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ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第10回 フォークと日本語のロック その6(日本のロック黎明期)

by staff on 2013/3/10, 日曜日

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第2章 フォークと日本語のロック その6 (日本のロック黎明期)

GSからニューロックへ

 GSも殆どのバンドが ’70年をまたぎ解散、新しいロックの道を模索していきます。代表格としてPYGがあります。タイガースの沢田研二と岸辺修三、テンプターズから萩原健一、大口広司、スパイダースから井上孝之と大野克夫6人で結成されたのがPYGです。渡辺プロ所属のグループということで批判もあり短命でしたがロックへの道を模索していました。わが横浜のゴールデンカップスも ’72年1月で解散、リードGのエディ藩はエディ藩グループとしてファンキーなサウンドを模索し活躍。ルイズルイス加部は元パワーハウスの陳信輝らと共にスピード・グルー&シンキなどで活動、後にジョニー、ルイス&チャーの活動につながります。正にロックが胎動していた時期と言えるでしょう。

サディスティックミカバンド

 フォークからロックへ見事な転身を見せた大御所、加藤和彦氏が当時奥様のミカさんをリードボーカル、ドラムに角田ひろ(メリージェーンで有名)、ギターは高中正義で結成。 ’72年 「サイクリングブギ」 でデビュー。程なく角田が抜け、高橋幸宏(後のYMO)が加入、ベースは小原礼(昨年の象の鼻イベントに奥様の尾崎亜美と出演してくれました)、そうそうたる顔ぶれです。

 ファーストアルバム 「サディスティックミカバンド」 は、当初千枚しか売れませんでしたが、海外で評判になり逆輸入という形で日本でも売れるようになりました。これをきいた英国のプロデューサー、クリストーマス(ビートルズやピンクフロイドを手がけたことで有名)からプロデュースの話があり、アルバム 「黒船」 が完成、日本のロック史上に残る名盤がリリースされました。名曲「タイムマシンにお願い」の歌いだしで一瞬間をおくセンス、「塀まで一っとび」などののファンキーなサウンド、ファンキーマージャンやお産婆サンバのユーモアセンス。黒船の「おっプログレっ?」と思わせるアルバム作り。そして英国仕込のファッションセンス。すべてが卓越していました。海外でも高く評価されロキシーミュージックのオープニングアクトを勤めたりしましたが ’75年加藤夫妻の離婚により解散。

 現在までボーカルを変え2度ほど再結成しています。

カルメンマキとオズ、ブルースクリエーション

 フォーク風歌謡曲 「時には母のない子のように」 でヒットを飛ばしたカルメンマキが、ある時ジャニスジョップリンにしびれ、ロック歌手へ転身します。カルメンマキ&タイムマシーンを経て、ブルースクリエーションとマキ&ブルースクリエーションでアルバムを作成、ニューロック期の名盤として評価が高いようです。(ブルースクリエーションはブルースギタリスト竹田和夫を中心に ’69年に結成、71年頃からカルメンマキと活動しその年の全日本フォークフェスティバルにも出演。 ’72年にはブルースクリエーションを解散してクリエーションとして新たに活動を開始。クリームを育てたアメリカ人フェリックス・パパラルディに認められ海外でも評価される。アメリカのプロレス兄弟チームザ・ファンクスの入場テーマ 「スピニングトゥホールド」 が有名で、 ’80年代にはボーカルに元カーナビーツのアイ高野を加え 「ロンリーハート」 の大ヒットがある)

 ’72年には新メンバーでカルメンマキ&OZを結成。地道な活動を経て、 ’75年に1stアルバム「カルメンマキ&OZ」を発表。10万枚を売るセールスを記録。ロックがまだ形作られていないこの時期、この記録は大したもので、前出の黒船と共に語り継がれています。中でも12分の超大作「私は風」は素晴らしく日本のロックを語る上で重要な一曲と言えるでしょう。

横浜、街と風(青い日記) 6

ナショナルショールーム

 1972年、当時横浜関内の現関内ホールの関内大通りを隔てた所にナショナルショールームがありました。発売中のセパレートステレオなどが沢山展示してあって、レコードリストから自由にレコードを借りて試聴することが出来ました。(もちろんヘッドフォン使用、無料だったと思います) クラシックからフォーク、ロック歌謡曲までかなりの数のレコードがありました。しかも、2階の奥にはライブスペースがあり、殆どただ同然でライブが見れました。しかも驚くのは、出演者でよく出ていたのは、ピピ&コット(後に「どうぞこのまま」をヒットさせる丸山圭子や、通りゃんせのケメがいた)、RCサクセション、など、フォークギターをかきむしるように弾き歌う忌野清四郎をほんの5メートル位の距離で見ていました。後は当時売れかけていたフィンガー5。一番印象に残っているのが井上陽水で、ただでさえも身長が高いのに、アフロヘアーとヒールの高い靴でエライ巨人に見えました。その背中を丸めて座り、「傘がない」、「夏まつり」をアコースティックギター2本で歌っていたのは忘れられません。

衝撃の出会い

フォーク三昧の日々、ある時ラジオの特番でビートルズ特集をエアーチェックしました。兄の影響で普通に洋楽は聴いていたし好きでしたが、その時聞いた「恋する二人、I Should have known better」にかつてない衝撃を覚えたのです。ギターのサウンド、ジョンのボーカル、すべてにしびれて、これをそっくりにやりたいと思ったのです。それからはしばらくビートルズを聴きまくる日々が続き、授業中退屈な授業の時はビートルズのメンバーを写真を模写したり、分厚いビートルズ関連の本を読みあさったり、夜は必死にギターをコピーしたり、お正月の2日は一人部屋にこもり一日中ギターを弾きながらビートルズを片っ端から歌いまくりました。その後の爽快なこと、、正に快感!

ビートルズはこの時すでに解散していて、確か第一回目のリバイバルブームの時でした。今に至るまでビートルズは自分にとって特別な存在です。

進学

 いよいよ高校受験。たいして勉強もしていないので不安でしたが、白楽にある武相高校に合格、こんな自分でも拾ってくれる所がありました。

港南中学ともお別れの時がやってきて卒業式を迎えます。音楽や生涯の友と出会えたこの中学校に感謝しています、近年、前を通ったらプールや懐かしい校舎がなくなっていてちょっと寂しい気持ちになりましたっけ、もう40年経つのだから当たり前ですよね。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

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