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4月 10 14

ひさかたの 光のどけき春の日に しず心なく 花の散るらむ

by staff

♪ひさかたの 光のどけき春の日に しず心なく 花の散るらむ♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:紀 友則(きの とものり)

 現代語訳・・・時が止まっているような、麗らかな春の光の中で、ひたすら舞い散る桜よ・・君は何故にそんなに散り急いでいるのか。

 とても静かな春の日に狂気とも思えるような桜の乱舞のVISIONが目に浮かびます。

 昨年の秋あたりから、この紀友則さんの歌が私の心の中で響いていました。ふっとした時に、お掃除しているときや、散歩がてらの買い物にゆく道すがら、この歌が心によぎるのです。そろそろメロディを付ける時が来ているのだな・・と思っていました、いつも新しいメロディができるときは心の中で言葉が先に響き始めます。でもこの歌は国語の教科書にも載っているような百人一首を代表するような一首なので、プレッシャーがあって・・・。 今年になってメロディが湧いてきて・・・最近やっと曲になりました。

 30代の頃、住んでいた家の近くに由緒正しい古いお寺があり、桜の大木が境内を囲む様に立っていました。ある雨上がりの春の日散歩に出ると、ちょうど桜が満開だったのにも関わらず、まだちょっと肌寒くて境内には誰もいません。

 静かな春の日差しの中で 雨に濡れた重みで桜がひらひらと散っていました。大きな桜の木の真下に立って舞い落ちてくる桜を眺めていたのを思い出します。桜はくるくると回りながら落ちて着ます。非日常としか形容できない不思議な時空間の中でシャワーを浴びるように頭上から降り注ぐ桜の散りざまを見つめていました。美しくて儚いひと時でした。くるくると回りながら散る桜。地球の自転と同じ右回りだったと思います。

 オーストラリアやニュージーランドなど南半球で咲く桜はやはり反対回りに回りながら散るのでしょうか。

 さて紀友則さんは、先月号の紀貫之さんとはいどこ同士。貫之さんよりもだいぶ年上で、古今和歌集では選者の筆頭に名前を書かれていましたが、残念です。完成する前に亡くなってしまいました。出世が遅くてご自分を花の咲かない木だと嘆いていたというのは有名な話です。ある秋の歌会で「初雁」をテーマに皆が歌を披露していました。友則さんもご自分の番になり詠み始めました。

 ♪春霞 かすみて往にし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に♪
現代語訳・・はるがすみに霞んで飛び去った雁が今また鳴くのが聞こえる・秋霧の上で。

 友則さんがはじめの句「はるがすみ~!」と歌い始めると、聞いていた人たちは季節が間違っていることでどっと笑いました。でもその後の句で 「あきぎりのうえに~!」で終わった時にその歌の展開の絶妙さに感嘆して皆 言葉もなかったということです。この歌会を境に、彼の出世の道は開けましたと さ。めでたし めでたし。

(早苗ネネ♪)

 

早苗ネネさん LIVE情報

日時:4月11日(金) 18:30~
場所:シャンパーニュ(東京都新宿区新宿 1-34-11-B1)
HP:http://www.champagne-live.com/

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

4月 10 14

保土ヶ谷区と岩手県山田町を繋ぐパイプ役になりたい
株式会社ケーアイ代表取締役 石崎久仁王さん

by staff

 生まれ育った故郷、岩手県山田町の「三陸やまだ漁協」から届いたサケの受精卵を孵化させ、保土ヶ谷区内の幼稚園、小学校、中学校、高校、養護学校の生徒さんが稚魚に育てて、帷子川に放流しています。 保土ヶ谷区と山田町を繋ぐパイプ役になりたいと活動されている株式会社ケーアイの石崎久仁王さんのご登場です。

株式会社ケーアイ代表取締役 石崎久仁王さん
株式会社ケーアイ代表取締役
石崎久仁王さん
 
お名前 石崎 久仁王(いしざき くにお)さん
ご出身 岩手県山田町
ご年齢 昭和21年生まれ 67歳
お仕事 株式会社ケーアイ代表取締役
保土ヶ谷区上菅田町
活動 『三陸やまだ漁協』を応援する会
ふる里山田 同郷の会 副会長
『まつ山寄席』協賛会
上菅田チビッコ『すず風ロードまつり』実行委員会

岩手県山田町とは

 生まれ故郷の岩手県山田町は、宮古市と釜石市のちょうど真ん中にあります。三陸海岸(陸中海岸国立公園)の船越半島と重茂半島に囲まれた山田湾は内海で波も穏やか、カキの養殖イカダが浮かび、ホタテやウニ、アワビ、サケ、わかめなどの海産物の宝庫です。そして、海水浴や水遊びにも適したところです。また、山と美しい自然にも恵まれ、山ではマツタケやシイタケが採れます。

 私は学生時代、そこでイカ釣りやアイナメ釣りを楽しみ、自然の中でのびのびと過ごしました。卒業後、就職のため戸塚に出てきました。そして、独立のチャンスをいただき、上菅田に移りました。この横浜には49年住んでおります。

岩手県山田町のホームページ
山田町を応援するよ!facebook

復興支援に何かできないかと思いました

 東日本大震災で、山田町を津波が襲い、町は大きな被害を受けました。この惨状を上菅田でテレビのニュースで知った時は、しばらくは言葉も出ないほどの衝撃でした。

 山田町出身の私は、保土ヶ谷区と山田町を繋げるパイプ役になろうと思いました。同郷のみなさん及び上菅田町内の有志のみなさんと『三陸やまだ漁協を応援する会』を立ち上げ、保土ヶ谷区のあちこちの商店街のイベントに山田町の名物『カキ小屋』を出店したり、特産品のブースを出したりして、「山田町」をPRしました。

 三陸やまだ漁協の組合長生駒氏とも話したことですが、山田町の知名度を考えると、PRは必要だと思いました。横浜市から派遣された役所の方々も、宿泊施設の充実している宮古市や釜石市に入ってしまいます、山田町の復興支援のお願いをどうしたら良いのかが会の課題となりました。

帷子川(かたびらがわ)にサケを!

 帷子川の清掃活動を地元のボランティアや会などが行い、帷子川がキレイになってきました。保土ヶ谷法人会では、社会貢献運動として、帷子川の清掃活動を行っています。川から壊れた自転車が何台も出てきたのには驚きました。また、法人会では、毎年、横浜の水源地『ヤビツ峠』の森の下草刈り、及び清掃活動を行っております。山がキレイであれば、川がキレイになり、川がキレイになれば、海がキレイになるのです。この清掃活動のおかげで川の水質が随分と良くなりました。川沿いを良く散歩するのですが、臭くなくなりましたね(笑)


帷子川の公園親水護岸:ここでサケの稚魚を放流する

 復興イベントの『カキ小屋』や物産展も良いのですが、復興とは普段の販売ルートの復興でもあって、イベントの特需ばかりでは、継続的な販売ルートの復興に繋がらないと思うのです。イベント向けに出荷して、販売したい正規のルートに影響が出てはいけないことだと思いました。そこのところは、支援する側と支援される側とが情報を出し合っていく必要を感じました。人の記憶も時間と共に薄れて行きます。山田町のこと、震災のことをいつまでも忘れないで欲しいと思った時、『サケ』で故郷と繋げようと思いました。

隅田川のサケの放流に学ぶ

 隅田川ではサケの放流を30年も続けて行っています。山田町が受精卵を供給し、「隅田川鮭の会」が主催で「放流」を行っています。東京海洋大学のキャンパス内にある放流池から、地元の小学生などがサケの稚魚を放流します。

第30回隅田川鮭の放流についてはこちら

 このイベントには企業やいろいろな会などの寄付もあり、山田町の『岩手県山田境田虎舞保存会』の虎舞が呼ばれています。2頭のトラが、海上での安全祈願と大海に出る稚魚が無事に戻るようにと踊ります。帷子川の『サケの放流』でみなさんに、この虎舞を見せたいと思っていますが、踊り手や世話役など十数人を招くには、活動費が足りておりません。とても残念です。

 隅田川のサケの放流では、東京海洋大学の協力もあって、サケの生態や放流に適した日の水温や気温の情報が配信されています。

 帷子川のサケの放流は、飼育した子供たちが春休みに入る前の3月9日に行いました。いろいろな情報は『隅田川鮭の会』から得ております。今年2回目ですが、これからもずっと続けて行きたいと思っています。

 子供たちは、サケを川に放流することによって、川や海に関心を持ってくれます。そして、サケの卵を贈ってくれた『山田町』のことにも関心を持ってくれます。子供たちがいつの日か山田町を訪れてくれたら嬉しいですよ、それはもう(笑顔)


サケの稚魚/放流前日の様子:写真提供 寺井由紀子氏

サケの放流関連情報

石崎さんにとって横浜とは

 『ダンゴウオ』~海の底から見た震災と再生 鍵井靖章 (新潮社)の写真集の中に遡上してくるサケの写真があります。

 また、最近の牡蠣イカダの写真には驚きました。津波によって海底のヘドロが流されて、海の生態系が変わり、養殖している牡蠣にムール貝が付着するようになりました。そんな海の中の写真を撮られている鍵井さんの写真展、パネル展を考えています。

 私にとっての横浜はいろいろな方々との輪が広がる場所です。

新潮社「ダンゴウオ」はこちら

インタビュー:寺井由紀子氏(横浜カーフリデー実行委員会理事) 文・写真:高野慈子

 

3月 10 14

朝市に魅せられて

by staff

 

 
2014年2月11日。
この日は、昨秋から準備を進めてきた「かながわ朝市サミット」が開催されるはずの日でした。座間市立東原小学校校庭の会場には150を超える出店者と、座間市のゆるキャラ「ざまりん」も登場してイベントを盛り上げることになっていました。

ところが、2月8日の大雪でイベントの開催はできなくなりました。断腸の思いで「中止」を決定し、出店者の方々に連絡しました。2月11日、私は東原小学校の正門の前に立ち、来て下さった方々に「中止」を伝えていました。

今回の2回にわたる大雪は、首都圏各地に多大なる被害をもたらしました。農家の方はもちろんのこと、観光地や飲食関係でも想像以上の被害がでているようです。大雪により被害を受けられた皆様に心からお見舞い申し上げます。

今回の「かながわ朝市サミット」のために、「朝市ネットワーク」の仲間たちが中心となって「かながわ朝市ガイドブック」を作りました。

「かながわ朝市ガイドブック」は、神奈川県内の朝市を紹介している冊子で、これを見れば、どこでいつどのような朝市が行われているかがわかります。

私が「コマ大戦」で出店している「商大バザール」(横浜商科大学)も掲載されています。「商大バザール」については、2013年12月の「ヨコハマNOW」で紹介させていただきました。
http://yokohama-now.jp/home/?p=10691

 

(クリックで拡大画像)

座間中止の現場
座間中止の現場

神奈川朝市ガイドブック表紙
神奈川朝市ガイドブック表紙

商大バザール
商大バザール

 
私が仕事で「朝市」に関わるようになって一年ほどになります。その前から、週末は朝早くから厚木や茅ケ崎の朝市に出かけていました。

「朝市」の魅力は、何と言っても新鮮な野菜や魚が手に入ることです。そして、お店の方や生産者の方と直接にお話ができることも魅力です。現代社会で失われつつある「対面販売」が「朝市」にはあるのです。

先日、湘南藤沢地方卸売市場で毎週土曜日に開催されている「湘南朝市」に行ってきました。卸売りのお店が並んでいる中に、人だかりができていました。お魚の袋詰め販売をやっていたのです。様々な種類のお魚や貝がビニール袋に詰め放題で400円でした。価格が安いだけでなく、どれだけ詰められるかを楽しめました。

市場の外では、生産者の方々が野菜を販売していました。「これおじさんが作ったの」「そうだよ。みんな美味しいよ。」「今朝とってきたのだから間違いないよ。」そんな会話が交わされるのも「朝市」ならではです。

皆様も是非お近くの「朝市」に出かけてみてください。いい出会いがあると思いますよ。

※「かながわ朝市ガイドブック」をご要望の方には実費(200円)+送料でお送りいたします。
「ヨコハマNOW」のお問合せ欄にご連絡ください。
http://yokohama-now.jp/home/?page_id=5

 

(クリックで拡大画像)

湘南朝市

湘南朝市

湘南朝市

湘南朝市
湘南朝市

 

3月 10 14

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第6回) ハマグリと3月料理コースのご案内

by staff

3月3日はひな祭り

 ひな祭りと言えば、ちらし寿司とハマグリのお吸い物を召し上がる方も多いのでは?ハマグリは、2枚貝の中でも、対になっているもの以外は合わないので、仲の良い夫婦を表し、一生一人の人と添い遂げるようにという願いが込められた縁起物なのです。また、旬もこの時期のために、ひな祭りに食べる風習が生まれたようです。

 日本では古来から沢山とれたようで、貝塚に残された殻はほぼハマグリだそうです。しかし、近年収穫高は極端に減り、今では国産のハマグリはスーパーでも少なく、また高価な値がつけられています。代わりに中国、韓国、台湾産などが多く出回りお値段的にも手に入りやすくなっています。

 ハマグリは、高タンパク低カロリーの食材で、また鉄分やカルシウムも多く含むので特に貧血や骨粗しょう症などが多い女性に嬉しい食材です。逆にβ-カロテン、ビタミンCなどが不足しがちなので、緑黄色野菜と一緒に取るのがおすすめです。ハマグリのお吸い物に、菜の花を入れられる方も多いと思いますが、ハマグリのエキスを存分に楽しむ、『ハマグリと菜の花のパスタ』をご紹介します。

 


 


 

ハマグリと菜の花のパスタ (2人分)

スパゲッティー(細めの麺)
オリーブ油
にんにく
唐辛子
はまぐり
白ワイン
菜の花
160~200g
大さじ2
1/2片
1/2本
小10個
50cc
1/3束
  1. 大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかし、塩を入れる。海水程度の味にする。
    スパゲッティーを入れ,表示の時間より1分短めにゆでる。
  2. フライパンにオリーブ油、薄切りのにんにく、種をとった唐辛子を入れ、火をつける。弱火で2~3分かけて香りをだす。
  3. 香りが出れば、砂抜きをして殻を洗ったハマグリを入れる。白ワインも加え、蓋をして、貝の口が開くまで熱する。
  4. スパゲッティが茹で上がる、2分前に3センチ長さに切った菜の花を加える。
  5. 茹で上がったスパゲッティを3のフライパンに入れ、煮汁とオリーブ油を加え,よく混ぜる。塩、胡椒で味を調える。

 

3月の料理コースのご案内

 私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

3月のコース内容

フランス料理基本コース 『貝のスープ』
『スパゲッティカルボナーラ』
『カスタードプリン』
春の到来です。貝を使って、春色のスープを作ります。シンプルなスープほど、調理の仕方で差が出ます。お家で作ると難しいそうなスパゲッティカルボナーラ。上手にできるコツをお教えします。お家パスタの定番に!みんな大好き、カスタードプリン。是非、マスターして下さい。大きくつくるプリンは、皆の歓声が聞けますよ!

貝のスープ

スパゲッティカルボナーラ

カスタードプリン

フランス料理応用コース 『かぶとホタテのサラダ』
『子羊のロースト』
『ウィークエンド』
この時期甘いかぶを丸ごと使っておしゃれな前菜に仕立てます。新しいかぶの魅力を発見して下さい。なじみのない子羊のロースト。実は子羊は体にもいいんです。お家でも挑戦してみましょう。ウィークエンドは、レモンがさわやかに香る焼き菓子。日持ちもする優れものです。
家庭料理コース 今月も様々な冬メニューを御用意しています。
人気の品は、中華まん、茶碗蒸し、ちらし寿司などです。

 受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。

http://www.7juillet.com/kyousitu.html

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にてフランス料理を学ぶ
同校 フランス・リヨン校、フランス1つ星レストランにて研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める
独立し、キッチンスタジオ・ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

3月 10 14

2014年3月 三ツ池だより 「ほこりのもてた三月でありたい!」

by staff
Navigation: HOME»コラム»横須賀詢

 二月の終わりの夕方の交差点で立ち止まっていると、コートの襟を少しつまみたくなった。陽が落ちてからすぐに薄く暗闇が襲い、急速に暗くなって、寒さを感じた。信号を渡って私はKALDIに入って、モカブレンドをペーパーフィルターように挽いてもらった。

 三月ってなぜに慌ただしいのかと考えてみた。国の会計年度が4月に始まり3月をもって終わるときめたのは明治19年1886年だった。それまでは藩ごとの取り決めで行われていた。明治政府が近代化に踏み込み暫時さまざまなことが西洋を見習って導入された。ちなみに入学式も西洋の教育が導入され、高等教育では9月が主流だったという。外人が教師で着任するのに9月がよかったということだ。小学校が4月入学と決められたのは明治33年1900年のこと。「桜が咲き、植物が芽吹く春は新しいことを始めることが、日本人の感覚とあって、3月が卒業式、4月入学式が日本独自の儀式として定着した。」114年前のことであった。

ちなみに世界の入学式は次の通りだ。

1月 シンガポール 1月末から2月初め オーストリア・ニュージーランド
3月 韓国 4月 日本 5月 タイ 6月 フィリピン
9月 アメリカ・イギリス・ベルギー・ロシア・中国

 4月の入学式が当たり前と思っていたが、全体的には4月ではないのだった。当然のこと3月が卒業式ではないことになる。

 卒業式というと「蛍の光」を思い出すのが私の年代である。小学唱歌は明治14年1881年制定されている。蛍の光はスコットランド民謡で、「オールド・ラング・サイン」という讃美歌として日本に入ってきていた。唱歌として歌詞を付けたものであったようだ。蛍雪の明かりをたよりに夜分勉強をするという考え方に自然になじんでいた。

 ところで、今年の年度末はなにかと慌ただしい。消費税の駆け込みなのかもしれない。

 期末の納品、新年度に向けての仕込みの事業などに追われている。例年になく、会議の質も求められている。

 「使う人が喜んで使ってもらえる状態を作っているか?」という課題である。

 使う人の目的があるはずである。仕様書に出てくる内容はもちろんクリアーにすることである。そこに至る段階で、例えば仕様書にどこまで盛り込まれているかを考える時がある。仕様書通りやりましたで済むわけではない。仕様書を書く人、仕事を請け負う方双方の思いがうまく一致することが望まれてくる。もちろんそこにコスト意識が必要なことは当然である。一方そこにおける価値とはなんだろうか。

 国家予算が空前の大きさになっている。国民の喜びに結びついているのだろうか。国家を預かる者は本気で議論しているのだろうか。大きくなった要因をなにがどれだけで、将来どうなるということを見通しての予算なのだろうか?

 春の句を見てみよう。

山路来て何やらゆかしすみれ草
松尾芭蕉
春泥に押しあひながら来る娘
高野素十
たんぽぽや日はいつまでも大空に
中村汀女
若あゆの二手になりてのぼりけり
正岡子規

 この子規の句の中に夢を感じている姿が見られる。正岡子規がこのなかで自分が若鮎だと思っているわけではないのだと思う。仲間がいや日本が当時動いているそのことに、これからの日本に託された夢を希望として表現していると思う。

 今日本は高齢化の時代に入っている。高齢者が自立できる仕組み、それは昔の隣組であるはずである。町内会館がもっと見直されていい。長い間町内会館は行政の補完の役割を果たしてきた。時には町内の顔役の人に頼ってきた。それだけでいいのか。町内会館、地区センター、などが連携する動きはないのだろうか。自立とは何かの役立ちに身をおくこと。その交流の接点がそれらの場になること。

 中小企業であればなにかの会に入ることもあるが、産業振興会館の広場に相談コーナーや交流の場があるといったこと。目的があって訪問する場所がわかる人もいるが、行ってみると自然に自分の求めているコーナーにいけて、話を聞いてもらえた。そんな場があったらいい。

 喜びのなかで仕事をしていたい。仕事をしていることで生きてきた自分の歩みに誇りが持てた。そんなことも考えながら新しい年度にむけての3月でありたいと願っている。

 

Photos

(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)

     
     

(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

3月 10 14

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第12回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第12回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 破竹の勢いのナポレオン軍60万によるロシア遠征は、ロシア軍によるモスクワ焦土作戦や冬の到来などもあり、飢餓・疾病・厳寒に直面して退却を余儀なくされました。崖っぷちの劣勢を凌いだロシアのクトゥーゾフ将軍は “戦いにおいて最も重要なことは最後の勝負に勝つことだ” と言い放ったとか。そういえば、伝説の西鉄ライオンズを率いた三原脩監督も、6回裏まで劣勢の試合での周囲の罵声に対して “野球は6回まででなく9回までの得点で争うゲーム” と選手を鼓舞して最後まで勝負をあきらめず、7回以降に逆転することがしばしばあったといいます。 “オマハの賢人” と崇められる米国の著名投資家ウォーレン・バフェットは長期投資を基本スタイルとし、 “私が一番投資したい先は<永遠>”  と短期決戦ではなく長期・超長期での最終章の決着を大切にしているとのこと。梁塵秘抄では “萬劫年経る亀山の、下は泉の深ければ、苔生す岩屋に松生ひて、梢に鶴こそ遊ぶなれ” とあります。長寿のシンボルである枯れぬ泉・苔むす岩・青々たる松。人間は遊び・仕事・学びに時を費やす生き物。であれば面白おかしく少しずつシンプルにしていけということでしょうか。ただ、安定はあくまでも幻想。生きる環境は刻々と変わります。その変化こそ脅威ではなく機会。99%を捨てて1%に集中する “最後の勝負の舞台” をどこに置くかは、誰にとっても大仕事といえそうです。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

これだ、と思い込んだ一筋の道 じっくり知を蓄積し、うまくいけば富も築ける
困難は次から次へとやってくる 重くとらえない、できるだけ簡素に受け止める
めざす位置から知の肩車に乗り今を振り返る 除去すべき悪さや障害がはっきり
感覚を言葉と論理でサポート 三石-しんぼう石・観察石・長寿石、と徳川家康

 徳川家康のリーダーシップは、絶望の中での包容力にあるといわれます。困難も、めざす位置から肩車に乗って冷静に観察すれば違う景色が見えてきます。久能山の菩提寺に家康が自省のために置いたのが三つの石。徹底した観察と寛容、感得と熟考の重要性を教えてくれます。 “不自由を常と思えば不足なし。勝つことばかり知りて負くること知らざれば、害その身にいたる” ということでしょうか。日本画を代表する画家の一人で、日本の四季と生活する人間の姿を描くことに突出した川合玉堂も “画風、一日にしてならず” と日々苦悶し続けたといわれます。真のプロフェッショナルとは、技を超えて宇宙観・人間観・仕事観などの見識を辛抱強く磨き続ける人間ということですかね。天下を手中にして恐れることが何もなかったはずの太閤秀吉も “長谷川等伯の絵にはほっと一息つける空間がある” と漏らしたといいます。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

ヘンリー・フォード 顧客に何が欲しいか聞いたら、もっと速い馬がいいと答える
DVD ビデオデッキが前提であれば、もっと速く巻き戻しできればベターとなる
その延長線上に、自動車・DVDは存在しない 絶対という視点を極力相対化する
顧客には未来を想像する助けを求めない・期待しない 果報は練って待つしかない

 社会・市場が激変し、顧客は自分が何を欲しいのかさえ的確に語れなくなっています。顧客に頼っていけないことは昔も今も同じようで、自らの手と足と頭でウォンツを掘り起こしていくしかなさそうです。自動車の育ての親といわれるヘンリー・フォードは、T型フォードを世界で累計1,500万台以上も生産し、社会と産業・交通に革命をもたらしました。安価な製品を大量生産しつつ、労働者の高賃金を維持する “フォーディズム” の創造者でもあります。他の企業の倍近い賃金を奮発、周囲の疑問に “回り回って社員が顧客として参加してくる” と語ったといいます。消費者優先主義が平和・繁栄の鍵だという動かぬ信念。 “お金を出させるのでなく出したくなる” 戦略。発想やアイデアをメモにして抽斗(ひきだし)に入れる習慣は知識ベースの源泉。ただ、一番のお値打ちは、その心掛けと行動が自然と脳の抽斗に収まるという点にあるのかもしれませんね。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

世界一になるためには世界一になる方法を自分で考える 模範解答はない
勝負 自分でしか出せない知恵、自分の答えを持つ 脳から絞り出す覚悟
独自性を持たない世界一はない 望むは栄光へ到達するための無限の努力
イランの天然真珠産業 御木本幸吉の人工真珠で壊滅し、石油へ舵をきる

 模範解答を探すだけでは問題解決につながらず、かえって致命傷になりかねない時代になりました。イランはもともと天然真珠大国、最初から石油で食べていたわけではありません。御木本幸吉は明治維新の渦中で読み書きソロバンを身につけて飛躍の土台を固めました。海産物が有力な貿易商品になることを見抜き、アワビ・伊勢海老などと併せて天然真珠を扱います。世界の装飾品市場は高額な天然真珠に殺到してアコヤ貝は乱獲から絶滅の危機に直面。事態打開のため “アコヤ貝の養殖” に着手、更に発想を180度転換して “真珠の養殖” を最終ゴールと定めて成功しました。イノベーションを生み出すには時代や環境がイノベーティブであることが大前提。 “日本人だけ・男や女だけ・会社の人間だけ” で固まる世界では得られない世界を学ぶ機会と挑戦。 “肖像画を描く時は完璧に似せてはいけない。似せると命を損なう” といわれるところがミソですかね。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(八)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第12回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(八)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など
3月 10 14

中小経営のニッチから国際化へ(第6回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.自社製品やサービスの探索、育成、成長

 前回 のコマ大戦は、製造業の分野での協業や共創のきっかけにはなるものの、それ自身、自社の新しい商品やサービスになることは稀であろうと思います。

表 1 コア・コンピュタンス (『図解入門ビジネス 事業計画書の読み方と書き方がよ~くわかる本(第2版)』より)

 何れにしても方法論として自社の新製品、新サービスを探索することは、ニッチ市場であれば必須であると言えます。

 そのヒントとして、4つのコア・コンピュタンスの類型を見てみましょう。以下の表は確かに基本的で自社の商品やサービスの探索には当たり前すぎるとお思いでしょう。しかし、これらの4つの類型は、1つの商品やサービスの中で埋もれている場合もあるのです。

 例えば、電気事業はどうでしょうか。エジソンが電球を実用化する以前に、発電機や送電線、モーターや発熱器などがあり、これらを統合して初めて電気エネルギーとして使え、電気を供給するというサービスになるわけです。彼は、電球を商品化するよりも、電気事業を目指していました。言い換えれば、電気エネルギーを消費することで付加価値をえることを提唱したのです。電気を供給するというサービスはあくまでも、電気を生み、運び、消費させるサイクルを提供するものですが、彼の新規事業は、このサイクルを早く、大きく、広範囲に拡げるモノであれば、どんなものでも開発に着手し、更に言えば、他社の製造を譲ってまでも、このサイクルを拡張することが重要だったのです。ゼネラル・エレクトリック(GE)は、こうして電球や家電の会社ではなく、電気事業を営むためのシステムそのものを売ることを目指したのです。その技術は、航空機や船舶の発電機やジェットエンジンの開発までも広がったのです。

 ニッチと思われる商品やサービスが、将来は、成長し展開するというのは、ある意味で夢物語です。しかし、夢物語があったからこそ、それに向かって技術やサービスの品質を上げていくことに乗り遅れては事業にはなりません。

 「下町ロケット」で有名なH2Aロケットが先月28日に無事打ち上げを成功させました。この打ち上げには大手企業も参画していましたが、多くはニッチなニーズをくみ取り支えてきた中堅企業です。まさに、日本の誇る国産ロケットH2Aは実は「下町」製なのです。生産現場を支えてきたのは、多くは夢であり、それを実現するために挑戦し、コア技術を体得した中小企業です。他国が、事故原因を調べずに発射させることに対して、徹底して見直しをしなければもう一度発射させないという姿勢が日本の技術水準の高さを保持してからだといわれています。

 そこで、4つの類型にあるように、既存の自社製品やサービスはなぜ買ってもらっているのか、といった自己分析が重要になります。エジソンは電球の実用化に心血を注いだのは、光源として安定することが、当時のランプやロウソクの火よりも劣っていたからです。しかし、性能が安定すれば、ランプやロウソクを使ってはいけない場所や安全が確保できないニッチな場所にも売れ、さらにそのような特殊な環境でも使えると分かれば普及すると考えたからです。

 次に、安定光源としての電球が開発できても、その機能を保障するには、材料や部品の品質、コスト、供給が必要となります。これらの保障には、ニッチであっても一定の需要がないと、品質、コスト、供給を満足させることができないというジレンマがあります。つまり、ニッチであるからこそ、必ず自社の商品やサービスを使ってもらうことこそが、自社のコア・コンピュタンスを育成する原動力になります。最近は、H2Aロケットなどのように国策でこのニッチ需要を押し続けることで、最初の事業サイクルを回そうとしています。しかし、このサイクルが回っている間に育成する技術やサービスのコアを固めなければ、独立事業として成長することは不可能です。

2.新規事業のブート

 既存事業を動かしながら、新規事業を立ち上げる(ブートする)ことは並大抵ではありません。それは経営資源、つまりヒト(人員、工数)、モノ(設備、ソフト)、カネ(予算)、情報(顧客のニーズ情報や業界情報)が少ないばかりか目処が立たないのが現実です。

 しかし、ニッチ市場であっても「情報」でニーズの大きさが確認できるなら、ヒト、モノ、カネを調達する決心が必要です。つまり、リスクを取らねばならないのです。次回に詳細には述べますが、資金調達をおこなうためにも事業計画をしっかり立てれば、投資、融資あるいは助成金の獲得の目処が立ちます。

※さて、別のビジネス・コラムの「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。

次回の予告

新規事業のブートをついて考えていきます。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役
一般財団法人 BCi戦略研究所 理事

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

3月 10 14

書評 「こころに残る現代史」 角川書店 白駒妃登美 著

by staff
 

 「日本人の知らない日本がある」と副題にあるように私たちは知らないことが多い。 戦前どこにでもあった二宮金次郎の像だって、ことごとぐ取り壊されてしまったのだ。勤勉がいけないとでもいうように!親孝行がいけないとでもいうように!生活改善に人生をかけた人だったのに!

 著者は「日本人がどんな思いで生きてきたのか、それを受け取ることは、私たちの生きる力になります。そしてそれをリレーしていくことが、私たちに課せられた大切な使命ではないかと思うのです。」とはじめに書いている。

 「日本人は戦いに敗れても、決して誇りを失うことなく、真面目に働いて立派な仕事をしたのよ。あなたも日本人のように生きなさい。」ウズベキスタンの母親たちは愛する我が子にこんな言葉を贈るそうですと語りかけるという。これは第3章「世界からみた日本人」感謝と報恩の歴史の中に出てくる。第2次世界大戦が終結したあと、ソ連軍は日本人捕虜の一部を、当時まだソ連に属していたウズベキスタンの強制労働施設に抑留しました。命じられたのは、ダムや運河、水力発電所、劇場などのインフラの建設でした。「絶望の中でも誇りを失わず、笑みさえ浮かべながら、真面目に働き続ける日本人兵士たちの姿を見て、人々が食料をさしいれしてくれるようになったのです。」先の一説はそれを受けてのものだ。

 この本はこころに残ることを集めた新しい視点が美しく感じられます。根底に流れる日本人のこころとは何かを著者の感性で綴られている。トルコやベルギーがかくも日本に理解を示しているかがよくわかる。

 「あなたがもしも、ベルギーを旅する機会があったなら、お互いに交わした“真心のこもった贈り物”があったことに、ぜひ思いを馳せてみてください。目に映る景色が、よりいっそう輝きはじめるのではないでしょうか。」その発端を次のようなものです。「第一次世界大戦にさかのぼります。ベルギーは、フランスを攻めるために領内に侵入してきたドイツ軍に、その国土を蹂躙されてしまいました。」「その悲惨な状況が日本で報道されると、遠い異国の出来事にかかわらず、当時の日本人はベルギー国民の惨状に胸を痛め、迅速に行動を開始、彼らに対する支援活動をはじめたのです。」その後のさまざまな交流も紹介されます。

 トルコとの交流の始まりは明治23年9月16日の大型台風の直撃をもろに受け、トルコの軍艦が紀伊半島の樫野崎に連なる岩礁に座礁し、沈没してしまう。二人の灯台守が村人の協力を得て救助することからはじまる。「救出された69名が母国・トルコに帰る日、彼らの代表者は言いました。“我々は、このたびの日本人の措置に心から感謝している。乗員一同は帰国後、広く日本人の温情を同胞に伝えるつもりだ”その言葉通り、この一連のエピソードはトルコ国民の多くが知ることとなり、後には教科書にまで掲載されるようになるのです。これが、世に言うエルトゥールル号遭難事件の顛末です。」「私は、もしタイムマシンに乗って時間をさかのぼれるとしたら、あの日の紀伊大島を訪ねて、村民の一人一人を抱きしめたい気分です。“ありがとう!あなた方のおかげで、120年後の日本人は、世界に愛され、とてもしあわせです。”そう、彼らに伝えたいのです。」「トルコには“自分の歴史を知らない者には未来がない”ということわざがあるそうです。まさに、きちんと時刻の歴史を学んでいたからこそ、日本が危機にあるときに“借りた恩は返そう”と格別の厚情をはかってくれたのでした。」

 白駒さんは言います。
 「歴史とは、名もなき一般の人々の生き方が積み重なって紡がれていくもの。私たちは、先人たちのおかげで、今、こんな恵まれた環境の中に生かされています。」 「50年後、100年後の日本人が世界から信頼され、愛され続けるためにも、“今”を生きる私たちの責任は重大ですね。」

 ペルーのこと、台湾のことにもふれられる。
 「李登輝さんのいう日本精神とはなんでしょうか?」という問いかけ、そして次のように語られる。「それは、“公に生きること”。自分さえよければという考え方でなく、みんなの幸せを考えて痛みを分かち合うこと。その結果として、恩恵もみんなで分かち合うことが出来るようになる。これが日本精神だと李登輝さんはおっしゃるのです。」

 はじめのところで著者は印象的な言葉を綴っておられる。
 「歴史を知ることで“日本人にうまれてよかった”、さらには“人間っていいなぁ。愛おしいなぁ”、そんな思いを深くしています。」

(文:横須賀 健治)

 

 

3月 10 14

書評 「ほかげ橋夕景」 文春文庫 山本一力 著

by staff
 

 「天保十四年九月一日。暮れ六つ前。九月のおとずれを待ち構えていたかのように、風が冷たくなった。」一力さんの書き出しは季節や時間を感じさせる書き出しで始める。「とりわけ陽が沈み始めたころからの川風は、身震いを覚える肌寒さをはらんでいた。つい今し方まで、一匹の三毛猫が堀の水面を見つめていた。水辺の小石に近寄ろうとする小魚が気になっていたのだ。」

 天保十四年は1843年だ。江戸の時代、天保の時代とはどのような時代であったのだろうか。

(天保12年)> 1月27日
(旧1月5日)
【万次郎ら遭難】 万次郎ら土佐藩中ノ浜の5人の漁師がはえ縄漁のため宇佐浦西浜の港を船出。29日(旧1月7日)足摺岬沖で船が難破。
  2月4日
(旧1月13日)
鳥島に漂着。翌朝に上陸し、無人島生活が始まった。
  (旧3月) 駿河大地震。
  6月27日
(旧5月9日)
【万次郎ら救出】 万次郎らが鳥島で米国の捕鯨船に救助された。
  11月20日 ハワイに入港。
  12月2日 万次郎だけが米国に向かうことになり、ホノルルを出帆。 米上陸(1843年)
1842年
(天保13年)
8月29日 【南京条約】 清朝政府は全面的にイギリスに屈服、南京条約を締結しアヘン戦争は終結した。条約には香港の割譲、上海などの開港と通商などが盛り込まれ、イギリスがさらに中国へ進出する足がかりとなった。  アヘン戦争勃発(1839年)
  10月 幕府が奢侈禁止令を発令。
1843年
(天保14年)
3月 釧路・厚岸地震。
  11月4日
(旧閏9月13日)
水野忠邦が老中を罷免され、町人らが水野邸に投石などした騒動を起こした。
根室沖地震。厚岸に津波。死者46人。
1844年
(天保15年)
8月4日
(旧6月21日)
水野忠邦が老中に再任。  罷免(1845年)
  12月 [英]YMCA設立。
『三銃士』『モンテ・クリスト伯』(デュマ・ペール)[仏]

 世界史的には大きなうねりが起きている。鎖国中の江戸は、眠りのなかにいたのである。そこに一力さん「なくなってすでに久しい母親おきちが、五ノ橋をほかげ橋と名付けた。父(傳次郎)と娘(おすみ)の胸には、おきち(母)のつけた名が深く刻みつけられていた。」

 まさに橋は架け橋、心をつなぐのである。
 「傳次郎は結納を済ませてからは、ほとんど家で晩飯を食わなくなった。“川べりの一膳飯屋のほうが、涼味があって飯も酒も進む”今日のおれの晩飯はいらねぇ・・・傳次郎の外食は、八月に入っても続いた。」「おとっつあんは、あたしと晩御飯を食べるのをいやがっている・・・何度も傳次郎に確かめたいと思った。が、返事が怖くて、問わず仕舞いになっていた。風は、犬の遠吠えまで運んできた。」 「傳次郎は道具箱を橋板に置き、娘を両腕で抱き上げた。“橋の真ん中から見ると、常夜灯がともってもきれいねぇ”おすみと一緒に傳次郎を迎えた夏に、おきちは・・・。“五ノ橋では味気ないから、火影橋ってよぶのはどうかしら”すっごくきれい。いいなだぜ。おすみと傳次郎は、その場で火影橋の名を受け入れた。」

 腕のいい大工の傳次郎は生来の不器用者、仲居をしていたおきちは寡黙で愛想のない傳次郎に強く惹かれたのだ。その二人に待望のおすみが生まれたのだが、おきちは亮年三十四で心の臓に発作を起こして急逝した。

 「男には、やせ我慢がでえじだからさ。おれが話したことを、おめえさんはばらしちゃあいけねぇよ」「あいつはてえした男だぜ」祝言があさってにせまって常夜灯に明かりを灯すのが毎日の決まりごとの彦八がおすみに話しかけてきたのだった。そのあと「橋の向こうから、聞きなれた足が聞こえていた。おすみは急ぎ、涙をぬぐった。」

 おすみはおっかさんから教わった油揚げと豆腐の味噌汁を父親に作り続けてきたし、新年早々の客の、歳の変わらない若い職人にもつくってあげたのだった。

 嫁ぐ娘への配慮をする傳次郎を著者は静かに見守っている。

(文:横須賀 健治)

 

 

3月 10 14

第8回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 富士山を求めて

by staff

例年になく雪の多かった2月。
今回は元町を離れて富士山の麓まで出かけてみました。
以前元町百段階段のことを書いたことを覚えて頂いているでしょうか?
今は百段公園になっている小高い丘は浅間山と呼ばれ、幕末の頃までは浅間神社とお茶屋がありました。
各地の浅間神社は富士山の地脈や龍脈と繋がっているとも言われています。
そのように元町にも縁のある富士山、そして北口本宮冨士浅間神社へお詣りに行ってみました。

第8回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 富士山を求めて
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元町百段公園から眺める富士山はビルの彼方に小さく見えるけれど、近くで観る富士山は大きくて壮麗でした。
この日はお天気に恵まれて、山に降り積もる雪に太陽が反射して真っ白で美しかったです。

第8回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 富士山を求めて
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北口本宮冨士浅間神社の本宮に向かう途中で、杉の木々に積もった雪が風に吹かれて、粉雪がきらきら光るスターダストを見せてくれました。
とても幻想的な風景の中でお出迎えくださり、神様に感謝したい一瞬の出来事でした!!

第8回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 富士山を求めて
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こちらが北口本宮冨士浅間神社本殿になります。
御祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)大変美しい女神様で、昨今は美容、子育の神としても崇敬を集めているそうです。

第8回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 富士山を求めて
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こちらはご神木で天然記念物の冨士太郎杉。
この神社の由緒は景行天皇40年(西暦110)日本武尊(やまとたけるのみこと)が御東征の折立ち寄られ、「富士の神山は北方より登拝せよ」と祠を建てて祀ったことを起源とするそうです。
樹齢1000年を超えるご神木に、歴史と神気を感じてしまいました。
余談ですが、ここからほど近い富士山2合目に金運神社と呼ばれる凄い神社があるそうですよ。
今度行ってみようかな? その時はまたご報告致しますね。(笑)

第8回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 富士山を求めて
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さて、2月の元町は雪| 雪! 雪!
商店街の皆様も雪かき作業が大変で、次の日は雪の固まりの山があちこちにありました。

第8回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 富士山を求めて
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外国人墓地の入り口から上がる見尻坂も雪で上れません。上からソリで滑り降りたくなりました。恐い??
2回も大雪に見舞われて、ほんとうに大変でしたよね。

第8回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 富士山を求めて
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こちらは山手の外国人墓地前にあるチーズケーキとワッフルのお店です。
外観も、店内も赤のギンガムチェックのテーブルクロスがアメリカンでポップな空間。
この日は日曜日、8時半からモーニングがあると聞いて上がってきたのでした。

第8回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 富士山を求めて
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生ハムとサラダのワッフルモーニング☆
3種類のモーニングセットがあります。
お天気が良かったら、きっと「ビューティフルサンデー♪」になったと思うよい雰囲気のお店でした。

第8回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 富士山を求めて
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そしてアメリカ山公園の入り口の花壇にはちらほらと可愛い花が咲き始めていました。
チャーミングセールも終わり、そろそろ春の気配を感じ始める元町です。
来月は春爛漫をお届けできます様に。今月も御拝読ありがとうございました!

 

レポーター プロフィール

Yuu  Adachi  

Yuu Adachi

Gallery1223 あいお☆らいと代表
2008年より山手・汐汲み坂、みなとみらいのワールドポーターズで画廊を経営。
現在はアート全般の企画展や個展のプロデュースを手がけつつ、元町を拠点にフリーのギャラリスト(画商)として活動中。
趣味は読書と映画とfacebook。
好きな食べ物は、バゲット(フランスパン) 大好きな都市はParis。
好きなことは妄想ー「夢を見ることにお金はいらない」
典型的なB型気質&真面目な山羊座☆
 
HP http://www9.ocn.ne.jp/~aiolight/

 

3月 10 14

第19回 どあっぷ 「『HOT JAPAN Project』を取材 HOTな日本を発信!」

by staff

みなさんこんにちは!
シチズンシップ教育の普及をめざすために活動している、NPO法人ど・あっぷ!です。
このコーナーでは、市民度の高い人や団体を、ど・あっぷ!が勝手に紹介します。

 

「ど・あっぱーず☆見つけ隊」vol.10
「HOTな日本を発信しよう!」「HOT JAPAN Project」

 いつも読んでくださっている方も、今回初めてという方もこんにちは!そして目を通してくださりありがとうございます。ついに「ど・あっぱーず☆見つけ隊」の連載も10回目になりました。しかし、まだまだ取材しきれていない市民度の高い団体はたくさんあります。頑張っていらっしゃる団体さんの少しでも力になれるよう、ど・あっぷは今後も取材をしていきたいと思います。さてさて、記念すべき10回目に取材した先は、高校生だけで活動している団体、HOT JAPAN Projectです!

日本を好きになることから、より幸せや誇りを感じよう

 今回お話を伺ったのは、高校3年生でHOT JAPAN Project(以下HJP)の代表の鎌田将晴さんです。HJPは高校生だけで組織されている団体で、日本の魅力や特色をイベントやSNSを通じて広く発信しています。彼らは日本を好きになってもらうことで、今をより幸せに感じて欲しいという思いのもと活動しています。この活動は、先代の代表の方が様々な国を訪れるなかで、「日本人はもっと日本について知るべきだ」という思いを抱いたことがきっかけで始まったそうです。これを聞くと筆者は耳が痛く、アメリカに行ったときに日本の文化についてあれこれ聞かれ、ほとんど曖昧な答えしかできず “Are you really Japanese?” と言われてしまったことを思い出します。早速日本文化について学ぼうとHJPのfacebookページを開いてみると、おいしそうな和菓子とお茶の写真が! どうやら、3月20日に実施するイベントで使うお茶屋さんの紹介みたいです。なんと、その日は成人式を間近に控えた女の子たちは、無料で振袖を着て浅草をぶらり観光できるみたいですよ。もっと若ければ参加できたのに...と悔しい気持ちでいっぱいです。このような、参加したい! 行ってみたい! と思えるような情報を、HJPは定期的に発信しています。文末にfacebookページのURLをのせていますので、ぜひぜひみなさんもチェックしてみてください。

来て、見て、感じて日本の魅力!

 HJPが主催しているイベントの一つに「Jふぇす」があります。Jふぇすとは、全国から高校生が集まり、HOTな日本の情報を様々な企画を通して発表するお祭りです。昨年度が第1回目で、今年の3月30日に第2回Jふぇすが行われるようです。

【日時】
【場所】
【参考URL】
3月30日 11:00~17:00(予定)
渋谷シダックスホール
https://www.facebook.com/events/1397371030522971/

 今年は昨年大好評だった振袖ファッションショーやジュニアチャンピオンによる和楽器演奏に加え、各地域の高校生が考案したオリジナルイベントが行われます。他にも面白そうな企画がたくさんありますので、高校生だけでなく、大人の方も足を運んでみてください。知らなかった日本の魅力に出会えるかもしれませんよ!

 振袖ファッションショーなど豪華な内容ですが、協賛の獲得から運営まで高校生だけで行っているそうです。「何も実績のない状況で協賛を得るのは大変でした」と鎌田さん。大人でも困難な状況で、全国にいるメンバーをまとめあげ、高校生だけの力で実際に成功させてしまうとは素晴らしい計画力と実行力です。鎌田さんは3月で高校を卒業するためHJPを引退するそうですが、今後は起業を目指して勉強されるそうです。HJPだけでなく、日本をHOTにしてくれそうな若社長の誕生にも今後注目ですね。

後記

 読者のみなさんは、日本を好きになることに抵抗を感じている人はいないでしょうか? 「愛国心」を育てる教育の必要性について、近年度々議論されていますね。「愛国心」と言われると戦争をイメージし、思わずたじろいてしまう人は少なくないのではないのでしょうか。筆者も思わず身構えてしまいます。しかし、「愛国心」というものが何を指すのかは別として、自身が住んでいる土地に愛着を持つということは実に自然なことであるように感じます。長年住んでいれば嫌なところ、直さなければならないところにたくさん目がいくようになります。それでも、良いところに気づくことができ、「好きだ」と思えるなんて素敵ではありませんか。それに、愛着を持っているからこそ、もっと良くしていきたい、今起きている問題を解決していきたいと思えるのではないでしょうか。良いところも悪いところも見つめて、HOTな日本をもっともーっとHOTにしていきたいですね!

HOT JAPAN Project
HP:http://hotjapan-project.com/
Facebook:https://www.facebook.com/HOTJAPAN.project
Twitter:https://twitter.com/HOTJPN_Project


http://www.youtube.com/user/douptv

(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:大越 実花)

 

★ど・あっぷに「参加したい」、「ワークショップをやってもらいたい」、「ミーティングを見てみたい」等等、どんなことでも結構です。ご興味がありましたら、是非ご連絡ください。

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3月 10 14

日本の四季と伝統行事

by staff

 

日本には四季があり、その時々の行事がある

日本には四季があり、二十四節気があり、七十二候があります。それは、日本に豊かな自然と恵まれた環境があり、日本人がそれらと共存共栄し、文化を育んできた証と言えます。季節ごとに顔を見せる草花があり、生き物がいます。その時々でなければいただけない食べ物があります。風や雨や雲にまで季節ごとの名前があります。そして、季節ごとに豊穣や家庭の健康を祈る行事があります。

なのですが、現在、特に都会では、と言うべきでしょうか?
季節も感じられなくなっているし、季節ごとの行事というのも、あまり身近に感じなくなりがちです。

それは商売にもはっきりと影響を及ぼしているようで、保土ヶ谷宿名物会でも先日、そのような話でひとしきり盛り上がりました。

 

時間の経過の中で得たもの。そして失いつつあるもの

一方で、クリスマスやバレンタインはもちろん、この10年くらいでハロウィン、そして関東圏でも恵方巻きなど、いくつかの季節イベントが盛り上がっていることも事実です。では、イベント好きな人は多いはずなのに、なんで日本古来の伝統的な行事は無くなりつつあるのでしょうか?

  • 核家族化が進み、おじいちゃんおばあちゃんから昔の習慣を習う機会がなくなった
    (さらに、それらを習わずに大人になった世代が増えている)
  • ライフスタイルが変わった
  • 流通が発達し、一年中、同じものが食べられるようになった
  • ここ数年は、春と秋がなくなっている

など、家族構成や生活習慣の変化や技術の発展による副作用的なこと、あるいは地球温暖化の影響など、時間の経過とともに、私たちが良かれと思いやってきたことの結果として、大切なものを失いつつあることが見えてきました。

また、
「昔は、子どもというのは家督を継ぐ それはそれは(今以上に)大切な存在だった。 それにも関わらず、昔の子どもは寿命が短かった。 それだけに、子供の成長と言うのは家族にとって本当に喜ばしいことだった。
 なので、桃の節句・端午の節句・七五三など、子どもの成長を祝い感謝するためにできた。」
 
という、この時代に生きる私たちのモノサシだけでは少し気づきにくい、でも、知っていなければいけない良いお話も聞けました。

 

今、私たちにできること

栗山さんは、和菓子屋さんの中でも、四季折々の創作和菓子を販売しています。ごん太鮓さんは、毎月、その時々の魚を使い、花に見立てたお鮓を販売しています。桑名屋さんも、年越しそばはもちろん、春の桜そばや秋の新そばなど、季節のメニューを提供しています。

そのように、各店でも季節を感じさせる商品を製造販売していますが、「名物会」という団体として、何かしら季節を発信していく取り組みはできないものでしょうか?

例えば、名物会では既に10年近く、境木地蔵尊で行われている「花まつり」(4月8日のお釈迦様の誕生祝)に出店させていただいています。このように、何かしら季節のイベントに参加させていただく、または自分たちで企画するのも一つ。あるいは、「季節や旬を伝える」ということに特化するのであれば、共通のポスターを作り、各店に貼り出すだけでも良いかもしれません。

いずれにせよ、地域の歴史文化を商いとして発信するのが名物会のミッションであるなら、日本古来の季節感や、それぞれの季節の楽しみ方を発信していくことも大切な役割なのかもしれません。

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

3月 10 14

第20回 土地の有効活用=想像力

by staff

廣田裕一建築設計事務所
代表 廣田裕一

土地の有効活用=想像力

葉山町で設計事務所を開設していますが、
場所柄か難しい土地の相談・設計を受けることがあります。
斜面地なので難しく他では断られてしまった。工事費がかかり過ぎる。
理由は様々です。

通常、土地の有効活用は、経済的な発想から考えることが多いですが建築家の土地の有効活用の源は想像力です!

不思議なもので、難しい土地ほどどうやって設計しよう?
景色はどう見えるか?風はどう通るか?
住む人が何か特別な体験は出来るかな?
だんだんと想像力が働いて楽しくなってきます。
手間や時間がかかることなど忘れてしまいます。

斜面地、変形敷地、車が入れない・・・ちょっと難しいかな?
と躊躇しているのではないでしょうか。
厳しい条件で考え、工夫していくと必ず素敵な空間が見えてくるはずです。
是非建築家に相談して楽しい家を一緒に想像してみましょう!

