書評 「九転十起 事業の鬼・浅野総一郎」 幻冬舎 出町 護 著
「浅野総一郎は150万坪を工業用地として埋め立てる計画を神奈川県庁に届け出た。前例のない大規模な埋め立てのため、無謀すぎるという批判も多く、出資を希望する者もいなかった。県からは、なしのつぶてだった。総一郎は何度も県庁を訪れた。私の出した埋め立て計画はどうなっているのですか。神奈川県知事の周布公平はこう言い放った。これほどの大事業、金融機関の確かな人が保証しなければ、許可できない。頼ったのは、日本一の銀行王として有名だった安田善次郎だった。」 そんな大胆な計画をする総一郎はどんな青年だったのだろう。 「14歳の春、養父は “武士なら来年が元服だ。一人前の医者になって、家の手伝いをしてもらわなければ” と言って、東寺唯一の医学書傷寒論を教え込んだ。 |
総一郎は養父の折檻が怖くてこの傷寒論を猛勉強した。すると、わずか三か月で、暗唱するほどになった。熱の測り方や脈の取り方も習い、養父の代診で患者の家を回った。養父の態度はがらりと変わった。 “総一郎は稀に見る天才だ” と近所に吹聴して歩いた。」
そんな総一郎に事件が起こる。富山にコレラが大流行した。そのころコレラの治療法や消毒法も分かっておらず、病人を治療することの限界を感じた。
「大きなことがしたい。医者の世界には限界がある。やはり商売の世界で行きたい。やりたいことをやろう。生まれ故郷の薮田に戻り、一から出直そう。」
総一郎は縮帷子と呼ばれる夏用の着物を作る工場をや醤油の醸造を始める。少年が経営する商売だったので足元を見られ、採算割れなどでことごとく失敗し廃業を経験する。一六歳で船一艘分の稲抜きの機械を買い付けて氷見の沖合につけたが、これも失敗に終わった。
総一郎が生きていた時代は丁度明治維新の前後である。嫁ぎ先で見込まれはじめた産物会社はうまくいきそうであったが、「今まさに日本は内戦状態、商売どころでなかった。」戊辰戦争が総一郎が販売していたその地域だった。ことごとく商売に失敗するが、総一郎を見込んでいた村の実力者山崎善次郎は励まし続けた。
「金の事は気にするな。はじめから戻ってくると思っとらんね。それより、おい総一郎や、七転び八起きという言葉を知っとるやろ。失敗してもくじけちゃダメや、ちゅうことや。七転び八起きで足りんなら、八転び九起き、九転び十起きでもしたらいいわ。大事なのは起き上がることだ。」「九回転んでも十回起きる。総一郎は山崎のこの言葉を聞いて、奮起できそうなきがしてきた。」
借金取りから逃れるために、白い手ぬぐいで頬かむりして裏に葉の竹藪に潜んでいた総一郎、「家からそっと抜け出したリセは、隠れていた総一郎に近づく。木綿の風呂敷包みを渡す。“おっかちゃん、ありがとう” 総一郎はそれを受け取ると、一目散に逃げた。薮田村の村境を通る際には、さすがに、“もう二度とこの村を訪れることはないかもしれん”と感慨深くなった。沖合に漁火がみえたものの、夜の日本海はどす黒かった。」
浅野の嗅覚は事業化に向けても発揮される。
「ある日、総一郎は横浜の南京町を歩いていると、西洋式の秤を見つけ、立ち止まった。どこかで嗅いだことのある匂い。総一郎は、秤から漂う臭いをかぎながら、店の主人に尋ねた。“コールタールの匂いがするのですが”」
ここでコールタールが鉄に塗ればさび止めになることを教えられる。この時は横浜の瓦斯局が大量のコールタールを引き受けていたのである。浅野はその前には、処理に困っていたコークスをセメント会社に持ち込んで成功していた。そして、錆止め用に使用するコールタールの使用量が少なく困っていた時にコレラが急速に流行した。衛生研究所ではコールタールで石炭酸を製造し、消毒に使えることに成功していた。
「火事に強いセメントに期待が集まった。ところが、深川のセメント工場は明治12年春に、採算が取れずに、操業停止した。鳴物入りの工場だけに操業停止は大きなニュースとなった。総一郎は“国産セメントというのは、日本の近代化のために不可欠だ。操業停止というのはいったい何事だ。俺が経営し、工場に勝を入れたい”と考え、セメント工場の経営に意欲を燃やした。」
「この渋沢が保証します。浅野は三井、三菱のような有名な財閥ではありませんが、大変な努力家です。浅野に払い下げれば、昼も夜も汗水たらして働き、セメントの生産もふえるでしょう」総一郎は改めて渋沢に感謝し、「この人には一生さからえないな」と思うのだった。渋沢とは紡績で成功していた渋沢栄一の事である。
この当時、時代は駆け足だった。「岩崎弥太郎の独占では、日本のためにならない。海運業界でも競争が必要だ。独占企業が勝手に運賃を引き上げるのでは、やはりおかしい。」西南戦争で儲けた三菱商会に渋沢栄一たちは懸念を示していた。総一郎は渋沢を師と仰いでいた。
セメントで成功していた総一郎は、明治26年石油事業を始めていたが、それから15年で散々たる幕引きで撤退した。明治29年2月には外国航路を手掛ける新会社、東洋汽船を設立する会合を開いている。安田善次郎、渋沢栄一などが発起人に名を連ねている。
「アメリカは当時、繁栄を謳歌しようとしていた。1865年に終結した南北戦争の後、石油産業や鉄鋼産業が急速に伸び、1894年(明治27年)には工業生産が世界一となった。白熱電球や電話などが発明され、黄金時代を迎えようとしていた。世界の中心がヨーロッパからアメリカに変わる時代が到来した。アメリカの興隆については、当時の日本の実業家は認識しており、日米航路の重要性を感じ始めていた。」
白石は浅野の娘婿である。「サンフランシスコやニューヨークの街を歩きながら、白石はアメリカの時代を予感していた。アメリカは、スペインとの戦争に勝利し、いよいよ世界の覇権国に躍り出ようとしていた。世界中から大量の移民を受け入れており、活気に満ち溢れていた。白石は得意の英語を駆使して、新聞を読みふけった。特に注目したのは、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの引退のニュースだ。」いつかは鉄鋼王カーネギーのようになりたいと思い、のちにこの夢を実現し、日本鋼管を創業することになる。
浅野の海運業は順調にいったのではない。1906年のサンフランシスコ大地震が引き金になって、アメリカからの貨物も激滅している。1910年の株主総会で社長辞任は避けられなかったなか、青年株主の発言が飛び出す。「この人以外に、東洋汽船を任せられる人はいないと思います。仮にも天下の浅野社長です。相当な財産を持っています。辞めるより、社長にとどまって責任を果たしてもらいたいと思いますが、どうでしょうか。割れんばかりの拍手があり、浅野は全財産をなげうっても構わないと演説するのであった。
「総一郎の経営の要諦は、現場主義だ。現場で汗をかいて働く人を大切にすることこそが、企業、そして国家の利益につながるという信念だ。時代は、総一郎にとって明らかに追い風だった。第一次世界大戦の影響で、大正4年(1915年)後半から日本経済は飛躍的に伸びた。重化学工業の発展だ。総一郎は大正2年、鶴見・川崎の150万坪の埋め立て事業に着手した。」「これが京浜工業地帯となる。日本が今後、貿易国家として羽ばたくには、工業地帯の埋め立てが必要だ、と安田善次郎に直訴して、資金援助を受け造ったものだ。」
「直接経営に携わった企業や京浜工業地帯だけではない。総一郎的なスピリットはそもそも日本人に具わっていると思う。失敗してもくじけない精神だ。戦後復興を見れば、それは分かる。日本人は太平洋戦争で焦土と化したものの、国民が懸命に働き、奇跡の復興を実現した。そしてその一人ひとりの勤勉さが高度経済成長を支え、経済大国となった。これこそが、“四時間以上寝ると人はばかになる” “人の二倍食べて三倍働く” “稼ぐに追いつく貧乏なし” という総一郎の精神に重なる。」
(文:横須賀 健治)
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横浜スケッチ(第1回) エリスマン邸から
ペンネーム 成見 淳
人生はそれ自体が表現なのだろう。仕事も趣味も、道を歩く姿さえも。
私のような粗・野・卑(註:そやひ。元国鉄総裁の石田礼助の「私は粗にして野だが卑ではない。」という言葉を念頭に置いています。)な人間でも何かに感動し、それを表現したいと思うことがあるらしい。「善人なおもて成仏す。いわんや悪人をや。」(親鸞) の、悪人が仏を求めるようなものか。
1990年11月にルノアールの「少女」(イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢 1889年)が横浜に来ると知った時、小学校の教科書の絵をずっと見入っていたあの時の少年になっていた。30数年ぶりに初恋の人に会ったようなものだが、額の中の少女は全く変わっていない。1世紀以上も前の感動をそのまま伝えられる絵というものが素晴らしいものに思えて、いつの間にか『自分もあんな絵が描けたら』という願望に変わり、気がついていたら描き始めていた。
私は2才の時からの浜っ子。横浜は絵の題材には事欠かない。当時毎週スケッチブックを持って市内のどこかにいた。描いている時は時間も空間も無い。色即是空、空即是色。景色の中に溶け込んで、頭の中は真っ白なキャンバス。すぐそばを通る船の警笛に驚いて我に還る。人生そのものが自己表現なら、自分というキャンバスを使って、何でも良いから描いて書いて、大いに恥をかいて。あの世へ行ったら死ぬまでゆっくり、先人たちと語り合いたい。
この絵は1991年5月、エリスマン邸の前のベンチで一休みした時に庭のチューリップの美しさに魅かれて描いたもの。背景に写るのはSt. Josef International Schoolの文字。この文章を書くにあたって調べたところ、St. Josef International Schoolは廃校となってしまったとか。私が描いているころは反対運動や署名活動も行われている頃だったのかもしれない。
これは1991年9月に当時勤務していた会社の社内報に寄稿した文章をもとに一部リライトしたものです。冒頭の文を英訳した「Life is an Expression」は私のホームページのタイトルでもあります。自己紹介はホームページ及びFace Bookをご参照下さい。
http://home.netyou.jp/kk/ohsawa/
https://www.facebook.com/jun.ohsawa.50
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筆者紹介
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映画になったヨコハマ(第2回) あのレトロなビルで閉じ込められた犯人
死刑台のエレベーター
制作 2010年 角川映画 |
もはや古典となった1957年公開のフランスの名画にして、ルイ・マル監督の処女作『死刑台のエレベーター』を、現代の横浜を舞台に、世界で初めてのリメイクに果敢にチャレンジした。監督の息子であるマニュエル・マル(映画監督)もサポートしているという熱の入れようだ。
最大の見せ場となるエレベーターが設置してあるビルのロケは、1936年築でギリシャ・コリント式列柱が特徴的な横浜郵船ビル(日本郵船歴史博物館)で行われるなど、全体に“横浜度”は高い。
芽衣子(吉瀬美智子)は、愛人で夫の部下の時籐(阿部寛)との恋に身を焦がすあまり、時籐を実行犯に、企業グループ会長である夫(津川雅彦)を自殺に見せかけて殺害する完全犯罪を企てる。筋書きでは15分で終わるはずだったが、そうやすやすとはいかないもので、時籐は犯行直後、週末で電源の落ちたエレベーターに閉じ込められてしまう。
さらに、当のビル近くに偶然居合わせた交番勤務の警官の赤城(玉山鉄二)と美容師の美加代(北川景子)という若い恋人同士が、衝動的に時籐の自動車を盗んで暴走したことで、歯車は激しく狂い始める。
芽衣子は、約束の場所に現れない時籐を探して夜の横浜をさすらい歩き、時籐は、破滅に続くエレベーターから必死の脱出を試みる――。
真相の解明に挑む刑事(柄本明)、横浜をシマとする暴力団組長(平泉成)とその情夫(りょう)など、脇役が良い味を出している。残念ながら、阿部は最近コメディの印象が強いので、奮闘すればするほど、「それじゃ脱出できないっしょ」と失笑を誘われる。それに輪をかけて、玉山が、『マッサン』にも通じる、「警官がそれやっちゃダメでしょ」というダメダメ感を出していて、ちょっとだけマッサン・ロスを埋めてくれる。
とりわけオリジナルのファンには不満も強いようだが、時代も国も違う設定でのリメイクというのは、なかなか難しい。芽衣子が歩き回る横浜の街は、異国情緒があふれすぎているし、日本第2の大都市にしては、偶然がありすぎる。重要な小道具であるフィルムカメラに加え、そもそもエレベーター自体がちょっと古めかしい。
それでも、おなじみの横浜が舞台だけど、ちょっと異質の世界が味わえると思えばいい。
横浜度(横浜の露出度、横浜を味わえる度) 60%
筆者紹介
塚崎朝子(つかさき あさこ) ジャーナリスト。世田谷生まれの世田谷育ち。読売新聞記者を経て、医学・医療、科学・技術分野の執筆が多いが、趣味の映画紹介も10年以上書き続けている。年に数時間だけ、横浜市内のキャンパスで教壇に立たせていただいている。 著書に、『新薬に挑んだ日本人科学者たち』『いつか罹る病気に備える本』(いずれも講談社)、『iPS細胞はいつ患者に届くのか』(岩波書店)など。「日経Gooday」で「その異常値、戻しましょう-STOP・メタボの12ステップ」連載中。 |
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横浜宝石物語(第7回) 二代目の父(横浜西口ダイヤモンド地下街店)
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横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子 PROLOGUE 連載に寄せて私は横浜でおそらく一番古い宝石商の三代目です。 創業者の祖父、二代目の父、三代目の私とそれぞれの時代で宝石商としての形態は違っていますが、良い宝石を選び、作りの良いジュエリーを製作して、ご提供するということについては、3人とも拘ってやってきたと思います。 祖父が宝石の製造メーカーとして地位を築き、父が小売店として皆様に愛されたからこそ、今、私が宝石商としてやっていられますので、いつか祖父のこと、父のことを書いてみたいと思っていました。 |
この度、横浜宝石物語の連載のお話を頂きましたので、念願が叶い、とても嬉しいです。横浜の歴史も交えながら、祖父、父、私の宝石物語を綴っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
宝石商の三代目私は現在、横浜の馬車道で「横濱宝石美術館エメラ」という宝石店をしております。 横浜の景色や思い出をジュエリーにした「横浜ジュエリー」などオリジナルジュエリーの製作と販売、デザイナーやアーティストの作品の展示販売、お客様のご要望をかたちにするリフォームやオーダージュエリーのご注文を承っています。 私の宝石商のルーツである創業者の祖父のことからお話しさせて頂きたいと思います。 二代目の父(横浜西口ダイヤモンド地下街店)昭和39年の12月に横浜西口にダイヤモンド地下街が開業しました。 父は当初、祖父の会社から独立して、母と二人で作った別会社でやるつもりだったようです。 ただ、最初の数年は伊勢佐木町の松屋デパートさんにも問屋として店を出していた為に、新たにお客様を開拓しないといけなかったので、オープンしてから3年ぐらいは経営がとても大変だったようです。 当時はまだ、一般の人が気軽に宝石を買う時代ではなくて、合成の石やアクセサリー的な商品も売っていたようです。 オープンして数年経った頃、父が地下街に店を出したいと思った通りに横浜の繁華街の中心が伊勢佐木町から横浜西口に移り、松屋デパートの店を撤退しました。 ダイヤモンド地下街は元旦とそれ以外は点検の為に夏に一日休みがあるだけで、年中無休で営業していました。 その後、父は多店舗化をしていったり、海外に買い付けに行くようになります。 |
(クリックで拡大画像) 【今月のエメラのジュエリー】 馬車道はアイスクリーム発祥の地なので記念に作りました。5月9日はアイスクリームの日です。 (写真提供:大島貴子) |
(横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子)
横濱宝石美術館エメラ
〒231-0011 横浜市中区太田町5-61 馬車道商栄ビル1階
TEL.045-681-0603 FAX.045-228-9828
Websie http://emera-yokohama.jp/
第32回 新しい建築とのかかわり方
(有)カサイ アーキテクチュラル デザイン
代表取締役 笠井 三義
歴史的建造物のリフォーム
冒頭から新しい建築とのかかわり方との、コメントに相反する表題について話しをしたいと思います。
通常の建物の利用勝手は、日本の実情は甚だ短いと思います。ヨーロッパでは100年~200年の建物はざらにあり、アメリカでも70年~80年を超える建物が平気で中古市場にでて来ると聞いています。
日本で、リフォームと言うとせいぜい20年~30年の建物のリフォームの話しになって来るのが通例かと思います。ましては戦前の建物又は、明治以前の建物は古民家又は、文化財指定として保存活用事例もありますが数は限られています。
今日は、たまたま私が携わった建物の話しを致します。
まずは歴史的建造物とはどのような建物をさすのか考えると、文化庁が一つの目安として50年を経過した歴史的建造物の内一定の評価を得たものを文化財として登録、届出制とした制度を作っております。
今回の話しは、平成17年にこの時点で築77年たった建物のリフォームに関わる機会を得た話しです。
昭和3年竣工のこの建物は、横浜市中区にある都南ビルです。地上6階建て・鉄筋コンクリート造のビルで、戦後横浜銀行に吸収合併された都南貯蓄銀行の本店でした。戦後は、連合軍の印刷局として接収されて居た時期が7年~8年続いた後、先代から現在の所有者に引き継がれて今に至ります。 |
(クリックで拡大画像) |
一次診断 IS値0.8以上確保された為、構造的には現在の新築には及ばないものの避難上は問題が少ないとの結論で用途変更上問題が無いと言うことになりました。
それ以外の建築基準法の項目は、すべて現在の条件に適合しないと用途変更は出来ません。外部の防火戸・各階の防火区画・避難経路・シックハウス等までチェックして適合判定しました。
荷重については、当時の構造計算が土木から来ている動荷重と言う言葉で表されて居る荷重条件以上に荷重が増加しないこと・新設階段も既存梁に負担を掛けない様に自立柱にて受けるなどの工夫・また全体バランスの判断により階段部分の吹抜けを作るなど、あらゆるところで工夫しながら解決策を見つけました。
この様に、歴史的建造物は現在の法律以前の建物の為、あらゆる安全チェックが必要であり、時間と費用がかかるものです。日本では50年を超える建物の場合、古い建物であると言う認識が強く、法律的に容積率(土地の何倍建物が建つかと言う基準)をすべて使い切っておらず、取り壊して建替た方が経済効果が高いというバランスの悪い状況が一般的です。
イギリスでは歴史的建造物のリストアップは日本の何十倍もあり、古い建物の保存利活用には市民レベルでの活動が盛んです。むしろ築80年・100年とかの建物の方が価値が高いと言う事もある様です。これは歴史的建造物は古い技術・材料等が一度取り壊してしまうと二度と戻らない事が解って居り、文化的に価値が認識されて居ることに起因しているものと思われます。
文化の蓄積を考えると、日本の建築業界を含めた建物寿命の短さについてもう一度考え方を見直す時期に来ていると思われます。
リニューアルを考えるとき今一度建物を見直し無駄な材料・使い勝手等を考え既存建物をより利活用させるアイデアを是非考えてください。
これが建物の価値に繋がる一つの方法と思います。
「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
AA STUDIO ナビゲートサービス
中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談 無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案 ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
北島 俊嗣 | http://kitajima-architecture-design.com |
久保田 恵子 | http://studio5st.com |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
高橋 正彦 | http://www.takahashi-arch.com |
廣田 裕一 | |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
古川 達也 | http://furukawa-arch.com/ |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
山田 慎一郎 | http://www.yamadastudio.com/ |
ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第35回 第6章 社会人編 7
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HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
横浜、街と風(社会人編) 21(36)
出会い
とあるお店で歌っている時に、近所のクラブで演奏しているグループがよく休憩の時に飲みに来ていました。自分の演奏を気に入ってくれてたようで、すぐ仲良しになりました。リーダーはパーカッションのRさん。一緒に来ていたボーカルの女性Mさんがともかく綺麗でこの二人とはこの後長い付き合いになります。
Rさんとは一緒にバンドを組み仕事をしました。もう二度とバンマスはやらないという私に「店との交渉やマネージメントは自分に任せてくれ、希望のギャラを払うから音楽的のリーダーを勤めてくれ」という事でRさんと組む事になりました。かなりの額を提示しましたが彼はそれを支払ってくれ10年近くマネージャーとしてお世話になることになりました。Rさんはかなりの交渉上手で、そうとうお店はギャラは出していたようです。いくら出ていたのか全く分かりませんでしたが、私的には煩わしい事がなくなり音楽に専念出来たので今でも感謝しています。夕方から12時までの時間、横浜駅周辺で2軒掛け持ちしたり、関内の高級クラブだったり本当に良く仕事を見つけてきてくれました。
Mさんは超色っぽいボーカルで、この時はまだ駆け出しで20歳そこそこでしたが、歌の旨さは群を抜いていました。彼女とはよく飲みに行き男女を超えた友達としてお付き合いさせていただきました。数年後メジャーレーベルからデビューしてアルバムとシングル数枚を出しています。テレビにもよく出ていました。その後は関内にお店を持ち最高のピアノバーを経営して美人ママとして知られています。彼女は実は家内を紹介してくれた人であり私にとっていまでも親友です
ナイトアウル
若葉町本通りのボウリング場を黄金町に少し行った所に気になる店が、、、黒人音楽専門店の看板に店の名前がナイトアウル。ある日意を決して行ってみる事にしました。薄暗い階段を2階へ登って店の扉を開けると「いらっしゃいませ」の声が、、、4~5人座れるカウンター越しに背の高いマスターらしき人がレコードをかけていました。壁一面レコード棚で全てが黒人音楽のものだという。ソウル、R&B、ブルース、ゴスペル、ありとあらゆる黒人音楽が揃っている。窓は締め切られていてその前にアルテックのスピーカーA7が両端にでんと置かれている。ど真ん中には10人位座れる丸テーブルがあり奥には大きいボックス席が3つ程。夕方6時くらいから朝5時位までずっと黒人音楽のみを大音響でかけている。なにしろ音が良い。バスドラムの音はそこにドラマーがいて叩いているような生々しさ。抜けの良さ。もうここが気に入りしばらくは1日とて行かない日が無いくらい通いました。ひと月に15万くらいは飲んだり食ったりして使っていたでしょう。まだソウルバーなんてものが何処にもない時代こんな店はここしかありませんでした。
マスターは黒人音楽全般に通じていてレコードコレクターでもある。彼から黒人音楽について様々な事を教わりました。店は奥が住居になっていて時折奥さんが手伝い、まだ小さい娘が深夜だというのに周りをうろつくし、ちょっとした異次元空間。お店は渋く暗くてお世辞にも流行っているとは言えませんでした。しかし、かかっている音楽は最高。ここで70年代のスイートソウルにハマり、レコードも売っていたのでここで月に20枚くらいは買っていました。柳ジョージさんが同級生だということで時々来ていましたね。7年後位に金銭トラブルでお店が無くなってしまったのが残念です。ずっと横浜に有り続けてほしい店でした。
ハーバーガイズ
1982年のある日、とある人から電話があり深夜の仕事がある、一度歌いに来て欲しいと言われました。行ってみると客船の中をイメージしたオシャレな店で、ホール中央のステージの床は敷き詰められた白いアクリル板に下から照明が当てられその上には白いグランドピアノが贅沢に置かれていました。メインの壁には5メートル程の横浜の夜景を移した大きいパネルにスポットが当てられている30坪程のお店で、ここが一発で気に入ってしまいました。心の底からここで働きたいと思ったのです。オーディションには確か陽水を歌ったような気がします。電話をくれたのはここのマネージャーのY氏で数日後オーディションに受かったと連絡があり、この後メインのお店としてここで15年間の時を過ごすことになります。
ここからは原の音楽夜話 - ファルセットボイス(ブラック編3)
スタイリスティックス
フィラデルフィアで男性ファルセットボイスを活かした名曲『La La Means I Love You』をデルフォニックスというグループがヒットさせました。これをプロデュースしたのが名プロデューサーのトム・ベル。クラシックなども学んだ天才で彼はこれに続くグループとしてスタイリスティックスを手がけます。
スタイリスティックスは5人組のコーラスグループで、ラッセル・トンプキンズJr.というファルセットボーカルを擁していました。トムはその声を気に入り、ラッセルのファルセットを活かした曲を作ります。美しさに加え太く品があって落ち着いた感じのファルセットは、ストリングスを多用したトムのサウンドに溶け込み、ファーストアルバムのスタイリスティックス登場は立て続けに『You Are Everything』など4曲の大ヒットを産み出しました。ファルセットを歌う人は基本的に高音を出したがりますが、トムはレコーディングの時に高い声を出したがるラッセルにできる限り低い音で歌わせました。これが功を奏し3枚目のアルバムまでトムのプロデュースで名作を発表しています。4枚目からはトムと離れヴァン・マッコイなどを起用して『愛がすべて』など数々の作品を出しますが、ヨーロッパや日本では大ヒットしましたが本国ではソウルファンが離れて全盛期ほどではなかったようです。やはりトムベルとステイリスティックスのコンビは鉄壁でした。
彼らの名曲『You Make Me Feel Brand New(誓い)』はトムベルの曲、アレンジ共に秀逸で、まずバリトンのエアリオン・ラブのリードから始まり途中からファルセットのラッセルにリードがチェンジ、サビで重厚なコーラスを楽しめるコーラスグループならではの魅力を1曲で味わえる作品です。
ソウルコーラスグループの聞き方
欧米の音楽は基本的に和音で構成されていて、クラシックから教会音楽に至るまでハーモニーは欠かせません。小さい頃からハーモニーに親しんできた欧米人にはコーラスグループは当たり前の世界です。ドミソの3和音が基本なので3人組のグループが多いですが、それにベース担当が加わった4人組、更にテンションのある和音を出す為の5人組グループと様々です。
ソウルコーラスグループの聞き方としては、まずはハーモニー! 個性的な声の人が集まると個性的で魅力的な和音が生まれます。綺麗な声の人を集めたからといってそれが魅力的なハーモニーになるとは限りません。色んな声が集まるからソウルコーラスは面白いのです。
又、どのグループにも主旋律のメロディを歌うリードシンガーがいて、声量がありしゃがれた声で個性的な声の人が多かったようです。そして、必ずファルセットを担当するシンガーがいます。例えば『マイガール』がヒットした当時のテンプテーションズ(テンプス)には、重厚な低音を出すベース担当のメルビン・フランクリン、強力なしゃがれ声でリードも取れるバリトンのポール・ウイリアムス、アルトのオーティス・ウイリアムズ、そして『マイガール』を歌っていたリードのデビッド・ラフィン、ファルセットのエディ・ケンドリックス。一人ひとりの声が強力に個性的で素晴らしいハーモニーが生まれます。そして、それぞれのソロパートが来るとその音域の違い、声の違いを楽しめます。これにハマってしまうとヤミつきになりアルバムを買うのが楽しみになります。『Papa Was a Rollin’ Stone』は、そんな声の違いを楽しめる1曲です。テンプスは61年の結成され64年に『マイガール』が全米1位になってから70年代80年代までメンバーチェンジを繰り返しながらトップグループとして大活躍しました。現在も活動していますがオリジナルメンバーはオーティスウイリアムス一人になってしまいました。
(続きは次号へ)
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL DATAMAP
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え 行方も知らぬ 恋の道かな
♪ 由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え 行方も知らぬ 恋の道かな ♪
絵・千絵崇石 |
読み人:曽禰 好忠(そね の よしただ) 現代語訳は今回は省きます。が 舵をなくしてしまった舟を 恋の行方にたとえていて、私の好きな歌のひとつです。 一年前に横浜の大桟橋で友人とランチを楽しんだ時にちょうど入港していたのが外国からの豪華客船で、クイーンエリザベス号だったのかしら? あの大桟橋のクジラの背中を散歩しながら潮風に当たって久しぶりの開放感を味わったのを覚えています。 大きな客船はあまりゆらゆらとは揺れません。伊豆七島の島々をつなぐ舟は小型船もあってゆらゆら感があります。でも黒潮踊る太平洋なので30分もゆられていると、心もとなさ! よりも船酔いの方が際立って苦しくなる事も。 |
やはりゆらゆら感は川下りや、湖畔の小さな舟で味わうのがいちばんです。足の裏にいつも感じる大地の安定感がなくて何ともいえず漂う感じが、この歌の気分と正にぴったり。
この歌は時代を超えていて、今でもそのままで理解できるのですが、その当時の主流とはちょっと違っていた為に、当時の評価はほとんどなかったようです。その上 読み手の曾禰好忠は、偏狭で異端児的な変人 と見られていました。エピソードとして有名なのが寛和元年(985年)に、官位に関係なく歌人の和歌を鑑賞する趣向の催しが開かれた際、催しに呼ばれていないにもかかわらず、好忠は召された歌人方の席に強引に着席した所、当時のエリートたちに追い出されたという。ちょっと悲しい物です。
「和歌うた」を応援して下さる方の一人に この「曾禰好忠」がご祖先だったと言う方がいらして最近「曾禰好忠」をテーマに書かれた物語を出版され、私も読ませて頂きました。
*「暦 千年の孤独」著者 曽根昭十四 (日本文学館出版大賞ノベル部門特別賞受賞) その物語の中でこの歌は、好忠が 丹後から京都へ赴く時に由良川で若い娘に出会って恋に落ち、その時に彼女に送ったものとされています。 |
彼は生きている時には全くと言ってよいほど評価されていません。その頃の歌詠み社会の中では周りから軽視されていた。そんな印象があります。それが彼の死後に平安後期の革新的な歌人達から徐々に再評価されて、千年後の現在では百人一首の中でもひときわ斬新な光を放った名首と言われています。あまりにもオリジナリティがありすぎて、その時代には受け入れられない。そんな孤独な歌詠みだったのでしょう。
(早苗ネネ♪)
<LIVE INFORMATION>
- 「東日本大震災被災地支援チャリティーコンサート in 春日大社」
- 2015年5月14日(木) 受付時間:13時 開演:14時
- 会場:春日大社感謝共生の館 (先着250名さま)
〒630-8212 奈良市春日野町160
TEL:0742-22-7788 - 入場料:支援金としての志納をお願いしております
- 出演:早苗NENE(和歌うた)、川内奈保子(ソプラノ)、金関環(バイオリン)、吉川純美(
ピアノ) 他 - お問い合わせは、川内まで。090-7099-3229
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
目白大学教授で作家・ジャーナリスト 三上義一さん |
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小学校一年のときに、インターナショナル・スクールに入学するために横浜に来られたとか
英語青年だった父の強い希望で、横浜山手にあったセント・ジョセフ・カレッジに入学させられました。それまで杉並区の公立小学校に通っていて英語は見たことも聞いたこともない状況でした。入学試験が日本語だったから受かったのでしょうね。小学校を一学期でやめて、母親と二人で横浜市中区に引っ越してきました。セント・ジョセフでは9月から授業が始まったのですが、すべて英語で先生が何を言っているのか全く何もわからず、毎日泣きながら家に帰ってきました。3年生くらいまで先生が話していることが理解できませんでしたね。母親が近所に住んでいた英国人の家庭教師を頼んでくれなかったらどうなっていたかわかりませんね。トムソンさんという方でしたが、彼女は僕の恩人です。
セント・ジョセフ・カレッジには、小・中・高校と12年間通われていたのですね
母国語(日本語)の基礎ができていないところで、英語教育をうけたので、どちらも中途半端になっている、これでは「バイリンガル」ではなくて「セミリンガルに」なってしまうと感じ始めたのが中学生の頃です。その頃は意識的に日本の漫画を読んでいました。
セント・ジョセフに国籍が20ヵ国以上にもなる学生が通っていて、日本の学校では経験できない様々なことを経験しました。同時の横浜には米軍のキャンプがあって、私たちは、米軍向けのラジオ放送「FEN」を聴いて、アメリカの音楽やファッションに憧れていました。米軍キャンプとの境にあった本牧は流行の発信地でしたので、すごく憧れていました。女の子と仲良くなるためにダンスパーティーもよく開催し、中学生の時からチークダンスを踊っていました。(笑)60年代から70年代にかけての「横浜」は、新しい時代の息吹の中にいてインパクトのある国際都市、まさに港街でしたね。
12年間の学校生活は、苦難の連続でしたが・・。ラッキーだったことは国籍や人種に対して偏見を持つことがない人間になったということです。大勢の不思議な外国人たちと出会って、人間同士の付き合いをさせてもらいました。人間はみな同じだが同時に違っていて当然で、その違いを認め合うことが大切なことだということを学ばせてもらいました。
※三上氏の小・中・高校時代を描いた自叙伝的な小説「ヨコハマ・イエスタデーズ」は今月の書評で紹介されています。
セント・ジョセフを卒業後、上智大学に進学されてジャーナリストになられたのですよね
セント・ジョセフは日本の学校ではないので、当時受け入れてくれたのは、上智大学と国際キリスト教大学(ICU)だけだったのです。上智大学の国際部に入学してその後、外国語学部フランス語科に移りました。クラス全員が日本人だけというは初めての経験でした。フランス語はセント・ジョセフで5年間やっていたので、ちょっとはフランス語に馴染んでいました。
ジャーナリストを志したのは、学生時代に褒められた「文章が上手だね」という一言と語学力が生かせることからです。筑波大学の大学院に進学した後にロイター通信社や米「TIME」誌に記者として勤務して、北朝鮮・フィリプン・中国など主にアジア諸国を取材してきました。記者は本当に肉体労働でしたね。記者時代の思い出はいろいろありますが、その一つは駆け出しの頃、フィリピンを取材したことですね。一介の主婦だったアキノ氏が大統領になるという映画のような政変劇でした。
そして、1989年にアウン・サン・スー・チー氏に初めてお会いしました。すでに政治活動を始められていましたが、自宅監禁される前でした。彼女がノーベル平和賞を受賞した1991年に、ノンフィクション『アウン・サン・スー・チー 囚われの孔雀』(講談社)を発刊しました。この本の出版には、1990年から2年間、米コロンビア大学に特別研究員(国際ジャーナリズムとメディア研究専攻)として着任していて、当時ハーバード大学で教えていた、マイケル・アリス氏(アウン・サン・スー・チー氏の夫)の協力が得られたことが大きいですね。アウン・サン・スー・チー氏の生涯を描くのは「僕のライフワーク」の一つになっています。 |
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その後、ジャーナリスト・作家として独立されて、今は大学の先生でいらっしゃいますよね
小説には『ヨコハマ・イエスタデーズ』、『ダブルプレイ』、『中毒するセカンドライフ』などがあります。翻訳は、2008年ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン著の『世界大不況からの脱出』や、他のクルーグマン著書など、他翻訳・書き下ろしを含めて20冊以上出版されています。
2008年から縁があって、東京の新宿区にある目白大学で教鞭をとっています。
専門分野は「ジャーナリズムと出版、そしてメディア一般」です。
この20年間、「インターネットとデジタル化」でジャーナリズムの世界は大きく変化しました。報道写真を例にとってみても、機材も全く違いますし、デジタル化によって現像作業もなくなりました。
学生たちを見ていても新聞は読みませんし、一般家庭でも新聞をとらないようになってきています。
インターネットによって変わったこと・・。それはメディアの在り方ですね。
これまでは新聞社やテレビ局などのような大きなメディアのエリートが、大衆に対して情報を流すトップダウン型でしたが、近年はインターネットを使って個人でも情報を発信していくボトムアップ型のメディアが出てきました。個人が情報発信することについては、危険性があるのは事実ですが、私は、「表現の自由を守る」ことと「多様性を許容する」ことがジャーナリズムとしての在り方ではないかと考えています。
大学では、まず身近なメディアを作っていこうということで、学生たちに大学新聞やフリーペーパーを作らせています。最近の学生は真面目で大人しいですね。失敗を恐れる傾向にあるので、「まず、やってみよう!」と檄を飛ばしています。
三上さんは、ご自分は日本人ではなくて「ヨコハマ人」だと仰っていますが・・
私は幼少の頃から、横浜で「日本人」「外国人」の区別なく様々な価値観の人たちに囲まれて暮らしてきました。横浜は、開港以来、外国人の力を借りて発展してきた都市です。別れと出会いが繰り返される港町だったので、「どこから来たの?」も「何をしてたの?」も詮索しないで、ありのままを受け入れる土壌ができてきたのです。私はそんな「横浜」が大好きです。「多種多様な価値観を認め受け入れて、自らの文化と制度を創り上げていく」のが「ヨコハマ人」だと思っています。
外国に対して排斥する空気が強まっている今こそ、「ヨコハマ人」が必要なのではないでしょうか。群れるのが好きな「日本人」のままでは、グローバルにはなれないのです。 三上さんにとって「横浜」はどのようなところですか・・横浜」は私を作ってくれた街、私に魂を入れてくれた街です。私のSOUL(魂)です。 |
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<インタビューを終えて>
三上さんをインタビューするにあたって、「ヨコハマ・イエスタデーズ」を拝読させていただきました。英語が全くできなかった7歳の坊やが、高校を卒業するまでの生きざまと、その当時の横浜の世相を描き出した素晴らしい自叙伝的小説でした。
「横浜が自分を作ってくれた」と仰る三上さん。作家、ジャーナリストとしてご活躍され、現在は、「ジャーナリズムとメディア」の研究者として大学で教鞭をとられている三上さんこそが、戦後の混乱期から高度成長期を経て「ヨコハマ・ドリーム」を体現したお一人ではないかと思いました。
お忙しい三上さんですが、今後「ヨコハマ・ドリーム」というテーマで投稿していただくことになりました。皆様・・ご期待ください。
※「ヨコハマ・ドリーム」とは
開港当時、横浜には日本全国から一旗あげたいと大勢の若者たちが集まってきて、数多くの事業家が生まれました。また、海外からも夢と冒険を追って、横浜にやってきた人々がいます。それを私たちは「ヨコハマ・ドリーム」と名づけました。
インタビュー・文:渡邊桃伯子
今月で「ヨコハマNOW」が60号を迎えました
今月で「ヨコハマNOW」が60号を迎えます。
ということは・・・「ともの現場」も60回目を迎えるということですね。
辰巳編集長はじめ、「ヨコハマこの人」を担当してくださっているの高野さん、そして執筆して下さっている方々に感謝感謝でございます。
「ヨコハマの学級新聞」を目指して始めた「ヨコハマNOW」ですが、おかげさまでビジネスの引き合いもくるようになりました。これも多くの皆様にご覧いただいているおかげだと思います。ありがとうございます。
今年度は、これまで以上に横浜の企業や逸品の紹介に力を入れていきたいと考えています。
その一つが、オンラインショップ「濱よせ」です。
「濱よせ」の商品は、私たち「ヨコハマNOW」編集部が味わってみて使ってみて・・・これを是非皆様にご紹介したいという商品だけを厳選して出店しております。
現在の商品ラインアップは以下の通りですが、今年度はもっと商品を増やしていく予定です。
これからどんな商品が登場するのか期待していただければ・・・。
- 「本牧珈琲」のオリジナルブレンドアイスコーヒーとギフトセット
- 「日総ぴゅあ」のハーブティー
- 「バーデンバーデン」のガーリックブレッド
- 「ドリームファーム」の冷凍ピザセット
- 「美濃家あられ」の横濱シリーズ詰め合わせセット
- 「SAYA(匣)」の招き猫シリーズ
- 下仁田特産 手造り蒟蒻(こんにゃく)
- アルカリ源泉石けん「美ジオ」
- 北海道のトマトで造ったトマトジュース 「天地人」
- 腰痛の予防と改善ができる「ゆらぎラ・クッション」
「濱よせ」をのぞいてみてくださいね。
http://otoriyose.yokohama/
それから、企業の紹介記事です。
このたび空手道場兼ヨガ・ピラティススタジオの「リストーナ戸部店」様の紹介記事とビデオを制作させていただきました。
http://yokohama-now.jp/home/?p=12687
インタビュー・写真撮影・原稿作成・動画撮影などすべてを「ヨコハマNOW」のスタッフが行いました。
横浜駅からほど近いところに4歳から78歳まで幅広い年齢層の方が通われている健康つくりの場があることを私たちも始めて知りました。
以前から「ピラティス」には興味があるので、スケジュールがあれば私もレッスンを受けたいと思っています。
横浜にはこんなに素晴らしい活動をされている企業さんがあるのだということを多くの皆様方に知っていただくのも「ヨコハマNOW」の役割だと考えています。
こんな企業を紹介して・・という方は、「ヨコハマNOW」編集部までご連絡ください。
私たちも新しい出会いを楽しみにしています。
浜じぃの横浜漫歩(第12回) 浜じぃの大倉山記念館
東横線の「大倉山駅」に近い大倉山公園には、「大倉山記念館」があります。 初めて行って来ました。 なかなか絵になる建物です。 建物の外観や内部は写真にある通りですが、ギリシャ建築創成期のクレタ文明に由来するプレ・ヘレニズムの様式が取り入れ、頭部が太く下部が細くなる独特な形の円柱を用いているそうです。 実はここは洋紙業界で財をなした大倉邦彦氏が、昭和7年に「大倉精神文化研究所」の本館として建てたものです。 元々この地は東横線を通した東急が、乗客の誘致を目的として太尾公園を買収し梅林を中心とした公園に開発した処です。 そして公園名も駅名も昭和の初めに、太尾公園、太尾駅からそれぞれ大倉山公園と大倉山駅に変更されたそうです。 地名も駅名も実業家「大倉」氏の個人名に由来している訳です。 そして昔から電鉄会社は、自ら線路を通した沿線をあの手この手を使って開発してきた訳ですね。 |
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2015年4月 三ツ池だより 「桜さくさく 櫻咲く!」
「横須賀さん。ご無沙汰しています。担当の方がいなかったので、声を聞きたくて! まだ社長をしているのかわからなかったけど電話つないでもらいました。」取引を再開したいと思っていたところからの電話でした。「バブルの頃は、仕事も付き合いも忙しくて、電話をいただいても、お会いできなかった。」と社長さんからのお詫びと全面的な仕事発注へ向けてのことでした。今日は何の日と思いだしたのはあとのことでしたが、本当のお話なのです。お互いに元気ですかと声を交わしたのですが「いやいや!先日退院したのです。」とのことでした。まだ40代の時は暇があると、いや時間をつくって私は営業していたのでした。
2015年は原点に返って活動することとおもっていました。4月1日の年頭の朝の話のなかで「社会にどのように貢献できるのかをかんがえよう。会社は一人一人を磨くところ、社会は会社を磨くところ。お互いを尊重し合いながら、切磋琢磨しいい社会になることに努力していこう。趣旨に合わない者は、去って言って結構です。」そんな檄を飛ばしたあとのことだったので、とても嬉しいことでした。
合同入社式が行われましたが、ここまでくるのにそれぞれにいろんなことがあったでしょう。ふと「櫻咲く」「桜散る」に思いがいたりました。櫻の満開を眺めていると、櫻咲くは理解できても、櫻散るが理解できないのでした。咲くから散るのではないか。咲くがないのに散りようがないのではないかとおもったりします。
櫻の句を見てみました。
見事に咲くだけに散ることのさびしさは何とも言えない。
時代や境遇によって感じ方はかわってくる。電報の「櫻散る」はなんともやるせない。当時は電報代が高かったからであり、急ぎの連絡手段がすくなかったこともあった。
桜がそこにあるだけで絵になってしまう。
そこに見えるものを身近に置くことで桜が映える
花といえばさくらと固定観念が定着したのは平安時代になってからのようです。
「桜散る」を経験した受験生もどこかに「桜咲く」をいただいて新しい歩みを始めたことでしょう。
決算がおわって新しい期の始まりを迎えました。多難であったと思った前期もそこそこにいって、息つくまもなくのスタートでした。何事も自分磨きと心得て「ありがとう」で乗り切っていきたいとおもいます。
いろんな慌ただしさが大きな幸をもたらしてくれるように感じているのです。
Photos
(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)
(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
笑う門(第4回) やっぱ「ローカリゼーション」でしょ!
