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セカンドライフ列伝 第12回 大伴旅人

by staff on 2013/6/10, 月曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第12回 大伴旅人

エリート軍人から、最晩年での叙情詩人への変身

 天皇制を支え、特に軍事面で日本の統一に多大な貢献をしたのが大伴氏でした。そのエリート貴族の家系に生まれたのが旅人(たびと)(天智天皇4年(665年)~天平3年7月25日(731年8月31日)です。

 旅人が正史である続日本紀に突然姿を現すのが、710年(和同3年)元旦であり、朝賀の儀式に左将軍(正五位上)として供挙します。堂々たる46歳の彼は、朝賀する南の隼人、北の蝦夷(えみし)を、彼の騎兵と共に率いて朱雀大路を行進しました。隼人と蝦夷はそれぞれの民族の正装をし、祝賀の舞を披露することで、正に日本の統一を象徴したのです。平城京遷都の大イベント注1)であり、今日の我々が呼ぶ奈良時代の幕開けでした。

 当時は702年(大宝2年)に頒布した大宝律令により、統一国家としての政体を整えて間もない頃ですが、その版図は九州南端と白河以北の東北には必ずしも及んでいませんでした。同年に派遣された遣唐使の目的は、大宝律令で定めた日本という国名の承認と、唐における律令制度運用の実態調査にあったと言います。後に旅人の良きライバル歌人となる山上憶良が参加していました。

 720年(養老4年)に大隅国(現在の鹿児島県東部)で隼人の反乱があり、大隅国司が殺害されました。これは朝廷に隼人征伐を正当化させる格好の材料を与えました。56歳の旅人は大将軍として1万人以上の大軍を率いて平定に当たりました。

 そのような旅人が64歳の528年(神亀4年)に太宰師(だざいのそち)として九州に赴任すると、それより2年早く筑前国司として赴任していた山上憶良との交流もあって、叙情詩人に大変貌しました。万葉集に残された彼のおよそ78首の内、殆どがこの大宰師時代に詠まれたのです。3年近くの赴任の後に帰京し、翌年に67歳で没しました。

 既に山上憶良については紹介しました注2)が、大伴旅人もまた、革命的な歌人であったわけです。どうして最晩年にそのようなことができたのでしょうか。例によって私の妄想と不勉強で、史実を逸脱しながらも、その謎を追ってみたいと思います。

その出自と生い立ち

 大伴氏は名門であり、天孫降臨まで遡ることができるということですが、そこははしょって父母から始めましょう。父は大伴安麻呂、母は巨勢郎女(こせのいらつめ)ですが、父は古代最大の内戦である壬申の乱(672年)で、当初は劣勢であった大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)側に付いていました。キングメーカーという役割です。彼は6男でしたが、兄が亡くなると参議として公卿に列し、大納言にまで昇進して大伴氏の総領たる地位にありました。(なお壬申の乱では大伴榎本氏(後の榎本氏)の活躍もあったそうです、余談ながら。)

 その長男が旅人(たびと)ですが、今日的な目からはずいぶんとカッコいい名前です。弟は田主という地味な名前ですので、元は田人ではなかったかという説もあるようですが、それは忘れましょう。

 旅人がどのような青春を送ったのか、どのような公務を果たしてきたのかは分かっていませんが、冒頭の平城京の開都セレモニーに統一国家の威信を背負った演出で登場したのでした。あをによしの奈良の都。何と(710年)きれいな平城京と後世の受験生は暗記し、ちょっとぶきみな「せんとくん」が1300年を記念したマスコットになりました。そんな一見華やかな時代ですが、663年の朝鮮半島での白村江の戦いでの大きな敗戦と、その後の新羅との緊張状態での防人の設置と新羅外交の継続、その新羅の後ろ盾である唐との外交、激しい権力闘争である壬申の乱(672年)、隼人や蝦夷の辺境での反乱、そしていつまでも続く朝廷をとりまく権力闘争と、国家的課題が山積していた時代が、次の段階に進もうとしていた時でした。

