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セカンドライフ列伝 第7回 土方歳三

by staff on 2012/10/10, 水曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第7回 土方歳三

土方歳三の曲がりくねった一本道

 土方歳三(1835~1869)を本シリーズに取り上げたいと思ったのは、第3回の榎本武揚を書いている最中でした。若い頃の歳三は現在の上野松坂屋の前身である呉服店に奉公にあがったものの長続きせず、やがて新選組副長になるという略歴に着目すれば、正にセカンドライフでの成功であると、短絡的に考えていたことを正直に申し上げます。

 しかしながら知れば知るほど、彼は武士になりたいという叶わぬ夢を抱いた農家の末っ子ではなくて、彼の生まれた家自体が、実は彼が武士となり、また函館戦争での死を迎えることになる一本の道に繋がっていたものとの思いが深くなりました。しかし一本とはいえ、曲がりくねった、彼にしか歩むことのできない嶮しい一本道でもありました。

 歳三の死後は、賊軍として蔑まれ、忘れ去られようとした時代もあったようですが、人々は彼の実像を求め、正しく評価しようとし、さらに最近は女性の人気が高まっていると言われています。しかしそれは単なるブームでは無い様な気がします。生きることの意味が見出しにくい現代において、彼の生き様と死にざまは、多くのことを語りかけてくるようです。

 本稿は決して土方歳三の伝記を試みるものではなく、それは研究者にお任せしたいと思います。それでは私の勝手な妄想と誤解により、土方歳三の実像を求めつつも、虚像の拡大におつきあいください。

歳三生家の環境とは

 土方歳三義豊(よしとよ)は天保6年に武州石田村(現東京都日野市石田)に生まれました。10人兄弟の末子であり、父義諄(よしあつ)は彼が生まれる前に亡くなりました。
さてこの土方家ですが、戦国大名の北条早雲を祖とする後北条氏に仕えていた武士集団が石田村に土着して帰農したものと伝えられています。全戸が土方姓のため屋号で呼び合うのですが、歳三の生家は「大尽」と呼ばれていました。また名主は隼人を名乗るならわしで、父も隼人と称した時期がありました。つまり土方隼人義諄です。

 その家は当時の見取り図によれば、門は長屋門という形式で、門の左右に部屋が連なっているものです。武家から始まった建築様式ですが、庄屋なども江戸期にとりいれた格式のある入口です。図では右は味噌部屋、左は物置とされています。実は筆者の近所にも2軒の長屋門が現存しています。この門に連なる塀は、三尺の石垣の上に黒塀という立派な造りでした。

 門を入るとすぐに母屋がありますが、手前がカマドを備えた台所、奥側に幾つかの座敷があり、広間の奥には四畳の「神室」があって、神棚、槍掛け、刀掛けがあります。母屋を右手に見ながら左手の塀に沿って行くと角にお稲荷様があり、右折するとカラ掘りの池があって次に築山があり、石灯篭が趣向を添えています。またその後ろは樫の木を垣根としているために開放的な風景を演出していたことでしょう。この庭園は西向きの奥座敷から鑑賞するようになっています。

 さらに奥に行くと小さな竹藪に隠れるように石田散薬製造所があり、さらにその裏には3頭分の馬小屋があります。その他は省略しますが、ただの農家では無いことを知っていただくために、あえて詳細に書きました。

 明治29年発行の古雑誌に、「幼い頃から歳三は体が大きく、食欲も旺盛で、かつ乱暴な遊びが好きだったという。また5歳の時に兄と一緒に使いに行き、近道として玉川の浅瀬になっている所を渡ろうとしたが、兄が背負うというのを、何のこれしきと先に渡り始め、危ないから待てと言うと、流されれば死ぬまでだと答えて、さっさと急流を渡ってしまったという。およそいかなる場合でも「負ける」「逃げる」「叶わぬ」とは絶対に言わなかった」とありますが、実家に語り継がれている話の通りとのこと。石田のバラガキと呼ばれていたとも伝えられています。