【鎌倉S邸】 60度近い斜面地に立つ極小規模住宅。木の上に住むツリーハウスのようです。

(クリックで拡大画像)

 

【鎌倉S邸】
60度近い斜面地に立つ極小規模住宅。木の上に住むツリーハウスのようです。

【横須賀S邸】 擁壁を跨いで建つ住宅。ずれながら重なり、そこに景色や光・風を織り込んでいます。

(クリックで拡大画像)

 

【横須賀S邸】
擁壁を跨いで建つ住宅。ずれながら重なり、そこに景色や光・風を織り込んでいます。

 

「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ

横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」15名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。

横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。

AA STUDIO ナビゲートサービス

中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談  無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案  ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)

AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051

AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)

青木恵美子 http://www.aaplan.com
新井今日子 http://www.arai1992.com
荻津 郁夫 http://www.o-as.co.jp
神田 雅子  
北川 裕記 http://www.aalab.com/kitagawa/
栗原 正明 http://msak.asia
河辺 近 http://www.ken-ken-a.co.jp
後藤 武 http://www.gtaa.jp
鈴木 信弘+洋子 http://suzuki-atelier.com
廣田 裕一  
藤本 幸充 http://www.kamakobo.com
古川 達也 http://furukawa-arch.com/
松井 理美子 http://www.matsui2ar.com
水口 裕之 http://homepage1.nifty.com/eau/
山口 賢 http://www.amarterrance.com

 

3月 10 14

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第21回 第4章 フォークからニューミュージックへ 7

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 7

郡山ワンステップフェスティバル

 話は前後しますがここからは年代ごとに書いていきたいと思います。

 1974年は日本のロック史上最大の野外イベント郡山ワンステップフェスティバルが開かれた年で、マスコミや世間の評価は今ひとつ盛り上がらなかったような感がありますが、日本のロックにとって一つのターニングポイントだったと思われます。主な出演者を見てみましょう。トリはオノ・ヨーコとプラスティック・スーパー・オノ・バンド。ゲストにクリス・クリストファーソン、リタ・クーリッジを迎えて、サディスティック・ミカ・バンド、キャロル、沢田研二&井上孝幸バンド、エディ藩とオリエントエキスプレス、上田正樹とサウストゥサウス、クリエイション、トランザム、DTブギウギバンド、つのだひろ、四人囃子、外道、内田裕也、ゴールデンカップス、かまやつひろし、めんたんぴん、センチメンタルシティロマンス、他にシュガーベイブなど、、この顔ぶれを見るだけでこの当時のロックシーンが分かります。古いものと新しい物が渾然としている感じですが、この当時はこの先ロックがどこへ行くのか誰もわからなかったのです。

日本のロックの進歩

 1975年にはいると、キャロル、はっぴいえんどが解散し、フォークとロックも渾然とし、それ以前の流れからさまざまなスタイルが出てきます。

 ’72年頃迄は、日本のロックと言えばイギリスのハードロックなどに影響され育った大音響サウンドのバンドが主流で、演奏テクニックが最重要視され歌詞はどちらかというとないがしろにされていた様に思います。彼らがテレビに出ることはほとんどなく、ラジオでもフォークはガンガンかかるのに日本のロックはあまりかかることがありませんでしたので、彼らの演奏に触れる為にはライブを見るしかなかったのです。今はネットでその音を聞くことができますが、ほとんどは中々聞くのにしんどさを覚えます。この頃のロックはあまり一般的ではなかったのでしょう。それが変化しだすのはやはりこの頃です。

 ロックも歌詞が日本語が主流になって行き、ギターなどもアンプをフルボリュームにし歪ませて大音量だったのがエフェクターの進歩により、より多様にソフトに以降していきます。重かったドラムのリズムも少しずつ軽く、少し後ろにもたるようなノリから高橋幸宏氏ドラムの様な(ミカバンド~YMO)ジャストのタイミングが主流のノリになっていきます。

 耳心地が良くなってくるとロックのレコードも売れるようになって行きラジオでもオンエアされるようになって行きます。演奏水準が急激に進歩した時期だといえるでしょう。

 おおざっぱですが’75年に活躍していたロック系を見ると、まず大きな流れとして、

  1. USに影響を感じるロック系は、大滝詠一のナイアガラレーベル、シュガーベイブ(山下達郎)ティンパンアレイ、等
  2. EUに影響を感じるロック系は、サディスティックミカバンド
  3. 女性シンガーソングライター系は、荒井由美、矢野顕子、吉田美奈子、等
  4. ロックンロール系は、ダウンタウンブギウギバンド、クールス
  5. ブルーズロックかららクリエイション、エディ藩エキスプレス、パワーハウスなど
  6. 関西系から上田正樹、ウエストロードブルースバンド

 更にこの頃、日本にもプログレッシブロックを演奏する四人囃子も登場! アルバム “一触即発” は当時話題になり、ロック好きなら一度は聞いたアルバムでしょう。実際今聞いてもそのグレードの高さにうなります。他にもファーイーストファミリーバンドなどがありました。

 そして女性ボーカルを擁しブルーズを基調にギンギンにロックするカルメンマキ&オズや金子まりとバックスバーニー。

 ヒッピームーブメントからハワイ、沖縄などの音楽を独自に盛り込んだ久保田麻琴と夕焼け楽団、又、その流れで横浜インディーズから出た吉野大作などバラエティの富んだグループが登場して新旧入り混じってこの時代独特の空気をかもし出しました。

 

横浜、街と風(社会人編) 7(22)

横浜には川がありました

 私たちは大岡川を見て育ちました。横浜の川はいく筋かに分かれ私たちの町から横浜港近くの海へ流れていくのです。そんな川もその姿を変えていきました。

 まず、現在の大通り公園は川を埋め立てて作られた公園で、元は全て川でした。関内線路脇の高速道路も確か川だったと思います。又、元町の横を流れる川の上には高速道路はなく、晴れやかに澄みやかに流れていました。先日、横浜橋商店街の三吉演芸場の横に流れる川の写真を見ましたが、今みたいに陰気なムードはなく情緒あふれる景観でした。現在の新山下ドンキホーテの所は、元々バンドホテルという老舗のホテルがあり、外人客が多く利用していました。この前にも高速道路が通り、ここからの素晴らしい景観も失われてしまいました。

 横浜に私の好きだった場所がいくつかあるのですが、一つは夜、山元町から山手の道を外人墓地に向かい走っていき、左右に立ち並ぶ洋館を見ながら港の見える丘公園を右折、本牧方面に向かっていきますと、ワシン坂を降りる手前の左側の崖沿いにパーっと景色が広がる所があります。ここに車を止めて見下ろすと横浜港の見事な夜景が一望できたのです。考え事があるときやデートコースにもよく活用しました。今は、みなとみらいも出来、眺めもより一層豪華になりましたが、山下町がかすんでしまい、少し淋しい気がします。私たちの世代、横浜港といえば山下公園が中心なんですよね。そんな秘密の場所も最近はいつも何台か車が止まっていて停車が難しくなりました。いつの間にか有名になってしまったのでしょう。

 もう一つ、ユーミンの曲 “海を見ていた午後” に出てくる山手のドルフィン。先ほどの山元町の道を逆に根岸の森林公園に向かい右に米軍の消防車の駐車場の所を左折して急坂を降りる手前の左側にありました。昼に行くと海が遠くに見えて陽の光を反射し本当にソーダ水の中を貨物船が通るようでした。今は近所にマンションとかが建ちすっかり景色も変ってしまいました。記憶の中でだけ残る風景が今も心を暖めてくれます。

バイク事故

 以前書いたアマチュアバンドのスノーウィウッドは活発に活動していてブリティシュブルースを中心に演奏していました。選曲のセンスはいいのですがマニアックすぎて誰も知らない、知らないから受けない、それでも何人かの人には良い評価をいただきました。主な演奏場所は野毛にあったライブハウス “グッピー” 。それとアマチュアバンドのコンサート、学園祭やパーティにも頼まれると出張しました。

 馬車道に有隣ファボリという建物があり(今のスターバックスの所)、確か有隣堂の支店だったと思われますが、この中にバンドの練習スタジオとライブハウス “横浜放送局” がありよく利用していました。横浜放送局でも何度かライブをやりましたが、大体いつも一日3バンドくらいが抱き合わせで出演、チケットノルマをこなしていました。出番が終わり客席で他のバンドを聞いていたら、ハスキーボイスでえらく歌の上手いボーカルが歌っていて、自分が好きだったジョー・コッカーの「アイ・キャン・スタンド・ア・リトル・レイン」なんかをやっていてえらく受けてました。出番が先でよかったなんて思ってましたが、後から考えると少し年上の青学の軽音バンドで、女性がピアノなんて多分アマチュアの頃結成前のサザンだったんじゃないかと思っています。

 ある日、有隣ファボリで練習スタジオの帰りナナハンにまたがって馬車道の信号を右折しようとしたところ、歩道前で止まっているバスの横をゆっくりすり抜けようとしました。するといきなり女性が飛び出してきたのです。女性は私のバイクに激突。避けようとした自分は右にハンドルを切った為、前からきた車に衝突。そのまま転倒してしまいました。自分はかすり傷ぐらいでしたが、女性は足を痛めていました。現場は人だかりで騒然となりましたが、誰かが警察を呼んでくれてました。運よく保険には入っていましたが、バイクはこの時廃車。これ以降懲りてしまい二度とバイクに乗ることはありませんでした。

 数日後、事故の相手が水商売のホステスさんで、その生活保障のお金が欲しいという事で、いかにもその筋の人と分かる人たちが自宅にやってきました。未成年だった私は、家の奥で恐ろしくて震えそうでしたが、父親が対応すると一喝! どんな内容だったのかは覚えていませんが、かなりの時間大きい声で怒鳴りあっていました。最終的に父親が追い返しましたが、この連中は二度と現れませんでした。まあ来られても取られるものは何もなかったのですが。。。大正2年生まれの父は、この時64歳くらいの高齢でしたが、母の看病と仕事も現役のバリバリで元気一杯、まず弱音を吐いたのを見たことがありません。背は小さいけど声は馬鹿でかく迫力がありました。この世代の胆の据わった度胸につくづく感服、感謝。この人には一生頭が上がらないと思いました。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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3月 10 14

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける

by staff

♪人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:紀 貫之(き の つらゆき)

 現代語訳・・・あなたのお心は・・さあ・・どうか わかりませんが、ふるさとのこの梅の花は今も変わらずに美しく香って私を迎えてくれています。

 先月の大雪の時に、降り積もった雪の間から庭の梅の木に赤い蕾がたくさん芽づいていて、健気な春の兆しに感動したのを覚えています。梅の花の香りはほんのりと上品な香りで梅園に行けばすぐわかりますが、庭に植えられた一本の梅では奥ゆかしすぎて目立ちません。昔の日本人はそんな可憐な香りを楽しむ繊細さがあったのですね。

 読み人の紀貫之さんはもう有名な方で私自身、全く和歌うたとは縁がなかった若かりし頃でもそのお名前だけは知っておりました。古今和歌集のチーフ選者で「土佐日記」の作者。プロ歌人として平安時代の第一人者です。その頃の屏風絵に添えた歌が沢山残されています。今で言えば大企業から発注されるようなお仕事をする彫刻家や画家さんでしょうか。

 この歌の背景は 彼がよく長谷寺にお参りしていた頃、宿泊していた家の主人が久しぶりに顔を見せた紀貫之に対して「あら!ご無沙汰ね、ここのところちっともお顔を見せないで・・・・この家は昔と変わらずにありますのよ」となじったら(すみません、ちょっとバーのママ風になってしまった)、その庭にある梅の枝を手折って彼女に捧げながら? 詠んだというものです。古今集のただし書きにはその家の主人が男性だったか女性だったかは書いてありません。私が勝手に女性だと推定しているだけですのであしからず。

 この歌は、家の主人の言葉に対して詠んだと言われていますが、疑問が浮かびます。何故彼は「さあ人の心は分からないが(この場合の”人”とは宿のご主人)」なんて歌ったのかしら?と。私には、久しぶりに会ったご主人でお互い良い友人なら、そんなことは言わないのではないかと思えるのです。彼が長谷寺へ行く足が遠のいた何かの理由があるのではないかしら。感情的なわだかまりのような物が出来ていて彼は行かなくなった。

 この歌が生まれる以前の関係をちょっとドラマチックに想像してみました。

 彼はこの家のご主人が好きだったけど、なんとなく彼女が心変わりしたような気がして長谷寺へ来るのもやめていた。そして少したって会いに来てなじられてしまったので「あなたの心はどうかわかりませんが、花だけは私を変わらず迎えてくれています」と詠んだのではないかしら。では、ここで彼が「土佐日記」を女のキモチで書かれたことを思い出してください。もしこの家のご主人が男性だったら、ちょっと話が込み入って来てますます面白くなります。彼が同性愛者だったかどうかはわかりませんが、女性的な側面をたくさん持っていたことは事実です。う~ん! 何があったのかしら。もしくはお互い辛口のダジャレが言い合えるくらい気心がしれた男友達なのか、謎はつきません。

 最後に、この歌に対して宿のご主人の返歌もまた素敵。大人のエスプリに溢れています。
 ♪花だにも 同じ香ながら咲くものを 植ゑたる人の 心知らなむ♪
 現代語訳 「花でさえ 同じ香りで咲いています。植えた人の心も・・さっして下さいな」

(早苗ネネ♪)

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

3月 10 14

野毛でJAZZシンガーを目指す 歌手 今野朝美さん

by staff

 ジャス喫茶「ちぐさ」で働きながらJAZZシンガーを目指し、「ちぐさ」に隣接しているJAZZピアノバーLYONで歌のレッスンを続けている今野朝美さん。JAZZの魅力と故郷『石巻』のお話を伺いました。

JAZZシンガー 今野朝美さん
歌手 今野朝美さん
 
お名前 今野 朝美(こんの あさみ)さん
ご出身 宮城県石巻市
現在のお住まい 横浜市中区
お仕事 歌手
連絡先 (オフィス龍 090-1211-0196)
好きなもの 昭和歌謡 お酒

リズム感は母譲り

 母と叔母が昭和歌謡を良く歌うので、真似をして歌っていたのは小学生の頃です。昭和歌謡曲や横浜に縁のある歌手が大好きになったのも母の影響です。また母が和太鼓の講師をしていて、私も高校生まで太鼓を習っておりました。

 歌手になることは考えもしませんでした。実現しない「夢」のようなものだと思っていました。大好きな歌手が横浜出身ということで横浜も「憧れ」でした。だから、「横浜で歌える」チャンスがあった時は、本当にラッキーだと思いました。

 バンドのメンバーや仲間たちに恵まれて、横浜を中心に音楽活動を始めました。少しずつライブに足を運んでくれるお客様も多くなり、充実した日々を送っていました。反面、故郷とは違った環境の中で「まだまだ自分は未熟だ」と痛感していました。

3年前の3月11日

 母の誕生日が3月11日で、故郷『石巻』に帰っていました。そのバースデーライブの為に前日に帰省し、当日は準備のため外出していたところで被災しました。母から電話で「山に逃げなさい」と言われて高台に向かっている途中、逃げた遅れた叔母から「(寝たきりの)お祖母ちゃんと居る。」と連絡が入り急いで迎えに行き、再び3人で日和山の高校へ避難しました。

 直後のことは、皆さんもニュースなどでご存知のとおりです。故郷に残り復興ボランティアをするのが良いのか本当に悩みました。家族を残して横浜に戻るのが不安でした。

 誰もが光の見えない闇の中でもがいていました。今、私にできることは何だろうと考えました。このまま石巻に残って作業をすべきか…いろいろ悩みました。いったん横浜に戻った時、チャリティイベントに声をかけられ、石巻の現状や被災体験をお話しする機会が増え、そういった活動も家族や故郷の「灯り」になるのであればと思い、横浜に戻る決心をしました。

ジャズ喫茶「ちぐさ」

 「ちぐさ」は1933年に故・吉田衛さんによって作られた日本最古のジャズ喫茶店と言われております。当時、高価で貴重な輸入レコードを聴ける店として有名でした。1994年に吉田さんがなくなり、その後は常連さんやジャズ音楽の愛好家たちの手で営業が続けられましたが、2007年1月31日に一度閉店しております。横浜市の「震災復興支援商店街空き店舗活用事業」の支援を受けて、場所を変え、野毛で再開することになりました。

 被災者雇用ということで私もここの従業員として働くことになりました。

 店内に流れる往年のJAZZシンガーのレコードを聴くようになって、こんな風に英語でJAZZを歌いたいと思うようになりました。 お客様もJAZZファンの方が多いので、お話の中からいろいろと学びました。そして、歌手としての「未熟さ」を改めて感じるようになりました。

ジャズ喫茶ちぐさのホームページ:http://noge-chigusa.com/

野毛JAZZとの出合い

 「ちぐさ」に隣接するJAZZピアノバーLYONのマスター津田龍一先生とは知人の紹介でお会いすることになりました。津田先生は多くの歌謡歌手を育てた経験の持ち主で、レッスンには厳しい反面、故郷から一人出てきた私にはやさしい「グランパ」的存在になりました。

 津田先生との約束で、1年間はレッスンと津田ファミリーのコンサートやライブで歌うことにしました。JAZZピアノバーLYONでは成果を発表するために不定期ですが火曜日にJAZZを歌っています。

 LYONのお客様の前ではJAZZを歌いますが、大好きな昭和歌謡曲の指導も受けております。声がハスキーなので、低い哀愁をおびた曲が似合うと言われます。いずれJAZZをしっかり英語で歌いたいと思って日々励んでいます。

JAZZピアノバーLYONのHP:http://pianobar-LYON.fukugi.com/
津田龍一:ヨコハマNOWの記事:http://yokohama-now.jp/home/?p=2596

3月16日のコンサート

 3月16日(日)午後5時半より、横浜美術館レクチャーホールで「ドリームコンサート」が開かれます。 ラテン風にアレンジしたJAZZバージョンの映画音楽のコンサートです。私も何曲か歌わせていただきます。


コンサートチラシを見る(PDF)

 セッションとは集まった音楽家が自分の仕事を100%やることだと思っています。有名とか無名とかで遠慮することなく、威張ることなく、お互いの才能を100%引き出すことに成功したら、そこに生まれる調和「ハーモニー」は素晴らしいものになるのだと信じています。ライブは生き物ですから・・・私は、歌手として自分の仕事を100%やることが、津田先生への恩返しだと思っています。

私にとって横浜とは

 震災の後、「生かされていること」を深く考えるようになりました。自分と向かい合うことも多くなりました。横浜に住んで3年、こちらで沢山の友人に恵まれ、心が折れそうな時には強い支えになってくれます。あたりまえのようで、あたりまえではない毎日に毎日、感謝しています。

 過去に一度、LYONへ遊びに来た両親も、すっかりJAZZピアニスト津田龍一先生のファンになりました。

 故郷から出てきた友人たちの多くが東京で暮らし、東京で働いていますが、私は横浜、野毛を選びました。

 最近、横浜の小学校などで震災のお話をする機会が増えました。依頼があれば、被災経験談のお話をする活動をしています。避難途中で戻り、また避難したという経験から「どうやったら助かるのか」を次の世代に伝えたいと思うようになりました。

 私にとって横浜は「いつでも還れる港」です。

 

(クリックで拡大画像)

歌手 今野朝美さん
歌手 今野朝美さん

インタビュー・文・チラシ製作:高野慈子

 

2月 10 14

寒中お見舞い申し上げます

by staff

 

あっという間に新年から一か月が経ってしまいました。

私は10年ほど前から年賀状に代わって、1月中に「寒中見舞い」を出すことにしています。

というのは・・・
10年ほど前、年末に弁護士事務所の年賀状を印刷するサービスを提供していました。その業務で忙しくて、自分の年賀状を出すことができなくなってしまったのです。

年賀状を頂戴した皆様に、そしてお世話になっている皆様に新年のご挨拶をするために苦肉の策として始めたものですが、私の年中行事の一つになっています。

寒中見舞いは、寒さが厳しい季節に送る便りで、先方の体調を気遣い、こちらの近況を伝えるものです。喪中の方に新年のご挨拶として使うこともあります。

本来は、1月15日前後から節分までの間に出すものとされているようです。

「ヨコハマNOW」をご覧いただいている皆様に少し遅くなりますが、私から寒中見舞いをお送りいたします。

寒中お見舞い申し上げます

寒い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
本年もよろしくお願い致します。
 
弊社では、集客ツール「サポチュー」やECシステム「商売自慢」、FileMakerによるシステム構築など、様々な業務システム等を開発しております。
 
これからも「人」と「企業」のそれぞれがWin-Winの関係を創出する仕組みを構築していきます。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。
 
2013年6月にNPO法人「神奈川中小企業活性化センター」を設立し、副理事長を拝命しました。当NPO法人では、2014年2月11日に神奈川県座間市で「かながわ朝市サミット in 座間」を開催いたします。皆様のご来場をお待ちしております。

株式会社ともクリエーションズ
渡邊 桃伯子
 
〒231-0004 横浜市中区元浜町3-21-2
ヘリオス関内ビル 4F
tel 045-226-3475 fax 045-226-3476
E-mail twatanabe@tomocre.com
http://www.tomocre.com
NPO法人神奈川中小企業活性化センター
http://www.kirc.jp/

 

2月 10 14

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第5回) キムチと2月料理コースのご案内

by staff

冬にはキムチを作ります!

 言わずと知れた、お隣韓国のお漬け物ですが、日本にもすっかり根付いたキムチ。初めて出会ったのは・・・30年くらい前の気がします(笑)調べて見ると、やはりその前から日本にもありましたが、大量に出回るようになったのは30年ほど前。記憶通りでした!

 スーパーでも沢山の種類を見かけますが、残念ながらしっかり魚介類を使って乳酸発酵させているものは少ないようです。どちらかと言えば、辛さのある浅漬けといった感じでしょうか?

 ジュイエのキムチには沢山の材料が入ります! お野菜類、りんご、そして欠かせないのが生のイカとアミの塩辛。これらがとてもいい旨味を出してくれます。アミの塩辛は、韓国料理材料店で手に入ります。そして唐辛子は韓国産。辛さがとがっていなく、甘みのある唐辛子です。ヤンニョン、と呼ばれる漬けたれを作ります。それを1晩塩漬けにした白菜に挟み込み出来上がりです。

 すぐでも食べられますが、1年置いても大丈夫です。塩と唐辛子。自然の保存料はすばらしいですね!半年ほどすると少し酸味も出てきますが、買ったきたキムチほど酸っぱくならないのも不思議です。

 ジュイエ特製のキムチ、販売もしています。 作ってみたい方は、教室でもお教えしておりますので、是非作りに来て下さいね!

 


 


 


キムチ

2月の料理コースのご案内

 私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

2月のコース内容

フランス料理基本コース 『レバームース』
『鴨のロースト、オレンジソース』
『チョコレートケーキ』
なじみの薄いレバームースですが、とっても美味しく食べられます。レバーの苦手な方にも好評!ザ・フレンチな鴨のロースト、オレンジソース。お家でも作れるんです!じっくりお教えします。しっとりしたチョコレートケーキはバレンタインデーにはもちろん、お家ケーキの定番にして下さい。

レバームース

鴨のロースト、オレンジソース

チョコレートケーキ

フランス料理応用コース 『ブリニ、自家製ツナを添えて』
『フィセル・ピカルド』
『ガレット(ブールシュクル)』
フランスでは、2月2日はシャンドゥルールというクレープを食べるお祭りです。それにちなんで種類のちがうクレープを3種。フルコースにしてみました。
バレンタインレッスン バレンタインデーに向けたレッスン。ラッピングもしてお持ち帰り頂けます。
また、バレンタインディナーのレッスンも。男性受けばっちりのメニューですよ。
2月8日、2月13日でご予約受付中です。
a/ダブルチョコレートマフィン
b/チョコレートクッキー
いずれもラッピング付き
c/マンハッタンクラムチャウダー
 チキンクリーム、バターライス添え
 ホワイトチョコとベリーのブラウニー

 受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。

http://www.7juillet.com/kyousitu.html

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にてフランス料理を学ぶ
同校 フランス・リヨン校、フランス1つ星レストランにて研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める
独立し、キッチンスタジオ・ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

2月 10 14

2014年2月 三ツ池だより 「してあげられることは何だろう」

by staff
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 大寒を超えるとすぐの雨上がりに、霧が立ちこめ、対面の丘から、雲を茜色に染めながら、太陽がいつもより神々しく上った。

 二月に次のような句が見える。

梅が香にのっと日の出る山路かな
松尾芭蕉
次の間の灯で膳をつく寒さかな
小林一茶
節分の何げなき雪降りにけり
久保田万太郎
梅一輪一輪ほどの暖かさ
服部嵐雪

 冬のスポーツが盛んだが、60年前は横浜市鶴見区の谷戸の池には厚く氷がはった。下駄であったのか、氷の上を滑って遊んだ。寒餅もこの頃であったろうか? 小さく刻んで四角にした餅の揚げたものに砂糖をまぶしたものがおやつに出た。子供ながらにお茶もおいしかった。

 今は囲炉裏も薪ストーブも姿をけして、手袋から手を出して、火にかざして手を温めることもなくなった。手をかざすといえば、御大師様のお参りにいって、線香を炊き出し、その煙を自分の体の弱い部分に持ってきての無病息災の祈りを今年もしてきた。古くからのしきたりである。

 さて、それでは新しいしきたりにしたいこととは、どんなことだろうか考えてみる。

譲ること。意見を述べること。してほしいことをしてあげること。
ありがとうを口に出すこと。顔を見て話すこと。分けてあげること。
行動して他の人に役に立つこと。見えないものも信じられること。
その日の終わりが感謝の言葉で終わること。さよならは明日への希望と思うこと。

 さて、新しいしきたりとは願望なのかもしれないし、おもいなのだろう。新しき年がはじまりいつもながらの元旦の計画の第一歩が始まっている月である。

 会社の年頭標語に「物語にし、演出をし、演じましょう」とした本年は感動を創りあげる年にしなければと思うこと、冬の寒さを感じてから桜が咲き出すように、原発の被害を抱えた心細さ、こころの寒くなるようないつ解決するともわからない不安をかかえながらも、未来に夢を作り出す勇気を求めよう。「夢は実現する」と思っているのだからこそ作り上げるべき社会の行方を書いてみなければいけない。

 破壊へのシナリオはだれがみても書きやすい。そうではなく、だからこそ想像を絶する夢が書かれていい。手塚治虫が書いた夢がまだまだ途中なのか、自国と他国の国境線がなくなって世界が一つになるという。しからばその時の組織のリーダーシップはどのようにとられていくのか。でも考えてみるがいい。「して欲しいことをして上げなさい」ということひとつとってみても、してほしいことが違っていたらどうする。7・5・3のお祝いがあって、お金がかかるからやめなさいという考えがあったら。おたがいを認め合いなさいという考えがなかったら。

 だから日本という狭いと言われる国のなかで、都会と地方という格差があるという現実に目を向け、ローカル化を進める。原発もそうだった。財政運営の厳しいところほど立地になっていった。原発以前に金のばらまきがあったのではなかったか。さすれば、たとえば酸素は草木から再生されるのは教科書でも教えている。この有り余る酸素の供給される社会こそ感謝されなければいけない。朝起きて太陽の光に感謝する生活を誰が否定するというのか。森林を残す、大切にする生き方が見直されるべきだ。

 自分で火を焚いて食事を作ると食べることに感謝できる。道を尋ねて教えていただくと人に感謝できる。オリンピックに際し、各国の受け入れを考えてみる。標識は最小限にして人の案内やおもてなしを中心にする。やはり教育が大切になってくる。教育の柱をどこにするか。オリンピックで人々は日本に来るのである。日本を愛する国民が他国の人々の案内やおもてなしを中心にする。話を聞いてあげると、人は人の話を聞いてくれる。やはり教育が大切になってくる。日本を愛する国民が他国の人々を迎え入れるのである。共通語を絞って案内するのである。日本語と英語だけにしたらどうだろう。そして日本語の案内板を増やすのである。

 誰でもが便利さを求めすぎてないか。そこそこの便利さを考える。便利さを領受できない人に配慮できる社会、政治が望まれている。2月という寒さのなかで、物語を紡いでいけたらと考える。

人はいつか戻れぬ旅に鬼は外
横須賀詢
唐突に旅は道ずれ梅が咲く
横須賀詢
青春は教え教われ花愛でる
横須賀詢

 美しい日本が忘れ去られることのないようにしたい。オリンピックのあと、箱ものだけが残るのでなく、もてなした余韻を日本全国中が楽しめるものになっていたい。もうそこに春はきている。今月もまた勇気と自信を持って活動してまいりたいものである。

 

Photos

(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)

     
     

(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

2月 10 14

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第11回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第11回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 “偶然の武器は土壇場で我らを裏切る”  と書いたのは16世紀フランスの思想家モンテーニュです。人間にとっての名誉ある傑作とは  “適切な生き方”  をすることだとの考えを貫きました。21世紀のビジネスも、適切な生き方や確実な武器なしでは勝てそうにありません。まずは事業スタンス。競合他社から顧客・パートナーへの重心移動と市場/顧客/商品/サービスの再定義。二つ目はリーダーシップ。コンセンサスからリーダーシップ(フォロワーシップ)への重心移動と個々人の目標・手立ての明確化。三つ目はプロセスデザイン。改善/効率から例外対応/異常対応への重心移動と事業継続性・非常時への深慮。四つ目は人材育成。集団型キャリア開発から個人別キャリア支援への重心移動と自己開発計画による持続的研鑚。最後は企業文化。規律・訓練から自律・学習への重心移動と多様性/外部性/異文化融合の浸透。梁塵秘抄では ”熊野へ参るには、何か苦しき修行者よ 安松姫松五葉松、千里の濱“ とあります。熊野への途中の松原で休む目印である安松・姫松・五葉松。目標に至る目印は励みと余裕につながるもの。 ”仕事は義務でやらない“ ”自分に自信を持つ“ ”人の真似をしない“ ”とにかく働く“ をモットーに世界を制覇したファッションデザイナーのピエール・カルダン。世界レベルの能力構築という目標を掲げて、遊び心も忍び込ませながら歩き続けたいですね。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

萎縮こそ最大のリスク、変化に順応し恐怖心を除去 無欲万両、と西鶴
正常時に発揮できるスキル 非常時でも決定打になる絶対的保証はない
自由競争の中で生きていく覚悟 だからこそ学問や理論をバカにしない
教養ある人間への敬意 教養の蓄積がないと、世界で持続的に戦えない

 井原西鶴は江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃の作者であり俳諧師。 “世に銭ほど面白きものはなし”  と喝破し、  “憂うる者は富貴にして憂い、楽しむ者は貧にして楽しむ”  と、楽しめる人は富んでいても貧しくとも楽しめることを見抜いた人生の達人でした。変化が当たり前の時代では、正常時と非常時では求められる能力や技術/スキルが大きく異なるはずで、理屈一辺倒では現実対応には力不足。何が起きるか予期できない時は、経験知や教養の蓄積が最後はものをいいそうです。経験知や教養はまさに  “リベラルアーツ”  。ギリシャ・ローマ時代に源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において実践的な知識・学問の基本と見なされたもので、論理学・算術・天文学・音楽などからなるといいます。日本では文系・理系という言葉が飛び交っていますが、リベラルアーツはそれらを包括する概念。ひとかどの仕事をしようと思ったら、文系・理系の枠を身軽に乗り越えていく必要がありそうです。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

悔いのないようにやる だから、勉強も稽古も怠らない
大相撲でも最近の稽古量は1/3 どの世界も稽古不足
問題だからやめさせろ、だけでは堂々巡り 永遠の循環
極意は頭でなく体で覚えていく 人間をブランドにする

 最近の大相撲は手に汗握る好取組が少なくなりました。元横綱大鵬は生前、稽古量が少なすぎると繰り返し苦言を呈しました。現役時代、当時流行したウエイトトレーニングには手を出さず、相撲の基本である四股(シコ)・鉄砲(テッポウ)・すり足といった相撲界の伝統的な稽古を反復することにこだわったといいます。毎日、四股は500回、鉄砲を1000回やったとのこと。大鵬を尊敬する横綱白鵬が自分はそこまでできないというほどの稽古量です。何でもそうでしょうが、相撲の場合も正直で、稽古量がそのまま土俵にあらわれます。稽古の量と質が相撲取りのブランドといえるかもしれません。ブランドの磨きには土俵の砂しかないということでしょうか。ブランディングとは ”自身が持つ本源的価値” と “価値を戦略的に見える化すること” の掛け算。それを通じて他と差別化することで周囲に対して醸し出すイメージの全体。理論的・解析的というより包括的訴求力ということになりますかね。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

正規の教育を受けていないことが時には強みになる ゴッホや棟方志功は我流
ものを創造する条件 一匹狼でなく米国流マーヴェリック(駿牛)であること
コミュニティではKYを甘受する 実力以上に評価されたら追いつくよう努力
技術にも仕込み時期 下りで調子にのると平らな道も上り坂、と有森裕子選手

 教育システムは最重要課題ですが、落とし穴や限界も指摘されます。独学・我流の強みが人間にはあるからです。日本で一匹狼は否定的に使われがちですが、米国でマーヴェリックといえば称賛の対象となるのが普通。強みを仕込む舞台は誰もが自分自身の中に備えているということですかね。ゴッホは37歳の生涯の中で3000点近くの絵を描いたといわれますが、生前に売れた絵はたった1枚とのこと。アムステルダムにある国立ゴッホ美術館には制作年に沿った展示があり、最後の数年間の燃えるようなタッチは、それまで溜めに溜めた “スキルと情熱の爆発” であることが真っ直ぐに伝わってきます。一方、棟方志功は “日本のゴッホ” になるとの志から画家をめざしますが、途中で板画(版画)に転じました。 “日本から生れた仕事、わたくしで始まる世界を持ちたい” との強い思いを胸に “世界のムナカタ” になりました。&nbs;“下りで調子にのると平らな道も上り坂”&nbs;とは至言。どんな時も有頂天になるなということですね。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(七)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

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(第11回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(七)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など
2月 10 14

中小経営のニッチから国際化へ(第5回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.国際化に無関係ではいられない

 これまで取り上げた会社は、ソニーなど昔は確かにベンチャー企業だったかもしれませんが、やはり大手です。まだまだ、自社の国際化や自分の事業とは遠いと考える人も多いと思います。

 何度も申し上げますが、国際化は国内企業にとって大小を問わず無関係ではありません。つまり、

  1. 市場が国内であっても、仕入れや流通、開発、生産の中に海外製品・サービスを必要とする
  2. 自社の顧客の取引は確かに国内であるが、顧客が海外の製品・サービスを利用している
  3. 自社の製品を海外の企業が欲しがっている、利用したがっている

など、これらの理由で国際化の波に自社は知らず知らずのうちに飲み込まれようとしているのです。

 a. では、大手企業の業務を受注するために、中堅の関連会社が海外に進出することを余儀なくされる場合なども含まれます。 b. は、海外の企業などが既に国内市場で重要な位置を占め始め、顧客自身が巻き込まれている場合です。 c. は、折角の販売の機会を逸している、機会損失の場合です。さて、ここまでの理由を読んで、「うちは、国内のお客様相手だから無関係」と思われる方は、まだおられるでしょうか。

2.委託業務から自社製品での業務へ

 筆者は、神奈川県の新規事業やベンチャーの評価やビジネスコンテストの審査を行ってきました。そこでの経験で分かったことですが、国際化の距離感と自社のコア、あるいは強みとが反比例していることです。つまり、国際化があたりまえ、近いと感じるのは自社に強み、自信があるということになります。逆に自社に強みや自信が見えない場合は国際化の波に弱いということになります。

 国際化の荒波にのみ込まれない、更に言えば、消極的な海外進出でなく、積極的に打って出て自社の発展に結び付けることは出来ないのでしょうか。

 この打開策として、自社の業務を業務委託から自社製品・サービスの業務に主軸を移すことが重要になります。

 例えば、神奈川県には製造業の中堅企業が大手からの業務委託で事業を展開しています。著者は、これを決して否定しているわけではなりません。業務委託も技術力などのコアがしっかりしておれば、ニッチ業界ではトップであり続けられるものです。トップシェアはよいのですが、問題は、請け負えば請け負うほど、自社の売上や利益が逃げていくことを回避しないといけないことです。つまり、委託先からみれば、少々の無理でも聞いてくれる、小回りのきく便利屋に陥っていないかということです。確かに国際化がそれほど進んでいない時代には、破壊的な価格設定というものはまれでした。反って業界は、業務委託ができる先を頼り、育ててきたものです。しかし、国際化の波が押し寄せ、新興国での人件費や材料費の破壊的な価格設定で、業界は海外への委託を始めて、やがて製造過程に組み込むことまで進んでしまったのです。

 打開策は、自社の強みを生かし自社製品、自社サービスを生むことです。お客様は、前回申し上げたように国際的な視点でのニッチ市場です。

 自社製品・サービスを生むきっかけは、いろいろあるでしょうが、ここではその事例の一つをご紹介しましょう。

3.コマの製造、競技で見出した自社の強み

 今月22日に東京御茶ノ水 ソラシティ―で筆者が理事を務める 一般財団法人BCi戦略研究所 ( 公式フェイスブックページ ) が「第1回シンポジウム「日本とアジアのコラボレーション」~COOL JAPAN戦略を拡張するための課題」を開催しました。このシンポジウムのパネルディスカッションに、全日本製造業コマ大戦協会 副会長・心技隊事務局長の伊藤 昌良さん ( 株式会社エムエスパートナーズ代表取締役・神奈川県横浜市 ) に御登壇を依頼しました。伊藤さんが参画している心技隊は、「技は心と共にあり」を掲げ、活動する集団 として2008年創設。当時は4名、現状メンバー12名で「我が為でなく、他が為に何が出来るか?」を模索しながら、テクニカルショウヨコハマ2012に出展する際にイベントとして「コマ大戦」を開催したのです。

 このイベントは、子供のころに遊んだベーゴマ競技の会社対抗戦で、全国の中小製造業が自社の誇りを賭けて作成したコマを持ち寄り、一対一で戦う大会。コマ大戦にて使用されるケンカゴマは直径20ミリ以下で一円玉より小さいコマ。小さなコマを製造業が本気で設計し、プロの機械を使用して自社の持てる技術を全て注ぎ込み、製造や競技法、戦略を戦わせていくものです。筆者も第1回のパシフィコ横浜で競技の様子を見ました。

 さて、このコマ大戦は全国的に広がり、平成25年度地域づくり総務大臣表彰など多くを受賞し、メディアにも多く取り上げられています。今や海外大会の開催まで広がり続けています。

 伊藤さんにコマ大戦のご紹介をしてもらないながら、日本モデルとアジアについて討議して頂くのが狙いです。特に、全日本製造業コマ大戦の製造業としての意義とアジア展開などに語って頂きました。日頃は、目に付きにくい製品を取り扱うプロの技が、土俵の上でぶつかり合い、それが自社の強みやコアの気付き、仲間の形成に役立ったことを説明して頂いたのです。

 パネルディスカッションで伊藤さんや他のパネリストともに語っていただいたのが、「果たして日本(ビジネス)モデルはアジアで通用するか」というお題でした。狙いは、通用する、しないに関わらず、そこでの課題やアプローチ、対策の生の声を参加者と共有することでした。

 伊藤さんは、コマ大戦をアジアに展開するうちに分かってきたことは、国や人種を超えて、製造業を軸に、思いが通じるということです。イベントであるあると同時に交流の場であり、それがきっかけで思いが共有できるのは、コマの製造を通じて、真剣に取り組んだことであるという点です。そこに、自社のコア、強みを見出す企業もあったと言います。開催が進むにつれて、他社のコマを研究したり、今まで挑戦したことがない、設計を試みることは、遊びである半面、中堅企業の意地があったのです。この意地を分解すると、他に負けないという自負や、拘り(こだわり)や顧客の視点で見る付加価値が浮かび上がってきます。それは、コマ大戦を通じて、頭だけで分かっているというより、他社も一緒に体験した理解につながります。さらに、これが言葉の違いや国の違いをはるかに超えている点です。

 コマ大戦は異業種交流を超え、コマを通して異文化交流を生み、自社製品や強みを見出す機会にもなっているのです。 ( 全日本製造業コマ大戦公式サイトはこちら )

 最後に伊藤さんのフェイスブックでのつぶやき:『いつも思うんだけど・・・コマ大戦の女神は、より本気で取り組んだ人間に微笑むんだよね。』ということばに、自社のコアのヒントがあると感じました。


(撮影:松本英博  登壇者の承認済み)

※さて、別のビジネス・コラムの「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。

次回の予告

自社製品やサービスの探索、育成、成長について考えていきます。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役
一般財団法人 BCi戦略研究所 理事

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

2月 10 14

「かながわ朝市サミット in 座間」を開催いたします

by staff

 

2月11日、神奈川県座間市で開催することになっていた「かながわ朝市サミット」は、大雪のため会場の小学校の校庭が使えなくなり、誠に残念ですが中止とさせていただきます。

「かながわ朝市サミット in 座間」を開催いたします

横浜売れるモノづくり研究会を運営するNPO法人神奈川中小企業活性化センターが2月11日に「かながわ朝市サミット」を開催いたします。

神奈川県内の朝市が一同に会して年に1回行われる「かながわ朝市サミット」、今回は座間市での開催です。

三崎の海産物、平塚の弦斎カレーパンなど、県内各地の特産品や逸品とともに、座間の「ひまわりすい豚」も登場します。出店数はすでに130店を超えています。

物販だけではありません。来場者の投票による「かながわ地域の逸品コンテスト」や東日本大震災支援のコーナーもあります。

また、「地産地消と食育」をテーマにした講演会や「地域資源を活用した地域の活性化」をテーマにしたシンポジウムも開催いたします。講師として、早稲田商店街で有名な木下斉氏も登場します。

座間市のゆるキャら「ざまりん」や近隣のゆるキャらとの撮影会もありますよ。

老若男女に楽しんでいただけるイベントです。
入場無料です。是非お出かけください。

かながわ朝市サミット http://kanagawa-asaichi.net/

開催概要

日時 2014年2月11 (火・祝) 10:00~14:00
※小雨・小雪決行/大雨・大雪中止
(開催・中止の情報はHPにて公開します)
会場 座間市立東原小学校校庭および学校前の桜並木
※相鉄線「さがみ野」駅より日産に向かって歩いてください

シンポジウム

シンポジウム東原小学校の体育館でシンポジウムを開催します。
第1部は講演会、第2部は講演会とパネルディスカッションです。

第1部 10:30~11:30 テーマ 「地産地消と食育」
講師紹介 ◆椿 直樹 (つばき なおき)
よこはまグリーンピース社長
「横濱うたげやど根性ホルモン」オーナー
横浜野菜推進委員会委員長
 
横浜の「地産地消」を推進する活動を展開
「食育」の講師としても活躍中
http://www.tsubakisyouten.com/
 
◆難波 秀行 (なんば ひでゆき)
ミクニ ヨコハマ元支配人&料理長
第2部 12:00~14:00 テーマ 「地域資源を活用した地域の活性化」
講師紹介 ◆木下 斉 (きのした ひとし)
一般社団法人エリア・イノベーション・アライアンス代表理事
内閣官房地域活性化伝道師
熊本城東マネジメント代表取締役
 
経営とまちづくりが専門
日本各地の商店街活性化に関わっている
http://blog.revitalization.jp/

イベント

様々なイベントを実施します。

かながわ地域の逸品コンテスト 来場者に投票していただきます。
投票者には「卵のつかみどり」をしていただきます。
(先着500名様まで)
ご当地キャラの大集合 ざまりん(座間市)やえび~にゃ(海老名市)・クルリン(伊勢原市)などの神奈川県各地のご当地キャラが大集合します。
10時の開始時には、ざまりんがパレードします。
13時からは撮影会も予定されています。
よさこいや和太鼓の登場 朝市サミットのメインステージでは神奈川県各地のよさいこいチームが6チーム登場して演技をします。また、和太鼓の演奏もあります。

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

2月 10 14

書評 「置かれた場所で咲きなさい」 幻冬舎 渡辺和子 著

by staff
 

 100万部を突破する前から「いい本ですよ!」と進められていた。

 章立てがどこから読んでもいいようになっている。第一章 自分自身に語りかける。第二章 明日に向かって生きる。第三章 美しく老いる。第四章 愛するということ。

 「置かれた場所で咲きなさい」というのは、自信をなくして、修道院をでようかとまで思いつめた著者に一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれたのだ。

置かれたところで咲きなさい
咲くということは、仕方がないことと諦めることではありません
それは、自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、
神があなたをここにお植えになったのは間違いではなかったと
証明することなのです

 「どんなところに置かれても花を咲かせる心を持ち続けよう。境遇を選ぶことは出来ないが、生き方を選ぶことはできる。現在というかけがえのない時間を精一杯生きよう」と思っていますと、ノートルダム大学を若くして学長をされ、悩んだ人生の中で、静かにわがこととしても話されます。

 美しく老いるという第三章でもなるほどと思うところが出てきます。
 「かつてできていたことが、できなくなった自分の弱さを、いやというほど知って、他人に頭を下げる謙虚さを、いつしか身についけるようになりました。」 「このような自分の内部に湧いてくる感謝の念と謙虚さが、もしかすると “輝き” となっているのかもしれません。」 だから 「毎日を自分の一番若い日として輝いて生きる。歳をとることは悲しいことではない。新しい何かにチャレンジしていつも輝いていよう。」

 坂村真民さんの「冬がきたら」を紹介しています。

冬がきたら
冬のことだけ思おう
冬を遠ざけようとしたりしないで
    むしろすすんで
    冬のたましいにふれ
    冬のいのちにふれよう
冬がきたら
冬だけが持つ
深さときびしさと 静けさを知ろう・・・・・

 ここでは冬を人生の冬である高齢者に置き換えて、著者は読んでみている。

 愛するということの第四章には珠玉な言葉が羅列される。
 「大切なのは人のために進んで何かをすること。 “人に迷惑ををかけない” から一歩進んで、 “手を差し伸べる” 気持ちが愛の実践につながる。」

 「日々遭遇する小さな苦しみを笑顔でうけとめ、祈りの花束にして神に捧げたい。自分のためでなく、誰かのために祈る時 祈りは愛の花束となって輝く。」

 「相手を生かす ぬくもりのある言葉を 使える自分でありたい。言葉ほど恐ろしいものはない。使い方を間違えれば凶器にもなる。言葉を無機質なものにしてはいけない。」

 この本「置かれた場所で咲きなさい」を一冊だけもって私は総合新川橋病院に入院したのです。白内障なので日帰りで行う人も多いが、私は家の事情もあって、前泊、後泊を選んでいました。今回で二回目を読むことにしていました。ポイントを拾っている間に、どうしてもこの本を手に取ってもらえたらいいなという方の名が14~15名浮かびました。何か、より添えることができるならとおもいました。それから急に書評にしてみることにしました。

 病院は四人部屋ですがゆったりしておりましたし、同室の方がとても親切でした。この病院では驚くこともありました。看護師さんに質問する方がありました。その時「私も入院することがあって、同じような体験をしました。」という看護師さん。明日の手術に向けて、夜に巡回に来られる医師の方は「手術させていただきます。安心していてください。」と話をして行かれます。フロアーごとのデイルームは交差点が真下にみられ、まっすぐ伸びた道路の先は夜景がきれいなのでした。だからかもしれないのですが、一つ一つのこの本の言葉が心にしみてくるのでした。

 裏の帯には次のように書かれています。
 「時間の使い方は、そのまま、命の使い方なのです。置かれたところで咲いてください。結婚しても、就職しても、子育てをしても、こんなはずじゃなかったと思うことが次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で咲く努力をして欲しいのです。」

 だからなお次の言葉が忘れられなくなります。

「丁寧に生きるとは、
  自分に与えられた試練さえも、
    両手でいただくこと。
      すすんで人のために自我を殺すことが、
        平和といのちを生み出す。」

(文:横須賀 健治)

 

 

2月 10 14

第18回 どあっぷ 「『子ども国会』を取材 熱い思いよ大人に届け!」

by staff

みなさんこんにちは!
シチズンシップ教育の普及をめざすために活動している、NPO法人ど・あっぷ!です。
このコーナーでは、市民度の高い人や団体を、ど・あっぷ!が勝手に紹介します。

 

「ど・あっぱーず☆見つけ隊」vol.9
「子どもたちへ、社会と向き合うきっかけを提供する」 「子ども国会」

 センター試験が終わり、学生のなかにはそろそろ受験を意識し始める人もいるのではないでしょうか。しかし、受験の前に何か学生生活に彩りを加えたい、新しいことに挑戦してみたい、受験よりも社会で起きている問題の方が気になる! そんな小・中・高校生に向けて、今回は 「子ども国会」 を取材してきました。 「子ども国会」 とっても熱いですよ!

「子ども国会」とは?

 「子ども国会」とは、将来の社会の担い手である子どもが、これからの将来を考え、意見を発信するための場を提供することを目的とした団体です。社会を作ってるのは誰かと聞かれたら、皆さんはなんと答えるでしょうか? 政治家? それとも官僚? どちらも正解ですが、これだけが正解ではありません。みなさん一人一人が社会づくりの担い手であることは、大人にとっては「当たり前」の話かもしれません。しかし残念ながら、子どもたちがそのことを実感できる機会はほとんどありません。「将来は君たちが背負ってるんだよ!」なんて言われても、「社会を背負う」とか「社会を担う」という言葉が何を指してるのか、子どもたちは実感することも、学ぶこともないまま大人になっていくのです。このままで社会は本当によい方向へすすんでいくのか? という疑問から、子ども国会は子どもたちに、実際に社会で起きている問題について討論し、意見を発信する場を提供するようになりました。具体的には、8月に主に高校生たちが(小学生でも参加可能らしいです。小学生だって意見する権利をもってますからね!)1泊2日でいくつかのテーマごとにわかれ、実行委員がファシリテーターとしてサポートしながら話し合います。プログラムのなかで実際に議員会館をつかう時もあるとか!でた結論は「宣言書」という形にまとめられ、議員に限らず、様々な「大人」に手渡されます。毎年、複数の高校から参加者が集まる子ども国会ですが、今年も開催予定だそうです。気になる方はぜひぜひ子ども国会ホームページやTwitterをチェックしてみてください!


集合写真

思いが詰まった宣言書

 宣言書は最終的にパソコンで書き出し印字になるのですが、その元となるのは手稿です。実際にその手稿をみてみると、複数ページに渡って丁寧に丁寧に子どもたちの意見が書き綴ってありました。無機質な印字に比べて、子どもたちの手書きの意見は見ているだけで力強い思いやどれほど真剣に課題に向き合ってきたかが伝わってくるような気がします。

 宣言書のなかには、各問題を解決するためには誰がどのようなアクションをとる必要があるか子どもたちなりの意見が書かれています。もちろん政策レベルでこうした方がいいのではないかという意見もありますが、それだけではありません。子どもたちは企業、学校、そして自分自身をアクターとしてとらえています。ここに社会づくりは政治家だけが行うものではないという思いが表れているように感じます。宣言書は子ども国会のホームページ上で公開されていますので、政治家の方だけでなく会社勤めされている方、学校関係者の方など幅広い方々にぜひご覧になっていただき、子どもたちの思いを受け取っていただきたいと思います。

続く熱意

 子ども国会を運営する実行委員の特徴の一つとしてあげられるのが、高校・大学と活動を続けるメンバーが多いということです。高校生のうちから活動しているメンバーは、大学受験を機に一度活動から離れます。しかし、一度離れても、受験が一段落すると再びメンバーとして活動を再開する人が多いそうです。実行委員会のなかに受験が終わったメンバーを暖かく迎え入れる雰囲気があるのも要因だと思いますが、何よりも高校生メンバーの続けたいという意志の強さがあります。それだけこども国会の活動にやりがいがあるのでしょう。取材に伺った時、来年度から本格的な受験勉強をはじめるというメンバーがいましたが、その方も「必ず戻ってくる」とおしゃってました。受験合格とますますのご活躍をお祈りしています!

後記

 取材に伺った日はちょうど子ども国会のミーティングの日で、長時間のミーティングの後に取材に行ったのですが、みなさん全く疲れている様子がなくパワフル!事務所からは熱気があふれていました。やはり、普段から意見を発信しているからか、「○○説明してください」と言われても瞬時に丁寧に分かりやすく話してくださいました。こちらからの様々な要求に丁寧に対応してくださった子ども国会のみなさん、放蕩にありがとうございました。いつかコラボ企画でもできたらいいですね!これからもみなさんの活動を応援しています。

子ども国会
HP:http://kodomokokkai.web.fc2.com/index.html
Twitter:https://twitter.com/kodomo_kokkai


http://www.youtube.com/user/douptv

(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:大越 実花)

 

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2月 10 14

おじいちゃんの手作りおやつプロジェクト

by staff

 

子どもにやさしい手作りおやつ

只今、保土ヶ谷宿名物会では「おじいちゃんの手作りおやつ」プロジェクトを進めています。

現在の私たちの食の環境は、どうしても体に良いとは言えないものを摂取しがちです。子どもにとってもそれは同様です。味の濃いものほど美味しく、そして体には良くない。それにも関わらず、味覚はそういうものを美味しい物として認識します。そこで、名物会各店の手作りで体にやさしい商品を子どもたちに食べてもらいたい、という想いからこのプロジェクトをスタートしました。先陣を切ったのは「保土ヶ谷宿名代・ごん太鮓」さん。いや、「先陣」というのもおかしな話で、実はこの企画、従来からのごん太鮓さんの想いが形になったようなものなのです。

 

(クリックで拡大画像)

ごん太鮓さんの一口いなり
ごん太鮓さんの一口いなり

ごん太鮓さんは、私が初めてお会いした約10年ほど前も、「子どもの頃からこういう体に良い物の味をシッカリ覚えてほしい」とおっしゃっていました。そして現在、体にやさしく具沢山、懐かしい味がする自慢のおいなりさんは、お孫さんにも大好評だそうです。

 

おいなりは、おやつになるのか!?

