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第三回 『童謡』と『ブルース』。港が歌の舞台になり始めた

by staff on 2010/7/10, 土曜日

第三回目は大正から昭和にかけてのヨコハマの歌についてお話いたしましょう。

古い秩序からの開放と新しい社会の建設

日清日露戦争を経験した日本は明治時代には国として世界と対等なろうとしていましたが一般庶民には国際的な感覚はありませんでした。
それが大正時代になると普通選挙運動などを通して、庶民も自分たちの意志を持つようになりました。それが大正デモクラシー(民主主義)につながっていくのです。
第一次世界大戦(1914年から1918年)に参戦しなかった日本には特需が起きました。産業の中心は生糸に代表される軽工業から金属機械の重工業に移っていったのです。この頃多くの成金が誕生しましたが、好景気は短期間で終わり、大正7年(1918年)頃からは銀行の倒産や米騒動が起き不景気な世の中になってきました。横浜でも米騒動が起きたのですよ。

古い秩序からの開放と、新しい社会の建設を目指した大正デモクラシーの波は、歌の世界にも及び、大正時代には芸術性の高い童謡の作品が、次々と世に送り出されました。横浜に因んだものとしては、大正10年(1921年)、野口雨情・本居長世のコンビによって生み出された2つの曲が有名です。

野口雨情・本居長世のコンビ 2つの名曲

その一つは「青い眼の人形」です。
第一次世界大戦の経験を通して、島国日本にもようやく、世界の中の日本と言いますか、国際性を重んじる風潮が現れ始めていましたが、この歌はそれにピッタリでした。アメリカ生まれのセルロイドが着いた日本の港は横浜をイメージしていたと思います。

青い眼の人形

作詞:野口雨情 作曲:本居長世

青い眼をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
日本の港へついたとき 一杯涙をうかべてた
「わたしは言葉がわからない 迷い子になったらなんとしょう」
やさしい日本の嬢ちゃんよ 仲よく遊んでやっとくれ
仲よく遊んでやっとくれ

「青い眼の人形」をお聴きください。

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ところが一方では、アメリカでは日本からの移民を排斥しようとする移民法の動きがあり、日米関係は冷却の一途を辿っていたのでした。大量に流れてくる日本人移民の「安い労働力」が、アメリカの労働者の職場を脅かしていて、これが大きな社会問題となっていたのです。

宣教師として約20年間日本に滞在していたシドニー・ギューリック氏は人形を通して日米の親善を図ろうと米国内で募金活動を行いました。「青い眼の人形」が発表されてから六年後の1927年3月、日米関係を好転させようとの願いをこめて、募金活動で購入された12000体ものキューピー人形は雛祭りに間に合うように横浜に送られてきました。

 
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横浜人形の家の前には「青い眼の人形」像があります
横浜人形の家の前には「青い眼の人形」像があります
 
横浜人形の家のエントランスに飾ってあった人形
横浜人形の家のエントランスに飾ってあった人形
横浜人形の家のエントランスに展示してあるジオラマには幕末の様子が描かれています
横浜人形の家のエントランスに展示してあるジオラマには幕末の様子が描かれています
横浜人形の家のエントランスに展示してあるジオラマには幕末の様子が描かれています

人形は全国の小学校に届けられ、日米親善の役目をしっかりと果たしました。山下公園のそばにある「横浜人形の家」の前には「青い眼の人形」像があります。

野口・本居のコンビによるもう一曲は「赤い靴」です。
この曲も横浜の港を舞台にした芸術性の高い作品です。山下公園にある「赤い靴」像の女の子は海を見つめています。しかしモデルだと言われている女の子(岩崎きみ)はアメリカに行くことなく、東京麻布の孤児院で9歳の短い人生を終えています。

赤い靴

作詞:野口雨情 作曲:本居長世

赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて
行っちゃった

横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて
行っちゃった

今では 青い目に なっちゃって
異人さんのお国に
いるんだろ

赤い靴 見るたび 考える
異人さんに逢うたび
考える

「赤い靴」をお聴きください。

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2つの歌が世に出て2年後、大正12年(1923年)9月1日、マグニチュード7.9、震度6の烈震が関東一円を強烈に揺さぶりました。歌の舞台となった大桟橋も、モダンなレンガ造りの洋館も、山手の異人館も形のあるものが悉く崩れ去って行った中で、人々の心を打つ「赤い靴」の名曲はなお一層歌われ、全国に広まっていったのです。