 そんな奔放な育ちをしましたが、母恵津(えつ)に6歳で死別し、実兄の妻に養育されました。

第1の人生~商人への道

 昔の子供は幼くして死ぬことが多かったのですが、無事成人した彼の兄弟達は次の通りの人生を送りました。長男為次郎は盲目のため若隠居、三男義厳が隼人を継ぎ、五男は医者の養子になって粕谷良循となり、四女トク(後にノブと改名)は日野宿の名主佐藤家に嫁ぎました。そして六男歳三が新選組です。

 さて親代わりの義厳は歳三達の人生設計を考える立場にありました。良循は勉強好きだから、それで身を立てることができるだろう。歳三は乱暴な所もあるが、筋を通す義理堅い所もあるし、体が大きいから荷を担ぐにも良かろう。商店に奉公に出すことにしよう、と考えたかどうかは知りませんが、11歳(異説もあり)で上野いとう呉服店(現在の上野松坂屋)に奉公に出ました。しかしプライドが高すぎる歳三は番頭と喧嘩になって、夜通し40kmを歩いて帰って来てしまいました。家中総出で言い聞かせても、頑として戻りませんでした。

 二度目は17歳の頃に、大伝馬町の伊藤某方へ奉公に出したのですが、店の女性と恋愛問題を起こして半年で帰って来たと言います。格式の高い土方家ではどんな女性でもいいというわけには行きませんので、これも仕方のないことだったのでしょう。

 ではその他の時間を、歳三はどうしていたのでしょうか。ひとつは石田散薬にまつわる話です。これは土方家の副業で、牛額草(ぎゅうかくそう)等を刈り取って乾燥させ、いろいろと精製して作ります。膨大な量のこの草を土用の丑の日に村中総出で刈り取るのですが、十代の歳三は人員配置や仕事の段取りが実に上手で、人を動かす天賦の才があったと伝わっています。また20歳の時に旧家の葬式を手伝って下足番をしたのですが、多数の弔問客の帰りに1足も間違わなかったという伝説も残っています。おまけに誰がどれだけ酒を飲んで、何を食べたかも覚えていたといいますから、人を観察し記憶する才能もあったのでしょう。

第一の人生~義兄の公用

 でも以上のことはそれぞれ1日だけのことです。17歳以降の歳三は何をしていたのでしょうか。

 さて姉のトクは既に日野宿の名主、佐藤彦五郎に嫁いでいたのですが、その家の庭には剣道の道場が設けられていて、江戸の近藤周助という剣客が時々出稽古に来ていました。その流儀は天然理心流という実戦的なものでした。佐藤家に入り浸っていた歳三は、17歳で入門したのですが、近藤周助の養子の勇(18歳)も来ていて、運命の出会いをしたのです。「以来信義をもって交わること兄弟よりも深し」、と言われていました。

 しかしながら歳三は道場ではなく、独自に武者修行をしていたそうで、それが石田散薬の行商でした。この薬は河童から製法を伝授されたという伝説を持ち、骨折・打ち身・捻挫等に効能があるとされていました。その行商範囲は甲府から伊勢原、川越をカバーしていたというのですが、行商のつづらには剣術道具一式が乗っていたといいます。行く先々の道場で他流試合をしました。歳三19歳の時にペリーの浦賀沖来航があり、時代はついに動こうとしていました。翌年には日米和親条約、そして安政大地震(東南海連動大地震)と社会不安もつのってきたのです。

