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2013年4月 三ツ池だより 「横浜は近代化の先頭を走っている」

by staff on 2013/4/10, 水曜日
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 新幹線で戻る車中に”三島”のアナウスがあった。ひかり号だと三島の次は新横浜になり、箱根にむかう人はここで降りる。熱海駅を通過する頃、景色は桜かすみのように、少しおぼろで、もやっとしていた。私は車内販売の珈琲を飲んでいた。”横濱珈琲物語”、”横浜南京町通り”の文字をカップに見ることができた。南京町は1859年(安政6年))横浜が開港され、7年後外国人居留地が造成された時に始まる。

 江戸時代は宿場とされた神奈川宿、程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)、戸塚宿を中心に発展した。特に、神奈川湊を持つ神奈川宿が江戸湾(東京湾)内海交通の要衝の一つとして栄えた。一方六浦湊は、歌川広重が金沢八景を浮世絵としたように、風光明媚な景勝地としての色合いを濃くしていった。なお、江戸時代末期までの横浜村は、前出二つの湊とは対照的に、戸数わずか100戸足らずの半農半漁の寒村であったという。

 横浜村の運命を一変させたのは、当時国交を持たなかったアメリカのマシュー・ペリー率いる黒船の来航であった。太平洋航路の拠点として、また、捕鯨の際の供給基地として日本の港を利用することを望んだ。アメリカ海軍の黒船一行は六浦藩小柴村沖(現在の金沢区八景島周辺)に無許可のまま2か月間居座り、幕府の対応を待った。その後に横浜沖へと進み入り、その後幕府は横浜村に設営した応接所で外交交渉を行った。交渉の結果1854年(安政元年)に横浜村で日米和親条約が締結され、1858年(安政5年)には神奈川沖・小柴(現・八景島周辺)で日米修好通商条約が締結された。この通商条約に「神奈川」を開港するよう定めたことが、横浜の都市開発の発端となった。幕府は、東海道に直結し当時既に栄えていた神奈川湊を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地とした。(出典ウィキペディアから)

 その横浜が今その当時には想像できなく発展している。近年の”みなと未来”の開発当時などは、当時の横浜市長の失政と言われるばかりの状態があった。それがどうだろう今や大歓迎の態である。さらには赤レンガ倉庫から横浜港への夜の景色のポイントは絶景である。その横浜の港近くの山下公園は、関東大震災の瓦礫を埋めてつくられている。私はそのことを数年前に友人の横浜案内人の方から聞かされ驚いたのだった。横浜も様々な歴史を刻んで今がある。

 横浜村には、短期間で居留地、深谷市在の笹井万太郎により波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられた。安政6年6月2日(新暦1859年7月1日)に横浜港は開港した。横浜市では、6月2日を開港記念日としている

 さて私の20年前の俳句につぎのような句がある、

春の雁七百円の灯油かな
横須賀詢
退路なく実行あるのみ花嵐
横須賀詢
万愚節鏡の中に美男おり
横須賀詢

 四月はスタートの時である。「聞き出そう!考えよう!結集しよう!」全員が営業になろう!と呼びかけた。情報を届ける。情報を聞き出す。それは営業的な仕事であるからだ。話を聞いてもらえる、話を聞きだしていく。

花あれば雅楽の音の忍びよる
横須賀詢

 見て聞いて、この四月を大切に過ごしていきたい。そしてどれもが物語になってくる。今一度横浜を歩きながら物語の構想を練るにもいい時である。

 

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(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

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