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書評 「眠れぬ真珠」新潮文庫 石田衣良 著

by staff on 2012/6/13, 水曜日
 

 「黒というのはあなたにとってどんな色なのでしょうか」「ものの形や光りの分量だけでなく、ものごとの奥深くにある存在感や人の心の底まであらわせるただひとつの色」

 主人公咲世子は版画家である。ふくよかな黒を表現出来るという評判をとっている。
「咲世子の眼の中に、素樹が急にゆがんで揺れた。駐車場といい、バーといい、咲世子の涙は調整不良になったようだった。右手の人さし指で目じりから涙をぬぐう。」

 ある時は漂流物に何かを感じる咲世子。「見て、それでも、この子はこうして自分の形を失っていない。それどころか、昔よりもますますきれいで

強くなっている。私は漂流物を見ていると、いつも思うんだ。これはものなんかじゃない。ここにあるのは、流れ着いた光りだって。その時咲世子の右目からひと粒の涙がこぼれ落ちた。なぜ自分が泣いてしまったのか、咲世子にはわからなかった。つい数週間、夢中になって描いていた絵にそんな意味があったのだと、はじめて知ったのである。」そばには一途にドキュメンタリー作品づくりをしている青年がレンズを向け続けている。

 もっと光りがほしかった咲世子の作品が美術評論家の目には次のように映るようになる。
 「白の咲世子。版画の白地は冷たくて空っぽな感じがあるもんだが、咲世子の余白はいいな。すべてが白くフラットになっている訳ではない。」「冬の日ざしを浴びた枯れ芝みたいだな。一面に細かな銀の針でも撒いた感じだ。そこにこのロープの結び目がある。なんだかこいつは何十年となく連れ添った夫婦みたいだ。結んだというより、初めからがっしりとこういう形に編みあげられたという気がする。光りの具合はすごく軽いのに、物としてはすごく存在感がる。」さすが節穴ではない美術商の卓治は咲世子のもと彼であった。

 咲世子の銀座の個展は周りの応援団の力もあり、あたたかな黒から、やさしさと光りあふれる白の世界へ充実して好評であった。個展が終わった後、波音が聞こえるタヒチ島に骨休みに飛んできていた。一人懐かしく素樹の編集した版画家の製作過程のビデオを見ていた。咲世子は泣いている自分を見て、泣いた。あの時の涙が幸福のために流されたことは、ただ嬉しかったのである。「咲世子はそのまま、二回繰り返して素樹のドキュメンタリーをみた。三回目のなかばにさしかかった真夜中、波音のなか自分でも気づかぬうちに眠りにおちていた。それは夢さえはいるすきのない、完璧な眠りである。」

 人は今しか生きていけない。過去は今の軌跡であり、未来は今の軌跡である。今をどのように生きていくのか。自分の心に問いかけながら、時には自分に忠実に生きてみることをすすめる。それが芸術というものであればなおさらの事になるのだろう。

 タヒチでは真珠は宝石というより、お守り。男女の別なく、みんなが気楽に身につけている。悪い精霊や運命を遠ざけてくれる力がある。人生の後半、人より恵まれた幸運を望もうとは思わない。ただ悪いことさえ起きなければ、それで十分なのだと著者は咲世子に言わせている。

(文:横須賀 健治)

 

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