 さらにこの頃について、文献2)中の佐藤文明氏の説があります。要するに多摩地方は幕府の直轄地であり、農民自治の土地であって、自ら治安も担っており、八王子の千人同心(これも武士ではない)が補佐するという、特別な地域であるという前提があります。西から江戸に入る道として、東海道、中山道、そしてその間を通る古くからの中原街道があり、多摩地区は西に向けた江戸の防衛前線という地政的な役割が自ずとありました。この地域の農民は、一朝事あればたちまちに高度な戦闘能力を備えた大軍団となるように、密命を帯びていたというのです。土方一族がこの地に住みついたのは、単なる偶然ではなかったのです。近藤勇、土方歳三、沖田総司(元々は白河藩士の子ですが、幼くして江戸の天然理心流道場に部屋住みとして出されていました)、そして新選組のオリジナルメンバーの多くがこのような背景を負っていたのです。

 そこで歳三は単に薬の行商と他流試合で関東を歩き回っていたのでは無いという説になります。日野宿名主の佐藤彦五郎は、明治には初代南多摩郡長になっていることから分かるように、佐藤家は地域の役場そのものであり、歳三は他の地域との連絡や調査業務等の公務を担っていて、それにやりがいを感じて長く続いていたものといいます。また既に幼い頃のバラガキではなく、書道を習い、俳句は豊玉という号を持っており、後に浪士組として上洛する際に、「豊玉発句集」を実家に残しているくらいです。ここまでの経緯を見れば、現代でもよく見かける「民間企業出身の教養ある地方公務員」であったわけです。上野松坂屋を中途退職して、南多摩郡調査課に勤めたということです。大きな違いは、歳三には文武両道の武があり、しかも開府以来の江戸防衛の密命があって、乱世では武の道を歩むように運命づけられていたということでした。

第一の人生~天然理心流への正式入門

 安政6年(1859年)の25歳で、天然理心流に正式に入門しました。翌年に発行された一流剣士の名鑑である「武術英名録」には、もう名前が掲載されています。さらに次の年には近藤勇の四代目襲名披露の対抗試合で、出場者7名に歳三が含まれており、しかも彼以外は免許皆伝者であったといいます。1862年の28歳で歳三は天然理心流の中極位目録(ちゅうごくいもくろく)という、免許皆伝の一歩手前をさずかっています。これはおどろくべきスピードでした。

 さて文久3年(1863年)の年明けに、徳川幕府は清川八郎の献策を採用し、浪士組を組織するという知らせが入ります。幕府が国防のために働く意志のある浪士を集めるというものです。29歳の歳三は、近藤らと共に2月8日に中山道を京都に向かって旅立ちました。腰には初めて帯刀をしています。使命は上洛する将軍家茂(いえもち)の身辺警護の先発隊として、現地の治安維持にあたることです。歳三は歴史の表舞台への列車に飛び乗ったのでした。

第二の人生~新撰組副長

 私は以前から不思議に思っていました。幕府には旗本、御家人という直属の武士集団があり、家禄に応じて軍役が課せられていたはずです。どうして将軍の身辺警護に浪士組が組織され、新選組になっていったのでしょうか。そんな連中では幕府に対する忠誠心なんて、あてにならないのではないでしょうか。

 しかし既に述べてきたように、全く違うことが分かってきたのです。太平の世が続く中で軟弱化した直属の武士階級に対し、多摩地区の農家は純粋な幕府への忠誠心を維持しており、非常時に備えて武芸の修業を怠らなかったのです。

 さてこれから後は有名な話になります。近藤らは京都で新選組を結成し、京都守護の役にあった会津藩のもとで、治安維持にあたりました。しかし寄せ集めの新選組はやはりならず者の面があったのです。さっそく実権を握った芹沢鴨が商店を焼打ちにするなどの悪行を重ねたため、酒に酔わせて寝込んだところを土方らが暗殺しました。まだ文久3年ですよ、目まぐるしい展開でした。

 翌年1月に将軍が上洛し、新選組は鎖帷子姿で警護しました。歳三の装備は実家からのものであり、土方家代表としての将軍警護なのでした。歳三は常に実家との連絡を密にしていたのです。そして6月に池田屋事件。近藤らが突入し、土方は別ルートで市中の探索をしたのちに加勢したのですが、会津藩士がさらに加勢に来るのを押し留めて、新選組が手柄を独占できるようにしたという話もあります。正に一夜にして新選組の名前が京に鳴り響きました。そして7月には長州勢が攻撃をしかけた禁門の変(蛤御門の変)が勃発、会津藩等に新選組も加わってこれを排除したのです。