そんな経緯もあっての本プロジェクトですが、「手作りおやつ」というだけに、「子どものおやつ」である必要があります。

従来、中高年層が主な客層であるごん太鮓さんのおいなり・巻き物は、子どものおやつとして成立するのか? そんなことの調査から取り掛かり始めました。

で、最初にご協力をいただいたのは、ご縁があり、今回の件で知人からご紹介いただいた港北区子育て支援拠点「どろっぷ」さん。スタッフの皆さんに、ごん太鮓さんのいなり・太巻きを試食していただき、味の感想をはじめ、「いなり・のり巻を食べるのはどんな時か?」「こどもの好きなのり巻の具は?」から「いなり・のり巻はおやつとして有りか?」など、活発な意見交換をさせていただきました。

 

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どろっぷの皆さんと意見交換会
どろっぷの皆さんと意見交換会

結果はバッチリ!
「自分のこどもの頃も、こういうおやつも食べていた」という賛同の意見から、「子どもが食べやすい一口サイズにしてみては」「味つけを子ども向けに甘くしてみては」というアドバイスもあり、また「子どもがおやつとしては納得するかが分からない」という課題を挙げていただいたりと、貴重な意見をたくさんいただきました。

更には、「美味しい」というのはもちろん、「ごん太鮓さんの人柄が良い」など、嬉しいご意見をたくさんいただきました。

 

ごん太鮓さんの手巻き寿司講座

そして、それから約半年間の試行錯誤を経て、昨年12月、少し切り口を変え、イベントを実施しました。今度は地元、保土ヶ谷区の子育て支援拠点「こっころ」さんのご協力をいただき、こちらで実施している「子育てサポートシステム」という、子どもを自宅で預かるボランティアを行っている会員さん同士の交流会の企画として、ごん太鮓さんに講師になっていただき、「手巻き寿司講座」を開催しました。

ごん太鮓さんに手巻き寿司の作り方をレクチャーしていただきつつ、手巻き寿司や地元の老舗を身近に感じていただくことが狙いです。講座は、ごん太鮓さんのお手本の後、参加者の皆さんに順番に手作り体験をしていただきました。ごん太鮓さんの手さばきが鮮やかなのはもちろんなのですが、参加者の皆さんもとてもお上手でした。

で、(当然ながら)その際にも、手巻き寿司だけでなく「一口いなり」も試食していただきつつ、前回同様に「子どものおやつ」について意見交換をさせていただきました。今回も「おやつとしてあり」という意見が多数。また、「おいしい」「シンプルで素朴な味が良い」「子どもにも食べさせたい」「昔ながらの味が魅力」「店主の人柄が良い」など、ありがたいご意見をたくさんいただきました。

 

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ごん太鮓さんのお手本
ごん太鮓さんのお手本

参加者の方も挑戦
参加者の方も挑戦

 

おじいちゃんの手作りおやつプロジェクト

そんな訳で、「おやつとして有り」という意見をたくさんいただいたところで、今年は改めて、「おじいちゃんの手作りおやつ」プロジェクトを進めていきます!更に今年は、ごん太鮓さんだけではなく、栗山さん、保土ヶ谷せんべいさんにも加勢していただき、盛り上げていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

2月 10 14

第19回 住まいのまわり 「デッキ」

by staff

古川都市建築計画/一級建築士事務所
代表 古川達也

住まいづくりで大切な事は沢山ありますが、
日々の暮らしで、誰もが何となく見ていて
気が付いているもの。~住まいの外側「住まいのまわり」
にあるものについてお話ししたいと思います。

街に家を建てるとします。
「住まいのまわり」とは、家と街のあいだ。
家との繋がりもあり、街との繋がりもある。家との都合、
街との都合を調整したり解決したり。様々なケースが
あると思いますが、とても大切な場所です。

例えば、住まいのまわりに設置した「デッキ」のお話。
住まいのまわりに広いデッキがあると良い時があります。
庭のようであり、居室のようでもある。
庭と居室の中間のようなスペースといえます。
洗濯物を干すだけなら小さくても事足りますが、
広めで少々余裕があると、さらに快適。

以前に設計した個人住宅 【山見の家】
2階に家族共有のリビングダイニングがあるのですが、
居間に面して、少し広めの屋外デッキが付いています。

居間のくつろぎ空間の延長として、
日なたぼっこや、夕涼み、時に食事も楽しんだり。
居間と直接繋がることで、気軽に行き来出来ることが
ポイントです。道行く人と居間との距離を生み、
程よい間合いも確保出来ます。

手摺を目隠し壁のように立ち上げることで、気になる
周囲の視線も制御出来ますから、心地良いスペース
づくりも、土地環境に合わせ工夫次第と言えます。
ここでは、伸びやかな景色が広がる環境を活かし、
オープンで大らかなつくりとしています。
デッキを設けたアウトドアライフ!
ちょっとオススメです。

※【山見の家】の詳細は http://furukawa-arch.com/works/

 

「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ

横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」15名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。

横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。

AA STUDIO ナビゲートサービス

中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談  無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案  ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)

AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051

AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)

青木恵美子 http://www.aaplan.com
新井今日子 http://www.arai1992.com
荻津 郁夫 http://www.o-as.co.jp
神田 雅子  
北川 裕記 http://www.aalab.com/kitagawa/
栗原 正明 http://msak.asia
河辺 近 http://www.ken-ken-a.co.jp
後藤 武 http://www.gtaa.jp
鈴木 信弘+洋子 http://suzuki-atelier.com
廣田 裕一  
藤本 幸充 http://www.kamakobo.com
古川 達也 http://furukawa-arch.com/
松井 理美子 http://www.matsui2ar.com
水口 裕之 http://homepage1.nifty.com/eau/
山口 賢 http://www.amarterrance.com

 

2月 10 14

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第20回 第4章 フォークからニューミュージックへ 6

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 6

昨年2013年12月30日に大滝詠一さんが永眠されました。
今回は日本のロック界に多大なる足跡をのこした大滝詠一さんに
敬意を表したいと思います。

 大滝さんは岩手県出身 65歳。1968年に早大入学後、細野晴臣さんと出会い ’70年、はっぴいえんどでデビュー。フォーク全盛の時代にバファロー・スプリング・フィールドなどアメリカ西海岸のロックに傾倒したサウンドを追求。はっぴいえんどは、日本語はロックのビートに乗らないという考え方が主流だった時代、日本語の詩にこだわり、それを見事にロックサウンドに溶け込ませた日本で始めてのロックバンドといえるでしょう。大滝さんは、全ての50年代から70年代のアメリカンポップス及び洋楽全般に精通する人であり、音楽評論家としても他の追随を許さない存在。そして素晴らしいシンガー、作曲家、アレンジャー、自身及び他人のプロデューサー、時にラジオのDJ。正に7つの顔を持つ男 “多羅尾伴内” (自身で名乗ったこともある)です。

 はっぴいえんど解散後、在住していた福生でスタジオを作り自身で立ち上げたレーベル 【ナイアガラレーベル】 から名作の数々を発表し、最終的に80年代に大ヒットしたアルバム「ロングバケーション」と「イーチタイム」にたどり着きます。アメリカンポップスをこよなく愛しその造詣の深さは万人の知るところであり、彼の音楽からもそれをうかがい知ることが出来ます。特にリズムへのこだわりは顕著で、メレンゲなどのリズムやニューオリンズのサウンドなどをいち早く取り入れたのはおそらく大滝さんが最初だと思われます。

 更に進化し日本の音頭のリズムで独特の世界を作ります。布谷文雄を起用した “レッツ音頭アゲイン” (レッツツイストアゲインに日本語を乗せ音頭のリズムにしたもの)、金沢明子のイエローサブマリン音頭など、どこまで冗談か分からないほどユニークで楽しい音楽を作りました。片や彼のつむぎ出す美しいメロディにもアメリカンポップスへの奥深い愛情を感じることが出来ます。 “夢で逢えたら” を聞くとロネッツやフィルスペクターを、小林明でヒットした “熱き心に” を聞くとカスケーズの “悲しき北風” を思い出してしまうのは私だけでしょうか?

 ロングバケーションのヒットを受けて、あるインタビューで洋楽に詳しいインタビュアーが「大滝さんのOOという曲は3曲のアメリカンヒットと取り入れていますね」と言ったところ「へえー、あの曲はそれに加えOOとOOの5曲を取り入れているよ。君には3曲しか分からなかったんだ」と粋な切返しをした逸話を聞いたことがあります。

 私見ですが、大滝さんは古き良きアメリカンポップスを素晴らしい世界を日本の音楽文化の中に正しく取り入れ彼のセンスの中で昇華させた音楽を作りたかったのだと思います。大滝さんの最後のシングルは “幸せの結末” だったそうです。英語にすると “はっぴいえんど” ですね!

 おそらく現在の40歳から60歳くらいの音楽をやる人の殆どは大滝さんから良い影響を受けていると言っても過言ではないでしょう。正に J・ポップの父。心よりご冥福をお祈りいたします。

 

横浜、街と風(社会人編) 6(21)

バイトからスタート

 父親との約束だった高校は卒業しましたが、単位を取るのに精一杯でやっと卒業できた感じだったので、就職どころではなく、担任は色々心配してくれていましたが結局何も決まらず、バイトもやめてすることもなく何となく日々を過ごす毎日。この時心の拠り所のない孤独感にさいなまされました。大して通っていなかったくせに高校在学というのも心の拠り所だった事に終えてみて初めて気が付きました。自分は一体何者なんだろう? 金もなく仕事もなくこれから一体どうなるのだろう? と言いようのない不安に包まれていました。本牧事件の傷も癒えた頃、友人からバイトの面接に誘われて行ってみると、当時人気が出だしていた牛丼の吉野家でした。時給がとても良かったのです。新宿まで面接に行き採用され最初に行かされたのが今でも関内駅前にある吉野家関内店でした。

吉野家

 当時牛肉は高級品で牛丼が一杯300円というのは大変な事だったのです。当時の吉野家の人気はハンパじゃなく、昼時には1時間に200人から300人位の客をさばきます。それ以外の時間でもひっきりなしに客が入り、世の中にこんな所があるのかと驚きました。24時間営業で社員は大体一人か二人、あとはみんなバイトで、バイトは10人程いて、昼は6時間、深夜は9時間の労働で、交代制。深夜は確か当時で600円くらいの時給だったと記憶しています。金はいいが何しろハードで仕事は完全にマニュアル通りでわずかな休憩以外はほとんどひっきりなしに動かされます。来客の少ない時間もなべ磨きから床掃除まで。本当にきつくて何度やめようと思った事か。。。。又スーパーバイザーと呼ばれる監視の社員がお客を装い不定期にやって来て仕事具合をチェック。ここ(吉野家)でバイトができればどんな仕事でもできると言われるほどでした。特に関内店の凄さは壮絶で、入って2日目、たまたま販売促進の為の牛丼一杯150円の半額セールにぶち当たり、ものすごい人数の客が押し寄せました。この時はさすがに新人では使い物にならず外で弁当売り場を担当しましたが、もう息もつかせぬ混雑で本当に逃げ出したくなりました。半額セールが終わり新しく出来ていた日の出町店へ配属されいくらか静かな新店舗でほっと一息。それほど関内店での1週間は悪夢でした。

続吉野家

 日の出町店での仕事にも慣れ日々の忙しさに不安もいつしか忘れていました。1、2ヶ月たつと今度は伊勢崎町のオデオンの近くに新店舗が出来るという事で新規開店からそちらに行くことになりました。ここでの仕事は半年くらいやったと思います。1つ年上のOさんという優しい先輩が何かと目をかけてくれました。吉野家の給料は週ごとに銀行口座に振り込まれるので給料日にはそのまま銀行でお金をおろしてOさんたちと一緒によく飲みに行きました。よくいったのは関内駅前のセンタービル(現セルテ、ハートのビルです)の12階にあったカウベルというディスコ。まだ12階建てのビルは少なく店内の窓から見える夜景は絶景でした。エレベータが開くといきなり店内で扉で仕切られた真ん中にライブステージがありフィリピンバンドが演奏していました。合間には対面のブースからDJがダンスナンバーをかけていてずっと踊ることができました。女どおしのOLグループも多くて、ホールはナンパ目的の男どもであふれ、又不良のたまり場でもあったのでもめ事も多くしょっちゅうトイレでけんかがありました。自分も何度かナンパに挑戦しましたが彼女と別れて垢抜けた感じがなくやはりギラギラしてたのでしょう全くもてませんでした。

 そんな頃いつも昼ごはんを吉野家に食べに来る近所に服屋に勤めている女の子と仲良くなり、家まで遊びに行ったりする仲になりました、ある日バイト仲間で年上のOさんとNさんにこの事を告白するといきなりNさんが怒り出し、自分もそういう仲で真剣に付き合っているから手を引けと、引き下がれない自分と決闘だということになり危うく大喧嘩になる所をOさんが2人の間に入り事なきを得ました。その事件後、自然に服屋の子は現れなくなり家に行っても顔を見せずいつからか噂で故郷に帰ったと聞きました。この話には後日談があり、実は服屋の子は喧嘩をとめたOさんとすでに付き合っていたというオチ。多分Oさんの事が好きだったのでしょう。ほろ苦い思い出と共に大人の女性を少し知りました。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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2月 10 14

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は

by staff

♪人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:後鳥羽院 (ごとばのいん)

 現代語訳・・・人が愛しくも 憎くも思われる。私の心はあれこれと思い悩んでつまらない世の中を鬱々と過ごしているが、それもまた愛しく思えるのだよ。

 20年以上前のことですが、隠岐島に渡って後鳥羽院の住居跡を訪れたことがあります。とても寂しくて長く留まれないような気配がありそそくさと離れました。その頃は自分が将来に和歌うたを歌うなんて思ってもいなかったのですが、後鳥羽院の住居跡(もしかしたら墓所だったのかもしれません)の印象はとても強烈でした。寂寥感がすごかった。

 百人一首の中で時の政治権力に歯向かって島に流された天皇は3名。崇徳院 と後鳥羽院 そして後鳥羽院の息子の順徳院。

 その中でも後鳥羽院は4歳から天皇になられて17歳で天皇の座を息子に譲ってからは鋭気闊達、エネルギッシュな院政時代を送った天皇として稀に見る人でした。多趣味多芸で、豪快な遊びかたをされたとか。そしてもう一度宮廷に政治的権力を取り戻そうとして鎌倉幕府との軋轢で負けて島に流されてしまいました。この承久の乱を境に天皇の威信は完璧に政治を離れてその後は次代の天皇を決める時にも幕府のお伺いを立てなければならなくなります。将軍を頂点とした権力体制が生まれ江戸時代まで武士の時代が続きます。

 私はこの後鳥羽院とあと二人の流島された天皇の歌3首を合わせた楽曲「独りかもねむ」をちょうど書き上げたばかりで、この一ヶ月はその歌に集中していたせいもあり人生の栄枯盛衰をしみじみ感じる日が続いていました。3天皇は流島先から二度と都に帰れないままその地で亡くなっています。崇徳院 後鳥羽院 順徳院 3首のうたの周りに柿本人麻呂や猿丸大夫の動物達をテーマにした6首を絡めて書き上げた楽曲「独りかもねむ」は失脚した人々の失意を生々しい慟哭ではなく儚さを捉えた美しい歌にしたいと思い、マウイ島在住のWALTER SCHMIDにも協力を仰いで共同で創作しました。

 そしてその曲が出来上がってふと今まで自分が創作してきた百人一首のうたを数えたら、なんと78首にも。まだ未発表の和歌うたが2曲。そしてアルバム「花のいろは」には入っていませんが既にステージで発表し歌っているものも入れて7曲。このペースでゆくと今年中には百人一首の100首ぜんぶにメロディがついてしまいます。ふと気が付いたらあと22首しか残っていないなんて。突然目の前が開けたような感じです。闇雲に走ってきてトンネルを抜けたら最初のゴールが見えたようで、それが 百人一首全首作曲達成。 今年はそれが大きな目標になります。そして百首すべてが入ったアルバムを発表したいと。

 私が和歌うたを始めたのは13年前。その頃は、万葉集や百人一首に歌をつけて演奏されている方々は殆どいなかったと思います。それが、最近よく耳にするようになりました。もっとたくさんのアーティストが古の大和言葉にメロディをつけて歌ってくれればきっとひとつの音楽ジャンルとして確立して行けるだろうと。そんなことを思ってワクワクしている今日このごろです。

(早苗ネネ♪)

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

2月 10 14

入れたての美味しいお茶を召し上がれ。田中屋茶店・店主 小岩井治夫さん

by staff

 「入れたての美味しいお茶を召し上がれ」・・・美味しいお茶の選び方、お茶の歴史、横浜関内、関外の話・・・お話はタイムマシンに乗って明治、大正、昭和へと移っていきます。 今月の「横浜この人」は田中屋茶店・店主小岩井治夫さん。お祖母さんから聞いたお話、ご自身の体験談、みんなタイムマシンに詰め込んで「横浜今昔お茶物語」の始まりです。

田中屋茶店・店主小岩井治夫(こいわいはるお)さん田中屋茶店・店主
小岩井治夫さん
 
お名前 小岩井 治夫(こいわい はるお)さん
ご年齢 76歳
お仕事 田中屋茶店 店主
横浜市中区吉田町3番地の1
電話 045-261-4428
ご趣味 年中お茶のことで忙しくしています

奥女中のリストラから歴史が始まりました

 屋号の田中屋は、田中屋林藏が初代だと言っていますが・・・商売を始めたのはもっと昔のことだと聞いています。江戸城で奥女中だった女性が、慶応時代(いつかは定かでない)に横浜に出て来て商売を始めたのが始まりのようです。

 当時、ペリー来航で横浜に港を造ることになり、仕事に忙しい合間にお茶を飲むのだから、「湯の温度だ、入れ方だ、器だ」なんてこだわりは何にもないわけです。旨かったらそれで良いっていうお茶が求められたわけです。 ゆっくり味わなくても旨いお茶、味が濃いお茶が横浜スタイルです。

絹に次ぐお茶の輸出

 明治に入って、横浜港は商館が建ち並び、商業地として発展していきました。いろいろな人が集まってきて、飲食店、娯楽施設(芝居小屋)などが立ち並び、それは賑やかだったと聞いています。生糸の輸出が盛んに行われていたので、蚕を飼っている八王子から生糸商が横浜に来る、その生糸商で働く男の子を養子にして商売が大きく発展し、「田中屋林藏商店」が生まれたといいます。私は5代目になります。

 その頃、商館が日本茶に目をつけ輸出を始めます。良質なお茶のなんと50~80%がアメリカ向けに輸出されていたと言われています。生糸とお茶を輸出できる港は横浜は、それは忙しかったといいます。

 しかしながら、うちは輸出に関わらず、もっぱら国内向けに商いをしていました。

 うちは静岡の産地からお茶を直接仕入れていましたから、産地との間には強い信頼関係が出来ていました。それが関東大震災の再建に繋がりました。

関東大震災からの復興

 5月初旬から中旬にかけて良いお茶が摘み取られます。9月1日に発生した関東大震災によって倉に入れていた茶葉が全部燃えてしまいました。その痛手は大きく、再建できないと誰もが思っておりました。その時、静岡の産地からお茶が送られてきました。それもアメリカに輸出できる良質なお茶が送られてきたのです。炊き出しのおにぎりとお茶・・・お茶の需要はありました。お茶屋を続けていく意欲が生まれました。

戦中・戦後の苦難

 お茶は統制品でしたから、配給品以外のお茶は売れすぎてもいけませんでした。吉田橋(関内)は川に面しているので強制疎開をさせられ、戦後はアメリカ軍に接収されました。その間、浅間下で商売を続けていましたが、接収解除になって吉田町に戻って来た時に見たのは、辺り一面が原っぱになっていて、そこに倉だけが焼け残っている姿でした。昭和4年に清水組(現在の清水建設株式会社)が作った倉です。さすが清水建設、頑丈な倉です。

 その焼け残った倉に隣接して店を作りました。店内から倉の入り口が見える変わった作りになりました。戦後のドサクサに紛れて作った店です。 今、リフォームすると建築法に触れるので、当時のまま使っています。


店内から倉の入り口を望む、タイルは当時のまま、焼けた跡が残る

 さて、原っぱになった関内・伊勢佐木町・吉田町に人が戻ってくるまでが我慢の時代になりました。何も売れない、お客様が来ない日が続きました。これが精神的にも一番辛かった時代です。自分の土地に建っているから家賃が無い分頑張れたと思います。

 区画整理が行われて、道路に土地を取られることになりました。野沢屋(横浜松坂屋)、松屋(鶴屋呉服店)・・・映画街、人が横浜に戻って来ました。横浜に、関内に、伊勢佐木町に『繁華街』が戻ってきました。

お茶離れとお茶屋さん

 仏事にお茶は欠くことが出来ないものでした。「積み茶」といって仏前に5段重ねでお茶を積み依頼主の名を書いて出したものです。ですから、お茶屋の店主は墨字がきれいに書けました。今は仏事で本当のお茶を使って「積み茶」をしなくなりました。

 会社でもお茶を出すところが少なくなりました。お湯の保温ポットに異物を混入させた事件があり、それを境に会社でお茶をだすところが少なくなりました。「お茶汲み」が死語になりつつあります。

 缶入りのお茶が出た時はそれほど脅威には思わなかったのですが、ペットボトルのお茶は茶店にとっては衝撃的でした。フタができることで、お茶をどこででも気軽に飲むことができるようになりました。これはお茶の産地にとっては、直販ができるようになり、それなりの利益を生み出しているのかもしれませんが、お茶の葉を売る小売店には脅威でした。 集会所では、急須ややかんを使ってお茶を入れることが無くなりました。

 


積み茶

 飲食店でも「出がらし」の始末を面倒がり、粉茶を使うようになりました。ティーバックに1回分ずつ入っているお茶などが出回り、旅館や家庭でも使われるようになりました。このようなお茶は工場でパックされコンビニやスーパーなどで大量に売られます。

 東京に本店を置く、有名店や老舗が横浜にも進出してきました。テレビのCMで全国区になっていて、贈答品や高級品にはこちらが選ばれます。

 ウーロン茶、紅茶、コーヒー・・・若者の日本茶離れが進んでいます。町からお茶屋さんが消えて行きました。

看板を守ってきました

 大規模複合施設店に日本茶専門店ができたり、お茶業界では生き残りをかけて「日本茶」を若い世代に知ってもらう努力を始めました。日本食が世界遺産になりましたが、日本食には日本茶が一番似合うはずです。「煎茶」、「番茶」、「深蒸し」・・・飲み比べて選べられるお店ができました。うちのようなお茶店が今までにやってきたことです。地道なサービスですが、ネットや通販、コンビニではできないこのようなサービスに販路を見つけようとしています。

 私も年を取りましたがお客様も同じように年を取られ、だんだんと減って来ています。思えば、自分の地所に建っているからやって来られたのです。

 関東大震災、戦争、不況、お茶離れ・・・幾たびかの苦難を乗り越えてきました。今までも、これからも、地元の信頼に応えられる商売をしていこうと思っています。

貴方にとって横浜とは

 家族の歴史そのものです。


入れたての美味しいお茶を召し上がれ。
田中屋茶店・店主 小岩井治夫さん

インタビュー:ヨコハマNOW代表 渡邊桃伯子/文::高野慈子

 

1月 10 14

2014年のお正月は「三吉演芸場」に大衆演劇を観に行きました

by staff

 

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

2014年のお正月は、御目出度いものを見たいね・・ということで、横浜市南区の「三吉演芸場」に大衆演劇を観に行きました。

「三吉演芸場」は、元気な商店街として有名な「横浜橋通商店街」を通り抜けた三吉橋のたもとにあります。

日本に30か所程度あると言われている大衆演劇専門の劇場の中でも最も歴史のある劇場です。185席の客席があります。横浜ではここだけですが、大阪には10以上の劇場があります。大衆演劇は、関東よりも関西以西のほうが人気があるようです。

「三吉演芸場」は、元は銭湯だったそうです。1930年(昭和5年)に銭湯の二階を「貸席三吉」として踊りなどの発表の場としたのが始まりだそうです。

1973年(昭和48年)からは大衆演劇専門劇場として衣替えしました。この頃から、横浜橋通商店街出身の落語家、桂歌丸師匠による落語会が開始されました。(第190回の桂歌丸一門会が2014年1月31日に開催されます)

1990年代には観客数の減少と建物の老朽化から、廃業の危機がありました。そのときに歌丸師匠を会長とする「三吉演芸場を残す会」が結成され、2500万円の寄付が集められました。それをきっかけに行政の支援などもあり1998年(平成10年)に現在の形になったそうです。

劇場の中にはいってびっくりしたのは、清潔できれいなことです。大衆演劇というと、お座敷もあるのかなと思ったのですが、コンサートホールのような雰囲気です。お正月らしい飾り付けもさりげなくありました。

出し物(橘劇団)のせいか、会場には若い女性も多く来ていましたが、観客のほぼ9割は女性です。橘大五郎という若き座長が、大衆演劇では早乙女太一さんと並ぶ人気者だということを後で知りました。ペンライトを持参のおばさまたちもいました。

公演時間は三時間程度で、三部構成(ミニショー・お芝居・舞踊ショー)になっているのも他にはない「三吉演芸場」独自のものだそうです。入場料は2,500円前後で、これは他と比べて高額になるそうです。

大衆演劇では当たり前のことだそうですが、お芝居の演目は毎日、昼夜でも変わるそうです。私が見たのは「出世茶碗」というお芝居で、時代劇で尋常劇というものでした。笑いあり涙ありで気軽に楽しめました。一か月の公演期間中、毎日見に来る方がいるというのもうなづけました。

舞踊ショーは演歌や歌謡曲にあわせ役者が躍るのものですが、そこでは有名な(?)「おひねり」を見ることができました。役者さんが踊っているときに、観客が舞台に駆け寄って役者の胸元に万札を髪飾り(?)で止めるのです。役者も上手なタイミングで「おひねり」を受けています。「おひねり」を受け取ることができない役者もいて、人気がはっきりしている厳しい世界であることがわかります。

公演終了後、役者さんが総出で観客を見送ってくれます。これを「送り出し」というのだそうです。握手や写真撮影にも応じてくれて、役者と観客のふれあいがあるのも大衆演劇の魅力の一つなのだと感じました。

初めての「大衆演劇体験」でしたが、迫力や華やかさは掛け値なしに楽しめるものでした。ただ、後ろのおばさんたちが、お酒を飲みながら大きな声で話しているのが気になりましたが・・。それもご愛嬌でしょうか。

お正月だったせいか客席はほとんど埋まっていて「大入り」が出ていました。インターネットのブログなどを見ると、普段の日の入りはかなり厳しいときもあるようです。横浜で唯一の大衆演劇の劇場が、これからもずっと続いていってほしいと願っています。

 

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三吉演芸場
三吉演芸場

一月公演のポスター
一月公演のポスター

劇場内のお正月の飾り
劇場内のお正月の飾り

劇場内の売店
劇場内の売店

会場内の様子
会場内の様子

舞踊ショー
舞踊ショー

送り出し
送り出し

 

1月 10 14

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第4回) 恵方巻きと1月料理コースのご案内

by staff

関東でもすっかり定着!恵方巻き

 2月3日は節分ですね。
 節分とは、正確には年に4回ありますが、江戸時代以降は冬と春の間、立春の前日をさすようになりました。季節の変わり目には邪気が生じると考えられている為、鬼退治の為に、おなじみの豆まき、柊とイワシを飾るなどの風習があります。

 その中でも、ここ数年ですっかり定着してきたのが『恵方巻き』ですね。元は大阪で、商売繁盛など祈願する為にはじまったとも言われています。その年の干支によって定められた最も良いとされる方位を向きながら、願い事を思い浮かべて丸ごとかじって食べる事から、『丸かぶり寿司』『丸かじり寿司』とも呼ばれています。コンビニエンスストアが『恵方巻き』として販売を始めた事から、その名前が定着し、2000年辺りから、全国にその風習が広まったようです。確かに、関東地方でもスーパー、コンビニエンスストア、またはテレビCMでその名をよく目にするようになりましたね。

 


恵方巻き

 簡単に買う事も出来ますが、ご家族が多いお家でしたら、やはり作った方が経済的にもお得。また、お好きな具を巻けるという楽しみもありますね。ちなみに、具材は七福神にちなんで7種いれると縁起がいいそうです。

 ジュイエで作る恵方巻きは、穴子、厚焼き卵、鱈のでんぶ、ほうれん草、かんぴょう、干し椎茸、白炒りごまの7種を入れて作ります。でんぶも手作りしますが、でんぶの原料がお魚であるというのもなかなかご存知の方が少なくなっているようです。赤くて甘いので、お砂糖を加工したものだと思っている方も。こちらも作っていただくと甘さや色合いも調整できます。ただ焦げやすいので、注意が必要ですが。テフロン加工のフライパン等ですと作りやすいと思います。

 巻き寿司にはまきすを使いますが、まきすの使い方はちょっと難しいかもしれません。手巻き寿司を用意して、それぞれが小さめにお好きな具を巻いていただくのもいいかもしれません。

 その際、ぜひすし酢を手作りしてみませんか?
すし酢、という商品は売っていますが、すし酢は、米酢、塩、砂糖を混ぜるだけで簡単に作れます。味もすっきりして、美味しいお寿司ができますよ。

白米 2合
(すし酢)  
米酢(穀物酢) 大さじ3~4
砂糖 大さじ11/2
小さじ1

 すし酢の材料を小鍋に入れ、沸騰直前まで温め、火を止めてよくかき混ぜて下さい。酢を温める事で砂糖、塩が溶けやすくなります。沸騰させてしまうとお酢の酸味が飛んでしまうので、注意して下さいね。酢は酸味のお好みによって量を調整して下さい。

 まきすを使った巻き寿司を作ってみたい方は、ジュイエでもレッスンがありますので、ぜひいらしてくださいね。

1月の料理コースのご案内

 私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

1月のコース内容

フランス料理基本コース 『温野菜のサラダ』
『ハンバーグ』
『ガレット・デ・ロア』
温野菜を手作りのドレッシングで食べます。冬野菜を美味しく食べられます。
おなじみのハンバーグをふわふわに作りましょう!簡単で美味しい、作り方を伝授します。
ガレット・デ・ロアは、1月6日にキリスト教のお祭りで食べる焼き菓子。折り込みパイ生地とアーモンドクリームのシンプルな組み立てですがリッチなお菓子です。

温野菜のサラダ

ハンバーグ

ガレット・デ・ロア

フランス料理応用コース 『マンハッタンクラムチャウダー』
『バターライス、チキンクリームソース』
『ホワイトチョコとベリーのブラウニー』
バレンタインディナーにおススメのメニュー。
簡単で見栄えがよく、男子ウケも間違いなし!
寒い日にも、温まります。
恵方巻きレッスン 今月は特別に恵方巻きのレッスンを開催しています。
恵方巻き  5本お持ち帰り
こちらは1月30日、2月2日でご予約受付中です。

 受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。

http://www.7juillet.com/kyousitu.html

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にてフランス料理を学ぶ
同校 フランス・リヨン校、フランス1つ星レストランにて研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める
独立し、キッチンスタジオ・ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

1月 10 14

2014年1月 三ツ池だより 「日本人の誇り」

by staff
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 新しい年の日の出に両の手を合わせた。平和を祈った。平安を祈った。何よりも家族が健やかに生活していられること、会社がまずまずの実績を上げていることに感謝した。元旦の日の出は雲一つない快晴であった。まぶしいほどの光を放って太陽が昇ってきた。三日目は少し雲が出ていた。雲が陽に照らされて輝くのである。さまざまな形を見せる雲を露払いにするように太陽が昇るのであった。日の出は雲が少しあると映えるのを実感したお正月であった。

 日の出を確認してから例年より早く近くのコンビニにでかけ、新聞各紙を手元に置くことが出来た。それぞれを特徴づける一面が日本の置かれている位置を表現していた。①日本を守るというメッセージの紙面、②日本は中国の脅威にさらされていると感じさせる紙面、③現状の教育に踏み込まずに、グローバル化の中の教育を語る紙面、④未来に向けて常識を超えていこうと呼びかける紙面、⑤市の文化体育館の整備、それぞれであった。

 さてさて、現状の日本の課題は何なのだろう。①日本は他国に守られている。②世界経済の変動が激しさを増している。③戦後教育とは何だったのだろうか。その中で日本人の誇りはどのようになってきているのか。④技術力で成長してきた日本がどこに活路を見出そうとしていくのか。⑤地方格差をどう考えていくのか。

 紙面から感じたのはどの紙面もその通りというものであった。お正月らしいといえばその通りである。一寸先は闇といわれる時代に何日も先に作っておくとなればこのような編集になるのかもしれない。しかしながら一年の計は元旦にありとすれば、各社が一面的な取り上げ方しか、していないというのは如何がなものなのだろう。別冊でいろんな分野にかかわって夢を語っているという声を発するかもしれない。そうなっているだろうか。

    「大切にしたいもの」
今という時は 今しかなく
年の初日は この時しかない
陽が丘に登る ポッと顔をだす
おめでとうございます いく筋もの光が射してくる
新しい年がはじまっている 人が集い人が笑い
行ったり来たりの人生の 来る朝陽のめぐみをうける
あらゆるものを リセットできるわけではないが
できることはできる スイッチをいれるのだ
今という時を 楽しみたい
今という時を 共有したい

 今もとめられているのは働く場ではないだろうか。「日本人へ」の著者塩野七生さんは「多くの人が自分で満足する仕事につける社会、とまで高望みしない。誰にも迷惑はかけないで暮らせるだけのカネを稼げる職を与えてやることが、自分自身の存在理由、自信をつけることになる」と語る。

 50年前に私は研究職を求めて大手の会社を受験した。見事採用してもらえなかった。丁度定年後創業した親父の数人の会社に入社を決めた。自分の限界も見えていたし、入社試験がどうも気が重かった。「できたら手伝ってくれ」という声に「やりたいことをやらしてくれ」という交換条件だった。実際はそんな時間はとれなかったから、自分と家族の時間を削ってしまった。みんなに迷惑をかけてここまで来てしまった。しかし先日入社試験に落ちた会社の若い所長さんと話す機会があって「入社しなくてよかったのではないですか。入社していたら今の環境はないとおもいますよ!」とコメントされた。

 50年前だからそれができたのだろうか。やりたいことをやる、人のお役に立ちたいという思いがあって、外国語ができれば、今の方がずっと生きやすいと思う。起業できる支援と教育が大切なのは言うまでもない。私はヨコハマに育って、関西に修行に行ったことが転機になっている。それまでは「かっこ悪い」ことはできないという頭があった。それが誰も知らない地にいくことによって、全く鎧がいらなくなったのだった。

 全く無垢のままでの初日の出に、両の手を合わせるうれしさもさることながら、雲を露払いにしての日の出のめでたさに感動したように、いろんな可能性を秘めて日本はある。誇りと勇気をもって歩む年が2014年である。開かれた日本は自分の意思で判断できる社会でありたいし、おすそわけできる社会でありたい。それはまさに誰がやるのでもなく、日本人一人ひとりがいつでもどこでもやっている時代の到来が求められている。

 さー!今一度「一年の計」を見定めて、日本人としての誇りをもって生きていきたい。

 

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(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

1月 10 14

セカンドライフ列伝 第14回 海野十三(うんのじゅうざ)

by staff

榎本技術士オフィス/榎本博康

第14回 海野十三(うんのじゅうざ)

逓信省の電気技師が抱いた見果てぬ夢のまた夢

 私が尊敬するある技術士の先輩は、佐野昌一が書いた「おはなし電気学」を子供の頃に読んで、電気という学問の魅力に目覚め、電気技術者の道を目指したとのお話を伺いました。

 また良く知られているように、宇宙戦艦ヤマトの艦長の名前は沖田十三ですが、この名前は、ヤマト作者の松本零士が日本のSF小説の先駆者、海野十三(うんのじゅうざ;明治30年(1897).12.26~昭和24年(1949).5.17)に抱き続けていた尊敬の念に由来していると言われています。

 さっさと種明かしをしてしまえば、これは同じ人物の本名とペンネームであります。一見して全く違う領域での活動をしながら、共に一般大衆のための仕事をしたという点では全く同じ姿勢とも見えます。

 このように海野十三は現在の70歳台、80歳台の人々に大きな影響を与えた作家でありながら、一時忘れ去られ、また最近になってじんわりと再評価されつつあります。特に三一書房から海野十三全集(1988~1993)が刊行されて、彼の業績の全容が掌握されました。また彼の没後50年を期して「海野十三メモリアルブック」が企画され、2000年に発行されました。監修者は彼の妻、英(えい)です。この全集もメモリアルブックも既に新刊での入手はできませんが、著作権切れの作品を電子化するボランティア活動、青空文庫が全集版などを底本として現在173作品が閲覧可能であり、また準備中のものがあります。そして青空とほぼ同数がamazonの電子ブックkindle版としてゼロ円で配布されています。

 さて、海野十三の生家は徳島の御典医の家系であり、彼も医者となることを嘱望されながらも、早稲田大学で無線通信学を専攻し、逓信省電気試験所に勤務して技術的な成果を生み出しました。その一方で創作への意欲を抑えがたく、本名とペンネームの二足のわらじを17年に亘って履き続け、ついに専業作家となりました。そこで先の大戦の勃発です。彼は海軍報道班員として南方に赴き、熱病に罹って送還されました。戦時中は戦争に協力する言動をしたためか、昭和20年8月の敗戦で一家自決を決め、友人らに実行の直前で諌められました。その後は一時海野十三の名前を控えます。その後も執筆を続けながらも、20歳台で感染した肺結核が進行し、ついに昭和24年、51歳で余りにも短い生涯を終えました。

 いつものように私の主観や勝手な妄想で史実とは異なる点が多々あるとは思いますので、いわゆる伝記とは違うものであるとのご理解の上で、お楽しみいただければ幸いです。

 なお少年期は昌一とし、成人以降は海野と呼ぶことにします。海野十三は多くのペンネームを使い分けていますが、煩雑ですのでそれは省きました。

御典医の家系

 佐野家は代々の御典医でした。明暦3年(1657年)に蜂須賀候(徳島藩藩主)からのお召しで御典医となり、連綿としてその家業を守って、海野の祖父の佐野渉に至ります。彼の父の真雄も医者であることを嘱望されたのですが、坊ちゃん育ちで好男子、遊びが派手という性質で、一向に医学に向き合わずに、税関関係の仕事に就きました。

 彼らが住んだ徳島藩の城下町は、吉野川の河口デルタ地帯にあり、例の阿波踊りが盛んな商業都市です。城の千秋閣の池は、海と連続していて汐の干満を見ることができると言われていました。海運、造船、医療、天文等の環境が、昌一少年の脳裏に深く刻みつけられたと想像できます。鳴門の渦潮の姿に、自然の摂理の背後に必ず存在する物理学的な法則を感じ始めていたかもしれません。

 所が家計を支えていた祖父が高齢で仕事に耐えなくなり、父が勤務する神戸に引っ越しました。昌一が福島小学校3年生の半ばのことでした。まずは神戸市の大開小学校に転入したのですが、以降は市内を転々としたといいます。経済的にかなり逼迫した生活であったようです。そして6年生で実母が亡くなりました。

 昌一は名門の第一神戸中学校に入学し、家族は父の勤務のため東京に引っ越しました。継母となじめないという事情もあったようです。

 中学校入学時には、級友たちに比べてかなり小柄であったようです。その後の成長で挽回はしますが、成人後の写真を拝見しても小柄であることが目立ちます。その1年生の時に、手書き同人誌を始めるという、将来を予感させるできごとがあったと伝えられています。神戸では伸び伸びと生活したのではないかと想像します。昌一が生来持っている出自の良さは、美点として作用したことでしょう。

早稲田は大学ではなかった

 さて、海野十三は大正5年の9月に早稲田大学の予科に入学します。所が期末試験を受けずに退学し、翌年の9月に再度入学するという不思議なことをしています。これは当時のいわゆる早稲田騒動で、次期学長の座を巡って学内が学生も巻き込んで2派に分かれて争ったという事件に巻き込まれて、期末試験を放棄する挙に出たからではないかと言われていますが、真相は不明です。

 さて大正8年の3月に予科を終了しますが、本科の入学が9年4月という、ここでもまた謎の空白の1年があります。

 当時はいわゆる帝国大学と私立大学とでは、圧倒的な差があったのです。帝国大学は内地に7大学が設けられましたが、この話の当時では大正7年に北海道帝国大学が5番目の帝大となった頃です。あとの4つは東京、京都、東北、九州の各帝大です。一方早稲田のような私立大学では、官庁に勤めた時に専門学校卒業資格でしかなかったのです。それが大学令改正により、条件付きながら大学卒業資格となるため、当時の多くの学生が意図的に1年遅れる道を選んだのです。実際には1年遅らせることなく学業は進み、卒業時の希望で入学時の資料を書き換えたと考えられています。それは彼らが卒業する土壇場の大正11年の正月過ぎのことでした。

 さて本科では、余り人がやっていなくて難しそうな学問ということで、その実質2年目に無線電信学を選択し、坪内信教授に師事しました。この出逢いこそ、海野の運命を決定づけたものに他ありません。そして夏休みには日本無線で実習をしています。また級友の福田庚午郎と親しくなって、彼の紹介で雑誌「野球界」の主幹に会い、大正9年5月号に彼の漫画が掲載されたのが、商業誌掲載の最初となりました。

 翌大正10年には逓信省電気試験所で福田と共に実習をしており、後に勤務することになります。「初めてのラヂオ」の原稿を書き、また無線タイムズ誌に翻訳を提供しました。大正11年には「在学継続」の余暇を利用して友人の樋口正巳らと早稲田大学電気工学会会報を始め、これには卒業後もこだわりをもって関係しつづけました。大学資格のために残留していましたが、実際には修業しているので、8月から電気試験所で福田と共に実習生として勤務を始めました。

第一の人生~電気試験所技師

 大正12年4月に、電気試験所の正式採用となり、第四部「無線通信デバイス類、システム開発」に配属になりました。さらに学友樋口の妹のたか子と結婚し、浅草花川戸に住みます。

 所がそこに、9月1日の関東大震災があり、人的損害は無かったものの、資料・ノート類を焼失してしまいました。この直後に寺田虎彦が震災調査を開始して、実体験を求めていたので原稿を提出し、その礼状の2枚の便箋を大切にしていたと言います。残念ながら二人が会うことはとうとうありませんでした。

 大正13年には長女朝子が誕生するも、妻たか子が結核で死亡し、自身も感染してしまいました。

 さて大正14年には外国製真空管の特性に関する報告書を電気試験所での業績として発表する一方で、多数の投稿を行うようになります。掲載誌は無線タイムズ、科学知識、科学画報、そして特に無線電話、無線と実験の2誌でした。科学技術の啓蒙的な記事が多いのですが、器用に漫画も描いていました。この無線電話誌こそは、恩師坪内信教授が主幹であったのです。

 ところが大正15年の2月に、坪内信教授が35歳の若さで、腸チフスで死去します。海野本人も同じ病気に罹患し、極めて苦しんだのでした。

二足のわらじ~その始まり

 海野十三が電気試験所の外の仕事に向かったのは、大学卒業資格が影響していたとの説があります。要するに同じ大学卒ということになったとしても、やはり帝国大学出身者とは明確な格差があったと言われています。いくら業績を積み上げても、電気試験所での栄達は絶望的なわけです。

 一方3歳年上である江戸川乱歩の作品にほれ込んで、彼の世界にのめり込んで行きました。

 さて昭和2年(注:大正15年の翌年ですぞ)に延原謙が「あざみの花」で新青年誌作家デビューをするのですが、彼は海野の5歳上の電気試験所の上司でした。延原はすでにコナンドイル等の翻訳家としての業績を積んでいました。一方海野の方は、恩師が残した無線電話誌をSF誌への舵切をし始めます。無線電話3月号掲載の「遺言状放送」、4月号の「三角形の恐怖」などの作品を世に問うたのでした。特に「遺言状放送」は核の恐怖に先駆的に触れている点が評価されています。それも核の平和利用の恐怖だからです。

 その延原謙が、昭和3年に新青年誌の編集長、横溝正史に海野の作品を紹介しました。横溝の回想録によれば「しゃっくりをする蝙蝠」という電気試験所の機関誌に掲載された作品であり、今日では失われているといいます。一方延原の回想では「三角形の恐怖」であるといいます。まあ、両方ということにしておきましょう。

 そして「電気風呂の怪死事件」(新青年4月号)で本格的に作家デビューをしました。所がこれが事件となります。作品の冒頭には海野十三というペンネームがあるのですが、目次を編集する段階で、担当者が「編集長、あの電気風呂の作家の名前は何でしたっけ」と聞くと、横溝が思わず「そりゃあ、佐野昌一君だよ。」と本名を言ってしまい、目次に本名が載ってしまったのです。これが電気試験所でばれて、上司からさんざん叱られたと言います。官庁ですから、副業禁止は当たり前のことです。

 しかも副業であること以上に、この犯罪小説の中身も問題でした。公衆浴場で当時流行していた電気刺激を与える風呂に仕掛けをして、男性を感電・卒倒させるところはまだしも、犯人の真の狙いはその混乱に乗じた、女風呂での愉快殺人であり、全裸の女性が苦悶のうちに死に至る様子を天井裏から高速度カメラで撮影するという、何ともエログロなものでした。当時の時代趣味に迎合したものとは言え、官吏が書くようなものでは無かったのです。

 どももっと電気試験所を怒らせることがありました。実は試験所で実際にあった感電事故を下敷きにしていたからです。これが一番まずかったに違いありません。

 でももしも叱責した上司が延原であったなら、ふたりは結構芝居上手だったのでしょう。

 しかし、何と延原謙は新青年の10月号から3代め編集長に転じました。電気風呂事件は、むしろ延原をこそ、電気試験所を離れる決心に導いたのかもしれません。

二足のわらじ~絶好調期

 昭和5年に、最初の単行本である「麻雀の遊び方」を博文館から上梓します。実は彼は麻雀好きであって、ペンネームもそこに由来しています。本当は緻密に観察と分析を加えながら打っているのに、打ち方を問われれば運が全てさ、運が十さ、と答えていたと言います。でもこれって真実ですね。いくら努力をしても、時代という大きな波には誰も抗することはできないという意味で。でも十が全てとまでは言っていないので、十までは運であっても、自分で十一や十二に拡大していけばいい。私は「運が十だが、あと三を自分で開拓するのさ」という意味に、勝手に彼のペンネームを解釈しています。

 この本は、実は結婚資金ねん出のためで、神埼英(えい)と再婚しました。

 さて本稿では、海野の大量の作品の中から、私が気になったものを好き勝手に選択して言及しておりますので、名作が網羅されているわけではないことを、予めお断りしておきます。

 昭和6年に新青年誌11月号に「振動魔」を発表しましたが、江戸川乱歩はこのような傾向を「空想科学小説」と名付けたと言います。空想科学小説というと、何となく子供向けの作品を想像しますが、この「振動魔」はあらぬ関係でできた胎児を、振動共鳴装置を使って堕胎するという、これもエログロなものでした。

 昭和7年の「空襲葬送曲」(朝日5~9月連載)は日米開戦の近未来小説であり、時代の空気を敏感に読み取ったものでした。前年の昭和6年に満州事変が勃発し、昭和20年の敗戦までの、後に15年戦争と言われる一連の時代の始まりでした。

 昭和9年の「三人の双生児」(新青年9,10月号)は何とも不思議な題名ですが、これは彼の生まれ故郷である徳島の土地を舞台にしており、地元ファンには必読の書です。実際に海野には右一、左一という早世した双子の弟があったといいます。それに加えて医者の家系という背景があっての作品ですが、人体実験の恐怖がテーマでした。実世界では、昭和7年にあの731部隊の前身である防疫研究室が開設されています。そこまでは海野も知らなかったでしょうが、時代の雰囲気は確かにそうだったのです。

 昭和11年は二二六事件とベルリンオリンピックがあった年ですが、「難産のテレビジョン」(新青年誌11月号)はテレビの啓蒙的な作品でした。日本でのテレビ開発は大正15年12月25日(大正時代最後の日)に浜松工業高校の高柳健次郎がブラウン管に「イ」の字を表示させて以来、NHK技術研究所などで開発が進められてきましたが、昭和14年(1939年)に実験放送を開始します。正にその直前での作品でした。またラヂオ科学に連載した「地球盗難」は最初の科学長編小説です。

 昭和12年の「蠅男」(講談雑誌1~10月号)では人体改造と倫理の欠如をテーマとし、「十八時の音楽浴」(モダン日本増刊4月)では国家的なマインドコントロールを描きました。これはオーム事件の予言とも言われています。そしてあの啓蒙書、「おはなし電気学」(明治書院10月)が発刊されました。

 昭和13年の「浮かぶ飛行島」(少年倶楽部1~12月号)は英国の超大型航空母艦を爆破撃沈して日本の制海権を確立する話です。米国では日本で言う昭和16年末からの太平洋戦争を、Carrier War と言います。要するに航空母艦戦争です。航空母艦が制海権、制空権の要となることを予見していたものでした。

 そして海野十三は電気試験所を辞職しました。17年間の勤務であり、権利化された特許は300件以上であったといいます。

第二の人生~専業作家として

 専業となると、従来よりも長編もの連載ものが増加しますが、この時期の特徴として少年向け長編が多くあります。先に紹介した「浮かぶ飛行島」に続く次の作品群でした。

「怪塔王」(東日小学生新聞;昭和13年4月~12月)
「太平洋魔城」(少年倶楽部;昭和14年1月-12月)
「火星兵団」(東日小学生新聞;昭和14年9月~15年12月)
「怪鳥艇」(少年倶楽部;昭和15年1月~12月)
「地球要塞」(譚海;昭和15年8月~16年2月)
とくに400回もの連載であった「火星兵団」は、当時12歳くらいの手塚治虫が夢中で読んだといいます。

 昭和16年の「人造人間戦車の機密」(新青年6月号)は、100体の人間型ロボットが合体して戦車を形成するという、合体戦隊ものの走りでした。100万体を量産し、1万台の戦車隊とするという計画です。目的地までは標準化されたロボットが自律歩行で進むので、少々消耗しても残ったロボットで戦車が構成できます。これは強い。

 そして12月8日のパールハーバー、日米開戦の日を迎えました。

 戦争は総ての人々を巻き込まずには置きませんでしたが、海野十三にとっても大きなものでした。

 さて、この開戦を遡る秋のある日に、郵便で白紙(徴用令状)が届き、翌日に海軍省に出頭すると、海軍報道員を命じられました。

 その後は何もなく過ごしていると、昭和17年元旦に電話があり、翌2日に東京駅を発って、4日に海軍報道班員として大阪港を出発し、パラオ、トラック島を経由して、ニューアイルランド島カビエング攻略戦に同伴しました。その次はニューブリテン島ラバウルに、その後も転戦しますが、火山灰を吸って肺結核を再発し、またデング熱で衰弱し、5月には内地に返送されました。その後、共著ですが海軍報道班作家前線報告として、12月に「進撃」、翌年2月に「闘魂」を博文館から出しています。

 健康を、海野は戦争で大きく損なったのでした。

第二の人生~敗戦日記の日々

 海野十三の2冊の日記は、彼の死後に妻の英から提供され、橋本哲夫氏が「海野十三敗戦日記」として編集し、世に出したものです。橋本氏は学生時代に海野に師事し、昭和23年から毎日新聞に入社して、後にフリーライターになった方です。彼が「愛と悲しみの祖国に」として単行本の編者あとがきを書いていますが、その一部を以下に引用します。

 海野の死後のある日、橋本氏が海野宅を訪ねると、英夫人が神棚からホコリだらけの二冊のノートを取りだしてきた。「これは海野の日記です。死後そのままにしてあったのですが、読んでみてください」と。

 手にとってみると、 1冊は「空襲都日記」(昭和19年12月7日~20年5月1日)、もう1冊は「降伏日記」(昭和20年5月2日~20年12月31日)と表紙に書かれていた。戦争中のノートだから、粗末なザラ紙を綴じたもので、現在のような日記帳の体裁ではないが、そこにエンピツで、戦時下の一日一日の身辺のできごとが、克明に記るされていた。

 内容は、首都東京がB29の空襲を受けた初期から、焼夷弾に焼かれてみるみる焼野原になって行く光景や、空襲下の生活、戦況、敗戦による混乱、食糧事情、自分の病気のこと、物価、作家仲間との交際、家族へのひたむきな愛情などが記され、ところどころには、自筆のさし絵までついている。

 これは一市民の立場で、国家の存亡を主体的に記録する意思をもって書かれたものです。忠実な国民として日本の勝利を願い、従軍報告や戦意高揚的な作品を書く一方で、軍人の考え方には違和感をおぼえ、この戦争の行方をSFの形で問い続けた作家として、この戦争の責任を自分でも負うべきとの強い自覚があったと読み取れます。寺田虎彦が関東大震災で個人的な現場での情報を収集したように、自分をセンサとした定点観測を試みたものと理解します。しかしそれは血も涙もあるセンサでした。

 海野十三は何と昭和16年の1月に、自宅の庭に大きな防空壕を掘りました。日米開戦の11ヶ月も前です。近所の人々は一体何だろうかといぶかるのですが、海野は首都が空爆を受けることは避けがたいと考え、各人が防衛の手段を講じるべきことを身を持って示したものでした。

 すでに昭和13年に「東京空爆」という小説で燃えやすい材料の建物でできた東京が無残にも焼け野原にされる様子を予言しました。これは大衆雑誌「キング」(講談社)に掲載され、ラジオ科学者から単行本として出版されました。両社とも全く改変を求めずに、海野の原稿のまま掲載したということで、この作品の持つ警告の意味を理解していたと思われます。しかし果たして、この作品は大本営海軍報道部の目にとまり、呼び出されてひどく叱責されました。軍の言い分は、「帝都上空には、敵機は1機も入れないのだ」ということです。この偏狭な連中を相手にしていても始まらない。自分でできることをして、一人でも多く救う他にないと、海野は腹をくくりました。

 さて、焼夷弾におびえながらも、懸命に立ち向かう人々に同情し、被災には憤り、敵機の撃墜には素直に喜ぶなど、そこには何の飾りもない市井の人の視点が書かれています。毎夜の空襲でみんなが絶え間ない寝不足と高揚感の中で、したたかに生きる市民のゆとりも感じることができます。しかし、その調子が変わるのが広島の原爆投下からです。その被災の様子から、原爆と考えました。8月10日の新聞に、トルーマン大統領演説として確かに原爆であることが報道され、海野は自分の理解の正しさを知りました。ソ連が8月9日の未明に満州国国境を越えて対日参戦したことも、なぜこのタイミングであるかを理解できました。日本は完全に負けたと知り、海野自身が恐れていた未来が現実になってしまったのです。しかも原爆投下という人類史上初の行為を、一片の事前通告もなしに実行したのでした。

 (米軍は広島上空で数日前からビラまきをしていて、今後投下する新型爆弾には未曾有の破壊力があること、今から避難するものは救われるであろうことが書かれていました。しかし日本軍はそのビラを回収し、またその内容を隠し、読んだものには米軍のデマに惑わされるなと叱責しました。これを海野が知らないのは当然でした。このビラは米軍が、事前通告をしたとの国際的なアリバイ作りで撒いたに過ぎません。ローカルに巻かれたビラがどう判断されるかを冷酷に予想してのもので、実質的な不意打ちであったことの確たる証拠です。なおこのビラは広島の平和祈念館に展示されていましたが、いつからか見かけなくなりました。)