第一の人生~軍人としての隼人の反乱静定

 父安麻呂が714年に没し、旅人は一族の長となりました。すると715年に従四位上、中務卿、718年に中納言に昇格します。そしてその年に長男の家持(やかもち)が誕生、ずいぶんと遅い年齢での子供で、大いにめでたいことでした。

 なお、彼の子供は家持(718~785)、書持(ふみもち、生年不詳~746)、女児の留女之女郎(るめのいらつめ、生没不詳)の3人で、いずれも母は丹比郎女(たじひのいらつめ)とされています。この家持が大伴氏の長となるのですが、万葉集の編者のひとりであり、歌人としても優れていました。

 そのような平城京における幸せの絶頂期に、降って湧いた事態が720年の隼人の反乱です。征隼人持節大将軍に任命された56歳の旅人は、家門の誇りを持って軍勢を率いて九州の南端に遠征したのでした。政治的に劣勢になりかけている大伴氏を維持・興隆させるには、絶対に負けることのできない戦いです。政敵達を喜ばせるような結果にはできません。1万人以上の兵を率いて旧暦3月に出発し、真夏の炎熱の戦いを、野営を重ねながら続けたのです。隼人は集落を放棄する時に、必ず火を放って旅人軍が使えないようにしました。南下すれば右手に桜島があり、718年の噴火のなごりの煙が立ち上っていると共に、足元に堆積した火山灰(シラス)は、雨が続けば足をとり、晴れて風が吹けば舞い上がって旅人の軍勢を苦しめました。台風の襲来もまともに受けました。このような土地で、地勢を知り尽くしている隼人に対抗するのは容易ではありません。

 6月には制圧したと報告したのですが、8月に都で右大臣藤原不比等が没し、旅人は急遽呼び戻されます。しかしながら、隼人いまだ平らかならずということで、副将軍(笠御室と巨勢真人~旅人の母方です)以下は現地に駐屯させました。彼らの帰京は翌年の7月であり、隼人の斬首・捕虜は1400人以上であったといいます。当時の隼人の人口は5~6万人という推定がありますから、そのトップ3%を排除したものであり、彼らの戦闘能力を壊滅させるには十分でした。その後723年に薩摩・大隅の隼人624人が朝貢して民族舞踊を奏上し、名実共に大乱は鎮静されたのでした。

第一の人生~歌人としてのアンラッキーなデビュー

 さて、724年(神亀元年)の3月に即位して間もない聖武天皇が吉野の離宮に行幸しましたが、60歳の旅人が一行に加わりました。この時に朝廷への服従奉仕の心を結集させた、次のような歌を作りました。当時の歌とは、このように政治的なものだったのです。

暮春の月に芳野の離宮(とつみや)に幸(いでま)しし時に、中納言大伴卿の勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作れる歌一首※

み吉野の 芳野の宮は 山柄(やまから)し 貴(たふと)くあらし 川柄し 清(さや)けくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変わらずあらむ 行幸(いでまし)の宮

     反歌

昔見し象(きさ)の小河を今見ればいよよ清(さや)けくなりにけるかも

 この歌の意味は全く解説不要なほどに明確というか、平明であり、形式としての新規性はなく、内容も天皇賛美に徹しているだけなので、従来は余り評価が高く無かったといいます。しかし最近はこれを評価する意見が出てきているようです。私には詳細まで分かりませんが、聖武天皇即位の宣命の詞句を援用し、当時の諸思想に典拠しているという、時代の教養にしっかりと根ざしながら、さすが名門の頭首とされる格調を備えたものと言います。私は語調を整えての繰り返しを多用した日本語表現に才能を感じます。この言葉の用法は、この後の彼の歌のスタイルに多く見られます。反歌での「いよよ」で全体の調子を受け止めて終わりに至る流れも見事と言う気がします。

 でもこの歌はボツでした。先の歌の冒頭の※印の位置に、こんな但し書きがあります。「未だ奉上を経ざる歌」、要するに天皇から制作を命令されたのに、未提出ということです。中納言が宿題を出さないということがあり得るのでしょうか。私は次のように勝手に解釈しています。