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合資会社 笑う門代表 山田浩和 PROLOGUE 連載に寄せてこんにちは! 1971年8月生まれ。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。 ヨコハマNOWでは、2011年6月号から3年半、私が事務局を努めさせていただいている「保土ヶ谷宿名物会」のコラムを書かせていただいていました。この度、新企画として、2015年1月より、(名物会も含め)前述のような私の業務や活動に関して書かせていただくことになりました。 |
第45回・中小企業問題全国研究集会
3月は、こちらでもチラチラと予告をさせていただいた『第45回・中小企業問題全国研究集会』(主催・中小企業家同友会全国協議会)をはじめ、中小企業・小規模事業者・個人商店が今後、どのように生きていくべきかを考える機会をたくさんいただいた一ヶ月でした。 改めてナンですが、学んだキーワードは(同じ意味かもしれませんが)「ローカリゼーション」や「地域密着」。 前述の全国大会、初日に私が参加させていただいた第一分科会では、『転機に立つ日本経済と中小企業の新たな役割を探る』と言うテーマで、駒澤大学経済学部の吉田敬一教授にご講演いただきました。 |
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それがグローバリゼーションの世の中になり、地域性が失われ、それまで担ってきた中小企業の役割も失われつつある。
違う角度から言えば、今、ブランド力を強めている中小企業の傾向として、地域資源を活かしたビジネスモデルの企業が多い。
なので、今こそ、地域に根差した技術や素材を活かしたビジネスに立ち返るべき、とのことでした。
その後のグループ討論(1グループ6~8名のディカッション)でも、熊本・京都・愛知の方々と同席させていただき、ローカリゼーションの重要性について、各地方が抱える課題と共に熱く議論させていただきました(コレ、全国大会ならではの醍醐味なんです)。
「ローカルブランド」「名物名所」「心」
同じく、2日目の基調講演では、横浜の<顔>、100年企業・株式会社崎陽軒の野並社長にご登壇いただきました。
(こういう言い方もナンですが)今まで、同社についてそれほど関心を持ったことがありませんでしたが、「横浜の<顔>」に、そして「100年企業」になるべくしてなった、と感じさせられてしまうお話を伺いました。
同社の経営理念(のキーワード)は「ローカルブランド」「名物名所」そして「心」。
原点は地域密着、つまりローカリゼーションであって、横浜の文化を採り入れて、横浜ならではの名物を創り、横浜を愛し続ける姿勢が今日のブランドを創り上げているのでした。
また、全国大会とは別に、同じく同友会が毎月開催している「オリエンテーション」という、入会を検討中の方や新会員向けの説明会にも参加しました。
そこでもグループ討論が行われるのですが、討論テーマは「自社の最優先課題と解決案」。そこで出された各社の課題は、市場の細分化、業態の変化、供給過多による価格競争の激化、
情報発信、集客、大手の台頭など。参加した各社の業種は全く異なるのですが、共通する悩みも多かったようです。
で、時間としては僅か40分程度のディスカッションの中で出た解決案は「差別化」。その方法として、商圏を広げない、地域内での密度を高める、お客様と顔の見える関係を構築する、というものでした。
まさに、全国大会での吉田教授や野並社長たちのお話と繋がる結論になりました。
地域密着型ビジネス
もちろん、「ローカリゼーション」や「地域密着」のビジネススタイルを採り入れていかなければいけないのは、中小企業のみならず、小規模事業者や個人商店も同じ、というか規模が小さければ小さいほど、尚更のことです。
なのですが、それにピンと来ていない事業者が意外にも多いように感じています。
一方で、保土ヶ谷宿名物会各店のように、「歴史」という地域資源を活かしたオリジナル商品を開発したり、地元の様々なイベントに出店したりする商店主たちがいます。
あるいは、今やその波は神奈川県内に収まらず東京にまで広がりつつある「ちょい呑みフェスティバル」のような地域密着のイベントを企画・運営する人たちがいます。
それらは必ずしも「やらなければいけないこと」でも無ければ、必ず「やれば良くなる」というものでもありません。
でも、そこには何かしらの差別化のヒントやチャンス、そして何より「やりがい」「楽しさ」があるように思います。
そういう意味で、改めて、弊社がやるべきことやミッション、というようなものを改めて感じさせていただいた1ヶ月間でした!
会いたいな!かながわの商店街面白い冊子が発行されました! 配布場所等、詳細はこちらをご参照ください。 |
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合資会社 笑う門
〒240-0006 横浜市保土ヶ谷区星川3-7-22田中ビル2F
TEL.045-333-3068 FAX.045-333-3068
E-mail yamada@hesochiku.com
Websie http://www.warau-kado.com/
映画になったヨコハマ(第1回) 不器用で義理堅い健さんの任侠物
冬の華
製作 1978年 東映 |
男気あふれる健さん、不器用で切ない健さん、そして、横浜を縄張りとする組員の健さんを見たければ、本作はオススメである。
主役は、“人斬り秀”こと、関東東竜会幹部の加納秀次(高倉健)。冒頭、組を裏切った兄貴分の松岡(池辺良)を冬の海辺で殺害するシーンから始まる。
「見逃してくれないか。お前とは長い付き合いじゃねえか。ガキがいるんだ」。言うほうもつらいが、そう乞われても刺さざるを得ない秀次はもっとつらい。それも当の娘が走り回る傍らで・・・。
秀次は旭川刑務所送りになり、15年後に出所して降り立ったのが、改装前のレトロな横浜駅東口だ。組からあてがわれたのが山手の高級マンションで、まず、好物とおぼしきジャムトーストをほおばる姿は、実にリアルでほほえましくもある。
義理堅い秀次は自らの罪の償いのために、ブラジルにいる伯父と偽り、松岡の一人娘、洋子(池上季実子)を援助し続けている。洋子にとって、“足長おじさん”そのものだ。女子高(横浜雙葉?)に在学し、贈られたバイオリン習う洋子が、おじさん宛てに感謝の手紙を綴る場所は、馬車道の名曲喫茶コンチェルト。残念ながら、この趣のある店は横浜ではなく、京都・東山にある長楽館でロケが行われている。
手紙にある通り、店に流れるチャイコフスキーのピアノ協奏曲に耳を傾けながら、遠まきに洋子を見守る秀次。洋子の声が聞きたいあまりに、寮に無言電話をかける秀次。ささやかな至福の時間は長続きしない。東竜会は、関西の暴力団との抗争に巻き込まれ、会長(藤田進)に刺客が迫ると共に、足を洗いたいと願う秀次の運命も翻弄されていく。
1977年の『八甲田山』『幸せの黄色いハンカチ』がヒットして、高倉健が任侠物から路線変更しつつある中、1978年に公開された節目となる作品だ。脚本は倉本聰、音楽はクロード・チアリと、異色の任侠映画でもある。
組関係者に、小池朝雄、夏八木勲、峰岸徹、小林稔侍、『寺内貫太郎一家』(1974年)で演技に開眼した小林亜星、舎弟に田中邦衡と三浦洋一、会長の息子で血気盛んな自衛官に北大路欣也(ソフトバンクのお父さん)、秀次の実兄に大滝秀治、対立する関西の組員に岡田真澄、そして横浜の娼婦に倍賞美津子、今やそうそうたる俳優陣が脇を固めている。
横浜度(横浜の露出度、横浜を味わえる度) 90%
筆者紹介
塚崎朝子(つかさき あさこ) ジャーナリスト。世田谷生まれの世田谷育ち。読売新聞記者を経て、医学・医療、科学・技術分野の執筆が多いが、趣味の映画紹介も10年以上書き続けている。年に数時間だけ、横浜市内のキャンパスで教壇に立たせていただいている。 著書に、『新薬に挑んだ日本人科学者たち』『いつか罹る病気に備える本』(いずれも講談社)、『iPS細胞はいつ患者に届くのか』(岩波書店)など。「日経Gooday」で「その異常値、戻しましょう-STOP・メタボの12ステップ」連載中。 |
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ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第25回)
大浦総合研究所 代表/大浦勇三
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第25回)
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
- 梁塵秘抄 -
トーマス・カーライルは、明治から戦前まで日本で人気の高かった19世紀英国の思想家・歴史家です。夏目漱石はロンドン留学時に博物館を何度も訪れ、帰国後“カーライル博物館”を書いています。私は学生時代、当時誰も見向きもしないカーライルを偶然読む機会があり、英国出張時には、後にアガサ・クリスティが住み、007-ジェームズ・ボンドも居を構える設定のチェルシーにある博物館を訪れるチャンスに恵まれました。カーライルは膨大な“フランス革命史”の完成原稿を、友人の小間使いの不注意からゴミとして燃やされてしまい絶望の淵へ。しかし、自分が書かなければ誰も書けないはずだとの思いから立ち直り、すべてを一から書き直したというエピソードの持ち主です。先日、横浜美術館25周年を記念した“ホイッスラー展”が開催され、そこで“灰色と黒のアレンジメントNo.2:トーマス・カーライルの肖像”に遭遇、私にとってはホイッスラーの代表作“白のシンフォニー”以上の衝撃でした。梁塵秘抄では“春の焼野に菜を摘めば、岩屋に聖こそ坐すなれ 唯一人、野辺にて度々逢うよりはな いざ給え聖こそ あやしの様なりとも、妾らが柴の庵へ”とあります。天魔の誘惑を断ち切るのが修行。されど、遊びを絶っては修行にも身が入らず、本来の目的が達成でき難いのも人間。“音楽は音の詩であるように、絵画は視覚の詩である”と色彩の交響楽者・ホイッスラー。
“遊びをせんとや生れけん” 「遊」
ルソーの才能に惹かれた若きピカソは晩年ルソーをパーティに招待
心の勲章こそ真の値打ち 本物は鑑定書ではなくモノが語りかける
江戸時代の絵は江戸の明るさでみるものだ、と骨董商・中島誠之助
アンリ・ルソーは20年以上もパリで税関の仕事を続けながら、余暇に絵を描き続けた典型的な日曜画家。ピカソやゴーギャンなど、少数の画家仲間からは評価を得ながらも、無名のうちに生涯を閉じました。日本でも藤田嗣治や加山又造など、多くの画家に影響を与えたといわれます。真の評価とは、鑑定書ではなく本源的な値打ちに軍配をあげるもの。骨董商・中島誠之助さんは、ニセモノにひっかかるワナとして“欲が目を曇らせる” “懐が甘い-それなりに使える金を持っている” “不勉強”の3つをあげています。モノが持つ姿・形に“不自然さ”はないか、ニセモノ特有の“語り過ぎる・飾り過ぎる”ところはないのか。何事も“歴史・時間からモノを観る眼力”が問われそうです。文化はビジネスにも大きな影響を持つようになり、経済の大きな枠組みの一環。“個性の前に抑制。抑制(基本)によって初めて個性(創造)が生まれる”とは狂言師・野村万作。
“仕事をせんとや生れけん” 「献」
日本は技術優位に依存して分散 どんな市場を創るか、どこまで標準化するか
好きなことを納得するまで極める 究極まで進めるには失敗事例から発想する
日本人は駄目・駄目と鍛える アメリカ人は素晴らしい・素晴らしいと育てる
デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・フィンランドには、北欧の小国という冠をつけがちですが、その底力は恐るべきもの。出張で一度訪問した折、モノではない“人間的な豊かさ”に驚いた印象があります。スウェーデンの場合、ビジネスの代表格はH&MとIKEA。産業構造転換に向けた人材教育・職業訓練には高い評価があり、教育の社会的制度を新しい技術革新に沿ったものに変えていく強い意志と、プロセスに全力投球し、結果は長い目で評価するとの覚悟が窺い知れます。プロフェッショナルの条件は何より“柔軟性”。固定観念をいつまでも打破し続けることこそ生き残りの極意。技術を世界的視点からマップの形で更新を繰り返すしかなさそうで、その技術も狭義の要素技術だけではなく運用/保守技術を含めたもの。“頭でなく目。頭だと他人の知識で見てしまいドキドキ感がない“と随筆家・白洲正子。ドキドキさせる技術こそ日本の真骨頂。
“学びをせんとや生れけん” 「学」
知識獲得手段は多様で便利に ただ血肉化する過程は自己責任による編纂
理想は果てしもなく遠い場所にある 一方で理想はいつも己の傍らにある
是非初心忘れるべからず・時々も老後も初心忘れるべからず、とは世阿弥
“初心忘れるべからず”は世阿弥の言葉として有名ですが、その後には“時々も老後も初心忘れるべからず”と続きます。要は一生、初心を忘れるな、ということになりますが、そんなに簡単なことではありません。世阿弥は父・観阿弥の後継者ですが、伝統を守るだけではなく大変な革命家。当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があり、世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉・所作・歌舞・物語に幽玄美を漂わせる能の形式“夢幻能”を大成させました。将軍や貴族の保護を受けて教養を身に付け、能の前身といわれる猿楽を理論化し“風姿花伝”として纏めたほどの実力者。それでも晩年は佐渡に流刑の身となりました。現在、知識の獲得・編集は多種多様になり、時には目的を忘れて手段に振り回される恐れも。ヘレン・ケラーが晩年に語った“解きほぐし”の大切さ。しっかり咀嚼・消化してこその血肉。これも“初心忘れるべからず”かも。
「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」
今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(十)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。
「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/
(第25回了)
大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール
大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/) 石川県七尾市出身。 筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。 主な著作物:
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書評 「ちいさな城下町」 文藝春秋 安西水丸 著
世界遺産・国宝の姫路城は、「平成の大修理」を終え3月27日から約5年半ぶりに一般公開が再開された。 世界最大級の米旅行口コミサイト “トリップアドバイザー” による「死ぬまでに行きたい世界のお城」では、姫路城はランキング世界2位。1位は、ディズニーランドのお城のモデルと言われている、ドイツの「白鳥城」と呼ばれるノイシュバンシュタイン城。 |
さて、ここに紹介する著書「ちいさな城下町」に登場するお城には、天守閣も堀も石垣も存在しないし、白色をイメージすることもない。誰かが語り継いでいかなければ、いずれは風化して路傍の一木一草と化すであろうそんな風景の一つである。
旅の楽しみの一つとして、何処か地図で城址を見つけ、そこを訪ねることがある。たいていの城下町には城址があるわけだが、ぼくの城下町の好みは十万石以下あたりにある。そのくらいの城下町が、一番それらしい雰囲気を今も残している。城址に立つと「兵どもが夢のあと」とでもいうか、ふしぎなロマンに包まれる。なまじっか復元された天守閣などない方がいい。わずかな石垣から漂う、敗者の美学のようなものがたまらない。
(著書から引用)
著者の安西水丸さんは、イラストレーターとして書籍の装画や雑誌の挿絵などを多数手がけ、文筆業でも小説やエッセイの著書をたくさん持っている。安西さんがこの世を去ったのは、2014年3月19日のことである。イラストレーターとして偉大だっただけではなく、業界団体である「東京イラストレーターズ・ソサエティ」の理事長として、また新しい人材を育成する指導者として、イラストレーションの活性化や地位向上に尽力した人でもあった。
前述の著作の引用文でも判るように、この本には、安西さんの哲学と美学を感じることができる。町の見方や風情の感じ方を元祖へたうまな絵と魅力的な文章で伝えてくれている。
安西さんのオススメ20の城下町。
登場するのは、村上市(新潟県)、行田市(埼玉県)、朝倉市(福岡県)、飯田市(長野県)、土浦市(茨城県)、壬生町(栃木県)、米子市(鳥取県)、安中市(群馬県)、岸和田市(大阪府)、中津市(大分県)、掛川市(静岡県)、天童市(山形県)、新宮市(和歌山県)、西尾市(愛知県)、大洲市(愛知県)、亀山氏(三重県)、木更津市(千葉県)、高梁市(岡山県)、沼田市(群馬県)、三春町・二本松市(福島県)。
エッセイというよりは、上質の紀行文として皆様の愛読書の棚に納まるはずである。
安西水丸さんの面影
(クリックで拡大画像) |
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(文:辰巳 隆昭)
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「廃炉」とか「脱原発」とか「卒原発」とか、日本の政治家がいくら言ったって、米軍基地の問題と同じで、日本側だけでは何も決められないようになっているという。え!え? この本を大変尊敬する方から勧められた。 |
だから、この国を愛していながら、この国に生まれて良かったと思っていただけに衝撃の中で私は読み終えた。
沖縄の面積の18%が米軍基地だといいましたが、上空は100%ですという。そして「日本国の当局は、(略)所在地のいかんを問わず合衆国の財産について、捜索、差し押さえ、または検証を行う権利を行使しない。」というのが公式議事録になっている。だから「米軍機の墜落事故が起きたとき、米軍はその事故現場の周囲を封鎖し、日本の警察や関係者の立ち入りを拒否する法的権利を持っている。」というのだ。そして沖縄国際大学・米軍ヘリ墜落事故では、米兵の許可を得て大学構内に日本の警察が入っていく姿は、植民地そのものといった風景だと著者はいう。
こんな議論にもなる。「憲法9条2項の戦力放棄と、沖縄の軍事基地化は、最初から完全にセットとして生まれたものだということがわかりました。つまり憲法9条を書いたマッカーサーは、沖縄を軍事要塞化して、嘉手納基地に強力な空軍を置いておけば、そしてそこに核兵器を配備しておけば、日本国土に軍事力はなくてもいいと考えたわけです。」
戦争責任は誰にあったかというという問いがなされないと同じような構図が今回の福島の原発事故にもあったといいます。「福島のみなさんは、30万人もの方たちが家や田畑を失い、仮設住宅のなかで明日をも知れぬ日々を送ることになりました。いくら室内をふいても、またもとにもどってしまう放射能の数値。とくに小さいなお子さんをもつお母さんの苦しみは、まさに言葉ではいいつくせないものがあったでしょう。そんななか、少し事態が落ち着いてくると、被災者たちは信じられない出来事に次々と直面することになったのです。なかでもおかしかったのは、これほどの歴史的大事故を起こし、無数の人々の家や田畑を奪っておきながら、その責任を問われた人物がひとりもいなかったということでした。」「考えてみてください。工場が爆発して、被害が出たら、必ず警察が捜査に入ります。現場を調べ、事情を聴取して安全対策の不備を洗い出し、責任者を逮捕するはずです。」「安全対策に不備があったかどうか、なぜ検証しないのか、家や田畑を失った被害者に、なぜ正当な補償がおこなわれないのか。」
著者はすすめます。「日本と同じく戦争放棄条項を持つ、フィリピンやイタリアの憲法から学んで、二項を“前項の目的を達するため、日本国民は広く認められた国際法の原則を自国の法の一部として取り入れ、すべての国との平和および友好関係を堅持する”とすること、つまり国連中心主義の立場を明らかにすることです。フィリピンはこれとほぼ同じ条項のもとで米軍を撤退させ、しかもアメリカとの安全保障条約を継続しています。したがうべきなのは国際法の原則です。」
著者は指摘します。「決め手は憲法です。憲法によって政府の暴走をとどめ、戦争を防ぎ、人々の人権を守るしかない。でもいったい、いまの憲法をどう変えればいいのか。」
「もう一度初めからやり直しましょう。」という提案なのだと思います。
(文:横須賀 健治)
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みなさんこんにちは! |
候補者2名と若者によるユニークな公開討論会!
1兆8650億円といわれる、神奈川県のお財布。
県民から預かるこのお金を、どこにどのくらい分配していくのか、また、将来のために、どのようなビジョンを持ち政策をつくっていくのか。
トップが代わると、内情も大きく変わる(変えられる)のが都道府県政とも言われる中、そのトップ選びは、重要かつ私たちの数少ない意思表示の機会です。
そのトップとなる候補者が、肩を並べて意見を述べあう貴重な機会、神奈川県知事選挙公開討論会が、先月20日、東神奈川のかなっくホールで開催されました。タイトルは「若者が立候補予定者に迫る!」です。
※開催日は告示前だったためタイトルは立候補予定者となっています。
候補者は、現職黒岩祐治氏と、岡本一氏。質問者は若者を代表して、学生団体ivort(アイボート)副代表の桑原稜氏と、私たちNPO法人ど・あっぷ!の大越実花。また司会進行は、横国大・フェリス女学院放送研究会の中井氏と渡辺氏が務めました。皆現役大学生や今年卒業した20代前半の若いメンバーです。
学生団体ivoteは若者の投票率向上を目標に、政治家と若者が居酒屋で話し合うイベントなど、様々な企画を実施している団体。また、私たちど・あっぷ!は、シティズンシップ教育を目指し、民主主義や選挙について考えるオリジナルのワークショップを学校で実施する団体です。
若者の政治離れが叫ばれる昨今、二人ともいまどきの若者とは対極(?)にいる若者と言えるのかもしれませんが、若い彼らがその場で感じた疑問、質問を、両候補者にぶつけ、討論会は大変有意義なものとなりました。
ivorte: http://www.i-vote.jp/
どあっぷ、筑波大付属小学校のワークショップ記事はこちら:
http://yokohama-now.jp/home/?p=12137
≪公開討論会 概要≫
タイトル: | 神奈川知事選挙公開討論会 ~若者が立候補予定者に迫る!~ |
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日時: | 2015年3月20日(金) | |
開場: | 19:00(開演19:30) | |
会場: | かなっくホール(300名) | |
入場: | 無料 | |
主催: | 公益社団法人日本青年会議所関東地区神奈川ブロック協議会 |
公開討論会の裏事情。公平性担保のためにする事
今回、公開討論会を開催するにあたり、その事前の準備などから、開催にはたくさんの配慮やルール作りが必要である事がよくわかり、改めて大変勉強になりました。
一番配慮をしなければならないのは、候補者への公平性。
公開討論会には、各候補者の応援者も多数参加されるので、少しでも公平性を欠いていると、後でクレームにつながるのだそうです。場合によっては、今後の公開討論会の開催にも影響しかねないので、この点は慎重に慎重を重ねる必要があります。
そこで、候補者、質問者、観客、司会者に、それぞれ次のルールが求められました。
・候補者: | 聞かれた質問の回答時間は2分厳守。 |
・質問者: | 必ず両者に同じ質問をする。 |
・観客 : | 拍手、ヤジ、応援は禁止。 |
・司会者: | 上記のルールが破られた際には、迅速に注意勧告する。 候補者の回答の順番は、質問ごとに変える。 |
少し堅苦しいようですが、主催者の青年会議所のお話では、過去に上記が徹底されずに、後からたくさんのクレームがついた事もあったのだそうです。
選挙とは真剣勝負の戦いとも言えます。その中で公開討論会とは、戦う本人が相対する貴重な場。スポーツと同様に公平なコートが整備されて初めて、両者が真っ当に戦える事になりますし、聴衆も候補者の力量を測る事ができるようになるという訳です。
候補者の話す内容以外は、極力差異のない環境を整えた討論会の開催が、いかに重要かという事を改めて学ぶ事ができました。
公開討論会、入念に準備! でも本当に大丈夫?
主催者の青年会議所の皆さんは、今回の公開討論会の開催に当たり、かなり前から、様々な準備を重ねておられましたが、候補者を除く登壇者が一同に会したのは、開催当日の約1週間前。ここで、開催に当たっての注意事項の説明を受けた後、青年会議所の方が候補者役に扮して実際のシミュレーションを行いました。
当日の討論形式は次の通りです。
まず、テーマとなる質問に、各候補者が答えます。次にその内容を受けて、質問者が自分の感じた事を質問し、それに候補者が一人ずつ答えるというすタイルです。
この形式までは、事前準備の段階で既に決まっていたのですが、テーマとなる質問の内容や、回答者の回答時間など、学生たちの意見を尊重させたいとの主催者側の意向から、未定でした。
実際に何度かシミュレーションを行ってみて、なんとなくイメージが湧きはじめ、結果、各候補者の回答時間は2分、そして肝心のテーマとなる質問内容は以下の4つとなりました。
1.若者の投票率について
2.選挙権の年齢引き下げについて
3.県としての教育政策について
4.県における就職について
このシミュレーションを行ってみて初めて分かった質問者の難しさがあります。
前述しました通り、上記3つのテーマ質問は事前に候補者に提示されますが、その候補者の回答内容はこちらが事前に入手することはできません。当日候補者が話された内容を受けて、さらに討論が深まるよう、質問者は質問をその場で考え、投げ返す事が求められます。
これだけでも決して簡単な事ではないと思いますが、さらに、先ほどの公平性の担保という観点から、両者に同じ質問をするという制約が加わります。
例えば、A候補が話した内容に、疑問や質問があっても、B候補にも同じ事を聞くという事です。その為、両者にとって適切な質問を返さなくてはなりません。
また、司会の役割も重要です。特に時間の管理。候補者と質問者とのやりとりが盛り上がっていれば、臨機応変に対応し、そのやり取りを続けさせます。切りが良いようなら、次のテーマに移るよう進行させますし、短いようなら、さらに質問を上手に求めていきます。そしてこれに加え、会場のヤジや拍手などにも気を配らなくてはなりません。
大人でも緊張するこれらの役割を、20代前半の若者たちが担うのです。しかも300名もの聴衆の前でです。もちろん、一目見ただけで彼らが優秀な若者たちである事はわかりますが、正直、こちらの方が緊張して、「肩の力を抜いて、リラックスすれば大丈夫よ」なんて、肩をガチガチにして励ます自分がいました。
見事に大役を果たした若者たち
しかし、そんな心配をよそに、当日の彼らは素晴らしい仕事をして、討論会を大成功に導きました。
質問者の二人は、若者の視点でいくつもの質問を投げ返し、見事に大役を果たしました。
例えば、ivoteの桑原氏は、候補者が、もっと若者の活躍できる場を設けて成功体験を多く積む事の必要性を訴えた際に、実際には、活躍などせずとも、そこそこで良いと考えている若者が多いと思うが、その点についての意見を聞きました。また、自分が行ってきたivoteの活動で、選挙が近い時は、学生との対話に参加してくれる議員は多いが、選挙が終わるとなかなか参加してくれなくなる現状について考えを求めるなど、積極的に質問をぶつけました。
また、ど・あっぷ!の大越は、候補者の教育政策の考えを受けて、自分が就職活動をする中、国際競争力のある人材が求められていると痛感したが、そういった人材育成に関する教育対策などの意見を問うたり、今年から社会人になるが、女性でも安心して働いて子どもを持っていけるか不安になるといった、将来への漠とした不安も織り交ぜて質問をしていました。
自らの実体験を元に、若者ならではの視点が盛り込まれたユニークな質問が相次ぎ、候補者も、初めて問われるような質問もあったのではないでしょうか。回答に苦慮されているような場面も見受けられました。
また重責を担う司会進行も、開場からの拍手などにも迅速に対応。優しい語り口で厳しく制し、素晴らしい進行を見せてくれました。
彼らの活躍で、候補者お二人のカラーも際立ったように思います。あっという間に時間がたち、まだまだ聴いていたいと思えるような、とても良い討論会でした。
最後にちょこっと筆者私見
選挙期間中につき、候補者の発言内容には言及しないと、冒頭で述べましたが、それでもやっぱり私見として、候補者の発言内容や、印象に触れて終わりにしたいと思います。(出来るだけ、選挙に支障の出ることのないよう、注力したつもりですが・・・)
黒岩氏は、若者に対する期待や、自分で考える力の重要性、また、若い人材に任せ活躍の場を作り成功体験を積ませる事の大切さなど、ご自身の体験談を交えながら、わかりやすくテーマや質問に的確にかつ端的に語られる中、取得した3つの特区や、保育師試験を年1回~2回に増やした事など、質問に関連する実績のアピールも欠かさず、見事という印象を持ちました。長年キャスターを務められていた黒岩氏は言わば話のプロ。その実力と、ご自身の明るさ前向きさが存分に伝わる内容でした。
岡本氏については、今回の直接のテーマに上がらなかった、子供や家庭の貧困、医療や保育の現状、コンビナートを含む防災の問題などや、全日制高校への進学率の低さなど、足元のまだまだ解決されていない神奈川の問題にも触れられ、忘れてはいけない防災や福祉充実の必要性についても訴えられました。短い時間ながら、神奈川県の抱える深刻な問題を改めて問題提起された事で、見落としがちな現実を冷静に見る必要性を感じさせられました。
最後に、「若者が立候補予定者に迫る!」とタイトルのついた今回の公開討論会。若い参加者が多く集まる事を期待していましたが、やはりその多くはご年配の方だったように思います。
これから先、長く生きる若い人ほど、その未来構築に真剣になってしかるべきだと思うのですが、現実はそうではないようです。
若い人達は、自分がこれから長く生きていく社会を、自分よりは長く生きないであろう人達に任せてそれで不安にはならないのだろうかと、ふと考えてしまいました。
いずれにしても、公開討論会自体は、数ある制約の中、限られた時間内にも関わらず、内容の濃いものでした。
主催者の公益社団法人日本青年会議所関東地区神奈川ブロック協議会の皆さまには、運営のご準備と、私たちど・あっぷ! にお声がけいただき、貴重な機会をご提供くださいました事、心より感謝申し上げます。この場をお借りして御礼申し上げ、終わりとさせていただきます。
ありがとうございました。
(イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文・写真:築山 美樹)
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横浜宝石物語(第6回) 二代目の父(エメラの誕生)
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横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子 PROLOGUE 連載に寄せて私は横浜でおそらく一番古い宝石商の三代目です。 創業者の祖父、二代目の父、三代目の私とそれぞれの時代で宝石商としての形態は違っていますが、良い宝石を選び、作りの良いジュエリーを製作して、ご提供するということについては、3人とも拘ってやってきたと思います。 祖父が宝石の製造メーカーとして地位を築き、父が小売店として皆様に愛されたからこそ、今、私が宝石商としてやっていられますので、いつか祖父のこと、父のことを書いてみたいと思っていました。 |
この度、横浜宝石物語の連載のお話を頂きましたので、念願が叶い、とても嬉しいです。横浜の歴史も交えながら、祖父、父、私の宝石物語を綴っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
宝石商の三代目私は現在、横浜の馬車道で「横濱宝石美術館エメラ」という宝石店をしております。 横浜の景色や思い出をジュエリーにした「横浜ジュエリー」などオリジナルジュエリーの製作と販売、デザイナーやアーティストの作品の展示販売、お客様のご要望をかたちにするリフォームやオーダージュエリーのご注文を承っています。 私の宝石商のルーツである創業者の祖父のことからお話しさせて頂きたいと思います。 二代目の父(エメラの誕生)父は昭和34年に母と結婚して、馬車道のビルの3階で新婚生活を始めました。 私が生まれた翌年の昭和37年に横浜西口に駅ビルが出来ることになりました。 「駅ビルで店をやってくれないか」と祖父と父が知人から頼まれたのですが、当時、伊勢佐木町の松屋デパートで問屋として店をやっていたので、母に別会社を作らせて、宝石の小売店を出すことになりました。 母の店「エメラ」は4階のエレベーターの脇のほんの小さな店でしたが、私にとっては母に会える場所で、特別でした。 オープン当初の駅ビルは当時としてはモダンな店が多くて、ロンスターというライブハウス(当時はジャズ喫茶)では、後に伊勢佐木町ブルースを歌った青江三奈が歌っていたそうです。 昭和39年に横浜西口に地下街が出来る計画が持ち上がりました。 そこで、母が地下街の準備室に日参して、色々情報を教えて頂いたようです。 地下街店の話は次回に続きます。 【今月のエメラのジュエリー】 (クリックで拡大画像) |
(クリックで拡大画像) (写真提供:大島貴子) |
(横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子)
横濱宝石美術館エメラ
〒231-0011 横浜市中区太田町5-61 馬車道商栄ビル1階
TEL.045-681-0603 FAX.045-228-9828
Websie http://emera-yokohama.jp/
第31回 屋上緑化 街に緑を
ken-ken inc. 一級建築士設計事務所
代表 河辺 近
屋上の緑化について街に緑を
最近では、都心で敷地内に庭を取ることが難しく屋上を緑化して楽しむことが増えて来ました。屋上を緑化する時の注意点を今回はまとめてみたいと思います。
荷重と保水の検討
戸建て住宅での屋上を緑化する際、最も注意すべき点は建物への過重である。屋上緑化の土壌には、適材を植え込む自然土壌、軽量化土壌システムなどがあるがどちらも長時間保水しなければならないため非常に重くなる。
自然土壌では1m3当たり1600kg程度になり、屋上に10cm敷き込むと1m2当たり160kgの荷重がかかることになる。最近では自然土壌に替わる無機質系の軽量化土壌システムもあり、従来の軽量化土壌システムの半分以下の荷重でつくり込むことができるので検討したい。リフォームの場合は、既存建物の構造確認と耐震性の検討が必要となる。
屋上からの排水
近年では集中豪雨が起ることが多く、排水にはより注意し計画しなければならない。
公共建築協会では排水基準を240mm/時間以上としているが、余裕をもって計画すると良い。排水溝、排水口がふさがれないようにし、防水の立ち上がりは200mm以上取る必要がある。既存の防水のままでは難しいことが多いので、やり替えることを前提で考えておかなければならない。
植栽の検討
軽量土壌であっても種類によっては背の高い植栽も可能であるが、一般的には、戸建では160cm程度を限界に考えておく。風の強い場所ではセダム、天然芝などの地被類を勧める。
夏場は、水やりやメンテナンスをこまめに行う必要があり、自動散水システムが有効である。植栽の楽しみ方を考え検討していく必要がある。
太陽光発電のパネルで屋根や屋上が無くなった街並はあまりにも寂しい風景ではないでしょうか。
緑の多い生活環境をみんなの手で創り上げたいものですね。
下記の写真は木造住宅の屋上に天然芝を敷きつめたものです。
「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
AA STUDIO ナビゲートサービス
中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談 無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案 ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
北島 俊嗣 | http://kitajima-architecture-design.com |
久保田 恵子 | http://studio5st.com |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
高橋 正彦 | http://www.takahashi-arch.com |
廣田 裕一 | |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
古川 達也 | http://furukawa-arch.com/ |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
山田 慎一郎 | http://www.yamadastudio.com/ |
ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第34回 第6章 社会人編 6
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HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
横浜、街と風(社会人編) 20(35)
怖い話
エルエラを中心に活動している頃、知り合いのホステスさんから今度ママになってナイトクラブやるからバンド組んでもらえないかと注文があり初めてのバンマスをやることに! 5人のメンバーを集め、深夜の12時半頃から朝の5時迄演奏することになりました。メンバーは早い時間はジャズ系のライブやったりしている自分より7才から10才位年上の一癖も二癖もあるベテランの人たちで、リーダーなのに当時22才位で一番年下の自分は舐められていけないといつも気を張っていました。
お店の方はというと、最初は中々忙しかったのですが段々と暇になって行き、半年もするとお客がいつもまばらな状態が続くようになって、段々ギャラが遅れるようになりました。支払いはバンドリーダーの義務なので立て替えて払っていましたが、半月も遅れると不安になってきます。やがてこの店の経営者はその筋の方らしいと噂を耳にします。そういえばマネージャーさんもいつもジョークを言っていますがかなり目つきの怖い人。ある日ギャラの催促に行ったらカウンター越しに「今月はかなり厳しんだよ、も少し待ってくれ」と。「今私が立て替えていますがもう待てません」と言うと、「これで勘弁してくれよ」と言ってカウンターに置いたのは鉛の弾の出る黒いモノ。
「冗談はやめてください」
「冗談じゃないぜ、結構カネになるんだぜ」
と言ってにやっと笑いながら睨まれた時は背筋が寒くなりました。
結局一ヶ月以上のギャラを貰えないままバンドをやめることに! 言いだしっぺのママさんに何とか払ってください、と電話でお願いすると「じゃあ、あたしの自宅へ来てください」と言われ彼女のマンションへお邪魔しました。応接室で彼女と二人で話しているとそこへピンポン! 入ってきたのはその筋の方々が3人程。
「お前、アネさんの部屋に上がり込んで何しとるんじゃ! ただで済むと思っとるんか!」
この人は親分さんの彼女だったようで、、全身から冷や汗が吹き出しました。
結局荒ぶる彼らを彼女がなだめ「今日はこれで帰って」、と幾らか渡され部屋を出されました。無事に部屋を出ることが出来ほっとしましたが、もう二度とバンマスなんかやらないぞと心に誓いました。
1980年
1980年頃、22歳になった私は音楽でメシを食う生活も4年になり夜型の生活にもすっかり慣れました。仕事はどの店も長続きはしませんでしたが次から次と話が来るので困った事はありません。ダンシングオールナイトなど流行っていた頃で、誰よりも新曲を覚えたのでどのお店でも気に入っていただけました。
この頃は飲み屋業界も全盛期で、福富町関内周辺には多数の飲み屋があり、1つのビルに20軒位の飲み屋があったりして、それらの大多数にピアノかギターの弾き語り、もしくはバンドが入っていました。ですから関内周辺だけで300人くらいの演奏家がいたと思いますが、彼らは多くの店を掛け持ちしていました。25分演奏して5分で次の店へ移動それを4回ずつこなし一晩で2軒8回ステージ、深夜もまた掛け持ちすると計4軒で一日16回ステージやっている人もいました。今思うと信じられないような世界ですが、彼らは掛け持ちがしやすくする為に同じビルにある店や近所の店を探し、店と店の移動には楽譜本片手にタバコを吸い歩きながら移動します、ジュウタンの店が多かったのでスーツにサンダルばきの人もいました。大体8時から始める店が多かったので、みんな25分から5分、55分から5分が移動タイムでこの時に同業者と何人も会います。「そっちの店忙しい?」などと話し仕事の情報交換なども行われ、これが新しい仕事を得る情報源にもなりました。この頃が夜の音楽業界も全盛期でした。
弾き語りと呼ばれた人の中には自分ではあまり歌わず伴奏を得意とした人も沢山いました。この当時はまだカラオケは普及していない時代で、8トラック4曲入りの安っぽいカラオケやカセットのモノがカウンターだけの小さいスナックに置いてある程度で、演歌が中心、曲数もわずかでした。
1983年頃からレザーディスクのカラオケができるようになるとそれが日に日に進化。音も曲数も進化するとお店もそちらのほうが経費削減になるので、カラオケに切り替える店が増えていき、1990年にかけて演奏を入れる店は少しずつ減っていき演奏家の姿も減っていくことになります。
ショッキングな出来事
この頃はかなりむちゃくちゃな生活で、毎晩仲良くなったお客と飲んだり、女性と飲んだり昼近くまで飲んではサウナで泊まったり、一晩に3軒位仕事していたから50万位稼いでいたと思うのですが、なんでお金が残らないのか不思議な位でした。恋愛も随分しましたがみんな長続きしませんでした。
1980年12月、付き合っていた女性のマンションに居候していた時、部屋に帰るとテレビでジョン・レノンがアップで写り射殺されたと言っています。最初は何か冗談の番組なのかなと思いましたが、どのチャンネルもその報道。やがてそれが事実と分かると強いショックに襲われました。中学高校時代ビートルズに狂いギターを練習し音楽の歌うことの喜びを教えてくれたビートルズ。そしてソロになってからのジョンはリアルタイムで聞いた『イマジン』や『マインドゲーム』、更に一番衝撃を受けたアルバム “ジョンの魂” の歌詞、それらの思い出が蘇りその夜は一晩中泣きながらノートに、亡きジョンへの手紙を書き続けたのを覚えています。
ここからは原の音楽夜話
ファルセットボイス(ブラック編2)
50年代にもジャズやスタンダードを歌い白人にも受け入れられたナットキングコールやサミーデイビスJr.、レイチャールズといった人たちがいましたが、彼ら低域から中域を響かせ高域も魅力的でしたが裏声はほとんど使われていません。60年代初期あたりから活躍しだす次の世代、サムクック、ジャッキーウイルソン、ジェームスブラウンは3人とも表声で HighC(ギター1弦8フレットのド)まで出せるボーイソプラノでしたが、ファルセット中心というシンガーではありません。その先駆けとなったのはスモーキーロビンソンでした。そのファルセットはどこか頼りなげで、消え入りそうな細いビブラート。一度聞いたら耳につき離れなくなります。そのモータウンで裏声シンガーの先駆けになったのが、スモーキー作の『マイガール』をヒットさせたテンプテーションズの人気シンガー、裏声担当のエディ・ケンドリックスでした。彼も少し頼りなげな裏声で、スモーキーの方が音の伸びはありましたが、超イケメンだった彼のイメージが声と相まってエディの歌声はどこか品を漂わせていました。『Get Ready』を始め、ネットで見るなら『Just My Imagination』 と『I’m Gonna Make You Love Me』あたりがオススメのバラードでしょう。後者はダイアナロスとスプリームスとのデュエットもありこれも素晴らしい。
60年代にはシカゴを中心に活躍するカーティスメイフィールドも忘れられない存在。57年からコーラスグループ “インプレッションズ” の高音担当でしたがやがてソロでも活躍。公民権運動の時は『People Get Ready』。「切符なんか要らない、ただ列車に乗るだけ」と歌い黒人たちから強く支持されました。安定感のある低い裏声はとても説得力がありました。牧師でありシンガーであるアル・グリーンも素晴らしいファルセットを多様して個性的な唱法を編み出しています。
そして迎える70年代はソウルの黄金時代。差別や抑圧を受け白人たちにコンプレックスを持っていた黒人たちは自分たちの肌の色に誇りを持とう! “とブラック・イズ・ビューティフル” を旗頭に変化していきます。チリチリ髪を伸ばしたアフロヘアーが流行り、音楽も彼ら独特の粘りのあるリズムを前面に押し出す様にファンキーなサウンドやハスキーで強い喉を生かしたシャウト系シンガーが続々登場! 1971年から始まったテレビ、黒人の手による黒人のための音楽番組 【ソウルトレイン】 が人気番組になると、全国区のそんな番組を背景にディスコが各地で出来、そこで演奏するために数々のインストグループやボーカルグループが結成されて行きます。アメリカは広いですからそれぞれの地域で個性を持ったグループが生まれていきブラックミュージックは大きく発展を遂げます。
*ソウルトレインはダンスの上手若い黒人をオーディションで選びペアを組ませて流行りの音楽で踊る姿を映す週一回1時間の番組。数組のメジャーアーティストがゲスト出演し演奏もする、35年間放映されアメリカで一番長く放送された番組として知られています。当時日本でも放映されていました。
そんな70年代各地で生まれた黒人音楽の中でやがてファルセットがリードを取り甘いコーラスでバラードを歌うグループが人気になり、それらはスイートソウルミュージックと呼ばれました。彼らの代表と言えばフィラデルフィアで生まれたスタイリスティックスといえるでしょう。
(続きは次号へ)
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL DATAMAP
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
逢ひみての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり
♪ ひみての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり ♪
絵・千絵崇石 |
読み人:権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ) 現代語訳・・・貴方と愛し合うことが出来たなら、この苦しみは消えるだろうと思っていた。でも、今ではますます苦しくなるばかりです。思いを遂げる前なんて何も思っていなかったのと同じだ! 1960年代後半に「若いって素晴らしい」という歌がヒットしていましたが、そのフレーズが突然 ため息とともに思い出されました。読み手の名前は 藤原敦忠(ふじわら の あつただ)。 こういうストレートな歌はピシッとハートに響きます。潔い直球という感じです。 |
権中納言敦忠には いわく付きなエピソードが沢山あって話題に事欠きません。その上母親譲りのすこぶる美男子。和歌の才能だけでなく、琵琶の名手でもありました。
38歳という若さで亡くなってしまった彼の才能を惜しむ人は多かったようです。沢山あるエピソードの中から何を紹介すればよいのかと迷うぐらい、この歌の作者には興味深い逸話が残されています。その中でも極めつけのトピックを紹介します。と言っても私にとっての極めつけなんですが。
彼はこの ヨコハマNOWの2012年2月号 で紹介した女流歌人、右近の恋人でした。彼の和歌、が右近とのお付き合いの中で交わされた歌だったのかは分かりません。私にとって百人一首に残されている右近の和歌が衝撃的だった事もあり、右近が歌った歌の相手が権中納言敦忠だとすると、38歳で亡くなってしまった原因の一つに、右近との間で交わされた約束があったのではないかしら?と。
右近の歌とは、「君の事を忘れたら神に裁いてもらうよ・・」と言って、結局は忘れてしまった恋人への歌です。誓いを破ったあなたの命が心配です。という意味深い和歌。
♪ 忘らるる 身をば思わず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな ♪ 右近
一般的には 彼女の歌の相手は藤原敦忠。と言うのが定説となっています。
誓いを破って神さまに裁かれちゃったのかしら。
又、藤原敦忠の父親は、当時、右大臣だったあの菅原道真を謀事で九州に追いやってしまった張本人。藤原時平です。時平が左大臣で道真が右大臣のときでした。
菅原道真は今では学問の神様と言われていますが、時平に諮られて九州に追いやられて其の地で亡くなりました。さぞ悔しかったと思います。見え見えの罠にはめられてしまった訳ですから、そして恨みの念が祟るかのように 藤原時平は39歳の若さで亡くなります。そしてその息子の敦忠も38歳でなくなり、藤原家の嫡男だった時平の直系はその後皆 短命で衰退して行きました。わずか半世紀後には政治のおもて舞台からは消えてしまいます。やはり、罠にかけて人を蹴落としたらそのくらいの反動は出るのが当然なのかもしれません。息子の藤原敦忠は好青年で屈託のない、以外に豪胆だったのかも。
彼は自分が短命な事を自覚していて奥さんにも其の事を告げています。その上、自分が死んだ後に奥さんが誰と再婚をするかも名指しで予言していたそうです。
そして彼の死後に・・奥様は夫が予言した男性と再婚したそうです。
(早苗ネネ♪)
- 日時:2015年4月10日(金) 開場 18:30
- 会場:新宿シャンパーニュ
〒160-0022 東京都新宿区新宿 1-34-11-B1(元東京厚生年金会館向かい、スギ薬局地下1階)
TEL:03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
http://www.champagne-live.com - 第1ステージ 開演 19:00~19:45
第2ステージ 開演 20:00~20:45
第3ステージ 開演 21:00~21:45 - チャージ:¥5,500(ワンドリンク付き)
<LIVE INFORMATION 2>
- 「奈良県東吉野村高見の郷 桜まつり 歌うたコンサート」
- 2015年4月19日(日) 11:30~/14:00~の2回ステージ
- 会場:奈良県東吉野村高見の郷 特設ステージ
〒633-2400 奈良県吉野郡東吉野村杉谷298-1
TEL:0744-43-7272
http://shidare-sakura.jp/ - お問い合わせは、和歌うた実行委員会まで。080-2345-0615
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
会社設立後5年で、次々と新製品を開発して注目されている技術集団があります。それが神奈川県綾瀬市にある「株式会社オクト」です。代表取締役の池田彰さんにものづくりへのこだわりを伺いました。
株式会社オクト 代表取締役 池田彰さん |
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大学卒業後はエリート社員だったとか・・・
中学・高校・大学とずっとバスケットの選手でした。社会人になってもバスケットを続けたくて、慶応大学卒業と同時に入社した自動車部品大手のプレス工業でクラブを創設し、1975年には藤沢市の区画整理事業でおりた補償金を使って体育館をデザインしたうえ建設に関わりました。全国大会で8位 神奈川県のチャンピオンになるまでに成長しました。営業の実力が認められて36歳で営業部販売課長に。その後営業部長にもなりました。飛ぶ鳥を落とす勢いで出世街道をまっしぐらに歩いていると自他ともに認めていました。
持ち前のバイタリティと営業力で、大口取引を実現させました。「スズキ」などの大手自動車メーカーが主な取引先でしたね。これまで半年かかっていた金型つくりを半分の納期で納めたりして、「困った時の池田頼み」と言われて仕事はますます増えていきました。無我夢中で働きました。このときの営業活動で培った人脈が今でも生きていますね。
仕事は丁寧に納期を守るのは当たり前、その中に自分たちなりの工夫を入れていかないと生き残っていけません。私はアイデアマンとしても活躍しましたよ。
微生物を使って汚物を分解し消化して処理する汚物処理ユニットを備えた汚物処理車。など数々の特許にも関わってきました。
定年まで勤め上げましたが、後半は順調な仕事人生とは言えませんでした。
不遇の扱いを受けたこともあった。そのときの「ここで負けてたまるか!」
という想いが、70歳を過ぎても企業経営に携わっている自分を作ってくれたと思っています。
定年退職後もいろいろな会社で「モノづくり」に関われてこられましたね
有難いことに、「辞めたら手伝ってくれ」と言われて・・。私が関わった会社はみな、売上が倍々ゲームで増えていくのです。しかし前職では乞われて社長になりましたが、それまでの無策のつけから抜け出せなかったためオーナーに代わって会社を清算しました。
池田彰氏は5年前、社長を務めていた会社が清算されたのを機に、残った5名で新会社を立ち上げたのです。現在は2工場で総勢16名の会社となりました。
「オクト」は、「開発現場の課題に応えるプロダクト・パートナー」として航空機、自動車産業を中心とした部品開発から各種機械の切削・加工・金型・治具、試作品などの製作、メンテナンスまで一貫体制でサポートする会社です。特に外見を実物そっくりに似せた模型である「モックアップ」は、納期・品質の面などで評判らしいです。おかげさまで、設立時10数社だった取引先が今や50社を超えるまでに成長してきました。
最終製品を持つことにこだわっていらっしゃるとか・・・
社員には「自分たちの技術力に自信をもってもらいたい」と常々考えています。そのためにはユーザーの顔が見える最終製品を持つことが必要だと思います。
物流会社の役員をしている友人から、自社のドライバーに腰痛持ちが多くて困るという相談を受けて、オクトで腰痛を防止するためのクッションを開発しよう。と社員一同で「ゆらぎ360」というクッションを開発しました。東京都立産業技術研究センターで耐久試験や摩耗試験実施していただきました。3年間の使用に耐えうると判断し2013年の8月から本格的に販売を開始しました。トラックの座席に「ゆらぎ360」をつけて運転すると、疲労が軽減され、腰が楽になるとの評価を頂いております。
一般向けも欲しいよね・・ということで、このたび腰痛の予防と改善ができる「ゆらぎラ・クッション」という製品を開発しました。長時間座っていても腰が痛くならないような創意工夫をしています。2015年2月3日から販売を開始しました。予想以上の手ごたえで日刊工業新聞にも取り上げられましたし、大手販売事業者からの引き合いもあります。いい製品を作ると自ずと販路は広がるものですね。 |
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池田社長に「ゆらぎラ・クッション」の開発経緯と特徴をお伺いしました
70歳を超えてますます元気でいらっしゃいますね。その秘訣はバスケットですか
自分ではよくわかりませんが・・まだプレス工業のバスケット部の部長をやっています。遠征にも一緒に行きますよ。35歳までバリバリの選手でした。最後に現役選手として試合に出たのは25年くらい前に慶応大学湘南キャンパスの体育館のこけら落としのときでしょうか。日本バスケット協会の委員や神奈川県教会の役員も拝命しております。バスケットをやってきたことで、「根性」と「人脈」は培われたと思います。辛いことや悲しいことも何度も乗り越えられました。
私の持論は、「モノづくりこそ『心を大切に』すべきである」です。会わずして人の心は伝わりません。心を伝えたかったら身を運ぶべし・・と社員には話しています。お客様に我が社の製品を使っていただくときの情景を思い浮かべながら、優秀な技術者たちと一緒に今後も皆様のお役に立つ製品をどんどん生み出していきたいです。
編集部から
池田社長は大きな体で姿勢がよく、さすが往年の名選手という風貌の方です。山あり谷ありの仕事人生を大きな声で面白おかしくお話ししてくださいました。
オクトの新製品「ゆらぎラ・クッション」は、私も使っていますが、腰痛予防だけでなく座っているときの姿勢が良くなるように感じます。
このたび、ヨコハマNOWのオンラインショップ「濱よせ」で取り扱わせていただくことになりました。
インタビュー・文:渡邊桃伯子
こんにゃくの製造卸商である坪井食品とサイダーとの出会い、紆余曲折・試行錯誤の結果、製造を中断した昭和40年、そして、2014年9月に復刻した「ORITURU―CIDER」。創業100年の重みを感じながら新たな出発を模索している坪井裕平氏のご登場です。
坪井食品株式会社 代表取締役 坪井裕平さん |
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横浜の地サイダー坪井 日本のサイダーは横浜が発祥の地です。1868年(明治元年)に英国人J.ノース氏とW.レイ氏が経営する「ノース&レイ商会」が横浜・本町通り61番館で薬種商を開業しました。同年、商会の裏手に工場を建設し、レモネードや炭酸飲料を製造したのが、日本における炭酸飲料の歴史の始まりです。 当時の日本人には耳慣れない「レモネード」が「ラムネ」と、「アップルサイダー」や「シードル」、「ソーダ―水」が「サイダー」と呼ばれるようになりました。ノース&レイ社の製品は在留外国人向けであり、日本人は上流階級や特権階級以外は飲むことはできませんでした。 そこで、1899年に日本人として初めて清涼飲料水の製造・販売を手掛けたのが秋山巳之助氏です。王冠を使用して製造されたガラスボトルのサイダーは「金線サイダー」と名付けられました。人気を博した「金線サイダー」は、大日本麦酒合併後、三ツ矢サイダーに統合される形で製造が打ち切られました。 一方、1927年(昭和2年)当社は「オリツルラムネ」という名前でラムネの製造販売を始め、翌1928年「オリツルサイダー」の製造を開始しました。 |
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坪井食品株式会社は炭酸飲料発祥の地「横浜」に唯一残った炭酸飲料水製造販売会社です。
坪井食品とサイダーとの出会い坪井 当社は明治34年に創業しました。生麩屋として関内の料理店に生麩を卸していました。生麩の他にもコンニャクの製造販売をしています。生麩やコンニャクを使った煮物はどちらかと言えば冬の料理です。販売量が下がる夏場に売れる物として曽祖父が手掛けたのが清涼飲料でした。 レモネードやシードルを飲んだことのない曽祖父が、「炭酸飲料」に目をつけたのは勇気のいることだと思います。地元には良質な湧水がありコンニャクの製造にも使っていました。また、こんにゃくの製造機械が、香料と砂糖と水を混ぜて作るサイダーに適していました。良い水と兼用できる機械が坪井食品にあったのです。 こうして作られた「ラムネ」は庶民に愛され、お祭りや駄菓子屋の定番になりました。曽祖父の名前1字「鶴」を取って名付けた「オリツルサイダー」は坪井清飲として横浜伊勢佐木町野澤屋(現松坂屋)で好評を博しました。鶴のトレードマークは外国人に人気で、終戦後はマッカーサー劇場、ゲーリック球場(米軍に接収された施設)で売られ、米軍兵のお土産として大量に買い込まれた歴史があります。 |
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復刻版 オリツルサイダーの誕生秘話
坪井 国内では「三ツ矢サイダー」「リボンシトロン」「キリンレモン」など、ビール会社が王冠を輸入して「サイダー」の製造販売を始めました。ラムネは大衆品、サイダーは高級品という区分が始まったのもこの頃です。昭和30年から40年後半には、コカコーラ、ペプシコーラ―、セブンアップ、ファンタ、スプライトと炭酸飲料水がブームとなりますが、TVコマーシャルやイベントなどでPRする大手の進出で、「オリヅルサイダー」の影が薄くなり、当社は炭酸水の製造を中断することになりました。
ところが、2001年の横浜開港祭のイベントとしてオリヅルサイダーの復刻版を販売したところ、人気を得ることができたので、「サイダー」を再びやりたいと思うようになりました。そして、最近の「ご当地サイダーブーム」で私の心に火が付きました。サイダー発祥の地の横浜で、本当の「地サイダー」と呼べるのは、「うちだけだ」とオリヅルサイダーの製造販売を2014年9月に決定しました。
開港記念会館の資料に残る当時のレシピ
坪井 復刻版を作るにあたって、ノース&レイ商会のレシピが残っていたのを発見し、当時の味の再現にこだわったサイダーを作ろうと思いました。ラベルも当時の印刷技術を再現しムラと味わいのある印刷ににします。ボトルにラベルを貼る「糊付け」も、当時のような、ラベルを剥がすと糊が線状にボトルの表面に残るような、そんなところまでレトロ感にこだわるつもりです。創造するワクワク感を楽しみながら仕事をしています。曽祖父の「ツルサブロー」さんもこうだったのではないでしょうか?