 海野は10日の日記に「戦争は終結だ。」と書きました。首都上空に米軍機1機の飛来があれば、原爆投下の可能性を思い、「警戒を要す」との放送があり、都民はくたびれ果てていました。既に和平に向けての動きがあることを、新聞報道の行間と、友人たちの口コミから感じていた海野は、12日に「その話」を妻に問い、そして子供達にも問いかけました。翌13日にも意志を確認し、立派な毛筆の文字で遺書をしたためました。近所の主治医である村上勝郎医師のもとに青酸カリをもらいに行くのですが、「いつだって死ねるから、もう少し待て。薬はちゃんととっておくよ」とくれない。14日には従軍作家仲間と出会って、彼らのルートの情報で敗戦の事実を知ってしまいました。そして15日の玉音放送ですが、一日中身辺整理をしていて、くたくたに疲れ果てて寝てしまいました。すると16日には友人達が来て、その話が無いように親身で諭しました。海野がライカでも何でも高価なものを気前よく人に呉れて、夫人が一番良い着物を着ていて、子供達がとっておきの食料をぱくぱくと食べていたので、これではその意図がバレバレです。こっけいで、こっけいで、泣けてきます。

 一家自決は避けたものの、8月26日の日記には「海野十三は死んだ。断じて筆をとるまい。口を開くまい。辱かしいことである。申訳なき事である」と書きました。ラジオではころっと態度を変えた文化人などが陽気にしゃべっています。何という違和感か。

第二の人生~そして死

 人の死を書くのは、たとえそれが過去の事実であってもつらい。

 昭和23年の春のある日、横溝正史の御子息が訪問してきました。東京の大学に入学した挨拶のためです。正史が岡山に疎開したままで、帰るに家が無いことを知り、おとうさんに家を買うようにすすめなさいと、タンスから現金を掴みだして渡したといいます。昭和21年の新円切り替え後に、どうして大金を持っていたのでしょうか。それで横溝は成城に家を得て帰京しました。

 敗戦の年の秋からぶりかえした喀血が続きます。

 この頃の作品に、「怪星ガン」(冒険少年;昭和23年1月~24年3月)があります。一時筆を折ろうとしながら、戦後も数々の原稿依頼に応えている中で、冒険少年からの依頼は格別のものがあったといいます。そして「怪星ガンは当たった」、とは挿絵担当の小松崎茂氏の言葉です。この話は地球の金星探索船が異星の高度な文明に遭遇するのですが、最後にはより強大な他の文明により滅ぼされるという、弱肉強食の世界を示しています。

 この連載完了直後の昭和24年5月17日に、海野十三は帰らぬ人となりました。

科学技術の運命

 海野十三の人生を辿ると、濃密な人間関係に気付きます。彼が早稲田で坪内進教授に出逢い、電気試験所で延原謙に出逢うという偶然は一種の神の導きかもしれませんが、海野はあらゆる人との出会いを重んじ、尊重してきたように思えます。早世した坪内教授の御子息は、戦時中も正月の挨拶に海野邸を必ず訪れていました。横溝正史の御子息も訪れています。このような世代を越えた付き合いもできたのです。

 そればかりではありません。従軍作家として戦地に赴くと、従軍記者という方々もいて、両者は似て非なる存在であるがゆえに、どうしても軋轢を生じるもののようでした。そこでも海野は人間性を発揮して、部隊での人の融和を図っていました。他の作家達は部隊を移ると、その違いを大いに感じたようです。

 もちろん、編集者の信頼を得ることも大でありました。「電気風呂の怪死事件」も、新青年誌の横溝編集長の要望に沿ったもののようです。編集方針通りに書けるというのは、流行作家に必須の資質です。当時はSFというジャンルが存在しなかったので、まず書ける場所が必要でした。新青年は海野の恰好の活躍の場になっていきました。

 編集長の信頼とは、①編集方針に即し、②品質を維持し、③原稿納期を守ることです。原稿依頼をした以上、①と②は編集長にも責任があるのですが、③だけは本人の事情であり、書きあがっていれば、問題個所の訂正もできるのですが、納期通りに書けていないと手の下しようがありません。ざっと海野の資料を見る限りは、連載を落とさずに書いていたように見えます。そうであれば、これほどの信頼はありません。

 そのような誠実な科学者であった海野十三の問題意識は、日本の科学技術の後進性でした。彼の描く宇宙人や欧米の軍隊は、かならず装備が優越していました。また彼の描く戦争は、防衛戦であり、侵略では無かったことも特徴です。

 祖国防衛のためには科学技術力の向上が必須です。海野は作品としては描きませんでしたが、電気試験所の仕事を通じて経済の発展にも科学技術力が必須であることを知っていました。一方で、それは侵略の道具ともなり、行きつく先は人類滅亡であることも明白でした。この科学技術の持つ二面性を世に問うことが、彼の使命でした。

 徳島中央公園にある「海野十三文学碑」には、江戸川乱歩による賛辞の横に、海野による次の文章が刻まれています。これは「地球盗難」を書いた作者の言葉の一部です。私たちはこの課題から目をそむけることが、益々困難な時代に直面しています。

 全人類は科学の恩恵に浴しつつも、同時にまた科学恐怖の夢に脅かされている。恩恵と迫害との二つの面を持つ科学、神と悪魔の反対面を兼ね備えている科学に、われわれはとりつかれている。かくのごとき科学時代に、科学小説がなくていいであろうか。

――海野十三(昭和十二年)

以上

主な参考文献

  1. 海野十三の会(徳島市)編;海野十三メモリアルブック、先鋭疾風社(2000.5)
  2. 海野十三著、橋本哲男編;海野十三敗戦日記、中央公論(2005.7)
  3. 小松左京、紀田順一郎監修;海野十三全集(全13巻、別巻2)、三一書房(1988,7~1993.1)
  4. および付録の海野十三研究、特に「長山靖生;デビューまでの海野十三」

  5. あおぞら文庫(http://www.aozora.gr.jp/

 

社会人を始めた頃の海野十三を想像してみました。<海野十三像>
社会人を始めた頃の海野十三を想像してみました。
<海野十三像>

 

遭難した「宇宙の女王号」救援に飛び立つ救援ロケット艇の想像図。流線型の巨体、後部に16本の噴気管、頭部の操縦室は半球形の透明壁、最新型の原子力エンジン、10台の編隊、これを形に描くと結構難しい。<救援ロケット艇想像図~怪星ガンより>
遭難した「宇宙の女王号」救援に飛び立つ救援ロケット艇の想像図
流線型の巨体、後部に16本の噴気管、頭部の操縦室は半球形の透明壁、最新型の原子力エンジン、10台の編隊、これを形に描くと結構難しい。
<救援ロケット艇想像図~怪星ガンより>

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

1月 10 14

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第10回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第10回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 16世紀にはイタリアを中心に古代(ギリシア・ローマ)の学問・知識を復興しようとするルネサンスが起こりました。 “100年に一度” とよく言われますが、歴史から見える景色は16世紀以来の “500年に一度” というパラダイムシフト。当時は大きな価格革命が起こり、穀物は6-8倍、衣類も2-3倍に跳ね上がったとのこと。イタリアでは土地バブル、オランダでは有名なチューリップ・バブルも起こりました。歴史の教訓からいくと、20世紀は “秩序” を前提とした社会といわれますが、21世紀は “混沌” が定常化しそうな雲行きです。 “秩序” が前提の場合にはアルゴリズム志向(論理を重視した型通りの手順による仕事)が強みになりましたが、 “混沌” の世界ではヒューリスティクス志向(柔軟性や創意工夫が求められる仕事)が当たり前になりそうです。すべてを再定義し、独自のロジックを創り出すしかありません。16世紀に比べて情報量が1万倍といわれる21世紀型のルネサンス人材には、サーチング(検索・蓄積)よりセンシング(感度・感性)、モノのデザイン力より精神のデザイン力が必要になりそうです。梁塵秘抄では “我等は何して老いぬらん、思へばいとこそあわれなれ、今は西方極楽の弥陀の誓を念ずべし” とあります。生老病死は避けられないが、ただ阿弥陀如来に祈るのでなく、日常空間が重層的になり日々変貌していく覚悟をもてということでしょうか。 “いつも非日常” であるのが日常ということですかね。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

私の望むのは少数とともに闘うの意地である、との強い思いは思想家の内村鑑三
意地という言葉は近ごろ聞かない 数十年後の評価を大事にする風土と関連する
意地を張るだけの志・夢は少なくなったが 人間社会は、意地をなくしたら砂漠
自分の中の本能・野生・才能を目いっぱい開放していく 孤立をやたら怖れない

 内村鑑三は、クラーク博士が指導に当たった札幌農学校の二期生でした。そこでキリスト教徒になりましたが、枠に囚われず、生身の人間としての本質を非常に大切にしたようです。 “少数とともに闘うの意地” という言葉は、著書の “後世への最大遺物” にあるものです。最近は企業でリベラルアーツ研修が盛んですが、この本を参考書に使うケースもあると聞きます。キリスト教徒であると同時に、 “お金・事業・学問” の価値や重要性を説き、その上で、富もない・事業手腕もない・学問もない人間にとっても、銘々が持つ主義に則った生涯を送ることができれば、それが最大の遺物・価値創造であると説きました。 “僕を悩ますのは人々の各々の中にある虐殺されたモーツアルトだ” と書いたのは “星の王子さま” の著者サン・テグジュペリです。自分の中の本能・野生・才能を目いっぱい開放していくことこそ命。一日生きることは、一歩でも自力で前へ進むことでありたいですね。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

鬱は暗いイメージがあるが、うっそうと繁るパワー
明るさは滅びるが暗さは滅びない、と作家の太宰治
目立たないことをしっかりやる 太陽の輝きは不要
マニュアルは明るさ それに頼らず裏の暗さを深耕

 3.11のあと、思想家・評論家で、作家・吉本ばななのお父さんである吉本隆明は、新聞紙上で太宰治が書いた “右大臣実朝” にある “明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ” を引用して、暗闇の中でうめき声をあげている被災地及び日本全体を鼓舞しました。暗いうちはまだ大丈夫、明るくなってくる時こそ危ないというわけです。特に、上っ面の明るさや空元気だけでは、高度で複雑化したこの社会を生き抜くことは困難です。沈金・沈黒という言葉があるように、暗く深く沈むことは今こそ大切なのかもしれません。真黒というより赤または黄を含む黒色である “玄” 。玄は空間・時間を超越し、天地万象の根源となるものを意味するとのこと。人生の各年代(ライフ サイクル)である青春・朱夏・白秋・玄冬の玄でもあります。玄冬の玄は寂しく幽(かす)かなもの、幽かに明るい黒。多くの宗教や哲学が寒冷の時期に生まれるとの説からすれば、もう一段深いところへ進む第一歩にしたいものです。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

魚ではなく、魚の釣り方 お腹は膨れるが、食べるとそれまで
講義、教科書の単なる解説ではなく 脱線する裏表の話に妙味
どんな時に失敗、成功 教科書にない発想、裏ワザ、けもの道
多様な切り口の蓄積こそ人間の厚み 方法論や型を乗り越える

 目に見える身近な結果ばかりを求めがちですが、それは一回限りの満腹感。永続的な成果を得るためには、継続的に手にできる術を “習慣化” する必要がありそうです。教科書は基本動作の学習。現実への応用動作の修得には生産的な無駄や創造的な失敗が不可欠。最後には自然なものが残り、不自然なものは消えるということでしょうか。知識社会では、人間とコンピュータによる課題の発見・設定・解決・展開が肝。限られた人間世界だけで考えていると、だんだん狭い領域に煮詰まっていきかねません。それをブレイクするには、第三者やコンピュータが示唆する異質な視点や切り口を取り込む度量も求められそうです。けもの道とは、やみくもに森林内を行き来するのでなく生死のぎりぎりを生き抜く独自の生命線。そこを利用してけものに種子を付着させたり、果実を食べさせて種子を運ばせる植物の戦略的したたかさ。表面の写実だけがすべてではないこの世界。 “写実に対する暗示” の深淵を指摘したのは岡倉天心です。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(七)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第10回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(七)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など
1月 10 14

書評 「感動のつくり方」 フォレスト出版 平野秀典 著

by staff
 

 プロローグのページが空色という演出でこの本ははじまります。
 「人は感動で動きます。」
 「どんなに辛いことや消えてしまいたいことがあったとしても、一つの感動体験でもう一度前を向いて、歩き出そうと思うことが出来ます。」
 「たった一度の涙を流すような感動体験で、上を向き、忘れていた青空の美しさを思い出すことができます。」

 この約一年、龍を見つけると幸運が訪れる、という話を聞いて空を眺めていることの多かった私には、この「青空の美しさ」にとてもひきつけられました。平野さんは続けます。

 「継続的に感動を創り続けるコミュニケーターはアーチストです」

 今回の紅白歌合戦でよかったと思える場面は、曲がいいというだけでなく、メッセージがしっかり発信された歌手のものであったと思っています。人生が舞台であるとすれば顧客も共演者ととらえることでドラマが生まれる。今回で紅白を卒業するという発言を、聞き手の私たちは「そこに立ちあったもの」のように感じていくのです。

 この著書のなかでもっとも感動したのはアーチストの事です。

 「20世紀は戦いの世紀といわれました。競争相手に対して使う”戦略”"戦術”はいいとしても、顧客に対してなぜ戦争用語を使うのか」とのことです。アーチストは感動を創りあげている。そのことは私たちの仕事とおなじことではないかと思います。

戦略を物語、すなわちStoryに
戦術を演出、すなわちProduceに
戦闘力を演技力、すなわちPerformanceに
この三つをメイクドラマ三点セットと提案されました。

 ビジネスに戦争用語を使うのは時代錯誤なのだと言い切ります。

 ストーリーを作る時は三幕構成で、それぞれの幕のなかにさらに三幕の展開をつくることを繰り返し、物語を紡いでいくことだと。その三幕構成は「序破急」「朝昼晩」「出会って、恋して、結ばれる」「生まれて、生きて、死ぬ」「始まり、中、終わり」であり、起承転結でいうと転結を一緒にする。起承転結での四部構成では、スピード感ある現代にむいていないというのです。演劇的ストーリー技法の中では「おや?まあー!ヘエ~」とスリーインパクトとよばれるそうである。「問題点の提示、解決策の提示、証拠提示」すなわち「つかみ、メイン、クライマックス」となります。この場合のポイントは「最も大事なことは、物語のラストシーンを先に決めることです」

 ウォルト・ディズニーが主人公にしたのは、間違いなく「人」でした。それは、キャストと呼ばれる社員であり、最高の笑顔で遊ぶ、世界中の子供たちと大人たちとのことです。「人を主人公とすると、弱さまでもが、共感されるエネルギーに変化します。失敗談や試行錯誤、悩みや葛藤、弱さを描いて多くの人々の共感を得たのがNHKで放送されたプロジェクトXというドキュメンタリー番組でした」

 次には商品やサービスの持つ魅力を詳細に描写するプロデュースはどうするかです。

「感動したという状態を、別の言葉で表現すること」
「感動できる素敵な言葉にであったら、記録し、口に出して何度も練習すること」
「観客の声も、ストーリーに取り入れるべき最高の素材です」
「決意は、印象的な言葉に置き換えて伝えると、聴き手の記憶に残ります」

 データをいれ、明るさも必要といいます。そして一つの詩を紹介しています。

   「輝かせて輝く人」
自分だけが輝くと まわりに影が出来る。
まわりの人を輝かせて その明かりで自分が輝けば まわりに影はできない。
自分の存在で まわりの人を輝かせるのが 本物の一流。

 最後に二つのことを引用しておきます。

 「シンプルは複雑よりもたいへんだ。努力して考えを整理しないと、シンプルにすることはできない。」

 「他人を演じることは、プロの俳優に任せて、私たちは、自分自身を演じ切ろう。
 大丈夫。共感を表現することで、人は人の愛を知る。
 大丈夫。商品を豊かに表現することで、人は仕事の成功を実現する。
 心が震えるほど豊かに表現しよう。
 あなたの輝きを待っている人がいる。」

 Story物語づくりの年がはじまりました。知ると云う事は実践することだと考えています。早速物語作りです。暮れに書店でこの本に偶然出会いました。不思議な縁に驚いています。

(文:横須賀 健治)

 

 

1月 10 14

第7回 オー・マイ・モトマチ・ライフ イギリス館の様子をご紹介します

by staff

横浜元町&山手が一番ロマンチックで華やかになるのは冬。
毎年12月には山手西洋館がクリスマスコーディネートで全館飾られます。
しばし異国のクリスマスシーズンにタイムスリップしたような感覚になれるのがこの季節の山手です。
今回はイギリス館の様子をご紹介させて頂きます。

第7回 オー・マイ・モトマチ・ライフ イギリス館の様子をご紹介します
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港の見える丘公園内に佇む横浜市イギリス館は、英国領事館公邸として1937年に竣工しました。
コロニアルスタイルというこの建物は、上海で英国人技師により設計されたものです。
こちらの写真は素敵なクリスマス飾りの正面玄関になります。
玄関左側に1937年ジョージ6世時代を示す「GRVI1937」と記した紋章があり、創建当時を偲ばせているとのこと。
そういえば今年誕生された新しいロイヤルファミリーのお名前もジョージ様でしたね。

第7回 オー・マイ・モトマチ・ライフ イギリス館の様子をご紹介します
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館内2階では、イギリスにちなんだ美しいテーブルコーディネートがご覧になれます。
2013年のテーマは「~極上のひと時を心に刻んで~」
日英交流400年という歴史やロイヤルファミリーが持つ伝統への敬意を、気品に満ちた品々で表現されていました。
ちなみに前年はタイタニック一等客室を甦らせた豪華なテーブルコーディネートでした。
毎年違った趣向で飾られますので、これからも楽しみに待ちたい行事です。
ここでは載せきれませんが、その他エリスマン邸(チェコ)、ベーリックホール(オランダ)、外交官の家(スウェーデン)、ブラフ18番館(ノルウェー)など、各国のクリスマス飾りを観て回ることができます。どの館も無料で見学できるのは有り難いです。

第7回 オー・マイ・モトマチ・ライフ イギリス館の様子をご紹介します
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ベッドルームや書斎等、それぞれの部屋にも豪華な飾り付けがなされています。
観るだけでもワクワク楽しめます!
山手西洋館では毎年6月と12月にこのようなイベントが開催されていて、特に女性の皆様にとても楽しみにされている催しです。
今年も是非この季節は横浜山手へ遊びに来てください!
横浜市イギリス館・・・横浜市中区山手町115-3

第7回 オー・マイ・モトマチ・ライフ イギリス館の様子をご紹介します
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場所は変わって、こちらはみなとみらいのクリスマスイルミネーションのひとつ。
ホテルナビオス横浜から桜木町駅へ続く、汽車道の風景です。キャンドルライトが可愛く美しかったです!
山手から赤い靴号に乗って終点の赤レンガ倉庫へ。
スケートリンクやドイツのクリスマス風景ありの赤レンガ倉庫から歩いてくると、クリスマスの雰囲気を存分に味わえます。
大人の雰囲気の静かな山手と違って、こちらは若い人たちで大賑わいでした!

第7回 オー・マイ・モトマチ・ライフ イギリス館の様子をご紹介します
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さてこちらは、パリ好きな私が嬉しくも横浜でパリを感じるお店です。
みなとみらい線日本大通り駅の上、横浜情報文化センター2階にある「CAFE de la PRESSE」
この日は仕事納めの方々でランチの時間は満席!!
フランス人パティシエが作る本場の味のマカロンが大好きで、買い物ついでにランチを頂きました。
手作りハンバーグランチのお値段は1000円。+200円でデザートが付きます。

第7回 オー・マイ・モトマチ・ライフ イギリス館の様子をご紹介します
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このカフェが好きなお友達に言わせると、こちらのクロックムッシュはパリで食べたものと同じ味がするそうです。
窓辺から見える景色も、高い天井も、雰囲気全てがパリのカフェのようです。
本当は静かにまったりと本でも読みながらカフェを頂きたい場所ですね。
贅沢に時間を過ごす時にどうぞ♪
「CAFE de la Presse」・・・横浜市中区日本大通リ11番地(定休日・月曜日)

歴史は浅いけれど開港の町、YOKOHAMAは異文化の集まっている貴重な街。
そして日本に居ながら気軽に異国情緒を楽しめる街です。
2014年もたくさん横浜へ遊びに来てくださいね。
今年もどうぞよろしくお願い致します。

 

レポーター プロフィール

Yuu  Adachi  

Yuu Adachi

Gallery1223 あいお☆らいと代表
2008年より山手・汐汲み坂、みなとみらいのワールドポーターズで画廊を経営。
現在はアート全般の企画展や個展のプロデュースを手がけつつ、元町を拠点にフリーのギャラリスト(画商)として活動中。
趣味は読書と映画とfacebook。
好きな食べ物は、バゲット(フランスパン) 大好きな都市はParis。
好きなことは妄想ー「夢を見ることにお金はいらない」
典型的なB型気質&真面目な山羊座☆
 
HP http://www9.ocn.ne.jp/~aiolight/

 

1月 10 14

本物のじじい

by staff

 

あけましておめでとうございます

 新年あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。

 昨年は、皆さまのお蔭で保土ヶ谷宿名物会も、地元保土ヶ谷をはじめ例年以上に数多くのイベントに出店させていただきました。改めてお礼を申し上げます。

 活躍の場をたくさん多くいただけたことは感謝の一言につきますが、一方で、あまりにもイベントのスケジュールに追われ、それだけで終始してしまったところも否めません。

 そこで本年は、前回、こちらで書かせていただいた通り、「名物とは何か」ということを振り返りつつ、また、「地域活性と販売促進」という名物会の原点に立ち返り、地元の名店5店が集まっている意義、そして私たちだからこそできることは何か、を考え実行していく年にできればと考えています。

 もちろん、これまで通り、各イベントに出店させていただければありがたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

「本物」でなければ名物にはなれない

 先日、保土ヶ谷宿名物会の会合で「名物とは何か」について少し議論をしてみました。その中で、とても興味深い意見が出てきました。ここ数年、B-1グランプリなどの影響で、地域の歴史や特性を活かしたユーモアのある商品がたくさん出てきた。それはとても良い事だと思うけど、本当に「名物」にまで育っていくためには、テーマが面白いだけでは不十分。やはり美味しさ、つまり品質が良くなければいけない。

 なるほど。さすがです。
 名物会の各店は、この会ができる何十年も前から保土ヶ谷で商いをしてきた一流の職人・商人たち。この人たちの口から出ると、リアリティが違います。
要するに「本物」でなければいけない、ということですね。
そこで、今後の保土ヶ谷宿名物会のテーマ案が浮上しました。

 「俺たち、本物のじじい!」

 如何でしょうか?
(ちなみに、考えたのは私ではありません)

 一方、反対に言えば、地元の名物となるためには、品質が高いだけでもダメ、ということにもなります。「保土ヶ谷宿の和菓子」「保土ヶ谷宿のそば」「保土ヶ谷宿の鮓」「保土ヶ谷宿の酒」「保土ヶ谷宿のせんべい」とは何か? 他とはどう違うのか? 保土ヶ谷宿ならではの価値ってなんだ?ということを今後も追及していきたいと思います。

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

1月 10 14

第18回 建築家の選び方
--AA STUDIOプロデュース2物件紹介から

by staff

A.A プランニング/一級建築士事務所
代表 青木恵美子

 新年あけましておめでとうございます。
 今年も建築家ギャラリーAA STUDIOは、みなさまのすまいづくり、暮らしづくりを共に育む所存でございますので、よろしくお願い申し上げます。

 今回は昨年年末にAA STUDIOプロデュースの2物件が完成しましたので、「建築家の選び方」に焦点を絞りその経緯をご紹介します。

 一物件目は先月の投稿の「都会に住み続ける」住宅で、年末完成見学へ参りました。

 設計者である荻津郁夫氏から先月ご報告がありましたように、敷地は都会の雑踏や喧騒と隣り合わせで、周囲は10階建てのビルに囲まれた都会のど真ん中で、築50年以上の補強コンクリートブロック造2階建のアパートを所有されているクライアントが、ご自分が生まれ育ったその場所にこれからも住み続けると決断され、2012年5月AA STUDIOの「建築家と話そう」にご相談にいらっしゃいました。

 既存建物であるアパートの存在と活用方法等に悩まれていたため、すぐに私が現地に伺い、3名の建築家との面談コース(無料)をご提案しました。

 3名の建築家との各自1時間弱の面談は法規や予算建てなど現実的な話、現存する建物を含めて活用など将来展望提案、イメージ提案など三者三様で、それぞれの個性が色濃くでてクライアント様は面談終了後ますます悩まれてしまいました。

 家づくりはただ単に住む為の条件を満足するだけでなく、今までの家族の歴史と将来の暮らしを育む、まさに現実と夢の創造です。そのすべてを建築家に委ねるのですから悩むのは当然のことですね。そして約2週間後荻津郁夫氏が今回の設計者に決定し、半年強の設計期間と既存建物改修補修を含めて10ヶ月程の工事期間をへて、2013年12月に建物は完成しました。

 見学をさせていただき、コンクリートの堅い殻で被いその一部を切り取ったような外観は「都会のど真ん中に住むための居」としての場所性の表現、さらに隣に50年の歴史を育んできた建物から周辺の街の歴史性の表現として「風景にとける」建物を感じました。

 二物件目は南箱根の別荘で、こちらも昨年末に完成し見学に参りました。

 こちらは2011年年末に第一相談がありました。一番初めのご相談は、設計料、既存建物解体、道路敷設も含めて1000万円で南箱根に別荘を建替たい、というご相談でした。あらゆるご相談に対応したい!というのが私の真髄ですが、かなり厳しい予算に私が悩み半年寝かせてしまいましたが、半年後の2012年6月に1500万円へアップを私からご提案し、クライアントからは可能でしたら是非!ということで再スタート。AA STUDIOメンバーに相談しましたら、チャレンジ精神旺盛の5名の建築家が設計料、既存建物解体、道路敷設も含めて1500万円 計画に手を挙げました。その中で2名の建築家による提案コース(1提案5万円)が行われました。提案コースは現地視察後、提案として平面図・立面図と模型によるプレゼンテーションです。実は予算から建築家依頼は無理だと判断していたクライアントは、私が手元に寝かせていた半年間で箱根周辺の3工務店に依頼していたようでしたが、プレゼンテーション修了直後に2建築家のどちらかに依頼したい意向表明されました。2建築家は真逆の提案で悩まれたクライアントは現地で夏休みを過ごした結果、今回は藤本幸充氏が選ばれました。建物だけで1500万円ではなく、設計料、既存建物解体、道路敷設も含めてという厳しい予算監理を経て完成した建物は、自ら塗装等を行いながらの設計監理の苦労を感じました。

 目の前に富士山をのぞむ絶景の中に佇んでいる新しい別荘は、勿論その場所性を最大限に生かす「風景にとける」建築である共に、以前の古い別荘にあった障子、欄間を新しい建物に取り入れるなど工夫を凝らして家族が育んできた家族の歴史を子孫に伝える建物でもありました。

 建築家に依頼することはまだまだハードルが高いことでしょう。しかし、とても難しい条件や予算の厳しい条件であるからこそ工夫が大切であるのでご相談ください。

 AA STUDIOでは、厳しい敷地条件-傾斜地、段差のある敷地、狭小敷地、旗竿敷地、大規模改修など積極的に対応致しますので、是非足をお運びくださいませ。

 

「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ

横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」15名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。

横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。

AA STUDIO ナビゲートサービス

中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談  無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案  ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)

AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051

AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)

青木恵美子 http://www.aaplan.com
新井今日子 http://www.arai1992.com
荻津 郁夫 http://www.o-as.co.jp
神田 雅子  
北川 裕記 http://www.aalab.com/kitagawa/
栗原 正明 http://msak.asia
河辺 近 http://www.ken-ken-a.co.jp
後藤 武 http://www.gtaa.jp
鈴木 信弘+洋子 http://suzuki-atelier.com
廣田 裕一  
藤本 幸充 http://www.kamakobo.com
古川 達也 http://furukawa-arch.com/
松井 理美子 http://www.matsui2ar.com
水口 裕之 http://homepage1.nifty.com/eau/
山口 賢 http://www.amarterrance.com

 

1月 10 14

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第19回 第4章 フォークからニューミュージックへ 5

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 5

シュガーベイブ

 ここで又、日本の音楽シーンを大きく牽引していく才能を紹介しなければいけないのが、前出の山下達郎で、その音楽性の確かさと奥深さは語り尽くせません。作詞、作曲、素晴らしい歌唱力、コーラス、楽曲のアレンジ、どれをとっても世界に誇れる才能だと思います。更にドラム、ピアノ、コンピュータープログラミング、又、日本で屈指のリズムギターの名手でもあります。テレビには一切出演しませんが、そのアルバムセールスはダントツで、又、ラジオの名DJで個人所蔵枚数6万枚をこえると言われるレコード、CDを自らの番組でかけてそのポピュラー音楽にたいする造詣の深さに啓蒙され、彼に心酔する音楽ファンは音楽業界にも数多いといわれます。正にスーパーマン的な音楽家です。

 東京に生まれ、アマチュア時代に作ったビーチボーイズのカバーなどを録音した自主制作盤が元はっぴいえんどの大滝詠一の目に留まり、大滝主催のナイアガラレーベルとの交流が始まる。1973年にコーラスグループ “シュガーベイブ” 結成。大滝氏のバックコーラスや自分達のオリジナル作品などで精力的に演奏活動を始める。前にも書きましたがC、Aマイナーなど単純なコードで作られる音楽作品ばかり世にあふれる中で、メジャーセブンや分数コードを使ったサウンドを独特のセンスで使っていました。又、当時にして斬新なアレンジは新しすぎてライブスポットなどでは一般受けせずかなり苦労したそうです。特に関西ではブルースやハードロックがもてはやされ彼らの音楽はそっぽを向かれました。

 1974年になるとシュガーベイブはユーミンの2枚目アルバム “ミスリム” からコーラスアレンジを担当、そのセンスと力量を発揮、コーラスの仕事も増えますがまだ食べるのに大変だったのでCMの仕事を多数請けおい食いつないでいたといわれます。(三ツ矢サイダーやイチジク浣腸まで!)CM業界とのつながりはこの頃から始まり今に至っています。1975年にエレックレコードからアルバム “ソングス” とシングル “ダウンタウン” 発表。一部で話題になりコアなファンを獲得しましたが、一般的にはヒットには至らず翌年シュガーベイブは解散してしまいます。

山下達郎ソロデビュー

 1975年にはソロとして活動を開始、アメリカで録音されたアルバムでソロデビューします。そしてこの頃オールナイトニッポンの2部にDJデビューも果たしています。

 77年には2枚目のアルバム “スペイシー” を出したり吉田美奈子とのアルバム製作、クールスのアレンジやプロデュースなど精力的に活動しますが、売れ行きは中々思うように行かずこれが売れなければ引退と覚悟して作ったアルバム “ゴーアヘッド” の中のファンキーな曲調の1曲 “ボンバー” が大阪のディスコから火が付き徐々にヒットしていきます。続く “ライドオンタイム” が大ヒットして山下達郎はブレイクしました。大阪と言えば4年前位にはそっぽをむかれた場所なのにそこからきっかけが生まれるなんて面白い話ですね。

 私自信はいまでは彼に心酔している一人ですが、一番最初に聞いたのは東京で働いている時、始発待ちの喫茶店のBGMでウィンディ・レディを聞いた時で、なんてシンプルでかっこいい曲なんだと思い友達から借りた六本木ピットインの2枚組みライブを聞いてすっかりはまってしまいました。

 バックにドラムポンタ村上やピアノに坂本龍一を従え歌うその歌唱力と楽曲の良さ。以前からすこしは存在を知っていてかじってはいたのにこれほど素晴らしいとは気付かずにいた自分を反省しました。でもこれが彼が早過ぎて時代がついてこれなかったという事なのでしょう。邦楽のアルバムに英語のタイトルが並んでいるだけで何となく聞く気になれない、そんな時代だったのかも知れません。この頃むさぼるように聞いたゴーアヘッドは今でもフェイバリットアルバムの一つです。

*大滝詠一さんは、2013年12月30日に永眠されました。ご冥福をお祈りいたします。

 

横浜、街と風(私の高校音楽編) 5(20)

卒業

 失恋のショックも癒えず何をするにもやる気がない、バイトとバンドで疲れ気味で学校には中々行かなくなり3年の夏休みが終わるといよいよ卒業が危ういと先生に告げられます。父の仕事も上手くいかず経済的にも母をいつまでも入院させておくわけにも行かないと母は自宅に帰っていました。リハビリの効果もありこの頃は何とか壁ずたいに歩ける位には回復していましたがまだまだ半身不随のまま。看護と仕事で頑張っている父を見てると学校をなんとか卒業しないわけには行きません。

 この時の担任の入沢先生はときには頭を下げて各教科の先生の間を走り回ってくださり、こんな劣等性の自分を何とか単位を取れるようにしてくれました。がんばってなんとか出席日数を埋め補習やレポートの課題を必死でこなし3年の公式授業が終わっても確か卒業式ぎりぎりまで学校に行っていた様に記憶してますがその先生のおかげでどうにか卒業証書を手にすることができました、今でも心から感謝をしています。

乱闘

 卒業を目前に控え、バイトにもなれた頃、働いている店のオーナーが変ることになりました。前オーナーの親友でTさんという人でしたが、前オーナーの口利きでそのまま自分も居残りで働かせてもらえる事になりました。前オーナーが仕切る最後の営業日は引継ぎのパーティということになり、常連やオーナー達の友人が集まりバイト達にも酒が振舞われて無礼講の飲み会という感じになりました自分の友人も何人か来て奥で飲んでいました。夜も更けてそろそろお開きという頃、新オーナーが私に今ある椅子は買い換えるから壊して良いよといいました。こちらも酔っていたので「いいんですかぁ」なんていいながら椅子をけり壊したりしました。すると「じゃあ、弁償してもらおう、しめて××円ね。」耳を疑いました、「冗談しょう?」というと「本当だよ、給料から引いとくから」といわれ頭に血が上ってしまい酔った勢いもあったのでしょう、「ガキだと思ってからかっているのか!」とその新オーナーに向かっていき顔面にストレートパンチを入れました。それからはもみ合いになり殴り合いになりましたが新オーナーの友人達が自分を引き離し4人位で袋叩きにされました。ビンで殴りかかってきたのもいました。自分の友人達は止めに入ってくれましたが相手にならずその中の女の子が泣きながら見ていたのをおぼろに覚えています。やがて動けなくなると自分は本牧の路上に血まみれで放り出されていました、その後は記憶がありません。気が付くと全てが終わった店内に横になって昼のランチを任せれている女性スタッフに介抱されていました。しかし傷がひどく結局病院に行き、何針か縫ってもらいましたが今でも鼻の下と頭に数箇所傷跡が残っています。

 そのまま、バイトはやめることになり本牧で過ごした青春は終わりました。苦い思いでもありましたが本牧の町に対する思い入れは今も変っていません。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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1月 10 14

田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

by staff

♪田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:山部赤人 (やまべ の あかひと)

 現代語訳・・・田子の浦の海岸に出てみたら、真っ白な富士山が見えて、山頂には今も雪が降っているようだ。

 新年明けましておめでとうございます。やはり新春にふさわしい和歌といいますとこの歌が一番でしょう。真っ青な空に真っ白な富士山。掛け軸や絵葉書に出てくる富士山とこの一首はまさに日本人の持つ冬の富士山のイメージを代表しているような気がします。

 最近新幹線に乗る機会が増えて、岡山と新横浜間をよく往復します。そして座席から富士山を眺めるのですが、世界遺産に登録されてから心なしか輝きが増したような気もして・・。晴れた日などは本当に美しくて、つい毎回シャッターを切ってしまいます。

 この歌は、万葉集に山部赤人のオリジナルの首が残っていて、原文だともっとクリアに山の頂に雪が降った後にその真っ白い冬化粧をした富士山を見て歌っていることが理解できます。百人一首の方では藤原定家がちょっと手を加えています。オリジナルとの違いは降り積もる雪が過去形から現在形へ・・・。

 「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」万葉集山部赤人
現代語訳・田子の浦を通って眺めの良い場所に出てみれば、頂きにまっ白に雪が降り積もった富士山が見えることだ。

 彼は降り積もった雪を見てうたっていたものを、今現在、山の頂きに雪が降っているのを見てうたっている歌に変えてしまったのです。

 そのことについては過去からも賛否両論。著名な方から研究家まで様々な意見があります。作者の立場からすれば、勝手に自分の作品を変えられてしまうのは嫌だろうなと思います。
万葉集が出来たのが783年ごろで、百人一首が出来たのが1200年ごろ、約450年間の間に和歌の風潮も時代と共に変わってきていて、その頃の美意識にはそぐわなかったのでしょう。私自身は、イメージ的には降っている雪を想像する方がロマンティックだと思います。ですが、それだと視界が悪くて山の頂は雲がかかっていて本当は見えないはずだと。
山部赤人さんは自分で見てそのシャキっとした天気の中で雄大なすがすがしさに打たれて「雪は振りける」と歌いましたが、改ざんした人はその富士さんのあっぱれさを見ていないのでイメージで降っている雪にしてしまったのかも。

 気持ちはわかるような気がします。この歌は新古今集で改ざんさせられたと、何かの本で読んだ記憶があります。新古今集の選者にはもちろん藤原定家も入っていて、優美的 情緒的 幻想的な色合いを持たせた世界を打ち出しているのが特徴です。そうか・・・現実的にはあり得ないけど、田子の浦という海岸から富士山を眺めた時に、その頂きに真っ白な雪が儚げに降りつもっている方が優美的で情緒的で幻想的で盛り上がるのね。

 神秘的で幽玄な富士山もオリジナルの絵葉書の様なきりりとした富士山も、どちらも素敵。今年も「和歌うた」楽しく歌っていきます。

(早苗ネネ♪)

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

1月 10 14

「大道芸の母」として慕われているイベントプロデューサー 大久保文香さん

by staff
イベントプロデューサー 大久保文香(おおくぼ ふみか)さんイベントプロデューサー
大久保文香
 
お名前 大久保 文香(おおくぼ ふみか)さん
ご年齢 昭和15年7月生まれ
お住まい 横浜市中区本牧
ご職業 イベントプロデューサー
HP 桜蘭株式会社
http://o-lang.com/
ご趣味 読書と猫・植物観察・料理
ご性格 典型的なA型と思いますが家族はO型と思ってるらしい。(笑)

「大道芸の母」として慕われている大久保さんですが、どのような少女時代を過ごされたのでしょうか。

 父、西谷操(にしたにみさお)は、文学者として著名な堀内大学先生の弟子で詩人でもあり「椿書房」という出版社を作った人でした。棟方志功の版画や山本周五郎の時代小説などを出版していました。希少本を発行したことでも知られております。私は小さい時から本を読んでいればご機嫌でした。今は父のDNAを受け継いでいるとつくづく感じますよ。

 第二次世界大戦が激しくなって、昭和19年に東京から横浜本牧に引っ越してきました。山本周五郎一家も引っ越してきて我が家の離れで小説を書いていた時期もあります。

 私の少女時代は、本牧の海はとてもきれいでしたね。春は貝を取って遊び、夏は毎日泳いでいました。自然を満喫していましたね。海のない今の子供たちはかわいそうと思います。小学校は横浜紅蘭女学校に入学しました。(現在の横浜双葉学園)カトリック系の学校でしたから、小学校一年から英語の授業がありました。1年生のころ、演劇「かぐや姫」に出演した思い出があります。吉田町にあったアメリカの兵隊さんの病院に慰問で行ったことを覚えています。その頃から表現の世界に興味を持っていたのかしら。

 卒業後は川崎の富士電機の人事課におりました。人間関係がとても素晴らしく楽しい会社でした。ここに結婚するまで在籍したことで、人に対する基本姿勢の勉強になりました。私が永い間仕事をすることができたのはこの経験があったからだと思います。今でもその頃のお付き合いが続いています。

専業主婦の時代もあったそうですね。

 結婚生活では、男・男・女の3人の子供を授かりました。専業主婦で、PTA役員などを一生懸命やっていました。そのネットワークが後の仕事につながりました。

 ご縁があって、昭和61年(1986年)から、横浜スタジアム社長の鶴岡博さんが創った街づくりの会「関内を愛する会」の事務局長をお引き受けしました。この会で、「関内まつり」をやったことが、イベントに対する興味への第一歩でした。この会には平成4年(1992年)までおりました。今も関内の方々と街づくりのお話をしています。街づくりは難しい。けれども興味はあります。

 昭和61年(1986年)から街づくりを目的とした野毛大道芸が始まりました。最初は観客の一人でしたが、そちらのほうがおもしろく思えて、平成4年(1992年)に、関内を離れて専任がいなかった野毛大道芸事務局を引き受けたのです。それから20年以上、大道芸の世界に身を置いています。

「野毛大道芸フェスティバル」は、横浜を代表するイベントですよね。

 第一回の「野毛大道芸フェスティバル」の出演者は26人、観客数は3000人程度だったそうです。私が関わり始めた1900年代の初めは、芸人さんを海外から呼ぶほどの大きなイベントになっていました。観客数も2日間で10万人を有に超えていましたね。スタッフの人数も100名を超えていました。ボランティアスタッフをお願いしたのもイベントでは野毛が初めてではないでしょうか。

野毛大道芸
http://www.noge-net.com/

 私の仕事は、フェスティバル運営のほか、芸人さん・パフォーマンスをする人の発掘でした。フランスやカナダをはじめとして世界中を回りました。南フランスのオーリヤックという町では毎年大道芸フェスティバルが開催されていて、1000組くらいの芸人さんが登場します。大道芸が通年アートとして根付いている町です。フェスティバルの期間中1週間くらいは町中でストリート以外に劇場も教会さえも使います。運営も見物人の楽しさを第一に考えたパフォーマンスになります。日本はまず観客より安全優先です。警備が問題になります。そこが海外のイベントと根本的に違うところですね。仕方のないこととは思いますが大道芸の基本は自由です。

 1900年代後半には、日本の大道芸のメッカと言われるほど野毛大道芸は多くの人たちを引きつけました。その中心となったのが、1992年から2002年まで中央図書館のそばにあった野毛地区街づくり会館(通称野毛山フラスコ)です。ここには大道芸の練習だけではなく、横浜ボートシアターのような演劇関係の人たちも集まっていました。実験的な試みもたくさんできました。横浜には美術的アートの施設は在りますがパフォーマンス関連の施設が無くなってしまったのはとても残念です。

 

(クリックで拡大画像)


UN-PAさん


伊藤佑介さん

「大道芸の母」と呼ばれるようになったのはその頃からですよね。

 お恥ずかしい。
 芸人さんたちがどんな場所でも気持ちよく演技できるようにするための影のお膳立てをするのが私の役目だと。自分勝手にあの人たちは私にとって家族より親しい関係にあると思っていますよ。長い付き合いの中で、老後の生活や介護の相談も受けるようになっています。(笑)

 私の最大の夢は「昼間はお稽古場で、夜はお客様がショーを楽しめ、海外からや引退した芸人さん達が住むことができる施設」を作ることでしょうか。

大久保さんにとって「大道芸」の魅力は何なのでしょうか。

 一言で言うと・・「演じる側と見る側の触れ合いで構成されるジャンルの芸能だから」でしょうか。演劇はステージの上で演じますが、大道芸は観客と同じ高さの目線で演じるのですから。演じる側のパワーがお客様にストレートに伝わることに何とも言えない魅力がありますね。

 日本でのこのジャンルはどんどん進化しています。でもサーカス芸を教える学校は成立しません。フランスには国立含めて200校以上もあるのになぜか日本はほとんど無いですね。ジャグリングが好きな横浜の高校生をフランスの国立サーカス学校に推薦して入学していただいたことも有りますよ。皆さんの活躍の場を作るのも私の仕事です。

現在も「大道芸」に関わっていらっしゃるのですよね。

 野毛の大道芸は、運営体制が変わったのを機に2002年に引きました。ヨコハマ大道芸の立ち上げにも協力しました。

http://daidogei.jp/

 今現在は娘のアーティスト派遣の会社  桜蘭株式会社に身を置いて新しいことに挑戦しております。

http://o-lang.com/

 大道芸というジャンルから離れてアーティストを再構成してみたかったからと言えましょう。もちろん今までのつながりで大道芸の人たちのお付き合いは益々濃くなっております。幼稚園・商店街・企業などからの依頼を受けて芸人さんを派遣することもやっています。いわゆる営業です。派遣するにも芸の種類だけでなく、会場の状況や見る方の年齢層なども考慮するなど、数々のポイントがあるので結構難しいのです。でもぴったりはまったときはうれしい。ジャグリングやマジック・ダンス、ミュージックの融合を考えるなど新ジャンルにも挑戦していきたいですね。お正月は都内のホテルでカウントダウンから夜のセクシーショーまでを構成しました。新しいことを常に仕掛けて行けることが喜びです。野毛山フラスコを中心にした、大道芝居の仲間と横浜ボートシアターの関係者が共演する語りの会を2月1日に野毛のにぎわい座で公演するお手伝いをしています。

http://shima-katari.net/pg34.html

本牧の地域活性化にも関わっていらっしゃいますよね。

 私は本牧で育って、これまで60年以上本牧で暮らしています。本牧は、関内からたった3kmの距離なのに賑わいと文化施設が不足していると思われてなりません。もっと昔の活気を取り戻してほしいのです。そしてたくさん住んでいらっしゃるご年配者に笑顔を差し上げたい。もっともっと街に出てきてほしいのです。

 昨年(2013年)末、アーティストの岡崎松恵(元BankART1929館長)から誘われて「本牧アートプロジェクト2013」に制作スタッフとして関わりました。

本牧アートプロジェクト2013
http://www.honmoku-art.jp/

 このプロジェクトに「本牧がアメリカだったころ」というエッセイを寄稿しています。これも本牧が好きだからです。

執筆活動もされているそうですね。

 書くことも大好きですね。
 1992年3月に創刊されたタウン誌「ハマ野毛」(編集長は評論家故平岡正明氏)の編集にも関わっていました。このタウン誌は6号で廃刊になってしまいましたが・・。今は幻のタウン誌として評価されていると聞きます。

http://www.noge.com/daidougei/24th/nogetown.html

 最近は神奈川新聞の横浜版に連載していた「呑んべえの街から」が、2013年10月に単行本として発刊されています。

まだまだ現役ですよね。

 70歳を過ぎましたので、これからと自然体でやっていきたいと思います。今年のテーマは「ゆっ・く・り・と」
です。体力・気力が続く限り、そしてみなさんからのご要望がある限り、イベントプロデュースの仕事は続けていきます。一番大切な体力を維持するために、本牧にあるスポーツクラブにも通っていますよ。

大久保さんにとって横浜はどんな街ですか。

 横浜って田舎だと思います。特に本牧は・・(笑)
 田舎の良さがあって、ほどよく都会です。私は雑な街である東京には住めないですね。横浜で毎日毎日の出会いを大切にしていきたいです。

 

(クリックで拡大画像)


老若男女を問わず、様々な方から人生相談をされるという大久保さん。お話を伺って大久保さんの優しさと懐の広さを感じ、多くの方々から慕われる理由の一端を感じました。70歳を過ぎても、新しいことにチャレンジしていきたいわという大久保さん。今年も益々のご活躍を願っております。

(インタビュー:ヨコハマNOW代表 渡邊桃伯子)

 

12月 10 13

大学の構内でバザール?

by staff

 

横浜市鶴見区にある横浜商科大学では毎月一回、日曜日に「朝市」が開催されています。12月1日からは「商大バザール」と名称を変えて新装オープンです。

横浜商科大学
http://www.shodai.ac.jp/

商大バザール
http://kaneiti.net/shodai/

この「バザール」は、日本では数少ない商店の跡継ぎの経営学を研究されている横浜商科大学の佐々徹教授と金一グループ会長の坪倉良和氏がタッグを組んで始められました。大学という場所を使って、商いの原点である対話販売を体験してもらいたい、対話を通して地域と商業者の絆を創っていってもらいたいという想いから、神奈川県内の販売業者に声をかけて2年前に開始されました。

今回のリニューアルに際して、私はフリーマーケットやバザーを開催したい方々にも参加してもらって、出店者を増やして、出店者が購入者になる構図を作ることを提案しました。大学の中庭では演奏もできますし、教室を使えば、セミナーを開くことも可能です。いろいろなものがごった煮のように集まって楽しめる「場」にしたかったのです。

朝8時、神奈川県各地から物販や飲食のお店の方々が集まってきました。日頃は大学生がくつろいでいる中庭にお店のテントが張られ、食べ物の美味しい香りが漂います。私も「被災地支援ショップ」をここで開いて、宮城県山元町のアクリルたわしなどを販売したこともあります。秋田の物産を販売するお店もあります。

9時から販売開始。近所のおばさまたちがお目当ての無農薬野菜やパンを目指して訪れます。人気店はあっという間に売れ切れになります。中庭のステージでは、音楽が演奏されています。

今回は特別出演として全日本製造業コマ大戦協会会長の「おかしら」こと緑川さんに登場いただき、ステージでちびっ子たちのコマ大戦をやっていただきました。ちょうど体育館で子供の空手大会が開催されていて、胴着を着たちびっ子が大勢参加してくれました。子供たちの笑い声が大学の構内に響くのはいいものですね。

全日本製造業コマ大戦
http://www.komataisen.com/

緑川さんには、日本のものづくりの技術と心意気が詰まったコマをたくさん持ってきていただいたのですが、残念ながら販売のほうは全くふるいませんでした。「人のものを売ることが得意」を自任していた私ですが、ダメでしたね。(笑)

次回からは子供用のコマセットに絞ることにしました。販売は、横浜商科大学の学生に任せます。これも彼らの人生勉強です。

あっという間に4時間が経ち、「商大バザール」は終わりました。「地域とつながろう」という大学の構内でのバザールは始まったばかりです。次回は12月22日。皆様のお出かけをお待ちしております。

 

(クリックで写真拡大)

近所のおばさまたち
近所のおばさまたち

秋田の物産
秋田の物産

大学生のお店
大学生のお店

子供コマ大戦
子供コマ大戦

コマ販売
コマ販売

 

12月 10 13

第8回 公教育を考えるフォーラムに参加してみた

by staff

 

 将来に渡り、この国を継続的に豊かな国にするためには、人づくりこそが最も大切だと考える人は多いと思う。そのためにも、産まれた環境、親の収入に関係なく、誰もが質の高い教育を受けられる国、つまりは、公教育の質の高さが求められる。その、公教育を考えるフォーラムが先月開催されたので、参加してみた。

「公教育未来フォーラム」
 ■ 開催日時:11月16日 13:00~16:30
 ■ 場所:渋谷商工会館
 ■ 主催:公教育フォーラム2013実行委員会
 ■ 共催:株式会社トモノカイ

 分科会を含め、の盛りだくさんの内容だったが、今回は、藤原和博氏の基調講演をご紹介したい。
 ご存知の通り、藤原氏は、リクルートから杉並区立和田中学校の校長先生となり、「よのなか科」を実践し、和田中の教育改革を成功され、現在は、大阪府の教育改革に取り組んでおられる、教育界では異端児であり、ヒーローだ。数年前に藤原校長が教鞭を取られた和田中学校「よのなか科」の授業を視察した事がある。その時は「宗教」がテーマの授業だった。そのテーマにも驚かされたが、生徒全員の名前を覚えて授業されている藤原氏の迫力ある姿勢にも驚いた事を鮮明に覚えている。

さすがの藤原節

 今回の講演内容は、大きく2つ。
 1) 教育現場の最大の問題点と、
 2) その改革を藤原氏がどう進めているか
についてだった。

 1) については、後に詳細を後述するが、小学校から大学に至るまでの、日本の学校公教育全体に言える問題点を指摘し、2) については、その改革をどのように進めようとしているかの戦術と青写真をお話された。それらを、分かりやすく、スピード感をもって、最後まで、息つく暇なく爆走され、さらに磨きのかかった藤原節を披露された。

 今回は、1) を中心に話を進めたいと思う。

教育関係者こそ、時代が大きく変化している事を直視せよ

 この国の公教育における最大の問題は、社会が変化している事を直視せず、教育が行われているということだと、藤原氏は話された。

A) 20世紀 → 成長社会
B) 21世紀 → 成熟社会

 戦後の日本において、20世紀と21世紀は成長期から成熟期へと社会が大きく移行した。これは大きな変化で、当然生活スタイルも変化し、価値観も、必要となる力も技術も大きく変化している。これは人の営みによる変化であるため、もう一度焼け野原からスタートするような事がない以上、万国共通、それが、逆戻りする事はない。なのに、その事実を教育界は直視せず、旧体制の教育を続けていると藤原氏は言う。

A) 成長社会の特徴

A) の成長社会では、成長すべき(目指すべき)方向が明確であった。価値観が均一でみんな一緒で力を合わせて協力する事がよしとされている時代だった。良い大学を出て、一流企業に就職し、30代で郊外に家を買い、子供を二人育て、定年後は、時々来る孫の相手をしながら、普段は盆栽の手入れを楽しみ、皆に看取られながら最後を迎える・・・。こんな、理想の幸福像があった。

こういう時代の教育は、これが正しくて、これが正しくない、先生からは「はい、これわかる人?」と問われる教育、「正解主義」で、教育を行えばよかった。求められる能力は、その正解をいかに早く導けるかという “情報処理能力” だった。

B) 成熟社会の特徴

一方成熟社会は、目指すべき明確な方向はなく、それぞれ一人ひとりの社会。社会は複雑化し、変化が激しく、価値観は多様化し、正解がない。そのため、正解を主張するのではなく、自らが納得し、相手を納得させる「納得解」が主流となる社会。幸福感も一様ではなく、目指すものがないため、自らが自らの幸福感を構築できなければ、精神的にも苦しい時代かもしれない。

こういう社会では、常にアイデアや対応を修正させ進化させていく事が求められる。つまり、教育は「正解主義」や、正解を早く導き出す力”情報処理能力”のみをトレーニングしていてはダメで、情報をつねに更新修正し、つなぎあわせる「修正主義」で”情報編集力”をトレーニングする事も、新たに必要となってくるというのだ。

 しかし、現在の日本の公教育現場では、相変わらずA) のみが行われている。もちろん、A) も基礎教育の段階では必要な要素だが、問題はバランス。高等教育になるにつれ、B) のウェートを高めていく教育が21世紀は必要なのだと藤原氏は強調した。

「正解主義」と「修正主義」で学んだ学生の違い

 例えば、授業や会議の場。
 「これについてどう思いますか?」という問いに対し、手をあげて発言する人は、極めて優秀な人か、目立ちたがりに限られ、多くの人は手を上げないという風景がよく見られる。しかし、これは日本特有の現象だと、海外でも教鞭をとられた経験のある藤原氏は言う。それは、自分の意見を求められた時でさえ、正解(或いはそれに准ずるいい答え)を言わなければ恥ずかしい、という意識が無意識に働くためなのだとか。

 修正主義のトレーニングが一般化している海外では、正解を言おうという事ではなく、私は今こう思う、今こう感じた、という中間報告例を出しているに過ぎないので、どんな意見を言っても、恥ずかしいなどとは思わず、むしろその後が重要で、その出されたたくさんの例から、自分の意見をどう修正・進化させられるかが学習のポイントとなり、学生もそこに注力するのだそうだ。

 このような自らの意見・アイデアをどんどん進化させていく「修正主義」で学んだ学生と、人前では必ず正解を話す事を良しとした「正解主義」の教育を受けた学生とで、どちらが伸びしろがあり、柔軟性や適応力があるかは、言うまでもないという事だ。

教育界にはびこる3つの悪主義

 また、この正解主義を含め3つの悪主義が教育界(とくに管理職)にはびこり、教育改革を遅らせているという話もされた。その教育界にはびこる3つの悪主義とは、「正解主義」「前例主義」「事なかれ主義」。もちろん一般論という事で、例外も多々あり、現場で奮闘されている方々もたくさんおられる事は言うまでもないが、この3つの悪主義は、教育界だけでなく、広く日本を覆っている悪主義とも言えそうだ。

 「よのなか科」を始めた当初、藤原氏は、5年も経てば、この「よのなか科」の授業は各校に広まっていくだろうと考えていた。また、広めるためにも「よのなか科」の授業は完全オープン制にし、誰でも見学が可能な状態を作った。民間企業なら、良いと言われる競合の製品は、すぐに購入して調査し、あっという間に真似して、それ以上のものを作ろうとするのが当たり前だ。しかし、「よのなか科」はせいぜい30校程度にしか広まらなかった。ここに教育界の特異性があると言う。つまり3つの悪主義(「正解主義」「前例主義」「事なかれ主義」)でものを考えると(特に管理職がこの考え方であると)、修正し、進化する事は一切できなくなるというわけだ。

 藤原氏が実践されてきた「よのなか科」の “ななめの関係” や、 “地域本部”  “土曜塾” などは、一夜にしてできたものではなく、思考錯誤を重ね、様々な人の意見を取り入れ、修正・進化してきた、まさに「修正主義」のたまものだ。詳細は、多くのメディアでも紹介されているので、ここでは控えるが、大学生や地域や、民間企業までも巻き込み、つなげ、驚くべき成果をあげられた。中には、スタート時には大きな反対や非難を浴びたプロジェクトもあったが、結果、生徒全体の学力を大きく向上させ、当初約160人の廃校寸前の学校を、450人を超える人気校にまで押し上げると、誰も何も言わなくなった。

 「正解主義」「前例主義」「事なかれ主義」からは、決して生まれず、実施できない改革だったと言える。

 今回、様々な人の意見や情報を柔軟に取り入れ、自らの考えを修正・進化させていく「修正主義」という考え方を聞いただけで、自分の脳みそが柔らかくなったように思えた。また、このような考え方の方が、より楽に生きられるのではないだろうかとも感じた。

 価値観が多様で、変化の激しく、難解で生きづらく思われるこれからの時代。決してそれは不安だらけの世の中ではなく、多様で色鮮やかな時代だと、若者達に感じ取ってもらえるような公教育の実践を期待したい。

※参考サイト
藤原和博のよのなか科net
http://www.yononaka.net/

心に残った名言集

 今回の藤原氏の講演から、「ううっ!」と唸るような言葉やセンテンスを、たくさん受け取る事ができた。最後に、この講演中の名言をご紹介して終わりたい。みなさんは、どうお感じになるだろうか?