 ひとつは宮廷歌人の存在です。当時は山部赤人(やまべのあかひと)がその頂点であり、724年の吉野行幸でも多くの歌を奉上しています。そこに中納言が割り込むのを好ましくないと考える人が居たのかもしれません。それは赤人のバックに勢力を強めている藤原氏の存在を抜きには考えられません。大伴氏が新天皇との距離を縮めることに、こころよく思わなかったのではないでしょうか。病弱な聖武天皇を補佐する、この絶好のシチュエーションを独占しようと図っていました。

 この60歳の作品が万葉集に残された旅人の最も早い時期の作品です。未奉上でも残ったのは、息子の家持が編集者だったからであり、同じ理由でこれ以前の作品は少なくとも家持の手元に無かったことは確実と思います。処女作でこれだけのものが書けるということは、旅人が相当に普段から勉強をしているということです。軍人だからと言って、文化的な教養をおろそかにはできない時代だったのです。次の時代の平家は武家であったものの貴族化しました。鎌倉時代で武家の文化が確立していきます。はるかにそれ以前では、宮廷内での文化闘争も欠かせないものでした。旅人は漢詩も作れれば、当時の新思想である仏教への理解も深かったと言われています。

 歌を作ることに、旅人は急速に意欲を失ってしまいました。軍事の世界では一目置かれる大伴氏ですが、宮廷内では中納言といえども側近達のガードを越えることができませんでした。平城京の風は彼には冷たく感じられました。

第一の人生~失意の大宰府行き

 726年に山上憶良が初代筑前国守として赴任していましたが、728年には旅人が太宰師(そち)に任命されました。従来は太宰師が外交と内政を兼ねていましたが、太宰師は外交に専念し、国内問題は筑前国守が担当するという分担になったのです。当時は白村江の戦い(663年)から50年以上を経て、新羅との関係は外交交流を通じて安定化してきており、教養の高い旅人が担当することは適任であると言えるでしょう。

 しかしこの人事の本当の意図は長屋王(ながやのおおきみ)を孤立化させるために、有力な長屋王派の旅人を遠ざけたことにあります。果たして729年に藤原四兄弟は、彼らの勢力確保のじゃまになる長屋王を服毒自殺に追い込みました。(後の737年にこの4人とも揃って天然痘で死ぬと、人々は長屋王の祟りと噂し、藤原氏の謀略であることは公然化していました。)この謀略の邪魔をされないように旅人を遠ざけたものと、考えています。果たして翌730年に旅人は大納言に昇格して都に戻され、731年に従二位と極めて高い位に就きました。これは父の安麻呂(大納言、正三位。ただし死後従二位を追贈)を超えるばかりではなく、長屋王とほぼ同等というものです。ただし、私はこれをバランス人事と考えています。すでに老齢の旅人には対抗するだけの政治力も気力も体力も無く、藤原氏が官職を独占しているのではないことを示すための、便利な人事に過ぎません。使い勝手の良い、名門の老人ということです。

 従って、旅人の大宰府赴任は失意の旅であったと思います。728年(神亀4年)の2月に若き妻、大伴郎女(おおとものいらつめ)~あれ、いつのまにか奥さんが変わっている。この辺の事情はわかりません~と、家持らの子供達と下って行きました。家持少年は数えで11歳、お姉さんのような新しい母をどのように思っていたのでしょうか。旅人は失意の一方で、家族との濃密な時間を持つ大宰府への旅であったと思います。

第二の人生~最愛の妻への挽歌

 太宰府の前任者である太宰少弐の石川足人(たるひと)が、業務引継ぎの宴席で、

さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君

(あなたのお父さんの安麻呂様の頃から住んでいる平城京の高級官僚用住宅地である佐保の山が懐かしいでしょうねえ、こんな辺境に来てしまっては。)

と、親しい間柄なのでしょう、からかい半分に歌うと、旅人は次のように返しました。

やすみししわご大君の食(を)す國は 倭(やまと)もここも同じとそ思う

(最初の7文字は大君の枕詞。食すは統治の尊敬語。後は説明不要。)