 
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横浜市内の歩道には、赤い靴模様が一定間隔に配置されています
横浜市内の歩道には、赤い靴模様が一定間隔に配置されています
山下公園にある「赤い靴はいてた女の子」像
山下公園にある「赤い靴はいてた女の子」像
山下公園にある「赤い靴はいてた女の子」像
山下公園の景色
山下公園の景色
山下公園の景色
山下公園には、「かもめの水兵さん」の碑もあります
山下公園には、「かもめの水兵さん」の碑もあります

関東大震災から昭和へ。そして戦争の影

関東大震災の痛手から立ち直った横浜の街は、昭和10年(1935年)頃にはすっかり装いを変えていました。伊勢佐木町やメリケン波止場を舞台に奔放に遊び歩く交際娘まで現れたりして、横浜は誰もが自由を謳歌するモダンな町でした。
北林透馬の「街の国際娘」という小説も生まれました。
開港記念会館、税関、県庁はそれぞれジャック・クィーン・キングと呼ばれ、いかにも横浜らしいランドマークでした。

一方で世の中の戦時色がだんだんと濃くなってきたのもこの頃でした。欧米への排撃思想が日本の中に高まってゆきます。居心地の悪くなった各地の在日外国人たちは、未だ自由な雰囲気を残している横浜へと次々と移り住むようになりました。
山手界隈の地域は外国人で溢れていたそうです。あたかも幕末・明治の外国人居留地の再現のようであり、この頃の横浜はまさに、戦前のエキゾチシズムの凝縮した土地だったと思います。

戦前のヨコハマを代表する名曲「別れのブルース」が生まれたのは、このような背景からでした。この曲の舞台は横浜にあった外国船員相手の赤線地帯のチャブ屋街です。

チャブ屋の歴史は古く、幕末の居留地時代に遡ります。外国人の散策用に作られた遊歩道。その道の脇に造られたヨシズ張りの茶店に端を発します。
彼らはこれをチョブハウス(日本語の簡易食堂)と呼び、それがなまってチャブ屋となったのです。(これもヨコハマ言葉です。チャブ台という言葉が微かに生き残っているのでしょうか?)
休憩・接待には酒がつき物、そして女性も・・・・。いつしか外国人相手の赤線へと変わっていったのです。

今の山手警察署(横浜市中区本牧宮原)の裏あたりの十二天の所に、チャブ屋街がありました。 チャブ屋の建物は、1階がダンスホールで、お酒が飲めるようになっていました。
本牧にあった「キヨハウス」というチャブ屋の名前は、世界中の船乗りに知れ渡っていたそうです。

「横浜のブルースを作りたい、本牧のチャブ屋に行ってみて」と作曲家の服部良一さんに頼まれてチャブ屋に出かけた作詞家の藤浦洸がチャブ屋の女性に聞きます。「ところで此処から港が見えるのかい?」「見えるわよ。窓を開ければね。メリケン波止場が見えるわよ。」このヒントで歌詞は一気に出来上がりました。チャブ屋での一夜の恋の感傷をブルースにしたのが「別れのブルース」です。歌手にはまだ駆け出しだった淡谷のり子を起用しました。「別れのブルース」は本来は「本牧ブルース」というタイトルでした。

 
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現在の本牧十二天。当時の様子を伺うことはできません
現在の本牧十二天。当時の様子を伺うことはできません
チャブ屋「キヨハウス」があった辺りは、現在では小港南公園があります
チャブ屋「キヨハウス」があった辺りは、現在では小港南公園があります

チャブ屋での男女の想いを切々と歌い上げた淡谷のり子は歌謡界の第一線に押し上げられ、以後は「ブルースの女王」の名をほしいままにしたのでした。

別れのブルース

作詞:藤浦洸 作曲:服部良一

窓を開ければ 港が見える
メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて
今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

「別れのブルース」をお聴きください。

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「別れのブルース」の物悲しいメロディーは平和な時代への別れを象徴したかのようでした。この歌が世に出た昭和12年(1937年)には、中国の北京郊外、盧溝橋橋付近で、日本軍と中国軍が激しい戦火を交え、日中戦争が勃発したのです。

レコードや放送・出版に対する検閲は年々激しさを増し、世に出る歌は軍国歌謡か大陸おのに絞られてゆきました。そして昭和16年(1941年)、ついに太平洋戦争の泥沼へとのめり込んでいったのです。

参考サイト

 

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