  • 「教員は、教えるプロではない。学ぶプロだ。教員の学ぶ姿から、子供は学ぶ。」
  • 「アイデアは、人の中にあって掘り出すものではない。人と人の間から出てくる。」
  • 「推測する力は、現象から学ぶ。現象をあらゆる角度からみるトレーニングが必要。」
  • 「現代は、“信じろ” を教える時代ではない。 “上手に疑う技術” を、トレーニングさせる必要がある。」

プロフィール

ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。

 

12月 10 13

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第3回) おせち料理と12月料理コースのご案内

by staff

1年の始まりは、おせち料理から!

 いよいよ12月!クリスマスには、皆さんパーティーなどを企画されているのでしょうか?様々な仲間と、毎年趣向を凝らして過ごすクリスマスに対し、お正月はご家族やご親戚と過ごす方が多いのではないでしょうか?

 お正月のお料理といえばおせち料理。すっかり食べる習慣も廃れて来たのでは?と調べてみますと意外?にも7割の方は召し上がるようです。ただ、家庭で手作り、ともなるとその数は半分に。全部作る、というより市販のものと組み合わせる方が多いようです。

 


おせち洋の重

 おせち料理は古来からのものなので、冷蔵庫に入れなくても日持ちするよう、本来味は濃い目。その辺りが現代でうけない理由かもしれませんが、日常とは全く違った、1年に1度だけのお料理を用意するのは、気分も変わっていいものです。ぜひ、手軽なものだけでもいいですので、整えて新年のお祝いをして下さい。


おせち和の重

 

 黒豆、栗きんとん、昆布巻き、伊達巻、田作り(ごまめ)、かまぼこなどが、おせちらしいものですが、これらは市販品にして、煮物や酢の物だけを作るのでもいいと思いますし、あえて、栗きんとんや昆布巻きをお子さんとご一緒に、作ってみるのも面白いです。一緒に作る事で、お子さんは味わってみたい!と興味を持ちます。一品をきっかけに、おせち料理とは?どうしてお正月にはこういう物を食べるの?という質問も出るかもしれません。

 ちなみに、私自身、おせち料理というスタイルは大好きだったものの、一の重に入る甘いもの達が苦手でした。まさに母は煮物、焼き物,酢の物は手づくりするものの、甘いもの達は市販品だったからです。これらを美味しく食べるには?と思い数年前から手作りしています。もちろんお砂糖はたっぷり入りますが、手作りしたものはどういう訳か、本当に美味しくいただけます。ですから生徒さんと一緒にレッスン形式で年末に作り、お正月に楽しんでいただいてました。その後、大好評だった為、お重に詰めて販売もしています。その名も『全部おいしいおせち料理』。苦手だったけれど、手作りするとおいしいですね!という自身の経験と、生徒さんの声から名付けました。ご家庭でも作りやすい、煮物等ではなく、市販品を買う事の多い、一の重の物を中心とした和の重と、フランス料理のお教室ですので、フレンチのオードブルを詰め合わせた洋の重。2段にして、楽しんでいただいております。ご自分では作りたくないけど、おいしいおせちが食べたい!という方は、ぜひお試しくださいね。笑 まだ今年のご注文は受付中ですよ。

詳細,ご注文はこちらです。
http://7juillet.shop-pro.jp/

12月の料理コースのご案内

 私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

12月のコース内容

フランス料理基本コース 『エビとアボカドのカクテル』
『ローストチキン』
『ビッシュ・ド・ノエル』
今月は、もちろんクリスマス料理!
エビとアボカド、ゴールデンコンビで簡単な前菜を。クリスマスカラーでますます食卓が華やかに。
チキンをまるまる1羽、お家で焼いてみましょう。シンプルな塩、胡椒味。焼きたてのチキンは未体験のおいしさ!
各国に、それぞれのクリスマスケーキがありますが、ビッシュ・ド・ノエルはフランスのクリスマスケーキ。薪の形にするのが特徴です。

エビとアボカドのカクテル

ローストチキン

ビッシュ・ド・ノエル

フランス料理応用コース 『きのこのポタージュ』
『ハニーマスタードチキン』
『マロンのビッシュ・ド・ノエル』
こちらもクリスマスに使えるメニューです。
きのこはうまみの宝庫!!ポタージュに閉じ込めます。チキンを使った簡単で豪華なメイン料理。そして同じくビッシュ・ド・ノエルは、マロンのクリームで仕立てます。
家庭料理コース 今月は特別にクリスマスケーキレッスンを開催しています。
『いちごのショートケーキ』
『マロンのビッシュ・ド・ノエル』
の2品からお好きな方を。一人1台お持ち帰りしていただきます。こちらは12月23日10時、14時、18時でご予約受付中です。

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にて
フランス料理を学ぶ。
同校 フランス校、レストラン研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める。
独立し、キッチンスタジオ ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

12月 10 13

2013年12月 三ツ池だより 「秋から冬に向かっての祈り」

by staff
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 祈りのなかに秋が過ぎていく。収穫の感謝であり、今は来る未来に向かう実りへの祈りでもある。中尊寺の貫主さんが、ダライ・ラマさんが、私たちが祈る。

 先日震災の祥月命日にということで次のような栞が手元に届いた。

彼方にきえた魂たちの   時空を超えて生じる蓮のごとく、
希い、哀しみ、を感受しながら、   和による共生を求めた先人たちに倣い、
滅びゆくものへの畏れ   微かな兆しをまさぐりながら、
儚き生への喜びを宿した、   ひろやかに分かち合えるいとなみを。
いまここ、にありえる浄土を。

この地に萃まる友たちよ、
諦念も無常も克する
いまだ創られざる美しき郷を新たに興し、
私たちの日々そのものを
ひと束の清冽な潮流となし、
志して生きる端正さ、気高さを、
恭しく現しつづけよう。

 生きとし、生きるものにとって、なすべきことを今一度祈ってみたい。
 生きている時に感じるぬくもりのなかで今焚火をふと思い出した。

青空に焔吸わるる焚火かな
日野草城
北方に北斗つらねし焚火かな
原 石鼎

 焚火も祈りなのではないかと考えた。役を終えて、新しい芽の為に落ちてきた葉を、私達は掃き集めて焚火をした。焔は大きく広がり、手をかざし、体を温めて人は去っていった。明日へつながる祈りそのものであったように思う。その焚火はいま出来にくい。祈りながら、体を温めながら!

風呂吹を喰らいに浮世へ百年目
正岡子規
善か悪か風呂吹を喰って合点せよ
夏目漱石

 12月はクリスマス商戦たけなわである。クリスマスも祈りの時である。

雪かかり星かがやける聖樹かな
山口青邨
燭の火が聖果の上に永く燃よ
山口誓子

 商いのピークが年の瀬にきて、現金決済がされ、庶民にお金が回るのであった。50年ほど前の恒例な光景であった。姉が年末になると、親戚のお店にお手伝いに行っていた。祈りのなかで年を越して行く。新しい年が希望の年であることを祈った。

茶の匂る枕も出来て師走かな
河東碧梧洞
植木屋が今日から入る師走かな
久保田万太郎
市中は人様々の師走哉
夏目漱石
月白き師走は子路が寝覚哉
松尾芭蕉

 被災地に何度も入られたダライ・ラマさんも足を運ばれた「世界の平和を祈る祭典in日本平」の色々な祈りのなかでマザーテレサの次の詩の朗読があったという。

マザーテレサの祈り ~わたしをお使いください~

主よ、きょう一日、貧しい人や病んでいる人々を助けるために
わたしの手をお望みでしたら、
今日、わたしのこの手をお使いください。

主よ、きょう一日、友を求める小さな人々を訪れるために
わたしの足をお望みでしたら
今日、わたしのこの足をお使いください。

主よ、きょう一日、優しい言葉に飢えている人々と語り合うために
わたしの声をお望みでしたら、
今日、わたしのこの声をお使いください。

主よ、きょう一日、人というだけでどんな人々とも愛するために
わたしの心をお望みでしたら
今日、わたしのこの心をお使いください。

 フィリピン・パラオ等自然災害が続く。自然との共生とは何処から何処までの許容の対策なのか。そして次の時代に向けてがんじがらめの構築物だらけの地球でいいのか。12月は重い祈りの月である。だからこそ対策の祈りでなく、生きているものに課せられた生きる、生きている感謝の祈り、それでも明日に向って希望を持っていく祈りの月である。

介護の手休め祈らむつわぶきの花
横須賀詢
芋少し煮えて冬至を祝ひけり
長谷川かな女
貧乏な儒者とひ来る冬至哉
与謝野蕪村
いそがしく時計の動く師走かな
正岡子規

 日本に生れて良かった。日本語にあえてよかった。そんなことを想って年末を迎える。日々自己成長を目指してきた。何が為されるべきかを考えながら来る年を迎える。ここまで読んでいただきまして、今年もありがとうございました。

 

Photos

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(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

12月 10 13

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第9回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第9回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 顧客サービスはICT(情報通信技術)との融合に成熟度を深めています。 “顧客の声に忠実なだけでは真の顧客サービスにならないこと” “過去の経験や成功体験だけでは顧客の心に響くものを生み出せないこと” がはっきりする一方、顧客の方も “欲するものを自らの口を通じて的確に説明できない” ことが多くなりました。それはインターネットの商用利用を模索し始めた1990年代前半のシリコンバレーを彷彿とさせます。インターネット技術者は市場が分らず、市場も技術のことが理解できない状況にありました。それを仲介したのが “アプリケーション・コンセプト(用途イメージ)” です。顧客は技術活用イメージが想像できないため、潜在ニーズを具体的に説明できません。明確でないニーズを踏まえた技術による用途イメージをアプリケーション・コンセプトの形で定義し、技術と市場の間でキャッチボールを行うことで今日のインターネットビジネスの基盤が形成されたといわれます。梁塵秘抄では “はかなき此の世を過ぐすとて、海山かせぐとせし程に、萬の佛に疎まれて、後生我が身をいかんせん” とあります。魚や獣の殺生を重ねる罪を思うと後生が案じられるが、それでも目標と真摯に向き合い、一歩一歩知的創造力を深めよということになるでしょうか。 “創造性の量と質はアプリケーション・コンセプトの発想数に制約される” と指摘したのはシーモア・パパートです。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

構想段階は思い切りあるべき姿を追い、楽観的に考えていく
計画段階は慎重かつ悲観的に 実行段階は自信を持ち大胆に
アニメをやるならアニメばかり観てはダメ どの世界も同じ
勝利 無限では打倒だが有限では苦悩、とシモーヌ・ベーユ

 一万年前の縄文時代に比べて、時間のスピードは四十倍を超えるといわれます。構想・計画・実行の学習サイクルを速める必要度が増しているようです。一方で、それに対応するにはブレーキの役割の重要性が一段と大きくなります。時間に追われてひた走るだけでなく、限界・制約を踏まえて生きることの大切さを示唆しているようです。それが独自の世界を創る機会につながる可能性があり、限界・制約を自由や創造の突破口にする手も考えられそうです。シモーヌ・ベーユは20世紀前半に活躍したフランスの女性哲学者・政治活動家です。戦争の悲惨さ・残酷さに抗議してハンストも行い、34歳でその生涯を閉じました。 “勝つということは無限に関していうならば打ち負かすことに他ならないが、有限に関していうならば苦しむことに帰着する” ことを痛感し、 “偉才とは暗い夜々を乗り切る力量に他ならない” と心に刻みつけたといわれます。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

働かされている感覚では 潜在能力が顕在化しようがない
能力を磨くプロセスが少ないことを実感 生き辛さがカベ
ローマ帝国崩壊の一因 中間層が減少して貧富の差が拡大
ロシア帝国も相似形 働く喜びを創意工夫、生き方は無限

 “世の中で変わらぬものは唯一つ<変化>のみ” という言葉があります。21世紀は変化の幅が極大化する時代といわれます。ポジションありきではなく、何より潜在能力を高め、ポジションはその後でついてくる時代になりました。理論から無理に現実を把握しようとせず、理論からこぼれ落ちる現実を重視することの大切さ。文字文化をもたないアポリジニは伝えるべき全てを絵に埋め込んで生き続けたといわれます。”生き方の方法論は無限”であることを教えてくれます。ローマ帝国は、多くの民族・人種・宗教を内包しつつ成長を続けましたが、時代性に対する適切な手を打てなくなったことが崩壊につながりました。 “成長への過度な執着と戦略的決断の欠如” 。トレードオフを受け入れて何かを捨てるという決断ができなかったということでしょうか。一部の富める者と多くの貧民に分かれるという貧困対策の失敗による混乱・弱体化。ロシア帝国や江戸幕府もすべて国家崩壊の遠因は貧困対策の失敗。現在でも幾つかの国にみられる兆候です。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

変革期は歴史から学べる好機 いつ誰が何を捨てたのか
真似だけは御法度、仕事が小さくなる 自分の道を行く
人と人・モノとモノの間の、インタフェースを強化する
スカトール 最高級の香水にはウンコの匂いを利用する

 資本主義はもともと不安定といわれます。 “大きな波はお化けと同じ” で、姿を変えながら繰り返し現れます。そこは平均値や多数決が常に正しいとは限らない世界。何を選ぶかより何を捨てるかが命運を決する世界。日本の有り様を貫徹することがグローバル化につながり、安易に総意や調和の誘惑にのらないことが肝要のようです。それには何よりセンス・オブ・ワンダー(神秘や不思議さに目を見張る感性)が大切だと強調したのは米国の環境生物学者レイチェル・カーソンです。異質な分野を読んだり学んだりすることが創造性に結びつき、時間的にも空間的にも想像を超える関係性をつくり出すということでしょうか。彼女の著書 “沈黙の春” は、世界の目を環境問題に向けさせるきっかけになりました。スカトールは “ピンとキリを押さえる” ことの重要さを示唆するもの。ピンとキリさえ押さえておけば、その中間のことはどうとでもなるということですかね。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(七)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第9回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(七)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など

 

12月 10 13

中小経営のニッチから国際化へ(第4回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.ニッチ分野と国際化

 これまでのコラムを読んで、少なくともニッチ(niche)分野が存在することは分かると思います。しかし、今回取り上げる国際化と聞くと、かなり自社や自分の事業とは遠いと考える人も多いのではないでしょうか。

 確かに、国際化は多くのハードルがあるのはご承知のとおりですが、ニッチ分野を考える場合、顧客数(母数)を考える上でも、国内だけでは採算に合わないかもしれません。お客様の対象を海外に想定するだけでも、母数は増え、ニッチ分野から別の分野に広がっていくことになるかもしれないからです。ニッチ分野を国際的な視点でみることで、大きく跳躍することもあるのです。

 ここで国際的にもブランドが浸透しているソニーを取り上げましょう。中小経営なのにソニーでは大手で参考にならないと思われた方、ちょっと待ってください。どんな大手でも創業時は小さなニッチ分野を攻める、今でいうベンチャー企業であったことは事実です。ソニーも例外ではなく、国内大手が戦前に端を発している中で戦後の後発の小さな電機メーカー「東京通信工業」から始まったのです。

 創業時から成長期のソニーにとって、当時から多くの販売網をもつパナソニックとは違って一般販売には反って弱かったといいます。井深大氏と盛田昭夫氏らの創業物語は多くの著作があるので、そちらに譲るとして、この販売網のなさ、言い換えればニッチ分野での勝負がソニーのブランドを形成していくことになります。(参考として『ソニーのふり見て、我がふり直せ。 ブランドで稼ぐ勘と感』(山口誠志著、株式会社ソル・メディア刊)がブランド面からの視点が面白い)

 大手、例えばパナソニックのような販売店との強いコンタクトがないソニー。いくら日本初のテープレコーダーやトランジスタラジオを開発するにしても、売り先がなければ滞ってしまいます。盛田氏は、そこで一般売りよりも実際にテープレコーダーを買ってくれるニッチ分野のお客様に目を付け始めます。音声を確実に撮り、再生することを必須とするのは、プロフェッショナルな、今でいう放送業界でした。テープレコーダーは当時放送局でも高嶺の花。さらに、大きくて保守も大変な海外製品ばかりです。国産で安価、さらに小型であれば、申し分ないとニッチ分野であるお客様に受け入れられると睨みました。しかし、そうはうまくいかないのもビジネスの世界です。当時、米アンペックス社が市場をリードしており、いくらニッチといえども、最高級はアンペックス社として、お客様は誰も取り合ってくれません。

 盛田氏の頑張りは、ここにあります。つまり、海外から国内戦略を見て言った点です。今でも米国放送機器展は業界の技術的な基軸をきめることで有名ですが、そこでの展示が大きな転機になりました。プロの目で公平に同社の製品の性能を目の当たりにみた、米国放送業界のエンジニアたちは、こぞってソニー製品を購入していきます。それが、日本の放送業界にも飛び火し、国内の電機メーカーを抑えて、ソニーが音響機器、ビデオ機器でのリーダーとなる足掛かりができました。その後、最先端の技術を投入し、さらに小型化していくことで、徐々に、一般消費者にも、最先端のオーディオならソニーといったブランドイメージが生まれ始めます。

2.成功要因は何か

 またまた、ソニーの事業の柱となる音響機器、ビデオ機器の成功の要因はどこにあるかを前々回示した、4つのポイントで見てみましょう。

① 誰にも売れない、誰でもできない、誰にも儲けられない
② 誰にも売れない:ニッチチャンネルの独占
③ 誰にもできない:ニッチ・コアの確立。
④ 誰にも儲けられない:ニッチ・障壁の高度化

のなかで、①~④ の何れもソニーの創業当時は極めて厳しいものでした。あえて、強いのは ③ の技術力だけと言えるかもしれません。①、② 共に国内の大手と真っ向から戦っていては、到底勝てないということになります。そこで、盛田氏は、①、② で勝てる見込みのある場所を探したのです。今回は、米国の放送業界のエンジニアたちです。彼らは米国内外の電機メーカーの技術を公平に評価して、例え無名であっても自分たちの仕事に大いに役立つなら興味を持ち、評価する人たちでした。つまり、国内販路が弱いという弱点を逆手にとって、海外から攻略するというリスクを負ったのです。その後、この戦略はソニーのブランド戦略となり、どこの国で作っているかは知らなくても商品をみればソニーであるわかるとまで言われました。これは ④ の達成です。

3.国際化はブルーオーシャン(未踏領域)の1つ

 ソニーのニッチ領域は、今でいう国際化と異なると思われるかもしれません。つまり、国内で成功した上で、海外に出て成功することが国際化という考えです。しかし、この考えは国内事業の立ち上げを待たなくては国際化できない、言い換えれば、国内より総数で言えば圧倒的に大きなニーズのある海外を後回しにする「機会損失」を生むことも事実です。

 ソニーが当時、販路がないところから成功したのは、大きな未踏領域であった米国に在りました。ウォークマンのイメージもアメリカの若者文化と共にあいまって世界的に広まっていったものです。

 考えてみれば録音技術は日本だけのニーズに対応したものではありません。多くの国で放送が行われている当時でもニーズは圧倒的に海外にあったのです。

 昨今、IT系ベンチャーの創業が多いのは米国のシリコンバレーといわれています。中には日本人がビジネスプラン片手に現地で創業すると言った話も聞きます。また、アパレル系ベンチャーはシンガポールや香港で会社を立ち上げるといったことも多くなっていると言います。その要因の多くは、起業間もないベンチャーや新規事業部門にとって、国際化以前に、未踏領域が国内ではなく、海外にあることを物語っているのかもしれません。

 国際化はこのように、インバウンド(国内へ)とアウトバウンド(海外へ)の二方向あると考えてください。

※さて、別のビジネス・コラムの「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。

次回の予告

多くのメディアで取り上げられ、横浜やヨコハマNOWにも関係の深い『全日本コマ大戦』の活動を通じて、ニッチ分野の国際化について考えてみましょう。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

12月 10 13

11月28日のセミナーは大盛況でした

by staff

 

11月28日のセミナーは大盛況でした

11月28日に開催された、第12回横浜売れるモノづくり研究会セミナーは50名を超える参加者で大盛況でした。

基調講演の増田恒夫氏(SHC設計代表社員)には、自作の3Dプリンタを持参していただき、実演もしていただきました。

2013年8月横浜で開催された「世界ファブラボ会議」について、運営に携わったNPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボ代表理事の杉浦裕樹氏に「世界ファブラボ会議」の熱気をレポートしていただきました。

落合孝明氏(株式会社モールドテック代表取締役)と室根貴之氏(株式会社MURONE取締役)には「変貌する製造業」について発表していただきました。お二人とも自社の状況を赤裸々にお話ししてくださいました。

杉浦氏・増田氏・落合氏のパネルディスカッションでは、参加者からも積極的に発言していただいて、「ものづくりとファブラボの関係」について討論しました。「ファボラボ」で作られる製品に、ものづくりの商品開発のヒントがあるのでは・・という意見がでました。

懇親会では、あちこちで話の花が咲き、大いに盛り上がりました。

詳しくは下記をご覧ください。

横浜売れるモノづくり研究会 http://www.monoken.net/

 

「笑顔経営」ワークショップで経営の悩みを解決!!

「笑顔経営」ワークショップは、講義とディスカッションを通して、会社経営の「正しいノウハウ」を学ぶ場を提供します。講師によるメール相談では、ケースに応じが会社経営の悩みを一緒に解決していきます。

「笑顔経営」ワークショップは、2014年1月より毎月開催します。
定員は6名です。参加費は30,000円です。(全6回コース)
現在参加者募集中です。

詳しくは下記をご覧ください。

笑顔経営ワークショップ http://monoken.net/egao-keiei/

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

12月 10 13

書評 「ど真剣に生きる」 NHK出帆生活人新書 稲盛和夫 著

by staff
 

 ページをめくっていて驚いたことがあった。ノギス・マイクロメーター・ルーペの写真が掲載してあり、「創業より使用していると測定用器具」と注がされていた。さらに「特にルーペは必ず現場に携行し、製品を丹念に観察して、問題点について徹底的に考え抜くことが習い性になっていた」測定は原点であり、丹念に観察することに、触れていることに感動した。この本を手に取った日に、私はミツトヨ計測学院での業界の技術研修会の開講挨拶をしているのであった。

 「私の人生を振り返ってみますと、青少年時代は挫折の連続でした」ではじまるこの本は、盛和塾6000名の塾生に、「塾生の会社が発展し、そこに集う従業員も幸福になることを願い、リーダーのあり方や経営の要諦を精魂こめて語りかける」そのものです。だから「入社後どこにも逃げていくところがない状況に追い込まれてからは、不平不満を並べることをやめ、目の前の仕事にど真剣に取り組むようにしました。いま思い返しますと、その時から、人生が大きく好転していったように思います」どのような取り組みだったのだろうか。

 「汚い寮にいるから、気分が落ち込むんだ。研究室で実験漬けの暮らしをしよう。厳しい環境から逃げずに、逆にそこに自分を追い込もう。」と鍋、釜、七輪などの自炊道具を研究室に持ち込んで泊り込んだという。「朝から深夜まで研究に心血を注いだのです。すると不思議なことに、素晴らしい実験結果が出るようになったのです。」と語られます。

 こう語られます。「自分の仕事を心から好きになり、寝食を忘れるほどの情熱を燃やして一心不乱に取り組めば、仕事がどんどんおもしろくなり、すばらしい成果が上がり、人生が明るく好転することを学びました。逆境はどれも、その後の渡しの人生を素晴らしい展開へと導いてくれる糧となりました。」「聞けば、さくらの花は冬の寒さが厳しければ厳しいほど、開花への準備が進むそうです。寒さという逆境が、桜が開花するためには必要だということです。人も同じでしょう。」「逆境に追い込まれたら、それを神様の贈り物と喜び、この逆境を克服すれば、素晴らしい未来が必ず開けると固く信じることが大切です。そして、明るくグチをこぼさずに、将来に向けて、誰にも負けない努力を重ねていけば、その先にはすばらしい人生が開ける、私はそう信じています。」

 信じている。神様の贈り物。これは素直な受け取り方から生まれる。やってみることの大切さだ。やってみることで見えてくることがある。冒頭の測定器がそうだ。計測し観察する。誰が感じるのでもない、自分が感じていくのである。逆境すらも神様の贈り物として受け入れていく。そこから学んだことを取り入れていく。時には全身全霊な取り組みである。

 稲盛さんは中小企業の活動意欲の旺盛な姿を望んでいる。「日本は官僚主導の国であり、ビジネスは多くの規制に阻まれ、さらにはいまだ系列取引が幅をを聞かせているなど、中小企業の活躍できる余地は少ないように見えます。しかしこのような現実に直面しながらも、企業家精神に富む中小企業があふれ出てくるようでなければ、日本経済は活力を取り戻すことはできません。日本再生にあたり、今も中小企業にその力が求められているのです。」そして語ります。「本当にいい経営をしたいのなら、従業員の人たちを少しでも幸せにしてあげたい、社会に貢献したいといった、公明正大な大義名分を持つことが大事です。」「まず心を磨き、立派な人間性を見につけてください」

 経営のあるべき姿に触れている。

 「儲かるか、もうからないかというような私利私欲に基づいた判断基準でなく、人間として正しいことをつらぬく、といった普遍的な判断基準をもったことで、会社はうまくいったように思います。」

 「どんな汚れ仕事にも必ず高邁な意義があり、さらには限りない夢が広がっています。経営者がそれを描き出すことで、従業員は、自分たちはその意義に共鳴し、その夢を現実のものとするために、汚れ仕事を一手に引き受けているんだ、と気づき、経営者を信頼して懸命に働いてくれるでしょう。私はペンキ屋が好きだから、社長と一緒に頑張る、と言ってくれるに違いありません。従業員が仕事に誇りを持てるかどうか、それはまさに、経営者の思い一つにかかっているのです。」

 円福寺で六十五歳の時に一度得度をし、西郷南洲(隆盛)を尊敬する稲盛和夫さんは「人は何のために生きるのか」についても答えている。私たちはついつい成功している稲盛さんを眺めてしまう。その成功すらも逆境があって育てられたということに勇気づけられる本でした。

(文:横須賀 健治)

 

 

12月 10 13

第17回 どあっぷ 「『湘南まちいくプロジェクト』の合宿に密着取材!」

by staff

みなさんこんにちは!
シチズンシップ教育の普及をめざすために活動している、NPO法人ど・あっぷ!です。
このコーナーでは、市民度の高い人や団体を、ど・あっぷ!が勝手に紹介します。

 

「ど・あっぱーず☆見つけ隊」vol.8
「まちで育つ、まちも育つ」「湘南まちいくプロジェクト」

 11月のよく晴れた日の午後、あたたかな日差しにつつまれながらど・あっぱーず見つけ隊向かった先は、江ノ島にあるかながわ女性センター。今回は、わたしたちど・あっぷ!ともたびたび交流のある団体、「湘南まちいくプロジェクト」の合宿に密着取材してきました。

できたてほやほやな団体、湘南まちいくプロジェクト!

 湘南まちいくプロジェクトは、2012年8月に活動をスタートしたばかりで、メンバーも主に大学生と若手社会人によって構成されているというとってもフレッシュな団体です! 湘南・藤沢地域の高校生を対象に、彼ら彼女らがより地域や社会に目を向け、積極的に参画することを支援している湘南まちいくプロジェクトの「まちいく」には、まちにでることで(行く)、高校生自身とまちが成長(育)して欲しいという願いが込められています。具体的には、

  1. 高校内で行うシティズンシップ教育実践プログラムを作成し、実施する。
  2. 学校外における社会参画の場の充実。
  3. 地域や外部組織と連携し、地域で行われている活動に高校生が参加しやすくする。

という3つの柱を中心に活動を行っています。

 どあっぱーず見つけ隊がこれまで取材してきた団体のすべてが大学生や大人を対象にしていたことを考えると、まちいくのように高校生を対象に活動をしている団体は、そう多くはないのではないでしょうか。高校生のうちから社会との関わり方を学ぶことで、大人になった時、ひとりひとりが思い描く「より良い社会」に近づくための具体的なアクションをとりやすくなります。しかし、実際には高校生が社会に参画するための場が用意されていない、そうした場にアクセスしづらいという問題があります。この背景には、「高校生には難しいのではないか」という大人の勝手な思い込みがあるのではないでしょうか。そんな大人の心配を、今年度まちいくの活動の中心だったプロジェクト、「まちつくクラブin湘南」で活躍した高校生たちは見事に打ち破ってくれました。


集合写真

まちつくクラブin湘南

 まちつくクラブとは、テーマごとに高校生たちが課題を発見し、課題解決をするためのアクションを行うというプロジェクトです。今年度は、「震災」と「魅力発信」をテーマに、湘南地域の学校から集まった約10人の高校生が、大学生サポーターと共に夏休みという限られた時間の中でプロジェクトを完成させました。まちつくクラブの活動を振り返り、まちいくの立ち上げ人であり、代表である古田雄一さんは、「大学生でも完成させることが難しいようなプロジェクトを、高校生は短期間で作り上げてしまった」と嬉しそうに語ってくれました。高校生が活躍するための場と、大学生や地域の方の後押しやサポートがあれば、高校生はわたしたちが思っている以上の力を発揮し、最後まで課題に取り組むことが可能なことを、まちつくクラブに参加した高校生たちは証明してくれたのではないでしょうか。

3年後の姿を想像してみよう

 合宿を取材している中でもっとも興味深かったのが「今後の活動について」の話し合いでした。メンバーひとりひとりが、「3年後、あるいはもっと先、まちいくがどのような体制で、どのような活動をしているようになっていてほしいか」について次々と意見を出していきます。ある人は「有給の職員をおきたい」と、またある人は「全国でまちつくクラブを実施したい」と実に様々な思いがあることが伺えます。全国レベルで活動を希望するとはなんと壮大な夢だ!と筆者は取材をしながら思いましたが、しかし、そこは案ずるよりも産むが易し。着々と目標に向かって歩みを進めているまちいくならば、3年後実際に全国で活躍していることも決して夢ではない気がします。

 学生が中心の団体は代表や体制の変化が激しいためか、数年で活動が休止してしまうことが少なくありません。古田さんは、この問題に対し「打ち上げ花火で終わりたくない」と話してくれました。夢を語りながらも、その夢を達成するためには今、そしてこれからの3年間何をしてくべきかじっくりと話し合っていた様子を見ていると、一回立派な成果が出たからと満足するのではなく、それを継続してくことでさらなる成果をだしていこうという思いがメンバーの中で共有されていることがよく伝わってきました。


3年後

後記

 まちいくが拠点としている湘南・藤沢地域を訪れて改めて思ったことは、そこが「魅力あふれるまち」だということです。江の電に揺られながら見るきらきらと輝く海、新鮮な魚介類や野菜、そして活発な市民活動とそれをサポートする充実した施設やシステム。その魅力的なまちが、湘南まちいくプロジェクトがかかわることでどのように変化していくか、このように考えるとなんだかわくわくがとまりません!湘南まちいくプロジェクトでは、現在一緒に活動する仲間を募集していますので、湘南・藤沢のまちをつくる高校生の学びと活動の場を一緒につくってみたいという方は、ぜひぜひホームページにアクセスしてみてください。

湘南まちいくプロジェクト
HP:http://shonan-machiiku.com/
facebook:https://www.facebook.com/shonan.machiiku


http://www.youtube.com/user/douptv

(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:大越 実花)

 

★ど・あっぷに「参加したい」、「ワークショップをやってもらいたい」、「ミーティングを見てみたい」等等、どんなことでも結構です。ご興味がありましたら、是非ご連絡ください。

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12月 10 13

佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第24話 (最終回) 理趣経(りしゅきょう)

by staff

 12月は “師も走る” と言われ何かと気ぜわしい月であります。そしてお正月が参ります。大晦日(おおみそか)からお正月(松の内)に皆さんも神社やお寺にお参りに行かれると思います。日本のとても良い習慣だと思います。出来れば何時でもお暇な時は、ぶらぶら神社やお寺の境内を散策し、のんびりして頂くとよいと思います。

 真言宗には、理趣経(りしゅきょう)というお経がありそれを大切に護持しております。皆さん、お寺にお参りなさるとその宗派のお経を耳になさり、神社では詔に頭を垂れてお参りなさる事でしょう。詔もお経も節回しや韻をふんでいて、良く聞くと美しいものです。

 今回は、『理趣経』というお経の美しさをお話しさせて頂きます。ただ、このお経は間違って解釈すると、とんでもない事を言い出す人が現れたりしますので、今回は「お経」の解釈は致しません。このお経のリズムやメロディーや調子が変わる面白さをお話しさせて頂きます。

 そして宜しければお正月に、高野山真言宗のお寺にお参りに行ってみて下さい。前もってこのお話しを読んで頂き、お寺に行かれて『理趣経』を耳になされば楽しくなると思います。理趣経はちょっと長いお経です。

 

プレリュード(前奏)

 構成としては、最初にprelude部分にあたりますのが “理趣経三昧表白” です。どんなに素晴らしいお経かを唱えます。先ず、敬って大日如来・両部曼荼羅諸尊諸衆の仏様、また、諸(しょ)大眷属(だいけんぞく)並びに弘法大師等密教伝来・諸阿闍(しょあじゃ)梨(り)、総じては、尽(じん)空(くう)法(ほっ)界(かい)の一切の三宝の境界に、このお経がどんなに素晴らしいかと唱え奉ります。

 皆さん「何んのこっちゃ?」と言われると思います。それくらい素晴らしい内容の解説がされている部分です。「即身成仏(即身仏ではありません、即身仏は御浄土様の思想であり真言宗の考え方ではありません)への道筋に頓証菩提(とんしょうぼだい)になるための真文ですよ!」って説明している部分です。

 文章(言葉)の節回しがとても美しい部分です。声に出して読んで頂きたいです。一部分をちょっと表しますと・・・
“瑜伽(ゆが)清浄(しょうじょう)の密壇(みつだん)を建(た)て般若(はんにゃ)理(り)趣(しゅ)の秘法(ひほう)を修(しゅう)す” 
とか 
“浄(じょう)菩提(ぼだい)心(しん)の宝珠は清光(せいこう)を十六生(じゅうろくしょう)の朝(あした)に添え等(とう)覚(がく)無垢(むく)の浄(じょう)月(がつ)は円(えん)輝(き)を三五夜(さんごや)の秋に伴(ともな)わん”
とか最後に 
“乃至(ないし)法界(ほうかい)平等(びょうどう)利益(りやく)、敬(うやま)って白(もう)す”
などちょっと素敵です。

 

般若理趣経の「無染~~~~~~」

 そして、般若(はんにゃ)理趣経に入って行きます。最初に毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)※に帰依を誓う部分です。このお経がとても面白い構造で、毘盧遮那仏を唱え、次の段で『無染無着真理趣』とありますが、声に出して唱える部分は『無染』だけで後は声に出さず心の中で唱えます。

 ですから皆様に聞こえるのは「無染~~~~~~」です。そして、同じく次の段は、生生値遇無相教ですが「生生~~~~~~~」だけ、次の段が世世持誦不忘念ですが、「世世~~~~~~~~」だけで、最後に本尊界会増法楽や弘法大師増法楽と唱えます。
声に出してみると「弘法大師ぞ~~~~ほ~~~~~ら~く~~」ってな調子です。

 

「いつでもそばにいるよ」

 メインテーマの大楽(たいら)金剛不空真実三摩耶(きんこうふこうしんじさんまや)経(けい)(声に出しませんが般若波羅蜜多理趣品が続き)如是我聞(じょしがぶん)と一気に唱えます。

 意味は、『是(かく)の如(ごと)く我(われ)聞(き)けり』です。余談ですが、私が掛け軸や色紙に認めます時の冒頭印に『如是』と云う言葉を使って居ります。意味は「何時も傍に居るよ」とか、「僕はここに居るよ」です。この『如』『是』の字はとても美しいなと思って居ります。

 

「一切」はアップテンポで!

 そして、お経はアップテンポで一時薄伽と続きます。第一テーマに当たる部分のキーワードは “一切(いっせい)” です、全部で十か所も出て来ます。この “一切” にアクセント付けて唱えますと、とても唱えやすくリズミカルなお経になります。次に調子が変わって各々の菩薩様の名を読み上げます、キーワードは “菩薩摩訶(ぼーさーばーかー)薩(さー)” です。

金剛手菩薩摩訶薩
観自在菩薩摩訶薩
虚空蔵菩薩摩訶薩
金鋼拳菩薩摩訶薩
文殊師利菩薩摩訶薩
纔発心転法輪菩薩摩訶薩
虚空庫菩薩摩訶薩
薩摧一切魔菩薩摩訶薩

と、全部で八つの菩薩様のお名前を唱えます。もちろんアップテンポで小気味よく唱えます。次に『我々の本来在る姿は、先程唱えた菩薩様になれますよ!』って唱えます。そしてその説明部分がこれまた小気味好いです。

妙適清浄句是菩薩位
欲箭清浄句是菩薩位
触清浄句是菩薩位・・・と続きます。

全部で十七も有ります。中に「愛縛清浄句是菩薩位ですよ!」って言っている部分も有ります。

 

愛する心で人を縛ろうとするのは「苦」だが、理趣経では「愛縛も清浄に整えることで菩薩の位になる」と・・・

 皆さんがよく耳になさる言葉に “四苦八苦” という言葉があります。四の苦は “生・病・老・死” であり、それに “愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦” の四つを合わせて八苦となると説明しています。愛する人との別れは勿論苦であり、故に、『愛する心で人を縛ろうとする心も苦である』と考えられますが、それが、理趣経では『愛縛も清浄に整える事で菩薩の位になる』と現わされております。「え、えっ?!」です。

 それ以外にも、愛清浄・悦清浄・身楽清浄 などに至っては、般若心経にも出て参りますが「色・声・香・味なども『清浄に整える事で』菩薩の位になれる」と語られております。

 般若心経での内容は、これらは無であると書かれ、眼・耳・鼻・舌・身・意も無であると書かれています。 その意味は、人は肉体の中に魂が宿っていると考え、其の魂の本来の姿は、眼も耳も鼻も無く、故に、色(身体)も声も香も味も無い、魂の構造とその質量が無く、故に、汚れる事も無く増える事も減る事も無いと魂の説明であります。人が亡くなって肉体から離れても魂は存在し、そこには体積も重さも無いので自由に解放され、故に苦も無く、そこには老いも死も無く、最後に有名な真言が唱えられております。その意味は、「彼岸に居られる方よ、永遠に幸あれ!」と唱え讃えて居ります。これは、魂と人・曼荼羅の中での宇宙の構造を説明しているものであります。

 理趣経は、「今生活なさっている方々が、今生で幸せに成って頂くには」と唱えています。

 

リズムの変調があります

 次に、最も美しく楽しいお経『百字の偈(ひゃくじのげ)』を唱えます。もちろんアップテンポです。元気よく明るく思いっきり声を出して唱えます。小気味良いテンポで唱えるのですが、時々、何とも言えない節回しでスローな部分が出て参ります。 例 “不空無礙” とか “金剛手言” です。そして、

善哉善哉 大薩埵
善哉善哉 大安楽 ここまではスローテンポでとうとうと唱え
善哉善哉 摩訶衍 がとたんにアップテンポでスタッカート
善哉善哉 大智慧 が戻ってスローテンポ

 そして、また元に戻るのですが、時々抑揚の有る部分がにくい所に現れ、最後はとうとうと『毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)』を違ったメロディーで11回唱えます。この『百字の偈』は、メロディーと調子が変化しとても面白いお経です。このお経を聞かれて、彩子さんというお嬢さんが一言「ラップやねん!」って言われました。「お見事!!」素晴らしい解釈です。それで良いのです。

 

後讃を唱えます

 最後に後讃を唱えます。
 「摩訶迦嚕坭建曩貧捨娑多藍薩嚩吠南本女那地寠・・・」を唱えます。「なんじゃこりゃ????」真言陀羅尼(しんごん―だらに)と言われるものです。

 真言宗は、真言を護持し唱え、皆さんにいくら仏の教えの素晴らしさを解いても、日々の暮らしに追われ苦しみが多ければ、自らを磨き昇華させる事など到底出来ません。心にゆとり無くば信心の心も芽生えません。故に「この身 今生にて仏に」と即身成仏を願い、先ずは『皆さんの生活の安定、そして佛の教えを聞く事が出来ますように』との願いから加持祈祷を行って居ります。また、真言宗は密教で有ります。密教とは如来密の“密”で有り、怪しげなものではありません。如来(にょらい)様の教えを説き法界平等利益を願い、日々精進して居ります。

 

『お正月は、私をお寺に連れて行って!』

 お正月は、お寺に行ってお経を聞いてみて下さい。正座してかしこまらんでも良いです。本来、お寺は佛の膝前で心を休める所であります。胡坐(あぐら)かいても良し、他人様にご迷惑が掛らないようでしたら大の字に寝そべって心を休めて頂いてもよし、もっと気楽にお寺に行くと良いと思います。また、お経を音楽として聞いてみて下さい。特にお正月は、太鼓や笙や鈴等楽器を多く使っているので、楽しいお経を耳にして頂けます。真言宗の考え方では、仏の教え(御経・真言)は八万四千の毛穴から入るといわれて居ります。ご安心を!(笑)

 横浜市では、桜木町駅始発、バスの11番(神奈川中央バス)「保土ヶ谷行き」に乗り、増徳院前で降りて頂きますと高野山真言宗の増徳院が在ります。高野山の別院は高輪にございます。

 最後に阿弥陀如来様の陀羅尼をひとつ、

のうぼうあらたんのうたらやーや
のうまくありやみたーばーや
たたぎゃたやあらかてい
さんみゃくさんぼだや
たにゃたおんあみりてい
あみりとうどはんべい
あみりたさんばんべい
あみりたぎゃらべい
あみりたしっでい
あみりたていぜい
あみりたびきらんでい
あみりたびきらんだぎゃみねい
あみりたぎゃぎゃのうきちきゃれい
あみりたどんどびそばれい
さらばあらたさだにえい
さらばきゃらまきれいしゃきしゃようぎゃれい
そわか

南無  合掌  ご~~~~~~ん!

※びるしゃなぶつ【毘盧遮那仏】とは。意味や解説。(梵)Vairocanaの音訳。光明遍照と訳します。

文・:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)/構成:高野慈子

 

佐々木彬文プロフィール

● 日本画家(彬文会主宰)
● 茶道講師(裏千家 佐々木宗秀)
● クラッシックギター演奏者

 

活動スケジュール

茶道の御稽古 関内の技能文化会館 7階 和室2
¥3,500/1回
 
12月15日 午後1時から茶道教室
 
1月4日 11時から初釜です。お茶初体験の方も遊びに来て下さい。何も知らなくて良いです。お茶は誰でも飲んでいるものです。其の自然体が大事です。作法は体験してから楽しければ学んで下さい。
お客様:¥1,000 - 参加の会費に御典倶ください。
事前連絡:12月31日24時まで(お菓子の準備の為にお願い致します)
連絡先:qgqhw370@ybb.ne.jp fax 045(641)6822
多くの方の御参加を宜しくお願い致します。
 
1月19日 午後1時から茶道教室
2月23日 午後1時から茶道教室
 
※3月以降のスケジュールは追ってご連絡致します。
※Facebookでも佐々木彬文を見て頂けましたら其の都度掲載させて頂きます。
「文人画」教室 岩谷学園粋生倶楽部
第4水曜日(変更あり) 午前10時30分~12時
お問合せ:岩谷学園 http://www.ikiiki-club.jp/
TEL:045-444-2181
自宅にて 日本画教室・茶懐石指導を随時(ご希望の時間帯で)行っております。
出張指導 日本画、茶道、茶懐石 etc は出張指導いたします。

編集者から一言:2年間、佐々木彬文氏の「四季・色・贅・食」のご愛読ありがとうございました。日本画家、茶道家、音楽家・・と色々なお顔を持つ佐々木先生にコラムをお願いして24回になりました。先生のお話は、日本の文化・芸術、そして食と広い分野にわたっており、皆様に全てをお伝えしきれないのがとても残念です。私も大変に勉強になりました。絵画展や茶会、茶懐石の会などで佐々木先生とお会いする機会がございましたら、是非、お声をお掛けください。楽しいお話で時が経つのも忘れてしまうことでしょう。長い間ありがとうございました。
(髙野慈子)

 

12月 10 13

今、改めて「名物」について考える

by staff

 

「名物」って何だ・・・!?

 11月16日(土)に開催した「横浜旧東海道みどころ巡り」も、快晴の下、大盛況。お蔭さまで、秋のイベントも(概ね)無事に終了しました。来春まで、ごうどいち(2014年2月2日(日)・3月2日(日)開催予定)を除き、イベント出店はしばしお休みになります。その間、今後の活動について改めて見直す時間にできればと考えています。そこで改めて、「名物って何だ?」というところを考えてみたいと思います。

【名物(めいぶつ)】 出典:Wikipedia
 
特産品など、地域特有の生産物や行事などで、人気があるもの、また売り物としているもの。料理は町おこしの為のご当地グルメも指す。(郷土料理、日本国内においては日本の郷土料理も参照。)
諺 -名物に旨いものなし- 名物と呼ばれる食べ物が必ずしも旨いとは限らないことから、名前や名声が必ずしも実態を伴ったものではないこと。

【名物(メイブツ)】 出典:kotobank.jp
 
1.その土地で名高い産物。名産。
2.その土地や社会で、特有な物事や評判になっている人。
   「ロンドン―の霧」「―教師」
3.茶道具類で、美術的、歴史的価値においてすぐれたもの。
   利休以前のものを大(おお)名物、利休時代のものを名物、
   小堀遠州の選定したものを中興名物という。
4.植物・動物・器物などの名と性質。また、それを研究する学問。
   「其の―度数、訓詁、異同を研究するを以て事とす」〈童子問・下〉
5.すぐれているもの。名器。「元興寺と云ふ琶琵は―なり」〈江談抄・三〉

 ザックリ言えば、地域の名産・定番、郷土料理やご当地グルメのこと、と考えて良いでしょう。(例えるまでもないかもしれませんが)青森と言えばリンゴ、大阪と言えばたこ焼き、という感じですね。

 

保土ヶ谷宿の名物づくり

 では、名物が求められるのは、どんな時でしょうか?

  • 現地に行った時(観光や出張など。「〇〇へ行ってきました」)
  • 現地からどこかに出掛ける時(帰省や出張など。「〇〇から来ました」)
  • 町おこし

といったところでしょうか?

 上の2つは、現地からそこにいない人たちに差し上げる場合が多いでしょう。それに対して、町おこしは(外への発信もあると思いますが)地域の人たちに向かって地域の魅力を発信し、地域に興味・関心を持ってもらう、ということが目的の場合が多いのではないでしょうか?

 保土ヶ谷宿名物会に関しては、まさにそれに当たります。「東海道・保土ヶ谷宿」という地域のアイデンティティを活かした商品づくり・お店づくりに長い間取り組んでいるしてきた一流の職人・商人たちが連携して、地域の魅力を発信し続けています。

 

・・・なのですが。

 どうもイベント出店が続くと、忙しさにかまけて、そんな大切なコンセプトや原点を忘れがちです。この辺りで今一度、「名物とは何か?」「名物会としてできること、やるべきことは何か?」を見直してみたいと思います。何せ、保土ヶ谷の良いお店、良い商品、良い人たちが集まっています。考えれば考えるほど、益々、楽しい事ができそうです!