アイディアはまち歩きで見つかります坪井 まち歩きが好きです。東京で『東京さしすせそ』というお土産品を見て、すぐに『横浜ABC』を企画しました。Aはあられ、Bはビール、Cがサイダーといった具合です。 コンビニで節分に売られる「恵方巻き」を見て、恵方巻きに見立てたデザインのボトルで桃のフレーバーのサイダーを販売しました。これは、ちょっとしたミスがあり、採用した桃のフレーバーは、節分と節句を間違えたことで起きたミステークです(笑) 販路の市場調査として、BARや居酒屋にも出かけます。店長からお客様の嗜好をオンタイムで聞くこことができます。ソーダ―やトニックで割ったカクテルが流行して欲しいですね(笑) |
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横浜をPRして行きたい
坪井 地方に行くと、その土地の物産を全国にPRするために官民一体で必死になっています。デパートの物産展では「京都」や「北海道」が人気のようです。旅行で訪れた地方の名産品を身近な場所で手に入れることができる物産展・・・観光地「横浜の物産」をPRし全国で求められる物にしたいと考えています。と言うのも、横浜を代表する建造物に横浜の名産・物産店の姿が少なく、東京の有名店が多いのをとても残念に思っております。
3日住めば「浜っ子」と呼び、外来物が好きで、なんでも受け入れる横浜気質が、時に、古くから続いている本当の MADE IN YOKOHAMA の壁になることがあります。
横浜の物を愛する人が、お互いを認め、協力し合い、横浜の文化を残していこうと活動しています。本物には歴史があります。私は「明治創業以来、当社が100年守ってきたことを踏まえ、これから100年守るものを 新たに生み出して行きたいと思います。
あなたにとっての横浜とは
坪井 私にとっての横浜とは「立派な地方都市」です!
2014年クリスマスパティーにて
戸部駅から徒歩2分に位置する空手道場 兼 ヨガ・ピラティススタジオ
京浜急行鉄道の戸部駅から徒歩2分、横浜駅根岸道路に面したナガタビルの2階にある空手道場「極真会館 横浜北支部 戸部道場」は、平日の午前中、ヨガ・ピラティスと加圧トレーニングを受けられるスタジオ「スタジオリストーナ戸部店」として、子育て世代の女性を中心に利用されています。 道場の入口は、建物左側にある階段を上がった2階にあります。メタリックな「一撃」の文字がある白木の木目調の扉を開けると、白とベージュを基調としたマシーンスペースと、クッション性のある白い畳マットが敷き詰められた明るい道場が現れます。 |
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一般的な空手道場とはイメージが異なり、女性向けのフィットネスクラブのような明るくやさしいインテリアデザインで統一されています。
戸部道場は、師範の今西登之彦(五段)が支部長を務める極真会館 横浜北支部に属す道場です。主に稽古を行う上田指導員は、現役の世界大会日本代表選手であり、全日本ウェイト制大会のチャンピオンの経歴を持っています。その他の指導員も、女子部、壮年部の全日本大会、国際大会での優勝、入賞経験など豊富な試合経験と長年の指導経験を持ち、子どもから大人まで様々なニーズに合わせた指導を行っています。また、子育て経験のある指導員が多く在籍していますので、空手の稽古を通じて子どもの健全 育成、礼儀作法を身に付け、心と体を強くしていきます。
運営するのは、「美しさと理想と健康への共鳴」をコンセプトに、加圧・ヨガ・ピラティスを中心としたメニューでフルオーダーメイドのボディ・デザインを提案する「スタジオリストーナ」。高い専門性を持つトレーナーによる、マンツーマンのパーソナルトレーニングが特徴で、「なりたい自分」になるために最適なサポートを受けられます。スタジオは4店舗(馬車道店、武蔵小杉店、港北店、戸部店)を展開していて、2015年5月には元町にも新店舗がオープン予定です。
白とベージュを基調とした明るいスペース
平日午前中は、女性向けのヨガ・ピラティススタジオ。午後からは子どもから大人まで体を鍛え、心を鍛える空手道場-家族と、仲間と、楽しく健康作り
戸部道場&スタジオリストーナ戸部は、子どもからお母さん、お父さんまで、家族全員の健康を維持するプログラムを揃えたスペースです。 空手は、近年「しつけや礼儀を身につけられる」との親の期待もあり、小学校低学年までの習い事ランキング(注)では野球を上回る人気となっています。極真会館でも、強さと共に礼儀作法を身につけ、いじめない、いじめられない子どもを育てること、人を思う気持ちや優しさなどを身につけてもらうことを念頭に幼少年クラスを設けています。 子ども達が空手道場に通う一方、家事・子育てを続ける中で、肩こりや腰痛になやまされるお母さん世代には、体の柔軟性を向上させ瞑想で心を整えるヨガや、体幹を鍛えて体を機能的に整えるトレーニングのピラティスなどのレッスンが、平日の午前中を中心に行われています。 会社員も参加できる夕方以降の時間帯には、中学生から70代まで男女問わず体を鍛える一般・壮年向けクラスが設けられていて、習熟度に合わせた稽古が受けられます。
(注)ベネッセ教育総合研究所「第2回 学校外教育活動に関する調査2013」 |
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子どもの強さとやさしさを育て、礼儀作法を身につける-極真会館 空手道場
木曜日の午後、4歳から小学校低学年の子ども達が、元気よく戸部道場に入ってきます。挨拶は「押忍(オス)!」。小さな背中に道着を入れたリュックを背負い、足早にロッカー前に向かいます。お母さんに手伝って貰いながら道着に着替えると、あっという間に仲間たちと畳の上へ。
稽古が始まると、指導員の上田先生に促され、みんなで正座をして黙想します。さっきまで駆けまわっていた子ども達も、黙想をすると心を落ち着けて、稽古の準備に入ります。
子ども達は、小さな身体で腕立て伏せや腹筋などの準備体操を、時には歯を食いしばって顔を赤くしながら先生のかけ声と共にこなして行きます。黙想、準備体操、基本稽古、移動稽古、型、ミット、組手、道場訓、黙想。上田先生は、時には優しく、時には厳しく、参加している子ども達のレベルに合わせた稽古内容で、飽きさせることなく、空手の指導を進めていきます。そんな様子をお母さん達がやさしく見守ります。1時間の稽古はあっという間。子ども達は、また次の稽古を楽しみに帰って行きました。
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全日本大会での優勝経験を持ち戸部道場の指導員を勤める上田幹雄さん(初段)に、戸部道場について伺いました。
戸部道場は極真会館の空手道場ですが、どういう特徴があるのですか?
極真会館の空手は、直接打撃制(フルコンタクト)を採用していますので、技が相手に当たります。空手で痛みを知ることで、強さだけでなく、人を思う気持ちややさしさを身につけることにつながります。
直接打撃制は、子ども達には危なくないですか?
稽古の時には、拳、すね、ひざのサポーターとヘッドガードなどの防具を使用し、安全性を考慮しながら修練しています。
幼年クラスのレッスン内容を教えて下さい
4歳から参加できる幼年クラスは、遊びも入れて楽しく空手の基礎を学んでもらうプログラムになっています。まずは正座して、黙想から始まめます。その後、準備体操して、基本稽古を行ないます。
大人になってから空手を学ばれる方もいらっしゃいますか?
50代で空手を始められて60代で黒帯を取られた方もいらっしゃるので、年齢に関係なく、学びたいという気持ちがあればいつでも始められます。道場では4歳から75歳まで幅広い年齢層の方が学ばれています。
大人の方が空手を学ばれる動機はどのようなものがあるのでしょうか?
ある程度の年齢から始められる方は、健康維持を目的として学ばれる方が多いです。あるいは、昔の空手漫画などの影響で、いつかは習いたかったという方がいらっしゃることもあります。
上田さんご自身はいつから空手を始められましたか?
5歳の時に父の勧めで空手を始めました。小学校4年生の頃には、空手道場の友達と空手をすることが楽しくなって、ずっと続けたいと思うようになりました。
上田さんは加圧トレーナーの資格もお持ちですが、加圧トレーニングは空手にも役立ちますか?
極真会館には、以前から加圧トレーニングを積極的に取り入れている道場がありました。戸部道場は、加圧トレーニングの専門家が多いスタジオリストーナが併設されていることもあり、トレーナー資格を取得しています。今後積極的に、トレーニングに取り入れたいと思っています。
指導員プロフィール 上田幹雄さん
極真会館 初段/加圧トレーニングインストラクター |
幼少年クラス(キッズ空手)の稽古風景(動画)
体を整えるトレーニング-ピラティス
ピラティスのレッスンは、空手道場のクッション性のある白い畳マットの上で実施するので、ヨガマットをお持ちで無い方もそのまま気軽に参加することができます。
水曜日の午前10時、明るい日が射す窓際に立つインストラクターのHarunaさんの指導のもと、4人の女性がピラティスレッスンを受けていました。レッスンは参加する人のペースに合わせ、一つ一つの動作の説明を聞きながら進んでいきます。ストレッチは、足先の関節からゆっくりほぐしていきます。足の指1本1本を意識して動かすことで、使わない筋肉、使わない関節がないようにしていきます。全身の部分部分をそれぞれ動かしていくピラティスのトレーニング。終わった時には、全身の関節、筋肉を使った爽快感を感じることができます。
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ピラティスの特徴をインストラクターのHarunaさんに伺いました。
ピラティスの特徴を教えて下さい
ピラティスは、もともとリハビリのために開発されたトレーニングです。ヨガが体の柔軟性、マシーントレーニングが体の外側の筋肉を鍛えるとすると、ピラティスは体幹や普段使わない内側の筋肉を鍛え、体のゆがみを整え機能的に使えるようにするトレーニングです。
最近では、アイススケーターの羽生結弦さんやテニスプレーヤーの伊達公子さんなど有名なアスリートがトレーニングに取り入れていることもあり、注目を集めています。体に負担を掛けることの多いアスリートは、体を整えて故障しない体を維持するためにピラティスを行っています。
リストーナのピラティスレッスンの特徴を教えて下さい
通常使っていない体の内側の筋肉を使うピラティスは、気軽に参加していただけるトレーニングではあるのですが、慣れるまでは思い通りに筋肉を動かすことができない難しさもあります。リストーナで行う少人数のレッスンでは、参加者の習熟度に合わせて、一つ一つの動作を説明しながらゆっくりと進めていきます。繰り返し行うことで、コツがつかめてきますので、最初は上手くできなくても心配せず、是非レッスンを続けてみてください。
どのくらいの頻度でレッスンに参加するのがいいですか?
ピラティス・メソッドを開発したピラティスさんは、時間は短くてもいいので、1日10分でも毎日続けることを奨励していたそうです。まずは週1回のレッスンに通いながら、習ったポーズを手軽に日常に取り入れて、少しずつでも続けていくことが大切です。
参加者の方にレッスンの感想を伺いました
レッスンはいかがでしたか?
普段使わない筋肉を使うので、難しかったですが気持ちが良かったです。小学校生の子どもが空手道場に通っていることもあり、同じ場所で、レッスンが受けられるというのは、通い慣れた場所でもあり、親しみやすく参加しやすいです。
インストラクタープロフィール Harunaさん
加圧トレーニングインストラクター/FTPベーシックマットピラティスインストラクター |
アクセス
住所 | 〒220-0051 神奈川県横浜市西区中央1-31-6 ナガタビル2階 |
最寄り駅 | 京浜急行「戸部駅」下車徒歩2分 / 相鉄線「平沼橋駅」下車徒歩5分 / 横浜市営地下鉄「高島町駅」下車徒歩5分 |
TEL | 045-320-5567 |
tobedojyou@gmail.com | |
ホームページ |
極真会館 横浜北支部 戸部道場 - 子どもから大人まで体を鍛え、心を鍛える空手道場 http://branch.kyokushinkaikan.org/yokohamakita-tobedojo/ |
料金表
極真会館道場入会案内
一般・壮年 (社会人) |
学 生 (高・大・専門) |
幼年・小中学生 | 女 性 | |
入会金 | 10,800円 | 8,640円 | 7,560円 | 7,560円 |
月会費 | 10,800円 | 8,640円 | 7,560円 | 7,560円 |
空手着 | 11,880円 | 11,880円 | 11,880円 | 11,880円 |
入会時合計金額 | 33,480円 | 29,160円 | 27,000円 | 27,000円 |
※(月会費)家族割り 家族で入会の方、2人目から月会費1,050円引きです。 月会費は銀行引き落としの始まる入会月~2ヶ月目までは、現金にてお支払いいただきます。 |
一般・壮年 (社会人) |
学 生 (高・大・専門) |
幼年・小中学生 | 女 性 | |
極真会館総本部 年会費 |
10,800円 | 10,800円 | 10,800円 | 10,800円 |
メディカル サポート料金 (武道共済) |
3,800円 | 3,800円 | 2,800円 | 3,800円 |
家族会員2名以上~ 15,750円均一
※極真メディカルサポート
毎年2月27日に翌年度分をクレジットカードによる決済させて頂きます。(初年度分は入会時にクレッジットカードによる即時決済されます。)
その他、料金の詳細は極真会館 横浜北支部 戸部道場のHPをご覧ください。
http://branch.kyokushinkaikan.org/yokohamakita-tobedojo/entry
ヨガ・ピラティスプログラム
エナジーフローヨガ | 月曜日11時~12時15分 |
ハタヨガリラックス | 金曜日11時~12時15分 |
ピラティス | 火曜日10時30分~11時45分 水曜日10時30分~11時45分、13時~14時15分 |
体験コース | 参加費1,000円(税別)※完全予約制 体験日に入会した場合、入会金通常5,000円のところ0円。 |
回数券 | ヨガ・ピラティスレッスン回数券 1回2,000円(税別)、4回7,000円(税別)、8回12,000円(税別) ※回数券の有効期限4ヶ月 |
ホームページ |
スタジオリストーナ戸部店 - 柔軟な心と体を得るためのヨガ・ピラティスプログラム http://www.restorna.jp/tobe/ |
FAQ
空手道場には、兄弟割引などありますか?
家族で入会した際には、2人目から月会費1,050円引きになる「家族割り」があります。
空手道場は月会費制ですが、月に何回レッスンを受けられますか?
レッスンの参加回数制限はありません。ご自分にあったクラスに何回でも参加いただけます。
子どもが道場に通っています。ヨガ・ピラティスに関して割引などはありますか?
ヨガ・ピラティスの体験コースの参加費1000円が無料になる割引をご用意しています。
馬車道 Emera 通信 Vol.5 Aut 2014
「ボリビアの若者」日本滞在記
2014年7月24日に始まった「ボリビア・コマ基金」は、100名を超える皆様から946,623円の募金を頂戴しました。「ボリビア・コマ基金」で、2名の若者がボリビアから横浜やってきました。
Elias Juda Pinto Ticonaさん |
Elias Juda Pinto Ticona (16歳)ボリビア ラパス市在住 |
Vergaz Prado Roberto Wadyさん |
Vergaz Prado Roberto Wady(27歳)ボリビア コチャバンバ市在住 |
2015年2月12日(木)
ボリビア⇒ブラジル(サンパウロ)⇒ドイツ(フランクフルト)⇒羽田 という40時間にわたる移動時間です。今回の来日は、東海テレビが密着取材を行うので、テレビカメラも彼らを待ち受けていました。新潟から出てきた平野さん(元JICAシニアボランティア)と尾形さん(秋田高校の後輩でスペイン語の通訳ができます)そして私の3名はなかなか出てこない彼らを1時間以上も待っていました。
彼らはコマ大戦用のコマを新たに作って持参してきました。
彼らは飛行機だけでなく電車も生まれて初めて乗ったそうです。電車の最前列に座って線路をじっと見つめていた彼らが印象的でした。来日初日は疲れているからとポートサイド地区の宿泊施設を早々に後にしたのですが、彼らは近くの日産本社を訪れて、ショールームに並んでいる自動車に驚きの声をあげたそうです。
2015年2月13日(金)
東京駅から「はとバス」に乗るために、8時頃京浜東北線で移動して、「通勤ラッシュ」を体験しました。「はとバス」はスカイツリーと国会議事堂を回るコースでした。とにかくスカイツリーは圧巻だったようです。
13日は、宿泊施設のそばで「ヨコハマ主催の歓迎会でした。2人とも箸を上手に使っていました。
2015年2月14日(土)
本日から全日本製造業コマ大戦協会の公式日程が始まりました。各国代表と会う前に、横浜中央卸売市場を訪問しました。巨大マグロの解体を見て・・海のない国から来た彼らはびっくりを通り越した表情をしていました。
公式日程の最初は、製造業の現場の見学です。株式会社ニットーと昭和精工株式会社を訪問しました。彼らは日本は工場も道路もなんて整然としていてきれいなんだと何度も話していました。
夜は、コマ大戦世界大会の前夜祭が、大さん橋のカフェテリアで開催されました。彼らは各国代表や高校生チームとエールを交換しました。10月31日に開催された「ボリビア・コマ基金」支援イベント「ボリビアナイト」では、2人にプレゼントするTシャツに寄せ書きが行われました。前夜祭でも日本全国の元気な製造業の方々に寄せ書きをしていただきました。
2015年2月15日(日)
コマ大戦世界大会当日。2人はボリビアの国旗色の3色のユニフォームです。物凄い熱気の中でかなり緊張気味でした。一回戦、エリアスは7番目。ロベルトは10番目に登場しました。残念なことに2人とも敗退してしまいました。敗者復活戦でも勝ち残ることはできませんでした。日本の技術力の高さに完敗でした。
大勢の方がボリビアチームの応援に駆け付けてくださいました。展示ブースではボリビア産の岩塩を販売しました。人気であっという間に完売になりました。
2015年2月16日(月)
各国代表と一緒に、横浜三溪園や鎌倉を訪問しました。コマ大戦協会の緑川会長にボリビアのコスチュームをプレゼントしたら、移動中ずっと身に着けていただきました。夜は横浜中華街での会食でした。
2015年2月17日(火)
金沢区長を表敬訪問。職員の拍手で迎えられました。区長と面談の後、消防自動車の前で記念撮影。金沢区にある世界的な製造業を見学しました。午後は、鶴見区の生麦中学校を訪問して中学生たちと親睦を深めました。彼ら彼女らと一緒に八景島の水族館へ。海のない国からやってきたので、水族館はとても楽しかったようです。忙しい1日の締めくくりは、渡邊宅での「きりたんぽ鍋」パーティーでした。
2015年2月18日(水)
日本最終日。お買い物で大変でした。ロベルトは奥様のために着物と帯を購入しました。草履も足袋は友人たちからのリクエストでした。エリアスは「トランジスタ技術」という雑誌を手にしていました。彼らは40時間のフライトを経て無事ボリビアに帰国しました。
ロベルトとエリアスに日本で印象に残ったことをあげてもらいました。日本人は親切だと思ったこと、日本がきれいで整然としていること、八景島の水族館やスカイツリーに驚いたこと、そしてコマを通して日本の技術力の高さをできたことだそうです。彼らはボリビアに何を持ち帰ったのでしょうか。これからが楽しみです。
浜じぃの横浜漫歩(第11回) 浜じぃのセンター北駅辺り
ここは、横浜市営地下鉄「センター北駅」の駅前です。 センター北駅は、南駅と共に市営地下鉄ブルーライン(湘南台ーあざみ野)とグリーンライン(中山ー日吉)の両線の通る主要な駅の一つです。 首都圏最後の大規模なニュータウンとして開発された「港北ニュータウン」の中心駅です。 現在はご覧のように、観覧車のある阪急デパートやショッピングモール、シネコンもあり、私の定義する繁華街の2大要件、デパートと映画館の存在を満たす、賑やかな街となっています。 で、市営地下鉄「センター北駅」から歩いて10分位のところに「横浜歴史博物館」があり、この日はここでの講演会を聴講にきました。 講演は、博物館館長で國學院大学名誉教授、「鈴木 靖民」先生と横浜の博物館行政を運営管理する立場の東京大学名誉教授「五味 文彦」先生でした。 横浜が幕末以降の開港を中心とした歴史だけでなく、古くからこの都筑の辺りでは村が栄えていたことや、鎌倉時代以降の鎌倉の後背地としての、立ち位置が紹介されました。 実際、この歴史博物館の隣には、「大塚・歳勝土遺跡」(おおつか・さいかちどいせき)があり、公園となっています。 この遺跡は弥生時代中期のもので、環濠集落となっていて竪穴住居や方形周溝墓群があるとのことです。 開港都市としての海沿いの横浜が日本の歴史の表舞台に踊り出る前にも、地味ながらもこの横浜の内陸部には長い歴史があるのですね。 ここセンター北駅、南駅を中心とした港北ニュータウンの辺りは、古くてそして新しい街であることを再認識しました。 |
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大根は、こんなにカラフルに!『大根、徹底分析』冬野菜の代表の、大根。おいしい季節が続いていますね。 大根は今では、品種改良も進み、一年中、何かしらの品種が収穫されます。 残念ながら、ビタミン、ミネラルは少なめです。しかし、ジアスターゼという分解酵素を多く含むため、消化を助けると言われています。これは、大根の汁の部分に多いので、食べ過ぎて胃もたれ、胸やけを感じた時などには大根おろしを食べるといいですね。 また、辛みの成分には抗菌作用、抗がん作用があると言われています。 一方、葉っぱにはビタミンC,E,カリウム、カルシウムを多く含みますので、新鮮な葉っぱがついた場合はぜひ、召し上がって下さいね。 |
『こんな種類、見た事ありますか?』
最近、随分多品種の大根が出回っている事に、お気づきですか?
三浦大根、聖護院大根、桜島大根、などの白い大根はもちろん、紅しぐれ、紅くくり、紅芯大根、レディーサラダ、といった、赤くて奇麗な大根も見かけるようになりました。
赤い大根は比較的、固く、シャキシャキしていますので、生食をお勧めします。
彩りも美しいので、奇麗なサラダになりますよ。
千切りサラダが一般的ですが、冬場の大根は水分が多いので、細かく切ると水分を逃しがち。なので、薄いいちょう切りがオススメです。
紅筋大根 |
紅しぐれ |
紅くるり |
ぶりと大根のパリパリサラダ |
旬のブリを合わせた、大根パリパリサラダ 4人前
分 量 | |
寒ブリ | 4切れ 一口大に切る |
紅しぐれ | 200g 薄いいちょう切り |
紅筋大根 | 100g 薄いいちょう切り |
水菜 | 50g 3センチ長さに切る |
玉ねぎ(サラダオニオン) | 30g 薄切りにし、水にさらす |
ピンクペッパー | 小さじ1 |
にんにく | 1片 薄切り |
柚子風味のドレッシング | |
柚子の絞り汁 | 大さじ1 |
柚子の皮 | 小さじ1/2 みじん切り |
練りマスタード | 大さじ1 |
EXオリーブ油 | 大さじ3 |
塩、胡椒,オリーブ油 | 適量 |
(作り方)
- 水菜は3センチ長さに切り、よく洗う。冷水につける。(5~10分)水気をよくとる。
(寒ブリのポワレ)
- フライパンにオリーブ油、にんにくを入れて弱火につけ、香りが出るまで熱する。かりかりになれば取り出す。(にんにくチップス)
- 寒ぶりに、軽く塩をふり、10分ほど置く。キッチンペーパーで水気をふく。黒胡椒をふり、フライパンで香ばしく焼く。
(ドレッシング)
- ボールに柚子の絞り汁、皮、練りマスタード、塩,胡椒を入れて泡立て器でよく混ぜる。
- オリーブ油を、糸を垂らすように入れながら、よく混ぜる。
(仕上げ)
- 大根、水菜,サラダオニオンにドレッシングを適量からめる。
- 皿に盛り、ブリを乗せる。ピンクペッパー、にんにくチップスを散らす。
『春の足音が聞こえてきますね』
恵方巻き、バレンタインデーと行事の続いた2月から、3月は卒業、お花見シーズンに突入しますね。そろそろ、春のスイーツの出番だな、と準備を始めています。ジュイエでは、桜スイーツを長年作っていますが、定番のシフォンケーキに加え、近年マカロンも人気なんです。 |
3月の料理コースのご案内
私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。
3月のコース内容
受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。
基本のコースは、自家製パンチェッタを使った、カルボナーラ。デザートはみんなにっこり、のカスタードプリンを作ります。応用コースではアメリカ、南部のお料理に挑戦。スパイスの利いたスープとピラフ。デザートには有名なピーカンナッツパイを作りましょう!
http://www.7juillet.com/kyousitu.html
プロフィール
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フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ
女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得 |
2015年3月 三ツ池だより 「風に立つライオンでありたい!」
Coffeeの看板に誘われてオムライスをたのんだ。ここは京都だけど、言葉が以外に普通の言葉だった。あたりまえなのかもしれない。お年寄りが一人来て、また一人ときて、楕円形の大きな10くらい椅子のあるテーブルに座った。運ばれたオムレツはメニューどおりの「とろとろふわふわのオムライス」でとても口当たりもよく、おいしかった。もちろん珈琲は正統なコクのある、それでいて、飲みやすく美味しく、ゆっくり味わいながら飲めた。 ここは京都「東寺」の駅を降りて、東寺に向かう中間くらいの道沿いのお店だった。
「いろは曼荼羅」に挑戦しているので、曼荼羅図といえば東寺なので、お参りに訪れたいと思っていたら、京都で計量の大会があり実現した。大日如来像に両の手を合わせ世の中の平安を祈り、薬師如来像に皆の幸せを祈った。
においやさしき
東寺の庭の赤い梅
吾いろはまんだらの
道を歩む
白い梅も咲き
赤い蕾も点在
黄金のような
黄緑色の梅の枝の蕾
ゆったりとした時間と
空間の遠くに
五重塔が
雲のまにまに浮かぶ
春の俳句をみてみます。
少しさみしすぎるかもしれない。
春の匂いといったらどんなものになるのだろう。
陽射しそのものが少し匂うようにもなりそうだ。
匂うようなといえば梅なのだろう。
満開の梅を眺めていると、なにか心の中にふつふつとわきでてくるものを感じる。長い冬を越えて、じっと培ってきたものを発揮するとき、いよいよこれからだとの思いだ。
様々にニュースが飛び込んでくる。
こんなにも世の中が荒んでいるのかと思うようなことの連続である。
あいかわらずの他国とくらべての自殺の多さもある。
日本は好い国だと言われているが、マザーテレサがいった言葉を思い出す。
「東京は貧しいところ。一人孤独で過ごしているひとのなんと多いことか。」
3月は卒業の月である。卒業とは新しい旅立ちだ。今の日本だからできることがある。日本は祈りの国である。祈ることをもっと大事にしたい。幼い頃、健やかな成長をいのられていなかったのだろうか? こうなりたい、こうなってほしいと思うことはなかったのだろうか。そんな余裕はなかったと言われるのだろうか。
子に対して祈ること
親に対して祈ること
社員に対して祈ること
会社に対して祈ること
他人の幸せを祈ること
自分の存在に目を向けて祈ること
それらを、口に出していくことが必要なのだ。
誰かが見ていてくれるだけでは足りないのでないか。
3月は卒業の時
卒業は新しい旅立ちの時
風にたつライオンのような指導者が求められる。
愛情があるからこそ突き落す行為のあり方が見直される。
「勇気こそ地の塩なれや梅真白」の句をもう一度味わってみるのも面白い。
塩は自然界で循環しているのですという話も聞いた。
必ずやどこかに起因、原因することある。
勇気をもって踏み出していくのだ。
Photos
(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)
(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
笑う門(第3回) 今、旧東海道がやっぱり(?)熱い!!
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合資会社 笑う門代表 山田浩和 PROLOGUE 連載に寄せてこんにちは! 1971年8月生まれ。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。 ヨコハマNOWでは、2011年6月号から3年半、私が事務局を努めさせていただいている「保土ヶ谷宿名物会」のコラムを書かせていただいていました。この度、新企画として、2015年1月より、(名物会も含め)前述のような私の業務や活動に関して書かせていただくことになりました。 |
保土ヶ谷宿でまち歩き、企画中です!