 これらの期間に、近藤は段々と偉そうな振る舞いになってきて、政治にも口を挟み始めたそうですが、土方は副長として新選組のタガを締めることに心を尽くしていました。新選組は戦闘で死んだものより、内部の粛清の方が、よほど数が多いと言われています。

 慶応3年(1867年)の6月に新選組の総員が幕臣に取り立てられました。歳三は見回組肝煎格の70俵5人扶持です。しかし10月に大政奉還があり、状況は彼らにとって悪化していきます。そして11月には新選組の方針に反対する伊東甲子太郎らが分離独立を図り、討幕派に転じたのです。表面的には円満分離を許しながら、これも酒に酔わせた上で斬殺しました。その事件場所から油小路の戦いといわれます。しかし12月に近藤がこの残党に肩を狙撃されて療養に入り、土方が後を任されました。

 この京都時代、新選組は女性関係でも相当に派手でした。近藤も芹沢も現地妻を持っていましたが、歳三はもっと割り切った関係に留めていたようではあるものの、1ダース位の女性名はあがるそうです。実は京都に立つまえに、親戚一同の了解を得た許嫁(いいなずけ)のお琴さんという女性がいるのですが、ついに共に暮らすことは無く、お琴さんは独身を貫いたと伝わっています。

第二の人生~鳥羽伏見の戦いで明らかになった刀の限界

 大政奉還となったものの、当然ながら事は平和裏に進むものではありませんでした。慶応四年の1月3日に旧幕軍と薩摩軍が鳥羽街道、そして伏見での戦闘状態に入りました。不在の近藤に代わり指揮を執る歳三は、日没を待って切込みを図るですが、薩摩軍の銃撃により近づけません。この後も劣勢が続き、大阪城に退却を余儀なくされました。しかし徳川慶喜は6日夜に大阪城から海路江戸に戻ってしまったのです。トップ不在では新選組も江戸に戻らざるを得ず、横浜で近藤を病院に入れた後、13日に江戸城に登りました。戦況報告の中で、歳三は「既に鉄砲の時代だ。剣では戦えない。」という主旨の発言をしたといいます。

 実は禁門の変後、歳三は銃を採用して調練を行ってきたのですが、京都府内という限定的な地域では刀で間に合っていたので、実戦では全く使ったことが無かったのです。しかし鳥羽伏見開戦の直前に、新選組が駐屯していた伏見奉行所に、薩摩兵6人が偵察に来たので発砲したのが最初の銃撃戦であったものの、近距離にもかかわらず1発も当たらなかったのでした。そこで歳三は不利な白兵戦を試みざるを得ず、多くの隊士を失うことになったのです。

 そして3月の江戸防衛の最前線と位置付けた勝沼の戦いで、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(歳三は援軍要請中で参戦せず)は、新政府軍の圧倒的な兵力の前に、総崩れとなって兵は逃亡してしまいました。近藤らは江戸まで下がり、人員を補強して会津藩と協力し、再起を果たすことにしたのです。

 彼らに洋式訓練を施すため、直轄領であった下総の流山を選びました。しかしそこを新政府軍に押さえられ、近藤勇は出頭を要請されました。勇は切腹を決意するのですが、歳三が猛反対をしました。偽名で通せば正体はバレないから、生きていれば道が開けるから、と。そして4月3日に近藤は出頭し、歳三は江戸に走って勝海舟に救出を懇願したのです。しかし勝は動かず、近藤の正体は彼を知る者によって早々と露見してしまいました。そのような中で歳三は江戸を脱出し、4月19日に宇都宮城を落としました。この時に敵に恐れをなした歩兵が逃走しようとするのを切り捨ててまで攻めたのですが、23日には奪還されてしまい、また歳三も足に被弾して戦列を離れることを余儀なくされました。その翌日に切り捨てた兵士のための墓碑建立を依頼します。近藤勇が板橋宿で斬首となるのは、さらに翌日25日でした。