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

12月 10 13

第17回 都会のど真中に住み続ける
--AA STUDIOでの出会いから

by staff

荻津郁夫建築設計事務所
代表 荻津郁夫

 2012年5月、AA STUDIOでの出会いから始まったプロジェクトが2013年末に竣工を迎えます。

 築50年以上の補強コンクリートブロック造2階建のアパートを所有されているクライアントが、ご自分が生まれ育ったその場所にこれからも住み続けると決断されてAA STUDIOを訪問されました。3人の建築家と面談の結果、私が設計を担当することになりました。

 直前まで住まれていたその建物は、昭和30年代のシンプルなモダニズムの面影を色濃く残したデザインで、構造調査の結果も強度的に現在の耐進基準にも適合しうるものでした。しかし、15室の大半が4畳半の個室で、共同炊事場、共同トイレ、浴室なしというアパートは、銭湯の数も減った現代では、新築当初の都市機能として果たすべき役割を終えたといった風情で佇んでいました。

 設計に先立ち、4つの計画の考え方を検討しました。

  1. 既存建物の躯体は保存して、すべての内装と設備を更新して住宅として必要な機能を満たすリフォームを行う。
  2. 既存建物の1/3を解体し、キッチン・浴室・トイレ等水廻り機能を新築し、その他の住宅に必要な機能は残りの既存建物を改修して対応する。
  3. 既存建物の2/3を解体し、残りの敷地に住宅としてすべての機能を持った建物を新築する。
  4. 既存建物はすべて解体し、新たに住宅を新築する。

 さまざまに検討、議論を重ねた結果、既存建物の 1/3 には地下室がありその解体に費用がかさむこと、3階建にすれば敷地の 2/3 程度に必要な住宅機能が収まること、ご自分が生まれ育った建物をできれば一部でも保存したいという思い、残す既存の建物が都会の雑踏や喧騒からの防御に有用であること、などから ③ の考え方:「地下室のある部分の切り離し保存+コンパクトな新築」で進める決断に至りました。

 切り離し解体の場合、もともと室内用の壁を外壁として機能を果たせるように防水加工する等、さまざまに手のかかる工事にはなるのですが、横浜の歴史や文化を体現する建築であり、クライアントの思い出が凝縮された建築を一部保存しながら、防御的かつ光にあふれた新しい建物が都会のど真中に楔を打ち込むようにもうすぐ産声を上げることになります。

 

(クリックで拡大画像)

解体直前の既存建物
解体直前の既存建物

切り離し解体後の既存建物
切り離し解体後の既存建物

既存建物の切り離し面
既存建物の切り離し面

既存建物改修後(左)と新築住宅(右)
既存建物改修後(左)と新築住宅(右)

 

「暮らしを大切にデザインする」ギャラリーへ

横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」17名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。

横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。

なお5回ほど私が連載して参りましたが、今後はメンバーが交替で「新しい建築とのかかわり方」を綴りますので、変わらぬお付き合いでご愛読くださいますと幸いでございます。ありがとうございました。

AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051

AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)

青木恵美子 http://www.aaplan.com
新井今日子 http://www.arai1992.com
荻津 郁夫 http://www.o-as.co.jp
神田 雅子  
北川 裕記 http://www.aalab.com/kitagawa/
栗原 正明 http://msak.asia
河辺 近 http://www.ken-ken-a.co.jp
後藤 武 http://www.gtaa.jp
鈴木 信弘+洋子 http://suzuki-atelier.com
廣田 裕一  
藤本 幸充 http://www.kamakobo.com
古川 達也 http://furukawa-arch.com/
松井 理美子 http://www.matsui2ar.com
水口 裕之 http://homepage1.nifty.com/eau/
山口 賢 http://www.amarterrance.com

 

12月 10 13

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第18回 第4章 フォークからニューミュージックへ 4

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 5

 そもそもニューミュージックという言葉はユーミンがフォークでもロックでもない音楽ということで名づけたといわれています。その定義は何でしょう? その答えは人それぞれに違うと思われますが私的な見解を述べさせていただくと、、、、

  1. その曲を演奏する個人若しくはメンバーの誰かが曲を書いている。
  2. サウンドはピアノサウンドを中心にバンドサウンドである。
  3. コード〈和音)はCメジャーセブンのような4音以上の和音を使い時に分数コードも用いる。単純な3和音のブルース進行などは使用しない。
  4. 詩は反社会的なものやプロテストソングではなく、4畳半フォーク的な貧しい生活感も感じさせない。

といった感じになると考えられます。

 高度成長が一段落し学生運動などもなりをひそめ、人々の暮らしが少しずつ安定していった時代が反映されていきました。

続々ユーミン

 「ひこうき雲」でデビューを果たし2枚目のアルバムが「ミスリム」。2枚共に優れた楽曲が満載の名アルバムですが、更に60年代のアメリカンポップスをモチーフにして作られた名作の3枚目「コバルトアワー」は、1965年に発売。この頃にはすっかりニューミュージックは定着していました。

 我々の世代(昭和33年生まれ)が車の免許を取り、カセットにダビングしたユーミンを普及してきたカーステレオに入れ、彼女とドライブするのが当時おしゃれなスタイルでした。又、ユーミンの詩は場所を連想させます。 「中央フリーウエー」は首都高、「海を見ていた午後」は横浜根岸の山の上のレストラン「ドルフィン」。(これを聴いて横浜の同世代は一度はこのレストランに行っていると思います。昼に行くと本当にソーダ水の中に貨物船が見えました) 「さざ波」、「真冬のサーファー」は湘南の海、「卒業写真」は地元の通学路といった具合。彼女の作品は1枚の絵のように見事に情景を描写しその感情までもリスナーそれぞれの感性に反応させて感情移入させる力がありました。又、サウンドはうるさすぎず耳ざわりがよくてデートのBGMにはもってこいでした。友人にケンメリ(日産スカイライン)やカマロに乗っている奴がいて、女の子と一緒の時はいつもユーミンでした。

 75年頃は名声を手にしたユーミンですが、彼女の凄いのは新人の才能発掘です。2枚目のミスリムとコバルトのコーラスに起用されたのはあの山下達郎が結成していた「シュガーベイブ」で、コーラスアレンジも山下達郎が担当しています。まだ無名の達郎の起用は当時としては画期的で、サウンドも斬新でした。「ルージュの伝言」のファルセットのソロや「真冬のサーファー」のコーラスは彼の一人多重録音です。また、「流線型」の「コルベット1964」では、やはりまだ無名の来生たかおをデュエットの相手に起用。これ誰? と当時は思ったものです。他にも杉真理や尾崎亜美などは個人的に才能を認めプライベートでかわいがっていました。人の才能を見抜く力が優れていたのでしょう。

 実はえらそうに書いていますが私がユーミンを聴くようになったのは少し後になってからで、初めて聴いたのはハイファイセットがカバーしたバージョンでした。最初はあの癖のある声が嫌いで、ハイファイセットのきれいな歌声で聴き、なんて良い曲名だろうとオリジナルを聞くようになりました。はまってしまうとあの声がヤミツキになってしまいましたけど。。。。ユーミンの曲を聴いていると自然と涙がにじんでしまいます。ユーミンの詩は入りやすく一旦その世界に入ってしまうとそれは優しさだったり、自分にもこんな場面があったなとか思わせたり、聴く人の感情の琴線に触れる何かを持っています。そんなユーミンも今年でデビュー40周年だそうで、ますますの活躍を期待したいところです。

 

横浜、街と風(私の高校音楽編) 4(19)

失恋

 中学3年から約3年間付き合っていた彼女とこの頃別れました。本当の意味で初めての失恋。ある日、彼女が家に来てその大きな目に涙を一杯溜め「別れたいの。もう逢いたくない。電話も二度としてこないで。」信じられない言葉でした。何故と聞いてもただ首を横に振るばかり。この時のシーンを一生忘れる事はないでしょう。それまでも何度か別れ話はありましたが、いつも自然と戻るものと思い、彼女が自分から離れる筈がないと勝手に思い込んでいました。なんという傲慢。数度未練がましく電話しましたが、彼女が電話口に出ることは2度とありませんでした。彼女が今度は本気だと気付いた時、心がボロボロになりました。死にたいとさえ思いました。よくあることと思いますが、世間知らずの17才位の小僧のくせに、それまでは自分に対して漠然とした自信を持っていました。ある意味傲慢で人の気持ちを考えず能天気に過ごしてきた男の自信はもろくも崩れ、それからしばらくは少し内向的な人間に変わりました。人の痛みを少しは知ったような気がします。自分の人間形成においてとても大きな出来事でした。

本牧

 この頃は暇があると一人でバイクに乗り横須賀や三浦半島、本牧を走るのが好きでした。軍港や外人ハウスのある街の独特の匂いに惹かれていたのだと思います。ある時、ブルースギターの上手いK君に誘われて本牧のとあるバーに連れて行かれました。K君がアルバイトをやっていたその店は現役のロックミュージシャンの経営するロック喫茶(ロックバー?)で、店の奥に行くと見たこともないようなレコードが棚にギッシリ! 多分隣の米軍のPXで買い揃えたのでしょう。その殆どが洋盤。木造りの狭い店内は、そんな渋いロックやソウルが鳴り響いていて店にくる客もミュージシャンっぽいカッコした奴や、ハーフの綺麗なおねえちゃん、外人ハウスからきた米兵など、、、。垢抜けない学生だった自分は居心地の悪さを感じていましたが、そこでかかる音楽や店の雰囲気は憧れでした。何度か通ううち経営者から、バイトがやめたので働かないか、と言われそこに勤めることになりました。時給は確か200円。喫茶店のウエートレスでも370円くらいもらっていた時代ですが、このレコードを聞きたい放題だと思ったらバイト料は問題じゃありませんでした。

 その店の窓からは、当時の本牧の街並みが見えました。おそらく当時では珍しいイタリアンレストランの「ベニス」。その横が外人専門バーの「VWF」。その地下が「イタリアンガーデン(通称IG)」というバー兼ライブハウス。目の前の本牧通り沿いに並ぶ店のネオン管や英語の看板。そこはまるで映画の1シーンのようでした。左へ行くとグループサウンズのゴールデンカップスが演奏していたライブハウスの「ゴールデンカップ」。右へ行くと有名なディスコ「リンディ」があって、その先の今の山手警察の辺りから外人居住区で鉄条網のついた高い金網がずっと道の両側に張り巡らされていました。もちろん日本人は立ち入り禁止。ゲートには銃を持ったMPが常駐していました。

 店内でよくかかったのはストーンズやロッドスチュアート、ブリティッシュブルースのフリートウッドマックなど。自分のお気に入りはサム・クックやオーティス・レディングのソウル系でしたが、ときおりアルバート・キングやマジック・サムの黒人ブルースもかけました。

 飲み物のオーダーをとり、伝票をつけ、ときにはカクテルを作り、食べ物の注文があるとスパゲティ(当時はナポリタンとミートソースしかありませんでした)など作りながらレコードをかける。そしてお会計をする。それを一人でやる。今考えれば結構大変な仕事で、忙しい時はレコードが架けっぱなしになっていたりして音楽をきく所ではなく、よく怒られました。

 それでも12時か1時にはお客もひけ、店主も帰ると、一人の時間にはのんびりレコードを聴きました。ちょっとお店のお酒なんかこっそり拝借したりして。(17才でしたが。。。)

 お客もいろんな人が入ってきました。明らかにジャンキーと分かる人から怖い人たち、明日は戦地に行くという米兵がアブサンコークをがぶ飲みしていたり、あるときは深夜、一人で店番してる時、黒っぽいハーフの女性が一人で来てて淋しいから一緒に飲もうよと言われ、サムクックが好きだということで、2人で盛り上がりました。そのうち彼女の大好きなスローソングがかかると一緒にチークを踊ろうと言われ初チーク。甘いコロンの香りと大人の女性のリードにすっかり頭はヒート寸前、その後、彼女が帰った後も呆然の状態、そんな夜もありました。

 深夜3時頃にはシャッターを閉め朝まで仮眠、そのままバイクで家へ帰り着替えて学校へ行く、そんな生活でした。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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12月 10 13

みかきもり 衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ

by staff

♪みかきもり 衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:大中臣能宣朝臣 (おおなかとみ の よしのぶ)

 現代語訳 by 千絵崇石・・・あたりが暗くなると篝火は 恋の炎となって燃え始め夜空を焦がす やがて朝が来ると灰になる 貴方に逢えない辛さで昼も夜も恋しさは募るばかりです。

 作者の大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶあそん)は三十六歌仙の一人で、現代でいえばエリートセレブリティの一人です。彼の孫娘に当たる伊勢大輔が即興で呼んだ歌、
♪いにしえの奈良の都の八重桜 きょう九重に匂いぬるかな♪

 百人一首61番。その孫娘の歌とエピソードがあまりにも有名で、色んな百人一首の解説を読んでも彼の項には、初頭に伊勢大輔の祖父と書かれています。親子三代にわたって伊勢大神宮の神官を務めている神主さんで、当時の村上天皇の勅令をうけて宮中の一御殿「梨壷」において万葉集などの撰集に当たった五名の中の一人でもあります。

 私はこの歌がとても好きでWlter Schimd氏との共作 “Passion Night 情熱の夜” の中で間奏後の出だしに歌わせて頂いてます。でも今まで作者に対しての印象は漠然としていてどんな男性だったのか見当もつきませんでした。それが最近奈良へ行き和歌うたのミニライブを行った時に、聞きにいらして下さったお客様がプレゼントして下さった本を読んでいて大中臣能宣朝臣の名前が出て来たのです。それもただ一度だけで物語の主人公とも何の関係もなく。でもその時の印象が強く残った事をきっかけに、私がその本を読んで思い描いたイメージが融合して出来上がった大中臣能宣朝臣という男性は、庶民的な感覚からはかけ離れた超エリートのお兄さんになってしまいました。父親も有名な歌人で神官をしています。その世界の中で生まれ育って行けばサラブレッドとして下々の世界などとは全く関わりなく育ちの良い坊ちゃんとして一生を終る。どうひっくり返しても彼の男性としての人生に深い悩みや苦しみ等が感じられなくて、本当に彼の詠んだ歌なのかしら?っという思いに至りました。文献を調べて行くと彼の詠んだ歌というよりは彼が好んでいた歌として伝承されてゆくうちに彼の作になったのだろうという説が一般的な事が分りました。私もそう思います。この歌にはひたむきで男性的な情熱が感じられますが、大中臣能宣朝臣から来るイメージは冷静で穏やか争いごともなく恋のお相手も彼の立場をしっかりと理解した良妻賢母。そんなつつがない人生を送った歌人のひとりだと。波乱万丈の人生を送っている私としてはうらやましい様な物足りない様な。

 和歌うたを歌っていてその歌を実際に読んだ人と、選者の藤原貞家が詠み人知らずの中からこれぞと思った人の名前を合わせた歌との違いは殆ど分かりませんが、時々作り手とうたとの間に薄い隔たりを感じる事があります。この歌もそんな感覚の残る歌でもあります。でも彼が気に入っていたと言うのは良く分かります。私も大好き、魅力のあるうたです。

(早苗ネネ♪)

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

12月 10 13

「日本一明るい経済新聞」神奈川版を発行する、
かながわ経済新聞代表、相模経済新聞編集長 千葉龍太さん

by staff
かながわ経済新聞代表、相模経済新聞編集長 千葉龍太さんかながわ経済新聞代表
相模経済新聞編集長
千葉龍太さん
 
お名前 千葉 龍太(ちば りょうた)さん
ご年齢 30代
お住まい 横浜市港北区在住
ご職業 「日本一明るい経済新聞・神奈川版」を発行する、かながわ経済新聞代表、相模経済新聞編集長
HP 相模経済新聞
http://www.sokeinp.com/
日本一明るい経済新聞
http://www.akaruinews.com/
ご趣味 格闘技(空手4段、キックボクシング)
ご性格 まっすぐ

千葉さんは横浜のご出身なのですよね?

 そうです。神奈川区生まれです。地元は新子安周辺になります。小さい時から格闘技大好きで、がき大将でけんかばかりしていました。小学生のときから新聞記者になるのが夢でした。なぜかというと・・・新聞記者になればいろいろな人に出会って、いろいろなところに行けると思ったかえあです。歴史が大好きで小学生の頃、すでに三国志や水滸伝を読んでいました。一方、強いものへ「あこがれ」もありました。中学校に入るとフルコンタクトの空手を習い始めました。

 高校は県立の普通高校に行きました。進学校ではなかったので、気楽な生活送っていました。コンビニでバイトしてたりして、給料が出ると同級生と遊んでばかりいました。空手は続けていましたよ。大きな声では言えませが、他校の生徒とよくけんかもしました。ずっと反抗期が続いていた気がします。同級生の家に遊びに行ったときでした。その父親は大手通信社で記者をしている人でした。たまたま家にいたので、「新聞記者になりたい」といったら、「ちゃんとした大学に入らないと無理だよ」と言われました。一念発起して勉強することを決意しました。教師だった母親が病気になったことも契機になりました。そのときに初めて迷惑ばかりかけていたことを反省しました。

 高校3年生の夏休みから一日10時間程度勉強しました。「自分は試されている」と信じて「逃げてはダメだ」と心に言い続けました。その成果もあって全国模試の偏差値が38から65まで上がりました。いよいよ大学受験。第一志望、第二志望は落ちましたが、第三志望の大学に合格しました。なんとか大学生になれました。

 早速、空手部に入部しましたが、他の部員とレベルが格段に違っていました。これでは空手部に所属する意味がないと考えて、道場通いに切り替えました。より強くなるために、本格的にキックボクシングも始めました。

 本当は女の子が多くいるテニスサークルなんか入りたかったのですが、「何事も一つの道を極めなさい」という父の言葉もあって続けました。大学時代はまさに格闘技一色でした。空手やキックボクシングのほか、ボクシングや中国拳法も習いました。ボクシングでは元世界ランカー、中国拳法では多くの熟練者に出会い、教えを受けました。いろいろと挫折もしましたが、その度に、よき師、先輩たちとの出会いがあり、強くなれました。そして、さまざまな大会に出てタイトルを取ることができました。全日本総合格闘技大会で優勝したり、K2グランプリでも入賞しました。「プロのキックボクサー」としてリングにも立ちました。でも、そのために大学を留年してしまいましたね。

 記者になりたかったので、格闘技の世界で生きていこうとは思いませんでした。でも、格闘技ばかりやってきた人間にとって、現実は厳しいです。当時は就職氷河期だったこともありますが、就職活動でマスコミ各社を受けますがすべて全敗しました。それでも諦められず、大学を卒業した後も、マスコミ向けの予備校に通いながら就職浪人しました。就職浪人の期間中は、工事現場のアルバイトなど10を超えるアルバイトを経験しました。

最初はテレビ局に入社したそうですが

 その後、コネなしで某大手テレビ局に合格しましたが、ニュース番組を制作したくて、就職したのは報道専門の某CSテレビ局でした。でも、実際の職場はイメージとはかけ離れていました。そのテレビ局では番組制作や取材は、下請けの制作会社に丸投げしていました。取材をやりたかったのに、それがかなわないこともあって悶々とした毎日を過ごしていました。そんなとき、たまたま見た、日刊工業新聞の記者募集の求人広告を見ました。チャンスと思い応募して、無事内定しました。2001年のことです。ご存知のように日刊工業新聞は、産業専門の日刊紙です。似たような新聞ですと日経産業新聞があります。

 記者の第一歩は相模支局から始まりました。入社してすぐにそこに配属されました。相模支局は相模原や厚木など県央地区を担当します。そこに立地する中小企業、とくに製造業を取材して、日刊工業新聞の首都圏版向けに記事を書きます。支局で記者は私だけだったので、毎日取材できて、うれしかったですね。とにかく、「記事は足で稼げ」と言われていたので、積極的に出かけていきました。そのときに相模原・厚木の中小企業の経営者の経営者の方々に非常にお世話になりました。半ば社会人になったばかりの自分に、世の中のこと、会社のこと、そして人生観など、いろいろなことを教えられました。それが今も財産になっています。

 東京本社の編集局第1産業部に配属になり、環境担当になりました。本当は相模支局に残留したかったのですが、そうはいきません。本社の記者として、霞ヶ関の環境省に詰めていました。ちょうど京都議定書が話題になった時期で、当時環境大臣だった小池百合子代議士の番記者も務めました。仕事を通じ、環境のことをより勉強したくなって、仕事をしながら法政大学大学院の環境マネジメント科にも通いました。

 3年後、配置換えにより製紙業界の担当記者になりました。担当になってすぐ、あの「王子製紙と北越製紙のTOB騒動」が起きました。各新聞によるスクープ合戦で毎日が緊張の連続でした。役員宅を夜回りして、他社にだし抜かれないかと心配していました。非常に厳しい取材が続きましたが、結局「王子製紙の事実上の敗北宣言」により、終わりました。もう精魂尽きた感じでした。

 1年後、今度は電機業界の担当記者になりました。流れが早いのが電機業界です。規模も大きい。当時は日本を代表する産業といえました。NECや富士通、パイオニア、ビクター…。大企業のトップに数多く取材し、日刊工業新聞の1面トップをよく書いていました。しかしながら、一生懸命やればやるほど、疑問が沸いてきました。果たして、これが正しい道なのかと。思えば、相模支局時代。中小企業の経営者たちに多く接してきて、その苦労もよく知っていました。そして彼らが産業を下支えしていることも。日本経済を支えているのは中小企業だ。しかし、中小企業の立場たった記事が書けていない。そんな思いにかられました。それにサラリーマン経営者と違って常にリスクを背負っている中小企業の経営者はおもしろい。

 2008年には思い切って神奈川新聞社に転職しました。愛する地元、神奈川新聞なら地元の中小企業の記事を書けると考えたからです。

配属された部署が整理部だったそうですね

 記事を書くぞと意気込んでいたのに、配属されたのは経済部ではなく整理部でした。整理部ではこれまでと勝手が違っていて戸惑うことばかりした。「人間至る所処に青山あり」とはよく言ったものですね。最初のうちは腐っていましたが、整理部でがんばろう・・何事も無駄にならない・・と信じて私なりに頑張りました。

 今思うと、整理部にいたから新聞のレイアウトを学べのです。念願かなって経済部に移ったのは、2009年でした。

 もともと、経済部は少ない人数で回しています。東京証券取引所や自動車工業会の記者クラブ、そして横浜財界を担当する横浜経済記者クラブなど、複数の記者クラブを掛け持ちしていました。横浜をはじめ、かつて回っていた県央地域の中小企業も積極的に取材しました。まだリーマンショックの余波が残っていて、どこも散々でした。かつての取材先が倒産したケースも目の当たりにしました。企業の相次ぐリストラで、お世話になった取材先の人たちが路頭に迷う光景も嫌というほど目にしました。そこで県内の町工場、地元経済に元気を取り戻してもらうため、月曜日の神奈川新聞経済面を「ものづくり面」にしてもらいました。これを1年間続けました。協力していただいたデスク、経済部長には今でも感謝しています。そのほか、横浜ベイスターズの売却問題、AIJ投資顧問による詐欺事件なども担当させてもらい、充実した記者活動を過ごせました。

なぜ相模経済新聞に入ったのですか

 そんななかですが、転機がありました。きっかけは、相模経済新聞の編集長に会ったことです。編集長は72歳の高齢で、「中小企業のための新聞を君に託したい」と熱く語られました。

相模経済新聞 http://www.sokeinp.com/

 給料は神奈川新聞の半分近くになってしまう・・・。でも、相模経済新聞は、かつてお世話になった相模原で愛されている新聞です。運命を感じました。世の中を、そして地元の産業を元気にするのも記者としての役割とも考えました。恩返しもしたかった。それが自分なりの男気でもあります。

 引き留められましたが、2012年10月に神奈川新聞社を退職しました。中小企業の現場の大変さを知っている自分こそが現場に役立つ明るい記事を書くことができると自負があります。

「日本一明るい経済新聞 神奈川県版」を発刊されるそうですね

 2代目編集長として奔走している中、自分と同じ志を持っている人が大阪にいることを知りました。中小製造業のための新聞、「日本一明るい経済新聞」を10年間作り続けている大阪の竹原信夫さんです。どうしても話を聞きたくて2013年5月、大阪にまで行きました。

日本一明るい経済新聞 http://www.akaruinews.com/

 竹原さんは元フジサンケイビジネスアイの経済部長で、現在は年間約500人の中小企業経営者に取材している伝説の記者です。

 明るい経済新聞は町工場の多い大阪で支持されている新聞で、発行部数3万部を誇ります。竹原さんはそれを1人でやっています。

 竹原さんにお会いしたときに、独立して自分なりの新聞を作ることを勧められました。

 ちょうどその頃、取材した厚木の経営者からもこんなことを言われました。「本当によい記事が書きたいなら、自分でも社長になってリスクを背負わないと、経営者の気持ちなんて分からない」

 そんなこともあり、2013年7月に独立しました。といっても相模経済新聞の編集は続けています。要は「サラリーマン編集長」から「外部編集長」になった訳です。

 たった一人で「かながわ経済新聞社」を設立しました。地元の経営者や商工会議所の応援もあって、商工会館にオフィスを構えられました。業務内容は相模経済新聞の製作代行、そして「かながわ経済新聞」の発行です。

 「かながわ経済新聞」は現在、発行に向けて準備を進めています。面白い紙面構成です。紙面左が竹原さんの思いを継承した「日本一明るい経済新聞・神奈川版」。そして右面が「かながわ経済新聞」です。

 購読料と地域(相模原、湘南、横浜)の経営者から、半ば「カンパ」とも言える協賛広告で成り立っています。

 協賛企業び数は20社以上になりました。全部、中小企業です。この時代に、嫌な顔を見せず、年間でも高い広告料を出していただく経営者の方々には本当に頭が下がります。その「男気」に応えようと頑張らないとと思います。かながわ経済新聞は日本初「中小企業に支えられた中小企業のための新聞」なんです。

 現在、毎年100社以上の現場を回っていて感じることは、「元気がある」「明るい」会社は伸びるということです。

 明るい会社の情報を発信することで、元気を分かち合えればいいと願っています。新聞を通じてビジネスマッチングができれば最高ですね。

いつも元気な千葉さんのエネルギーの源は何ですか

 人間が大好きなので、毎日多くの人たちにと出会うことで元気をもらっています。これまで素晴らしい出会いの連続でした。これからもきっと素晴らしい出会いがあると信じています。また、取材する立場の自分が元気でなければ、経営者の方にとって元気が出る記事も書けません。

千葉さんにとっての横浜は?

 「生まれ故郷。新聞で元気に」

 

(クリックで拡大画像)


いつもエネルギッシュな千葉さんに、そんな波乱万丈の人生があったとは・・想像もつきませんした。 中小製造業のために粉骨砕身されている、千葉さんの「かながわ経済新聞」と「日本一明るい経済新聞 神奈川県版」を私たちも応援していきたいと考えています。

(インタビュー:ヨコハマNOW代表 渡邊桃伯子)

 

11月 10 13

「ヨコオト」をご存知ですか?

by staff

 


横浜音祭り(ヨコオト) イベントの様子

「ヨコオトを知っている?・・・」
 
「それってなに?」
 
「横浜音祭りのことだよ・・」
 
「どこでなにをやっているの?」

 これが私の知人の多くの反応です。

 「横浜音祭り2013~音楽の海へ~」は、9月20日から11月30日まで横浜市内の各ホールや公共施設などで開催されている音楽関係のイベントです。この期間にクラシック・ジャズ・ロックなど300を超える演奏会が予定されています。

 主催は「横浜アーツフェスティバル実行委員会」ですが、実質的には横浜市の施策の一つです。
ヨコオトの公式Webサイトには下記のようなコンセプトが記載されています。

横浜市における文化芸術創造都市に関する今後の施策展開の基本的な考え方をまとめた
「横浜市文化芸術創造都市施策の基本的な考え方」の基本方針4
「賑わいづくり・観光 MICE 振興にもつながる、横浜らしい先進的な文化芸術を国内外へ発信」をもとに
 
幅広い市民参加や次世代育成
世界水準の文化芸術による都市の魅力の国内外への発信
賑わいづくりの創出と経済活性化
 
を基本コンセプトとして下記の3つの横浜らしさを加え、「横浜音祭り2013」を開催します。

 このイベント・・昨年の「ダンス」よりはましかもしれませんが、まだまだ市民への宣伝が足りません。

 横浜市が音楽関連のイベント企画に助成金をだして、「音楽あふれる街」にしていこうというこの試みは、私たちにとってはとて有意義なものになるはずですが・・。本当にもったいないですね。

 私の友人が横浜市に提案した企画が、横浜アーツフェスティバル実行委員会サポート事業となって、『パーカッションワールド』 ワークショップ&コンサート ~リズムで元気~ というイベントが、10月14日に開催されました。

 このイベントではプロの演奏に加えて、「打楽器を普及させたい」というコンセプトで、幼児に打楽器を体験してもらうコーナーなどもあって、会場は子供たちのはしゃぐ声であふれていました。「あまちゃん」のテーマソングなども演奏されて、会場全体が和やかな雰囲気に包まれた演奏会でした。

 主催者の日本打楽器協会事務局長の目黒一則氏は、「横浜市からの助成金もあって、今回は入場無料にすることができました。大人も子供も気軽に音楽に楽しめるヨコオトはこれからも続けてもらいたいですね。」と仰っています。

 「ヨコオト」はまだ今月いっぱい続いています。Webサイトを見ると、毎日どこかで開催されています。プロフェッショナルの演奏会だけでなく、参加型の演奏会もあります。お気に入りのイベントに出かけてみてはいかがでしょうか。

横浜音祭り(ヨコオト) http://yokooto.jp/


ヨコオトのポスター

 

11月 10 13

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第2回) 秋の味覚と11月料理コースのご案内

by staff

魚を焼くのって大変かしら?

 まだまだ暑いなぁと思っていたら、翌日には途端に肌寒い!極端な訪れをした今年の秋。秋は、短い間に次から次へと美味しいものが溢れ出します。
 くり、サツマイモ、ぶどう、いちじく、きのこ・・・そしてさんま!皆さんはご家庭でさんまを召し上がっていますか?
 年々日本人が魚を食べる量が減り、ついには肉食と逆転したとのデータも出ていますが、やはり魚は焼きたてを食べるとおいしいですね。
 ガスコンロ(IHのお宅も増えましたが)に付属の魚焼きグリル、これは使ったことがない、という方もかなり多いようです。洗うのが面倒くさい、これが一番の理由のようですが。
 毎回、使い終わったらすぐに水と洗剤を振りかけ(重層でもいいですね)、食事後に洗う。これでokだとは思いますが、それでも面倒な方には、フライパンをお勧めします。

 


キッチンスタジオ 「ジュイエ」
玄関の花を冬仕様にしました

 さんまは長いので、半分に切りましょう。肝が苦手な方は、ここで抜いておくと良いと思います。肝を抜いたら、お腹の中をよく洗い、キッチンペーパーで拭き取ります。

 塩を降り、10分ほど置いて下さい。魚全般に言えますが、この塩で生臭みを取る事が出来ます。置くと、表面に水が出てきますので、またキッチンペーパーで拭き取って下さい。塩は多少残っている感じでかまいません。

 

 テフロンパン等を熱し、油はひかずにさんまを並べます。我慢して、あまり動かさないようにしましょうね。皮がぱりっと焼けますよ。
 網焼きをするのが理想的で、余分な脂が取れてくれるのですが、さんまのように、あまりにも脂がある魚を網や、魚焼きグリルで焼くと火がついてしまう可能性もありますので、こちらのほうが初心者さんにはいいですね。

 フライパンで焼く時に、沢山脂が出て来たら、キッチンペーパーで拭き取って下さい。そのままにしておくと周りに飛び散ってしまいます。コンロ周りの油汚れは調理しながら拭き取っておきましょう。表面がぱりっとしたさんまが焼けたら、熱いうちにどうぞ!
 ちなみに、調理に使ったテフロンのフライパンはそのままで。食事が終わって冷めてから洗いましょう。テフロンパンに水をかけて急激に冷ますと、表面のコーティングが取れやすくなるので、注意!です。

11月の料理コースのご案内

 私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

11月のコース内容

フランス料理基本コース 『オニオングラタンスープ』
『イカのセート風』
『りんごのコンポート』
今月は、フランス料理の3品です。
オニオングラタンスープはよく知られていますが、フランス人は夜食や風邪を引いたときに食べると言われている、体に優しいスープ。カフェメニューの定番です。大量のタマネギを使いますが、切り方、炒め方にコツがあります。
イカのセート風。聞き慣れないメニュー名だと思いますが、こちらはおもてなしに一押し!イカとトマトを使った漁師料理。付け合わせのバターライスはオーブンを使って仕上げます。
リンゴのコンポート。簡単なのにとびきり美味しいデザートです。リンゴがおいしい季節。食べきれないほど頂いた!なんていう時、作っておけば保存食にもなりますよ。

オニオングラタンスープ

イカのセート風

りんごのコンポート

フランス料理応用コース 『牡蠣のフリット』
『栗とポルチーニのリゾット』
『アップルパイ』
秋、冬の食材満載です!旬の牡蠣をふわっとした衣で揚げます。カキフライとはひと味違います。
森の恵みたっぷりリゾット。作り方をマスターしましょう。アップルパイも作り立てを食べると最高ですよ。
家庭料理コース さんまやさばのお魚料理、ビーフフシチュー、かぼちゃやキノコのおかずなどです。

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にて
フランス料理を学ぶ。
同校 フランス校、レストラン研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める。
独立し、キッチンスタジオ ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

11月 10 13

2013年11月 三ツ池だより 「より豊かに生きる道」

by staff
Navigation: HOME»コラム»横須賀詢

 今からおよそ370年前の1643年の晩秋に、宮本武蔵は九州・肥後の金峰山の麓の霊厳洞という洞窟で五輪書を書いている。今でいうと薄給で熊本藩の細川家に草鞋をぬぐ。最晩年に何を思ったのだろうか。細川家に仕えるというより、しみじみ自分の歩んできた人生を振り返りながら、戦乱から落ち着いた時代のなかで、生きてきた充実感を味わいながら、未来における剣術のあり方、剣術者の生き方に思いを馳せたのではないか。

紅葉や宮本武蔵剣ぬかず
横須賀詢

 洞窟は足場の悪いところにあるが、寺の前は穀倉地帯である。おだやかな空気がただよっている。熊本城から徒歩では一日がかりの位置になるのだろうか。その日に着くという距離感がいい。途中には峠があって、茶屋がある。宮本武蔵の剣は堂々としているが、無駄な争いはしない。多勢には向かわない。勝負も命も大事にしてきたのである。やせ我慢はしないのである。必要な勝負をすると、あとは追っ手を欺いたり、逃げるのである。勝負の時に相手を焦らして遅れて現れたりする。生きてこそなのである。二刀流も場にあわせて使い分ける。勝負は野っぱらであるとは限らない。部屋の中であったり、路地であったりする。「武士道は死ぬこととみつけたり」とは覚悟しながら、生きてこその人生を歩むことだとしている。

黄金の穂ひとはしずかに去っていく
横須賀詢

 熊本から縁があってあるタクシーの運転者が案内してくれた。なかなか霊厳洞まで尋ねる人は少ないそうであった。そのせいか、駐車をどこにするか探しているうちに、岩見観音からどんどん細い道を下って行った。大丈夫なのとおもっていたら突然雲厳禅寺のところにでた。そして稲穂の垂れる田圃の少し上がったところにPマークが見えたのだった。

 Pがまた印象的なのだった。見知らぬところのPに車を突っ込んで、雲厳禅寺や霊厳洞にいくのも変だと思って、「カフェ&アンテークショップのココペリ熊本」の店に入った。英国装飾品特集していたこの店は少し奥まったところにあったが、広い庭の先に静かな佇まいのなかにあった。落ち着いた民家になっていた。私は薪ストーブの前の席に座った。稲穂があり、霊厳洞があり、アンティーク洋風装飾品があることが、まったく不自然ではないのであった。いつぞやどこかで、「その土地に根差す文化を大事にすることだ。新しい時代はその文化のなかから必ず出てくる」と聞いた。その店の前の田圃のところに新しく鴨の遊び場が作られているのも愉快だった。

 熊本から霊厳洞への途中に峠の茶屋があったが、夏目漱石の「草枕」に出てくる茶屋のモデルになったところだという。熊本に奉職していた夏目漱石が実際に歩いたところだ。「草枕変奏曲」のなかで横田庄一郎氏は次のように書いている。「草枕は山奥の温泉場を舞台としており、俗世間から逃れてきた画工の非人間の旅を一幅の絵のようにも見ることができるだろう。何よりも美しい自然がある。自然天然には人情がないのだから、見る人にも人情はない。ただ美しいと思うだけである。その自然の風景に心を開放していく画工を迎え入れるのは温泉である。」

 宮本武蔵がこの温泉に浸かったという話は聞かないが、足ぐらいは通りすがりに浸けたことがあるのではないか。なにか夏目漱石と宮本武蔵の足跡が、私には頭の中で交差するのである。宮本武蔵が晩年を熊本のこの地に過ごし、五輪書を遺書のように書きまとめたのもわかるような気がする。

 五輪書を読み下そうとしている時にお世話になった先輩の訃報が届いた。晩年もだが長い間教会に通っていて、お世話役もやられていたと聞く。書道や謡曲をやるのは聞いていた。「生きるとは孤独なものではない。他の人の命を削とって、また自分の命を削って、他の人の命につながっていく。」教会での祈りのなかでのお話しであった。先輩はいい人生を過ごされたのだと感じた。そして、その週末の座禅の法話は次のような内容であった。「地震で塔が倒れた事例はない。塔の中央には芯柱があって、それは地に接することなく浮いている。」芯柱さえ周りに支えられているとお話のなかで感じた。

銀杏の葉の寝床にも雲掛かる
横須賀詢

 「龍が表れるといいことが起こる」と私は聞いてこの二カ月探し続けてきた。熊本の空にも、横浜清水ヶ丘教会からの坂道のうえの空にも、同じ思いで眺めていた。草枕で那美さんは画工に次のように言うのである。「私が身を投げて浮いている所をー苦しんで浮いている所じゃないんですーやすやすと往生してういている所をーきれいに画いてください」より豊かに生きるとはどんな生き方なのだろうか。宮本武蔵が五輪書を書いたこと、書く場所を金峰山の麓であったこと、那美さんが画工にお願いしたこと、それは何を意味しているのだろうか。

呑龍の支那蕎麦は秋の味
横須賀詢

 かの運転手さんは30年来、いやもっと前からの行きつけで、とてもおいしいところがあるといって、呑龍という店を案内してくれた。龍を探していて、毎日空を眺めているので、見つけられないと思っている所に、龍の名のついたお店でワンタン麺を食した。

 五輪書の中の最後の章は「空」である。空はないのである。物事にあることを知るからないことがわかるのである。これすなわち空である。私たちがない物探しをしている。それでいてないものねだりをしている。自分のなかにあるものを見つけていくと新しい可能性が出てくる。

 より豊かに生きる道とは「ないこともあり、あることもある」そのなかで、自分を自由にしていく。自分のなかにあるものが、人のお役に立っていることを知ることこそなのだと、思う今日この頃である。11月は私の本業の計量強調月間であり、11月1日は計量記念日であることを付け加えておきたい。

 

Photos

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(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

11月 10 13

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第8回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第8回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 グローバル競争社会では、仕事・生活の仕方や考え方に大きな軌道修正が求められています。過酷な競争は人間世界だけではなく、動物・植物の世界でも大昔から繰り返されてきました。高温多湿の日本では500種にのぼる雑草が居場所を求めて知略を尽くしているといわれ、人間も腕力・運だけに頼らず知略を尽くさなければならない時代です。100歳を超えてなお “自分以上のものをめざす。抽象とは形を探るもの” と言い切るのは女性書家・美術家の篠田桃紅さん。年齢が言い訳にはならないことを教えてくれます。21世紀の “世界村” では、“コラボレーション(連携・共同作業)のスキル” “空気ではなくコンテクスト(暗黙知)を読むスキル” “お金とリベラルアーツを融合するスキル” が欠かせないといわれます。目に見えるハコモノでなくソフトウェア&アートを重視。目に見えないものの蓄積が仕事・生活の総合力であり、平常時以上に非常時・土壇場で力を発揮してくれる源泉。梁塵秘抄では”鵜飼はいとをしや、萬劫年経る亀殺し、又鵜の首を結ひ、現世はかくてもありぬべし、後生わが身を如何にせん”とあります。殺生戒を犯す罪深さ、更に深読みすれば、鵜は亭主で女房・子供が鵜匠との見立てもあるとのこと。充実さえしていれば何をかいわんや。葛飾北斎は “勝川春章” “狩野派” “土佐派” “琳派” を渡り歩きながら、好きなように生きて画狂人の道を貫いたのですから。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

強者は創造する・弱者は模倣する、と種田山頭火 外から日本を見る視点
どの世界も成熟化すると平準化しがち 自分の人生の辞書は自分でつくる
若手を決して単なる頭数として見ない 敗戦処理に使うのはもってのほか
変わらぬ商人の掟 始末すること、才覚を発揮すること、算用が働くこと

 種田山頭火は自由律俳句の代表格の一人です。雲水姿で旅をしながら句作し、空の上や地の底から人間世界を見続けました。自分の人生は自分で編集すること、模倣を拒否し丸くなることもよしとしない生き方。組織人には理想的でうらやましい生き方に感じられ人気絶大ですが、現実は体調不良からくる精神不安定から自殺未遂を起こしたり、知人への手紙では生き辛さをこぼすこともあったようです。支持者の経済的援助も受けており、そのプレッシャーは半端なものではなかったはずです。少し前の高度経済成長時代、組織に雇われることが豊かさにつながった時代がありました。学校教育も雇われる人間が主眼の訓練場と化した感があり、現在もその延長線上で更に加速度を増しつつあります。しかし、世界は天変地異と政治的動乱による多彩な資本主義の時代に突入しています。“地獄から来た人間は走らない、叫ばない” との種田山頭火の言葉に耳を傾け、いま一度歩むべき道を考えてみる必要があるのかもしれません。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

戦略、業務プロセス、ICT(情報通信技術)の一気通貫 いよいよ種子島の出番
事業創造、サービス深化、意識改革までカバーする 自律・分散・協調を地で行く
時間や場所の制約をとり除く 貴重な人材を特定の組織や場所に固定化させない
脳がコンピュータにもつ優位性 不完全にしか定義できない観念を、構造化する力

 1543年、種子島に鉄砲二丁が伝来しました。その対応は、大量購入の道を選ぶことではなく、製法を詳細に研究して技術を吸収し、鉄砲の大量生産につなげていくことでした。日本人のDNAはこういうところにもその片鱗をみせています。ICT時代の決め手は人間の頭脳であり、脳がコンピュータにもつ優位性は、不完全にしか定義できない観念を構造化する力であり抽象化能力。クラウド技術を活用した戦略・業務プロセス・おもてなしの一気通貫。失敗してもコストは小さく済み、ジュリアス・シーザーも得意としたリターンマッチの機会に富む環境。ビッグデータは新たな天然資源、これを用いたプロトタイピングによるフィージビリティスタディもビジネスの強力な武器になるはずです。ただ、前提として “何をやらないか” という戦略軸だけは不可欠。江戸時代のライフスタイルは “モノを持たないこと” “生きることに飽きないこと”。弥次・喜多から学ぶべきは、学問はなくとも知恵や頓智だけはたっぷりあるというところですかね。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

子どもは単純であることが一番の強み スランプには縁がない
大人は知識を身につけ、理屈を並べる 時々はスランプに陥る
理屈・分析より本能・直観 教科書にないものが最後の決め手
子どもは身に付くよう稽古 大人はケイコのための稽古に走る

 “童心の単純さではなく達人の直截” と核心を射る大切さを指摘したのは岡倉天心です。子供の純な心は本質を見抜き侮れません。大人も知識だけに振り回されず、より本質へ踏み込む洞察と覚悟が必要だということですね。ケイコのための稽古に走るばかりでは子供にも笑われそうです。岡倉天心は、若くして漢籍を修得し、横浜居留地の塾では英語も学びました。また、明治時代初期の “廃仏毀釈” で破壊された多くの仏像の修復・保存にも尽力し、そのおかげで興福寺 “阿修羅像” は今の姿で拝観できるようになったといわれます。代表的な弟子には横山大観・下村観山・菱田春草。人を育てるには本物の絵をじっくり見せること、時間はかかるが他に道はないとの考えは揺るぎませんでした。ミラノ・スカラ座のプリマドンナも “ドサ回り” の経験が不十分だと人気が持続できないとのこと。最短距離による上昇は、登るのも早いが落ちる時も一気にきて止まらないということですね。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(七)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第8回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(七)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など

 

11月 10 13

中小経営のニッチから国際化へ(第3回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.ニッチを深めるには

 前回まで見たように、ニッチ(niche)分野は、確かに現状のままでは見えてこない、潜在したものです。しかし、顕在化すると、大きなブルーオーシャン(未踏領域)として市場が見込めます。

 今回は、その発見を促す方法とニッチ分野を深める方法について説明しましょう。

ニッチ分野の探索

 多くのビジネスがそうであるように、お客様の要望や希望がビジネスの源泉であることは変わっていません。変わっていくのは、要望や希望であって、まるで捉えどころがないようにも思えます。更に厄介なことにお客様も要望や希望の認識がないということも良くあることです。

 となると、よく言われる「顧客の声」を聴くこともかなり辛抱のいる話です。まるで、「当たり」が来るかどうかわからないのにくじを引き続ける気分です。せめて、何度目に「当たり」が来るかもしれないとか、この分野にある可能性があるといった皮算用が欲しいと思うのは私だけではないでしょう。

 ニッチ分野の探索は、実はそれほど「くじ引き」のようなものではないのです。ただ、お客様も売り手の我々も常識、あるいは前提条件と思っていることに隠れている場合が多いといえます。事例を見てみましょう。

キッコーマンの鍋つゆ

 秋から冬にかけての家庭料理で人気の鍋料理。鍋料理を手軽に家族や友人と楽しむために市販の「鍋つゆ」を使う人も多いでしょう。確かに、調味料や食品メーカーであるキッコーマンにとって主力商品である点から、その需要は固定的にあるように思えます。

 業界情報によると、昨年は、トマト鍋やカレー鍋といった「変わり鍋」に人気があったとありますが、売り上げを見ると、寄せ鍋やちゃんこ鍋といった定番のオーソドックスな鍋に需要は回帰しはじめてるといわれています。キッコーマンはこう言った業界では断トツで強いと言った位置付けではなく、むしろ定番の鍋つゆで勝負したいところです。

 そこで同社の開発スタッフの発想が出てきます。これまでの自分たちの商品に対する疑問です。本当にお客様は自分たちの商品、さらに言えば競合他社の同製品に対してもお客様は満足しているのかという疑問です。 開発チームが、幾多のアイデアを出して、チーム以外の社員にアンケートを取り、消費者へのインタビューも実施しました。

 入念な調査でわかったことは、味そのものの要望や希望ではなく、「途中で味を変えたい」という食べ方に関するものでした。これは開発チームにとっても大きな気付きでした。それまでの真っ向からの味の勝負ばかりに議論が集中していたからです。

 そこで、アイデアとして 1回に2種類の味が楽しめるという鍋つゆを考えることにしました。 これに基づいて商品を試作し、モニター調査を行いました。ここでも、開発チームがそれまで気付かなかった内容がでてきたのです。鍋の味を変えるといった前提にしたことで、鍋を囲んで家族や 友人たちの間にコミュニケーションが生まれ、それから口コミが増えていったからです。

 その後、試作を繰り返し、種類は「ちゃんこ・白湯」、「鶏がら塩・坦々」の2つで商品化しました。既に同社によると販売計画の1.5倍のペースで売れているとのことです。

 同社のプロダクト・マネージャー室の山本裕哉氏によると、
『味種だけでのバリエーションで新市場を開拓するのではなく、消費者のニーズを深く掘り下げることに重点を置いた』

さらに、
『固定観念にとらわれなければ、市場に出ていない新しい商品は開発できる』

とも語っています。この言葉にあるように、ニッチだからといって必ずしも目新しいところにその種があるのではなく、売り手では常識と思って顧みないところにその種があったのです。

2.ニッチ分野の探索に共通すること

 さて、今回のキッコーマンの成功の要因はどこにあるのでしょうか。どうやら、効率的に探索を行うためには、既存事業の前提条件や業界の常識を再度見直す必要がありそうです。

前提条件や顧客のニーズは、商品投入のときと変化していないか

 何年も同じ商品を供給するといっても、多少なりでも、品質や性能、あるいは荷姿(パッケージなども)が変化するはずです。これは、お客様の要望に応じて変えてきた結果です。また、商品のラインアップを並べていくだけでも、お客様のどんな要望(ニーズ)に応えて変わっていったことが解ります。

 となると、この変化をみると「これは少数意見だから」といって取り上げてこなかったことはないでしょうか。最初は確かに少数意見ですが、それに自社が応じることで売上が拡大した事実も見つかるはずです。

販売の現場で常識になっていることに顧客は100%満足しているか

 営業や販売の現場で、お客様に納品、販売する際に、無意識にお客様が困っていることを無視してはいないでしょうか。これをチェックするときのヒントとして、他の業界での販売方法を見たり、比較することが役立つ場合があります。

 例えば、部品の納入を行う際に、お客様の購買部門に納品するとします。購買部門は、お客様の他の部門にそれを渡し、現場の声を聞いている筈です。「いつもの納品だけど、どうだい?」「あそこの部品は性能は良いんだけど、納期にムラあがるなあ。」といった声です。

 この声が、納品した自社の営業が拾わなければならない情報です。どうして納期にムラがあるのか。

 納期に厳しい生鮮食料品を扱う業界では、このようなことは許されません。この部品と食料品を同じに考えるのは非常識ですが、食料品がどうしてそのようなことがおこらないのかに疑問を持てば、納期に対しての気付きが出てきます。さらに言えば、ムラの多いところから、一律でもっと速く納品出来ることができるかもしれません。

アフターマーケットをフォローしているか

 この話は、販売を一過性のことと考えなければアフターマーケットとしてとらえることで、もっとニッチ分野を効率的に探し出せます。

変化をアイデアに活かしているか

 折角、聴いたお客様の声を少数の意見として活かさないのは機会損失です。何もすべての意見を取り入れよ、というわけではありません。少数の意見と思われている中に、自社の商品の弱点や強み、可能性を語っているものもあるからです。この気付きをアイデアとして社内で取り上げられる活動も重要になります。

3.ニッチ事業の展開

 良く聞くお話に「いや、良くその話は聞きますが、実際どれくらい売れるかわからないので手が出せませんよ。」といった内容です。さらに、「確実に買ってくれるお客様がいればばつですけどね。」とも。

 さて、いかがでしょうか。もっと言えば、売れるのは解らないことは競合他社も同じだから、当社は手を出さないとは思っていませんか。

 このような状態ではいつまでもニッチ分野を開拓することは出来ません。どれくらい売れるのが解らないなら、そのニーズの強さを調査しましたか。確実に買ってくれない要因をさぐりましたか。さらに、競合他社で出てこないのは本当にその理由だけでしょうか。

 すべて、一歩でて調査したり、試験的に挑戦してみたりした結果であればニッチ領域がないと言えますが、多くの場合、売り手側の勝手な思いで「売っていない、作っていない」だけかもしれません。

 ニッチ分野で事業にすることは確かに大変なことですが、上述のような『引き蘢り』の態度や見方を改めない限り、先ずはその一歩も出せないことを知っておきましょう。

※これまでの「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。

次回の予告

今回の話を受けてニッチ事業の展開、さらに国際市場への挑戦について考えてみましょう。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

11月 10 13

11月のモノ研は「製造業とファブラボの関係」がテーマです

by staff

 

11月28日のセミナーは「製造業とファブラボの関係」がテーマです

「ファブラボ」をご存知ですか・・・
世界50ヶ国200か所以上に広がっている実験的市民工房のことです。2013年8月横浜で「世界ファブラボ会議」が開催されました。今回のセミナーでは、世界会議の運営に携わったNPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボ代表理事の杉浦裕樹氏に「世界ファブラボ会議」の報告をしていただきます。

セミナー会場である横浜関内の「さくらworks」には、3Dプリンタやレーザー
カッター等の工作機器を備えた「関内ファブラボ」があります。
(セミナー後に「関内ファブラボ」の見学も予定しております)

基調講演は、3Dプリンタの設計者である増田恒夫氏(SHC設計代表社員)に、「3Dプリンタで作ること」をご講演いただきます。
事例発表は、落合孝明氏(株式会社モールドテック代表取締役)と室根貴之(株式会社MURONE取締役)に「変貌する製造業」についてお話いただきます。

杉浦氏・増田氏・落合氏・室根氏のパネルディスカッションを通して、参加者の皆様と一緒に「製造業とファブラボの関係」について考えていきます。

セミナー終了後は、懇親会を行います。多くの方々に参加していただいて、講師・参加者との交流を深めていただきたいと思いますので、皆様奮ってご参加ください!!