 彼の人生第2作は、上司としての役人の職務姿勢をストレートに示したもので、おそらく二人で、そして侍っている人々も含めて大笑いしたことでしょう。都を離れた解放感もあって、旅人のサロンが早くも出来てきたようです。後世に筑紫歌壇と呼ばれました。

 その4月に郎女が突然に病没します。さっそく都からは弔問の勅使が遣わされてきました。その深い同情に感謝の心を籠めて旅人は素直に心情を歌います。

 橘の花散る里のほととぎす 片戀いしつつ鳴く日しそ多き

(卯の花と同じように、橘の花にはほととぎすが付きものと言われていますが、その橘の花が散ってしまいました。片思いで鳴く日々です。)

 この弔問は公務であり、いかにこの勅使との人間関係が良かったとはいえ、公務の席を逸脱している歌です。本来は天皇の配慮に感謝するような歌であるべきでしょう。

 そして3ヶ月の喪が明ける時に、漢文書簡と共に、「凶問に報ふる歌」一首を周囲の人に示しました。

 世の中は空しきものと知る時は いよよますます悲しかりけり

(世の中とは、男女の仲のことです。)

 64歳の地位も名誉もある男が、20代の妻の死に、「いよよますます」と慟哭したのです。ついに叙情詩人としての旅人が、その殻を割って登場しました。

 さらに、既に山上憶良で紹介したように、憶良の創作にも火が点き、その翌月に日本挽歌が成立します。旅人の心情に仮託しつつ、仏教思想を土台としながら、漢文+長歌+反歌5首というシンフォニーのような作品です。歌が集団や政治を離れて、個人のものになるという、大転換でした。日本の歌は、古くは歌垣という集団見合いのような場面から始まり、天皇を賛美するなどの政治的な意味でも使われるようになったもので、常に社会的であったと思われます。現代でも歌は社会的であり、詩は個人的であるという面を持っています。その意味で形式は歌ですが、心は詩人となったのです。

 実は旅人の女々しい歌は、政治的なものとの解釈もあります。このような歌を勅使が持って帰れば、藤原氏は旅人が既に政治的には廃人に等しいと安心するだろうと、そこまで考えての創作だというのです。しかし過去に類似の作品が無いなかで、意図的に作れるものではありません。ずっと時代を下って、与謝野晶子が言文一致運動の檄文を書くのですが、それが文語体で書かれたという残念な例があります。理念での言文一致は分かっても、先例が無いので口語体で檄文が書けなかった、どう書けば良いか全く分からなかったのでした。まして歌を個人のものとして歌うという歴史が無いなかで、考えてできるものではないでしょう。それらの歌を公開したことが政治的であったと言われれば、そうかもしれません。

第二の人生~サロンの形成と歌人から詩人へ

 さて、総勢50人になると言われる作歌サロンが形成されますが、これは山上憶良の方に書きましたのでご確認ください。(http://yokohama-now.jp/home/?p=9227)中でも憶良はせっせと創作ノートに書きとめて、できた作品を旅人に送るという、西条八十と金子みすゞのようなことをしていたことは驚きです。

 翌729年2月に長屋王の変がありますが、それが旅人の歌に現れることはありませんでした。その変を受けた人事で、大宰府の部下が昇進して都に送り出す宴では、「せっかく用意した酒なのに、君がいなくなるので独りで飲むのは寂しいなあ」と無難に歌いました。これは政治的な歌です。所が都ではその翌3月に、常に旅人の下に居た武智麻呂が、彼を飛び越して大納言に昇格する人事が行われました。太宰師になるのは左遷だとは思っていましたが、こうもはっきりと政治的にピリオドを打たれると、さすがにがっくりとしました。

 そこに、この変による人事で昇格した部下が、位階を受けるために都に上り、そして大宰府に4月初めに帰ってきました。旅人主宰のその祝宴で、部下の昇進の喜びに溢れた無邪気なまでに太平楽な歌に対し、旅人は次のように応えました。