只今、『東海道保土ヶ谷宿』のまち歩きを企画中です。
と言っても、まだまだアイデア段階なのですが、改めて、保土ヶ谷宿名物会でまち歩きの企画ができないかを検討をしています。
旧東海道のまち歩きと言うと、旅行会社やガイドボランティアの方たちが地域の名所旧跡を案内してくださるのが一般的です。
なのですが、今回は名物会での企画ということで、何かしら新しい切り口を見つけられないものか模索しているところです。
前述の通り、「歴史」や「名所旧跡」というのは当然なのですが、名物会として行うからには、保土ヶ谷宿名物会の各店をはじめ、旧東海道沿い、あるいは周辺の名店を知っていただける機会を創れればと思います。
また、保土ヶ谷は坂の多いまちです。
そして、東海道保土ヶ谷宿には、江戸を経って最初の難所と言われた権太坂があります。
この、誰もができれば避けて通りたい<登り坂>をイベントのキーアイテムにできないかと考えています。
他には、どこのまちにでも古くから語り継がれている民話や言い伝えがあると思いますが、保土ヶ谷宿にも「権太坂」「外川神社」「境木地蔵」など、たくさんの民話や言い伝えが残されています。この財産はぜひ、活かしたいところです。 その他、参加者が歩いてまちを案内してもらうだけでなく、宝探しのような「ゲーム性」を採り入れて、楽しみながら地域の魅力に触れていただく方法も考えています。 |
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いずれにしても、現時点では断片的なアイデアが「点」で散らばっている状態ですので、引き続き、検討を進めたいと思います。
旧東海道ウォーキングイベント『東海道かもン!』
前述の通り、保土ヶ谷宿のまち歩きのアイデアを考えいる最中、神奈川県の情報企画課というところからご連絡をいただきました。
奇しくも、神奈川県も旧東海道のウォークイベントを企画しており、しかも、開催期間はヨコハマNOW3月号が発行される3月10~25日とのこと。
神奈川県内の旧東海道、川崎―箱根間80.3kmで、スマホにスタンプポイントを貯めながら元気に歩こう、という企画とのこと。
ウォーキングには、参加申し込みの手続きは不要で、県のホームページから専用アプリを自分のスマホへダウンロードするだけ。
あとは開催期間中に旧東海道を任意で歩き、スタンプのポイントでQRコードなどが付いているPOPスタンドにスマホをかざし、ポイントを取得できるとのこと。
ポイントを集め、画面から申し込みをすると、抽選でプレゼントが当たるそうです。
今回の企画は、身近な地域資源を知ってもらうことや、歩くことを習慣化すること、そして、現在注目されている「オープンデータ」(行政が持っている各種のデータを業者や市民が活用する)のサイクルづくりを目的としたもので、現時点では実験的な要素が強いものの、今後も引き続きブラッシュアップしていくとのこと。
ご興味ある方はぜひ、アプリをダウンロードしてウォーキングにご参加ください。
詳しくは、下記URLをご参照ください。
旧東海道ウォーキングイベント『東海道かもン!』
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f531600/
合資会社 笑う門
〒240-0006 横浜市保土ヶ谷区星川3-7-22田中ビル2F
TEL.045-333-3068 FAX.045-333-3068
E-mail yamada@hesochiku.com
Websie http://www.warau-kado.com/
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第24回)
大浦総合研究所 代表/大浦勇三
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第24回)
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
- 梁塵秘抄 -
プロの将棋棋士と将棋ソフトが対戦する“将棋電王戦”は今年が最後。来年からはプロ棋士と将棋ソフトが組んで対戦する“電王戦タッグマッチ”へ。プロ棋士も将棋ソフトから学ぶことが多くなり、人工知能を敵ではなくパートナーと位置付ける狙いのようです。最近“2045年問題”が話題になり、2045年には1台1000ドル(約12万円)程度のPCの情報処理能力が全人類の能力を超えるとの予測も。人工知能が人間の意思を介さずに仕事をしたり、自らを超える人工知能をつくり出したりする時代の予感。トヨタ生産方式の生みの親である大野耐一先生の教えは“人間の知能を尊重し、創造性を高め、良い製品をつくる。人間の思考力、発想力を最大限活かす“というものです。ただ、今後はその中に”人工知能との連携“を暗黙の前提に置く必要があるかもしれません。しかし、登山では途中まで舗装道路で突っ走れても、頂上に近いところは石ころだらけのはずで、モノマネでなく自力突破の世界。この砂利道こそが人智の腕の見せどころ。“やりたいこと”“やれること”“やるべきこと”の自問自答の繰り返し。梁塵秘抄では“太子の身投げし夕暮れに、衣はかけてき竹の葉に 王子の宮を出でしより、沓はあれども主もなし”とあります。釈迦の前身である王子が衣服を脱ぎ、虎の棲む谷間に身を投げて飢えた虎を救うという話。“人間のもつ仏心”が人工知能と組む上での切り札かも。
“遊びをせんとや生れけん” 「遊」
経済は縮小均衡 生活の質を下げなくとも、幸福は追求できる
世界は文明間の挑戦と応戦 お互いに鍛えあいながら進化する
地球上の不安定を嘆かない 進化を生み出す独創の前提と置く
“石器時代は石がなくなったから終わったのではない。青銅器・鉄器など、石器に代わるイノベーションが生まれたから終わったのだ。石油も同じだ”とサウジ元石油相ヤマニ。石油に代わるイノベーションの萌芽は、少しずつですが観察されるようになってきました。一人ひとりが独自の幸福・充実や覚悟の尺度をもつ時代がきたようです。歴史を振り返れば、障害がなく食糧・資金の欠乏もない時代などほんの僅か。不確実・不安定を象徴する相場の世界の極意は“判断”と“実行力”の合致にあるとか。種々雑多な情報を集約して売り・買いの判断を下す最大のポイントは“大局観”。目先観を排除し、大局観から判断を出したら間髪を入れず実行に移すこと。ぐずぐずしていると、どんな立派な判断も宝の持ち腐れということですかね。 “幸運は待つ人のところに来るかもしれないが、エネルギッシュに行動する人の残り物だけだ”とアブラハム・リンカーン。
“仕事をせんとや生れけん” 「献」
うまいと強いとは異質 アマはうまくプロは強い
関係性を維持しながらも 心を込めすぎないこと
均質化圧力を排除 真・善・美と習慣、とカント
難解この上ないカントの思想は“批判哲学”と呼ばれますが、批判は哲学のための準備・予備であり、批判の上に真の“形而上学としての哲学”が築かれると考えていたようです。馬具職人の四男坊として生まれ、研究のために家庭教師をして生計をたてた時期もある苦労人。“形而上学としての哲学”こそ、実はイノベーションの原点。技術は教えられても、それを乗り越える術は教えられず、自分で見つけるしかないもの。“習慣”への信頼が篤く、人間らしい習慣こそが危機・難関の突破口になるとの確信。常時予期しておくこともまた習慣のなせるワザかも。“最大限(やり放題)と最小限(極限まで切り詰めたもの)を稽古しておいて、本番の舞台はその中間をやる”と歌舞伎役者・坂東玉三郎。人間・芸事の世界では想定外のことが何時起きるかわからないことへの対応。 “冬の木々はすべての虚飾をはぎとられて本来の思想だけで立っている”と作家・藤沢周平。
“学びをせんとや生れけん” 「学」
相手に届く表現を工夫し続ければ、コンセプトは自ずと熟成していく
文化風土を無視し、情報だけがそれを飛び越えて行き来すると危ない
懐徳堂、浪花商人の学校 商売の技でなく人間観・道徳観を敲き込む
江戸時代の教育は、制度・インフラが貧弱で劣悪でしたが“人間として社会に出てやっていけるようにする”ことにおいては、非常にすぐれていたようです。まさに“文字”と“非文字(人間として一人前にする)”を併せた教育の理想形。懐徳堂も浪花商人の学校ながら、商売の技でなく人間観・道徳観を敲き込む場との位置付け。学ぶことの最大の成果は“自力で脱皮していけること・世の中の景色が変わって見えること”。文化風土は人間にとって根底にある基盤、これを度外視したコミュニケーションは不安定で危険。宮大工の世界では“研ぎ”はすべての基本で、よく切れる刃物を手にすれば誰でもいい仕事ができること。だからこそ“研ぐべきものを持つ”ことが大切であるとの教え。 画家・モネは代表作“睡蓮”を描く頃、白内障で目が見えなくなっており、それゆえに“目が見えていれば見えなかったものを描くことができた(心眼)”と画家・堂本尚郎。
「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」
今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(十)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。
「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/
(第24回了)
大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール
大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/) 石川県七尾市出身。 筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。 主な著作物:
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21世紀は歓声とともに幕を開けた。誰もが新しい時代の訪れに心から祝福した。少しでも早く平和と希望に満ちた未来に進みたいから、20世紀は過去の遺物として記憶の外に放り出した。そして、もう過去には戻らないぞ、二度と争いは繰り返さないぞ、と人類は誓いを立てたのだ。それは、たった15年前のことである。 しかし、9・11アメリカ同時多発テロの発生で夢は破れ、新世紀幕開けの喜びは長続きしなかった。 本書は、題名からも推察できるように、現代の混迷した時代は1979年に起源があると仮定したした歴史物語である。1979年は現在の世界を取り巻くパズルの台座だという。それは、誰も予見できななった事だったと説明する。1979年に台頭した「21世紀を方向づけた反逆者たち」のとった行動が現代に何をもたらしたのかを知る事は、これからの未来を生きる知恵に多くの栄養分を含んだ糧であるし、「温故知新」の書としてお勧めする。 |
以下に、「あとがき」の文章をいつくか引用することで本書の紹介としたい。
歴史はつかみどころがない。様々な出来事に出くわす度に、私たちはそれを前例というプリズムを通して解釈し、同じ行動が繰り返されることはないと気づいて目を見張る。私たちは「過去の教訓」について自信ありげに語る。まるでこの世の混沌としたありさまが、秩序正しく整理されるかのように、、、
1970年代の終わりほど、未来を予見できない時期はなかった、、、、
本書は、アメリカのジャーナリスト、クリスチャン・カリル氏の邦訳である。「1979年と21世紀の始まり」という副題が示す通り、本書は「1979年」をめぐる物語である。この年、遠く離れた場所で無関係に生じたようにみえる様々な出来事が、実は21世紀の現代に大きな影響を与えていること、現在の世界情勢や世界が抱える問題は1979年に端を発していることを、ジャーナリストならではの視点で生き生きと描き出している、、、
1979年を振り返ってみると、1月には米中の国交が樹立、2月にはホメイニーが亡命先のフランスからイランに帰国、4月にイスラム共和国の樹立が宣言された。言うまでもなくイスラム教はその後の世界に大きな影響を及ぼしている。5月には、イギリスでサッチャーが首相に就任、新自由主義的経済政策を推進した。6月にはヨハネ・パウロ二世が祖国ポーランドを訪問。この訪問は東欧の人々に大きな影響を与え、非暴力の抵抗運動はやがて共産主義体制の崩壊をもたらす。11月にはテヘランでアメリカ大使館占拠事件が起こった。12月にはアフガニスタンでソ連の軍事介入によるクーデターが勃発した。中国ではこの年、鄧小平が経済改革に着手し、7月には経済特区が設置された。中国はいまや経済大国と呼ばれるまでに発展している。つまり1979年は、社会主義の終焉、市場経済の台頭、宗教の政治化が始まった年だった、、、
一方、1979年にアメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン アメリカへの教訓』が刊行された。日本がなぜ、第二次世界大戦後に驚異的な経済復興を遂げたのかを研究した名著である。副題が示すように、ヴォーゲルは日本企業の目覚ましい成功の分析を通して、アメリカの読者に教訓を与えたいと考えていた。この頃、アメリカ人は長引く不況に苦しみ、自信を失っていた。過去100年の間、日本は欧米の先進国に追いつこうと懸命に努力してきたが、いまや立場は逆転したかに見えた、、、
ヴォーゲルが日本を「ナンバーワン」と称えた1979年は、世界経済の序列にやがてもたらされる劇的な変化の始まりの年でもあった、、、
(文:辰巳 隆昭)
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書評 「風に立つライオン」 幻冬舎文庫 さだまさし 著
さだまさしさんの「風に立つライオン」の曲を聞いたのはもう20年ほど前になる。曲の詞の一部を書き出してみる。
「空を切り裂いて落下する滝のように
僕はよどみない生命を生きたい
キリマンジャロの白い雪それを支える紺碧の空
風に向かって立つライオンでありたい」
「この偉大な自然の中で病と向かい合えば
神様についてヒトについて考えるものですね
やはり僕たちの国は残念だけど
何か大切な処で道を間違えたようですね」
「診療所に集まる人々は病気だけど
少なくとも心は僕より健康なのですよ
僕はやはり来てよかったと思っています
辛くないと言えば嘘になるけどしあわせです」
さださんはこの楽曲 “風に立つライオン” をもとに小説にされた。同楽曲はケニアの長崎大学熱帯医学研究所に赴任し、国際医療ボランティア活動に従事した実在の医師に聞いた話に触発されて作られた。裏表紙には次のように書かれている「1988年、恋人を長崎に残し、ケニアの戦傷病院で働く日本医師・航一郎。“オッケー、ダイジョブ”が口癖の彼のもとへ、少年兵・ンドゥングが担ぎ込まれた。二人は特別な絆で結ばれるが、ある日、航一郎は・・・。」 成長したンドゥングは航一郎から渡された “心” のバトンを手に2011年3月に被災地石巻に立つ。「日本の神様のことは難しくてわかりませんが、大昔、天皇家の先祖の為に戦った神様とその子どもとが祀っておるそうです。この境内には、あの日には、とても沢山の人が避難してきました。 |
水はすぐ近くまでおしよせましたが、境内は無事だったそうです。それ以来、毎日かなり大勢の人たちがここへやってくるようです。そうして自分が失ったもの、大切な故郷の変わり果てた姿を眺め、生き残った幸せと不幸とを秤にかけては、涙ぐんでため息をつくのです。」「僕はケニアから来ました。職業は医師です、と説明した途端、茶店の奥さんがなんだかとても感激して、三色団子という名物をごちそうしてくれました。その上、いくら言っても炊き出しだからとお金を受け取ってくれなかったのです。」さださんは映画に向けての小説にするについて、なんども途中で筆を止めようとしたようです。そのさなかの東北大震災でした。
「笑顔は世界共通のガンバレですね。ガンバレ! 僕は海に向かってもう一度叫ぶと、周囲の日本人は今度は驚きませんでした。むしろこの奇妙な異邦人に温かな親近感を示すようなまなざしになって、ゆっくりと僕のまわりに集まってきました。ガンバレ! と小さな子供の一人が叫びます。ガンバレ! またほかの誰かが叫びます。みんなで言いましょう。僕は子どもたちと手を繋ぎ、海に向かって大声でもう一度ガンバレと叫びました。」ガンバレは航一郎がケニアでよく使った言葉なのです。
日本での病院における勤務医の厳しさは大変なのだという。びっくりするほどの激務とプレシャーに加えて、報われない報酬に虚しさや不安があるという。「ある意味、患者の側にも責任はあるよ。なにかっつうと医療事故だ訴訟だ賠償だって言われたら、若い医者がのびのびと良い医者に育つのは大変だ。大学なんかの医局にずっといたら、なんとはなしに出世しなきゃ駄目なヤツと思われるんじゃないか、ってな恐怖心が芽生えるヤツもいる。いや、くだらなくなんかないんだよ。中にいれば中しか見えないから当たり前じゃないか。航一郎はだから、別の生き物さ。」
いろんな関係者の回顧という形で物語は展開する。赤十字ロビディング戦傷外科病院元院長のところで次のような描写がある。「夕刻になって思いがけない脚があった子どもばかり数人の怪我人が、国境辺りからトラックの荷台に乗せられて搬送されてきたのだった。少年たちはみな地雷によって足を損傷していた。しかもほとんどの少年がどちらかの片足をうしなうほどの大けがをしている。私のようにあそこに長くいると、傷を見ただけで紛争地帯で一体何がおこなわれているのか、想像することができた。その少年達は無常にも実験動物のように、兵士たちの前を一列になって地雷原を歩かされたに違いない。あの辺りの戦場で、子供達を地雷のスウィパーとして使うのは特別なことではなかった。」「六人の子どもが運ばれてきたが、ほとんどは直接地雷を踏んでいないか、まじかの地雷の破裂に巻き込まれた子ども、あるいは踏み方が幸いした、という悲しい意味で運のよかった子どもたちなのだ。なぜなら地雷の信管を真上から踏んだ子どもは爆発によって兵士の変わりにほとんど死んでしまったにちがいないのだ。」
航一郎から渡された “心” のバトンを手に「姓はンドゥング。名はコイチロ。ケニア一の日本人」は被災地での活動を開始する。「年老いた母を失い、妻を失い、子どもと孫を失い、家も財産のすべてを失って、たった一人になってしまい、ようやく死なずに生きて狭い仮設住宅に入った初老の男性を襲う、全く悪意など介在しない、純粋に善意で発せられる“がんばってください”がそうです。一体彼はこれ以上、何をがんばればよいのでしょうか。何気なく頭上から投げ落とされる善意の一言こそ、悲しい刃が潜むことに僕は気づかされました。」
「なぜなら僕は医師です。」とコイチロはいい、「だからこそ、彼はあの危険な国境の寒村の集落へ出掛けていき、そこで姿を消した。その集落に住む老婦人が持ってきたトウモロコシの種子は、僕にとって航一郎の大切な大切な遺産なのです。」
終章で航一郎と一緒にケニヤで活動してきた和歌子がンドゥングに2011年夏にメールをする場面になる。「トウモロコシは石巻と、福島と長崎とで育つことになるのね。それは航一郎が一番喜んでいると思います。あなたはたった一人で日本へ行き、この国にいるときよりもたくさんの友達に出会ったようですね。日和山から海に向かってみんなが叫ぶ“ガンバレ!”の声は私にも届きましたよ。あなたは本当に航一郎がすきだったのね。でもきっと、あなたよりも私の方が航一郎のことが好きだと思うわよ。それだけは他の何よりも自信があるわ。」そして「今でも航一郎がふらりと帰ってきそうな気がするのですよ。あ、ちっと寝過ごしちって・・。」
久しぶりに感動で体が打ち震える。名曲から生まれた感動小説が待望の映画化される。
(文:横須賀 健治)
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横浜宝石物語(第5回) 二代目の父(馬車道の大島宝飾店)
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横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子 PROLOGUE 連載に寄せて私は横浜でおそらく一番古い宝石商の三代目です。 創業者の祖父、二代目の父、三代目の私とそれぞれの時代で宝石商としての形態は違っていますが、良い宝石を選び、作りの良いジュエリーを製作して、ご提供するということについては、3人とも拘ってやってきたと思います。 祖父が宝石の製造メーカーとして地位を築き、父が小売店として皆様に愛されたからこそ、今、私が宝石商としてやっていられますので、いつか祖父のこと、父のことを書いてみたいと思っていました。 |
この度、横浜宝石物語の連載のお話を頂きましたので、念願が叶い、とても嬉しいです。横浜の歴史も交えながら、祖父、父、私の宝石物語を綴っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
宝石商の三代目私は現在、横浜の馬車道で「横濱宝石美術館エメラ」という宝石店をしております。 横浜の景色や思い出をジュエリーにした「横浜ジュエリー」などオリジナルジュエリーの製作と販売、デザイナーやアーティストの作品の展示販売、お客様のご要望をかたちにするリフォームやオーダージュエリーのご注文を承っています。 私の宝石商のルーツである創業者の祖父のことからお話しさせて頂きたいと思います。 二代目の父(馬車道の大島宝飾店)戦後、伊勢佐木町の松屋デパートさんに問屋として店を出していましたが、デパートの影響下でなく、自由に小売店をやりたいという気持ちが父に芽生えたようです。 戦後の復興住宅として神奈川県住宅公社が馬車道の地権者9名と共同でビルを建てる計画が持ち上がり、父は人から頼まれて、馬車道の土地を購入し、一緒に共同ビルを建てることになりました。 戦後約10年に渡り、横浜市の中心地は米軍に接収されました。接収解除になったといえ、馬車道付近はまだ焼け野原のままで関内牧場と言われたそうです。 そこで、都市部の火災延焼を防ぐために防火帯建築の建物が多く作られたそうですが、父が共同で建てた馬車道商栄ビルも防火帯建築です。 そして、昭和30年に馬車道商栄ビルは竣工し、今、馬車道にある横濱宝石美術館エメラのある場所に父は「大島宝飾店」という初めての宝石の小売専門をオープンしました。 当時としてはモダンな店で、父が今でも「大理石と一枚ガラスのショーウィンドーで作った」と自慢します。 日活の映画にも何度か店が撮影に使われたそうです。 「大島宝飾店」は父が常駐していましたので、お得意様が伊勢佐木町の松屋デパートでなく、馬車道の店に来てしまう為、松屋デパートさんや祖父から苦情が来たようで、わずか2年足らずで閉めてしまいました。 昭和34年に公開された小林旭さん主演の日活映画「二階堂卓也 銀座無頼帖 銀座旋風児」の中に大島宝飾店が登場します。 銀座風雲児と書いて、マイトガイと読むこの映画はマイトガイシリーズの第一作です。 父は当時、仕事が忙しく、芦田伸介さんが店に来たということをロケに立会った祖母から聞いて、それだけは覚えていたのですが、題名も誰が主演の映画かもわからず、幻の映画になっていました。 ところが、店の情報誌「馬車道エメラ通信」にそのことを書いたところ、お客様が探して下さり、この映画でないか?とDVDを送って下さいました。 DVDを観たところ、確かに芦田伸介さんが店から出てきた場面に「大島宝飾店」が映っていました。 そして、「店の外壁は緑の大理石で、入り口には扉がなく、階段は今と向きが違う」など、実際にカラーの映像で大島宝飾店を見られて、本当に嬉しかったです。 父も懐かしい映像を見られて感無量だったようです。 【今月のエメラのジュエリー】 (クリックで拡大画像) |
(クリックで拡大画像)
(写真提供:大島貴子) |
(横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子)
横濱宝石美術館エメラ
〒231-0011 横浜市中区太田町5-61 馬車道商栄ビル1階
TEL.045-681-0603 FAX.045-228-9828
Websie http://emera-yokohama.jp/
第30回 千葉大学医学部記念講堂
栗原正明建築設計室 一級建築士事務所
代表 栗原正明
千葉大学医学部記念講堂
昨年末、千葉大学医学部記念講堂を訪れた。
以前自分が勤めていた槇総合計画事務所が設計し、1963年に出来た建物で、昨年大掛かりな改修が行われた。
同じ設計事務所が50年を経て新築と改修の両方を手掛けた事になる。
建物全体の大きさや構成は新築時のまま、使われ方や設備的な要求の変化に合わせて内部を変更し、耐震性能の向上や材料劣化への対応なども行われている。
それに必要だった労力と意義は、新築時のそれに劣らず大きいのではないかと思う。
一方で建築的な空間体験からすると、止むを得ない事とは言え、新築時に有った連続性や流動性、透明感は相当損なわれてしまったのだろうと想像される。
今自分が改修に関わる仕事をしている事も有って、色々と考えさせられる貴重な機会となった。
「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
AA STUDIO ナビゲートサービス
中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談 無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案 ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
北島 俊嗣 | http://kitajima-architecture-design.com |
久保田 恵子 | http://studio5st.com |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
高橋 正彦 | http://www.takahashi-arch.com |
廣田 裕一 | |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
古川 達也 | http://furukawa-arch.com/ |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
山田 慎一郎 | http://www.yamadastudio.com/ |
ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第33回 第6章 社会人編 5
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HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
横浜、街と風(社会人編) 19(34)
Z
仕事にも慣れ収入もそこそこ安定してきた頃2人乗りのフェアレディZを新車で購入。当時は雑誌ポパイなどの影響で巷はアメ車がブーム! 友人のK君なども80万円で買ったギブソンレスポール ’58年のゴールドトップを売り飛ばしカマロを購入。美人の彼女をゲットしていました。(レスポール ’58年オールド、今持っていてら500万円位はするでしょう) そんな周りの空気もあり最初は憧れのムスタングのマッハワンを買おうと中古車屋に行きました。試乗してみるとあまりのノリ心地の悪さにビックリ。後ろの窓は小さくて視界が悪い。しかも燃費はリッター1キロか2キロしか走らない。外車で中古は壊れたらパーツも高くて大変。でもカッコイイから欲しいなと悩んでいたら兄に国産にしたらと諭されZを購入することにしました。しかし、Zもモデルチェンジ後のタイプで、本当は自分が欲しかったZはコンパクトで流れるようなコルベット・スティングレイのような流線型が美しい前のタイプ、ニューモデルは安定感はありますがスポーツタイプとしての魅力がイマイチだと思っていたからです。でもZはやはり名車でした。後から考えたらこれでよかったと思っています。
父
この頃父が保土ケ谷区の松原商店街の外れで小さい不動産屋をやっていた関係で、神奈川区の羽沢町に賃貸で信じられないくらい安い新築の物件を見つける事ができたので親子三人でそこに住んでいました。母が亡くなると父はだんだん物忘れが激しくなり車の事故が多くなり、危険を感じた我々兄弟は父に運転をやめるよう説得、しかし頑固な父は受け付けず兄弟結束して無理やり車を取り上げました。やがて不動産屋もできなくなりビルの管理などをしていましたがある日脳梗塞で倒れて半身が不自由になってしまいました。この頃兄は勤めていた保険会社の特殊制度で半年間の海外研修に行ける試験に異例の若さで見事合格、渡航を控えていたので親戚の勧めもあり父をリハビリの施設のある病院に預ける事にしました。
やがて兄は渡航、父もリハビリの効果もあって杖があれば一人で歩けるようになってきました。しかしこの頃になると父のボケはかなり激しくなって行き、まともな会話はほとんどできなくなっていました。
ある日見舞いに行くと父がしっかりとした口調で兄貴はアメリカでしっかりやっているのかと言います。私はびっくりしてこれは回復してきたのかなと思い、もしかしたら退院できるようになるかも知れないと思いました。そんな翌日か翌々日病院から連絡があり駆けつけるとすでに危篤状態でした。やがて静かに息を引き取った父。最後に会った時はまるでロウソクが燃え尽きる時一瞬燃え上がるように最後の瞬間に少しだけ神様が記憶を取り戻したのかもしれません。
今となっては父が倒れる前、旅行好きだった父が日光に行きたいと言ったので、買ったばかりの二人乗りのZに父を乗せ、二泊三日位で日光に連れて行ったのが最後の親孝行になってしまいました。母の死からわずか5年、昭和57年父は70年間の人生を閉じました。偉大だった祖母の莫大な遺産も何も残してくれなかった父、ワンマンな性格でかなり周りには迷惑をかけたかもしれませんが、母の闘病生活で僕たちに見せてくれた母への愛は本物でした。これは私にとってかけがえのない遺産です。
ファルセットボイス(ブラック編1)
ブラックミュージックのファルセットに一番最初にハマったのは高校生の時アースウインド&ファイヤーの『宇宙のファンタジー』を初めて聞いた時です。それからディスコに行くようになると、スタイリスティックスなどのソウルコーラスグループに興味を持つようになりました。彼らはファルセットのみで一曲リードボーカルを歌い、70年代にはスイートソウルミュージックとして一つのスタイルを確率していきました。
まず黒人のファルセットを語るにはその歴史から行きましょう。
50年代は人種差別も激しく、都会の音楽好きな黒人たちはみんな貧しく楽器を買う金もありません。そこで街角に集まった若者達は声だけで音楽を奏でました。アカペラというやつですね。一番低音の出る人がベースを担当ボンボンと声を出すと、後の3人がアーっとドミソと和音を分担、そこに花形リードボーカルが乗るとストリートシンフォニーが誕生します。やがてドゥワップと呼ばれ数多くのグループが出現しました。(ドゥワップ好きの山下達郎さんがオンザストリートコーナーと言うアカペラの名盤を3枚出しています、おすすめです)
コーラスのハイパートには裏声が使用されます。黒人さんの裏声文化はそこから発展していったのかと思われます。彼らの喉は基本的に強靭で自在に動くことが出来、広い音域を持っています。表声は基本的にハスキーで強い響きを持っています。ともすると強すぎてアクが強いイメージにもなります。しかしそのアクの裏返しでしょうか、ファルセットは逆に甘美な響きを持っていますこの対比がたまらないのです。
’50年代初めザ・クロウズというグループが『ジー』というヒットを出したのが最初という説が有力で、やがてドゥワップの世界にもキャデラックスやムーングロウズといったスターが誕生。初めはブラックミュージックとして始まったものが、やがて白人の若者達がその曲をカバーしたりして浸透していき、50年代終わり頃にはホワイトドゥワップとして確率していきます。
’50年代でも艶やかな声のプラターズなどは白人層にも受け入れられたようですが、まだまだ人種音楽の壁は超えられません、その殻を破ったのがモータウンレコード。最初に出てきたのがスモーキーロビンソンとミラクルズで、スイートソウルの初めと言われるのが『ウーベイビーベイビー』というスローバラードでした。スモーキーのまるで地声とファルセットの境がないようなソフトヴォイス、そしてそれを包むようなメジャーセブンス系のコーラス。しかもそのほとんどがスモーキーの自作曲でした。(マイ・ガール、ゲットレディも彼の作曲です)
(続きは次号へ)
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL DATAMAP
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
朝ぼらけ 宇冶の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木
♪ 朝ぼらけ 宇冶の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 ♪
絵・千絵崇石 |
読み人:権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより) 現代語訳・・・ほのぼのと冬の朝が明ける 宇冶の川面に霧がただよい 風が吹く度に見え隠れしながら表れてくる 網代木 まるで墨絵の様だ。 権中納言定頼とは、藤原定頼の事で彼のお父さんは先月紹介した「三船の才」と言われた藤原公任。息子の定頼さん、父親にも劣らず素晴らしい歌を残しています。和歌うたを通して色んな文献を読んでゆくうちに、傑出した才能を生み出す血筋というものが在るのだなとつくづく感じることがあります。きっとその生まれた環境にも大きく影響されるのだと思いますが、現在出版されている百人一首を解説されている様々な方の文献を読んでも、この歌は幻想的な美しさが漂って百人一首の中でも秀作と評されている作品です。 |
私にとってもこの歌は前から気になっていた歌でした。読むと必ず繊細なVisionが浮かびます。作り手は知的できっとハンサムに違いない・・と勝手に想像していました。
でも残念ながら私が彼の事を知ったのはこの歌からではありません。百人一首では60番の作者小式部内侍をからかった男性としてでした。小式部内侍は和泉式部の娘さんです。
大きな歌会を数日後に控えた小式部内侍に対して「まだ・・お母さんから、代作のうたは届いていませんか」とからかって、彼女から 「大江山 生野の道の 遠ければ未だ 文も見ず 天の橋立」と即座に返されて、何も言えずにそそくさと逃げ帰った男性です。(詳しくはヨコハマナウ2011年6月10日号を) 小式部内侍のエピソード中の軽薄男と、この歌の美しさが私の中では繋がることが出来なくて最近まで同人物だとは知りませんでした。
でも同人物だと知ったとたん、 「そうか! 彼も自分の親の栄光に、彼なりに複雑なプレッシャーを感じていたのね 」 もしかしたら子供の頃自分が歌会で歌を披露する時に、彼自身が同じ様に周りの人達からからかわれていたのではないかしら? そんな屈折した感情が、同じように親が有名な歌詠みでその上自分が男性としてもちょっと気になる小式部内侍に対して噴出してしまった。
そう思ったら、俄然 藤原定頼という歌人が私の中でリアリティのある人間として蘇ってきました。「三船の才」という諺? まで生んだ自分の父親への尊敬とコンプレックスは彼の人格形成に大きな影響を与えているはずです。サラブレッドの家に生まれる事はそれだけで優越意識を持ちますが、自分の卑小さを心の奥では分かっていて其の不安感を克服し、消化して独自の才能を開花させてゆくプロセスはそれなりに大変だったと思います。
小式部内侍も今回の中納言定頼も歌人としてスーパースターの親を持ちその中で比較され、話題にされ、本人達はそれらを乗り越えて共に素晴らしい歌を残しました。その歌人としての証が約800年を経て今でも読み継がれている百人一首に親子ともども残されているのは感慨深いものがあります。
最後に定頼が子供の頃に大い川での歌がきに出席して歌を詠んだ時のエピソードを。
父親は自分の息子がどんな歌を作るのか心配で、内心冷や汗をかいて待っていました。
定頼の番が来て最初の句が読み上げられます。
♪ 水もなく 見え渡るかな おおいがわ ♪
目の前には満々たる大い川があり、それを水もなくとは・・・なんと手際の悪いことよ・・一体どういうつもりだろうと父親はがっくりと胸がつぶれる思いでした。そして下の句がよみあげられます。
♪ 峰のもみじは 雨と降れども ♪
どっと歓声が上がりました。周りの大人たちが拍手喝さいする中、父親の藤原公任は顔をくしゃくしゃにして喜んだという事です。
名家に生まれた子供も大変だけど、親もそれなりに心労があるようです。
(早苗ネネ♪)
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
「頭の中で考えていたことが、形となって世に出て人の役に立つ・・・そう言ったクリエイティブなことに関わるのが楽しいです。」 バブル絶頂期のアパレル業界で活躍し、そこで培った人脈を大いに活用し、新しいビジネスを起業し成功している丹羽英雄さんに新ビジネスについて伺いました。
株式会社カーケアセンター 代表取締役 丹羽英雄さん |
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経営のセンスはこうして磨かれました
丹羽 僕は1942年に大阪で生まれました。大阪で服飾デザインの専門学校を出て、東京の人形町にあるアパレル関連の会社に勤めました。
東京住いが長かったです。
僕の原点はアパレルにあると思っています。
担当は営業と企画でした。営業では素材を扱う会社、デザインをする会社、縫製をする会社、町工場・・・いろいろな場所に入っていくことが出来ました。
企画はブランディング力です。これは良いと思った素材(ファブリックマテリアル)をどう世の中に生み出していくかをメーカーやデザイナーと話し合い、ロゴマークやブランド名を決めて形にしていく、こういったクリエイティブな仕事が好きでしたね。
僕の経営のセンスは、アパレル業界で磨かれたと言ってもいいです。
26才で起業しました
丹羽 世界中を回りました。フランス・イタリア・アメリカ・・・当時、世界の流行はパリ、ミラノ、ニューヨークから発信されていました。縫製は技術力のある日本はもとより、工賃の安い中国や東南アジアが主流でした。
出来あがった製品の販売路も開拓しなければなりません。世界を股にかけ、売買に奔走する、まるで商社のようでした。
時代はバブルの絶頂期を過ぎたころです。しかし、当時はそうは思わなかった。好景気はまだまだ続くと思われていましたから、大手メーカーにも勢いがありました。外部へ委託する仕事が多く、その受け皿が求められていました。26才で独立できたのも、ブランディングの企画で信用を得たこともあり、また当時の流れがOEM製造に力を入れ始めたことで、『クリエィティブディレクター』が求められていたからだと思います。
海外のヨットレースを見に行き、愛すべき小物たちと出合った
丹羽 欧米ではヨットレースが盛んに行われていてよく見に行きました。実は、僕もヨットマンでして、油壺にクルーザーを所有しています。羨ましいのは、欧米のハーバーにはヨットマンや家族のためのオシャレな施設が整い、お店にはオシャレな小物が並んでいて購買意欲を掻き立てます。そこで売られている素敵な小物を日本で売りたいと思いました。
1992年は日本チームが初めて「アメリカンスカップ」に「ニッポン・チャレンジ」として参加した時でした。大手食品メーカーの代表取締役が30社から30億円余りを集めて参加するに至ったと聞いています。某テレビ局がアメリカンスカップの放映権の取得に動いていました。実現はしなかったけれど、その時のプロデューサーと知り合いになりました。
公認ポスターのアーティストとも知りあうことが出来ました。ヨットが取り持つ縁で、「マリタイム」という名のインテリア雑貨店を三越、高島屋、そごう、京王デパート・・・そして横浜ランドマークタワーに出店することができました。そこではもちろんそのアーティストの絵を置くことができました。
人脈は人財だと思いました。人生で一番面白かったと思われる時代でした。
えくぼを直す技術を日本に
丹羽 アメリカの中西部ではピンポン玉やゴルフボール大の雹(ヒョウ)が降ることがあります。車は凹になってしまいます。叩いて直す板金塗装は、叩くことで塗装を痛めてしまい、再塗装をするため高額になってしまいます。だから頻繁には直せません。そこで、それとは違った技術がアメリカで生まれました。通称「デントリペア」と呼ばれております。正式名はペイントレスデントリペア(Paintless dent repair, PDR)です。道具を使って凹み(えくぼ)を修復する方法なので安価で済むのです。
仲間のヨットクルーが「えくぼが直せる技術がある」と日本に持って来たのですが、海外ほど普及しません。そこで、この技術を広めるためにも、洗車とデントリペアをやってやろうと思いました。
ビジネスとしてのブランディング化
丹羽 ビジネスとしてやるなら「良い所へ出る」「他の人が出さない所を探す」。。。そこで考えたのが「駐車場内でのビジネス」です。「車を駐めて仕事や買い物をしている間、映画を観ている間に車がキレイになる」という発想です。 そこで大型商業施設に出店することを考えました。横浜ランドマークタワー店が1号店となったのは、インテリア雑貨店での経営実績がかわれたからだと思います。 六本木ヒルズの時は4年がかりでした。ヒルズには1階の基礎工事の頃から通いました。ここでも「横浜ランドマークタワーの駐車場でビジネス展開をしている」ことが信用に繋がりました。もしも、ここが1号店だとしたら4年では済まなかったと思いますよ。良い場所で実績を積むことが大切だと実感しました。 西銀座駐車場は東京都の「都営駐車場」です。都営の駐車場が民間のビジネスに使えることが「新しい」と思いませんか? 駐車場で他の店を開くことは前例が無いのですから、パイオニアの精神を持って挑戦していかないとダメですね。 西銀座駐車場は地方都市に話を持って行くときに力になります。 東戸塚オーロラシティ店は女性客を意識してメニューを考えています。リーズナブルな金額のメニューを前に出し、時間も短くしています。お買いものやレッスンの間に手軽に利用できることをPRしています。 サービスに満足していただけたら、リピーターになり、そして固定客になります。ですから「サービスに満足していただくこと」がとても大事になります。 |
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汚れはどんな時代にもある
丹羽 洗車はお天気に左右されます。気象予報で雨ともなると「前日」も「当日」もお客様は激減します。梅雨や秋雨の季節になると売上は下がります。しかし、異常気象続きの日本ですから、アメリカ中西部のような「ひょう」が降ったり、ゲリラ豪雨で車体にキズがつくことがあります。
これからの花粉の季節、花粉は車体の塗装の中に入り込むのをご存知ですか? 火山灰や空気の汚染物質でも塗装が痛みます。
「好景気でも不景気でも、汚れはどんな時代にもある」と思います。ですから、洗車は無くならないですね。お天気に左右される分、晴れの日には洗車を楽しむ習慣が生まれるように頑張りたいですね。出張洗車とか、洗車の様子を見ながら「お茶する」カフェとか。。。発想はつきません(笑)
起業を目指す若者集まれ
丹羽 ビルの駐車場は地下が多くて日が当たりません。冬の水仕事はキツイです。夏は猛暑で駐車場は車の熱気でむせ返るような暑さになります。そんな環境で頑張っている社員には、もっともっと待遇を良くしてあげたい気持ちになります。その待遇の向上として考えているのが、社員の独立です。頑張れば頑張った分オーナーへの道が開けるのなら、頑張れると思います。
若い日の僕がそうだったように「起業させ利益を生み出すことができるように面倒を見る」ことが僕の社会への恩返しです。 あなたにとっての横浜とは丹羽 1号店は横浜ランドワークタワーの駐車場出口付近にあります。黄色い色が駐車場のランドマークになっています。 |
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手洗い洗車、ワックス、コーティング、ポリマーコーティングなど、駐車場で駐めてる間に、あなたの車を職人技で磨き上げ、驚きのすべすべピカピカに。
カーケアセンター店舗
Percussion World in Yokohama(パーカッションワールドヨコハマ)
イベント情報
開催日 | 2015年3月11日(水)・12日(木)・13日(金) |
時間 | 3/11・3/13 14:30~ 3/12 12:00~ |
会場 | ヨコハマ創造都市センター 1F・Hall/B1F・Space 横浜市中区本町6-50-1 みなとみらい線「馬車道駅」1b出口 [野毛・桜木町口(アイランドタワー連絡口)] JR・市営地下鉄「桜木町駅」徒歩5分 /「関内駅」徒歩7分 |
入場料 | 無 料 |
プログラム |
In The Dream / Griswold(日本初演) Simple Addition / Griswold(日本初演) Cuba / Tanner(日本初演) Rebana Loops / Pye 2011初演 Symphony of Palms / Hughes 2011初演 Catching Shadows Into The Air Oye Como Va Energico 他 |
出演者 |
伊藤野々花 / 越智祥恵 / 佐藤綾 / 遠田一雅 / 加藤玲恩 / 川口瑠奈 / 鈴木克大 高橋典子 / 田中早季 / 中島嘉徳 / 濱崎理絵 / 藤原耕 / 船橋広樹 / 松平珠美 松本彬菜 / 三浦一暢 / 三宅優 / 宮本知聡 / 八塚健太郎 / 八木友花里 他 Percussion World Member |
主催・問合せ | パーカッションワールド mail:jamt@aqua.ocn.ne.jp |
後援 | 国際芸術打楽器協会(PAS) 野中貿易㈱・㈱斎藤楽器製作所・㈱ヤナセ横浜港北支店 |
馬車道 Emera 通信 Vol.4 May 2014
想いはつながる・・・ボリビアの若者たちが来日します
2014年7月24日、研究会セミナー後の懇親会の酒宴で緑川さん(全日本製造業コマ大戦協会会長)の「ボリビアからはコマだけが来るんだよ・・」という一言。 それに「だったら選手を皆で募金して呼べばいいじゃない。」と応えたしまった「濱のおせっかいおばさん」を自称する私。 その場で「ボリビア・コマ基金」が誕生しました。それから「聞くも涙、語るも涙(?)」の笑ストーリーが始まったのです。 2015年2月15日、ついにボリビアの若者たちが横浜大さん橋ホールで開催される「全日本製造業コマ大戦世界大会」のステージに登場します。 あっという間の半年間でした。この募金を通じて、様々な方々と出会いました。 今回の募金のきっかけとなった平野さん(元JICAシニアボランティア)。平野さんは、ボリビアでコマ大戦を始めた方です。通算4年間ボリビアで職業指導をされました。その活動には本当に頭がさがります。草の根国際交流の見本となるような方です。ボリビアの若者たちが来日してから離日するまで・・ずっと一緒に過ごしてくださるそうです。 金城さん。弊社の大家さんであるヘリオス関内ビルのマネージャーに紹介された日系ボリビア人です。日本に来て30年。20人ものスタッフを束ねて建設業でがんばっていらっしゃいます。世界大会ではボリビア産の岩塩を「ヨコハマNOW」のブースで販売してくださいます。 尾形さん。故郷(秋田)の高校の後輩で、英語とスペイン語の通訳をされている才媛です。友人を通じて紹介されました。お会いした瞬間からまるで何十年も友人だった間柄になりました。尾形さんはスペイン語で書類を作ってくれたり、ボリビアにメールを出してくれました。ボリビアでのピザ申請には尾形さんのネットワークに助けられました。 そして・・・2回もボリビアイベントを企画してくださった横浜コミュニティデザインラボの酒井さん。ボリビアイベントのお料理を作ってくださった鶴見区でボリビア料理店「エスボスケ」のオーナーの知名さん。1月31日のイベントでフォルクローレ演奏のグループをコーディネートしてくださった大学先輩の大澤さん。故郷(秋田)の友人たち・・・仲間の温かさを改めて感じました。 まだまだたくさんの方々に、本当にお世話になりました。 おかげさまで、90万円を超える募金が集まりました。16歳のエリオスさんと27歳のロベルトさんが2月12日、日本にやってきます。 この場を借りて皆様に厚く御礼を申し上げます。想いはつながる・・彼らが日本に来て何を持って帰るのか・・それが今から楽しみです。 |
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※ボリビアの若者たちの歓迎会を「ヨコハマNOW」主催で2月13日(金)夜に横浜駅付近で行う予定です。参加ご希望の方は、「ヨコハマNOW」のcontactからご連絡ください。
★平野さんがボリビアで開催したコマ大戦についてのレポートはこちらでご覧ください。
「全日本コマ大戦南米初ボリビア大会開催」
http://www.city.joetsu.niigata.jp/…
浜じぃの横浜漫歩(第10回) 浜じぃのみなとみらい・汽車道
地下鉄「桜木町」を降りて、汽車道を赤レンガ倉庫方向に歩く。 私は数ある横浜の美しい景観の中でも、ここみなとみらい・汽車道は一、二位を争うといってもよい景観だと思う。 古来より日本人の美意識は、「雪月花」に代表されてきた。 道元禅師はこう言っている。 「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」。 また季節毎の自然物や天候でなく、時間帯に着目した美意識もある。 清少納言の「春はあけぼの(夜明け)。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて(早朝)」だ。 そして一方で、兼好法師は言う。 そして今日の汽車道は冬ではあるのに雪はない、がその代わり早めの時間の景色ということで何となく「もののあわれ」を個人的に感じてしまったのではないかというのが、結論である。 |
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『こんにゃく作りは冬の風物詩』
冬になると、ジュイエでは『こんにゃく』作りをします。 はい、もちろん作れますよー。 こんにゃくの原料は、ご存知の方も多いと思いますが『こんにゃく芋』です。こんにゃく芋の産地は、なんと言っても群馬県。他県を圧倒する生産量です。 |
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その、こんにゃく芋に約4倍のお水を加えて作ります。
市販のこんにゃくは、つるつるですが、手作りすると、ボコボコした質感になり、味の染みがいいんです。また、歯ごたえも、さくっと、したといいましょうか。かなり異なります。
食物繊維の多さや、コンニャクマンナンが水で膨れるため、腹持ちがいい、などは知られていますが、更に便秘解消、血糖値、コレステロール低下なども期待出来ます。また、大量の水分が含まれているため、低カロリー食品としても人気があります。
ご注意ください!こんにゃくづくり
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みんなで集まって、コンニャクづくり。 まずは、こんにゃく芋は、決して素手で触らないでください。 |
この点に十分注意をしたら、手作りを楽しみましょう。
いくつか作り方はありますが、比較的簡単な方法として、先にこんにゃく芋を蒸します。
それを水とともにミキサーにかけ、最後に石灰を加えます。
バットなどに入れると固まるため、好きな大きさにカットして、さらに茹でて行きます。
成形の際、手でちぎって丸めれば、玉こんにゃく。
水を更に入れて、ゆるく作れば刺身こんにゃくにもなります。
田楽味噌や、柚味噌等でいただきましょう。よく合います。
出来あがったら、こんにゃくパーティー!
新鮮無農薬お野菜や玄米と一緒に楽しみます。
素朴だけど、最高に贅沢な食卓です。
こんにゃくレシピ
手作りこんにゃく
コンニャクイモ:500g
水:2リットル
石灰:小さじ1 1/2
- 手袋をして、コンニャクイモを洗い、芽と赤いところはしっかりとる。
残っていると、いがいがする原因になる。 - 皮を剥く。
- 8等分くらいに切り、箸がすっと通るまで蒸す。(20~30分)
- 水はぬるま湯に沸かしておく。カップ1のこし、芋とともにミキサーにかける。
- 5~20分寝かせる。
- 残した湯を沸騰させ、石灰を溶かす。
- こんにゃくをかき混ぜながら,石灰を入れる。(なるべく手でかき混ぜる)
- 濡らしたバットにならし、切り分ける。
- 沸騰したお湯で30~40分茹でる。中心がかたくなれば出来上がり。
『味噌バンク、設立しました!』
ジュイエでは、味噌も仕込みます。今年で5年目くらいになるでしょうか。 |
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ただ、お味噌は仕込みまではいいのですが、発酵させるには少しコツがいります。カビをはやさないように温度管理などの世話をする必要があります。また、発酵させるのに少量は難しく、ある程度の量を作らねばなりません。
その為、造ったお味噌はお預かりしてジュイエが発酵のお世話をします。秋口、出来上がったお味噌をお渡しする。名付けて『味噌バンク』というシステムを考えました。
仕込み体験&出来上がりをゲット!楽ちんコースですね♪
2月の料理コースのご案内
私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。
2月のコース内容
受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。
基本のコースは、古典フレンチ『鴨のオレンジソース』です。レストランのお料理がご家庭でも!応用コースでは冬に美味しい大根とブリを使ってボリューム満点の前菜を作ります。
http://www.7juillet.com/kyousitu.html
プロフィール
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フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ
女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得 |
2015年2月 三ツ池だより 「あなたは誰に悼まれたいですか?」
雪が降った日があって、翌日はよく晴れわたった。春よ来い、早く来いと歌いはじめていた。
春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている
春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている
歌が口ずさめた。今さらという人、そんな歌知らないという人、様々だ。いつ雪がまた降るかも知れないが、野に出ると間違いなく若木が伸び始めている。そんな時に、ベランダで育てているえんどう豆が、順調に育ち、柵を超えて天に向かい始めている。いくつかの枝に花が咲いているが、数本には葉すらないので「あれ!」と感じていた。そんな時にむく鳥だろうか、えんどう豆の葉をむしりに来る場面にであった。
2月の俳句を見てみよう。
雪は地上を白無垢にしていく。汚れを消し去っていくようだ。そしてあっという間に重たい雪になっていく。
朝薄氷に日が射して光っている。寒さのなかにあっても緊張感を感じる。今日一日の幸せを祈るのだった。
節分を親子で迎えている。文化の伝承になっていく。歳を重ねるにつれ話題が、地域の事や生き方の事にかわっていくのだろうか。親から子への一方向から、行事を通して、話のキャッチボールが出来てくる。
新しい年をむかえて一か月になる。周りが見え始めていないだろうか。また、初心をすでにどこかにおいてきてはいないだろうか。
家の近所に理容室Cache(カッシェ)があって、予約していってきました。マスターは私の長男の同級生です。一寸おもったのですが、皆さんは店に入ってどんな挨拶をされているのでしょう。店長、床屋さん、マスター。呼び名を戸惑っていたので、マスターと話をしてみましたし、調べてもみました。ヨーロッパの散髪屋さんは以前外科医がやっていたのだといることが出てきました。そういわれてみると、肌に触れて毛を刈る事、道具が共通なのかなと思いました。そのせいで散髪屋さんにいくと赤と青と白の文様のサインポールが回転しています。赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表すそうです。その後散髪屋さんと外科医の仕事が分かれていくのです。
それではなぜ日本では床屋というのでしょう。江戸時代、散髪屋さんは許可制だった。そこで散髪屋さんがそう仕事場を増やすわけにもいかず、髪結さんが床店(移動できる小さなお店)で仕事をしていたので床屋といったと書かれています。今は床屋はシュチュワデスと同じような差別用語になっているようです。
文化の違いの中で髪の扱いも違っているのだろうとおもいますが、寒さのなかで帽子が手放せなくなってきたのは年のせいでしょうか?歳を感じるせいか、この時期に「悼む人」天童荒太著を読んだからからかも知れませんが「あなたは誰に悼まれたいですか?」ということが気になりだしました。
二月の俳句をみていたら、母の句が出てきました。煮物が出てくるとお袋を思い出します。してあげたことよりしてもらったことも思い出します。文章を書く機会が多くなって、思えば中学、高校時代での作文の書き方や本を読む習慣のきっかけがおふくろのお蔭だったようにおもいだされます。
雪割草が雪をかぶって咲き始める。それは何もないと思っていた所に思いがけず見ることが出来、夢のようだ。みんな夢でいったん切れる。みんなが夢をどう感じていたのかと問いかける間もなく、雪割草が咲いたのねと喜びを表現される作者の思いは小さな明りが灯ったようだ。
「悼む人」でいうと誰に悼まれたいかという視点と誰を悼んでいるか、誰を悼むかという視点でもあります。
寒い冬を超えて春が来る。花が咲くといったように。夏があって秋が来たように。今がただあるのではなく、昨日があって今日がある。今日があるから明日がある。誰もが忘れてしまった悼みを自分が出来る範囲で旅をしながら悼んでいくのは悼む人。「悼む」というのは日本の文化の根底にあることではないかとおもった。感謝する。ありがとうを言う。しっかりとした足取りが求められる二月を、意義あるものにしていきたい。
Photos
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(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
笑う門(第2回) 中学生が作ってくれました!
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合資会社 笑う門代表 山田浩和 PROLOGUE 連載に寄せてこんにちは! 1971年8月生まれ。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。 ヨコハマNOWでは、2011年6月号から3年半、私が事務局を努めさせていただいている「保土ヶ谷宿名物会」のコラムを書かせていただいていました。この度、新企画として、2015年1月より、(名物会も含め)前述のような私の業務や活動に関して書かせていただくことになりました。 |
中学生が作ってくれました!