横浜売れるモノづくり研究会 http://www.monoken.net/

開催概要

日  時 11月28日(木)
研究会セミナー 14:00~17:00
交流懇親会   17:00分~19:00
会  場 さくらWorks 会議室
横浜市中区相生町3-61 泰生ビル2階
tel:045-664-9009
会  費 3,000円(懇親会代含む)
申  込 下記の申込フォームに入力してください
https://www.supportyou.jp/monoken/form/3/

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

11月 10 13

書評 「五輪書・自己を磨き、人生に克つためのヒント」 PHP研究所 宮本武蔵著・渡辺誠編訳

by staff
 

 「今からおよそ三百七十年前の寛永二十年(1643)の晩秋、九州・肥後の金峰山の麓の霊厳洞(れいがんどう)なる洞窟で、彼は老残の病体に鞭打つかのように、この畢生(ひっせい)の大作の筆を執っている。」まえがきに編訳者の渡辺氏は書く。

 この2013年9月の金峰山の麓の稲穂が小金色の時に、偶然私は霊厳洞に立った。岩のごつごつした道を、五百羅漢に迎えられるように過ぎると大きな洞にであうのであった。

 地・水・火・風・空の五巻にわかれているのは、仏教における宇宙観である五大五輪からきているのだ。

 地の巻には宮本武蔵の創造した剣のバクボーンが述べられている。「真剣勝負に勝つための兵法の知恵の基本は、生きるために自分の弱さに克ち、強力な他者に勝ち、組織を動かして勝ち残らせる普遍的なヒントとなるものである。」宮本武蔵の興した兵法は二天一流という。「小さいことを鍛錬して積み重ねるとわが自然の動きが兵法の神髄に当を得ることになった。」

 「武士と生まれたからには、何事においても他者より優れようと志し、兵法を修業して、一対一の切合いに勝ち,主君のために、自分自身のために名を上げ、身を立てるものである。ここに兵法の徳がある。」 兵法の道と言う事の中で「自分の専門分野以外のことに無関心である人は、創造的な仕事をすることができない、とは実業の世界だけでなく、学問や芸術の世界でもよく言われることだ。」

 水の巻は水の境地に至る意味をこめてのことである。「水は四角の器の中では四角になるし、円形の器では円形になるかと思うと、一滴の水が、青海原ともなる。また、水は雑じり気なく清い、という意味から私の流儀のことを水の巻として、ここに書くものである。」では!「大将の用いる兵法は、一対一の戦いにおける兵法を、そのまま大きくすることに他ならない。」「うわべばかりの剣術の是非を確かに見分けて、一人の敵に勝つことに自由を得ることは、世界のあらゆる人間に勝ことに等しい。」

 噛み砕いて書くのは難しいがとまえがきがある。「書いておることを、自分の身に引き取ってみることだ。読むと思うのでなく、習う、または、まねをするというのでもなく、自分の心に突き刺さることを見出し、これを常に実行することである。」心と体のかねあいを工夫することだという。「小心と見られる者は、大胆なことをすべて心に叩き込み、大物と見られる者は、細々としたことを十分に心に知らしめておくこと。そして、その心の持ち様に自己満足することのないようにすること。」

 そして兵法の身なりの事にも触れる。「兵法の姿勢については、常の身、自然体ということになる。人間の日常自然の姿勢と、兵法の姿勢とを同じくすることが大切である」太刀の持ち方にもふれている。「手にしても、居付くことは好ましくない。居付くとは固着する手は、死ぬる手、すなわち声明を失った手であって、対して、居付くことのない手は、生くる手、と心得ておくことである。」

 火の巻は集団戦のことを書き記している。「火というものは大きくもなり、小さくもなり、きわだって尋常ならざる状態を呈するものだから、火の巻と称して合戦のことを書くものである。」「枕をおさふると云う事」という項目がある。相手に有効に働くことを押さえ込み、敵の働きをおさえてみせるということでは「敵と攻め合うとき、敵の何らかの意図を、敵がいまだ実行せぬうちに見て取り、敵が打つと見れば、その頭字の”う”を押さえ込んで、その後を封じることなのである。」先手を取ることなのである。敵になるという項目がある。「敵になるとは、自分の身を敵の身になり変えて、敵の心理に思いをはせることである。」

 山海のかわりについてで次ように書かれている。「一度で成功しなければ、もう一度その方法で攻め立てて、それでも成果が出ないとき、まったく変わった戦法を唐突に用いること。なおかつ効果がないときは、また、全然別の手段に出ることである」だから「ぎしぎし軋み合っていると見たときには、いつも新たになるの教えにより、一気に心を転換して、意想外の戦法によって勝つことだ。」

 風の巻は世の中に行われている兵法の流儀のことを記載している。「自分では正道と思っていても、とらわれない見地からすれば、真実の道とはいえないことになる。真実の道を究めなる姿勢でないと、ほんの少しの心の歪が後々大きな歪となってしまうから、このことをよく検討しておくべきだ。」「他者があってこその自己ということに目を開いて、世の人間について知ることは、わが道を正すうえでも大切である。他流において強みの太刀というものがある。仮に、強みの太刀、で相手の太刀を強く振ると、張り余って体制が崩れ、必ず思わしくないことになってしまうものである。相手に強い衝撃を与えると、自分の太刀も、折れて砕けることもある。であるから、強い太刀などというものは、ないものと心得よ。」

 他流における目付の教えについて「敵との試合に馴れるうちに、相手の人間の心の軽さ重さというものを察知し、修行によって、相手の太刀の遠い近い、遅い速いということまで、どのようなことでも見えるようになるものだ。」「大局観を忘失すると組織力は低下するのでこの理を鍛錬することだといい、伝授するときは学ぶものの技量、知恵のつき具合を尊重し、それに応じた教授法を導入し、自然にその道の深い教えに近づいていくように仕向けるのだ。」

 空の巻は兵法の道は、奥も入口もなく、空であることをいおうとしている。「武士は兵法の道を確かに身につけて、そのほかの武芸をよく稽古することだ。その修行を、暗さも迷いもなく、四六時中、怠ることなく行うことで、”心”と”意”の二つのこころを磨き、”観”"見”の二つの眼を研ぎ澄まし、一点の曇りもなく、迷いという雲がからりと晴れ渡った境地に至ることが、実は”空”の教えと受け取るべきである。」

 実は「中小企業地球環境問題交流会in熊本」に参加した。どうしても行きたいと思っていたので宮本武蔵の里に足を延ばした。「新編新訳 五輪書 兵法二天一流真諦」宮田和宏編・訳をそこで求めた。その後この本に書店で出会った。まことラッキーな出会いであったことを付け加えておきたい。

(文:横須賀 健治)

 

 

11月 10 13

株式会社メジャーテックツルミ主催 「計量展示会・講演会のお知らせ」

by staff

 

「計量展示会・講演会」開催概要

PDF(390K)をダウンロードする

 

11月 10 13

佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第23話 茶懐石

by staff

 世界遺産に日本料理が登録される事になりました。 今までお料理で登録されているのは、フランス料理だけです。 やっと、日本の料理が登録された訳で、料理人さんたちは誇りに思っております。 日本のお料理の技もすごい物があります。 今回は茶懐石の流れの中で料理人さん達が見せる技の お・は・な・し・お話!


(包丁の説明をする:佐々木彬文)

 

白御飯

 茶懐石の一番初めのお料理が、白御飯(これはちょっと緩く炊きます)と汁とお向う(向附)です。 決して華やかでは有りません。初めての方は凄く期待に胸ふくらませて、そして、現実を見てがっかりかもしれません。 華やかにお料理がいっぱいお膳の上に乗っているのは、酒の席を目的とした「会席料理」です。茶懐石は禅宗さんから始まった修業のための食事なのです。

 お話が横道にそれましたが、ここに一番目の技が隠されています。 御飯を炊くのは昔ながらのUFOみたいなお釜です。 決して電気釜とかIH釜とかでは有りません。 最新鋭の科学の知恵がぎっしり詰まったお釜では出来ない技です。 と申しますのは、最初の御飯は少し緩く炊いていますが、これは、料理人さんが付きっきりでお釜の圧力を少し抜きながら炊く技なのです。 それで釜の真ん中に少し緩い炊き上がりの御飯、周りは仏の艶々した御飯、そして釜の縁にうっすらとお焦げを、一度に炊いてしまうのです。 それで最初のお椀には、裏千家では一文字に、表千家では丸くした御飯の一口分が盛り付けてあります。各御流儀で決まっております。とても大切な盛り付けなのです。

 

椀物

 その季節の椀です。 見た目に美しく、もちろん美味で有り、椀の蓋を開けた時のお客様の笑顔が、ほころび喜んで下さる姿が一番の御褒めの言葉になります。ですから力が入っています。

 葩餅(はなびらもち)「えっ!お菓子では?」っておっしゃる方は中々の通ですが、椀盛にも御料理の葩餅があります。 蓮根を摩り下ろして卵白と一緒に鍋の中で練ってゆきますと餅が出来上がります。 それに吸い地をそっと掛けて召し上がって頂きます。「蓮根から餅を作る」知っていて下さい。


(料理と絵:佐々木彬文)

 

煮物

 「牛蒡(ごぼう)の一番美味しい所はどこでしょう?」「クイズ?」答えられる方は中々の食通です。 答えは「外側」です。 芯のところはちょっと硬いですが、周りは柔らかくて香り良く美味です。

 そこで牛蒡の芯を抜いたお料理を御紹介させて頂きます。 それは、あく抜きなど下ごしらえした牛蒡約4寸ていどをまな板の端で先の尖った串の様なもので最初ガリガリ→こちょこちょ→ごろごろすると「スポン!」と芯が抜けます。 牛蒡のパイプの出来上がり! 輪っかのように使っても良し、中に詰め物をしても良し、お客様が召し上がる時に「え、えっ?!」って驚かれます。

 

箸洗い

 いろいろとお料理を頂きますと「一休み」ですよと”箸洗い”が出されます。 「箸洗い」とは背が高く小ぶりの椀で、私はよくお弟子さんに”世界一うすいスープ”だと言ってます。 具に工夫をするのが料理人さん達の楽しみです。私が好んで作る具に「鱧の浮き袋」があります。

 

八寸

 お料理でよく使われる言葉が「八寸(はっすん)」ですね。 何か分からなくても”八寸”と言う言葉はよく耳になさると思います。 裏千家では右上に「真」を盛り左下に「草」を添えます。表千家様は「天」と「地」で盛られます。

 この八寸質素なお料理ですが、季節の物で工夫をして料理人がとても力を入れるお料理です。 そして、お客様にお出しした時の八寸の美しさは、皆様感激なさる事と思います。 華美で無い盛り付けに、懐石の真髄を見出せます。「真」に「織部椎茸」など、ちょうど今の季節にピッタリです。 が、ちょっとこだわって添え物の「草」のお料理を「房大根」という料理はいかがですか? これは酢の物で、輪切りの鷹の爪に白髭割干大根(無ければ干し大根で結構です)を通し、流水で一晩浸けて真っ白なリボンの様になれば、甘酢に漬けて味を付け八寸に添えます。美しいお料理です。 どの様にして鷹の爪に通したのか? どのようにして作るのか? 先ず判らない料理です(笑)

 

小鉢(進肴)

 今の季節にしか出来ないお料理が「柿煎餅」です。 柿を1.5mm位に薄くスライスし、鯛等の白身魚も三枚におろし、塩で〆て、加減醤油で和えて柿と合わせ、大和芋などを摩り下ろして、御出汁と合わせ餡かけにします。あっさりとして優しい味で、口直しにもってこいです。

 摩り下ろした芋を小鉢に盛る時、技を使います。 御箸を一本ずつ両手で持ち、粘りの有る芋を適量お箸に絡ませくるくると廻して小鉢に移します。この技で無いと上手く盛れません。

 

懐石料理

 未だ未だ、技はありますが今回はこの辺で、皆さんお料理を楽しんで下さい。 お料理の指導もしております。懐石限定ですけど(笑)

文・絵:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)/写真・編集:高野慈子

 

佐々木彬文プロフィール

● 日本画家(彬文会主宰)
● 茶道講師(裏千家 佐々木宗秀)
● クラッシックギター演奏者

 

お教室のお知らせ

文人画を描こう! 岩谷学園粋生倶楽部
11月27日・12月18日 午前10時30分~12時
お問合せ:岩谷学園 http://www.ikiiki-club.jp/
茶道教室 横浜技能文化会館
毎月第3日曜日 午後1時~5時まで(前々日までの予約)
お点前のお稽古 \3,500  頂き方のお稽古 \2,000
お問合せ:琳文会 rinbun@ezweb.ne.jp
その他 日本画・懐石料理のご指導も rinbun@ezweb.ne.jp へお問合せください

 

今月の絵 『追難幻想(長田神社神事)』


F30  150万円
  阪神淡路大震災を機に横浜に出てこられた佐々木先生の故郷「長田」のお祭りです・・・思わず絵の前で足を止めてしまいました。 『追難幻想』です。
(絵の紹介/高野慈子)
 
※絵のご購入に関するお問合せは、ヨコハマNOW編集長 辰巳までご連絡ください。
TEL 045-264-4939 FAX 045-264-4940
Email kabuki@waratte.jp

 

手描きの絵ハガキ

年賀はがきや季節のおたよりに手描きの絵ハガキはいかがでしょう! 印刷ではないため、まったく同じものは出来ませんが、はがきの片隅に季節の風物を描くことで、より一層お便りを引き立たせることができます。 また、額に入れて絵画としてお部屋に飾っても素敵です。

1枚300円~500円
枚数によっても画材によっても異なります。ご相談ください。

 

11月 10 13

11月30日(土)に第23回 『馬生ハマ寄席』があります!

by staff

 

第23回 『馬生ハマ寄席』開催概要

日  時 11月30日(土) 13:00~ (開場 12:30)
会  場 横浜にぎわい座 芸能ホール http://nigiwaiza.yafjp.org/
出  演 金原亭馬生 金原亭馬治 金原亭馬吉 金原亭駒ん奈(荻野アンナ) 金原亭駒松
ゲスト 古今亭菊春 翁家和助(江戸太神楽)
木戸銭 3,000円 (全席指定)
申込み/問合せ 横濱落語を愛する会 TEL:045-261-4618

    PDF(300K)をダウンロードする

 

11月 10 13

秋のイベントシーズン真っ只中!

by staff

 

 今季も様々なイベントに出店させていただいてます!
 10月は地域イベントの最盛期。保土ヶ谷宿名物会も、前回、予告させていただいた通り、たくさんのイベントに出店させていただいています。

 

ごうどいち

 毎月第一日曜日は「ごうどいち」。
 前回までのような暑さも落ち着き、心地良い気候の中、4回目のごうどいちを開催しました。こちらのイベントも、少しずつ地域に根付いてきた印象を感じます。来場者の方たちからも「毎月楽しみにしています」「次回は何日ですか?」など、嬉しい声がチラホラと聞こえてきます。

 

日本橋「日本百街道」展

 日本橋架橋100周年を記念して日本の各街道を紹介するイベントです。その一環として、飛騨高山・木曽・高岡・三重(熊野古道)など、名だたる観光名所や世界遺産の観光・物産PRが行われています。

 その中に、私たち横浜東海道・保土ヶ谷宿も出店させていただきました。知名度もブランド力も他と比較にならない完全にアウェーな出店でしたが、(良い意味で)そこを割り切ることができ、メンバー各自、別の地域の出店を視察に行ったり、「東海道保土ヶ谷宿」の展示ボードを新調したり、出展当日、お店の「顔」であるお地蔵さんを持ち込んだり、と展示ブースの演出にも、無い知恵をみんなで一生懸命、持ち寄りました。

 また、当日もお客様への声の掛け方を工夫するなど、改めて学べる良い機会となりました。ちなみに、ほぼ全員が一致しましたが、「保土ヶ谷」と言うより「権太坂」と言う方が反応が良いようでした。「保土ヶ谷の権太坂」ではなく、「権太坂の保土ヶ谷」と認識すべきでしょうか・・・!?

 尚、日本橋「日本百街道」展は12月1日(日)まで、日本橋地下コンコース(三越本店前)で開催しています。

 

ほどがや区民まつり

 (私は別のイベントのため不参加でしたが)今年も恒例の「ほどがや区民まつり」が開催されました。天気も良く、大勢の人が足を運んでくださり大盛況だったそうです。

 

神楽でござる2013

 今回で2回目となる岩間市民プラザ主催の「神楽でござる」なのですが、当初の予定していた26日(土)が台風27号の影響により、やむなく翌27日(日)に順延になりました。その判断が功を奏したのか、当日は気持ちの良い秋晴れ。そして順延にも関わらず多くの方にご来場いただきました。少し早目の七五三の姿も見え、会場の橘樹(たちばな)神社はほのぼのとした空気に包まれました。

 尚、今回の演目は『熊襲(くまそ)征伐』と『浦島太郎』。
 『熊襲征伐』は後のヤマトタケル、オウスノミコトが父である景行天皇の命により西の荒くれ者・熊襲猛(クマソタケル)を討伐する物語です。(討伐された熊襲猛は、死の間際に「タケル」の名をオウスに譲ります) 今回はナレーションも加わり、(途中「今でしょ!」「壇蜜より色っぽい」などのセリフも)観客が神楽を身近に楽しめる演出もされていました。

 

(クリックで拡大画像)

ごうどいち
ごうどいち

日本橋「日本百街道」展
日本橋「日本百街道」展

日本橋「日本百街道」展
日本橋「日本百街道」展

日本橋「日本百街道」展
日本橋「日本百街道」展

神楽でござる2013
神楽でござる2013

神楽でござる2013
神楽でござる2013

 

イベントシーズンを走りながら想うコト

 という訳で、色々な機会をいただき、また、名物会各店の尽力もあり、まずは10月を無事に乗り切ることができました。それらの中にはたくさん買っていただける事もあれば、そうでない場合もあります。そんな中、先日の会合で各店主からは「継続することが大切」「一人でも多くの人に顔を見せて、知ってもらう機会をいただけることはありがたい」という言葉が聞こえてきました。

 一方、以前から名物会の中では「ただのイベント屋になっていないか?」という議論を繰り返しています。「もう少し名物会ならではの『東海道保土ヶ谷宿』の魅力の伝え方があるのでは?」ということを、各店主が真剣に考えています。とりあえず今シーズンは、イベントの出店時に「保土ヶ谷宿の名物」であることをPRすることを目的に、以前から準備をしていた法被を新調したり、(前述の)展示ボードを製作したりしてみました。そして、今後も引き続き、名物会の目的である「地域活性と販売促進」のためのアイデアを、みんなで検討していきます。

 

まだまだ、年内も各イベントに参加させていただきます!

 さてさて、そんな訳で、年内もまだ、幾つかのイベントに参加させていただきます。以下の通り予定しておりますので、ご都合が良ければ是非ご参加ください。

横浜旧東海道みどころ巡り

 横浜市内の旧東海道の魅力を伝える「横浜旧東海道 みち散歩月間」のメインイベントとして開催される同イベントに保土ヶ谷宿名物会も出店させていただきます。市内4箇所に設けたポイントの内、お好きな場所からスタートし、地域の商店街や史跡、飲食店などの様々な見どころを巡っていただきます。

日  時 11月16日(土)9:00~16:00
※詳細はこのサイトをご参照ください

ごうどいち

 保土ヶ谷区内の名産や名物を販売する「ごうどいち」にも、引き続き出店させていただきます。

日  時 12月1日(日)10:00~12:00
※原則、毎月第一日曜日10:00~12:00の開催予定です
※2014年1月はお休み、2月からは上記の通りの開催予定です
会  場 合名会社 北川製粉所内 横浜市保土ヶ谷区帷子町2-82
入場料 無料

ごんたいち

 夏の「ごんたざかまつり」と並び、権太坂小学校PTA主催の2大イベントに今年も出店させていただきます。

日  時 12月7日(土)9:30~12:00
会  場 横浜市立権太坂小学校

以上です。 今後ともよろしくお願いします。

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

11月 10 13

第16回 くさってもたい、くさってもいい?

by staff

アーキキャラバン建築設計事務所
代表 神田雅子

 腐っても鯛。「本来上等なものは、たとえ腐ってもその価値や品格を失わない」という意味で使われるが、本当にそうだろうか。冷蔵庫の肉や魚がくさっていたら普通は食べない。家がくさったらマズい。自分が設計した家が簡単にくさったりしたら、それはかなりマズい。

 今春、建築に関わる仕事をする女友達と4人で『くさる家に住む。』という本を出した。いい家をつくり、豊かな暮らしを営んでいる10の住み手とその家を訪ね取材した本だ。 木の家もあれば、集合住宅、テナントビル、コレクティブハウスもあり、また、セルフビルドの家も紹介している。思いのほか多くの方に読んでいただいていて、自分で言うのもなんだが、なかなか評判がいい。ところが思わぬ誤解もあって、私が設計する家はくさってしまうと思われることがある。この場で明言します。それは違います。

 この本で使った「くさる」という言葉には、いくつかの意味を込めたのだが、それはここでは割愛する。なぜそんな衝撃的なタイトルになったかといえば、ある取材先でご主人が「くさる家に住みたかった」とさらりと言ってのけたから、それを頂戴したのである。その家は木と土と藁でできていた。それらはくさるものであるが、雨から上手に守り、手を入れ続けて彼と子供たちが暮らし、いつかその使命をまっとうした時に産業廃棄物にはならずに土に還るのである。

 ノーメンテの家がほしいと言われたら、どのように応えようか。私は破れない障子は好きではないし、有害なものを含んだ建材も使いたくない。食べ物にしても、くさらないものはなにかおかしい。だからといって、くさるものだって特別手がかかるわけではない。雨ざらしにしておけばくさる木でも使い方を工夫した設計をすれば十分に長持ちする。日本の家はたくさんの知恵を引き継いできているのだ。住み手だって気に入った家ができたら大事にするし、多少のメンテナンスもしたくなるにちがいない。愛着を持って大事に住んで、長い後にその役目を終えた時にはくさって土に還る。そういう家を現代の技術とかたちでつくりたい。


「くさる家に住む。」(六耀社)の詳細は、 こちらをご覧ください

 

「暮らしを大切にデザインする」ギャラリーへ

横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」17名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。

横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。

なお5回ほど私が連載して参りましたが、今後はメンバーが交替で「新しい建築とのかかわり方」を綴りますので、変わらぬお付き合いでご愛読くださいますと幸いでございます。ありがとうございました。

AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051

AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)

青木恵美子 http://www.aaplan.com
新井今日子 http://www.arai1992.com
伊藤 寛 http://www.ito-kan.com
岡田 勳 http://www.kuukantoshi.co.jp
荻津 郁夫 http://www.o-as.co.jp
神田 雅子  
北川 裕記 http://www.aalab.com/kitagawa/
栗原 正明 http://msak.asia
河辺 近 http://www.ken-ken-a.co.jp
後藤 武 http://www.gtaa.jp
鈴木 信弘+洋子 http://suzuki-atelier.com
豊田 悟 http://home.m07.itscom.net/toyoda/
中村 高淑 http://www.unit-h.com
藤本 幸充 http://www.kamakobo.com
松井 理美子 http://www.matsui2ar.com
水口 裕之 http://homepage1.nifty.com/eau/
山口 賢 http://www.amarterrance.com

 

11月 10 13

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第17回 第4章 フォークからニューミュージックへ 3

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 4

続ユーミン

 引き続きユーミンですが、まだ売れる前は作曲家をめざしていたので沢山のアーティストに曲を書いています。盲目の天才シンガー長谷川きよしも、早いうちから彼女に注目していました。自作曲 「別れのサンバ」 が大ヒットした長谷川きよしは、フォーク全盛のこの時代に、卓越したギターテクニックを持ち、更に銀座にあった喫茶店、シャンソンの殿堂 “銀巴里” で鍛えられた歌唱力は、他のフォークシンガーとは一線を画していました。彼は早くから彼女の才能を見抜き曲を共作、ひこうき雲をカバーしたりしてガックアップしていました。

 そんな頃、ユーミンの所へ作曲の依頼が舞い込んだのは、やはりデビュー以来ヒットの出ない、ばんばひろふみ率いるバンバンからでした。ユーミンは彼と一回会うとイメージを固め 「いちご白書をもう一度」 を書き上げました。曲は大ヒットしてユーミンは作曲家として名声を上げます。「いちご白書をもう一度」 は、学生運動から夢破れ髪を切って就職してゆく男を描いていて、そのイメージは正に当時の世相を的確に描き同時代に訴えかける魔力を持っていました。

 その後、ユーミンのところへドラマの主題歌のオファーがありました。ユーミンが書き上げ、プロデューサーのところへ持っていくと、詩がドラマに合わないという理由で詩を書き直させられました。天下のユーミンに今では考えられませんが、そうして生まれた 「あの日に帰りたい」 が、オリコンチャートの1位を記録。こうしてシンガーソングライターとしてユーミンの時代が始まります。余談ですが、書き直されてボツにされた詩は、彼女の事務所アルファレコード代表の村井邦彦氏が曲をつけ 「スカイレストラン」 としてハイファイセットが歌いヒットしています。「スカイ~」の詩で「あの日~」を歌うとびったり合いますよ。お試しください。私はこの曲が大好きです。

 

横浜、街と風(私の高校音楽編) 3(18)

スノーウィ・ウッド

 横須賀学院に行っている友人が、ギター上手いヤツがいるぜと紹介してくれたのがK君。産婦人科の息子で、ギターはギブソンのレスポール。家に遊びに行くと、クリームやらブルースやらロックのレコードが山ほど散乱してて、無造作にワシ掴みするとプレーヤーに置き爆音で鳴らすと、それに合わせて見事にアドリブを弾きました。貧乏性の自分は、レコードは大事にスプレーをかけてきれいに拭いて、カセットにダビングしたら大事にしまって置くのに、なんて奴だと思いました。しかし、聞いている音楽のセンスが良く、しかも鮮やかにブルースのアドリブを弾くK君には多大な影響を受けました。この後、仲良くなり一緒にスノーウィ・ウッドというバンドを結成。ブリティッシュブルースロックのコピーをやりました。ツインリードで、もう一人のギターは上大岡の早弾きの天才F君を誘い、ドラムは後にプロになる武相のT君、ベースは美大を目指すR君。自分はボーカルに専念することにしました。

 話があればどこへでも出かけて演奏。100円コンサートや学園祭は高校から大学まで出かけて演奏してました。自分で言うのは何ですが、当時のテープを今聞いても中々小僧のくせに良い演奏ではないかと思ったりしております。

キャバレー

 このK君の知り合いにOさんというギタリストがいて、大学生なのに夜はキャバレーのバンドリーダーをしてる人がいました。実家が大きな乾物の問屋さんをやっていて、倉庫の地下の奥にバンドの練習場があり、ドラムやPA、アンプもマーシャルやらフェンダーが山積みで、最初行ったときはカルチャーショックでした。Oさんとも仲良くなり、一緒にセッションをさせてもらうようになった頃のある日、「今夜空いてないか? ベースがいないんだ、手伝ってくれ」と言われました。ベースギターは、中学の頃ビートルズのコピーをやっていたのと、軽音で遊んでいた程度で、もちろん楽譜なんかコード譜が読める程度で、おたまじゃくしはまったく分からないから無理だと言うと、立ってるだけでいいからと言われて結局やるはめになり、夜横浜駅の西口5番街にあったキャバレー “ハリウッド” へ行きました。

 裏の薄暗い通用門を開け階段を上るとバンドの控え室。早速白いスーツに赤いネクタイを渡されて着替えると、譜面を渡され、1小節に1回ルート音をドンストドンと弾け(ルート音とはAマイナーの時の低音のラ)といわれただけで、いざステージへ。控え室のはじにあるハシゴを昇って天井の穴をくぐり抜けると、そこは光まばゆいステージでラッパの入った15人編成くらいのビッグバンドが演奏していました。スローな曲になり照明が落とされると、後ろから音を切らさないようにひとりずつメンバーが交代していきます。キャバレーでは、BGMがないので全てバンドの演奏で繋げます。前のバンドが全員ハシゴを下りていくと照明が明るくなり、バンドリーダーのOさんがカウントを出して曲が始まりました。もう無我夢中で楽譜を追いかけ、しかも殆ど聴いたこともないような歌謡曲が次から次へと出てきます。何がなんだか分からないウチに1日が終わりました。

 それから何度かお誘いがあり、ちょこちょこ手伝うようになり、慣れてくると色々楽しくなってきました。その巨大なキャバレーは3階までフロアーがあり、奥が吹き抜けになっていて、そこの対面の2階の高さにステージがあり、1階のダンスフロアーではマンボやらジルバやら沢山の客がホステスさんと踊っています。当時の遊び人は、踊りを踊る人が多かったので、ホステスさんも踊れる人が沢山いたのです。50センチくらい高くなったところのメインステージでは、ショータイムになると有名人の歌手やらコメディアンが毎日出演していました。覚えているのはクールファイブ、ツナキ&ミドリなど演歌歌手が多かったようですが、伴奏はビッグバンドが担当していました(対バンと呼んでました)。夜も更けて盛り上がってくると、ゴーゴータイムというのが始まります。これは我々の担当。ボリュームを上げてロックっぽい曲を演奏しだすと下の舞台からのせり上がりから2人、上からゴンドラに乗った2人のゴーゴーガールが降りてきて激しく踊りだします。3曲目の私が歌う 「のっぽのサリー」。ロックンロールになるとゴーゴーガールは胸をはだけてトップレスに。。。17歳そこそこの私は興奮状態! ゴーゴーガールはときおり振り向くと幼いボウヤの自分にウインクしてくれたりしました。

 昭和でした。

ナナハンと事故

 何とかぎりぎりで単位を取り高3に。この頃前出のS君からカワサキのゼットツー(750ccのバイク)を買いました。引渡しの時、そのバイクは運転が不可能と思われる程ハンドルが絞ってあり、おまけに暴走族の旗を立てる旗たてがついていてこのままではとても運転できないので、ノーマルに直してもらおうと、その足で浜松町にあったカワサキの工場に向かいました。工場まであと100メートルの橋の上で、白バイに捕まり整備不良で切符切られました。「今直しに行く所なんだ」 と何度弁明しても許してくれず、あの悔しい気持ちは今でも忘れられません。

 この頃は学校そっちのけでバンドとバイト三昧。前に出ましたが駅の売店に運ぶバイトで、助手をやっているある朝の事、その日は土砂降りの雨でワイパーを最速にしても前が見えずらい程でした。殆どの配送を終え第2国道を仲木戸の駅に向かうところで、運転手が水溜りにハンドルを取られ左方向にスリップして、道路わきの電信柱にまっすぐ向かっていき正面衝突しました。車はハイエースという四角い感じのワンボックスカーで、バスのようにフロントガラスの前は何もありません。電信柱は3人乗りの真ん中に座っていた私の足と足の間にめり込んでいました。とっさに左に避けたので大した怪我にならずに済みましたが、一歩間違ったら両足がなくなっていたかもしれません。あの時、「あ!ぶつかる」 と思った瞬間からぶつかるまでまるでスローモーションみたいに場面が見えたのです。不思議な経験でした。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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11月 10 13

あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜を 一人かも寝む

by staff

♪あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜を 一人かも寝む♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:柿本人麻呂 (かきのもと の ひとまろ)

 現代語訳 by 千絵崇石・・・夜になると雌雄が 谷を隔てて別々に寝る、という。山鳥よ 寂しくないのですか? しだれ尾の様に長い秋の夜 終わりのない恋文を書きながら今夜の私は夜長鳥です。

 柿本人麻呂は万葉集の中でも最高の歌い人と言われ、「歌聖」と呼ばれています。

 今から1300年以上も前、日本がちょうど国家として形成される激動の時代に宮廷歌人として生きた人でした。没年月日は不明ですが後に神様となり、兵庫県明石市に、そして島根県に、沢山の人丸神社と柿本神社があります。

庶民に愛された神様で地元の人たちからは人丸さんとよばれて慕われているそうですが、調べてみると謎の人物でこの歌も本当に彼の作かどうかは分からないと言われています。このコラムを書く前に万葉集の彼の作品を読んでみました。そして壬申の乱という日本史上もっともスキャンダラスで悲しい出来事によって深く傷付いた人々の心を歌によっていやすために神様が人麻呂という歌人を使わしたのだと私自身は理解しました。

 万葉集に残された宮廷歌人としての彼の歌は古語の意味は分からなくてもその行間から溢れる気高さや慈愛が琴線にふれはらはらと涙がこぼれます。この壬申の乱の事を知った時私は自分自身が困惑し傷付いたのを覚えています。感情移入をすればするほど自分自身が引き裂かれ、途方に暮れ、その状況から逃げ出したいと思いました。千年以上もたった今でも日本人の集合意識が覚えているその痛みが、柿本人麻呂歌の歌を読んで、慰められて癒されて、受容という母の胎内に戻ってゆく。そんなプロセスが私の中で起こりました。

 昨年の「和歌うた10周年記念コンサート」の為に書き下ろした大津皇子とその姉をテーマにした楽曲「姉弟」は壬申の乱の後に生じた一連の非劇のひとつです。肉親同士が合いまみれて戦い合う。そんな修羅場を乗り越えなければ日本という国が生まれなかった。

 その深い傷口を縫合する様に、柿本人麻呂の宮廷抒情詩は癒しの言霊となって当時の人々にも響いたことでしょう。やっぱり歌聖だと思いました。

 今まで、このヨコハマNOWで取り上げて来た「和歌うた」は、自分がステージで歌っているときにふっと心に浮かんできた歌人に対するイメージをそのまま書き連ねて来たのですが、この山鳥の歌には未だメロディがついていません。これから百人一首の中で動物を取り上げている歌をピックアップしてメロディをつけて行こうと思っていたのでまずは彼の歌を、今月のテーマに持ってきましたが、それ以外の長い抒情歌にもいつの日か必ずメロディを付けて歌ってみたいと思います。万葉集の彼の歌を読んで深く感動しました。ファンになってしまった。きっと心美男なのね。私も人麻呂神社にお参りに行ってきます。

(早苗ネネ♪)

<LIVE INFORMATION 3>
11月22日 「和歌うたコンサート」 18:00開場/18:30開演 広島市西区民文化センター
出演:早苗ネネ(じゅん&ネネ)吉野妙、末永幸子、加藤稚佳子、他。

お申し込み/お問い合わせ:和歌うた実行委員会 080-2345-0615(担当 村中)

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

11月 10 13

落語の良さを多くの方々に知ってもらいたい。
株式会社コスモ・ステージ代表、江口節子さん

by staff

「横濱落語を愛する会」を運営し、「馬生ハマ寄席」の席亭が素敵な女性だとご存知ですか? 一癖も二癖もある落語家さん達のお世話をし、にぎわい座の楽屋と事務所を行ったり来たり・・・まさに細腕奮闘記! 「落語の良さを多くの方々に知ってもらいたい」「横浜に落語文化が根付いて欲しい」と頑張っている江口節子さんにお話しを伺いました。

株式会社コスモ・ステージ代表 江口節子さん株式会社コスモ・ステージ
代表 江口節子さん
 
お名前 江口 節子(えぐち せつこ)さん
ご年齢 50代
お住まい 中区本牧
ご家族 夫 子供(女・男・男)
お仕事 株式会社コスモ・ステージ 代表
HP 株式会社コスモ・ステージ
http://www.ad-pla.net/cosmostage/
横濱落語を愛する会
FB yokohama.rakugo
ご趣味 歌うこと ゴルフ 麻雀

笑ったり泣いたりしながら、自分の中で「人間像」を作り出していくことが面白いです

 落語を知りませんでした。 独身の頃は、テレビで『笑点』を見たり、友人と寄席に行くことはありましたが・・・落語がこんなにも深いものだとは知りませんでした。

 落語は一人で何役もこなします。 その演じ分けを楽しむのも面白いのですが、同じ長屋のおかみさんが、演者(噺家)さんによって全然違ったおかみさん像になります。 ある人は30代に、ある人は50代に、色っぽかったり、男まさりだったり・・・と、演者(噺家)さんによる「違い」があって面白いのです。

 落語は笑いだけでなく、人情噺のように涙が出る話がいっぱいあります。 長屋住いで貧乏なのだけれど、温かくて人情があります。 貧乏だけれど、生活の豊かさを感じてしまいます。 ノックをしないで他人の領分に入っていく、お節介なくらいの親切心・・・今の日本人が無くしてしまった「何か」が落語の世界にはいっぱい残っています。

『馬生ハマ寄席』の席亭です

 毎年、2月・5月・8月・11月の4回、馬生師匠と一門が、横浜にぎわい座で「馬生ハマ寄席」を開いております。


馬生師匠との打合せ(横浜にぎわい座楽屋にて)

 2月は特別に「鹿芝居(しかしばい)」を行っています。 鹿芝居は噺家が出演する「お芝居」です。 国立演芸場では20年以上も続いています。 現在、継続的に鹿芝居をしているのは、5人のお師匠さんたち(※注1)だけとなりました。 それは、皆さんがチームを組んで「鹿芝居」を後世に伝えていこうと努力されているからです。 「鹿芝居」では、それぞれのお弟子さんたちも加わって場を盛り上げています。

※注1:金原亭馬生/林家正雀/蝶花楼馬楽/古今亭菊春/金原亭世之介(順不同・敬称略)


大道具・小道具・照明・かつら・衣装・・・それぞれに忙しい中での芝居の稽古も大変です。
(写真提供:コスモ・ステージ)


長屋の花見の名場面(この年シドモア桜100周年記念の桜の里帰りをシドロモドロ桜ももじって笑わせた)
(写真提供:コスモ・ステージ)

 「鹿芝居」は落語の人情噺のお芝居ですが、歌舞伎の演目をパロディにしたり、アドリブが入ったり、時には時事問題へと話が飛躍したり、笑いと涙あり、観終わった後にちょっと心が温かくなる・・・言葉では説明しきれない良さを、是非、横浜にぎわい座の馬生ハマ寄席2月興行「鹿芝居」で体験していただきたいです。

 横浜での「鹿芝居」は来年で4回目になります。 横浜で鹿芝居が行われるようになったきっかけは、国立演芸場(東京)がリフォームすることになり、どこか他の場所を探さなくてはならなくなって、横浜が候補地になったのです。

 鹿芝居は大道具・小道具・照明といった舞台装置。かつら屋、衣装、メイクの手配、舞台監督、スタッフと人数が増えます。 その分、集客をどうするのかが大きな課題となります。 国立演芸場がリフォームした年は、「鹿芝居」の大勢のファンが東京から横浜に来てくれました。 横浜で始めて「鹿芝居を観た」と新しいファンもできました。 しかし、まだまだ努力が足らないと思っています。 席亭の責任を重く受け止めています。

第二十三回『馬生ハマ寄席』のお知らせ

開催概要

日  時 11月30日(土) 13:00~ (開場 12:30)
会  場 横浜にぎわい座 芸能ホール http://nigiwaiza.yafjp.org/
出  演 金原亭馬生 金原亭馬治 金原亭馬吉 金原亭駒ん奈(荻野アンナ) 金原亭駒松
ゲスト 古今亭菊春 翁家和助(江戸太神楽)
木戸銭 3,000円 (全席指定)
申込み/問合せ 横濱落語を愛する会 TEL:045-261-4618

    PDF(300K)をダウンロードする

 来年2月の『鹿芝居』の前に是非とも見て頂きたいのが、馬生一門の落語会です。 馬生師匠の得意とする日本人のあたたかい人情話に笑って泣いてください。 若手の馬治さんや馬吉さんの成長ぶりも楽しみです。 荻野アンナさんが駒ん奈(コマンナ)で出演します、こちらもお楽しみです。

 友情出演は『鹿芝居』のチームのお一人である古今亭菊春師匠が来られます。 ゲストも翁家和助さんが江戸太神楽といって傘の上で毬を回わす芸を披露してくれます。 11月に噺家の話芸(落語)にふれてから、2月の『鹿芝居』を見れば、芝居を2倍も3倍も楽しむことができます。

 また、にぎわい座での落語の良さはホール内で飲食ができることです。 ロビーでは横浜ビールや美濃屋あられ、泉平のいなりずしが販売されています。寄席を見ながら横浜の味を楽しむことができるのも「寄席」だからこそです。 アルコールが入ると忘れがちな観賞のマナーは、落語をじっくりと聞きたいファンの方のご迷惑にならないように心掛けたいものです。

落語との出会い

 小・中学は磯子に住んでおりました。 性格はおとなしい方だと思います。 運動が好きで中学生の頃はテニス部にいました。高校時代はコーラス部でひたすら部活動に励んでいました。 宝塚歌劇団に憧れたこともありました。 門限が厳しかったのですが、部活だと言えば許されたせいもあり、放課後はひたすら部活部活の毎日でした(笑)。

 高校生の時にCM制作会社でアルバイトをしたことがきっかけで、TV関係の会社に就職することになり、夫と出会いました。 結婚して会社を辞め、家庭に入りました。 専業主婦になりました。 そして3人の子供を育てました。

 東急東横線の桜木町の駅が無くなることになり、桜木町駅を中心に広がった繁華街『野毛』の町おこしのために『横浜にぎわい座』ができました。

 ある「寄席」のお手伝いを経て、その時の経緯や反省を踏まえて席亭をやることになりました。 その名を馬生一門会の横浜興行として『馬生ハマ寄席』と名付けました。

 かつて、横浜には寄席や芝居が見られる小屋がたくさんあったと聞いています。 横浜に落語文化が育ち、根付いて欲しいと思っています。

横浜を語るとつい熱くなってしまいます

 日本大通りを歩いていると銀杏がたくさん落ちています。 拾っている人を見かけますが、拾いきれないほど落ちています。 「いちょう」は横浜の市民の木です。落ちている銀杏がもったいないと思います。 「銀杏で横浜銘菓が作れないかしら?」なんて考えてしまいます。 横浜のことになると、つい熱くなってしまいます(笑)

 横浜の文化や歴史を語るのに『落語』はどうでしょうか? 東京の歴史は江戸町文化として『落語』に生きています。 横浜で江戸(東京)文化もいいですが、港の風情や異国情緒を活かし、 横浜を題材にした新作落語が出来たら面白いと思います。

 町の活性化? どこでも落語会が開けますよ・・・職場や学校、レストラン、旅館、同窓会、研修会・・・「噺家」を講師にした「話し方教室」もOKです。 是非、ご連絡ください。 「落語で横浜を笑顔でいっぱいにしたいですね。」


「落語で横浜を笑顔でいっぱいに!」と江口さんは熱く語ります

(インタビュー:ヨコハマNOW代表 渡邊桃伯子/文・写真:髙野慈子

 

10月 10 13

朝市に行ってみよう!!

by staff

 

 皆様のご近所では「朝市」が開催されていますか。「朝市」とは、早朝に一か所に集まり。持ち寄った野菜や魚などを売買する市のことです。

 農協や漁協などが主催する直売品の「朝市」や、何百年もの歴史のある輪島や飛騨高山のように観光客が集まる「朝市」が有名ですね。

 神奈川県内でも100近い様々な「朝市」があるそうです。その中には商店街が主催する「朝市」も各地で開催されています。ご存知のようにどこの商店街も、最近は「シャッター通り」と呼ばれて厳しい状況になっています。

 商店街がお客様を呼び込む施策の一つとして「朝市」が注目されています。「朝市」を通して「対面販売」の復権しようという動きもあります。

 神奈川県内「朝市」の交流会である「かながわ朝市ネットワーク」では、多くの皆様に「朝市」の素晴らしさを知っていただきたいと「かながわ朝市ガイドブック」を作成することになりました。

 私は、横浜市中区山元町の「朝市」を推薦いたしました。この「朝市」は山元町二丁目商栄会が毎月最終日曜日に行っています。商店街の各店舗が、朝市価格で商品を販売してくれます。毎回、目玉商品があります。2013年9月は、先着100名様に三崎産直品のプレゼントでした。

 開催場所の歩道にお店がある販売者は自店舗の前で、反対方向にあるお店の方は閉店しているお店の前での販売です。

 9月29日午前8時前、赤飯やおこわを求めて、和菓子屋さんの前には行列ができていました。午前8時販売開始。人気のパン屋さんは30分足らずで売り切れになっていました。私がほしかった、三崎の大根葉はあっという間に完売でした。

 普段は賑わっているとは言えない商店街ですが、歩道は歩けないほどの人でした。販売者も買い物客も互いに顔見知りのようで、「元気にしてた・・」と会話が弾んでいました。会話が飛び交っている風景は、スーパーで買い物しているときは見受けられません。昔はこれが当たり前だったのでしょうね。

 午前8時に販売するために、店舗の方々はきっと早朝から準備をしているのでしょう。
朝市価格にしていますから、儲けもそんなにないだろうと思います。それでも「朝市」を続けていこうという心意気に乾杯です。

 そして・・
 山元町二丁目商栄会の方々は、東日本大震災後、宮城県山元町をずっと支援してくださっています。今日の朝市にも、山元町名産の「ぶどうジュース」が販売されていました。それと我が「ヨコハマNOW」の辰巳編集長がデザインした「心をひとつに」の復興支援Tシャツもありました。

 各店舗でお買い物をして、義捐金箱の横に準備されていた美味しいコーヒーを頂戴して帰宅の途につきました。

 この日の我が家の朝食は、揚げたてのコロッケとイタリアレストラン自家製のピザとサラダを、昼食には和菓子屋さん特製の赤飯とおこわをいただきました。

 皆様も是非「朝市」に出かけてみてください。楽しい出会いがありますよ。

 

(クリックで写真拡大)

朝市のポスター
朝市のポスター

先着プレゼント
先着プレゼント

朝市開始前の行列
朝市開始前の行列

自店舗の前で販売
自店舗の前で販売

歩道での朝市
歩道での朝市

宮城県山元町名産品の販売
宮城県山元町名産品の販売

義捐金箱とコーヒー
義捐金箱とコーヒー

かながわ朝市ネットワーク
http://www.scn-net.ne.jp/~shiokaze/asaichinet/asaichinet.html

山元町二丁目商栄会
http://e-yama2-mall.com/

 

10月 10 13

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第1回) ご挨拶と10月の料理コースのご案内

by staff

プロローグ ご挨拶

 初めまして。この度、ヨコハマNOWでコラムを書かせていただくことになりました。フード・エデュケーション・コミュニケーターのキノケイコです。横浜市青葉区でキッチンスタジオ「ジュイエ」を主宰し、料理教室を中心に、ケータリングやメニュー開発など料理にまつわる仕事をしています。私自身も、横浜に産まれ、途中他の都市で育ちましたが、大学生より再び横浜に住み、横浜という土地にはとっても愛着があります。

 このコラム「天才をつくる料理事典」では、季節の食材の話や包丁の持ち方などの裏技、調味料のウソ・ホントなど、料理と食にまつわる私の工夫話を綴っていこうと思います。

 コンビニ男子・女子や、お料理ビギナーの皆さんに、手作りごはんの楽しさが少しでもお伝えできればと考えております。

 よろしくお願いします。

 


キッチンスタジオ 「ジュイエ」

フード・エデュケーション・コミュニケーターって?

 今回は、初回ですので、フード(食べ物)エデュケーション(正しい方向に導く)コミュニケーター(伝える人)という肩書きについて少しお話いたします。

 私が食に興味を持ったは幼少の頃。小学校1年生からはお菓子作り、そして高学年では見よう見まねのフランス料理を作っていました。とにかく、美しいフランス料理が作れる人になりたい!短大卒業後、東京にも分校ができていた(辻調の本校は大阪)エコールキュリネール国立(現 エコール辻東京)へ入学しました。そちらでの勉強は、夢のように楽しく、充実したものでした。生まれて初めて皆勤賞をとったくらい!その後、本場フランスでも学び、1つ星レストラン研修を経て出会ったのが、料理教室という仕事でした。

 プロの料理人になる勉強から、一般の、主に主婦の方々に料理を教える仕事。初めのうちはその違いに戸惑いもありました。しかし、一般には知る機会がなかなかない、プロの技をお伝えすることに楽しみを覚えました。その後、独立しやはりフランス料理の教室を開業します。

 そんな折、あるテレビ番組をきっかけに、家庭料理をお伝えすることの大切さに思い当たり、従来のフレンチコースに加え、家庭料理(和洋中)のコースを新設いたしました。すると思った以上に反響が!ごく普通の家庭料理を習いたいという方は意外に多いという事実を知りました。

 日々、いろいろな年代の、いろいろな立場の方と相対しておりますと、それぞれの方の抱える悩み、ひいては今の日本が抱える問題が見えてきます。例えば、食を通して、少しでもお一人お一人が幸せになれれば、世の中も良い方向に進むのではないか、と感じずにはいられません。

 私の夢は、『レストランで出てくるようなフランス料理の一皿』を作ることから、『食を通して、幸せな人』を作ること、に変化していきました。

 ジュイエのお料理教室は、単にレシピをなぞるのではありません。ジャンルに関わらず、その素材を最大限に生かし、本物のおいしさを感じていただけるけるようにしています。もちろん、ケータリングに関しても同じです。多くの方の『おいしい!』の笑顔を作ること、またそれを学んだ生徒さんが、ご家族、ご友人の『おいしい!』の笑顔をもらうこと、幸せの連鎖が目的です。

 そのためには、正しい食品の知識や調理技術も必要となってきます。それは難しいことではなく、知る機会さえあれば誰にでもできることだと思います。そして何より、食事の大切さ、食卓の楽しさ、をご家族やご友人、周りの人々と共有していただきたいと願っています。

 それのお手伝いをするのが、私の仕事です。

10月の料理コースのご案内

 私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は多数幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

10月のコース内容

フランス料理基本コース 『クラムチャウダー』
『オムライス』
『マロンタルト』
フランス料理じゃないメニューもあります。ちなみに、クラムチャウダーはアメリカのスープですね。スープは人気の高いメニューです。具材をそろえて切る、よく炒める、を守ることでとびっきりおいしいスープになりますよ。
オムライスは洋食ですが、ジュイエのオムライスはフレンチの技が凝縮されています。バターライスにはきのこを入れて。ふわとろオムレツは練習あるのみ!ですが、簡単にそれらしく(笑)つくる方法を伝授いたします。
マロンのタルトは本格的なフランス菓子。秋を満喫しましょう。

クラムチャウダー

オムライス

マロンタルト

フランス料理応用コース 『オリーブのプチコロッケ』
『イベリコ豚のポアレ、いちじくソース』
『サツマイモのモンブラン』
おつまみにぴったりのオリーブのコロッケ。スペイン産のイベリコ豚を使ってその美味しさを味わいます。旬のサツマイモをつかって、モンブラン風に。栗よりも手軽に作れますね。
家庭料理コース さんまやさばのお魚料理、ビーフフシチュー、かぼちゃやキノコのおかずなどです。

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にて
フランス料理を学ぶ。
同校 フランス校、レストラン研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める。
独立し、キッチンスタジオ ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

10月 10 13

2013年10月 三ツ池だより 「雲を見つめる」

by staff
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運動会の季節になった。空は青空だ。
雲と話をしていて
少し部屋に入っている
窓を見ると
雲の形がなくなっている
   今あるものが
   みていることが
   何を見ているんだろうと
   思うことになる
ありがとう
今というかけがいのない
時を感じることが
いきていることなのだ!
      ある瞬間を見て
      それはそれで正しいのだろうが
      ある瞬間
      見えないものを見てしまう
         信じたいけど
         信じられない
         信じられなくても
         信じていこう
      ありがとう
      今というかけがいのない
      時を感じることが
      生きていることなのだ!