藤波の花は盛りになりにけり 平城(なら)の京(みやこ)を思ほすや君

 真っ向、藤原氏がその権勢の絶頂になったと、おおらかに歌ってみせたのです。ちぇ、こいつも藤原派になって帰ってきたか。俺の動静を逐一報告するんだろうなあと、腹のなかでつぶやきながら。でもこの歌、大変な皮肉とも読めますが、問題となることはありませんでした。それはさらに続きがあるからです。

 さらに列席の君子達の歌のやりとりがあり、旅人が大宰府での歌会では型どおりとなる望郷の歌、5首を次々と披露しました。その3首めを紹介します。

浅茅原(あさじはら)つばらつばらにもの思へば 故(ふ)りにし郷(さと)を忘れむがため

 浅茅原とは茅萱(ちがや)が生えている荒れ野ということで、必ずしも現在の奈良公園内の地名を指しているものではありません。むしろ5首を併せて見れば、暗雲渦巻く平城京の奈良ではなくて、幼少期を過ごした葛城山麓の故郷や、青年時代を過ごした旧都藤原京への望郷歌です。紙幅の関係で1首だけの紹介としましたが、その心情の重さ、深さ、そして率直な優美さに列席者は無言となりました。それぞれの人が、自分の故郷を思い浮かべたことでしょう。その雰囲気を変えるために旅人が指名して、まあここだって住めば都じゃあないかという歌でまとめる者があり、さらに憶良に振ると、例の憶良らしい場違いな歌が披露されました。

憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむ そを負う母も吾を待つらむそ

 (さあさあ、おセンチな望郷タイムは終わりにしましょう。この卑小な私の現実問題として家族がこの宴会のお土産を首を長くして待ってるんで、もう帰りますよ。)

 この歌で、どれだけ座の雰囲気が和んだかは分かりませんが、とにかくお開きになりました。残された旅人は憶良の諧謔にほくそえみながらも、またも追憶の世界にひとり戻って行ったのです。

第二の人生~歌人旅人の優雅な生活

 さて、郎女の代わりに、子供達の教育係として旅人の妹の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が大宰府に下ってきました。彼女は額田王以来の孤高の女流歌人であり、旅人や憶良より多い84首を万葉集に残しています。人生経験が豊富で、大伴氏一族を陰で束ねていたようです。家持少年は、今度は辣腕の叔母さんに硬軟併せて可愛がられたことでしょう。

 そして旅人は自らの心の平静を酒に求めました。酒を賛(ほ)むる歌13首を残していますが、詳細は文献を参照願います。彼が歌ったのは濁り酒であり、それに溺れながら酔泣(すいなき)をするという作品群です。これは旅人が陶淵明を知っていて、酒をたしなむ隠遁の日々の真似をして作品化したものかもしれませんが、リアルに飲んだくれていた可能性も高いでしょう。理屈っぽい憶良へのあてつけか、仏教思想くそくらえ的な表現も面白いものです。良家に育った旅人の精いっぱいの不良老人ごっこのようでもあります。

 翌730年の4月初旬に旅人らは松浦川(現在の佐賀県玉島川、大宰府からみて唐津市の手前)で、神功(じんぐう)皇后が新羅遠征に際して鮎を吊り上げてから船に乗った故事になぞらえて、乙女たちにその装束をさせて鮎釣りをする祭儀を見学しました。少女たちの幼いエロチシズムを感じさせながら、極めて上品に格調高くまとめられた一連の作品は、66歳の旅人が到達したひとつの境地です。少女たちに家はどこ、名前はなあに、と古典的なナンパともとれる問をすると、私たちは名も無く家も無く、あばら家に住む漁師の娘たち、海辺や渓谷でのなりわいをしています。こんな高貴な方とお逢いできたのは感激ですと答えました。旅人は、君たちはそのように自己紹介したけど、いかにも上品で明るくて、良家の子らに間違いがないと歌います。これに応えて一連の歌が作られ、旅人の歌で締めくくられました。でもこの連作はすぐに都に報告されました。これもまた政治的なもので、藤原氏がどのように読むかを意識し、また歌のライバル達への挑戦状でもあるという、ややこしいものでしたが、旅人はもうそのようなことは超えて、軽々と歌うのでした。なお、憶良は福岡県の知事なので、佐賀県に連れて行ってもらえずに、留守番でした。後から旅人に歌を見せられて、くやしいなあ、うらやましいなあと、いつになく素直な歌を返しています。実は旅人の肉体的な衰えに気づいていたのでした。