前号で簡単にご紹介した神奈川県とJTB「ポスタビ」。 「ポスタビ」とは「ポスター」+「旅」の造語で、中高生がポスターを作る旅に出ます。 2回目となる今年は、公文学園中等部の2年生がチャレンジすることになり、(成り行きから!?)弊社にも5名、来てくれました。 それから1ヶ月半くらいでしょうか? 才能あるデザイナーのみなさん、ありがとうございました! |
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第45回 中小企業問題全国研究集会
いよいよ間近に迫ってきましたので、この場をお借りしてPRさせていただきます。
神奈川県中小企業家同友会という団体があります。
その名の通り中小企業の経営者の会です。
自社を良くすること、自分自身が経営者として成長すること、そして他団体や行政と連携し、経営環境を改善することを目的とした任意団体です。
経営指針、社員教育、共同求人、事業継承問題、市場創造などをテーマに学び合い、交流し、様々な活動をしています。
(団体自体は各々、独立しているものの)全国47都道府県に各同友会があります。
神奈川同友会の設立は1965年。今年で50周年になります。
同友会では、青年経営者全国交流大会、障害者問題全国交流会、社員教育活動全国研修・交流会など、毎年、いくつもの全国行事を開催しています。
その中の目玉の一つ、「中小企業問題全国研究集会」が今年、この節目の年に、この横浜で開催されます。
(3月5日(水)・6日(金)パシフィコ横浜)
私も早いもので、入会から丸5年が経ち、その間に全国大会も4回ほど参加させていただいています。
全国大会の面白さは、とにかく「熱い」ということが一番です。
全国から千数百名の経営者が集まり、8~10名のグループで何時間にも渡って熱い議論を繰り広げます。
その濃密さや受ける刺激の大きさは、口で言っても文章に書いても中々、伝わるものではありません。
また、各地域の産業文化の違いなどもリアルに体感できるのも全国大会ならではです。
会員外の方でもご参加いただけますので、これをお読みの中小企業経営者の方がいらっしゃいましたら、是非ご参加ください。
第45回 中小企業問題全国研究集会
http://kanagawa.doyu.jp/45_zenken.php
http://kanagawa.doyu.jp/pdf/45_zenken.pdf
神奈川県中小企業家同友会
http://kanagawa.doyu.jp/
笑顔販促もう一つ、PRです。 不安や不満、ストレスやプレッシャーの多い世の中です。 そんな世界で、販促・デザイン・ブランディングなど、笑う門ならでは技やノウハウを駆使して「笑顔の和を広げるムーブメント」をスタートします! 詳しくは、追々。 |
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合資会社 笑う門
〒240-0006 横浜市保土ヶ谷区星川3-7-22田中ビル2F
TEL.045-333-3068 FAX.045-333-3068
E-mail yamada@hesochiku.com
Websie http://www.warau-kado.com/
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第23回)
大浦総合研究所 代表/大浦勇三
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第23回)
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
- 梁塵秘抄 -
イノベーションでは“率直”かつ“直球勝負”でいくことが求められそうです。舞台美術の第一人者といわれた朝倉摂さんは“わび・さび”に逃げるのではなく、ダメだったり・失敗したり・間違っていたら“ごめんなさい”と率直に非を認めることを信条としました。“安全な場所に身をおかない” “安全弁をはずして生きる” “あらゆる先入観を破壊する” “思ったこと・考えたことは常識からはずれていても持論を貫く”のが基本スタンスだったとか。その覚悟の裏には、どう押しとどめようとも世の中は合理的・効率的な方向に動いていくこと、その大きな流れには太刀打ちできないこと、しかし人間はそれだけでは生きていけないこと、素直になれないと人と仕事をしてもつまらないこと、などの強い思いがあったようです。いい仕事をしたいからこそ腕を磨き続ける必要があり、それには簡単に滑れる斜面を一万回すべるのではなく、死ぬかもしれない斜面を一回すべることを繰り返す戦法しかないとの強い信念。梁塵秘抄では“阿弥陀仏の誓願ぞ、かへすがへすもたのもしき 一度御名をとなふれば仏に成るとぞ説いたまふ”とあります。阿弥陀如来は、すべての衆生が成仏しないうちは己も成仏しないとの誓願。すべて救われるというのが日本仏教。自ら行動しないかぎり世界で戦えないのであれば、最後の骨は誰かが拾ってくれることを信じて、思い切り道楽するしかなさそうですね。
“遊びをせんとや生れけん” 「遊」
一流歌手は能のもつ静寂を秘めるという 他者との間を繊細に醸し出す感受性
有能な人材の要件 夢を見るだけでなく冷静に客観化、モノでなく発想を売る
人間 貧しさに耐えるDNAは保有するが、豊かさを生きるDNAは持たない
落語家の立川談志は、古今亭志ん朝だけは“木戸銭を払ってもいい”とその実力を認めていたようです。そんな志ん朝がある時、貧乏のどん底を潜り抜けてきた父親の古今亭志ん生に“落語ってどうやったらおもしろくできるの?”と問うと“面白くやろうとしないことだよ”との極意がさらっと返ってきたとのこと。それなら簡単のようですが、貧乏の地獄を知らない人間がその境地にたどり着くのは大変なこと。落語は“笑わせるもんじゃなくて思わず笑ってしまうもの”。思わず笑ってしまうような異質な交流の場がコミュニティ。イノベーションではコミュニティの大切さが強調されますが、そこは日本人のDNAである“間(ま)”の空間。世界や人間に対するモノの見方や考え方をアイデアや知恵の形で相互に発信し深め合うもので、単なる仲良しクラブとは別世界。己の特徴を生かすとは、“強み”だけでなく“弱み”も対象にするということですよね。
“仕事をせんとや生れけん” 「献」
見えないリスクは無視 計画や予算の範囲外はすべて想定外で処理
待っても願っても黒船は来ない 伝えたい唯一つの光玉に集中する
経済・市場・技術の専門家ではなくビジネスのプロフェッショナル
ベトナム戦争の時代、米国の国防長官はロバート・マクナマラでした。大変な秀才でエリート中のエリート。そのマクナマラがベトナム戦争に対して残した苦い教訓は今も決して古びていません。“ナショナリズムの強さへの過小評価” “米政府内の専門家の不在” “人民戦線に対するハイテク兵器の限界” “米国民の結束・支持の欠如” “政府・議会での率直な議論の回避” “国際問題ではすぐに解決できない課題の存在”。イノベーションでも、状況が刻一刻と変化する中で、現実と理論に対する両方の洞察が求められます。経験則だけでは“思考の固定化”につながりかねず、“理論構築”というコンパスを持たねば船は漂流するだけ。“実践・経験”と“理論・コンセプト”の両方を操るスキルを鍛えるしかなさそうです。見えないもの・抽象的なものに対する感応度が鈍ることは命とり。幕末・明治の時代に学ぶべきは“死は常に勘定に入れておく”との覚悟なのかも。
“学びをせんとや生れけん” 「学」
先に行かずに並行していく 一言で済むことには二言は使わない
やる人はどんなに止めてもやる 秘めて大事にすると自然に発酵
正しい投資先ではなく正しい人間を探索すること、とバフェット
世界的な投資家として勇名を馳せるバフェットは“事業に対する決め手の最終形は<人>しかいない”と断言しています。やる人は周囲がどんなに反対してもやるし、大切に秘めていても自然と発酵するもの。“正しい投資先ではなく正しい人間を探索すること”に尽きるとの確信。地道に腕を磨きながら力を蓄えていけば、最後はさまざまな重みをくぐり抜けた“その人の軽さ”が顔を出すということですかね。役者でいえば、演技力より私生活の蓄積、演技していない時の裸の人間修業。最後は“まるごとの人間”の総合力ということになりそうですが、頭脳が一つの専門領域を超えるものを鷲掴みにすることの難度があがっているのも事実。“人生に耐えるには、ある程度<軽薄>であること”と喝破したのは哲学者ジンメル。進む方向は自ら決めると肚を括り、ビッグデータ解析を乗り越えて“売れないものをつくる。流行を追わない”という手立てもありでは。
「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」
今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(十)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。
「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/
(第23回了)
大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール
大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/) 石川県七尾市出身。 筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。 主な著作物:
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第16回売れるモノづくり研究会セミナー
— ものづくり中小企業がクリエイティブになる-クラウドソーシング活用セミナー —
を開催しました
2015年1月26日(月)関内さくらworksにて、第16回売れるモノづくり研究会セミナー「ものづくり中小企業がクリエイティブになる-クラウドソーシング活用セミナー」を開催しました。 今回は、「NPO法人横浜コミュニティザイン・ラボ」と「はまリンクプロジェクト」との共同開催でした。 まず、「クラウドソーシング」についてのの説明を、はまリンクプロジェクトの酒井さんにしていいただました。ちなみに「クラウドソーシング」とは・・・インターネットを活用することで、世界中の企業と個人が直接つながり、仕事の受発注を行うことができるサービスです。 続いて、「ものづくり企業がクリエイティブになるとは」というテーマでデジタルハリウッド大学大学院教授の松本英博先生に講演していただきました。中小企業にとって何がコア(核)かを見極めて、ノンコアの部分のアウトソーシングを考えることが効率的な経営につながるという、大変興味深いお話でした。 ディスカッションでは、海外在住のワーカーと日本の企業をつなぐクラウドソーシング企業、ワークシフトソリューションズ株式会社の荒木社長が、実際の事例にもとづいて、クラウドソーシングのメリットをお話しくださいました。 クラウドソーシングされる業務には、デザイン関連やWebサイト制作関連などが多いようです。渡邊はWebサイト制作会社の経営者として、「クラウドソーシングを使う場合は依頼する側にITスキルが必要であることを忘れてはならない。私たちが依頼する側と依頼される側をつなぐ役割を果たしていきたい。」と発言しました。 参加者からの「海外に依頼したときのリスクはどうなるのか」「本当に質の高い仕事が期待できるのか」など質問が相次いで、「クラウドソーシング」をめぐる議論は尽きませんでした。 ご参加いただきました皆様、ありがとうございました。 詳しい様子は下記でご覧ください。 |
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「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります
いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。
「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。
「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。
毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。
売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/
<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476
メディア掲載情報
- 2012年2月20日 神奈川新聞 横浜売れるモノづくり研究会代表・猪狩惇夫の記事が掲載されました
- 2011年11月11日 日本経済新聞 「この企業ここがポイント」内に横浜売れるモノづくり研究会についての記事が掲載されました
- 2011年11月9日 日刊工業新聞 「横浜売れるモノづくり研究会」活動の輪広がり100人規模目指す
- 2011年6月6日 「売れるものづくり」をどう実現するのか―「横浜売れるモノづくり研究会」の取り組み
- 2011年1月21日 ヨコハマ経済新聞
横浜で「売れるモノづくり研究会」が発足-中小企業を支援 - 2011年1月19日 カナロコ — 神奈川新聞社
売れるモノづくり研究会発足へ、中小製造業をコンサルらが支援
書評 「悼む人」 文春文庫 天童荒太 著
この本は衝撃であった。自分へのなんともいえない問いかけがあった。最初はわけがわからない展開だった。プロローグで「悼む人は誰ですか」と問いかけられるのだった。第一章目撃者、第2章保護者、第3章随伴者、第4章偽善者とくるこの章立ての意味は読み終わって理解できた。 「娘の美汐に妊娠を告げられた日の夜から、同じ夢を見ている気がする。ただし具体的な情景は、めざめるとわすれてしまっていて、残念だ。」「午前六時を回っていた。ベッド横に敷かれた布団に夫の姿はない。巡子はベッドの上に座り、体温を計るあいだ、シャレか謎掛けの問答を考えた。がんに対して積極的な治療をせず、住宅で過ごすことを選びはしたが、少しでも自分の免疫力をあげようと、一日一つは笑える言葉を考えることを日課にしている。」ここは第4章代弁者のところである。代弁者が保護者に繋がっている。 |
章が進むうちにどんどん引き込まれていきます。生きたことの大切さ、この世に生まれたことの喜びです。だから悼む相手の人がどんな人であろうと、悼まれていいと静人は考えています。こんな人と思う人でも、生まれたという事実のなかで、誰も知らない苦しみの中で生きてきたという尊い現実のなかで、悼まれてよしとするのです。あんな、死んでしまっていいんだという人でも、もうなってしまったことを振り返るとその過去の生活の中に、悼まれる人になりえるというのです。
「藤野が北海道に就職が決まり、東京のアパートを引き払うとき、理々子のところへ入り浸りの父に、荷物を取りに来るように求めた。父は面倒くさそうに部屋をみまわしたあと、あれはどうするんだ、と一方を指差した。」第七章捜索者のところである。
「朔也の存在を肩に感じつつ、この先どう生きれればいいのか…・彼に答えをもらえると期待したわけではないが、ほかに手だてもなく、一人になれば、水にはいるか、車の前に飛び出すくらいしか道はないように感じていた」「悼みを終えた静人がゴム長をはいて歩き出す。こちらに合図は送ってこない。倖世もそれは承知で、あとにつづいた。彼は倖世が一緒に歩くことは断らないが、ついてくるように誘ったこともなく、それでもついていけば最低限必要な世話は焼いてくれた。」これは第九章理解者のところであった。「倖世は常に彼の忠告に従って行動した。野宿の旅はいろいろ面倒なことが多く、窮屈に感じたことは数限りない。トイレはことに困り、外で済ますことも少なくなかった。恥ずかしさにいやになりかけてきた時は、朔也が肩口に顔を出し、人を殺しておきながら何を恥じるんだと嘲笑した。そう言われると開き直ってように行動でき・・・」
静人を悼む人として、静人の行動を通して死とはなにか、生きるとは何かを問いかける。血がつながっていることを、生きてきた事実を次につながったという思いのなかで死をむかえられることの安堵感を語っているのではないかかと思うのです。
あなたにとって大事な事はなんですか。あなたは誰に愛され、だれに悼まれたいですかという問いかけがある。私ってなんなのでしょう?私はどこから来たのでしょう?私は誰なのでしょう?
「静人の問いかけは彼を巡る人々を変えていく。」文庫本下の裏表紙には書かれています。
(文:横須賀 健治)
横浜盆栽カフェ(第4回) 盆栽カフェ出張
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PROLOGUE 連載に寄せて私たちは、豊かな水と四季折々の美しい自然の中で暮らしています。大自然に抱かれて生活しているわけではありませんが、世界的に見てうらやましい自然環境であることは間違いありません。しかし実感している人はあまりいませんし、感謝(誰に?天に!)している人は少ないです。 私は家業である造園工事業を営み、外仕事でもあるので明日の天気や風向きが気になりますし、移ろう季節を感じやすい状況にあると思います。このたび横浜盆栽カフェの連載を通じ、限られた鉢という環境の中で繰り広げられる、美しく、力強く、繊細な自然的造形美の盆栽を紹介し、四季や身近な自然環境と向合い、誇らしい地域(横浜)を感じていただきたいと思います。 |
横浜盆栽カフェ(第4回) 盆栽カフェ出張
棚場の下
現在石井造園の社屋がある坪ノ内では、造園工事業と苗物の卸売業を並行してやっている時期がありました。暮れから正月になるともっぱら祖父と私の仕事で、お客様の庭から排出された剪定塵をドラム缶の炉に入れものすごい勢いで燃やします。環状4号線の交通に支障があるくらい、現在では直ぐ消防署員が駆けつけるであろう勢いです。
夏にやり残した爆竹や花火をくべたり、真っ赤に焼けたドラム缶に小便をかけ火悪戯をすると、あたかも炎に意志が有るかのように襲われ前髪を焼かれたり、火の粉が背中に入ったります。罪悪感と共に火の神様に対する畏敬の念を抱きました。
仕事の終わり間際には熾火で、泥だんごや土器を焼き固めたり、ギンガミデ包んだサツマイモやジャガイモを、焼いて喰うのが楽しみでした。
この時期の管理
冬場の作業に石灰硫黄合剤の散布があります。黄色い硫黄の粉を水で希釈したオレンジ色の薬液はとても臭く、箱根の大涌谷の臭いが立ちこめます。葉に付着した硫黄は白く残り商品価値を落としますが、殺虫殺菌効果があり、落葉したこの時期にしか撒けない薬なのです。
また盆栽の冬囲い、室(むろ)に仕舞うことも大事な仕事です。これは鉢の中という限られた状況下で生きる盆栽を寒さから守るものです。棚にある盆栽を地面に降ろすだけで北風の影響をうけなくなり、寒さ除けになります。
盆栽カフェ先日高松市鬼無町にある花澤明春園様を訪ね、盆栽カフェの活動についていろいろご意見を伺いました。鬼無町植木盆栽センターの初荷の競にもご案内頂きました。 高松は世界一の松柏盆栽の産地で、世界中からお客様がいらっしゃいます。また栗林公園は日本庭園として海外からの評価が高く足立美術館、桂離宮、に次いで3位にランキングされております。一度見たいと思っている庭園でした。 どうしても鬼無に行きたかったのは、香川大学経済学部が盆栽を利用した地域活性化の活動として、盆栽ガールを結成して発信している現状を見たかったからです。花澤明春園花澤社長は大学とコラボして、盆栽ガールの指南役を務めていらっしゃいます。 お話する中で、盆栽は外国では評価があるもののまだまだ日本人として楽しむ文化は途切れたままで、もっと身近に自然の風景に思いを馳せ、身近に盆栽を感じてもらうために、一層の努力が必要であるとおっしゃっていました。盆栽ガールと盆栽カフェもその意味では共通するところがあり、情報交換をしながら互いに切磋琢磨していきましょうと誓い合いました。 1月19日に三溪園で開催された盆栽展を石井昭彦会長と見に行きました。三溪園皐月会様の主催で、盆栽の相談会も開催されていました。J:COM南横浜様の取材もあり、親子で盆栽鑑賞をする企画でした。どの席も力作で見応えのあるものでした。この様な盆栽展が頻繁に開催できるようになればいいなと思いました。 2月の盆栽カフェ開催予定
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(クリックで拡大画像) (写真提供:石井直樹) |
今月の逸品クサボケ/草木瓜(しどみ) 高さ:21cm 早春の土手に可憐な花を付けるクサボケの盆栽です。この時期落葉してしまう盆栽の中において、花を楽しめる数少ない一種です。クリスマスのころからゆっくりと膨らんだ蕾が開花しました。接ぎ木ではない、咲分けの大変めずらしい逸品です。
クサボケ/草木瓜(しどみ) ¥7,500(税抜) |
(クリックで拡大画像) |
(石井造園株式会社 代表取締役 石井直樹)
石井造園株式会社
〒247-0006 神奈川県横浜市栄区笠間4-11-5
TEL.045-891-1501 FAX.045-891-2785
Websie http://www.ishii-zouen.co.jp/
横浜宝石物語(第4回) 二代目の父(青春編)
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横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子 PROLOGUE 連載に寄せて私は横浜でおそらく一番古い宝石商の三代目です。 創業者の祖父、二代目の父、三代目の私とそれぞれの時代で宝石商としての形態は違っていますが、良い宝石を選び、作りの良いジュエリーを製作して、ご提供するということについては、3人とも拘ってやってきたと思います。 祖父が宝石の製造メーカーとして地位を築き、父が小売店として皆様に愛されたからこそ、今、私が宝石商としてやっていられますので、いつか祖父のこと、父のことを書いてみたいと思っていました。 |
この度、横浜宝石物語の連載のお話を頂きましたので、念願が叶い、とても嬉しいです。横浜の歴史も交えながら、祖父、父、私の宝石物語を綴っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
宝石商の三代目私は現在、横浜の馬車道で「横濱宝石美術館エメラ」という宝石店をしております。 横浜の景色や思い出をジュエリーにした「横浜ジュエリー」などオリジナルジュエリーの製作と販売、デザイナーやアーティストの作品の展示販売、お客様のご要望をかたちにするリフォームやオーダージュエリーのご注文を承っています。 私の宝石商のルーツである創業者の祖父のことからお話しさせて頂きたいと思います。 二代目の父(青春編)今号から二代目の父のことをお話したいと思います。 エメラは今年、創業85周年を迎えますが、父が生まれた年に祖父が創業した為、父も今年85才になります。85才になっても背筋がピンとしていて、店頭に立って手伝ってくれる父に感謝しています。 父は昭和5年に祖父の三男として横浜で生まれました。兄姉が父が生まれる前に亡くなっていた為、実質的には長男としてとても大切に育てられたそうです。戦争中に住んでいた根岸の山の家は父の健康の為、畑をさせる目的で買ったものですし、馬も祖父に買ってもらったそうです。また、夏休みは親戚が持っていた海の近くの本牧の家を借り上げ、そこで夏を過ごしたようです。 祖父は父が幼い頃から熱海など近場の温泉地で行われる業者間の取引市という商品の交換会にも連れていったそうで、父は宝石やジュエリーを沢山見て育ちました。 祖父は戦後、伊勢佐木町にあった松屋デパートさんが営業を再開する時に問屋として出店しました。店を父に任せて、卸しの仕事で全国に行きたい祖父は、まだ16才だった父を旧制中学校の途中で辞めさせてしまいました。泣く泣く学校を辞めて、父はデパートの店頭に立つことになりました。祖父は父に何も教えずに全国を飛び回り始め、父は松屋デパートの営業課長さんから色々教えて頂いたそうです。 父は店もやりながら、アメリカのジュエリーカタログを取り寄せ、職人に外国人向けのジュエリーを作らせて、近隣の宝石店に卸す仕事もしていました。 |
(クリックで拡大画像) (写真提供:大島貴子) |
(横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子)
横濱宝石美術館エメラ
〒231-0011 横浜市中区太田町5-61 馬車道商栄ビル1階
TEL.045-681-0603 FAX.045-228-9828
Websie http://emera-yokohama.jp/
第29回 住まいのまわり「スロープ」
古川都市建築計画 一級建築士事務所
代表 古川達也
住まいのまわり「スロープ」
住まいづくりで大切な事は沢山ありますが、日々の暮らしで、誰もが何となく見ていて
気が付いているもの。~住まいの外側「住まいのまわり」にあるものについてお話したいと思います。
街に家を建てるとします。「住まいのまわり」とは、家と街のあいだ。家との繋がりもあり、街との繋がりもある。家との都合、街との都合を調整したり解決したり。様々なケースがあると思いますが、とても大切な場所です。
例えば、住まいのまわりに設置した「スロープ」のお話。住まいのまわり、あるいは住まいの玄関先に、ゆるやかなスロープがあると便利な時があります。足腰の不自由から階段を使うことが難しい場合、車椅子の活用でどうしても段差なく行き来したい場合など、快適にアプローチ出来るスロープがあると心強い。
以前に設計した歯科医院 兼個人住宅「小さな広場の家」1階が歯科医院、2階が歯科医院をされているご夫妻の住宅です。患者様のなかには高齢の方も増え、設計の際は、土地の高さを解消するスロープ設置が必須でした。駐車場やスロープを設けることは出来ても、一般に味気なくなりがち。ここでは、奥様が趣味で楽しむ、季節の草花や家庭菜園が全体に散りばめられました。
単なるスロープ付き駐車場ではなく、患者様をお迎えする、街に開かれた「小さな広場」となりました。スロープでは夏にゴーヤーが植えられ、住まいへの来客や、歯科医院に来られる患者様に、奥様がゴーヤーを振舞います。階段で事足りる来訪者も、心地いい動線としてスロープを使っているご様子。欠かせないアプローチとなりました。
※【小さな広場の家】詳細はコチラ
http://furukawa-arch.com/works/
もう一つご紹介「残してつなぐ家」雪国である長野県の個人住宅です。敷地内の井戸、伝統の蔵や庭などを残し住まいと繋ぐことがテーマでしたが、一方で、雪降る季節を考慮し玄関先に「屋根のあるスロープ」を設けています。これが実に快適。雨天のアプローチや、玄関先の立ち話など、意外な効用もあるようです。
※【残してつなぐ家】詳細はコチラ
http://furukawa-arch.com/works/
「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
AA STUDIO ナビゲートサービス
中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談 無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案 ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
北島 俊嗣 | http://kitajima-architecture-design.com |
久保田 恵子 | http://studio5st.com |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
高橋 正彦 | http://www.takahashi-arch.com |
廣田 裕一 | |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
古川 達也 | http://furukawa-arch.com/ |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
山田 慎一郎 | http://www.yamadastudio.com/ |
ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第32回 第6章 社会人編 4
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HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
横浜、街と風(社会人編) 18(33)
流し
マジックの後は弾き語りの仕事を短い期間でフリーターの様に市内のあちらこちらに出ていました。街外れのスナックとか鉄板焼き屋を改造した店とか変わったお店も幾つかありましたが、福富町のジュウタンスナックに出た時は、とある大親分がお忍びで来ていて、一曲伴奏するたびに若い衆が一万円持ってきます。頬にでっかい刀傷があったり、顔がひしゃげていたり、お札を持ってくる指が1、2本なかったり、何しろ眼が違う、近くで見ると凄みは半端じゃありません。「その曲できません」とか言えないし、間違えたら大変です。緊張の連続でした。ある時、この店で歌っていたら、入口からクラシックギターを抱えた人が入ってきてお客さんの席の前で演歌を生で一曲歌い始めました。私、歌っているのにですよ。もうビックリです。この人はMちゃんと呼ばれた地廻りの “流し” で何十年も福富町で一杯飲み屋の暖簾をくぐって演奏するベテランでした。(日活映画で石原裕次郎が主演の『嵐を呼ぶ男』の主役の仕事は最初 “流し” でした。北島三郎も売れる前は本当にやっていたそうです。昔は横浜にも沢山の “流し” という職業の人がいたようですが、時代とともに赤提灯や縄暖簾が減り、お店と契約する弾き語りが増えて彼らの仕事もなくなっていったのでしょう。彼らにしてみれば我々は後から現れたにっくき商売敵だったのかもしれません。この当時福富町には3人の “流し” がいると言われていましたが他の人は見たことがありません。
エルエラ
伊勢佐木町の日活会館の地下にあったグルッペは大きいお店で、5本位の大きい柱を利用してそこをバーカウンターがぐるっと囲み、中にバーテンダーが2、3人いて接客します。テーブル席もあって、この手の店はコンパとか言われてよくありました。元はディスコだったそうで、そこの店長が「昔キャロルになる前の矢沢が出てたんだ」と自慢げに話してました。この店では出たばかりのビリージョエルの『マイライフ』や『オネスティ』のリクエストが来ていてよく歌った記憶があります。オベーションギター片手にこの手の店を転々としましたがどれも長くは続きませんでした。
ある時、桜木町の川沿いにあった読売新聞新聞社ビルの地下に “エルエラ” と言うお店を紹介してもらいました。30坪位のこのお店は、基本的には喫茶店で昼はランチ、夜になるとお酒も出て食事も出来る、小さいステージには白いグランドピアノがあってオフィス帰りの男女で結構賑わっていました。経営者やスタッフもみんな品があって感じが良く、それに惹かれて集まるお客様達もやはりみんな上品で、お店というものは経営者の雰囲気や考え方が反映されるんだなとこの時感じました。ここで沢山のステキなお客様に出会いました。今でもお付き合いしている方も居ます。ここではお客様の年齢も近いし仕事帰りの女連れやカップル、課長が部下を引き連れてくるようなホワイトカラーがほとんどで、フォークもOKだし、ビートルズも受けました。最初はピアノのまえに座って弾いていましたが。お客様の熱気に応えるためやがて立って歌うようになり、いつも汗ビッショリで歌うので、汗止めのバンダナをおでこに巻いていたりしました。マッチのギンギラギンみたいに、、、時代ですね。
エルエラに入るといつも引き立てのコーヒーをたててる匂いがして、今日も頑張ろうという気持ちにさせてくれるこのお店が本当に大好きでした。ここには弾き語りとして少し長く使ってもらいました。
ファルセットボイス(2)
前号に引き続きファルセットのお話。ファルセットを使ったボーカルは世界各地にあります。まずはヨーデル! アルプスに伝わる伝統民謡で、ファルセットと地声の低音を交互にひっくり返す高度な技。日本で広まったのは昭和26年に灰田勝彦さんが歌った『アルプスの牧場』が最初だそうです。我々横浜人にはつい数年前まであった山下町のバンドホテルのナイトサパークラブ “シェルルーム” で歌っていた “ウイリー沖山” さんの『山の人気物』が有名です。その凄さは裏声と表声を返す速度と回数で、その超絶テクニックは驚きで、空いた口がふさがりません。一歩間違えるとギャグになってしまいそうです(若い人にはアルプスの少女ハイジのテーマソングで使われてたあれですよと言えばわたってもらえるかもしれません)。このヨーデルがアメリカに行き独特のものに発展したのがカントリーヨーデル。ハンク・スノーなどが有名ですが、カントリーシンガーは裏声に返す唱法を使う人が多いですね。多分それがハワイに行ったのかわかりませんが、ハワイアンミュージックは柔らかいファルセットを多様します。クラシックやオペラでは花形になるのが女性のソプラノ! 私はあまり詳しくありませんが、あれはほとんどファルセットで歌われていると思います。又、ジャズの世界ではソロの歌手はメロディでは基本使いませんが、ジャズにはアドリブでスキャットがあります。アル・ジャロウなどは見事な裏表合わせて3オクターブ以上の音域を縦横無尽にスキャットします。楽器顔負けです。
ファルセットと言えばやはりコーラスで、教会音楽でコーラスする必要性から発展していきました。男女混声が基本ですが、それが大衆音楽に影響を与えることによって、様々なスタイルが生まれました。男性グループではバス、バリトン、テノール、トップテノールと最初は表声だけでしたが、ファルセットを用いる事によって3オクターブ以上の音域をカバーし幅を広げることができました。以前は主旋律のメロディを歌うのはテノールでしたが、ジャズコーラスの世界で発展したのがファルセットで、歌う一番高いソプラノがメロディを歌い他の三人が複雑なコードの音をハーモニーするというオープンハーモニーで、これで有名なのがフォーフレッシュメンです。複雑で高度なハーモニーを見事なコーラスで、しかも全員楽器を演奏しながら歌うという超絶バンド。真ん中で半音がぶつかってもその不協和音が心地よさに変わってしまう。複雑だけどまったくそれを感じさせない凄さ。アマチュアが真似したら合ってんだか間違ってんだか分からずただ気持ち悪いだけのコーラスになってしまいそうです。このトップボイスは、多分ヘッドボイスではなくファルセットの区分に入ると思いますが、更にこのコーラスの手法を取り入れて60年代から70年代にかけて人気を博したのが先日映画で話題になったジャージーボーイズのモデル “フォーシーズンズ” す。リードボーカルのハリのあるファルセットが特徴のリードボーカル “フランキーヴァリ” は、多分ミドルボイスだと思われます。ヒット曲『シェリー』のあの声ですね。白人でこの歌い方を確立してヒットさせたのは彼が最初ではないかと思います。
しかし私が一番最初にファルセットに目覚め大好きになったファルセットはやはりソウルミュージック、次回はこの辺を書いてみたいと思います。
(続きは次号へ)
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL DATAMAP
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
滝のおとは 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
♪滝のおとは 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ♪
絵・千絵崇石 |
読み人:大納言公任(藤原公任) 現代語訳・・・滝が流れなくなってもう何十年もたつが、この滝の評判は世間に流れつづけて、いまだに人々の耳に聞こえてくるという。 ロマンチックでセンチメンタルな美しさを感じさせてくれるこの歌が、私は大好きです。歌の中の滝は一体どんな滝だったのでしょうか? |
京都の嵯峨野に嵯峨天皇の離宮がありました。その離宮は贅を尽くして建てられ、庭園には日本最古と言われる人口湖の大沢池も造られました。その大沢池から水を引いて造られていたのが名古曽の滝です。当時は只、滝殿と呼ばれていた様です。
嵯峨天皇の崩御後その離宮は荒れ果てて、その後大覚寺となりました。
この滝のうたは離宮の時代から100年以上たった後に生まれた貴族歌人、藤原公任が大覚寺を訪れて枯れてしまった滝跡をみて詠んだものです。そして、彼が歌った事により又注目されて、歌の中で♪名こそ流れて♪と歌われたままに{名古曽の滝}と呼ばれるようになりました。現在でも訪れる観光客や、地元の人が後を絶ちません。
近年に大覚寺が、この滝跡の発掘調査を行い、復元整備をしたそうです。今では藤原公任が歌を詠んだ時よりももっと、元の滝跡に近いものを見られるかもしれません。
水は流れるのかしら?どうせなら・・・ぜひ流してほしいけれど・・・
作者の藤原公任はとても才能のある人でした。花形貴族歌人です。
和歌は勿論 漢詩 管弦に秀いでており、その時代の文化人の頂点にいた人です。
現在、何事にも才能のある人の事を、『三舟の才のある人』と呼ぶそうですが、そのいわれは藤原公任のエピソードからうまれました。
時の実力者、藤原道長が嵐山のおおい川で舟遊び開催したときのことです。
舟を3つ用意してそれぞれ和歌の達人、漢詩の達人、音楽の達人をのせて腕を競うという遊びでしたが、道長は遅れてやってきた公任には、彼がどのジャンルにも優れていたので「どの船に乗るつもりですか?」と聞いたそうです。当時は漢詩の方が和歌よりも格が上という風潮があったのですが、公任はそれなりに時の実力者の道長に遠慮したのか、和歌の舟を撰びました。そして素晴らしいうたを詠みました。
拍手喝さいを受けて大成功だったのですが、本人は「この程度の歌で喜ばれるなら、漢詩の船に乗れば良かった、そうしたらもっと名声は上がっただろうに」と悔やんだそうです。大鏡にはその彼のエピソードが残っていて『三舟の才』という言葉の意味が、何事にも秀いでている人を示す言葉となりました。
嵐山のおおい川では毎年5月に “三船祭”といってこれらの故事にちなんだお祭りが開催されているそうです。私もぜひ参加したいと思います。管弦(音楽)の舟にのりた~い!!
藤原公任さん。ご自分が望んだ様には出世が出来なかったのかもしれませんが。
“三舟の才”や“名古曽の滝”の名前由来等、言葉の文化に大きな貢献をされた方です。
次回は彼の息子、藤原定頼のうたを紹介します。
(早苗ネネ♪)
- 超不都合な超常科学トーク2015にゲスト出演
- 日時:2月28日(土) 18:10-20:40(受付17:50~)
- 会場:東海道かわさき宿交流館 4F 集会室
〒210-0001 神奈川県川崎市川崎区本町1丁目8番地4
TEL 044-280-7321 FAX 044-280-7314
http://kawasakishuku.jp/ - 入場料:前売券 2,400円 (当日券 3,000円*)
- チケット購入・お問い合わせはHPまで。
http://www.keimizumori.com/events.html
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
ボリビア・コマ基金 ファイナルイベント
2015年2月15日(日)に開催される世界コマ大戦2015にボリビアから若きエンジニアを横浜に呼ぼう! という掛け声で始まった「ボリビア・コマ基金」。ボリビアから日本までの渡航費を集める募金活動だ。昨年夏から始まったこの活動を弊ヨコハマNOWでは、当初から幾度となく記事をリリースして広報の役割を担ってきている。そして此の度、この募金活動のファイナルとなるイベント『BOLIVIA meets YOKOHAMA(ボリビア・ミーツ・ヨコハマ)』が、1月31日(土)にさくらWORKS<関内>で行われた。
インタビュー
全日本製造業コマ大戦協会会長で株式会社ミナロ代表取締役の緑川賢司さんにお話を伺いました
ボリビアから届いたメールは、チェ・ゲバラからのメッセージだと思った
なぜ? ボリビアか! ひとつ大きな理由があるんですけど、ボリビアっていう国はね、チェ・ゲバラが亡くなった国なんですね。僕はチェ・ゲバラが大好きで。彼が亡くなったのが1967年、僕が生まれたのも1967年。たまたま。或る時に、ゲバラの生き様を知った時に、キューバ革命を興して、本当はキューバにそのまま留まれば生活に困らずにいい暮らしも出来たでしょうけど、自分の職業は政治家じゃない革命家だ、と言ってキューバを離れる。でいろんな国で革命を興そうとするんですけど、最後たどり着いたボリビアという国で革命を興そうと思った時に志半ばで殺されてしまう。そんな歴史を以前学んでて、、、今回ボリビアの製造業を盛り上げたい、そこでコマ大戦を使いたいというメールを一通もらったんです。そのメールをもらった時に、これはゲバラから来たメールじゃないか、と思っちゃったんです。
ボリビアは今でも南米最貧国で、なかなか海外との交流もできない、でもコマを通じてそれが出来ればボリビアの製造業もこれから活性化するだろし、ボリビアの技術というものが高まって世界の仲間入りも出来るんじゃないか。そういうようなメッセージに聞こえてしまったんで。これはもう、、、ボリビアから最初はコマをやりたいからコマとか土俵を譲ってくれ(売ってくれ)というようなメールだったんですけど、、、こちらからプレゼントします、ボリビアの国旗と日本の国旗を印刷して、横には日本とスペイン語で「ボリビアの諸君! 日本で待ってる」という土俵をプレゼントしたんですね。そしたら、その土俵を使ってボリビアの人たちがコマを回してくれてチャンピオンを決めてくれた。そのチャンピオンがいよいよ決まって、それが今度の2月の世界大戦にやって来る、という段階です。今は、、、
世界コマ大戦2015の次の目標は?
まだ一回目の世界コマ大戦が終わってないんで勝手なこと言えないんですけど、僕の想いは、やはり日本がこれから一番盛り上がるのは2020年のオリンピックだと思うんです。それに併せてコマ大戦も盛り上げていきたいなと。2020年に世界コマ大戦の2回目か3回目ぐらいをセッティングできればいいな、と思ってます。
海外と日本の中小企業との出会いの場を創っていきたい
僕が町工場の経営者で、リストラされた経験があって、今後日本でものづくりを造って存続・発展するためにはどうすればいいか。これを常に日頃考えてて、その中で出てきたのがコマ大戦なんです。でもコマ大戦って言うのは単なる手段にしか過ぎず、目的って言うのは日本の中小町工場が存続・発展することなんです。で、存続・発展させるにはどうするかって言うと、やはりこれからは日本の中小企業自らが、その技術・商品・サービスを必要としてくれる外国の人たちに届けなきゃいけないんです。外国の人たちと直に商売が出来る状況を創っていかなきゃいけないと思うんです。で、世界コマ大戦もそうなんですけど、日本で世界の人たちが来て、とりあえずコマというもので遊びますけど、目的はコマで遊ぶことじゃなく、そこでの交流・出会い、そこでのビジネスに変わっていく、ビジネスが生まれてくということが目的であって、それが第一回目で、世界コマ大戦でやるんですけど。この世界コマ大戦というのをどんどん回を重ねると同時に、コマじゃない方法でも海外と日本の中小企業の出会いの場を創っていきたいと思っています。
*このインタビューをYoutubeにアップしました。ご覧ください。
インタビュー
『BOLIVIA meets YOKOHAMA(ボリビア・ミーツ・ヨコハマ)』を企画したNPO法人横浜コミュニティーデザイン・ラボの酒井直子さんにお話を伺いました
ボリビア・ミーツ・ヨコハマとは?
ボリビア・ミーツ・ヨコハマという企画を担当させて戴きました酒井と申します。NPO法人横浜コミュニティーデザイン・ラボで『ヨコハマ経済新聞』のライターと横浜ものづくり企業応援プロジェクト「はまリンク」というサイトの運営をしております。
ボリビア・ミーツ・ヨコハマは、2015年2月15日に大桟橋で開催されますコマ大戦世界大会にボリビアから参加するチームの青年二人の渡航費を集めるという募金活動「ボリビア・コマ基金」の支援イベントとして開催いたしました。
イベントを企画するにあたり心がけたとこを教えてください
ボリビアの青年達を呼ぶということで、ボリビアってどこ? っていうところから判らないという話が、、、私も含めて周りが多かったので、じゃあボリビアの文化を知るようなイベントを組み立てようと思いました。なので、南米の音楽ですとかボリビアの料理ですとか、踊りですとか、そういったことを体験できるようなイベントを開催しようと思って企画しました。
今回、「アミーゴ・デル・トロンポ」というコマの仲間というチーム名を付けて戴いた4人の日本人の演奏家で、ギター、アルパ(ハープ)、ケーナ(縦笛)を演奏して下さる方達と、セノビア・ママニさんという女性の方で、ボリビアのダンスを踊られる先生と生徒さん達6名の方でダンスを披露して戴いて、そしてボリビアの料理を食べてながらボリビアの文化を楽しむっていうようなイベントを開催致しました。
横浜ものづくり企業応援プロジェクト「はまリンク」とは?
今回、コマ大戦というものづくり企業のイベントのご支援させて戴いた、それ(世界コマ大戦)に来る(ボリビアの)青年達の募金活動にご支援させて戴いたというのは、私が横浜ものづくり企業応援プロジェクト「はまリンク」というところで、横浜市内に在るものづくり企業の情報発信をお手伝いしているというところから出会いがありまして、お手伝いさせて戴くことになりました。
「はまリンク」では、ものづくり企業が情報発信をする時に、ホームページは持ってないんだけど何か会社の紹介を載せたいとか、リアルにイベントを開催したいっていった時に私共がイベント開催のお手伝いをするような、そういうお仕事をしております。
これからの酒井さんの活動について一言
ものづくり企業だけでなく、横浜市内で活動されている方達の情報発信のお手伝いであったりとか、イベントを創るお手伝いというのをしていきたいと思っていますので今後とも宜しくお願い致します。何かございましたら是非お問合せください。
横浜ものづくり企業応援プロジェクト「はまリンク」
https://hama-link.net/
*このインタビューをYoutubeにアップしました。ご覧ください。
100の写真で語るボリビア・ミーツ・ヨコハマの風景
アミーゴ・デル・トロンポの皆さんの演奏をBGMに、100の写真で作ったフォト動画です。
ボリビアフォルクローレダンス 南米ボリビア人ダンサー セノビア・ママニさん達のダンスパフォーマンス
ヨコハマNOW編集長 辰巳隆昭
馬車道 Emera 通信 Vol.3 Nov 2013
復興の兆しは見えてきたが、、、
建設工事が始まった坂元駅(JR常磐線)
年末に、親戚のお見舞いと両親の墓参りで仙台に行ってきました。
今回は車で常磐道で行きました。12月6日に福島県の浪江町と宮城県の山元町が開通したこともあり山元町の様子も見てきました。
ただ福島県の冨岡町と浪江町はまだ未開通です。ここは放射能高濃度の地帯なので除染作業に時間がかかっているようです。冨岡町と浪江町の間は国道を通りました。家々はバリケードされ、交差点には警備員が経っていました。時はあの時からまだ止まったままです。 NEXCO東日本 常磐道の整備状況 |
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山元町は大きく変わっていました。私たちが2011年4月6日に訪れた坂元駅(JR常磐線)の駅舎はなくなっていました。市街地の一部を陸側に移す山元町のまちづくり計画案にあわせて海沿いにあった線路は、以前よりもかなり陸側に移され建設工事が始まっていました。線路も駅も地上から10m上にできるとのことです。 JR東日本 進行中の建設プロジェクト |
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山元町ではいちごのビニールハウスが沢山建設されていました。「夢いちごの郷」を訪ねると、元気のいいおばさんが「ここのいちごは本当に美味しいから・・飛ぶように売れるよ。」と、宮城県で品種改良した「もういっこ」を勧められました。私たちが応援している、スルーエイジ農園のトマトジュースもよく売れているとのことでした。 スルーエイジ農園 |
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横浜から来たと言うと、「横浜の方々には大変お世話になって有難いね・・・。3月にイベントで横浜でいちごを販売するよ。」と感謝されてしまって・・ちょっと気恥ずかしかったです。
あのときからもうすぐ4年になります。宮城県山元町は復興への道を着実に歩み始めているようです。
2011年4月6日に訪れた坂元駅(JR常磐線)の風景(クリックで拡大画像)
浜じぃの横浜漫歩(第9回) みなとみらい・ポートサイド地区
みなとみらいの外れの方、みなとみらい線の「新高島」駅からが近い辺り、帷子川(かたびらがわ)に沿って「高島水際線公園」(たかしますいさいせんこうえん)が有ります。 みなとみらいの開発がまだ、ここには十分に手が付けられていない新開地独特の雰囲気があります。 そこの水際、つまり帷子川そして臨港パークには、多くの冬鳥が飛来しています。 ユリカモメ、ウミネコ、オナガガモ、ホシハジロ、キンクロハジロ、シロチドリなどです。 さらに目を遣るとみなとみらい地区方向から帷子川の挟んで対岸側に「ポートサイド地区」があります。 帷子川と首都高横羽線、国道15線で区切られ、「アート&デザインの街」をコンセプトに再開発されているそうです。 横浜駅に近い方には、商業施設「横浜ベイクォーター」ができ、「シーバス乗り場」や河辺には「ポートサイド公園」、そして「横浜ディスプレイミュージアム」もあり、またオフィスビルや高層マンションが建ち並んでいます。 今は「みなとみらい大橋」が作られ、橋がポートサイド地区とみなとみらい地区を結んでいます。 みなとみらい地区から貨物列車が、ガチャガチャ音を立てながら走り抜けて行く様は、何故かちょっとした郷愁を誘います。 いずれ綺麗に一体再開発・整備されるであろう街の、ある種の静けさと都会のメランコリーを感じさせる地域です。 寒くとも明るい日差しの中、いつまでもビルと川に浮かぶ水鳥を眺め続けていても飽きることのない浜じぃでした。 |
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第15回 子どもの遊びから思った、日常と異常
皆さん、あけましておめでとうございます。
今年も、オヤジ、オバチャン、オトメのO3マインドを持つ40代女性として、好き勝手?なコラムを記していきたいと思います。どうぞ、お付き合いくださいますよう、よろしくお願いいたします。
TV番組で久々に心が熱くなった
昨年暮れにNHKの「にっぽん紀行」という番組で、「少年達の“コマ広場” ~福岡県大宰府」と題された番組が放映された。年に一回大宰府天満宮で”けんかゴマ“の大会が行われており、その大会に向けて、子ども達が近所の公園で必至に練習し、成長していく様を取材した番組だ。ご覧になった方もおありだろうと思う。
私はこの番組の中の子どもらしい子どもの姿を見て、感動というか、安らぎというか、懐かしさというか、言葉では上手く言い表せられないような胸が熱くなる思いがした。
今回は、この番組のご紹介と、熱くなった後に冷静に思う異常さ?について、お話してみたいと思う。
ひそかなブーム “けんかゴマ”
天満宮で有名な福岡県太宰府市。ここでこの10年の間、小学生の男の子を中心に、けんかゴマが盛んに行われてきている。
けんかゴマのルールはいたって簡単だ。相手のコマより長く回した方が勝ち。しかし、戦いは簡単ではない。自分のコマを相手のコマに正確にぶつけ攻撃をしたり、回っているコマを縄でシバきながら、回転を強化したりしながら戦っていく。攻撃にも防御にも技術が必要だ。またコマの調整も欠かせない。自らの攻撃や防御に合わせ、鉄製の芯の長さをハンマーを使って調整する。小さな手に持つ大きなハンマーは、一見あぶなっかしそう映るが、子ども達は手慣れたもんだ。ハンマーは見事に芯の頭を捉える。調整する様はまるで職人のようだ。
このようなけんかゴマの奥の深さが、子ども達の心をとらえたのだろう。年に一回、大宰府天満宮で開かれる大会に向け、公園には毎日大勢の子ども達が練習に集まって来る。中にはまだ小学校に上がらない小さな子どももいる。コマの上手な大きな子に憧れて集まって来るのだ。まだ片手ではコマが持てないような小さな子にも、自然と大きな子が、手取り足取り教えていた。
厳しい実力の世界
コマの世界は厳しい、強い者が尊敬を集め、自然と発言権も増していく。TVでは取材対象の中心となっていた6年生の男の子がいる。家ではスマホゲームに夢中になる今どきの普通の男の子だ。しかし彼は誰よりも早く公園に行き、誰よりも遅くまで練習をする。はじめからそうだったわけではない。同じ公園で練習する4年生の男の子に、勝負で負けてからだ。4年生の男の子は強い。コマを力強く相手に当てるなげゴマの技も正確に決まる。この攻撃をくらうと、皆のコマはいとも簡単に止まってしまう。自然とリーダー的存在となり、公園での練習試合の順番を決める際にも、6年生よりも発言権があったりする。6年生の男の子は、自分の意見より4年生の男の子の意見が通る事態に、毎日直面する。
上級生というプライドが、彼の心に火をつけた。強くなるしかない。それしか方法が無いと彼は自ら答えを出し、誰よりも練習する事を決め、いつしか実行に移すようになっていたのだ。
そして、大会当日、6年生の子も4年生の子も予選を勝ち抜き、二人が対戦する事となる。
3本勝負で2勝した方が勝ちだ。
1戦目、6年生が雨の日も遅くまで練習してきたなげゴマをしかける。回っている相手のコマに縄をまいた最初の一投目を直接当てる大技だ。当たれば絶大な効果を発揮するが、はずすと自分のコマも大きくはね、ダメージをくらう。結果は失敗。相手のコマには当たらず、逆に自分のコマが止まってしまった。
2戦目は、回っているコマを手のひらに取り、相手のコマめがけて上から落とした。これはうまくいき勝利した。
3戦目、相手からの攻撃を受けた後、コマをシバいて粘れず敗退。結果1勝2敗で今回も4年生の男の子に敗れた。その直後のインタビューで、彼は言葉少なに試合を振り返り、反省を述べ、「もう、ええやろ」と言い捨てるようにカメラから離れていった。その顔は、悔しさと涙をぐっと押し殺しこらえる男の顔だった。
大会を終わって
大会後当日、公園にはまたいつもの子ども達の練習風景があった。そこには、あの4年生に負けた6年生の姿もあった。顔はきりりとしまっている。彼の気持ちを察してだろう、他の子達も皆、負けた事を口にはしない。いつもと変わりなく黙々と練習する6年生の姿は、むしろかっこよくさえあった。今日の勝負には負けはしたが、彼は今も戦い続け、自分には決して負けていない。きっと、その場にいた子ども達にも、そう映ったのではないだろうか。
番組ラストのインタビュー。あの6年生は、とつとつと、でも力強く語った。「オレはコマがやりたいから、負けたから大会で…。腕を磨く!」
大きな大会で皆の前で負けた姿をさらす結果になっても、それをつくろう事なく、弁解もせず、ただひたすらに、次に向けて練習する6年生の姿。そして、それを見守る周りの下級生達。
決して広くはない公園に集うたくさんの子ども達を映したラストの風景には、目には見えない、子ども達の間の様々な気持ちが映し出されていたように感じ、なぜか、目頭がじ~んと熱くなって仕方がなかった。
たかがコマ、されどコマ
この公園には、小さな休憩所のような施設も併設されていて、近所の大人達も度々練習を見にやって来る。いつも来ている近所のおばさんは、この公園に集う子ども達が、コマを通じて子ども達同士でもまれながら、驚くほど成長していく事を誇らしげに語っていた。
このけんかゴマには仕掛け人がいる。長年に渡り、昔の遊びを継承しようと活動を続けている藤田弘毅さんだ。工作教室や読み聞かせなど、30種類以上の遊びを試みてきたが、どれも続かなかった。しかし、このけんかゴマだけは違った。
これまで話してきたように、このコマには様々な要素があり奥が深い。技の難しさ、道具の調整技術に加え、厳しい勝負の世界がそこにはある。そしてそれに付随し、大きい子から小さい子への伝承、弱い子から強い子に対する憧れ、努力した者への敬意、狭い公園内で大勢の子どもが遊ぶためのルールや協調、それを統制するリーダーシップ。どれも最初からできるものではなく、たくさんの子ども達同士でもまれ、磨かれて輝きを放っていく。
人間が大人になっていく上で、こういう事が、子どもの段階で必須なのだなと、改めて気づかされた思いがした。
当たり前を失った異常な世界
とここまで、胸と目頭を熱くした、感動のドキュメンタリー番組のあらましを語ってきた。
久しぶりにいいものを観たと思ったのも事実だし、感動したのも事実だ。
しかし、冷静に思いなおしてみると、一昔前では当たり前すぎる、単に子どもが公園でコマをしている風景ではないか。少なくとも私の子どもの頃には、大会こそなかったが、コマをはじめ、ヨーヨーやゲイラカイト(タコ)など、子ども同士で競い合い継承し合う遊びは多々あった。
それを思うと、今のある種、異常さとも言える状況に改めて気づく。
まず、子ども達が大勢集まれる場所が極めて少ない。スペース的にも、防犯的にも、それを困難にしている。
余談だが、横浜の山下町駅近くに、鍵のかかった公園がある。「ご利用になられる場合は、どこどこへご連絡ください」という看板が入口にくくりつけられている。防犯上の問題なのか詳細はわからないが、何か過去に問題があり、そうなったのだろう。しかし、管理事務所に連絡して鍵を開けてもらって公園を利用するとは、もはや公園の意を失っている。公園の断末魔ともいうべき姿だ。こんな公園が存在する事自体、私に言わせれば異常な状況だ。
話をもとに戻す。
加えて、子どもの持つ時間的にも、子ども達が放課後に大勢集まれる環境を阻害している。
塾や習い事、今の子どもは忙しいし疲れている。たまに開いた時間ぐらい好きなスマホゲームやらせてよ、という気持ちになるのもわからないではない。
コマの話でも触れた通り、大宰府市の例では、大きな子に憧れ、小学校に上がる前の幼少期から、公園の仲間入りをしている。公園には世代を超え、様々な年齢の大きな子ども達がたくさんいて、各々コミュニケーションを取ってくる。小さな頃から、世代の違う大勢の子ども達がいる環境に慣れ親しむ事ができる。
加えて、このコマの世界には、どこかのスポーツチームの様に、大人のリーダーはいない。子ども達だけの世界だ。全て子ども達同士で調整し決めていく世界。大人のリーダーに導かれる世界とは、また異なる世界だ。
この様な環境は、昔は日常的に存在しながらも、現代社会には殆どなくなってしまった環境と言えるのではないだろうか。
昔は日常だった当たり前の風景が、今では特別な事としてNHKのTV番組になる時代。
この先20~30年後は、どんな日常が、スペシャル番組として取り上げられているのだろうか。
「ここ●●市では、放課後1時間、外に出よう運動をして、大きな成果を上げています」
そんな番組が作られるのも、遠い話ではないのかもしれない。
少し寒くなってきた。
人といる事にストレスを感じず、豊なコミュニケーションが行え、悔しさと敬意と努力と自らの決断力を磨く環境。それは子ども同士の遊びの中にこそあった。
そういう環境を子どもから奪ったのは、子どもではない。大人だ。
吸収力の高い生育期に、よりたくさんの子ども同士で遊べる環境をいかに提供できるか、これからの大人の課題であるような気がする。これからのより豊かな最終形(=大人)形成のために。
今月の1枚
<コメント> |
プロフィール
ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。
フランスで人気の『ジビエ』とは?