 運動場を走り回る子供たちと、お世話をする先生方と応援する親御さんたちの構図は、不思議と今も昔も変わらない。かわったのは評価の仕方なのかもしれない。一等賞があった。勝った負けたの判定があった。今うっかりすると綱引きで一回目に負けた方に、先生が走り寄って勝たせて引き分けになったりもする。もっともっと自由に走り回っていいし、日頃教室で力を発揮できない子が運動場で目立って活躍する。学校の中にいろんな光景があっていいはずだ。

 力いっぱい励んだ後はそれでいいではないか。私はいつも運動会ではビリの方であった。だから運動会があまり好きではなかった。ある団体に所属していて、石のごつごつしたところで競争があった。はだしの足が痛かった。私は血がでても一生懸命走った。当然力を抜いて走っている人よりも先を走った。だから一等になった。はじめて競争で勝った嬉しさは何にも勝るものだった。

 チャンスはいつ来るかわからない。そのチャンスに踏ん張れるかどうかは何によるのだろう。勝者はいつも勝者かもしれない。敗者への励ましは評価を緩めることからでなく、勝者には勝者に相応しく接し、敗者にはなにかの機会を与えるのが指導者なのかもしれない。先の河原での競争は指導者が私の為に仕組んだ事だったかもしれないと、最近ふと思う。血を出させるために仕組んだのではない。危険を承知でわざわざ私の為に計画してくれたと思ってみる。人生のなかでいろんな試練があるしあった。乗りこえられない試練は神様はお認めにならないという。

 運動会は勝った負けたの先にある、力いっぱいに取り組んだ充実感を味わうことにある。負けたものは勝ったものをたたえる。勝ったものは競争相手がいたことに感謝する。そんな光景が雲の上から見られたらいいなぁと思う。

 雲の句がある。

秋の雲いよいよ高く登りけり
正岡子規
空に雲秋立つ台に登りけり
夏目漱石

 雲の句に次のような句も見られる。

秋の雲立志伝みな家を捨つ
上田五千石
鰯雲この時空のまろからず
中村草田男
魂の破片ばかりや秋の雲
森村誠一
高音の耳戻りきし積乱雲
横須賀詢

 そして

秋深き隣は何をする人ぞ
松尾芭蕉

 雲が見えない句もある

赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり
正岡子規
見えねども新涼今を渡りゆく
横須賀詢

 見えないものを見ていることもあり、見えてるものが見えないこともある。10月は目の前の運動会で精いっぱい取り組んでいる子供たちに拍手を送り、弁当を広げておにぎりでもほうばってみたいものだ。今日に答えは出ずとも、明日に希望が生まれるに違いないから。

 

Photos

(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)

     
     

(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

10月 10 13

セカンドライフ列伝 第13回 フィンセント・ファン・ゴッホ

by staff

榎本技術士オフィス/榎本博康

第13回 フィンセント・ファン・ゴッホ

かつて宗教者として民衆に寄り添うことを実践した炎の画家

 今回は画家のフィンセント・フォン・ゴッホ(オランダ;1853.3.30~1890.7.29)です。日本人のゴッホ好きは大変なもので、かく言う私もアムステルダムのゴッホ美術館を訪れたことがあります。カフェのランチがおいしかった。いや、圧倒的なゴッホの作品群に感動しました。また日本の浮世絵の模写には、彼の食い入るような眼差しを感じます。いわゆる印象派の時代に生き、スーラらの点描画の技法に影響されつつも、後期印象派と一括しきれない独自の画風を確立し、キュビズムやシュールレアリスムまでをも準備したと後年に持ち上げられ、しかもそのような流れを超越した存在になりました。

 しかし生前のゴッホは評価されず、生存中に売れたのは1888年11月に制作した「赤いぶどう畑」の1点だけ、400フランだったそうです。死の5か月前の展覧会に出品したもので、現在はモスクワのプーシキン美術館に所蔵されています。実はプーシキン美術館も訪問したことがあります。休日の市民の長い列に並んで館内入りましたが、その時はこの絵には気づきませんでした、残念。

 彼は最初から画家を目指したのではありません。それは何とも遅い26歳と言われています。それまでの彼は宗教家を目指していました。しかし不適正と断じられて、その道を断念したのです。

 そのようなゴッホの魂の軌跡を辿ってみたいと思います。まず彼の名前の表記ですが、どの国、どの地方の発音を採用するかでずいぶんと違うようですが、ゴッホ研究の第一人者である、二見史郎氏の表記にならい、標題のようにしました。また弟のテオに対して、フィンセントと書くべきでしょうが、ここではゴッホで通します。さらにわずか37年の生涯にもかかわらず、オランダ、ベルギー、イギリス、フランスの各地を転々と移り住みます。それを正確に追うと却ってストーリーがぼやけるので、時に大幅に割愛しました。この小文は伝記ではないことをご承知下さい。また多くを二見史郎先生の著書に依拠しましたが、例によって私の誤解と妄想が混入していますのでご注意ください。

 私が死ぬ時に、その部屋にあれば嬉しいと思っている絵画は2点、カンデンスキーの「穏やかな飛躍」(1944年)とゴッホの「アルルの寝室」(第1バージョン、1888年、検索⇒「ファンゴッホの寝室」)です。

家庭環境と生い立ち

 祖父は同じ名前のフィンセント・ファン・ゴッホ(1789~1874)で高名な聖職者でした。彼は6男5女を得ましたが、父はその5男でプロテスタント牧師テオドルス・ファン・ゴッホ(1822~ 1885)です。所が伯父さん達の職業が偏っていて、長男ヘイン伯父がベルギーのブリッセルの画廊主、四男のセント伯父がオランダのハーグの画廊主、六男のコル叔父がアムステルダムの画廊主でした。また二男のヤン伯父は1860年にカシュロット号船長として長崎、江戸、横浜等に寄港し、日本文化に大いに触れていたのです。

 とても名家なのですが、父の教区のオランダ南部にはプロテスタントの信者が少なく、貧しい生活であったそうです。ゴッホの兄弟は男3人、女3人であり、4歳下のテオが、後にゴッホの全面的な支援者となるのでした。幼い頃からゴッホは気難しい子供だったようです。最初は村の学校に通ったのですが、農民の子たちの影響で粗野になって困ると両親が考え、家庭教師をやとい、また11歳で寄宿学校に入り、さらに他の寄宿中学校で学びましたが、学業を1年残して家に帰ってしまいました。その理由はわかりません。約1年を親元で過ごした後で、就職します。

第1の人生~画商の徒弟

 1869年7月に16歳でオランダの画商、ビーグル商会のハーグ支店に徒弟として就職します。元はセント伯父さんの店でしたが、ビーグル商会と合併して、ハーグ支店となった店です。

 1872年9月に、弟のテオは兄を訪問しました。ハーグ郊外の曳船道(運河の船を陸から曳いて遡上するための道)を散歩していてにわか雨に遭い、風車の粉ひき小屋で雨宿りをしながら、一緒にミルクを飲みました。兄19歳、弟15歳のことで、この時から兄弟のきずなが強まり、以降濃密な手紙の交換が始まったのです。我々がゴッホの生涯を詳しく知ることができるのは、テオがその手紙を保管していたことに依っています。

 所で去る4月の佐賀マラソンに参加しました。佐賀平野は米どころで、水路が丁寧に整備されています。そこだけ見れば、まるでオランダのようだと感じました。丁度雨も降ってきて、この若い兄弟の大切な思い出を、自分のことのように反芻しました。

 後の1873年1月に、弟のテオがベルギーのブリュッセルのビーグル画廊に就職しますが、ここはヘイン伯父さんの店だったものをビーグル商会に売却したものです。兄弟とも縁故就職でしたが、一方画商という商売の性質から、近親者でないと信用の懸念があるのかもしれません。

 同じころ、ゴッホはもう一人の画廊の叔父さん、アムステルダムのコル叔父の店を訪問し、国立美術館が建設される(1885年完成)という話を聞きました。後年、そのすぐ横にゴッホ美術館ができるなど、想像もしなかったでしょう。

 所がどうもゴッホの勤務状態の評価は良くなかったらしく、ロンドン支店への転勤が決まりました。道中の途上で立ち寄ったパリのグービル商会本店、支店の立派さに驚き、5月にロンドンに赴任しました。もう20歳になっていました。ロンドン支店には画廊がなく、複製画の販売が主だったようです。この頃に「20歳の恋」と後に呼ばれる騒動があったようですが、過去の脚色もあるようで、実ははっきりしないのが実情です。しかし、それがあったことは事実のようで、ゴッホ・ファンとしては喜ばしいことです。最近はロンドンのワイン商の娘、カロリーナというのが定説です。

 ゴッホはその後数か月毎にロンドンとパリの間で転勤を繰り返すのですが、ついに1876年3月にパリでクビになってしまいました。ゴッホは自分勝手、店は利益優先、いろいろとお互いに理由はあるでしょうが、いずれにしろ彼には合わない職場でした。両親はがっかり、ゴッホは新聞広告で仕事を探す。結局青春の大切な7年を空費して23歳になっていました。

第一の人生~聖職者への道

 失意の1876年は牧師の手伝いもして聖職者への道を考え始めました。そして年末にオランダの父の元に帰りましたが、そこでセント伯父を通じてある書店主がゴッホを雇っても良いということになりました。書店主の息子はパリのビーグル商会に勤めているので、実はこれもコネでした。

 書店には勤めたものの、暇さえあれば聖書をフランス語、ドイツ語、英語に翻訳し、教会はプロテスタントだけではなくて、カトリックを含む他の教会にも行って、神を見出そうとしたそうです。

 どうしても聖職者への道を断ちがたく、アムステルダムのヤン伯父(当時は船を下りて、海軍造船所長官)の好意で部屋を提供されて、神学部の受験勉強を始めました。しかし科目はギリシャ語、ラテン語、数学、歴史、地理等と多く、生易しいものではありません。あの親父が合格したんだから、息子の僕だってそのくらいは、とは行きませんでした。

 1878年にベルギーのブリュッセルでフランドル養成学校に3ヶ月の試行入学をしました。ここはオランダの6年以上に対して、3年課程であり、また全課程を修了しなくても福音伝道師の地位を要請できるという便利な学校です。しかし3ヶ月後に在学の延長は否定され、無料聴講だけは許されました。しかし生活費がありません。既に貧しい人々の救済に道を見出そうとして、やや極端な行動が出始めていたゴッホは、ベルギーの炭鉱地帯であるボリナージュ地方に赴き、伝道活動を開始しました。

 その熱心さが評価されて、1879年2月から有給で半年の伝道活動を認められました。最初はきちんとした身なりで、プロテスタントの集会で立派な説教をしていたそうです。しかし炭鉱の劣悪な労働現場を訪問し、また4月にあったガス爆発の大惨事での懸命な救助活動を経て、ゴッホは全く外見が変わってしまいました。服も金も貧しい人々に与えてしまい、自分はボロボロの服で歩き回っていたということです。彼はイエス・キリストのように弱者に寄り添いたいと行動したのですが、それは伝道委員会が認めることのできないことでした。要するに献身は大切だが、権威こそがもっと大切で、寄り添いすぎてはいけないのです。契約は更新されず、ゴッホは伝道師として挫折しました。3年間の悪夢であったと言うべきでしょうか。

第二の人生~画家としての修業(その1:1880~82)

 この地上に自分の居場所は無いのか。家族に負担をかけるばかりで、役立たずの余計者なのか。26歳のゴッホは、画家への道をひとつの光明としつつも、こんな思いに沈んでいました。1879年8月に弟のテオがパリ出張の途中で、ベルギーの兄を訪ねて多くの話をし、大きな安心を得ました。しかし金の無いゴッホは徒歩でフランスに入り、農民たちの姿に描くべき対象を見出しつつありました。ゴッホは自習で描き始めたのです。

 1981年1月に弟のテオはパリのモンマルトル支店支配人に昇進しました。すると両親から、お前がもっと金銭的な援助を兄にしてもいいだろうと言われます。以降、テオの負担は続くのでした。28歳のゴッホはエッテンの両親のもとで素描に精を出すのですが、いとこのケイが8歳の男児を連れて同居した時に、彼女に惚れ込んでしまいました。父は激怒し、ケイはアムステルダムに帰ってしまいました。

 また既に著名な画家モーヴの助けも得てデッサンを続けました。モーブは従姉の結婚相手です。(検索⇒「アントン・モーヴ」)彼から道具をもらい、油彩を描き始める時が近づきました。所がクリスマスの日に父と言い争いになり、出て行けと言われて、言葉のままに出て行きました。そして勝ち目の乏しい賭けと言われながら、オランダのハーグでアトリエを借りました。モーヴの金銭援助によるものです。またビーグル商会ハーグ支店の先輩テルステーフにも頼りました。もちろんテオからも。しかし先輩テルステーフは画家としてのスタートが遅すぎる、それにまず自分で金を稼ぐべきだと主張します。しかしこの先輩は冷たいのではなく、心底心配をしてくれているのです。アムステルダムのコル伯父さんも加わって相談しているらしく、やはり自分で稼ぐべきと言う一方で、12点の素描を注文してくれました。

 1982年のハーグでゴッホは月に100フラン以上を使っていたといいます。1フランが2フンデル、そして労働者が週給10フンデルということなので、また当時は動労者の賃金が極めて安かったであろうことから、月に10万円以上を使っていたということでしょうか。モデル代を払うとすぐに無くなりました。そんな状態の時に、身重の女を家族ごと連れてきたのです。作品名から「悲しみの女」と呼ばれるクリスティーン(シーン)です。テオに月に150フランにしてくれと懇願し、テオは何も言わずに50フランを追加しました。コル伯父さんに作品を納入したのですが、期待した50フンデルではなく、期待外れの20フンデルで、しかも商品価値が無いとの小言を貰いました。(これは結局流通に乗っていないので、売れたことになりません。)

 ゴッホは6月に淋病で入院し、一方シーンは男児を出産しました。ゴッホはイエスの誕生を得て、ナザレのヨセフとなったわけです。シーンとの同棲は1年10ヶ月に及んだのですが、ついに生活を支えきれず、別れることにしました。その間、父母からは女ものも含んだ冬服が贈られてきました。いくら衝突を繰り返しても、親の愛はいつも変わらないのです。ゴッホ、ぐっと来た。

第二の人生~画家としての修業(その2:1883~85)

 実は本稿の小見出しはゴッホ美術館HPの解説区分に従っています。ここで30歳のゴッホは荒野(あらの)に向かったのでした。かのイエスもヨハネから洗礼を受けたのは30歳頃と言われています。そして荒野に出て、その試練を超えて宣教を開始します。画家として遅いと言われたって、そんなことはありません。ゴッホは彼の荒野を、オランダ東北部のドレンテ地方に求めました。そこに悪魔はなく、貧しき泥炭地の農村地帯での、彼の求める本当の人々の営みがありました。出発前にコル伯父さんに20点の習作を送ったのですが、音沙汰はありません。このヒースの野を転々として3ヶ月を過ごしましたが、50年前のミレーなどのバルビゾン派の感覚が滲みこんだようです。そして資金が尽きて、1883年の末に父母と同居しました。父は、ゴッホの苦境は自分自身の常軌を逸した行為にあると気付いてほしいとするのですが、一方アトリエを準備してくれました。ゴッホは弟のテオに、これからは作品を定期的にそちらに送るから、それ以降は君から受け取る金は私が稼いだ金であることにしたいと、一方的に通告します。かなり焦っているようですが、一方テオは印象派の時代に、そんな暗いバルビゾン派のような絵では売れないと分かっています。ふたりの間にギャップがありました。画商として優秀なテオには月収1000フラン(すごい!)という転職話がありましたが、それを断ってビーグル商会に留まる決断をしました。

 1885年を迎えました。3月に父はテオ宛の手紙に「ゴッホには何とか成功してほしい。」と書きました。その翌日の帰宅時に戸口で倒れて、そのまま帰らぬ人となりました。未亡人となった母には、教会のきまりで1年間は現在の住まいに留まる権利があるのですが、やがて出ていかなければなりません。ゴッホは家族の中で真っ先に出て行くべき者でした。この年の11月にベルギーのアントウェルペン(英語ではアントワープ)の港町で部屋を借りて、そこで日本の版画を飾りました。アカデミーで久しぶりに独学ではない絵の勉強をして、デッサンの欠点を自覚しました。食費をきりつめていたためか、急に衰弱して歯が次々と抜けたのです。

第二の人生~パリ時代(1886~88)

 パリではテオと同居しました。ゴッホが最も安定した生活をした2年間です。彼は後期印象派と後に括られる画家たちと交流をしました。アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック、エミール・ベルナール、シニャック、点描画のスーラ、ゴーガンなどです。特に15歳も年下のベルナールとは仲が良かったのでした。この時代はテオと同居のため、手紙が少なくて伝記作家が困る期間でもあります。モンマルトルやムーランの丘の風車の風景、日本の浮世絵の油絵模写などの作品が残っています。

 彼はここで初めて、印象派とは何かを理解したと言われています。この頃の絵はそう厚塗りではなく、絵によっては画布が透けて見える部分があります。スーラの点描技法を取り入れつつも、彼は厳密ではなくて、ドットと共にパッチを用いて、うねるような運動感を見せ始めていました。作品は明るくなり、テオはオランダに帰省した時に、兄さんはうまくなっていると母に報告しました。浮世絵の構図や平面化、色の対比方法なども徹底的に勉強したようです。

 ゴッホは大変な読書家でしたが、この1886年にエミール・ゾラが「制作」を発表しました。「画家は理想の女を描こうと苦闘するが、やがて敗れて自殺する」という粗筋で、これは印象派の画家たちに困惑を与えました。要するに評判が良くなかったようです。ゾラはセザンヌと幼友達であり、ゾラはこの作品で創作の苦しみ、常に打ち負かされることが宿命である芸術家の戦いを描きたいとの執筆意図があったといいます。ゴッホも新聞連載中から読んでいて、深く興味を持っていました。

 この間、弟テオは自分の画廊を持ちたいと、伯父さん達に融資を打診したのですが悉く断られ、落ち込んでいました。さらにヨハンナ(愛称ヨー)という女性に結婚を申し込むのですが、これも簡単に断られて、どん底でした。

 1888年2月18日に、ゴッホはベルナールに手伝ってもらってテオのアパートを日本版画で飾り、画架に自分のカンヴァスを架けて自分がいるようにしました。翌日に兄弟はスーラのアトリエを訪問し、そして兄はアルルに旅立ったのでした。

第二の人生~アルル時代(1888~89)

 ゴッホは1888年2月20日に南フランスのアルルに着きましたが、珍しい大雪の日でした。その山々が雪を被った姿は、日本の冬景色のようだと喜び、明るい未来の予感に心が躍りました。

 この頃、死に関するゴッホの興味深い記述があります。「野菜につく幼虫は自身が変態してコガネ虫になる未来を知るまい。我々人間も死によるメタモルフェーゼ(変身、変態)を正確に知ることは難しい」と。またゴッホは画家が画商の支援で相互扶助する共同組合をテオに提案しました。もちろん提案止まりですが、ゴッホの胸の奥に灯り続けた理想でした。

 ゴッホの制作は飛躍的に進みました。有名なアルルのはね橋(検索⇒「アルルの跳ね橋」)を描きました。この絵には故郷オランダの風景と、浮世絵の世界が重なりあっているとの見方があります。果樹園の連作も描きました。自由気ままに筆を用いていることを、ベルナールへの手紙に嬉しそうに書きました。ひとつの境地を開いたことを報告したかったのです。この地方はミストラルという北の山地から吹き降ろす猛烈な風が吹き抜ける地域です。果樹園にはこの風を防ぐ垣根があり、ゴッホはこの垣根の植物を削って葦ペンを作り、巧みなタッチでのデッサンを描くことに成功しました。35歳になっていました。

 家賃が高いので、後に「黄色の家」と呼ばれる家の2部屋を借りることにしました。その頃、ゴーガンがテオに窮状を訴えてきました。それを知ったゴッホは、それならここアルルに来て共同生活をすればいいと提案しました。ゴッホは北の丘で眺望に富んだデッサンに励み、南の地中海で海の色の変化に感動しました。そしてベルナールに自分が発見した色彩論を伝えようとします。そして浮世絵師のように、すばやく素描をすることに心がけましたが、それがここアルルではできたと喜びます。画家たちがここで助け合って安く暮らし、また画業で影響しあえればと、テオに書きました。

 6月には炎天下の麦畑での制作に励みました。しかし雨が降り続いた日には、アルジェリア植民地軍の歩兵を描きました。有名な郵便夫の絵(検索⇒「ルーランの肖像」)も描きましたが、共に平凡だが存在感のある肖像画です。素描は蚊に食われ、北風に吹かれながらの苦行でしたが、その素描には葦ペンが風に操られた跡があるのかもしれません。また葦の先端をつぶして筆のような効果も狙うこともしました。彼の素描は油絵のための下書きという枠を超えて、大きな作品世界を形成していったのです。

 そして8月にひまわりの連作を描きました。(1枚は芦屋の空爆で焼失しました。)その中で、技法の単純化を心がけました。つまり抽象への入り口に立っていたのです。そして書きました、「僕は何かしら永遠なものを具えた男たち、女たちを描きたい。かつて永遠なものは後光が象徴となっていたが、われわれは光の放射そのものにより、我々の彩色の揺らめきによってそれを出そうと努めている。」つまり技法としては補色の対比、混合や近い色彩同士の揺らぎであるということです。そして「夜のカフェ」(検索⇒「夜のカフェ」)や「夜のカフェテラス」(検索⇒「夜のカフェテラス」)といった作品で、それを実践しました。

 さてゴーガンとの共同生活を待ち焦がれるのですが、病気などの理由でなかなか来ません。ゴッホは過労で倒れるほどに制作に打ち込んでいました。やがてゴーガンから荷物を送ったとの連絡がありました。ゴッホは自分のアルルの寝室の絵を描きます。(検索⇒「ファンゴッホの寝室」)それは自分のベッドで、左手のドアの先がゴーガンのための部屋だといいます。ゴッホはゴーガンを迎えるために、アトリエと台所にガス灯を引きました。

 1988年10月23日、ついにゴーガンがやってきました。この頃、ゴーガンの絵は少しは売れ始めていました。彼の妻はコペンハーゲンに居て、送金することができたのです。所で既に南方への憧れを抱いていたゴーガンにとって、アルルの風景はけち臭いものに思えたのです。二人はそれぞれ制作し、また互いの肖像を描き、そして意見は対立しました。12月に緊張緩和の狙いもあって、西に70キロのモンブリエのファーブル美術館を訪問しました。しかし帰ってから、議論は一層の熱を帯びることになったのです。

 12月23日の夜、ゴッホは自分の左耳を剃刀で切り取って、娼婦に手渡しました。このことについて、ついに本人から語られることは無かったといいます。何たる錯乱でしょうか。ゴーガンはテオに電報を打つと、ゴッホには会わずにパリに帰りました。アルルには冷たい雨が夜も昼も降り続いていた日々でした。ゴーガンに代わりに、肖像画の郵便夫が妻と共に尽くしてくれました。その後もゴーガンからは、家族が知りたいようなことは、一切語られることは無かったようです。

 テオがパリに帰ったあと、近所のプロテスタントの牧師が消息を伝えてくれました。担当医からは、要するに完治は難しいという見立てが示されたのです。しかし1989年1月4日に、郵便夫はゴッホを病院から黄色の家に連れ出し、4時間をそこで過ごしました。自分の作品に囲まれてゴッホは満足し、おとなしかったと、テオに書き送りました。1月7日に退院し、担当医が付き添って黄色の家に帰りました。一方テオは一度は振られたヨーと婚約をしました。ヨーは後にテオ宛の膨大な手紙をもとに、ゴッホの伝記を書くことになります。

 ゴッホは担当医の肖像を描き、そして耳に包帯をした自画像を描きました。しかし残念なことに郵便夫はマルセイユに転勤になってしまいました。赴任先は物価が高いので、単身赴任すると言います。そしてやっとゴ-ガンから手紙が届いたのですが、自分のことばかりが書いてありました。それでもゴッホは、彼を批判はしても、お互いに好きなのだからいつでも一緒に始められると思っていると、テオに書いたのです。

 2月7日、例の牧師からテオに連絡が、兄さんは病院の独房に収容されましたと。ここ数日、毒を盛られるとの絶えざる不安にさいなまれていて、怖がった近所の人が警察に連絡をしたのでした。2月17日に仮退院をします。

 2月26日に、牧師はテオに、兄上は再度病院に入れられたと連絡をしました。近所の人々が署名して、市長に狂人の隔離を要請したのでした。パリから画友のシニックが見舞いに来て、テオに快復の様子や医者の意見を伝えました。また黄色の家に一緒に行ったのですが、近所の人の中でも、署名しなかった人たちがいたことを知り、元気づけられました。3月30日、36歳の誕生日を迎えました。郵便夫がマルセイユからわざわざ会いに来てくれ、身の回りのことの処し方を相談しました。行き場を失ったゴッホは、担当医の持ち家の小さな二間を借りました。アルジェリアの外人部隊に入ることができれば、生きるには楽かもしれないとも思いました。

 テオは4月18日にアムステルダムで結婚式を挙げ、パリの自宅に新居を構えました。

第二の人生~サン・レミの精神病院時代(1889~90)

 サン・レミはアルルから北東に20キロの所です。5月8日に牧師に付き添われてこの私立病院に入院しました。新婚のテオとスーから手紙が届きました。テオは、送ってもらった絵の中で、「ゆりかごを揺する女」と「ルーランの肖像」がとりわけ好きだ、時が経って厚塗りの絵の具が落ちつけばとても美しい作品になり、きっと評価されるだろうと。このルーランは郵便夫であり、女はその妻です。ゴッホは、このゆりかごの左右に、ヒマワリの絵を配置すれば、子供がもっと輝くだろうと、その配置のスケッチを書き送りました。

 ゴッホは病院でアトリエを一室もらいました。最初に描いたのは「イチハツ」(アヤメ科の紫の花の多年草)の群生でした。ゴッホの作品は、大きなうねりなど、やや過剰な風合いを帯び始めていました。病室の窓から見た風景をもとに「星月夜」(検索⇒「星月夜」)を描き、そして「糸杉」が描かれました。

 しかし7月中ごろに発作の再発が。快復が遅く、ゴッホが次に手紙を書くことができたのは8月22日でした。そして仕事を再開しました。テオはパリのアンデパンダ展に「イチハツ」と「星月夜」を出展しました。

 ゴッホは例の「アルルの寝室」の模写を描きました。どうしても描きたかったのだといいます。さらに母のためにも複写を描きました。普通画家が同じモチーフで複数の絵を描く場合に、同時期に何枚も描きながら構図や色彩を試して、納得の行く作品に仕上げていくものですが、1年以上も経ってから複製するというのは、極めて変わっています。(流行画家が売れる題材を繰り返し描くのとも違います。)ゴッホにとって特別な絵なのです。

 ゴッホの調子はずっと良くなり、創作が活発なので費用ばかりがかかってしまうというジレンマに悩みました。10月には絵の具と画布が無くなって、素描で我慢をしました。そして来年にブリュセルで開かれる20人会に招待され、例の「赤いぶどう畑」を含む6点を出すと回答しました。

 アルルではひまわりでしたが、ここサン・レミではオリーブ畑が主なモチーフになりました。ゲッセネマの園(オリーブの庭園)のキリストを描く必要は無い、オリーブを描けばそこに、十分に宗教的なモチーフを表現できる。ベルナールがそのような既存の題材を描いたことに、激しい意見を届けました。彼は丁度30号のオリーブを5枚も描いた所でした。

 そしていつも恐れているクリスマスの頃に、再び発作が起きました。さらに1月20日頃にまたも発作を起こしました。でも良いことも、1月31日、テオの子供が生まれ、2月19日に「赤いぶどう畑」が売れたと知らせがありました。

 しかし2月22日にアルルに出かけてまたも発作、何があったか記憶がありません。4月まで具合が悪い状態が続きましたが、5月16日に退院し、パリのテオの家に着きました。そしてオーヴェール(パリの北西30キロ)に向かったのです。

第二の人生~オ―ヴェール時代(1890)

 ここではガッシュ医師を頼りました。医師はピサロの家庭医で、セザンヌも一時期近所に住んで世話になったという人です。ガッシュ医師はゴッホに「思いきって大いに仕事をしたらいい。これまでのことなど、一切考えないことだ。」と励ましました。そしてゴッホの絵にほれ込んで、「医師ガッシュの肖像」を描いてもらいました。医師はパリのテオを訪ねて、兄さんは治るだろうと伝えました。テオは次の日曜日に家族連れでオーヴェールを訪問し、医師の家でにぎやかな昼食をとって、日帰りで帰宅したのですが、実に幸せな時でした。

 6月下旬になると、ゴッホは縦50センチ、横100センチの標準外に横長なカンヴァスで何点かを描きました。晩年の特徴的な作品群です。

 テオが家に来てほしいと再三言ってきたので、7月6日に日帰りでパリを訪問しました。多くの友人が集まったと言うのですが、ゴッホは疲れてはやばやと帰り、会えなかった友人もあったようです。

 ゴッホは7月27日の夕方、宿の食事時刻に帰って来ませんでした。夜の9時頃に傷を負って帰ってきました。胸に拳銃をあてて自殺を図ったのです。そして29日に、テオらに看取られました。

 その後テオも不調となり、翌年1891年1月25日に死去、兄弟の墓はオーヴェールの墓地で仲良く並んでいます。

一作会

 ゴッホは天国らしきところで、人を待っていました。すると日本人らしき男Mがやってきます。

G「君は享年37だね。」
 M「え、どうして分かるのかなあ。」
 G「だって、僕と同じ影の長さですよ。」
 M「そうですね、こうやって並んで立つと、幾何学的に明快ですね。」
 G「僕は、画家のミレーを心から尊敬していて、精神病院で彼の「一日の四つの時」を模写しました。日本ではメナード美術館に僕の模写がありますよ、「一日の終わり」だけですが。一日の光の表現を学びました。だから我々の影は37歳だと分かるのです。そうそう名乗るのが遅くなってしまいました。僕はフィンセント・ファン・ゴッホです。どうぞよろしく。」
 M「はい、よろしく。私は宮澤賢治です。四つと言えば、私の場合は方角です。東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ。」
 G「雨ニモマケズ、ですね。」
 M「でも最近、雨ニモマケズに四つの時が加わりました。作品というものは、作者の死後も一人歩きするものなのですね。」
 G「絵の価格が高騰するのではなくて、イメージが拡大するのはすばらしいですね。」
 M「画家の司修さんが、雨ニモマケズを絵本にしてくれまして、その西ニツカレタ母アレバの挿絵は、四つの時を示した時計が描かれています。8時15分、11時02分、5時46分、14時46分です。」
 G「日本の方々は、決して忘れることのできない時刻ですね。」
 M「そうです。そして世界の人々にも、です。」
 G「ところで僕の作品は、生前にはとうとう1枚しか売れませんでした。いや、1枚も売れたと感謝すべきでしょうね。」
 M「僕が原稿料をもらったのは、雪渡りという、狐の幻燈会の童話だけでした。」
 G「そう、だから僕は君を待っていたのですよ。」
 M「……」
 G「<一作会>に入ってください。生前に、一つだけ作品でお金を得た芸術家の会です。」
 M「一作でも世に出ることは、大きな可能性があるということですね。」
 G「そうです。優れた芸術家が一作会に入ることなく、経済的に恵まれるよう応援してあげたいのです。」
 M「会員を増やさないことを目的とする会ですね、それは愉快ですね。」
 G「そう、愉快でしょう。」
 ふたりは肩を並べて歩き出しました。同じ長さの影も一緒について行きました。

※本稿に着手する前から、最後に宮澤賢治に登場願うつもりでした。ところが調査すると、絵本画家の伊勢英子氏がすでに「ふたりのゴッホ」として以前から注目し、作品制作のひとつのバックボーンにしていることを知りました。参考文献2)に詳しくその思いが語られています。

主な参考文献

  1. 二見史郎:ファン・ゴッホ詳伝、みすず書房(2010.11)
  2. 伊勢英子:ふたりのゴッホ、新潮社(2005.7)
  3. ナタリー・エニック、三浦篤訳:ゴッホはなぜゴッホになったのか、藤原書店(2005.3)
  4. ゴッホ美術館 http://www.vangoghmuseum.nl/
  5. 詩・宮澤賢治、絵・つかさおさむ:雨ニモマケズ、偕成社(2012)

 

自殺を図った後の、包帯のある自画像。切ったのは左の耳です。<パイプの自画像模写図
自殺を図った後の、包帯のある自画像。
切ったのは左の耳です。
<パイプの自画像模写図>

 

背広を着た写真がありました。全く普通のビジネスマンに見えます。<背広のゴッホ模写図>
背広を着た写真がありました。
全く普通のビジネスマンに見えます。
<背広のゴッホ模写図>

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

10月 10 13

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第7回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第7回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 上方落語を代表する桂米朝(人間国宝)は、親戚から叱責を受けながらも安定した職を捨てて落語界で精進する覚悟を固めました。師匠になる桂米団治からは”一生食べていけませんよ”と諭されたといいます。ダントツの一流人は小利口や小細工とは無縁で、何かを成そうとするなら“バカになるしかない”ということですかね。ある時期落語にのめり込んだ私は色んな名人会に足を運びました。贔屓の古今亭志ん生は休演中でしたが、桂文楽、三遊亭円生、林家彦六(先代正蔵)、柳家小さん等の名人が勢揃いし、立川談志や古今亭志ん朝は次代の大看板という位置付け。国立劇場小劇場では渥美清さんが最前列で目立たぬ様に聴き入っていた姿が印象的でした。梁塵秘抄では”烏は見る世に色黒し、鷺は年は経れども猶白し、鴨の首をば短しとて継ぐものか、鶴の足をば長しとて切るものか”とあります。烏の黒と鷺の白、鴨の首の短さと鶴の足の長さを対比、”持って生まれた特質を大事に強みにせよ”ということでしょうか。楽屋は前座の人間にとり無駄口を叩かず、じっくり人間観察する場。最後は人の見てないところで何をどこまでやるかが力量のすべて。ただ、噺家は前座のプロになるのが目的ではないはずで、完璧な前座は二ツ目以降不思議と伸びないとか。売れる人・うまくなる人は余力をすべて稽古に当てる、稽古をいっぱいやった人が最後は頂点に立つ。どの世界も同じですね。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

いつ死んでもいいでなく平気で生きていける これが悟り、と正岡子規
欧米人は、挑戦に喜び勇む 日本人は、安全確認の後、初めて挑戦する
安心・安全が、与えられることはありえない 自力で獲得するしかない
わからないことは恥を怖れず教えを乞う 同じことは繰り返し聞かない

 俳句、短歌、小説、評論、随筆など多方面で活躍した正岡子規は病床六尺の世界で、ひたすら美を追求しながら35歳の人生を終えました。死を覚悟し死を考え続ける中、ある朝、庭の花がごく自然に咲いていることで開眼、平然と生きる大切さを悟ったといわれます。植物、特に雑草は、他の植物とタイミングをずらすことで、ライバルを気にせず目標に邁進するといいます。種が10粒あれば、発芽の時期を変えたり、タイミングを計るために時には発芽を1年前後ずらすこともあるとのこと。雑草にとって、予測不可能な逆境も承知の上の大前提。雑草というと、ひたすら耐える”根性論”の象徴に使われますが、今後は”戦略論”にも学ぶ必要がありそうです。音楽の世界もCDが売れなくなったといわれますが、メディアができるまでの音楽はすべてライブ。歌手マドンナの戦略は雑草と重なるところがあります。”絵を見る時は音を聴け”といったのは狩野派を代表する画人・狩野永徳です。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

日本は島国 一人ひとりは、そこを拠点の小舟 エンジンは自力で動かす
自分でオマンマを食べていく 北前船を世界に拡大、地球全体につなげる
板子一枚下は地獄、の覚悟 それで十分生きていけるし、遊んで楽しめる
正解が一つとは限らない世の中 底光りをめざす、草を刈るには根を絶つ

 北前船は江戸から明治にかけて、日本海沿岸・瀬戸内海・大坂までの航路を一航海270日、7人で運航されました。運送業ではなくモノと文化の移動型市場。酒田・本間家の客間は武家を迎えるために総檜づくりですが、居間は松を使う徹底した倹約ぶり。殿様よりすごいと庶民から尊敬を集めた徳望は、底光りする廊下がそのすべてを物語っています。2013年のシリコンバレートレンド予測では、“Right Now(今すぐ)社会の出現” “機械学習による生活の激変” “スキルを持つ個人が自立できる社会の到来” “オンライン教育修了証の価値急上昇” “貧富の格差拡大”などが指摘されています。これからはサッカーでいうとブラジル流の大人のサッカー。“点差や展開に応じて抑揚をつける” “型通りの攻め・守りに拘らない” “刻々と変わる流れを感じとり柔軟に試合を進める”という世界。“これじゃできないという発想はない。足場がびしょびしょならリフティングすればいいだけ”とはブラジル・サッカーを知り尽くした三浦知良選手の言葉です。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

トレーニング、意識的に身体をいじめる 食うための肉体労働、無意識に労わる
双葉山、初代若乃花、鉄腕稲尾 だからこそ、彼らはあんなにしぶとく強かった
身体を労わること これが、身体活動の、効率化と強靭さと粘りをつくりあげる
仕事はアウトプットが命 食うための肉体労働は、アウトプットが鮮明に見える

 我々はスポーツジムで身体をいじめて一時的な充実感に浸りますが、一流の運動選手の鍛錬は量だけでなく質的にも大きな違いがありそうです。肉体をいじめることと労わることの大きなギャップ。土俵の鬼・初代横綱若乃花の土俵際のしぶとさは舟板の上での労役によるところが大きいといわれます。また、漁師の父親の手伝いで幼い頃から艪を仕込まれ、抜群のバランス感覚と強靭な下半身を身につけた鉄腕稲尾。肉体の底知れぬ可能性や肉体労働が生む強靭さを実感し、二十世紀の日本人は心から感動したのです。生きるため、食べるために身体を酷使しつつ労わることで、心身が鉄壁なまでに鍛えられることを教えられたのです。その一方、鉄腕稲尾を記録で上回った楽天・田中投手の二十一世紀型“緩急・配球”体得プロセスにも、あらためて注目していく必要がありそうです。“空を飛べないなら走れ。走れないなら歩け。歩けないなら這っていけ。どんな格好であっても前進しなさい”と鼓舞したのは黒人解放の指導者キング牧師です。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(六)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第7回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(六)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など

 

10月 10 13

中小経営のニッチから国際化へ(第2回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.ニッチの強みはどこから

 幾つかのニッチ(niche)分野での成功事例や失敗事例をみると、面白い共通性があることに気付きます。そこで、一見、際(きわ)にありながら、実は大きな強みを持つ要因を探ってみることにしましょう。

ヘビーユーザーがニッチ・メーカーに

 ベンチャー企業や成功している中堅企業の創業者に、創業時のお話しを聴くことが多いのでニッチの強みを大いに活用している事例を1つ紹介してみましょう。

 A社は神奈川県に本社を持つ電気設備の設置、保守を行う中堅企業でした。大手の電力会社や企業から設計をもらい、それに従って機械設備を製造します。納入した電気設備を顧客の依頼に応じて設置し、保守点検を行うことが主たる事業です。いわゆる大手の1次あるいは2次関係会社で下請事業です。

 A社は、請負元の需要が伸びると自然に成長し、逆に需要が落ちると、大きく業績に響く体質でした。電力の需要は伸びますが、関係会社も多く、競合がひしめき、入札などでの談合問題などの社会的責任を負いつつ、「薄利多売」をせざるを得ない状況です。A社もリーマンショックなどの経済の急降下で、売上の多くを失い、非常に厳しい財務状況に陥りました。

 A社の厳しい状況に甘んじたわけではなりません。多くのコストを削り、要求された価格を維持することも努力しました。また、新規の事業として、保守点検の幅を広げる試みも行っていました。しかし、この努力も吹き飛ばすような需要の低下が、A社を襲いました。さらにこの経営状況で、社長の健康をも損ない、2代目社長にその重責がかかってきました。

 危機を脱するには、徹底したコストカットの中で、需要を掘り起こすか、新規の事業を見出すかと言った極めて厳しい状況です。

 このとき2代目社長は、先代の創業者にない視点で自らの事業を見直すことで活路を見出そうとします。それは、

  • ① なぜ、顧客はわれわれに仕事を依頼してきたのか?
  • ② なぜ、顧客はわれわれに仕事を依頼できなくなったのか?

という視点です。 ①は、競合ひしめく中でなぜ自分たちが選ばれてきたのかという要因探しです。言い換えれば、他社に対する強みの洗い出しです。 ②は、顧客は自分たちを不要としている要因は何かです。顧客である電力会社はこの時点でも電力の供給というサービスを停止しているわけではないので、②について言えば、自分たちの仕事を誰かがやっているか、あるいは不要とする技術などが出現したのかもしれません。何れにしても、顧客の要望が、需要低下の中でどう変わったかを徹底分析することにしました。

 営業活動を通じて顧客の要望が、依然と大きく変わってきたのは、顧客も大きなコストカットを燃料高騰や安価な購入価格をエンドユーザから要求されていることで、業者の選定に、これまでの業績よりもこれから以降の顧客への貢献を重視していることが浮かび上がってきました。つまり、顧客は、購入する設備や保守をコストだけでなく、儲けの源泉として提案するような業者を望んでいたのです。新規や保守する設備ならコストになるのではなく、儲けを生むシステムにせよといった要望です。

 A社は幸いなことに顧客にとっても大口顧客でもありました。工場での電力が大きかった為です。そこで、2代目社長は、ヘビーユーザーならではの視点で、電力会社への要望事項を挙げてみることにしました。多くの要望がある中で、これまで自社が気付いていない「電力の需要と供給との平準化」というものがありました。(昼間の工場操業時には多くの電力を使用しますが、夜間の保守時などはあまり電力を必要としません。このばらつきをなくすことを平準化といいます。)そこで、A社の技術陣はこれに目を付け、これまで単に顧客の設計指針だけで開発し製造してきた電気設備を、平準化を念頭に置いた省エネ設備にすることに成功します。夜間と昼間電力をA社独自のキャパシタ(蓄電設備)で融通しあえるようにしたのです。さらに、こうすることで、A社にとっては、電気設備を1つのシステムとしての納入できることが出来るようになり、エンドユーザの要望に応じて、設備構成を柔軟に変えることもできるようになったのです。多くの顧客も、将来の省エネに関する需要を取り込めるとして、A社のシステムに注目するようになり、更に再生可能エネルギーの重要性が益々高まる中で、A社のシステムは脚光をあびるようになりました。もちろん、厳しい財務状況も徐々に解消し、更なる独自システムの改善に努力しています。

2.成功要因は何か

 さて、A社の今回の成功の要因はどこにあるのでしょうか。前回 示した、4つのポイント:

① 誰にも売れない、誰でもできない、誰にも儲けられない
② 誰にも売れない:ニッチチャンネルの独占
③ 誰にもできない:ニッチ・コアの確立
④ 誰にも儲けられない:ニッチ・障壁の高度化

のなかで、①をつかんだにすぎません。実際は、A社のシステムを売れるのは自社だけとし、コアである電力平準化のみならず省エネ化のコア技術を高度化しなければなりません。

 一過性の強みではなく、継続的に強くあり続けるには、ニッチを深く掘り下げることが重要となってくるのです。目新しいものや流行しているサービスを追いかけても、このような強みを自社が持つことはできません。なぜなら、ニッチ市場を最もよく知っているのはヘビーユーザーでもある自社であるからです。

3.ブルーオーシャン(未踏領域)を求めて

 A社のニッチ領域は、自社の手掛けている分野の中に埋もれていました。同様に多くのニッチ領域は、従来の方法にない新規の視点で探索しなければなりません。A社の場合は、いわば「灯台もと暗し」で、自らの強みを自認していなかったということになります。

 多くの企業は、ニーズが無限で多くの顧客のいる領域を日夜探索しています。しかし、このような、ブルーオーシャン(未踏領域)は、意外にも、

  • ニーズが特殊
  • 少ない顧客

といったフィルターで、アイデアにも企画にも、待ったがかかることが多いのです。例えば、ニーズが特殊であるというのは、顧客が特殊なニーズをもつ理由をさぐると、そこには更に顧客が必要とする根本的なニーズが隠れている場合があります。A社の例では、平滑化だけでは特殊なニーズかもしれませんが、一日あるいは1週間、半年、一年を通して考えると省エネでコストダウンを効果的に行いたいという根本的なニーズがそこにあることがわかります。また、少ない顧客は、今後の潜在顧客という視点で考えてみましょう。今は少ないが、もし、自社がこれに対して解決法を提示できたら、潜在顧客はいないのでろうか、ということです。このように前提としてニッチ分野を特殊で一部の顧客のものとだけ見ていては、自らの事業展開を阻むばかりか、顧客獲得の機会損失を招きかねないということです。

 事業の規模を、顧客×商品・サービスの寿命と考えると、今は顧客が少なくても、商品・サービスの寿命を支えるニーズの強さが将来にわたって見込めるなら、それを突破口と見ることもできるでしょう。今ばかりを見ていては、未踏領域(ブルーオーシャン)を見出すことは困難ですが、商品・サービスの寿命まで考えると、大海は広がっているかもしれません。

※これまでの「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。

次回の予告

「ニッチを深めるには」を語り、ニッチ事業の発展について考えてみましょう。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

10月 10 13

各種セミナーのご案内

by staff

海外事業展開事例研究会第7回研究会セミナーのお知らせ
「アジアのレンタル工場事情を検証」
~海外進出の拠点作りにレンタル工場が注目されています~

昨今のアジアビジネスで話題になっていますレンタル工場に関し、それに携わった経験者が実体験を紹介し参加者全員で語り合う、成功のノウハウ探求の場を企画しました。アジアでの事業展開をお考えの方、中小企業支援に関心のある方はぜひご参加ください。

海外事業展開事例研究会 http://abpj.jp/

プログラム

第1部 1.川崎商工会議所会頭 山田 長満氏 ご挨拶
2.基調講演:神奈川県産業労働局 産業・エネルギー部国際ビジネス課
  課長 清水 周氏
  「県内中小企業の海外展開動向調査結果から見たアジアの貸工場の注目度」
3.事例報告:
  ・ベトナムの工業団地とレンタル工場事情報告
   大和ハウス工業  東京本店建築事業部
   ベトナム・インドネシア担当 課長 丁野 慎一氏
  ・ベトナムの進出企業の最新情報
   株式会社リード技研 代表取締役 小川 登氏
4.質疑
第2部 同会場にて参加者同士の交流懇親会を行います

開催概要

日  時 10月22日(火) 14:00~19:00 (交流懇親会17:30~19:00)
会  場 川崎商工会議所2F-KCCIホール
神奈川県川崎市川崎区駅前本町11-2川崎フロンティアビル
http://www.kawasaki-cci.or.jp/
対  象 当研究会会員およびアジア事業展開をお考えの方
中小企業支援に関心のある方
参加費 3,000円 (資料代、交流懇親会代)
共  催 川崎商工会議所/NPO法人神奈川中小企業活性化センター

お申し込みはこちらから https://www.supportyou.jp/abpj/form/3/

「自社の製品・技術を効果的にPRして売上アップを実現する」セミナー開催
(横浜売れるモノづくり研究会の分科会です)

自社の製品・技術は優れているのに・・・売上にはつながらない・・・
そんな悩みをお持ちではありませんか。

このセミナーは、自社の製品を効果的にPRすることでわずか1年半で国内(550社)・海外(33社)の新規顧客を増やしてきた実績を持つ、株式会社バイオクロマトの木下社長に、自社の経験に基づいた「最速売上アップのノウハウ」を皆様に伝授していただきます。

また「営業できるホームページ」サービスを展開している株式会社ともクリエーションズの渡邊が、「ホームページで集客する5つのポイント」をお話しいたします。

PR上手になって、最短ルートで売上アップを目指しましょう!!
皆様のご参加をお待ちしております。

セミナー名 「自社の製品・技術を効果的にPRして売上アップを実現する」セミナー
講  師 木下 一真 氏(株式会社バイオクロマト
渡邊 桃伯子 氏(株式会社ともクリエーションズ
日  時 11月7日(木) 18:30~20:30
場  所 横浜 関内 さくらWorks(予定)
受講料 2,000円

お申し込みはこちらから https://www.supportyou.jp/monoken/form/11/

「日産自動車80周年・みなと工業会30周年 記念シンポジウム」
~横浜ものづくりと未来~

横浜市の中心部、西区・中区を中心に約100社の企業で構成するみなと工業会は、お蔭さまで今年30周年を迎えます。みなと工業会のメンバー日産自動車も、今年創立80周年を迎えることから、これを記念し「NISSANホール」にて、下記のシンポジウムを開催致します。皆さまお誘いあわせの上、是非ご参加ください。

基調講演

テーマ 「日産のダイバーシティの取り組み-社員の多様性を生かす」
講  師 日産自動車ダイバーシティディベロップメントオフィス
室長 桐竹里佳 氏

パネルディスカッション

テーマ 「横浜ものづくりと未来」
コーディネーター 柳沢 剛 氏(新連携支援プロジェクトマネージャー)
パネリスト 牧野幸一 氏(横浜市 経済局長)
八木正幸 氏(株式会社浜銀総合研究所 理事)
中村雅行 氏(株式会社岡村製作所 代表取締役社長)
藤澤秀行 氏(株式会社ニットー 代表取締役)
日  時 11月15日(金) 15:00~17:00
(交流懇親会 17:30~19:00)
会  場 NISSANホール 横浜市西区高島1-1-1 日産グローバル本社内
参加費 シンポジウム:無料  懇親会参加費:3,000円
問合先 みなと工業会事務局  Tel/Fax 045-651-7462
E-mail:minato-k@helen.ocn.ne.jp

 

11月28日のセミナーは「製造業とファブラボの関係」がテーマです

「ファブラボ」をご存知ですか・・・
世界50ヶ国200か所以上に広がっている実験的市民工房のことです。2013年8月横浜で「世界ファブラボ会議」が開催されました。今回のセミナーでは、世界会議の運営に携わったNPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボ代表理事の杉浦裕樹氏に「世界ファブラボ会議」の報告をしていただきます。

セミナー会場である横浜関内の「さくらworks」には、3Dプリンタやレーザー
カッター等の工作機器を備えた「関内ファブラボ」があります。
(セミナー後に「関内ファブラボ」の見学も予定しております)

基調講演は、3Dプリンタの設計者である増田恒夫氏(SHC設計代表社員)に、「3Dプリンタで作ること」をご講演いただきます。
事例発表は、落合孝明氏(株式会社モールドテック代表取締役)と室根貴之(株式会社MURONE取締役)に「変貌する製造業」についてお話いただきます。

杉浦氏・増田氏・落合氏・室根氏のパネルディスカッションを通して、参加者の皆様と一緒に「製造業とファブラボの関係」について考えていきます。

セミナー終了後は、懇親会を行います。多くの方々に参加していただいて、講師・参加者との交流を深めていただきたいと思いますので、皆様奮ってご参加ください!!

横浜売れるモノづくり研究会 http://www.monoken.net/

開催概要

日  時 11月28日(木)
研究会セミナー 14:00~17:00
交流懇親会   17:00分~19:00
会  場 さくらWorks 会議室
横浜市中区相生町3-61 泰生ビル2階
tel:045-664-9009
会  費 3,000円(懇親会代含む)
申  込 下記の申込フォームに入力してください
https://www.supportyou.jp/monoken/form/3/

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

10月 10 13

書評 「人生に何ひとつ無駄なものはない」 朝日文庫 遠藤周作 著

by staff
 

 阿川佐和子さん推薦が目に飛び込んで読んでしまった。

 「躁病的軽薄に見えるこの話のなかに、実は奥深い意味と象徴を見つけることのできる読者とそれができない読者とがいるでしょう」という言葉を人生の指針としているという。さて、そのことは何を意味しているのでしょう。冒頭の方で次のように書かれる。フランクルの「夜と霧」を志低くなった時、幾度も読むというのだ。

 「われわれは労働で死んだように疲れ、スープサジを手にもったままバラックの土間に横たわっていた。そのとき一人の仲間が飛び込んできて、急いで外の点呼場までくるようにといった。そしてわれわれは西方の暗く燃え上がる雲を見た。幻想的な形と青銅色から真紅の、

この世ならぬ色をもった雲を見た。そしてその下に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があった。感動の数分つづいた後に、だれかが他の人に世界ってどうしてこう美しいんだろうとたずねる声が聞こえた。」

 声を聴いて気づかされることがある。心の自由はだれにも保障されたこと。この状態においても声を出すことのできた意味はなんなのだろう。

 著者は聖書のなかの女性たちで次のように書く。

 「我々は罪を犯したいから罪を犯すのではない。心の弱さ、孤独の寂しさ、人生の悲哀をまぎらわすために罪を犯すのです。そうした人間のかなしさをキリストはだれよりも知っていた。だからキリストはペテロに教えられた。“お前は今夜、夜の明けるまでに三度私を否むだろう”。この言葉はただ一途に自分の強さに自信をもったペテロへのふかい戒めだったとぼくには思われるのです。ひいてはそれは自分の強さだけではない、自分は正しいんだ、自分は間違わない、かたくなにそう自分を信じて、弱い人の弱さ、くるしみ、泪を理解しえないことがどんなに間違っているかをキリストはいいたかったのだと僕は思うのです。」そして・・・・

 「従来の基督教がながい間、無価値であり不毛なものとしか考えなかった罪の再生の可能性を見つけたのは、基督教文学の功績だと私は考えている。罪と再生、罪と救いとは切り離されたものではなく、背中合わせであり、心理構造では類似していることを基督教文学者はそれぞれの作品でこまかく描いてみせているが、この神秘を五世紀にすでに仏教の無意識分析が早くも見通していたことは驚嘆に値する。」「人間のなかにひそむ悪はいつか消えることができるか。ぼくらのように戦争時代に育ったものは平和な時代にやさしく愛想よく善良な人間もなかなか信ずることはできない。またかってと同じ状態になれば今日の彼らの人間らしい顔も獣のようにならぬと誰が保障できよう。フランクの夜と霧に出てくる恐ろしいナチ収容所の看守たちが家庭ではモーツァルトを愛する心やさしい父親たちであったことはメルルの有名な小説の中でもはっきり描写されているのである。」

 ではどう生きればいいのか。遠藤周作は「愛するというは棄てないことだ」「嫌いということはすでに祈りだ」「神とかキリストとかいうものは、働きだとまずおもったらいいのではないでしょうか」そして次のようなことにつながる。「私が神の存在を感じるのは、今日まで背中を何かが押してくれてきたという感じがまずするからです。生まれてから現在につながる糸があるとすれば、その糸にずうっとある力が働いていたのだなという感じを持つのです。そうすると、私の個性とかいったものよりも私をつくってくれたそれらのもののほうが大事になり、この大きな場で私は生きてきたという気がするのです。それを私は神の場と呼びます。」「侍」で次ように言う。「泣くものはおのれと共に泣く人をさがします。欺く者はおのれの欺きに耳を傾けてくれる人を探します。世界がいかに変わろうとも、泣く者、欺く者は、いつもあの方を求めます。あの方はそのためにおられるのでございます。」

 遠藤周作は弧狸庵とも言う。弧狸庵という名のおかげでともすればせまくなりがちな自分の世界を拡げることができたという。「どんな人間の心のなかにもさまざまな音が鳴っています。一つの音しか鳴っていない人間なんてまずかんがえられません。さまざまなあなたの音を全部鳴らすことはゆるされません。しかしこの社会で生きていく以上、社会生活に差し障りのない音だけを響かせて生きているでしょう。」「あなたには何となく好かない人がいるでしょう。その何となく好かない理由をよく考えてみると、意外にその理由があなたのコンプレックスからきていることが多いのです。」

 こうしたなかでどんな生き方をしめすのだろう。「笑うこと、笑えることは表情に余裕を与えると同時に、カチカチになりがちな心やストレスの溜った肉体をゆるます」「人間は人生の途中、一寸した優しい他人の励ましや情愛の言葉で勇気づけられ、自分のささやかなものにも自信を抱くことがある」そして次のようにも「人と人とのめぐりあいを今の私は偶然の出来事とは思っていない。人と人とのめぐりあいの奥に、我々をこえた神秘な意思が働いていることを考えざるをえない。」

 さていよいよこの本から離れなければならない。実に多彩な内容である。それは遠藤周作・弧狸庵先生がいままで書いてこられた著作から鈴木秀子さんが珠玉の言葉を選び取って編んだものだからです。各章立てにでてくる表題に優しさが表れている。「嫉妬の苦しみの効用」「落ち込んだ時こそ人生の本質に触れるチャンス」「挫折は人生のエネルギー源」人生には何ひとつ無駄なものはないのだからそれを肝に銘じて、自分なりの生き方をしてみたいと思うのだった。

(文:横須賀 健治)

 

 

10月 10 13

佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第22話 茶道の中の『お・も・て・な・し』の心

by staff

 とても素晴らしいジェスチャーと言葉で、「日本人の心の素敵さ」を世界に語りかけて下さった方が居られました。TVでご覧になった方も居られるでしょう?!

 今回は茶道での『おもてなし』のお話です。 茶道をなさっている方でも結構ご存じ無い方が多いのです。 文化の秋、芸術の秋、秋にはここかしこでお茶会が開かれ、お茶事におよばれに行かれる機会があるかとも思われます。

 とても良いタイミングですので、少々茶道の中の『おもてなし』の心を、簡単に、掻い摘んで、『へえ~