第二の人生~函館戦争

 新選組は一連の会津戦争を戦い、8月21日の母成(ぼなり)峠の戦いで事実上の終焉を迎えます。これからは伝習隊(江戸幕府が組織した西洋式陸軍)、彰義隊(江戸治安部隊)残党等との混成軍の一部となるのです。

 一方江戸を脱出したあの榎本艦隊は、8月末に松島湾に入港しました。9月3日に開催された仙台藩等の奥羽列藩同盟の合同軍議には旧幕府軍の一員として土方歳三も参加しました。しかし仙台藩等は降伏へと傾いており、旧幕府軍は蝦夷を次の拠点に選ぶことにしました。

 10月に蝦夷地に上陸すると、函館では五稜郭に入城し、また松前城も攻略し、一時的にではありましたが彼らの覇権を成立させました。旧幕府軍は閣僚選挙を行い、その結果榎本武揚が総裁になりますが、土方歳三は陸軍奉行並(陸軍奉行は大鳥圭介)となり、また函館市中取締と裁判局頭取も兼任しました。12月15日を政権発足の日とし、通称蝦夷共和国が成立したのです。

 しかし新政府軍は明治2年(1869年)4月9日に函館半島への上陸を、守備の手薄な江差北方の乙部から開始し、海岸線を行く松前口と、山越えで最短ルートの二股口の両面から函館への進撃を開始しました。そこでこれに対抗するために、前者には大鳥圭介が、後者には土方歳三が派遣されました。歳三は二股口の山中に胸壁を築いて迎撃したのですが、13日午後からの16時間に及ぶ戦闘で3万5千発を消費し、新政府軍を撃退しました。

 この直後に、歳三は鳥羽伏見以来の側近であった少年に遺髪、遺影、辞世を託して日野の実家に向けて脱出させたのです。そして二股口の二度めの戦闘が23日夕刻から始まり、再び双方からの激しい銃撃戦が繰り広げられました。有名な銃身を水で冷やしながらの連射で、10時間以上に及ぶ夜戦をしのぎ、26日の小戦でついに守り切ったのです。

 しかし一方の海岸線を進撃する新政府軍をはばむことができず、二股口が孤立化するおそれがあるため、榎本武揚は土方歳三に撤退を命令しました。彼は不敗の陣を捨てて、5月1日に五稜郭に退却しました。そして11日の午前3時、函館湾に砲声が轟き、新政府軍の陸兵が函館山の背後から進出し、地上戦が開始されました。歳三は一本木関門で馬上の指揮中に下腹部に銃弾を受けて戦死、享年35歳でした。

 函館山方面から敗走してくる兵士たちを見て、五稜郭の榎本武揚は、土方歳三の死を直感しました。

優しくなった土方歳三、本当は優しくありたかった土方歳三

 新選組では鬼の副長が彼の代名詞であり、事実そうであったようです。烏合の衆を統率するために、局中法度というルールが定められており、これに違反(といっても、法度は抽象的な表現なので、解釈の幅は大きいのですが、)したものは、追放もしくは粛清されました。この血なまぐさい内部抗争から、新選組に良い感情を持たない人もいます。また歴史の転換を遅らせただけの、幕府の犬にすぎないとの評価もあります。勝てば官軍の立場からは、賊軍にすぎません。

 歳三には近藤勇を大名にするという思いがあったといいます。近藤と土方は考えや行動に違いがありますが、幕府の草としての宿命を超えたいとの思いは共通にありました。そのために、一切のダーティワークを自らに引き受ける覚悟があったと思われます。