皆さん、『ジビエ』という言葉を聞いた事がありますか? |
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ジビエは全体的に低カロリー、高タンパク質です。家禽に対し圧倒的に運動量も多く、えさも自然のものなので脂肪分が少ないんですね。更に、カリウム、鉄などを多く含みますので、健康食品とも言えます。 もちろんフランスでも狩猟をするのは一部の方々で、多くの方々が楽しみにするのは食べる方。ジビエは野性味が強く癖があることも多く、調理に工夫が必要です。なので、家庭料理というよりもレストランでいただくもの、といった位置づけのようです。 ジュイエでは、クリスマス料理に「鹿のロースト、グランブヌールソース」をご紹介しましたが、とても沢山の材料を使い、時間もかかるので贅沢な一品でした。 |
日本でもジビエを、もっと食べましょう。
日本でも昔からジビエは食べられています。シカ、イノシシ、熊。野ウサギ、山鳩、真鴨、小鴨、等々。ただ、それらを狩猟し、食用にしているのは一部の地域や、フレンチレストランに限られます。
昨今、日本では野生鳥獣が増えすぎてしまい、農作物を食べたり田畑を荒らしたり、山林の樹皮や高山植物を食害するなど、農林業や自然環境にとって大きな問題になっています。農作物の被害額も多額にのぼり、耕作放棄地の増加をもたらします。またその結果、野鳥獣のすみかは拡大することになります。
そこで、特定非営利活動法人日本ジビエ振興協議会では、狩猟や有害捕獲されたシカやイノシシを野山に廃棄することなく、食肉として有効活用を図る取り組みをしているそうです。
一方では、家畜の飼料問題も挙げられていますので、もっと広く一般にジビエを食べる文化が広がれば、両方の問題の解決に繋がるのでは、と期待がふくらみます。
年末恒例!『全部おいしいおせち料理』
ジュイエでは、毎年おせち料理の販売をしています。何でも既成のものが手に入る時代ではありますが、手間がかからない反面、お味はイマイチ。そもそも、自分がおいしいものを食べたかったから、手作りしてみました。作って見ると、市販の物より材料はシンプルで、しかもとってもおいしい!なので、全てを手作りにこだわり、『全部おいしいおせち料理』と名付けました。
和洋の2段重です。和には通常一の重に入る黒豆や伊達巻き等。フランス料理の教室らしく、洋の重はフレンチのオードブルを御用意しています。
おせち料理を用意しても家族がなかなか食べない、というお声も多い中、全部おいしくて食べ切りました!というお声を沢山ちょうだいしています。
また、このおせちづくりは私の1年を振り返るとても大切な時間になっています。注文くださるお客様はもちろん、お手伝いしてくれる方々。皆さんの力があって初めて完成する『おせち料理』です。そしてお客様の大切な1年の始めをお祝いすることができ、大変光栄です。
このコラムがupされる時には全て終えていますが、今回も心を込めてお作りしています。
近年、おせちは食べない、作らないという方も増えているようですが、日本の伝統文化を絶やさず、伝えていきたいと願っています。
ジュイエのおせち料理 |
1月の料理コースのご案内
私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。
1月のコース内容
受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。
基本のコースは、当教室大人気の、『ハンバーグ』が登場です。
応用コースではバレンタインメニューでお待ちしています。メインも、デザートもチョコレートを使いますよ。
http://www.7juillet.com/kyousitu.html
プロフィール
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フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ
女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得 |
2015年1月 三ツ池だより 「美を探し求める!」
明けましておめでとうございます。干支は未(ひつじ)ですね。群れをなす羊は、家族安泰を示し、いつまでも平和に暮らすことを意味しているそうです。未の字は象形文字で木の枝葉の茂った様子を表します。未は成長途上の植物を表し、子から始まり亥に至る植物の発展段階を十二段に分けて表したもので、未はまだ熟しきらない成長途上の植物を表している。つまり未熟の未であるとも言われています。
さて、一月にちなむ俳句をみてみましょう。
何とも気持ちのいい、引き締まる思いの中で新年が開けてまいります。
新しい年の健やかな始まりがあちらこちらで演じられている。
年賀状がもう来るころだと郵便やさんを待っている人がいる。元旦に沢山の年賀状を配り終え、安堵感があふれる郵便夫の姿。
新しい年が始まり心地よい日がつづく
まだまだ寒さも厳しい季節です。書斎に籠って新しい年を迎えて「賢人たちからの運命を変える質問」マツダミヒロ著を手に取りました。いつも「近くの人を喜ばせることが出来ない人に、遠くの人を喜ばせることは出来ない」と話されるミヒロさんはこんな質問を書のなかでされています。
「身近な人を幸せにできる人は誰ですか?」
「身近な人に幸せを感じてもらうために何ができますか?」
「自分を幸せにするために何が出来ますか?」
新年に誓ったことが沢山あると思いますが、身近な人も自分も幸せにすることが何より大切なことなのだと思っています。会社における社員の幸せ、顧客をはじめ身近にいる人に本当に幸せになってもらいたいと願っています。幸せを感じてもらう行動しぐさが私に問われています。そしてミヒロさんは次のような質問も用意しています。
「最近大声でわらったのはいつですか?」
「その夢はあなたにどんなメッセージを投げかけますか?」
「学んだことですでに習慣になっていることは何ですか?」
そう質問されてみて、昨年から特に感じていることは「いろは曼荼羅」が癖になってきていることです。習慣に近いのかもしれません。明日の予定を書き終わると「いろは」に手が伸びていきます。以前やっているようでやってなかったことは「席を立つ時に椅子を机の中に入れること」でした。あるときのセミナーで「思ったことを一週間続けてみましょう」という話で挑戦しました。今では他の人が椅子をしまわないのが気になり始め、つい人の分もしまうようになりました。習慣になることを今年は増やしていきたいと思っています。
2015年は羊が大きくなると「美しい」の字となる「美」を探し求める年になるとも思います。美とはバランスです。バランスのとれた社会とは効率第一から共同・あすそわけの、人間らしい生き方の、さらには自然回帰への生活ではないかと思っています。なかなかできることとできないことがあります。一歩一歩でも大胆に踏み出していってほしいと思っています。
新しい年がバランスのとれた輝く年でありますこと、皆様にとりまして幸多い年であることを祈念しています。今年も一年よろしくお願いいたします。
Photos
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(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
笑う門(第1回) あけましておめでとうございます!
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合資会社 笑う門代表 山田浩和 PROLOGUE 連載に寄せてこんにちは! 1971年8月生まれ。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。 ヨコハマNOWでは、2011年6月号から3年半、私が事務局を努めさせていただいている「保土ヶ谷宿名物会」のコラムを書かせていただいていました。この度、新企画として、2015年1月より、(名物会も含め)前述のような私の業務や活動に関して書かせていただくことになりました。 |
(改めまして)あけましておめでとうございます!と、いうワケで記念すべき新企画第一回ということですが、新年というコトで、改めましてあけましておめでとうございます。本年が皆様にとってより良い年になることを心からお祈り申し上げます。 皆さまは楽しく新年を迎えられたでしょうか? 私はというと、実は今、2014年12月29日(月)の18時を回ったところです。 が、話を元に戻して、記念すべき新企画第一回です。 |
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神奈川県商店街観光ツアー12月と言えば、週末は忘年会・年賀状作り・大掃除などなどに費やされるものなのですが、今年はチョット面白い体験をしてきました。 ちょっとご縁があり、「神奈川県商店街観光ツアー」(主催・株式会社JTBコーポレートセールス)というイベントで、南区の弘明寺商店街を「ツアー」してきました。 |
(クリックで拡大画像) |
ポスタビ
貴重な体験という意味ではもう一つ。
こちらもJTBさんの事業ですが「ポスタビ」という企画に関わらせていただきました。
「ポスタビ」とは「ポスター」+「旅」の造語で、中高生が地域のお店や企業を取材しポスターを作る、という企画。
今回、弊社にも公文国際学園の中学2年生が5名も来てくださいました。
一般の店舗と違って、弊社なんかはかなり取材しにくかったと思いますが、一生懸命取材をしてくれました。
ポスターが出来上がるのは2月~3月とのことで、楽しみにしています。
2015年、「笑顔販促」はじめます!そんな面白い経験・体験をさせていただいた12月ですが、当然ながら年末です。 私にとっても、前回まで連載を書かせていただいていた保土ヶ谷宿名物会が10周年であったり、3月には所属している「神奈川県中小企業家同友会」が主催する全国大会が開催されます。 そして、弊社としても一つ、新しい取り組みを始めます。 詳しくは、本連載で少しずつ紹介させていただきます。 そんな感じで、とりとめのない第1回になってしまったかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします! |
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合資会社 笑う門
〒240-0006 横浜市保土ヶ谷区星川3-7-22田中ビル2F
TEL.045-333-3068 FAX.045-333-3068
E-mail yamada@hesochiku.com
Websie http://www.warau-kado.com/
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第22回)
大浦総合研究所 代表/大浦勇三
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第22回)
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
- 梁塵秘抄 -
イノベーションでは、技術の重要性もさることながら、仕組みや好奇心・野生など、包括的な概念の価値が意外と大きいことが指摘されています。中でも“知(経験の抽象化)のネットワーク化”と“変幻自在な自己変革”がキーワードになりそうです。シリコンバレーの強みの一つは“経験を抽象化する”文化風土が根付いていること。経験を生のまま伝える良さもありますが、抽象化することで急速な普及と広範囲の応用が可能になる利点もあります。“抽象化スキル”は今までの延長線上の発想を断つ業物(わざもの)の切れを秘めるもの。最近は、さまざまな発想が短期的スケールに終始しがちですが、本来は長期戦での本舞台こそが勝負を決する場。長期的スケールでみた決定的な武器こそ抽象化スキル。そこでは“まるごとの人間”に寄り添う視点と行動が求められるはずで、文系も理系もない空間の創出が不可欠。ピカソからアインシュタインまでを内包するのが21世紀の経営学。梁塵秘抄では“極楽浄土の宮殿は 瑠璃の瓦を青く葺き、真珠の垂木を造り並め 瑪瑙の扉を押し開き”とあります。浄土の宮殿は宝石でできた館。瑪瑙(メノウ)のドアをふたりで開けましょうとはあの世の夢想。非現実な夢はこの世が悲惨な証拠。多様な選択肢を吟味しつつ長期戦に備える覚悟あるのみ。“生き残れるのは組織も人も、自己変革に成功したものだけです” とは歴史作家・塩野七生さんの言。
“遊びをせんとや生れけん” 「遊」
至芸とは 無常や暗闇が身心に感じられるか否か
時間の概念が一方で短期化、もう一方では長期化
世界的視野とは模倣なく気宇壮大、と本田宗一郎
クルマに命を賭けた本田宗一郎は人生の価値を、失敗しないことではなく“倒れるごとに起き上がる”ことにあると考えていたようです。宙に舞う翼をもち大地にも根を張る生き方、そして楽観性の裏にある一種の無常観。社長退任後、ホンダの社員・家族が集うファミリーディで、現役を含む歴代社長を前に“俺も歴代の社長も皆バカばっかり。ホンダはバカが社長になるのだから、社員の皆さんが頑張っていただかないと会社は大変なことになる”と社員・家族を激励、数万人の会場が爆笑と歓喜に包まれたとのこと。本田宗一郎以外の誰も簡単には真似できない愛嬌と人間愛。仕事と生活が文化・夢・哀歓の形でぴったり一致。人真似をするのは自由だが、それでは企業は転落と崩壊の道をたどるとの信念。一生懸命とは会社のためよりは自分のため。一生懸命が価値を持つためには正しい理論にもとづく必要があるとは、さすがに根っからのエンジニアですね。
“仕事をせんとや生れけん” 「献」
我々の目は時々曇る しばしば反面しか観ない、見たいものだけ観る
敵に感情移入 相手の判断や行動の裏を知る、彼らの身になり考える
写実から象徴 一度昇った梯子を降りる勇気を持て、と画家速水御舟
日本画家・速水御舟は写実・細密描写から象徴的・装飾的表現へと、挑戦と脱皮を繰返しました。代表作“名樹散椿(めいじゅちりつばき)”はキュビズムにも似た表現を取り入れながら、背景の金地は金砂子(金の細粉)を一面に撒き散らした世界水準の日本画。長い間、山種美術館のチケット表紙を飾っています。何度も梯子を高くまで昇りながら、平気でそこを下りて別の梯子の高みに挑戦する開拓者魂。もう一つの代表作“炎舞”では、毎晩焚き火をたき、そこに群がる蛾を写生し生きて飛ぶ姿を表現。しかも背景の闇は黒に朱を混ぜ、単なる黒ではない深い闇。御舟は“もう一度描けと言われても二度とは出せない色”と語ったといいます。生物に造詣の深い昭和天皇は、この画に“蛾の眼が生きているね”と語られたとか。梯子を平気で降りる勇気のど真ん中には“地球を知るためには宇宙のことをわかる必要がある”との確信が秘められていたのでしょうか。
“学びをせんとや生れけん” 「学」
一方向に振れる世界 広い視野で市場をどう活用するかを冷静に判断
空洞化は怖れるものではなく新世界の始まり 観念を扱う人間の出番
荷物が重く感じる時は己の力量が不足 才能・個性を価値に変換する
“うまくきれいに失敗することだけは厳禁”とはスタンフォード大学のイノベーション規範。地球環境汚染は、成長そのものではなく鉱物燃料・原材料を使った生産が根本原因。知的資源を活用した成長への大転換が必須で、日本は江戸時代に経験済の先頭ランナー。従来とは質の異なる成長であり、医療・農水産・教育・娯楽を含む広大な分野での文化的成長。人間の歴史を俯瞰すれば、精神的・文化的な面でのビッグバンが何度かあったことは考古学の教えるところ。地球は綺麗なものと汚いものを抱え込む魅力的な混沌世界。資本主義はこのままでは過剰に向かって突き進むシステム。世界も日本も、労働分配率以上に労働者間の格差の方に大きな課題。今こそ知本主義を前面展開する絶好の機会。空洞化でなく、今までにない価値を創造する新世界の始まり。“日本の将来は、サービス産業を知識産業として強くできるかどうかにかかっている”とビル・エモット。
「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」
今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(十)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。
「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/
(第22回了)
大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール
大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/) 石川県七尾市出身。 筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。 主な著作物:
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第16回売れるモノづくり研究会セミナー
— ものづくり中小企業がクリエイティブになる-クラウドソーシング活用セミナー —
景気の低迷が続く中、ものづくり中小企業には、積極的な販路拡大や新商品開発など新しい取り組みへの必要となっています。そして効果的な広報宣伝活動やPRを行うには、ロゴやパッケージ、印刷物などにクリエイティブな要素を取り入れて行くことが重要です。今回のセミナーでは、自社で内製化が難しいクリエイティブな仕事を、クラウドソーシングサービスなどを活用し、ブランド力をアップする方法についてご紹介します。
セミナーでは、デジタルハリウッド大学大学院教授の松本英博氏に「ものづくり企業がクリエイティブになるとは」というテーマで講演していただきます。
また、世界のフリーランスにアクセスできるクラウドソーシングサービスを提供しているワークシフト・ソリューションズ株式会社代表取締役兼CEOの荒木成則氏をお招きして、ものづくり企業が自社メッセージを伝えていくために、クリエイティブな要素を取り入れていく必要性といろいろな仕事の依頼方法についてお話しを伺います。
ものづくり企業の方、クリエイティブなお仕事をされている方・・皆様のご参加をお待ちしております。
概 要
日 時 | 2015年1月26日(月) 18時半~20時半 |
会 場 | さくらWORKS<関内> |
住 所 | 〒231-0012 横浜市中区相生町3-61 泰生ビル2F 右側イベントスペース |
会 費 | 会費:2,000円 |
主 催 |
横浜売れるモノづくり研究会 NPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボはまリンクプロジェクト |
※終了後無料でご参加いただける懇親会を開催いたします(懇親会終了予定21時) |
セミナー内容
- 挨拶
横浜売れるモノづくり研究会 代表 猪狩惇夫 氏 - オープニングトーク 「クラウドソーシングサービスとは?」
横浜コミュニティデザイン・ラボ はまリンクプロジェクト 酒井直子 氏 - 基調講演 「ものづくり企業がクリエイティブになるとは」
デジタルハリウッド大学大学院教授 松本英博 氏 - パネルディスカッション「クリエイティブな仕事の依頼方法のポイント」
デジタルハリウッド大学大学院教授 松本英博 氏
ワークシフト・ソリューションズ株式会社 代表取締役社長 荒木成則 氏
はまリンクプロジェクトリーダー 酒井直子 氏
株式会社ともクリエーションズ 代表取締役 渡邊桃伯子 氏
参加申込は下記からお願いいたします。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/3//
「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります
いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。
「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。
「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。
毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。
売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/
<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476
メディア掲載情報
- 2012年2月20日 神奈川新聞 横浜売れるモノづくり研究会代表・猪狩惇夫の記事が掲載されました
- 2011年11月11日 日本経済新聞 「この企業ここがポイント」内に横浜売れるモノづくり研究会についての記事が掲載されました
- 2011年11月9日 日刊工業新聞 「横浜売れるモノづくり研究会」活動の輪広がり100人規模目指す
- 2011年6月6日 「売れるものづくり」をどう実現するのか―「横浜売れるモノづくり研究会」の取り組み
- 2011年1月21日 ヨコハマ経済新聞
横浜で「売れるモノづくり研究会」が発足-中小企業を支援 - 2011年1月19日 カナロコ — 神奈川新聞社
売れるモノづくり研究会発足へ、中小製造業をコンサルらが支援
書評 「霖雨」 PHP文芸文庫 葉室 麟 著
「千世は視線を落として少し考えていたが、やがて顔を上げて、“わたしはふつつか者にて、夫より離縁された身でございます。これから、どのように生きて参ればよかろうかと思案しておりましたところ、先生の詩を知る機会を得たのでございます。”」霧と雨を表題にした物語である。この「底霧」は次のようにはじまる。「朝霧が深かった。庭先の木々さえ滲んで、まるで水墨画を見るようで、遠くはおろかあたりはすべて白濁のなかにあった。春浅い部屋の中では吐く息も白い。」 「雨、蕭蕭(しょうしょう)」の項のはじまりは「雨が蕭蕭と降っている。日田盆地に降る雨は、霧のように町を覆い、周囲の山々を薄墨で刷いたかのようにぼんやりと浮かび上がらせる。」 |
塾政をつかさどる淡窓は咸宜園を運営している。咸宜園には郡代からの度重なる干渉がある。「塾生たちは辛い思いをしようとも、ここに学ぶ喜びがあることを知っております。どうか、私たちを信じていただきとう存じます」 「淡窓は、そうか、とうなずいた。言われてみれば、それは淡窓が日頃から考えていることではあった。学問の道に困難はつきものだ。それに負けぬようおのれを鍛えていくからこそ道が開けるのではないか。“学問は、一日怠れば一日分だけ滞る。歩みを止めるわけにはまいらぬな。”さようでございます。」
「銀の雨」の始まりは「明るく晴れた昼下がりだった。降りだしそうな空模様ではなかったのに、日差しは変わらずに、細い雨がしばらくの間降った。千世は博多屋奥座敷の縁側に出て空を見上げた。白く輝く雲がところどころ薄黒く滲んで見え、薄紫に見えるところもある。針のように銀色の雨が降ってくる。だが、濡れるのを厭うほどでもない天気雨だ。“狐の嫁入りですな”縁側を通りかかった久兵衛が、庭に目を遣って言った。」淡窓の弟の久兵衛は日田代官所の御用達になっている博多屋を取り仕切っている。久兵衛は千世の顔をじっと見つめて言葉を継いだ。「おわかりでしょうが、心配しておられたのは千世さんと臼井様の事です。おふたりは何か事情がおありのようだ、と案じておられました。郡代様はいずれおふたりのことをあげつらってこられるのは目に見えています。」
「小夜時雨」では「旦那様は昔、千世様によく似た方と言い交した仲だったそうなんです。でも、その方は早く亡くなられて、旦那様のお内儀さんになれなかったそうです。千世様がいらっしゃって、たぶん、旦那様はその方を思い出して親身にお世話されているだけですから、変な勘繰りはしない方がいいって」そのあと、久兵衛は代官所に呼び出された。そして「雪まじりの時雨が降っていた。門から役所の玄関まで敷き詰められた鋪石がしっとりと濡れて黒ずんでいる。」
「春驟雨(はるしゅうう)」では「久兵衛の苦労を見てきた淡窓にはなぜ久兵衛がひとから責め立てられねばならないのか得心がいかなかった。」「まず自ら先んじて行わねば、ひとは動きませぬ。わたしは為すべきことを為したまでと考えております。」そのあと変化起こる。「この日の夜は驟雨が間断なく通り過ぎた。時より、遠くで春雷が轟き、稲妻も光った。千世は蔵に入り、書物を探していた。久兵衛から頼まれた書物を取り出し、懐に入れて手燭を持ち、蔵から出ようとした時、中庭に雨に打たれながら立っている人影に気づいた。」
「降りしきる」で「煙雨が日田を覆っていた。町並みや往還が薄墨色にかすんで見える。雲が低く垂れこめてうす暗くはあるが、昼が近いというのに、豆田町の博多屋は大戸を閉めてひっそりと静まりかえっていた。」著者は天候を描写しながら、筋書に思いをのせていく。「罪を認めるわけではありませんが、百姓衆の不満もむりからぬことだ、とも思っています。時期が悪すぎました。まさか、これほど凶作が続くとは思いもよりませんでした。」
「朝霧」「恵雨」「雨上がる」と章立てが続く。
「天が泣く」の項では「そうであったな。千世の胸中を憐れんで、天も泣いておるのであろうか。銀色に輝く雨はなおも降り続いていた。」そして「念ずれば思いはいつかかなうものだとわしは思うておる。千世が日田に戻って参る日は必ず訪れるようなきがするのだが。」「待つことだ。望みを捨てぬことだ。さすれば思いはきっとかなうであろう。」
裏帯に「理不尽なことが身に降りかかろうとも、諦めず、凛として生きることの大切さを切々と訴えた歴史長編」とあった。
(文:横須賀 健治)
第25回 どあっぷ 「『猫の手ゼミナール』を取材 猫の手も借りたい!」
みなさんこんにちは! |
「ど・あっぱーず☆見つけ隊」vol.15
大学生・専門学生向け学習塾「 猫の手ゼミナール」
あけましておめでとうございます。今年もど・あっぷ!は様々な活動に取り組んでいきたいと考えていますので、ぜひぜひ皆さん今年も暖かい応援よろしくお願いします! さて、今回は新年1発目の団体紹介ということもあり、今までの回と少し異なったタイプの団体を紹介したいと思います。今までは学生団体や非営利団体の紹介が多かったかと思いますが、今回はとある企業の代表の方にお話を伺ってきました。大学生・専門学生向けの塾「猫の手ゼミナール」の塾長である渡邊 峻(わたなべ しゅん)さんです。 |
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今回は、4月から大学生になる方や、大学生のお子さんやお孫さんがいらっしゃる方達だけでなく、渡邊さんのお話は起業に興味のある方にもご紹介したい内容ですので、興味のある方はぜひ最後までおつきあいください。
多様化する入試形態と広がるギャップ
大学生や専門学生向け学習塾というと、国家公務員試験などの試験対策や資格対策をする予備校が想像されますが、猫の手ゼミナールはそうした予備校とは支援内容が異なります。猫の手ゼミナールが支援するのは、主に単位取得と就職活動です。筆者自身卒業を間近に控える大学生ですので、大学生向け就職支援予備校はいくつか聞いたことがあり、また利用している友人もいました。しかし、「単位取得支援」を行なっている予備校は聞いたことがなかったので、最初は「ユニークなビジネスをされているな」という認識でした。しかし、渡邊さんのお話を聞いていくうちに、単位取得支援が必要であると切に感じる現状があることが分かってきました。
2014年3月にNHKで大学中退者の特集を行なっていました。その番組によると、大学の進学率は約50%で、進学した者のうち、ここ数年は中退者が約10%、数にすると約6万人が大学を中退しているそうです。20年前、中退者は入学者の約5%だったことを考えると、大学に入学する意味が変化している中で単純には比較できないとは思いますが、しかし増えているという現状があります。
中退の理由は様々ありますが、その中の一つが「単位が取れない」というものです。入学試験に合格した者はその大学で学ぶだけの力があると認められた人であり、したがって単位が取得できないのは本人の努力不足であるとばっさりと切り捨ててしまええれば問題は単純ですが、どうやら問題はもっと深いところにありそうです。
少子化が進む中、大学は学生を獲得するのに必死です。学生を獲得するために行なっている対策の一つとしてあげられるのが「入試形態の多様化」です。今までは前期後期日程だけだったのを、中期日程を増やしてみる、一律5科目受験だったものを3科目受験も選択肢として選ばせる、センターの得点だけで合否を決めるなど様々あります。猫の手ゼミナールが特に支援しているのは、この中でも特にAO入試や推薦入試と呼ばれる入試形態で合格した学生達です。AO入試や推薦入試の特徴は学力検査がないことです。私はAO入試や推薦入試といった形態は、学びたいという気持ちのある人が学ぶ機会を得やすくなるという点において非常に意義のあるものであり、今後も存在すべきだと思います。しかし、そうは言うものの、ある一定の基礎が身に付いていないと大学で学ぶ内容が身に付かないのもまた事実です。数学が苦手でも他の点で評価されて入学してきた理系の学生は、再度大学の授業で数学に苦しむことになります。高校の内容でつまづくと、大学で学ぶことはその高校の内容を大前提としているため、全く歯が立たなくなり、単位が取得できずに進級ができず、中退という決断にいたってしまうのです。
渡邊さんは、大学に在学中にこうしたAOや推薦枠で入学し、大学の講義についていくことができない学生の支援をボランティアでしていたそうです。最初は知人数人に数学を教えていたところ、口コミで評判が広がり、1回勉強会を開催すると100人もの人が参加するまでに大規模になったそうです。それほど多くの大学生が支援を欲していたと言うことの表れではないでしょうか。
ボランティアの難しさ
渡邊さんは学習支援の必要性を感じながらも、次第にボランティアでやっていくことの難しさを感じるようになったとおっしゃっていました。同じ大学生が大学生を教えているため試験日程がかぶってしまい、他の生徒の手助けなどしている余裕がないなか、無報酬で指導してくれる学生は他にいるのかという不安があったそうです。また、なんと渡邊さんは数学を教えるためのプリントを自分で作成し、人数分を印刷して無料で参加者に配っていたそうです。参加者が数人のうちは少なかった負担も、100人ともなれば印刷代などのコストが大きくなってきます。 自分が卒業した後、この活動を続けていく人はいないだろうと思い、なんとか支援を継続して行なう方法はないのかと考えた渡邊さんは起業を思いつくのでした。そこでうまれたのが「猫の手ゼミナール」です。
不安と喜び
起業に関して不安はなかったのか尋ねたところ、ノウハウも資金もない中始めたビジネスが果たして本当にニーズはあるのかとても不安だったとおっしゃっていました。しかし、2014年の4月に始めたばかりにも関わらず、着実に生徒さんが入塾していて、分数ができず、他の予備校では入塾を断られてしまった生徒さんも猫の手ゼミナールに参加し無事に合格点をとることができるなど実績もだしていっています。
渡邊さんは大学時代に無償で支援をやっていたこともあり、当初はお金を受け取ることに罪悪感があったそうですが、しかし最近ではビジネスをしてよかったと思えるそうです。「大学でやっていたときは無料だからこそ参加していた人たちもいた。しかしビジネスとしてこの支援活動を始めて、お金を払っても『ありがとう』と言ってもらえ、感謝の気持ちを表してもらえたことに非常に嬉しさを感じた」とはなしてくださいました。
最後に渡邊さんは、1度ドロップアウトすると学校に戻るのは非常に大変なので、少しでも不安に思うことや、行き詰まったら相談だけでもしにきて欲しいとおしゃっていました。不安を抱えている方や支援に興味がある方は1度ホームページを訪れてみるのもいいかもしれませんね。
猫の手ゼミナールHP: http://nekonotezemi.com/index.html
取材後記
大学は多くの人にとって初めて「自己責任」という言葉を強く痛感する場なのではないかと個人的に思います。高校までは担任の先生がとても真剣に進路や成績について心配してくれて、いついつまでに何をしなければいけないか先回りして教えてくれます。しかし大学に入った途端自分で必要な情報は集めなくてはいけなくて、知らない人は調べない方が悪い、準備しなかった自分が悪い、となるわけです。そう言われてしまうとぐうの音もでないぐらい事実なのですが、しかし戸惑いが先行してしまい、このギャップにすぐに慣れるのは困難です。大学の教員もまたとても心配し、策を講じてくださっているようですが、高校ほど親密な関係が築きづらく、その気持ちも学生には届きづらいです。そんな「孤立無援」だと感じてしまう環境の中でどんどん授業にもついていけなくなっていけば「もう無理だ」と思ってしまう気持ちもよくわかります。そのような中、お金と言う対価を払うことで手厚い支援を受けられるという選択肢があることは非常に心強いと思ったのでした。
ど・あっぷTV
猫の手ゼミナールの詳細が動画でわかりますよ!是非こちらもご覧ください。
http://www.youtube.com/user/douptv
(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:大越 実花)
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横浜宝石物語(第3回) 創業者の祖父(祖父との思い出)
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横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子 PROLOGUE 連載に寄せて私は横浜でおそらく一番古い宝石商の三代目です。 創業者の祖父、二代目の父、三代目の私とそれぞれの時代で宝石商としての形態は違っていますが、良い宝石を選び、作りの良いジュエリーを製作して、ご提供するということについては、3人とも拘ってやってきたと思います。 祖父が宝石の製造メーカーとして地位を築き、父が小売店として皆様に愛されたからこそ、今、私が宝石商としてやっていられますので、いつか祖父のこと、父のことを書いてみたいと思っていました。 |
この度、横浜宝石物語の連載のお話を頂きましたので、念願が叶い、とても嬉しいです。横浜の歴史も交えながら、祖父、父、私の宝石物語を綴っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
宝石商の三代目私は現在、横浜の馬車道で「横濱宝石美術館エメラ」という宝石店をしております。 横浜の景色や思い出をジュエリーにした「横浜ジュエリー」などオリジナルジュエリーの製作と販売、デザイナーやアーティストの作品の展示販売、お客様のご要望をかたちにするリフォームやオーダージュエリーのご注文を承っています。 私の宝石商のルーツである創業者の祖父のことからお話しさせて頂きたいと思います。 祖父を語る(その3)私は祖父にとって初孫でしたが、当時は男でないと跡継ぎにはできないという時代だったので、私が生まれて、女だとわかると祖父はとてもガッカリしたようです。 また、父の姉を幼い頃に亡くしていて、女の子が欲しかった祖母がとても私を可愛がってくれたので、小さい頃から同い年の従姉妹と祖父母と4人で旅行に行くのが毎年の恒例行事になっていました。 写真は伊豆に旅行に行った時のもので、右側の落ち着きがないのが私です。(笑) 祖父は戦前から、海外から輸入された宝石を日本の業者に卸したり、宝飾加工の仕事をしていましたので、たくさんの宝石を見てきたと思います。 スタールビーは赤い石の中に白いスターが出る物が一般的ですが、ビルマ(ミャンマー)産のこのスタールビーは赤いスターが出る珍しい物なのです。 |
(クリックで拡大画像) (写真提供:大島貴子) |
(横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子)
横濱宝石美術館エメラ
〒231-0011 横浜市中区太田町5-61 馬車道商栄ビル1階
TEL.045-681-0603 FAX.045-228-9828
Websie http://emera-yokohama.jp/
第28回 住まいの片づけなんて、建築家のやることではない?
鈴木アトリエ一級建築士事務所
代表 鈴木信弘
住まいの片づけなんて、建築家のやることではない?
設計事務所を始めて20年。
老人ホームや病院、集合住宅などの設計も手がけたが、個人のお施主様から住宅の設計を依頼されて建った家はすでに100を超えた。設計という行為は楽しく、全く苦にはならないのが不思議。いろんな家族・敷地・予算・要望があり、その中で最適な解答を作る設計行為はそれぞれ楽しい思い出である。もちろん至らず怒られることも多々あった。
ひたすら走ってきた20年。そんな経験の多さを評価されてか、住宅設計の小ネタをまとめるようにと編集者にいわれて、2年掛けてまとめたのが昨年出版した「片づけの解剖図鑑」(エクスナレッジ社)である。
書いた本人である私は当初から「設計のアイディア集」を出すのだとばかり思っていたのだが、編集のF氏はなぜか「建築」という言葉も「設計」という言葉も使わず「片づけ」というキーワードを提示してきた。当時タイトルの見本版が送られてきた時、私はかなり落胆した。
なぜならば「建築家」という職能は、芸術性の高い空間の創造、意識の高揚をもたらす空間芸術を目指すのだから、その意識で歩んできたつもりの自分が出す初めての本が「片づけ」だなんて、ちょっと悲しすぎる、とヤケ酒でした。
みなさんにとって建築界とはどんなところでしょう?
(建設業界ではないですよ、建築家業界のことです)
私はちょっと変わっていると思っています。難しいことを言うほど重宝されるし、あらゆるものを建築というフィルターに置き換えることが創造とされ、芸術性の高いと自己申告しておこなう操作・思考・言論については、訳がわからない言葉でも重んじられるが、その一方でいわゆる日常家庭的な内容、たとえば家事・炊事・使い勝手などについて真剣に語ると、とたんに軽く見られて、業界の端部にレッテルを貼られて押しのけられてしまうのです。
出版をしてから出会ったある著名な建築家からは「君ねえ、「片づけ」なんてものは、建築家の仕事ではないよ!そんなものは○○に任せておけばよい。」とほとんど差別用語に近いことも言われたものです。
さて、そんな業界内輪の冷ややかな視線の中でこの本は建築系出版の本としては短期に異例に売れたのです。1年間で6万部を超えるヒット。NHKを初めとするテレビ、ラジオ、そして雑誌、新聞、いろんなメディアから取り上げていただきました。
しかし一番驚いたのは私。なぜって「この本を読めば、即効、部屋が片づく!」
という紹介のされ方にかなりの違和感を感じていたからです。
実際私の本には「片付ける方法論」については一つも書いていません。
今まで、当社に来た顧客の暮らしの悩みを設計上でどう解決したかという事例を紹介しただけですから、モノのしまい方や、掃除の仕方が書かれている訳ではないのです。それでも多くのメディアが来たのには理由があり、「家事・生活・暮らし」分野に初めて「建築設計の専門家」が登場した!ということだったようです。
この分野ではなぜかカリスマ主婦や、元モデルの主婦、芸能人たちが著した片付け本の世界がすでにあり、すてきなライフスタイルの紹介や、暮らしぶりを演出した、あこがれ本がコンスタントに売れているのですが、そこに不細工な男が登場し「片付けられないのはあなたのせいではありません、その空間を設計した人のせいです」、なんてこと書いたものですから、今まで片付けがうまくいかずに失望していた人々に安心感と共感を与えてしまったのです。
編集のF氏が私をその世界に放り出したのですが、彼の読みは見事に当たったということでしょう。
街もビルも店舗も住まいも、暮らしも私たちが「設計」するいろんな建築は、すべて人が使うものであり体験する場所であり、ものすごくそれらの関係は親密で繋がりの深いものだと思っていたのですが、みなさんの側から見ると、私たち「建築家」はかなり遠い存在になってしまってるようです。
いつのまにか自分たちで砦をつくってしまったのでしょうか?
じつに身近なところに私たちを求めている人が大勢居るのにそれを知らずに、近くに居ながら、全くリンクしていなかったようなのです。
そんなことを感じた1年でした。
建築との新しい関わり方、今年も考えていきたいと思います
片づけの解剖図鑑(エクスナレッジ社)とその中国版
「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
AA STUDIO ナビゲートサービス
中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談 無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案 ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
北島 俊嗣 | http://kitajima-architecture-design.com |
久保田 恵子 | http://studio5st.com |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
高橋 正彦 | http://www.takahashi-arch.com |
廣田 裕一 | |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
古川 達也 | http://furukawa-arch.com/ |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
山田 慎一郎 | http://www.yamadastudio.com/ |
ボリビアを楽しもう!!
2014年10月24日に開催したボリビアを楽しむチャリティイベント「ボリビアナイト」が帰ってきます!