第二の人生~帰京と幻滅

 旅人はこの夏にひどく脚をわずらい、一時は死の淵を覗いた思いでした。心身共に無害な老人になってしまいました。その9月に時の大納言が死亡し、空席になったので、藤原氏がその温情を示すため、旅人が大納言に昇格し、都に召喚されます。

 12月6日に旅人の餞別の宴が催されました。例によって憶良からは、独りよがりで熱っぽい送別の歌を贈られました。これは憶良の創作ノートに残されていた私信です。筑紫歌壇の事実上の終焉でした。

 さて上京の旅につくと、少し行ってはまた宴会と、何とも嬉しいような、迷惑なような送別が続き、九州各地からの挨拶や餞別が多くありました。そんな中で、遊行女婦(うかれめ)児島が2首を餞別に送っています。部下の誰かが気を利かせて連れてきたのでしょうか、この児島の歌も公務です。

 九州の陸路を終わると、瀬戸内海は船で進みます。家族と伴の者たちだけで落ち着くと、3年前に郎女を伴って下ってきた時に見た同じ風景に、おもわず涙ぐんでしまいます。懐かしいはずの都の家に、郎女は居ません。旅人は病んで、生まれ育った土地への望郷の歌を残して731年7月に没しました。

旅人の政治的な遺産

 本稿は作品論ではありませんの、興味のある方は是非参考文献等で観賞していただきたいと思います。彼の高潔な叙情は、旅人という人間のど真ん中からあふれ出てくるものであり、深い味わいを得ることができるでしょう。

 さて、政治ネタです。大宰府の旅人に都から書状が来ました。「720年の隼人の乱から10年が経った。日本を律令国家として完成させるには、隼人もこの枠組みに入れる時期かと思うが、太宰師の意見はどうか。」というものです。丁度創作ノートを持ってきた憶良が理屈をこねて、辟易としていた所なので、話題を変えるために、このことを問いました。

楽しい日本史復習「律令制」

 律は刑法、令は主に行政法を指す。この基盤として班田収授法があり、男女の戸籍に従って口分田が与えられるという、中央集権国家の骨格を成す。またそれに基づく税制が租庸調であり、兵役もあった。
 701年の大宝律令で完成形に達したとされている。同年の遣唐使の目的の1つは唐での律令制実施の実情調査であった。8世紀が最もしっかりとこの制度が運営された時代であったという。

 憶良がちょっと顎を捻りますと、おっと、また理屈が始まると旅人が構えます。

 「おそれながら私が唐で見聞してまいりました律令制度は、中央集権国家の構築に誠に適した制度のように思われましたが、実際には多くの矛盾といいますか、問題を内包しているものでも御座いました。まず人口調査ができていませんでした。唐は広大であり、辺境は無限です。地方の有力者の欲は深く、中央に報告する人口は極端に少ないものです。従って口分田の多くは機能しておりませんし、その土地の有力者がピンはねをして、却って民衆を苦しめているのが実態です。中央政権でもピンはね構造は重層的で、その苦しみは総て民衆に転化されます。そして何よりも、少数民族の文化を破壊しています。ご存知のように私は滅亡した百済の出身です。日本に亡命することができて実に幸せですが、国を失っても、民族を失うことはできません。どうか、ご覧下さい。」

 リューマチで足腰が痛い痛いといつも嘆いている憶良が、すっと立ちあがり、百済の舞を舞い始めました。口先で何かぶつぶつとつぶやいているのは、百済の歌でしょう。やがて合いの手の部分だけは、聞き取れるようになりました。旅人が初めて目にする憶良の姿でした。彼が舞い終えると、今度は旅人が口を開く番でした。

