビジネスパートナーとして「横浜ビール」を引き受けました。
魚屋気質・・・今も気持ちは町の魚屋さんです
香川県からバンドがやりたくて上京して来ました。アルバイトをするなら、時給が良い所を探そうと、上野アメ橫の魚屋で働くことになりました。朝5時から夜中の1時まで働きました。辛くなかったと言えば嘘になりますが、当時18歳だったのでみんなから可愛がられました。個性の強い人間が、最後に行きつく吹溜りのような町でした。いかにお客様にアピールするか、どう演出して成績を上げるか、一生懸命に考えました。
魚屋気質も身に着きました。1日のたらこの販売量でトップになりました。この記録はまだ破られていないと思います。ものを売るのが天職だと思いました。上野に5年、それから渋谷の魚屋で働いた後、オーブンに料理を入れるコックの姿に憧れて、赤坂のレストランに勤めました。これがきっかけで料理の世界に入り、料理が面白くなりました。
自分の住んでいる町に誇りを持つこと・・・桃ビールのはなし
昨年3月11日の東日本大震災から、人の心が大きく変化したと思いました。信頼できる本物が求められました。また、自分の町のこと、身の回りのことを知ろうとする動きがありました。自分の町に何があるのか、知れば知るほど人や町が好きになります。好きになること・・・愛情が「誇り」になるのだと思います。
綱島はかつて桃の産地でした。西の岡山、東の神奈川と言われるほどの桃の産地でしたが、現在、桃農園は池谷さんしか残っておりません。綱島が桃の産地だったことすら知らない世代も増えました。その池谷さんが丹精込めて作っている桃の中に、商品規格に外れたものが出るという話を聞いて「もったいない」と思いました。こうして、規格外の桃を使った「桃ビール」が生まれました。
桃の箱のラベルをビールのラベルにしました。この桃ビールを綱島で売り、綱島の人に買って欲しいと思いました。綱島が、かつて日本一を競った桃の産地であったというストーリーと、生産者の「誇り」を、ビールに変えて綱島に伝えたいと思います。 |
「ヨコハマNOW」では、太田社長にご紹介いただいいて今年は横浜の「食文化」を創り出している方々をご紹介していく予定です。
(インタビュー:渡邊桃伯子 文・写真:高野慈子)
ヨコハマNOW 動画
新横浜公園ランニングパークの紹介動画 | ||
ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。 |
横浜中華街 市場通りの夕景 | ||
横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。 |
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