「全日本製造業世界コマ大戦2015」にボリビアからエントリーがありました。ボリビアの若者たちを横浜に呼びたいと「ボリビア・コマ基金」を始めました。
これまでの皆様のご協力もあり、2人のボリビアの若者を横浜に呼ぶ準備が進んでいますが、滞在費などあと少し皆様のご支援が必要です。
そこでもう一度、「BOLIVIA meets YOKOHAMA」と題して、ボリビアにゆかりのある人たちと、横浜で楽しく「ボリビア・コマ基金」のことを語りながら、食べて飲んで楽しむイベントを開催することにいたしました。
プログラム
日 時 | 2015年1月31日(土) 13時~15時 |
会 場 | さくらWORKS<関内> |
住 所 | 〒231-0012 横浜市中区相生町3-61 泰生ビル2F 右側イベントスペース |
会 費 | 2,500 円(学生1,500円)(飲み放題、フード付) |
主 催 |
ヨコハマNOW 横浜コミュニティデザイン・ラボ |
申 込 | facebookページで「参加する」を押していただくか、メールで件名に「ボリビアイベント参加希望」と書いて info(アットマーク)yokohamalab.jp までお送りください。 |
※なお、会費のうち500円はボリビア・コマ基金に寄付させていただきます。 |
ご参加いただくボリビアゆかりの方々
- 一般社団法人・日本ボリビア協会 専務理事 杉浦篤さん
- 「ボリビアと日本」南米音楽愛好家 大澤淳さん 「フォルクローレが繋ぐコマ大戦」
ボリビア・コマ基金と前回のイベント「ボリビアナイト」については、下記のページと動画をご覧下さい。
「コマ大戦世界大会 ボリビア・コマ基金にご協力お願いします!」
http://yokohama-now.jp/home/?p=11627
「ボリビアナイト」を開催しました
http://yokohama-now.jp/home/?p=12027
ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第31回 第6章 社会人編 3
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HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
横浜、街と風(社会人編) 17(32)
ピンハネ
超高級クラブ “ホワイトホース” では流行歌をいち早く取り上げるのでホステスさん達には受けていましたがまだ19才か20才位の自分が歌う曲がお客に受けているとは思えませんでした。お客の年齢層が大体40才から60才台。大好きなビートルズはまったく受けず、フォークはクラブには合いません。やがてアメリカンオールディーズを歌うとお客の反応が良いことに気づきポールアンカやニールセダカを演奏すると客が踊りだします。そこで片っ端からオールディーズの客を覚えるとやがて高齢のお客たちにも受け始めました。そこでオールディーズの曲をメドレーにつなぐパターンをいくつか考えたらやがてこれが人気メニューになりました。元々オールディーズは16才の時映画「アメリカングラフィティ」にはまり一時凝っていたので自分も大好きなので助かりました。
ホステスさん達やスタッフとも仲良くなり店の社員旅行で熱海まで連れてって貰ったり本当にかわいがってもらいましたが、そんなある時たまたまある人からホワイトホースでは自分にギャラが倍以上出ていると聞かされました。事務所がピンハネしていたのです。本当はこういうことは公然の秘密ですがあまりの額の違いに驚いてしまいました。少しやる気を無くしこの店を辞めたいと考えていた所へ横浜関内のおしゃれなディスコのバンドでボーカルをやらないかという話がきました。そこは洋楽だけでOKという事だったので2軒目のお店をやめてそのバンドに加入することに決めました。
伝説のディスコ “マジック”
そこは現在のBarBarBarの二階にあったマジックという店で3人の共同経営者による運営でした。一人は元ブルージーンズのシンガーで関内で有名な売れっ子弾き語りをしていたKさん、一人はこの店の内装を設計したTさん、もうひとりはママを兼ねるEさん。何しろ当時にしては豪華でオシャレな内装で照明や音響にすごくお金をかけていました。当時は珍しかったJBLの馬鹿でかいスピーカーが2発あったり、ガラス張りのDJブースに照明兼音響スタッフがいたり、安っぽい服では入れない大人の雰囲気が漂っていました。ある日メンバーが集合しドラム、ベース、リードギターの3人とサイドギターの自分と4人編成で“BIC BOYS”と名付けられ、全員がコーラスが出来るのが売りということで早速リハーサルが始められました。自分が得意とするオールディーズやそのとき流行っていたディスコナンバーを片っ端から覚えレパートリーにしていきました。シンガーのKさん指導の下、来る日も来る日も練習練習の日々。そしてやがて初舞台。しかしお店はあまりお客さんが入っていませんでした。この店にはすでにジャズ系のトリオが入っていましたが、客受けの良いポップスやダンスナンバーが出来るバンドを育て店を活気づけようということで、その内ジャズのバンドは外され自分たちだけになりましたが、果たして自分たちでこの店を繁盛させられるのか不安でした。
Bic Boys
当初ガラガラだった店もやがてお客の数も増えていき、常連も現れ当初は聞いているだけの客も徐々に踊るようになり、週末にはまあまあ埋まるようになってきました。豪華な内装に加え、この “マジック” はフレンチベースのお料理が半端じゃなく美味しかったのです。まあ少しは自分たちの功績もあったかとは思います。やがてサウンドを豪華にしようという事でキーボード入れることになり、昔東京でやっていた頃のバンマスのSさんを呼び5人編成になりました。この時自分はコーラスパートのトップ、ファルセットボイスが得意でアースの「宇宙のファンタジー」やスタイリスティックス、18番はエディホールマンの「ヘイゼアロンリーガール」。この当時は洋楽ではファルセットでリードをとる曲がヒットしていて、マイケルのアルバム「オフ・ザ・ウォール」が出た頃です。「今夜はドントストップ」や「オフザウォール」なんかも演奏していました。
始めて半年頃にはかなりバンドの音もまとまってきて、お客様も入る様になりファンもつくようになりました。
しかしそんな頃メンバー間とうまく行かなくなり1年経たないうちに解散となり “マジック” のやめることになりました。今考えれば私のワガママが原因だったかなと思います。メンバーや可愛がってくれた人たちには申し訳なかったと思っています。若い頃は短気で激情型でした。まったく恥ずかしい限りです。
ローズバンド
“マジック” が伝説になるのは実は私たちが辞めた後、フィリピンバンドの五人組超絶テクニックのローズバンドというのが入ってからです。ボーカルのクリスは日本で人気があった元GSのスナーズのリードボーカルで、当時流行り始めたジャーニーやフォリーナーをいち早く取り入れ原調で歌ってしまうロックな驚異のハイトーンボイス。ベースのアトはフォートップのリードシンガー “レヴィ・スタッブス” にそっくりのソウルフルなハスキーボイス。ケニーロジャースの「レイディ」なんか歌わせると鳥肌が立ちました。ギターはファルセットでサンタナが超うまかったし、何しろ全員コーラスが出来てその美しさはハンパではありませんでした。彼らが入ると噂が噂を呼び連日超満員で週末は入口に長蛇の列が出来、店内と店外でトランシーバーで連絡を取り合いお客を整理するほどでした。たしか3、4年は続いたと思います。私も度々聞きに行き正直これはかなわないと思い逆にファンになってしまいました。
ファルセットボイス(1)
今回はファルセットボイスについてお話したいと思います。私ごとですが、先ほど書いたように裏声は私の売りでしたが、ある日突然まったく出なくなりました。まだストーリーとしては先の話なので後でじっくり語りますが、歌い手として人生最大のショックでした。そこでファルセットとはなんぞやという事でお話してみようと思います。
声には普通に喋る声、歌う声を『表声』。その上の一段高いところにある力のない声を『裏声』と呼んでいます。ファルセットは歌用語で使われる場合、『裏声』の種類の一つです。
裏声には基本的に3種類、ミドルボイス、ヘッドボイス、ファルセットボイスです。一般的に低い声から上げていってレからファの間で切り替わるのがファルセットボイス、わかりやすく言えばミッキーマウスの声ですね。あとは喉の開け方締め方、出す息の量の調節によって名前が変わります。
まずヘッドボイスですが、息を多く使い喉を開いて出すクラシック的な発声で、ダークダックスさんなんかこれだと思いますが、芯のない柔らかく太い声で、かなりの訓練が必要とされます。普通、下から発声練習した場合、転換点がはっきりしてしまいますが、この発声だとスムーズにつながります。ファルセットボイスは更に喉を詰め息を軽く漏らした感じで出す裏声です。ポピュラーミュージックのほとんどはこれだと思われますが、代表的なところを挙げれば、ビーチボーイズなんかがこれではないでしょうか。更にもっと喉を詰め息を絞ると芯のある硬くて強いミドルボイスになります。ソウルシンガーで裏声でソロを歌う人はこれに近いと思われます。強く喉を搾り出すので相当強くて大きい声帯を持っていなければいい声は出せないでしょう。更にこのミドルボイスを鍛えに鍛えるとヘヴィメタルの高音になります。喉ちんこは上に上がりきって見えなくなり固く大きな力強い声になります。これはミックスボイスと呼ばれることが多いようです。
実はこの上に裏声の裏声ハーモニックスというのがあります。これは持って生まれたものやと、てつもない訓練によって実現出来るとされています。女性ではラビングユーのミニーリパートンやマライヤ・キャリー、男性ではアースウインド&ファイヤーのフィリップベイリーなどが出せます。以前私も発声練習の時偶然何度か出たことがありますが、これが出ると更に一オクターブ増えることになります。
(続きは次号へ)
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL DATAMAP
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
♪世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも♪
絵・千絵崇石 |
読み人:鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん) 現代語訳・・・静かな海に海人が綱手を引いて小舟が行く いつもと変わらない風景、いつまでも変わらずにあってほしい。人の世は愛おしさにあふれている。 鎌倉の右大臣とは 源頼朝の次男で第3代将軍、源実朝の事です。この歌は彼が、20代前半の頃の歌だと思います。 |
鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなって、実朝の兄、18歳の源頼家が2代将軍になりますが、父の頼朝が築いた側近達との関係性を大事にしないで、独裁政治を求めたので、古い家来たちの反感を買い、修善寺に追放。その後暗殺されてしまいます。
実朝はその後を継いで12歳で3代目の蝦夷大将軍になりました。
実権は母の北条政子の家族達に握られています。大きくなるにつれて自分でも内政に力を注ぐようになりますが、常に政情が不安な状態で幾多の非劇に遭遇しながらの人生でした。そんな日々の中で 和歌を学び創る事が心に平安を生む唯一の支えになっていたのでしょう。彼は徐々にその才能を開花させて自分独自のうたの世界を作り上げてゆきます。鎌倉で生まれて鎌倉で生きた、百人一首の中でも彼だけがその時代の文化の中心地、京都を知らないで生きた歌人です。
15歳で藤原定家の弟子となり18歳の時に初めて自分の歌を京都の定家のもとに送っています。武よりも文を好んだ将軍で京都の朝廷ともうまくいっていました。しかし彼も28歳の時に鶴岡八幡宮に自分が右大臣になったお祝いに参拝した帰りに、鳥居の近くにあった銀杏の大木に隠れていた甥に襲われて殺されてしまいます。1219年1月27日、雪が沢山積もっていた日だという事です。そして源頼朝の血筋は断絶。彼が死ななければ、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を打倒する気持ちも起こさず、従って隠岐島に流される事もなく、藤原定家が撰んだ百人一首ももっと違うものになっていたでしょう。そういう意味では時代文化の歯車的なキーパーソンでした。
彼のお墓は二つあります。胴体と髪の毛が埋葬されている鎌倉の寿福寺。そしてもう一つは秦野市に首塚が残されています。これは殺された時に甥の公暁に首が持ち去られて、どうやら公暁を打ち取った人たちの一人が秦野市まで持ち帰えり葬ったと。
とても血なまぐさい時代の真っただ中に生きて、そして散って行った歌人ですが、その文学的な才能は藤原定家に、そして後世の文人達からも非常に高い評価を与えられています。新勅撰集に藤原定家は彼の歌を25首も撰んでいます。又愚見抄では歌聖と言われた垣本人麻呂と並び称して、万葉集にも恥じない作風だと称えています。残されている歌は今でも真直ぐに心に伝わるものばかり。スケールの大きな天才歌人でした。
「時により 過ぐれば 民のなげきなり 八大竜王 雨やめたまえ」
「大海の 磯もとどろに 寄する波 われてくだけて 避けて散るかも」
今年も平和で愛が溢れた年になりますように。世の中は愛おしさに満ちているから・・
天国から源実朝がそんなメッセージを投げかけてくれた様に感じました。
(早苗ネネ♪)
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
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1981年1月に出版された田中康夫著『なんとなく、クリスタル』は、あっという間にミリオンセラーになりました。当時の若者の生き様が斬新に描かれていたこと、ファッションやレストランなどたくさんのブランドが【註】で解説されていたことなどが話題になりました。 田中さんとは、当時の駿台高等予備校・一橋大学を通じて同期でしたが、秋田から出てきて、吉祥寺などで遊んでいた私には、青山・六本木などの有名店は遠い存在で、小説を拝読して「なんでこんなに色々なことを知っているのだろう。」という感想を持ったことを覚えています。 長野県知事や国会議員、政党党首などを歴任された、田中さんのご活躍については皆様、ご存知のところだと思います。 |
その田中さんが、2014年11月末に『33年後のなんとなく、クリスタル』を上梓されました。
東京都出身で長野県育ちの田中さんですが、実は横浜とは「浅からぬ縁」をお持ちの方です。2015年新春特別企画として田中さんの考える横浜らしい「豊かさ」について伺いました。
『33年後のなんとなく、クリスタル』(通称 いまクリ)は、『なんとなく、クリスタル』(通称 もとクリ)に登場していた女性たちが登場して、自分たちが抱える様々な問題、恋愛、育児、介護、ボランティアから政治まで語り合っていましたね。
「○」か「×」かをつけたいのが男性の二元論的思考だとすると、女性はもっと皮膚感覚で物事を考えるのです。自分にとって安心できるのかどうか心地いいのかどうかで判断するのです。 「いまクリ」の中では、女子会でパスタを食べながら、グルメやファッションだけでなく、少子高齢化社会や行政の姿勢から日本の行く末まで語り合っていますがこれからの日本には、このようなゆったりとした幅の広さやしなやかさが大切なのではないでしょうか。 「こぶし」を挙げて「日本をかえよう」としている男性たちに、数字だけでは測れない「豊かさ」を求めている「普通の女性たち」の声にもっと耳を傾けて欲しいという想いがあります。 |
33年経って「もとクリ」の巻末に掲載されていた人口推移データが注目されていますが、その頃から少子高齢化社会になることを危惧されていたそうですね。
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「なんとなく、クリスタル」を執筆した1980年のは、一人の女性が一生に産む子供の平均数を表す合計特殊出生率は1.75でした。このときからすでに少子高齢化社会への道は始まっていたのです。量を追い求めることが破たんすることをずっと危惧していたのですが、「もとクリ」はファッション小説のイメージが強くて、この註のことはあまり注目されませんでしたね。 |
「いまクリ」の中で、主人公の由利が語る「微力だけど無力じゃない」というフレーズが何回かでてきます。由利は南アフリカでボランティア活動を行おうしています。田中さんは阪神・淡路大震災のときのボランティア活動でご活躍されたことも広く知られていますが、「ボランティア」ということをどのよう
に考えていらっしゃいますか。
ボランティアは「できる人ができるときに、できることをできる限り行う」ことだと考えています。ボランティアを通して「社会との接点」を作ることができます。お金を出すことでも体を動かすことでも、そして知恵を出すことでも何でもいいんです。ボランティアは、相手の立場に立って考えられないとできません。その意味ではビジネスにも通じるものだと思います。
「いまクリ」の最後に由利が「黄昏時って案外好きよ」と語る場面が印象的です。「黄昏」は日が沈んでいく風景ですが、これはまさにこれからの日本の行方を象徴している言葉ではないかと思います。「黄昏」でもいいんだよ。と田中さんは示唆しているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
「黄昏」という言葉は、元来、日が沈んでいくので「誰そ彼(たそかれ)」時というくらい暗くなっていく様を表しているものです。世界に類を見ない少子高齢化社会になっている日本で、「黄昏」だからこそ見えるモノがある。実は夕暮れの赤みは、夜明け前の空にも似ている。大昔は日没も日出も同じ「彼は誰(かわたれ)」時と呼んでいたのですから。今こそ世界に先駆けていろいろなことができるチャンスだと捉えていくべきだと思うのです。
例えば、「ものづくり」にしても経験がある方々だからできることがあるはずなのです。数字だけでは表せない「豊かさ」を享受していきたいですね。
田中さんは、「横浜」とは浅からぬご縁があるそうですね。
港が見える丘公園などは、私のデートコースの定番でした。33年前の元町には「ハマトラ」で一世を風靡していました。お気に入りのブランドがいくつかありました。
「横浜」で働いていたこともあるのです。
大学卒業後入社した石油会社のガソリンスタンドの実施研修は、元町に隣接するガソリンスタンドでした。毎日、菜っ葉服を着て給油、洗車にワックスがけ、オイル交換などをやっていました。「もとクリ」が発表されてあっという間に話題になったので、実地研修が終わった5月には石油会社を退社したのですが、その分、より深い思い出がありますね。
「横浜」ってどのような場所だと思いますか。
「横浜」と「東京」の違いは、一言でいうと「愛」があるかないかだと思います。「横浜」には、横浜で生まれ育った方だけでなく、「横浜都民」と言われる田園都市線沿線に住んでいる方にも、「横浜愛」があるのです。
「横浜」に住んでいることに心地よさを感じて、ここでコミュニティを作っていきたいと考えている大勢の市民がいます。
行政的にも「横浜」は恵まれています。
私は長野県知事も経験しましたが、県と市町村が協力しないと実行できない教育や福祉の施策が多いのです。でも横浜市は政令指定都市ですから、教育や福祉について強大な権限があります。「横浜愛」に溢れている市民が願っていることを実現することができるはずです。
「黄昏」を迎える日本で、「横浜市」が様々な施策を実践すれば、お手本として、日本全国に広がっていくと思います。壮大な社会実験の場ですね。
「横浜」は待機児童をゼロにしたということで有名ですが、保育所を作るというハードの政策だけでなく、もっと地域の力を活用するというソフトな政策も検討してほしいですね。
私が知事時代に長野県内350か所に作った「宅幼老所」は地域共生型サービスとして注目されています。お年寄りのデイサービスと就学前の乳幼児の保育を、一つ屋根の下で行うのが宅幼老所。しかも、商店街の空いた店舗や住宅地の空き家を改修して行う、地域分散型であって世代分断型ではない温もりのある福祉のあり方です。
小規模で家庭的な雰囲気の中、高齢者、障害者や子どもに対して、一人一人の生活のリズムに合わせてサービスを提供する「宅幼老所」の仕組みは、「横浜」でも是非実現させていただきたいですね。
「宅幼老所は、ハード政策の10%程度の費用で実現可能です。「地域の拠り所」を創り出すこの仕組みで、老若男女がそれぞれの「黄昏時」を楽しむことができると思うのです。
横浜らしい「豊かさ」とは何でしょうか。
「横浜」は、日本一の人口を誇る政令指定都市です。人が多いからこそ、世代や地域で分断されるコミュニティではなく、地域や世代が交じり合った生活スタイルを確立することができるのです。
「横浜人」たちには、数字で測る「豊かさ」ではなく、質の充実を求める「生活」を目指してほしいですね。イタリアやスペインの国民のように、食事をゆっくりとりながら、恋愛から政治や経済まで幅広い議論を楽しむそんな生活を送ってほしいです。評判のファッションやグルメに興じながら政治経済を語るなんて、横浜女子の為せる技ですね。
東京から30分で、晴れた日には海を見ながらピクニック・・なんて横浜でないとできませんよ・・。
33年前、田中さんは、ミーハーの元祖のように思われていました。
そのときから少子高齢化社会を心配していたなんて・・・。
日本の行く末を憂いているからこそ、「33年後のなんなく、クリスタル」を書かれたのです。未曾有の少子高齢化社会に突入している今、どのような心持ちで生きていけばいいのか、私たちにエールを送ってくれています。
文:渡邊桃伯子
『33年後のなんとなく、クリスタル』書評等はこちらで御覧になれます。
http://www.nippon-dream.com/?page_id=13200
http://www.nippon-dream.com/?page_id=13031
「ハーバーテイル」の“レンガ君”と「ジョニーウォーカー」が異色のコラボ!!
横浜市内の飲食店舗34軒では、年末年始にかけて「ジョニーウォーカー&レンガ君 BARキャンペーン」が実施されます。
キリンビールマーケティング(株)横浜支社協力のもと、スタジオI.TOON(横浜市中区)制作のクラフトアニメーション「ハーバーテイル」のキャラクター“レンガ君”と、世界的なスコッチウイスキーブランド「ジョニーウォーカー」とのコラボレーションという、“ヨコハマ”ならではの企画が実現しました。
キャンペーン内容
横浜中華街~山下町エリアのBARや飲食店で、ジョニーウォーカーの「ブラックラベル12年」もしくは「ダブルブラック」をご注文いただくと、1杯につき1回、限定コラボデザインのシールくじを進呈!
“あたり” が出たら、ジョニーウォーカーorレンガ君のオリジナルグッズをプレゼントします☆
※くじの配布は20歳以上の方限定となります。
期間
2014年12月19日(金)~2015年1月31(土)予定
※景品・くじが無くなり次第終了
場所
BAR MAPに掲載の横浜中華街~山下町エリアのバー・飲食店(34軒)
下記キャンペーンサイトにて一覧を掲載しております。
http://www.kirin.co.jp/campaign/area/news/141203/
「ハーバーテイル/HARBOR TALE」とは
スタジオI.TOON(横浜市中区)制作のオリジナル短編アニメーション。横浜をモデルとした “Y” という港街を舞台に、主人公の赤いレンガが街の魅力を発見していくストーリー。チェコのズリーン国際映画祭でのダブル受賞ほか、世界中の映画祭で高い評価を受ける。2014年制作のシリーズ最新作「Blue Eyes – in HARBOR TALE – 」では、“BAR” をコンセプトに、新たな出会いとドラマが描かれています。
HARBOR TALE公式サイト http://www.harbortale.com/
馬車道 Emera 通信 Vol.2 May 2013
盆栽カフェを始めます!
11月3日まで開催されていたトリエンナーレに最終日ギリギリにようやく行ってきました。横浜美術館の他に新港ピア、黄金町バザールが会場でした。 「黄金町バザール」では「盆栽カフェ」が開店されていました。「盆栽カフェ」は、社会貢献企業として名高い石井造園の石井社長の発案です。「盆栽」を通じで老若男女の交流を図ろうということで、飲食スペースのあちこちに「盆栽」が展示されていました。 「盆栽」とは、小さな鉢の中に、草木を植えて自然の景色を創り出すものです。「盆栽」には四季があり、花が咲いたり紅葉したりする変化を楽しむことができます。 海外では「BONSAI」という名称でとても人気があり、大宮盆栽町の盆栽園には多くの外国人研修生が来ているそうです。 大宮盆栽村 黄金町バザールの「盆栽カフェ」で、我が家でも「盆栽」を購入しました。毎日、水をやって太陽光をあててくださいという石井社長を教えを守っているせいか、「盆ちゃん」は少しずつ成長しているようです。木々や植物と同じなのですが、「盆栽」には芸術作品のような趣があります。「盆栽」を置くだけで、リビングが一枚の絵のようになりました。 石井造園は先代から盆栽に取り組まれています。大船にある石井造園を訪問しましたが、社屋の前にはたくさんの盆栽が並べられていました。石井社長は「盆栽」を若い方々に知ってもらいたい、「盆栽」を通して、コミュニケーションを活発にしたいとの想いから「盆栽カフェ」を始められたのです。 石井造園 http://www.ishii-zouen….. |
(クリックで拡大画像) |
「盆栽カフェ」の風景(クリックで拡大画像)
常設の「盆栽カフェ」は、トリエンナーレの終了とともに閉店しました。これからは、様々な場所で「盆栽カフェ」を開いていきたいという石井社長のお話を伺って、それであれば・・ということで、「ヨコハマNOW」では毎月一回、「盆栽カフェ」を開催することになりました。これには「ヨコハマNOW」の交流の場になればという想いもあります。
「盆栽カフェ」では、石井社長に季節に応じた「盆栽」についてのお話をしていただき、自ら育てられている「盆栽」を紹介していただきます。その後、「ヨコハマNOW」お勧めのお茶やコーヒーを飲みながら、会話を楽しんでいただきたいと考えています。
第一回目は、12月13日(土)14時から、関内にある「さくらWorks」で開催します。皆様、お気軽にご参加くださいませ・・。
タイトル | 盆栽カフェ |
日 時 | 2014年12月13日(土)14時~17時 |
場 所 | さくらWORKS<関内> JR関内駅/みなとみらい線馬車道駅 徒歩5分 アクセス |
講 師 | 石井造園株式会社 代表取締役 石井直樹 氏 |
会 費 | 1,000円(お茶・お菓子付) |
お申込み | お申込みは専用フォームからお願いします https://www.supportyou.jp/yokohama-now/form/3/ |
浜じぃの横浜漫歩(第8回) 横浜開港資料館辺り
まだ暑い8月頃の事です。 ここは日米和親条約が結ばれた記念すべき場所に建てられた施設です。 歴史の教科書でお馴染みの「玉楠の木」があり、大きく繁って訪れる人を出迎えています。 言わばここは、横浜が街としての発展のスタートを切った記念すべき場所でもある訳です。 訪れるのは二度目ですが、ここにあのペリー提督が上陸し幕府の役人と交渉した処かと思うと、感慨深いものがあります。 実は、この近くのビルにまたまた大好きな「横浜が日本で最初の物事」を見つけました。 「電話交換創始之地」の碑です。 特にビルの壁のオブジェは、なかなかシュールでイケテますね。 好みだなあ!(^.^) |
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おやつに潜むわな!?
おやつにはどんなものを食べていますか?
子供のみならず、おとなでもおやつを食べる習慣がある人は多いはず。もちろん、お腹がすいたので、ということもあると思いますが、特にお腹が減っている訳ではないけれど、つい習慣で、口寂しくて、止まらない?という場合も多いのではないでしょうか? 適量の甘いものは、リラックスできて気分転換にもつながるのでいいものですが、必要以上に食べ過ぎて、肌荒れ、体重増加なんてことになったら、かえってストレスですよね! |
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そんな時は、おやつの『質』を見直してみて下さい。
あなたが、つい食べてしまうおやつは、スナック菓子や、チョコレート菓子、大量生産のクッキーなどではないですか? または、缶やペットボトル入りの甘い飲み物ではないですか?
どこでも買うことができ、比較的安価で、おいしくて! いいことづくめ、ですよね。しかし、それらは何から作られているのでしょう?
スナックなどには化学調味料(さまざまな味付けに使われます)、そして大量生産のチョコレートやクッキー、甘い飲料などには、白砂糖や人口甘味料、香料、着色料などの添加物が使われています。すると無意識にかなり多くの科学物質を口にすることになります。
これらは自然界には無いものなので、大量に、また継続的に摂り続けることで様々な弊害が出て来ます。
先に書いた、肌荒れや体重増加などの分かり易いこと以外にも、一見、関係のなさそうな、風邪を引きやすい、けがをよくする。だるさが抜けない。夜、なかなか寝付けない。など、日常よく起こり、見逃しがちなことも、実はこれら食品添加物が大いに関係しています。
また、摂り続けることで、大病にもつながる恐れがあります。
おやつのみならず、調理済み食品、野菜を炒めて和えるだけの、○○のタレ、ドレッシングなどなど。食品添加物を一切経とうとしたら『何も食べれない!!』なんてことになりかねない、現代日本です。
だからこそ、まずは現状を知り、出来る限り摂らないという選択を、一人一人がして欲しいと思いますし、特にお子様にそのことを教えて頂きたいと思います。
食品添加物(白砂糖、人工甘味料含む)の弊害はさまざま、挙げられ、ここで細かくは触れませんが、困ったことに、食べるとどんどん欲しくなる!やめられない、止まらない!という、いわゆる中毒性があるのです。
一切とらないのは無理だとしても、大量に食べ続けなかれば、まだいいのですが、実際はちょっとだけ食べてやめる、ということがしにくいのですね。またこれらのものは、食感も柔らかいという特長がありますので、食べ易いのですね。その結果、お腹がいっぱいなのに、食べてしまうということも容易に起こってしまうのです。
どういうおやつをたべたらいいの?
では、何を食べたら良いのでしょう? |
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手作りだとそれらを使用すれば安心です。しかし、作れない、そんな暇はない、と言う方。
お母さんの手作りでなくても、お菓子屋さんのものでもいいです。
専門店に行くと、添加物は使用していないもの(または、少ししか使用していないもの)が手に入り易いです。
または、最近増えて来た、自然食品のお店にはさまざまなお菓子も売られていますし、ネットショップでも手に入ります。
もしくは、フルーツや、ドライフルーツなどもいいですね。
最近、流行っているグラノーラなども、牛乳をかけるのではく、そのままつまむと、いいおやつになります。
これらは先にあげたおやつより『手軽』とは言いにくいですよね。
売っている場所もある程度限定されるし、お値段はちょっと高くなりますし、テレビCMなどで見たおいしいそうで、華やかなパッケージものを食べたくなる気持ちもよく分かります!
なので、いきなりゼロにするのではなく、少しずつ試してみてはいかがでしょうか?
化学調味料に慣れた舌では、はじめは甘さが足りなかったり、スナック菓子なども強いコンソメ味などの刺激がなく物足りないかもしれません。
ただ、人の味覚は変わり易いのです。慣れてくると、自然の甘さや、噛みごたえ(健康的なものはちょっと固めです)が心地よくなって来ます。
その割合が増えてくると、人工的なものが『美味しくない』と感じて来るはずです。
『おいしいのに、食べちゃダメ』は人にストレスを与えます。
『おいしいから、食べたい!美味しくないから食べたくない』これが自然の流れです。
『体に悪いものはおいしいんだよね?』なんて、たまに聞きますが、
正常な味覚、健康な体を作ってしまうと、
『体にいいものが、美味しい!』ということになるのです。
そして、売っている場所やお値段で手に入りにくい『不便さ』。
これも、『ありがたみ』に変えてみましょう。
簡単に手に入ると、人は感謝もしないし、感謝してない食べ物には無関心になり、食べること自体にも無関心になります。
当然、その先の体に入った時、体に与える影響にも無関心になります。無関心は病気につながります。
工夫したり、意識して、少し高いお金を出して手に入れたものは、大事にするのではないでしょうか?
一口ずつ、噛み締め、味わいながら食べれば、大量に、お腹いっぱいなのに一気に食べてしまう、ということにもなりにくい。
一回の量が減れば、結果的に掛かるお金もそう、大差ないのではないでしょうか?
飽食の時代だからこその落とし穴。
食べ物に感謝する気持ちを、おやつ選びから、思い出してみて下さい。
健康&美人おやつ、作っています
ジュイエでは、白砂糖、卵、バターなど不使用、全粒粉やライ麦粉、ドライフルーツやシード、ナッツ類などをふんだんに使ったお菓子を作っています。
食物繊維、ビタミン、ミネラルをふんだんに含み、優しい甘味。しっかりした噛み応えで、食べ過ぎを防ぎ、キレイになれるお菓子です。
もちろん、味もおいしいですよ!
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12月の料理コースのご案内
私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。
12月のコース内容
受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。
基本のコース、応用コースではXmasメニューでお待ちしています。
http://www.7juillet.com/kyousitu.html
プロフィール
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フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ
女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得 |
2014年12月 三ツ池だより 「そのままでいいよ!」
あっという間の一年であり、もう12月になってしまった。慌ただしい月の初めである。「宮沢賢治にとって、初冬の11月は奇跡の月である。・・みちのくはいま、祈りと再生のときを迎えている。」「行ッテ ヨクミキキシ ワカリ ソシテ ワスレズ」産経新聞東北特派員報告より。
11月から12月に入って、話題がすっかり変わる。「いろは曼荼羅」から「や」を取り出してみる。選挙をやだといっても始まらない。さむいから働くのはやだと言っても始まらない。
中小企業振興条例を考える四つの「いろは」から
や やめる勇気 続ける勇気
や 役割がそれぞれあるんだよ
や やる気は支えられているという実感から
や 山あれば谷がある いろんなことがあるものさ
仕事は大義がなければうまくいかない。それぞれに私たちは役割が与えられている。自覚できて取り組んでいられたら幸いである。自覚できていなくても、今がその役割を担っている時。意外に反面教師の役割を担っていたりしているのかもしれない。
悲しみを乗り越える四つの「いろは」に見てみたい。
や やめるのではなくやすむ
や やるのではなく好きになる
や やっぱり自分のいるところに戻る
や やがて夜は明ける
そうだ! 夜があけるのだ! そうだ新しい年も迎えるのだ。AもBもということでなく、AでもなくBでもなくではない、その時の最善の選択のなかで夜が明け、新年を迎える。
夢を実現する四つの「いろは」から見てみよう。
や 休んでみる 瞑想してみる
や 矢を放つ
や やってくる
や やがて来る本を夢見る
小さな夢でいい、描いてみるための準備の年だったかもしれない。それを文字にし、口に出すことで、明日が楽しみの時になる。今年が苦しいものであったら、くる年も苦しみの年になるのかもしれない。そこで考えてみよう。やめるのではなく、休む。やらなければいけないのではなく、そのことが好きになると感じること。
12月を俳句にみてみよう。
景色のなかに自分をおいてみている。
初氷は「はつごおり」と読むと字数が整う。俳句は発見だと言われる。氷の張っているのを、雀が見ている。雀は自分かも知れない。「いやー!今年も、もう氷の張る時期になったのだ!」との思い。霜柱が踏み荒らされたのは、霜柱を踏んでみたくなって、踏んだ後の白さに「こんなにも!」との思いがあるのかもしれない。
澄み渡ったシーンとする空気。榛名山がいつもより高く身近に感じたのだろう。
湯婆はゆたんぽのこと。病床の身には湯たんぽがなによりだ。
私たちには普段感じられない神父さんの姿がキリストの生誕祭を迎える喜びと緊張感がともに感じられる。
夢を見ていたい。しかし現実の中で途方に暮れることがある。
悲しみを乗り越える四つの「いろは」の「く」からみてみる。
く 比べるのでなく、自分への問いかけ
く 苦心をお互い様に感じ行う
く 悔い残さないように
く 苦は口に入れること、口中を引き締める味の草
苦いことは中を引き締める。苦しみもまた役割である。今はその時。その時が去ってみると懐かしく思う時と感じることになるのだろう。だからというわけではないが、この12月はいい時間をいただいたことになるのではないだろうか。それは自分だけのものではないから。生かされている、支えられている、一人ではないのだから。係りあっての世界、かかわりあっての今なのだから。だからそのままでいいよ!きっと明るい明日が来る。
Photos
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(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第21回)
大浦総合研究所 代表/大浦勇三
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第21回)
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
- 梁塵秘抄 -
イノベーションでは、つまらない“答”が出ることは頻繁に起こりますが、つまらない“問”だけは絶対に許されないというところがあります。経営戦略論のゲイリー・ハメル教授は、イノベーションの核となる“デザイン・ルール”を以下のように抽出しました。“理不尽なほどの高い期待”“弾力的なビジネス定義” “ビジネスの枠を超えたミッション” “若者・傍流・新参者などの発想” “アイデア・資本・人材に対するオープンマーケット” “リスク低減へのシミュレーション”です。イノベーションである以上は想像を超えるハードルが必要なこと、イノベーティブなビジネスは計画通りにいった試しがないこと、常に今より悪い状況がありうること、時間をかければいいというものではないこと。特に“技術志向のビジネス”が失敗するのは、技術基盤の細分化を相対化するだけの分野横断的な想像力・知恵が出せないことが一因と指摘。梁塵秘抄では“淀川の底の深きに鮎の子の鵜(う)といふ鳥に背中食はれて きりきりめく可憐(いとお)しや”とあります。無常の世の中で鵜と鮎の価値の優劣を問うことは愚かで、それぞれに存在理由があること。今後、世界は西洋も東洋もなく、西洋はより情緒的に、日本はもっと論理的にという形での収斂が起きる可能性も。“イノベーションは論理的思考の産物ではないが、結果は論理構造を反映している”とはアインシュタインの見立てです。
“遊びをせんとや生れけん” 「遊」
規則ばかり意識しないで本能を目覚めさせて闘う 人生の岐路は困難な方が正解
他人を意識しすぎるからすぐブレーキを踏みたがる 目は魂の窓で誤魔化せない
一日練習を怠ると自分、二日だと先生、三日だと観客にわかる、と女優栗原小巻
その昔、熱狂的な吉永小百合ファンはサユリスト、栗原小巻ファンはコマキストと呼ばれました。奇しくも吉永小百合と栗原小巻は生年月日が一日違い。栗原小巻は当初バレリーナを目指したようですが、バレエには演技の基礎が必要といわれ劇団へ。“之を楽しむものに如かず”と論語。知識より好きか嫌いかが重要であり、好きか嫌いかより楽しめることの方が大事ということですね。定石や理論を守るのは重要、ただ本能を目覚めさせることが一番ということでしょうか。ビジネスの世界も“規格・知識体系の流動化”が始動し、積み重なる地層に似た規格・知識体系の岩盤も、ビッグデータ解析&人工知能によって急速に崩れ始めました。人間の役割は“答”を出すことから“問”を提示することへ重心移動。コミュニケーションも、単なる言葉のやりとりだけではすまない気配。“生活上の喜怒哀楽とは別次元の世界”にも知恵を巡らす時代に入ったようです。
“仕事をせんとや生れけん” 「献」
死にたくなる原因 実は経済不況というより生きる意味の喪失
野球に不要な無駄な筋肉もある 鍛錬を間違えると身体を壊す
安定は幻想 高レベル維持には変化のみ、とカルロス・ゴーン
カルロス・ゴーンは仏タイヤメーカーのミシュランに入社。工場長を経てブラジル・ミシュランの社長へ。ハイパーインフレの中“クロスファンクショナル・チーム”で改革に成功。最後は米ミシュランのCEOとして実績を積み重ねました。ただ、ミシュランは同族会社で本社社長の芽はなくルノーの上級副社長へ転身。事業所閉鎖・調達先集約などで赤字のルノーを黒字転換。ルノーと日産の統合も、文化風土の違いや労働組合の反発などが危惧される中“日産リバイバルプラン”のもと見事に成就。ここでも“クロスファンクショナル・チーム”がフル稼働、役員レベルで担当をクロスさせる形での慣例破壊。まさにどうやるかの前に何をやるかを優先。“検索エンジン”全盛ですが、脳ミソも検索エンジン化し、脳の知識が細切れ状になり“文脈”を持たなくなる怖れも。“噺はこれでいいと思ったら死ぬ。いつもあらゆる角度からみつめろ”と五代目柳家小さん。
“学びをせんとや生れけん” 「学」
芭蕉と良寛 二〇代は満足できる歌を作れなかったとも聞く
井戸水をすべて汲みつくす その後でやっと本物が出てくる
鍛えるべきは基本プレーと基礎体力 ゲームの過半を占める
芭蕉は生涯に約900の句を詠んだといいます。蕪村は3000、一茶に至っては20000。外界のことを詠みつつ己の内なるものを表現。山ほどの失敗を通じた基本の修得は芭蕉も良寛も同じ。芭蕉は私の母の故郷の伊賀上野の生れ。母の実家へ遊びに行った子供の頃に、芭蕉の名を初めて知りました。芭蕉が東北・北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文が“奥の細道”で、日程は150日・2400キロの旅。最終地の大垣に到着してから5年かけて完成させたといいます。一方の良寛は、江戸時代後期の僧侶・歌人・書家で号は大愚。一日五合の米があればとの覚悟で五合庵に棲み、一切から解放された日常。書は良寛にとり己が心情の吐露であり、上手に見せようとしない独自の書法。上野の国立博物館で見た“夢”の書は撫でるように柔らか。“個”を大事にして磨き続けるしか乗り切れない時代、知識と価値を結びつけることの大切さを芭蕉と良寛は教えてくれますよね。
「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」
今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(十)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。
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(第21回了)
大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール
大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/) 石川県七尾市出身。 筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。 主な著作物:
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書評 「魂の商人石田梅岩が語ったこと」 サンマーク出版 山岡正義 著
著者は「長寿企業の共通項をさぐり、その経営手法の源流をたどっていくなかで一人の人物に行き着きました。それが、江戸時代に生きた“魂の商人”石田梅岩でした。」と、今ここにこの本を出す意義を書かれています。「日本人として忘れてはならない古くて新しい人物です。」そして「正直に儲けること、儲けたお金は社会へ還元すること。それが経済人(商人)が本来なすべき役割であり、果たすべき義務や責任であると訴えて、武士道に対する商人道を打ち立てたのです。」 梅岩の考え方「富の主人は世の中に生きるすべての人々である。そのお客様の心にかなうように懸命に商いに努めれば、あなたがいきていくのに、何の心配も生じないはずだ。」「金銭というものは広く流通して、多くの人の生活や生命を支える“公共的”な役目を担っている。 |
だから商売を通じて得た富や財といえども、けっして自分の所有物などではなく、最終的には世のため、人のために役に立たなければならない。」それは「現代最高の経済思想家であるピーター・F・ドラッカーの事業の主役は顧客である。顧客が事業の土台であり、事業の存在を支える。顧客だけが需要を創出するに通じる。」と著者は考えています。
「梅岩の説く商売と道徳の結合とはつまり、カネ儲けを目的とする商売だからこそ人間性が問われるということです。モラルなきビジネスは必ず強欲主義に陥るのであり、したがって、どう儲けるかはどう生きるかを根底にしていなくてはいけないとする考え方のことなのです。」
梅岩がみずからの思想を世間にひろめる活動をはじめたのが40代半ばであり、のちの「石門心学」と呼ばれるようになります。そして注目すべきはその勉強会の形式でした。「答えを上から下へと垂直に伝授するのではなく、師匠も弟子もともに水平に考えあう。それぞれの意見をぶつけあって、同等の立場で議論を交わし、よりよい結論へと導く。そうした民主的な方法がとられた。」「この講義のスタイルが、のちの著作である都鄙問答(とひもんどう)や石田先生語録などにもみられる。個人の思索だけでなく議論や討論のなかから解答を見出していく問答形式として、結実していきました。」
“現代まで脈々と受け継がれている梅岩の心学”で著者はいいます。「速く・大量に・楽をして成果を出す効率というパラダイムから抜け出し、ゆっくり歩くことに価値を見出し、小さいものに真意を感じとり、人生の苦労に意味を見いだす、そういった生き方が求められているのです。」 「目に見えるものだけでなく見えないものへの価値を見出すことであり、市場原理を超えた倫理、競争や利益を超えた企業の社会的責任や社会貢献に重きを置く社会をつくりあげていくことに他なりません。」
利益を得るのは“商いの道”、堂々と行え
正直でなければ商人道は果たせない
法に照らすよりもみずからの良心に照らせ
いつでも心に道徳のものさしをもて
「都鄙問答(とひもんどう)」は都の人間と田舎の人間が問答するところから名付けられました。梅岩は学問というものは「心を知る」ことから始まると説いています。「すべては心から発するもので、仁、義,礼、智、信といった、良き心を知り、それらをわが身に備えることが人の道を究めることに通じる。」「心について知るだけでは十分ではない。知ったならば、次に実行しなくてはいけない。心や学問だけで、実行がともなわなくては賢人とはいえない。」この梅岩の考え方は日本人の労働観と無縁ではない。「仕事というのは一人前になるための修行であり、心を磨いて、威儀や礼儀を備えた一個の人間として、成長する人間形成の手段であるとする考え方が、日本人には昔からかなり色濃くあります。」これはいい、ぜひ買いたいと思うようになってもらうために「私たちの商売を育ててくれるお客さまをけっして粗末にすることなく、正直や真実をモットーに仕事をすれば、することの十のうち八は自然とお客様の心にかなうようになるものです。したがって、お客様の心にかなうこと、これを第一に心がけて商売に打ち込み、一生懸命努めれば、何も心配ありません」
『第5章 天地自然に即して生きる』で、「私欲を抑えて倹約に努めるのも天地自然の理に叶う行為である。」「人の眠っているときにも、意識しないでうごいているのは呼吸の息です。その呼吸は自分の息ではない。天地の陰陽が自分の身体に出入りしている。」「商いもお金を儲けるだけが目的となってしまうと、満たされることのない欲望を追いかけるだけに陥ってしまいます。商人というものは自分の仕事を通じてお客様によい商品、粗相のないサービスを提供し、その見返りとして気持ちよく代金を支払ってもらう。それによって世の中に必要な品物を全国にあますことなく行き渡らせ、多くの人びとに喜びと安心をもたらす。」梅岩が考えるビジネスの社会に対する役割や責務でした。
松下幸之助さんがいう「古きものが滅び、それによってつぎつぎと新たなものが生まれ育っていくという、日にあらたな進歩が続けられている、たえず生成し、つねに発展しているというところに、宇宙の本質がある。」稲盛和夫さんがいう「森羅万象すべてのものを進化発展させていく宇宙の流れと同調するかしないかで、人生や仕事の成否が決するのではないか。この宇宙の流れと調和し、進化発展していくような考え方や生き方をするならば、人生や事業も素晴らしい成果をのこすであろう。」これは梅岩の宇宙観と相似形を保ったまま、それをさらに発展させたような考え方といえると著者は思っています。
いまこそ、「本書を通して石田梅岩という人物像にふれ、その人格を感じていただくとともに日本人が兼ね備えてきたすばらしい価値観に気づき、輝かしい未来を築くヒントを得ていただければ」という著者の言葉を記しておきます。
(文:横須賀 健治)
第24回 どあっぷ 「オリジナルワークショップ」を実施しました
みなさんこんにちは! |
日本初の国立小学校!古い校舎と新しい教育!
筑波大学附属小学校は東京の文京区にあり、なんと明治6年に日本初の国立の師範学校の練習小学校として設立された、大変歴史のある小学校です。卒業生には、歴代の首相が3名もおられるとのこと。校舎もレトロな雰囲気をたたえ、その歴史を感じさせてくれています。 古い校舎とは対照的に、その教育内容は最先端!これは日本の小学校なの?と思われるような、教育を実践されています。 本来、先生は授業を行う専門職。そして皆専門の分野をお持ちです。 |
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そんな、教育界ではとても有名な小学校で、ワークショップをさせていただける事は、私たちにとって本当に光栄なことですし、とても貴重な機会となりました。
民主主義の基礎を学ぶワークショップを実施!
筑波大学附属小学校で実施させていただいたワークショップは、私たちの代表的な「サザエさんのお弁当づくり」ワークショップ。楽しくお弁当のおかずを考えながら、実は民主主義の基本を学んでいるという、ちょと変わった内容になっています。 まず、4~5人のグループになった子ども達に、くじで決まったサザエさんのキャラクターになりきってもらいます。そのキャラクターの視点で、あらかじめ配られたおかずメニューの中からおかずを選び、そのキャラクターが理想とするお弁当をそれぞれ作ってもらいます。 |
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当然、波平さんやカツオなど、キャラクターごとにお弁当の内容は異なってきます。それを最終的にサザエ家で1つのメニューに統一していくというルールです。いかに、自分(キャラクター)の希望するおかずを主張しながら、全体の合意を得るかをトライするワークです。
そして、最後に、このお弁当づくりは、街づくり(政治や行政など)と、似ている事を説明します。例えば、
といった具合です。 |
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世の中の問題には、1+1=2のように正解がある時ばかりではありません。むしろ明確な正解のない問題の方が多いでしょう。そこには、必ず異なる利害(考え)が存在します。この異なる利害を、キャラクターが希望するお弁当のメニューで表しています。波平さんが好む魚の煮付けも、カツオが望むハンバーグも、どちらが間違っているというものではありません。どちらも同じ価値を持つ一つの意見です。このような中で合意をとる場合、まず、それぞれの意見を認め、理解した上でないと、皆が納得する建設的な議論は始まりません。
こういう民主主義の基礎とも言える、合意形成などに焦点を当て、このワークショップは作られました。まとめると以下の様になります。
【サザエさんワークショップの3つの狙い】
- 年代、性別、立場が違うと、思い、考え(利害)が違うことを実際に体感してもらう
- 利害の対立する内容を、相談、議論しながら合意を取っていくことの難しさを体感してもらう
- 身近な弁当の議論から、街づくり、政治の仕組みとの共通性を見出すことで、親しみを覚えてもらう
教えるはずが、逆に学ばせてもらったワークショップ
筑波大学附属小学校での実施を終えて、私たちはたくさんの学びをいただきました。 |
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「こっちから言うんじゃなくて、それを子供に言わせるよう、持っていく事が大切なんですよ」と由井薗先生。
なるほどー!普段、大勢の子ども達を前にする機会のない私たちには、目からウロコの、大変参考になるアドバイスでした。
七転び八起き!!