 「10年前の隼人の乱の平定では、多くの人々の命を奪うことになった。彼らの悲嘆の声は決して忘れられない。その後、朝貢して彼らは都で舞を奉じたが、その舞は、私には意味を知ることはできないが、彼らの民族の心血が注がれたものであることくらいは、分かった。敗者の卑屈さは微塵もなく、彼らの民族の誇りというものを表していたと思う。彼らには彼らの文化があり、生活がある。律令制度の枠に無理に押し込もうとすれば、必ずや無理が生じるであろう。従来の通り、定期的に朝貢させることで良いではないか。時代が進めば、彼らが同化することもあろう。これは感情論ではなく、民族性を尊重するという理念であり、理性の帰結である。」注3)

 この結論を答申として送りました。もう中央の誰かの顔色なんて関係ないし、自分がどんな答申を出そうと、それは形式的に意見を聞いただけで既に結論ありきだろうし、白を黒と解釈する名人が沢山いるから、太宰師も隼人への律令制導入に賛成していますと、してしまうだろうとか考えて、思うままとしたのでしょう。

 しかし中央の決定は、驚くことに旅人の答申通りになりました。隼人族の軍事的脅威を招くことを避けたのです。実際に戦った旅人の言葉の重みが伝わったのでした。

 ここからは旅人没後の話です。やがて両者の関係が安定してくると、朝廷は隼人を優秀な軍人として重用し、宮廷警護などに採用するようになりました。隼人はゆるやかに同化していったのでしょうが、民族的な遺伝子は受け継がれていったものと思います。やがて島津家の領地となっても、日本列島の中では常に独自の位置を保ち、また常に軍事的な力量を維持し、それは秀吉の朝鮮半島出兵や、関ヶ原の戦いなどでも遺憾なく発揮され、幕末には薩長連合という形で、新日本を築く原動力となりました。これらが旅人の御蔭とまでは言いませんが、歴史の積み重ねのひとつであることは、確かなことです。

(2013.6.1)

注1)朝賀の儀は、実際には平城京の前の藤原京で行われたものです。儀式は710年の元旦であり、遷都は3月(いずれも旧暦)という時系列です。しかも遷都の時点では平城京の諸施設が整っていなかったようで、パレードの背景としてはいささか寂しい状態でした。史実はそうだとして、旅人のために、最盛期の平城京を背景にプレゼントしました。

注2)本シリーズ10山上憶良の記述と齟齬する点がいくつかありますが、勉強不足によります。そのうちに訂正しなければならないでしょうが、論旨に影響するものでは無いと考えています。

注3)対隼人政策への答申は史実ですが、見てきたような描写はウソです。念のため。

主な参考文献

  1. 大久保廣行:筑紫文学圏論「大伴旅人筑紫文学圏」、笠間書院(1998.2)
  2. 中西進編:大伴旅人 人と作品、おうふう(1998.10)
  3. 谷口茂:外来思想と日本人「大伴旅人と山上憶良」、玉川大学出版部(1995.5)
  4. 神野志(こうのし)隆光、坂本信幸:万葉の歌人と作品「第4卷 大伴旅人・山上憶良(一)」、和泉書院(2000.5)
  5. 神野志隆光、坂本信幸:万葉の歌人と作品「第5卷 大伴旅人・山上憶良(二)」、和泉書院(2000.9)

 

旅人(たびびと)の木
旅人(たびびと)の木
(大伴旅人の図版が無いので、代わりということで)
沖縄県海洋博公園内の植物園にて(2013.5)

 

大伴旅人想像図
とは言え木でごまかすのも気が引けるので、ここは勝手に想像して軍人としての旅人を描いてみました。大将軍ですから、もっと装飾的な装備でも良かったのですが、隼人平定の遠征中の実戦的なものとして、兜の羽根飾りに留めました。肉体的な鍛錬もしていたものとして、首は太く、一方激しい連戦のために頬は削がれ、それでも髭は無しとしました。しかし残念ながら高貴さのオーラは出せませんでした。旅人さん、これでご勘弁を。
大伴旅人想像図

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

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