 また戦闘のセンスが抜群でした。要するに相手の油断を突くことと、絶対に多数で臨むことです。また突撃の時の先頭は誰もやりたくはないものですが、死番という取り決めで、日替わりで先頭に突入する者を決めていました。ちょっとした見回りでも、戸を開けた瞬間に何が起こるか分からないので、あらかじめ覚悟をさせていたのです。武士でないからこそ、現実的な発想ができたのでしょう。

 しかし、近藤勇は処刑されてしまいました。自害を思いとどまらせ、出頭を勧めた歳三はどんなに悔いたことでしょうか。しかも京都三条河原でさらし首にされ、朝敵とか、徳川の内命と偽ったとか、一方的に書かれ放題の罪状でした。会津戦争の合間に、歳三は会津の天寧寺に近藤勇の墓を建てています。この時に彼から鬼の副長という看板がポロリと剥がれ落ちたような気がします。

 函館時代の彼について記されたものが残っています。意訳すると「皆んな浮かれている中で、歳三だけは粗食に甘んじて女性を近づけなかった」とあります。二股口での戦いでは、実はこの部隊の中には、江戸の口入屋が集めた馬丁、雲助、博徒、火消し等の荒くれものを多数含んでいたのですが、このならずもの達を統制したのは、鬼の統制ではなくて、優しさだったとの説もあります。三週間近い睨みあいと攻防の末の大勝利を収めた日に、歳三は兵士一人ひとりに酒を注いで廻って、その労をねぎらったといいます。生き残った新選組隊士のひとりは、「土方さんはいつも人々を憐み、戦いでは先頭に立ちました。だから士官も兵士も勇気をもって進むことができたので、負けたことがありません。」また別の隊士は「年齢を重ねるに従って温和になって、赤子が母を慕うように、人々に慕われました。」と書きました。もちろん彼の死後の追憶であり、美辞に流れるきらいはあるでしょうが、晩年の彼はそうであったようです。

 京都に立つ前に、「豊玉発句集」を残していますが、実に春の句が多く、またほほえましい程にナイーブです。(以下は、読みやすいように仮名遣いを少し変えてあります。)

   うぐいすや はたきの音も ついやめる
   春雨や 客を返して 客に行き
   来た人に もらいあくびや 春の雨

 私には、彼はこの句集と共に、彼の優しさを故郷に置いてきたのではないかと思えます。私などは自分の軟弱な日常の中で綺麗ごとを言い、そつの無い行動をしていればそれで済むのですが、時代が動くときにはそれでは対処できません。多摩のバラガキが背負った時代の重みに、つくづくと思いを馳せるのです。

(2012.10.1 榎本博康)

主な参考文献

  1. 土方愛:子孫が語る土方歳三、新人物往来社(2005)
  2. 小池徹郎編:新・歴史群像シリーズ⑬【土方歳三】、学習研究社(2008)
  3. 司馬遼太郎:燃えよ剣、文藝春秋(1998) (注:1962年から週刊文春連載)
クリックで写真拡大。 榎本技術士オフィス/榎本博康(撮影)


天然理心流の木刀を構える筆者。土方歳三資料館にて。

 


歳三資料館近くの石田寺(せきでんじ)の墓。刻まれている戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」である。墓参に来て花を手向ける女性の姿が絶えないと言う。

 


板橋駅東口近くの近藤勇と土方歳三の墓。寿徳寺の境外墓地。ここも花が絶えない。

 


石田散薬の幟と筆者。土方歳三資料館にて。


五稜郭タワー1階アトリウムに立つ土方歳三ブロンズ像。函館出身で現在イタリア在住の彫刻家、小寺眞知子氏制作で、2003年12月公開。残された写真から、歯を食いしばって生きてきたと評したという。

 


五稜郭タワー展望台の土方歳三ブロンズ像。同じく小寺眞知子氏制作で、2005年2月公開。人々の手で膝が輝いている。

 


函館市の一本木関門跡の「土方歳三最期の地」碑。ここもまた花が絶えない。

 

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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