今回のワークショップを機に、ある程度完成したと思っていた本ワークショップを、また1から見直してみようかと、私たちは考えています。
もともと私たちは、学生や社会人などが所属する市民団体で、社会に先に出た先輩というスタンスで子ども達に接し、試行錯誤を繰り返しながら、ワークショップを考えてきました。決して教育の専門家集団ではありません。しかしそこには、柔軟性や適応力と言った特色もあると思っています。
今回最高の学びをいただきましたので、これを活かし、さらにワークショップをブラッシュアップし、進化させていきたいと思います。七転び八起きでがんばりまーす!
最後に
今回、私たちにお声がけくださった、筑波大学附属小学校社会科 由井薗健先生にこの場をお借りして、御礼申し上げます。ありがとうございました。
また、残念ながら私たちは、まだ横浜の小学校でワークショップを実施した事がありません。是非、この横浜でブラッシュアップしたワークショップの実施をしたいと思っています。もし、読者の皆さまの中に、ご興味ある方がいらっしゃいましたら、いつでもご連絡ください。お待ちしています。
最後になりましたが、この一年、このコーナーをお読みくださった皆さま、本当にありがとうございました。
また、来年もどうぞよろしくお願いいたします。少し早いですが、良いお年をお迎えください。
(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:築山 美樹)
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横浜宝石物語(第2回) 創業者の祖父(戦後編)
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横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子 PROLOGUE 連載に寄せて私は横浜でおそらく一番古い宝石商の三代目です。 創業者の祖父、二代目の父、三代目の私とそれぞれの時代で宝石商としての形態は違っていますが、良い宝石を選び、作りの良いジュエリーを製作して、ご提供するということについては、3人とも拘ってやってきたと思います。 祖父が宝石の製造メーカーとして地位を築き、父が小売店として皆様に愛されたからこそ、今、私が宝石商としてやっていられますので、いつか祖父のこと、父のことを書いてみたいと思っていました。 |
この度、横浜宝石物語の連載のお話を頂きましたので、念願が叶い、とても嬉しいです。横浜の歴史も交えながら、祖父、父、私の宝石物語を綴っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
宝石商の三代目私は現在、横浜の馬車道で「横濱宝石美術館エメラ」という宝石店をしております。 横浜の景色や思い出をジュエリーにした「横浜ジュエリー」などオリジナルジュエリーの製作と販売、デザイナーやアーティストの作品の展示販売、お客様のご要望をかたちにするリフォームやオーダージュエリーのご注文を承っています。 私の宝石商のルーツである創業者の祖父のことからお話しさせて頂きたいと思います。 祖父を語る(その2)戦争が激化してきたので、横浜の根岸にある家を壊して、材木を運んで長野に家を建てようと計画しているところで祖父は終戦を迎えました。 父は長男ですが、戸籍上は三男です。上に女の子も含めて4人、兄と姉がいたそうですが、父が生まれる前に相次いで病気で亡くなったそうです。 父も体が弱かったので、戦前、父が小学校の頃に根岸の山の上に家を買い、週末、祖父は父と畑をしていたそうです。 そして、終戦の翌日、中学生だった父が近所の養鶏場に鶏を買いに行ったところ、オーナーが戦争が終わったので、養鶏場を家ごと売って、田舎に帰るという話を聞きました。 鶏が大好きだった父は早速、祖父に養鶏場を買ってほしいとねだったところ、なんと祖父はすぐにOKして、買うことになったそうです。 アメリカ軍が進駐してきて、山の家が米軍住宅に接収された為、養鶏場を家にして、しばらくして、根岸の家も売ったそうです。 仕事の方は戦争中に伊勢佐木町のデパートの松屋さんで国が供出させた宝石の鑑定をしていたご縁で、戦後は松屋さんで問屋として店を出すことになりました。 また、戦後は宝石がなかなか手に入らず、お屋敷町の鎌倉に店を出して、買取りをしていたそうです。 卸しの仕事も忙しい祖父は父が16才になった時に旧制中学を辞めさせて、父に松屋の仕事を任せて、全国を飛び回りました。 父が昭和30年に取引先から頼まれて、今「横濱宝石美術館エメラ」がある馬車道に共同ビルを建てて、「大島宝飾店」という店を出すと、祖父も松屋の仕事もまたするようになりました。 ところが、お得意様が皆、父の馬車道の店に行ってしまうので、松屋さんからも祖父からも戻って欲しいとの要望があり、父は馬車道の店を2年足らずで閉めて、松屋に戻ったそうです。 祖父は株や先物取引などの投資が好きで、証券会社の担当だった母を見初めて、父と結婚させました。 昭和37年に横浜駅ビルができると父は母に別会社を作らせて、「エメラ」という宝石の小売店をオープンさせました。 店名の「エメラ」は母の誕生石のエメラルドから命名したもので、これが「エメラ」の始まりです。 昭和39年に横浜西口にダイヤモンド地下街ができると、父は母の会社で「エメラ」を出店して、夫婦だけで好きなように店をやろうと思いましたが、資金面で祖父母に援助してもらった為、祖父がダイヤモンド地下街「エメラ」の初代社長になりました。 そういう経緯もあったからか、祖父はダイヤモンド地下街の店を出してからは、店には毎日、来ていましたが仕事は父に任せていました。 私は初孫で祖父との思い出も色々ありますので、それは次回の思い出編に続けたいと思います。 |
(クリックで拡大画像) (写真提供:大島貴子) |
(横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子)
横濱宝石美術館エメラ
〒231-0011 横浜市中区太田町5-61 馬車道商栄ビル1階
TEL.045-681-0603 FAX.045-228-9828
Websie http://emera-yokohama.jp/
横浜盆栽カフェ(第3回) 盆栽カフェ巡業
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PROLOGUE 連載に寄せて私たちは、豊かな水と四季折々の美しい自然の中で暮らしています。大自然に抱かれて生活しているわけではありませんが、世界的に見てうらやましい自然環境であることは間違いありません。しかし実感している人はあまりいませんし、感謝(誰に?天に!)している人は少ないです。 私は家業である造園工事業を営み、外仕事でもあるので明日の天気や風向きが気になりますし、移ろう季節を感じやすい状況にあると思います。このたび横浜盆栽カフェの連載を通じ、限られた鉢という環境の中で繰り広げられる、美しく、力強く、繊細な自然的造形美の盆栽を紹介し、四季や身近な自然環境と向合い、誇らしい地域(横浜)を感じていただきたいと思います。 |
横浜盆栽カフェ(第3回) 盆栽カフェ巡業
棚場の下
現在、石井造園の社屋がある栄区管状4号線沿い笠間4丁目の土地は、字(あざ)を坪ノ内と申します。坪とは建物や塀で囲われた地形、転じて中庭、宮中の部屋という意味があります。坪ノ内とは茶の湯の露地、茶庭の室町時代の呼び名です。なぜこの様な地名なのか分かりませんが、ここは造園と所縁のある土地なのでしょう。
子どもの頃の思い出に苗場の水やりがあります。夏休み春休みなど長期の休みには、坪ノ内の水やりは私の仕事でした。同級生が野球やザリガニ釣りに行っても、私には親から任された仕事があるのだと誇らしく思いました。全部やると2時間半かかる水やり作業は、1日1回50円(40年前の価値で仮面ライダースナック、ホームランバー30円)のアルバイトでしたが、時として退屈であり仲間と遊ぶ誘惑に駆られ雑な仕事になりがちです。少しでも手を抜き雑にやると、やった部分だけが地模様を描いたように無残にも枯れていきます。その時、稼業に対し損をさせてしまったという気持ちと、鉢という限られた環境の中で生きるか弱い植物に対する罪悪感がありました。枯れてしまった苗を片付ける祖父から「仕事に対する気持ちが結果に現れるものだ、丁寧にやらないといけないよ」と言われ申し訳なく残念な気持ちになりました。働くことの原点がこの土地にあったのです。
盆栽カフェ常設店が終わり早一か月が経ちますが、盆栽ファンが少しずつ増えてきております。今まで購入をしてくださった皆様から夏場の灌水を乗り切り、秋を迎えた盆栽たちが綺麗に紅葉していく様を見て、「がんばった甲斐があった、増々愛着が湧いた。」との感想を頂いております。 ハゼノキ、モミジ、ヒメシャラの紅葉に加え、夏に実を結んだ老耶柿(ロウヤガキ)やウメモドキの実を見ると、色付き深まる秋を感じさせます。 |
(クリックで拡大画像) (写真提供:石井昭彦) |
最近気が付くことは、秋が短いなと感じるのです。10月終わりの台風の後も暑い日が幾日かあったかと思いますが、ここ数日の冷え込みは秋を通り越して冬の到来を感じます。外の仕事であり、盆栽を見つめる私自身が特に感じているのかと思いますが、移ろう季節は順序立てて巡って来てもらいたいものだと思います。
これから寒さに向かい落葉樹などは、一度寒さにあてて締上げた後、軒下などで冬支度を致します。これは冬の間ずっと北風にあたって枝枯れするのを防ぐ効果があり、春の芽吹きを良くするためです。その間灌水を忘れずに乾いたらやる!が基本です。
今月の逸品寒樹のモミジと草物のヒトツバ 落葉したモミジは細かい枝ぶりを鑑賞します。小品盆栽ではもう少し持ち込み枝数を増やすべきではありますが...。 この時期草物のみどりは種類が少なく、コグマザサと迷いましたが、濃い緑は寒風でも生命力を感じるヒトツバを飾りました。
① 寒樹のモミジ ¥5,500(税抜) |
(クリックで拡大画像) (写真提供:石井昭彦) |
(石井造園株式会社 代表取締役 石井直樹)
石井造園株式会社
〒247-0006 神奈川県横浜市栄区笠間4-11-5
TEL.045-891-1501 FAX.045-891-2785
Websie http://www.ishii-zouen.co.jp/
名物会は益々元気です! 引き続きよろしくお願いします(最終稿)
富士見台小学校3年生、現る
名物会自体の活動ではありませんが、ちょっと嬉しい報告です。
11月5日(水)・7日(金)、保土ヶ谷せんべいさんに、地元・富士見台小学校の3年生(全クラス)が見学に来ました。
保土ヶ谷せんべいさんは、同小学校から徒歩5分程度のところにあります。 |
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見学待ち切れず、前日に母親を連れてお店に来る子もいれば、見学後に、見学したことを自慢気に母親を連れて来る子もいたとか。
こういう地元との接点、もっと増えてほしいですね。
今年も参加しました!
11月15日(土)、権太坂小学校PTA主催の「ごんた坂まつり」に参加させていただきました。 このイベント、子どもたちにとっては本当に楽しみなのでしょう。 |
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また、実行委員であるPTAの方々の協力体制も物凄く、毎回毎回、元気よく販売にも協力してくださいます。
なので、他のイベントとパワーがかなり違います。
で、そんな感じで今回も、売る側・買う側、両方とも大騒ぎになり、とても盛り上がりました。
そしてなんと!
3店とも用意した商品を全て売り切りました!!
実行委員の皆さま、今年も大変お世話になりました。
プロが教える和菓子作り講座
11月29日(土)、ほどがや地区センターで「プロが教える和菓子作り講座」を開催しました。
実はこの講座、春先に名物会から 今回の講師は菓匠・栗山さん。 |
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と、簡単に言ったものの、実はコレ、栗山さんにとっては大ッ変な作業なんです。
何せ、お店の作業場とは環境(勝手)が違う、使ったことの無い家庭用の道具を使う、材料は参加者が使いやすいように仕込んでおかなければいけない、と、この日のために実験を繰り返し、材料の手配・準備を整え、と普段の仕事以上に時間と手間を費やし、この日に臨んでくださったそうです。
でも、その甲斐あって参加者の満足度は満点越え。実は予定時間を大きくオーバーしてしまったのですが、それにも関わらず、帰りたがる人がいません。
どうしたもんか(笑)とも思いましたが、本当に喜んでいただいて、嬉しい限りでした。
参加者の皆さま、ほどがや地区センター様、ご参加・ご協力、誠にありがとうございました。
また、やりましょう!
そして、最終回のご挨拶
そんなワケで、秋のイベント、というより年内のイベントも概ね終了し、12月7日(日)のごうどいちを残すのみとなりました。
今年も大変お世話になりました。
また、ヨコハマNOWも、今回で38回目の掲載となります。
長い間、お読みいただき誠にありがとうございました。
実は、こちらでの連載は今回で一旦、終了させていただきます。
が!
もちろん、名物会の活動はこれからも、というより益々、活発にしていきます(?)し、ヨコハマNOWでも、引き続き私の方で(新企画の)連載をさせていただきますので、名物会もチョクチョク登場することになると思います。
まずは、このような貴重な連載の機会をいただいたヨコハマNOW編集部の皆さまと、いつもお読みいただいていた皆様に感謝です。
前述の通り、これからも書かせていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします。
メリークリスマス!
そして、良いお年を!
レポーター プロフィール
山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)
合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局
1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。
合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com
各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。
業務内容 :
●シンボル制作
ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
●広報(コミュニケーション)媒体制作
・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
・ニュースレター(A4版)制作
その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など
ヨコハマNOW掲載情報
第27回 木だらけの家
北川裕記建築設計 一級建築士事務所
代表 北川裕記
木だらけの家
写真は今年の春に完成した住宅です。居間の中央に、厚さ9㎝の銀杏の無垢板を使った食卓が置かれていて、存在感抜群です。扉の奥は6畳分の広さの土間になっています。
この家は、板倉構法というちょっと珍しい構法で建てられています。一番の特徴は壁です。在来工法では、柱の間に筋交い、または柱の外側に面材を取付けて、耐力壁をつくります。
それに対して板倉構法では、柱の側面に突いた溝に3cmの杉の厚板を落としこんで壁をつくります。
床材や屋根の下地材にもこの杉の厚板を使い、それがそのまま現しになっていますので、室内をぐるりと見渡すとすべての面が杉、という空間になります。
厚みのある杉板のもつ優れた調湿効果のおかげで、室内の湿度変化が抑えられます。また断熱性能も優れていて、安定した、良好な温湿度環境の室内空間が実現されています。
ちなみに、滋賀県南部に建つこの住宅、今年の夏はエアコンなしで過ごせたそうです。
厚さ、寒さの感覚は個人差が大きいので、一概には言えませんが、滋賀県下で数多く板倉構法の住宅を手掛ける工務店の話では、屋根にごく薄い断熱材を入れる以外は、寒冷地でなければ断熱材は不要とのことでした。
板倉構法はもともと神社建築に用いられてきた構法です。その神社建築は穀倉を原型としていると考えられているそうです。穀物を保存するために、堅牢であるとともに、温湿度を一定に保つ必要があります。そのための工夫が、住宅に使われた場合にも、安定した温湿度環境の室内空間を成立させたのだと思います。
「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
AA STUDIO ナビゲートサービス
中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談 無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案 ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
北島 俊嗣 | http://kitajima-architecture-design.com |
久保田 恵子 | http://studio5st.com |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
高橋 正彦 | http://www.takahashi-arch.com |
廣田 裕一 | |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
古川 達也 | http://furukawa-arch.com/ |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
山田 慎一郎 | http://www.yamadastudio.com/ |
ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第30回 第6章 社会人編 2
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HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
横浜、街と風(社会人編) 16(31)
深夜の仕事
この頃又深夜の仕事が入りました。横浜スタジアム(当時はまだ平和球場)の線路を隔てた所に家庭裁判所がありその後ろにはラブホテルひしめくいかがわしい場所あって、そのお店はそのど真ん中にありました。深海魚というそのお店は、深夜12時から朝6時まで水商売のアフター狙いのお店。入口で靴を脱いで上がる当時流行っていたジュウタンパブという奴で、ふかふかの真っ青なジュウタンを敷き詰めた8畳間くらいの狭いスペース。天井いっぱい白い網が垂れ下がりガラスの浮きやらぶら下がっていて、まるで海の中のような作り。ぐるっと周りを囲むように客席が置かれ、その前で男の従業員がビシッとしたスーツを着て接客をしたり、時には衣装を着替えて歌ったり踊ったり、時には脱いじゃたり、セミホストクラブというか、ショーパブのハシリみたいな店でした。狭い店なのでアットホーム、音楽はギターの弾き語り二人が交代交代に演奏休みなく演奏しました。もうひとりの先輩はベテランのKさん。体はでかいけどとても優しい人で、お喋りが上手で接客も出来るので超人気物でした。私は華やかなこの人のステージの後にひっそりやっている感じでした。この人には色々なことを教わりました。まずお店に入ったらその時いるお客様全員に挨拶して回ったほうがいいよとか。。。これはこのあともお店をやるときに役立ちました。今でも全てのお客様に挨拶して回るのはこの時の教えを実践しているからです。又、Kさんは我々後輩や年下に対して決して上目線では言わないので素直に聞くことができました。これも中々できない事です。この時Kさんが言ってくれたことは今でも覚えています。「原ちゃんは新しい曲とかギター一本で何でもやっちゃうね。俺たちにはできないよ。いずれこんな商売もなくなっていくんだろうけど、きっとその内原ちゃん達の時代が来るよ」 とてもありがたい言葉で駆け出しの自分には励みになりました。そんなKさんともその店をやめてからそれっきりになってしまいました。今会えたらお礼を言いたいです。
ヒゲのママ
初めて深海魚に行った日驚いたのは、経営者のママは今豚バコにいると聞きました。ママと言ってもおカマさんで、何でも女と偽って男と寝たら途中で○○ついているのに気がついた男が訴えたという事で、これが詐欺になるかどうかで当時話題になり、テレビの人気報道番組だったウイークエンダー(“新聞によりますとー”の名文句で有名)にも取り上げられたそうです。やがて無罪放免で現れた夏子ママ(仮名)。アラブ系の濃い顔に立派はおヒゲ、でも言葉はしっかりオネェ言葉でした。
この人が接客すると一人で5組くらいの客をいっぺんに相手にできます。その話術は半端でなく、こんなすごい人は初めて見ました。彼女を訪ねて東京からオネエ系の有名芸能人や有名人、財界人や果てはヤクザの親分さんまで、ものすごい人脈を持っていましたが、自分のことはあまり語りませんでした。ママは“ハラコ”と私を呼び可愛がってくれました(変な意味ではありません)。又、ママは遊ぶのが大好きで、夏は海、5月になると肌を焼きに海辺に行きます。この頃が一番綺麗に焼けるのよと! 冬はスキー! スキーは2回ほど連れてってもらいました。初めて行ったゲレンデに興奮し、一日中滑って練習したら疲れて寝てしまい起こされるとお風呂が最後の順番。二人ひと組で入るのが残っていたのがママと自分だけ。とうとうおカマさんと二人で入るハメに。なんとかどうなっているのか見てやろうと思ってましたが巧みに見せてくれません。しかし仕草がなんとも色っぽくてへたな女より女っぽいと思いました。又、ママはファッションがずば抜けていて、よくこの服にはこういう色のズボンを合わせなきゃダメよとか教えてもらいました。時間が長くて辛い仕事でしたが大好きなスタッフたちでした。
ビブラート
この頃、やはり歌の上手い人たちを見るに付け自分の歌にもビブラートをかける必要性を感じて来るようになりました。どうやったらビブラートがかけられるようになるのか?
ビブラートは、まっすぐ「あーー」と伸ばした声を震わすというか波のように揺らすテクニックです。これが出来るとソロの歌が一段と上手く聞こえ表現力が増します。
自分なりの解釈ですが、、、種類にもいくつかあって波の幅が大きいものと小さいものがあります。
大きいものから説明すると、「あーー」と声を出したのが一本の線だとすると上にゆれるのが大きいほど演歌っぽくなります。更に上に揺れると民謡っぽくなります。(細川たかし、村田英雄とか、、、)
下に揺れるのはポップス系が多いですが、前川清などもこれ。他にも沢田研二とかもこれかもしれません。因みに黒人のシンガーの下揺れ系が多い様です。逆に揺れの幅が小さく細かいビブラートはアメリカンポップスやコーラスを長くやってた人に多く、エルビスプレスリーなどに代表されますが、縮緬ビブラートと呼ばれました(昔の歌謡界では縮緬ビブラートは馬鹿にされる傾向がありましたが、今は山下達郎などに代表されるようにメジャーの人にもたくさん見られます)。
まずビブラートがまったくかけられなかった自分が試してみたのは沢田研二の真似をして更に揺れ幅をもっと大きくしてわざと揺らしてみる事でした。
これはなれるとできるようになるのですが、どうも演歌チックになります。
そこで今度は踵を上げ「あーー」と声を伸ばし上下に体を揺らす事です。すると、なんとビブラートがかかるではありませんか。これを毎日続けていたら一ヶ月後位にビブラートがかけられるようになりました。
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL DATAMAP
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
わすれじの 行末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな
♪わすれじの 行末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな♪
絵・千絵崇石 |
読み人:儀同三司母 (ぎどうさんしのはは)呼び名は彼女の息子の官命に由来があります。 現代語訳・・・貴方は愛している、忘れない!と 言ってくださいました。でもこれから先のことは誰にも分かりません。今貴方が私を愛してくれている そのことだけが真実ならば、この幸せな今日、命を絶ってしまいたい。 この歌は、恋は命がけでするものです! と教えてくれるような情熱とひたむきさが伝わってきます。女性からこんな歌が送られてきたら、男性はどんな気持ちでしょうか? |
作者の名前は高階貴子。才女でした。和歌はもちろん漢学も出来、長文も書き、当時は円融天皇の官女さんとして重鎮されていました。その上とても美人。
そんな彼女に言い寄ったのは藤原道隆。出世コースをひたすら走っている青年武官です。彼は、11月号の赤染衛門の姉妹が、今夜行くよ!といわれて朝まで寝ないで待っていたけれど結局姿を見せなかった。かの男性でもあります。モテる男の筆頭の様な男性にプロポーズされてしまうなんて、ラッキーなのかアンラッキーなのか。
この歌は彼が通い始めた頃に送ったそうですが、当時の一夫多妻制の時代、只ひたすら待つだけの女性はどうやって男性の心を自分につなぎとめておけば良いのか・・・大変だったと思います。でもこの歌の熱い思いに彼はしっかり応えてくれました。
彼女は本妻として息子を二人、娘を一人産み。夫は関白にまで出世して、娘は天皇のお妃さまにもなって、母親としても栄華を極めました。ただし、夫の藤原道隆が40代で亡くなるまでの事です。人生は何が起こるか分かりません。夫が亡くなって、息子が夫の弟との政権抗争に難なく破れて、遠い九州に左遷させられてしまいます。その上天皇のお妃さまだった娘の中宮定子も惨めな事件に巻き込まれて落飾し、尼さんになってしまいます。
あれよあれよと栄光の座からころげ落ちて、彼女は夫が亡くなって何年もたたないうちに不幸の中で亡くなったと言われています。
和歌うたを通して、古の歌人達の人生を垣間見ていつも感じる事は、幸福の絶頂も、不幸のどん底も、もし一回の人生で体験できるなら、最後に幸せになった方が良さそうだと。
人生はやはりハッピーエンドで締めくくれるのが好ましいとつくづく思います。これは特に残された人々にとっては気持ちが安定します。私などは共感度数が高いので女性が不幸の中で亡くなったと知ると、なんとなく居心地が悪くて・・・
自分もそんな中で死んでゆくのかしら?などと無意識に思うのでしょうね。
一方で、私の価値観の中には色んな事を体験出来ることが人生の大きな目的。という観点があります。どうせ生きるのなら盛り沢山な体験をしてみたいと若い頃は考えていました。その観点から見ると彼女の人生は面白くて充実していたのではないかなと思います。
最後にエピソードを一つ。彼女の父親が、初めの頃、藤原道隆が娘のもとに通うのを快く思っていなかったのですが、ある朝彼が帰ってゆく後姿を見て、この人物は関白になる。と予感して娘との結婚を許した。というお話しが語り継がれています。
(早苗ネネ♪)
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
試練は乗り越えると経験になる。 有限会社菅井商会 代表取締役 菅井陽子さん
有限会社菅井商会 代表取締役 菅井陽子さん |
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42歳からお仕事を始められたとか・・・
1990年、普通の専業主婦だった私に、大きな転機が訪れたのは夫の会社の倒産でした。私は何も知らされていなくて、夫は失踪してしまい、私に残されたのは中学生の長男と小学生の長女・・そして1億円を超える借金でした。
まず、住んでいた家を売却しました。小高い丘の上にあってお気に入りの素敵な家でしたが・・・。それから職探しです。社会経験が何もない私には働く場所はそんなに簡単に見つかりませんでした。「人が嫌がる仕事、汚い仕事」をしようと考えて、ご縁があった会社で解体工事営業という仕事を始めました。会社の給料だけでは、借金返済ができないので、夜は料亭の仲居さんをしていました。本当に寝る暇もなく働きましたね。
解体工事の営業では素晴らしい営業成績を上げられたそうですね
建築の現場で女性が珍しかったからでしょうか。解体工事の相談に伺うと皆様によくしていただきました。始めたばかりの頃は、職人さんたちに声をかけることができなくて苦労しましたが、真面目に一生懸命取り組みました。 おかげさまで営業成績は右肩上がりでした。解体工事の営業を始めて3年経ったころ、社長に「昼と夜に働いているのは大変だから、社員ではなくて個人事業主として完全歩合でやってみないか。」と言われました。私の頑張りを見て下さった方がいるんだと本当に有難かったですね。 神奈川県内で上位三位の高所得者になったのですって・・ |
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毎年確定申告をしていたのですが、女性個人事業主としては三位の所得額だったそうです。なぜわかったかというと、税務署の調査が入ったからです。経費の内容などについて厳しい追及を受けました。そのときに「これは会社組織にする規模ですよ。」というアドバイスを受けて、2000年に「有限会社菅井商会」を設立しました。
有限会社菅井商会 http://www.sugaisyokai.com/
「菅井商会」は、どのような業務をされているのですか
「菅井商会」では、リフォームを行っていますし、家屋解体なども請け負っています。それから、遺品の整理などを行う「思い出事業部」があります。
「思い出事業部」を設立したのは、解体工事の営業を行っていたときに一人暮らしの方の遺品を片付ける機会が何度かあったことからです。遺産相続を行う司法書士から依頼も増えてきました。遺品は持ち主が亡くなった時点で役割を果たします。「ありがとうございました。ご苦労様でした。」という気持ちを込めて整理をしています。まだ使える品物は遺族の了解を得てほしい方にお譲りすることもあります。遺品整理がご縁で人生相談に乗ることは日常茶飯事ですね。老人ホームの手続きまでやってあげたりして・・。根がおせっかいだからかもしれませんが・・・。(笑)
売却した家を買戻したそうですね
はい、家を出てから10年後に不思議なご縁があって・・。また住むことができるようになりました。中古の戸建てを購入したいと考えていたときに、不動産屋の営業さんから電話があって、なんと売却した家が売りに出ていたのですよ。すぐに買いますと言って。再び玄関を開けたときの感動は忘れられません。「天は見ている、見られている」と思いますよ。 「順風満帆」に思われたときに、また試練が訪れたのですって・・ |
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仕事をし過ぎたのでしょうね。2006年に脳腫瘍という大病にかかりました。その当時は、なんて理不尽なんだと天を恨みましたが、今では天が私に休みなさい・・と言ってくれたのだと捉えています。
手術後、事業を息子に任せて、一年間湯河原の別荘で療養しました。その間にこれからどのように生きていくかを真剣に考えました。これで仕事をやめようかな・・十分頑張ってきたしとも思いましたが、中途半端でやめるのは嫌だ・・これからは自分が好きなことだけをやっていこうと決心しました。これまで「壊す」仕事をやってきたのだから、これからは、「家」を再生させるリフォームの仕事をやりたいという想いが強くなりました。
お客様と一緒に歩みながらいいものを創りだしていきたいと考えました。骨董品を扱うために古物商の資格もとりました。毎日が勉強でとても楽しいですよ。自分の想いを相手に伝えて、それで菅井にやってもらたいとおっしゃる方と真剣勝負で向き合って仕事をできるのはとても幸せです。先日も日本家屋を昭和レトロを残しつつ耐震の建物に作り替えました。
テレビや新聞・雑誌にも数多く登場されていますね
他人さまから見ると私の人生はドラマチックなのだそうです。(笑) 2005年に内閣府男女共同参画局のチャレンジ・サイトに「42才からの出発家屋解体業に挑戦」というタイトルで掲載されました。これがきっかけとなって、取材を受ける機会が増えました。
チャレンジ・サイト(菅井陽子) http://www.gender.go.jp/e-challenge/…
どんなに新聞・雑誌に掲載されても、本業への影響はあまりないのが寂しいですが・・。2013年10月には「団塊スタイル」というNHKの番組に「遺品整理 手助けします ~解体業 菅井陽子~」とうタイトルで落合恵子さんと一緒に出ました。さすがにNHKですね。このときの反響はすごかったです。
有難いことに各方面からお声がかかって「生き方」や「人生の終い方」などをテーマにした講演をすることもあります。お話しすることは好きですね。私はよく引き出しがたくさんあると言われます。「起業」「女性」「育児」「環境」「シニア」等・・何でもござれでございます。
今年から新しいことを始められたとか・・
今年の夏ごろから、消費税増税の影響で仕事が激減しました。時間ができたせいか私が培ってきた経験や仕事のノウハウを皆様に伝えてお役に立ちたいといういう想いが募ってきたのです。 10月11日に、男女共同参画センターフォーラム南太田で、菅井陽子トークサロン「モノと人生の区切りをつける」を開催しました。定員30人のところに45名の方にご参加いただいたというのも、サロン開設の後押しになりました。 男女共同参画センター フォーラム南太田 12月から毎月第一水曜日13時から15時まで、フォーラム南太田の交流ラウンジでサロンを開いています。無料です。メインスピーカーはいますが、参加者全員のおしゃべりを大切にしたいと思っています。参加者の輪が広がっていけばいいな・・と考えています。老若男女問わず、どなたでも大歓迎です。お待ちしております!! 菅井さんにとって横浜・・で何ですか。一言お願いいたします私は横浜に生まれ、ここで育ち、結婚をして子供を産み・・それからいろいろなことがありましたが、横浜は幸せをたくさんくれた町です。大好きです。 |
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インタビュー・文:渡邊桃伯子/写真:江口節子
馬車道 Emera 通信 創刊号Vol.1 October 2012
「ボリビア・コマ基金」第四弾!! --「ボリビアナイト」を開催しました--
「ボリビア・コマ基金」の活動を始めて、「ボリビア」という国の歴史や現実に触れることになりました。「ボリビア」をもっと知ってもっと親しくなろうよ・・・という趣旨で、NPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボと共同で、10月24日に関内のさくらworksで「ボリビアナイト」を開催することになりました。
ボリビアを知るのはまずお料理でしょう・・・ということで、「ボリビアナイト」の発案者であるヨコハマ経済新聞のライターの酒井さんと、横浜市鶴見区にあるボリビア料理店「エルボスケ」を訪問いたしました。オーナーの知名さんは、沖縄県出身で6歳のときにご両親と一緒にボリビアに渡ったそうです。20年前に日本に帰ってきて、レストランを始めました。週末は満員御礼の人気店になっています。「ボリビアナイト」で提供するお料理をお願いいたしました。(パン・揚げ物・チキンサラダ・牛肉のスープなど)
千客万来つるみ~南米料理食べ歩記~(エルボスケ)
酒井さんの企画で、日系ボリビア人の写真家、比嘉ダビド久人リアオさんの写真展示やペルー人の音楽家チャケさんにフォルクローレを演奏していただくことになりました。
比嘉さんのWebサイト http://hisato-semilla.com/foto/
ボリビアナイト当日、新潟県上越市から平野さんが横浜までいらっしゃいました。ボリビアの特産品を会場で展示即売して募金にしたいと、マフラーやバック・食品・置物・地図など様々な品をお持ちになりました。日系ボリビア人の金城さんは、特産の岩塩(ピンクソルト)をたくさんお持ちになりました。こちらも展示即売して募金にしてくださいました。全日本製造業コマ大戦協会の実行委員の五光発條の村井社長は自社製品のSplLinkをお持ちくださいました。酒井さんは南米のお酒「ラム」の販売も担当されました。
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いよいよ・・・ボリビアナイトの始まりです。
「おかしら」こと全日本製造業コマ大戦協会会長の緑川さんと平野さんの感激の対面から始まりました。緑川さんと平野さんのお話は、ヨコハマNOW編集長辰巳さんの制作の動画でご覧ください。
日本という枠を飛び越えて、世界一を決める。全日本製造業コマ大戦協会 会長 緑川賢司さん
ボリビアから日本へ。JICAシニアボランティア海外協力隊 平野正さん
日本ボリビア協会専務理事の杉浦篤さんからご提供いただいた、ボリビアの風景や人々の写真が会場に映し出されました。杉浦さんにはボリビアのことを解説していただきました。
参加された方々は、ボリビア料理の美味しさにびっくりした面持ちでした。
比嘉さんと平野さんが、比嘉さんの撮影した写真を通して、ボリビアの現実を話してくれました。手が不自由な女性が描いた「奇跡の絵」のお話を聞いたときに、会場は不思議な感動に包まれました。最後は、チャケさんのフォルクローレ・・民族楽器で奏でる音楽に拍手の輪が広がりました。踊りだす方もいて、なごやかな雰囲気になりました。
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あっという間の2時間でした。「ボリビア」が身近に感じられた楽しいひとときでした。またやりたいね・・という声も聞こえて・・有意義なイベントになったと思います。本当にありがとうございました。
おかげさまで、「ボリビアナイト」での販売代金と会費からの寄付を合わせると110,000円を超える募金になりました。
ボリビアの若者たちを横浜に呼ぶことが現実になってきました。「ボリビア・コマ基金」へ、引き続き皆様のご支援をお願いいたします。
「ボリビア・コマ基金」へご協力をお願いいたします。
いくらでもかいません。皆様のお気持ちを・・・・
●「ゆうちょ銀行」からお振込みいただく場合は
「記号」10250 「番号」88379271
●「ゆうちょ銀行」以外の金融機関からのお振込みの場合は
「銀行名」ゆうちょ銀行 「店名」〇二八(ゼロニハチ)
「預金種目」普通預金 「口座番号」8837927
「口座名」全日本製造業コマ大戦協会
ボリビア・コマ基金支援イベント「ボリビアナイト」の様子はこちらでご覧ください。チャケさんの演奏が流れています。
「ボリビア・コマ基金」のチラシです。 皆様のお知り合いにこのチラシを渡していただきたいのです。
http://yokohama-now.jp/pdf/bolivia.pdf
「ボリビア・コマ基金」が朝日新聞に掲載されました。
「回れ 世界のものづくり コマ大戦 ボリビアの16歳呼ぼう」
http://yokohama-now.jp/pdf/…
「ボリビア・コマ基金」が神奈川新聞に掲載されました。
「世界コマ大戦にボリビアの若者を 関係者が渡航費の募金活動」
http://www.kanaloco.jp/article/…
浜じぃの横浜漫歩(第7回) 豪華客船
今年の夏の終わり頃のことです。 さて、この「プリンセス・ダイヤモンド」号ですが、これもなかなかの豪華客船です。 ともかく、豪華客船というのはとても雰囲気があって、たとえ乗れなくとも見ているだけで楽しいものです。 |
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2014年11月 三ツ池だより 「大地はみなのもの!」
フィンランドにいったのはもう何年も前になる。森に入るといつでもムーミンたちが表れるような気がしたものだ。今、横浜のSOGO美術館でトーベ・ヤンソン展が開かれている。行けたらいいなと思っていた。あるときSOGOに行くことがあって、人待ちするために喫茶室に行ったら、その隣が忘れていた開催の場所であった。不思議な縁を思いながら入館した。思い出していた。「大地はみなのもの」という文を書いていたから。
フィンランドの旅で忘れられない言葉にガイドさんの言われた「ここでは大地はみなのものなのですよ。」がある。
アラウンコの湖畔に宿を取った。夜数人で散策に出た。湖の対岸に残照に似た陽の影があった。まだ明るい。時間は21時をまわっていた。両側の草がきれいに刈られた道を歩いた。時おり鴨が水面を揺らした。波紋が緩やかに岸辺に届く。少し冷気を感じる。小半時、鉄橋のボート置き場まで歩いた。
民家が見えたので、私は一人で先まで歩くことにした。畑の横の砂の広場には木のデッキが、背の低い馬のようにどっしりと置かれていた。なんの目的で置かれているのかいぶかるような存在であった。散歩や観光でそこまで来る人はいないであろう。ブランコもあった。触れてみた。少し動いた。
足元にあった棒切れを私は掴んだ。
なんの変哲もないただの棒切れをもって急ぎ足にあるいた。
美しきことそれは陽の入り 美しきことそれは鳥の声と列車音
行こう今来た道を戻りながら 新しい道を求めて
求めることは生きること 半分は不透明であるがゆえの道を
上下に羽を振るわせる小鴨がいて あなたは闇、あなたは神
「ここでは大地はみなのものです。国有であろうと、私有であろうと、茸とベリーは誰でもが森に入って採っていいんです。」
11月を俳句にみてみよう。
11月は駆け足でやってくる。やらないといけないことが押し寄せてくる。
温め酒の美味しい季節になった。酢牡蠣などがあったらいうことない。
コスモスの句をさがしていて、村井秋さんのHPに面白い俳句とコメントを見つけた。
「きょうは頭痛なんだ、こころも病んでいるんだ、寂しいし、悲しい。腰痛の具合も悪いなあ。あれ、コスモス。コスモスは強いなあ、倒れても起き上がって花を咲かせる。うむ、コスモスの元気、貰ったよ。」という兜太さんのつぶやきがそのまま句になったのではないでしょうか。頭痛の/心痛の/腰痛の/と畳みかけて、実はどこか悲嘆さから苦笑に意識が変わってきているように思う。読む側の苦笑を誘う。「頭痛の心痛の腰痛の」と「コスモス」の間の距離が良い。「の」は軽い切れですが、前節との距離があるので、しっかり切って読むことができる。この切れが苦笑を引き出しているように思う。この句はコスモスがとてもよく効いている。 「昭和61年 “皆野” よりとある。」
三ツ池の里にいて、三ツ池だよりを書いている。フィンランドのムーミン谷では、森から本当にムーミンが出てきそうだった。この三ツ池の森であれば、銀杏紅葉や桜紅葉があり、薊やコスモス咲いているところに出てくるのは子犬のようなものか、どんな妖精があらわれるのだろうか。いや、ムーミンかスナフキンか出てくるのかもしれないと思って歩いてみようか!
「大地はみんなのもの!」というフレーズが何とも大きなものに思えてくる。
Photos
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(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
栗は果物・・・?
秋の味覚、栗ですが、栗は果物? 野菜? ケーキ等に使われるので、果物かな? とも思いますが、答えはナッツです。ナッツ類はビタミン、ミネラル(特にカリウム、亜鉛)が豊富。油脂を多く含み、カロリーも高い事から、少量で効率よくエネルギー補給ができる食品です。 栗はその中でも、油脂分は少なめ。カロリーが気になる方には嬉しいですね!多く含まれるカリウムの主な役目はナトリウム(塩分)の排出。とりすぎた塩分を排出してくれ、むくみ防止にも。 |
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亜鉛は不足すると、肌荒れ、脱毛を引き起こしたり、ひどくなると味覚障害を起こします。現代人が不足しがちと言われている栄養素ですので、積極的にとりたいですね。小腹が空いた時に、甘栗などをつまむのは、健康的なおやつと言えます。
栗むきは大変!というイメージがありますね。
すっかり秋になり、栗ごはんを召し上がった方も多いのではないでしょうか?
栗ごはん、食べたいけれど栗をむくのが大変!という声を良く聞きます。
大変!というより、私が栗の渋皮煮をお出しすると、「え!むいたんですか?」っていうくらい、驚かれるのです。(笑)
皆さん、栗をむくのは、とんでもなく手間のかかるもの、と思われているようですね。
確かに硬くでやっかいな、栗の皮。私はむくのが好きなので(え!好きなんですか!?とまた、驚かれる)小さいナイフでちまちまむくのですが、さすがに一袋終えると手がしびれてたりします。
なので、簡単なむき方をご紹介。
*圧力鍋をお持ちの方
一番手軽に出来るのが、圧力鍋を使ったやり方。
圧力鍋に栗と、ひたひたの水を入れて火にかけます。圧力がかかってきたら(ひゅるひゅると音がします)10分。火を止め、圧力が下がるのを待ちます。
それをむけば、鬼皮、渋皮共にキレイにむけます。
*圧力鍋をもお持ちでない方、渋皮煮を作りたい方
圧力鍋をお持ちでない方はけっこういますよね?(持っている方の方が少ないのかな?)または、お菓子などの為に、渋皮煮を作りたい方はこちら。 |
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ちょっと上級編 【栗の渋皮煮に挑戦】
お菓子などに活用出来る、栗の渋皮煮。瓶詰めで売られていますが、結構高価なものです。栗が上手にむけたら、挑戦してみませんか?
- 栗
- 重曹
- 砂糖
- 醤油
- 500g
- 小さじ1/2
- 250g
- 小さじ1
- 栗は、渋皮を残してむく。なるべく渋皮に傷を付けないように
- 鍋に栗と、たっぷりの水を入れ,沸騰させる。沸騰すれば湯を捨て、もう一度繰り返す。(茹でこぼし)
- 2回ほど茹でこぼしたら、再び栗とたっぷりの水、重曹を入れて20分煮る。
- 茹で汁が真っ黒になる。茹で汁を捨て、たっぷりの水にさらしながら、指と竹串を使い、鬼皮に残っている硬い筋をとりのぞく。
- 1時間ほど、水にさらす。
- 再び、栗を鍋に入れ、ひたひたの水と砂糖を1/3加え、10分煮る。
- 竹串を刺し、栗が柔らかくなれば、残りの砂糖を加え、煮汁がとろっとして艶がでるまで煮る。(砂糖を一度に加えると、栗が硬くなる)
- 醤油をたらし、タッパー等に入れ冷蔵庫保存。約1ヶ月もつ。
くりは灰汁がありますので、茹でこぼし、さらし、などを丁寧にしてください。 ジュイエでは、こんなケーキにしています。(右画像) |
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11月の料理コースのご案内
私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。
11月のコース内容
受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。
http://www.7juillet.com/kyousitu.html
プロフィール
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フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ
女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得 |
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第20回)
大浦総合研究所 代表/大浦勇三
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第20回)
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
- 梁塵秘抄 -
京セラを創業した稲盛和夫さんは “何か事を起こす時はまず思い込まなければならない。そのためには自分の仕事を好きになることだ” と語っています。心からその実現を信じることが、困難な状況を打開するとの信念が “稲盛経営12カ条” から伝わります。12カ条の中でも “強烈な願望を心に抱く” “値決めは経営” “常に創造的な仕事をする” が強く印象に残ります。一つのことを長い間続けることで平凡は非凡に化けるが、それを続けるには辛抱が欠かせないこと。最後の瞽女(ごぜ)といわれた小林ハルさんは “いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修業” と肝に銘じ、想像を絶する苦難を見事な知恵で乗り切ったといいます。この世もイノベーションも、突き詰めれば “修業” と “祭り” の抱き合わせ。世界的建築家コルビジェも若い頃は企画提案で連戦連敗が続きましたが、 “夢” があり “夢中” だったから、何度うまくいかなくても挑戦できたとのこと。繰り返し考え続けることが “知” の蓄積になるとの確信があったからですかね。梁塵秘抄では “仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ” とあります。仏は阿弥陀如来、西方浄土への憧れ。現実から離れて遥かな未来へ憧れるのはどの時代の人間も変わりません。今日よりは明日、明日より明後日と、 “伝統と革新の両方を背負う重圧” を遊び楽しむしかなさそうですね。
“遊びをせんとや生れけん” 「遊」
自分の時間を偽りなく正直に生きているか
侍・武士の魂 米国流ではマーヴェリック
お金を持ちつつ貧しく生きたい、とピカソ
“大金を持ったうえで貧しく生きたい” とはいかにもピカソ。生涯に油絵・素描をはじめ版画・彫刻・陶器に至るまで数万点の創作をものにし、巨万の富を手にしました。しかし、創作活動の原点はパリの洗濯船というぼろアパート。富を得ても極貧の中での修業の充実感と手応えが忘れられなかったのかもしれません。ピカソは作風がめまぐるしく変化したことでも有名。 “青の時代” “ばら色の時代” “アフリカ彫刻の時代” 、更に “キュビスムの時代” “新古典主義の時代”&bnbsp;“シュルレアリスムの時代” へと展開しました。以前、NYメトロポリタン美術館で一日中、ピカソとレンブラント・フェルメールがある部屋を行ったり来たりしたことを思い出します。 “何でも吸収・何でもトライ・いつでも前向き・安住を拒み先端・創造には変化のみ” と挑戦し続けたマイルス・デイビスの音色と共鳴するものがありますね。 “稽古は強かれ” とは世阿弥のつぶやき。
“仕事をせんとや生れけん” 「献」
空中ブランコの1メートル下に安全ネットがある開発環境の緩み
いいモノを創る 日々鍛錬しながら裸になる 満足感は脇に置く
遠慮なんかせずにくたばるまで何でもやれ、とロマン・ローラン
“悪い戦術は良い戦略があれば救えるが、悪い戦略は良い戦術では救えない” と喝破したのは戦争論を書いたクラウゼヴィッツ。MOT(技術経営)の本質は、技術が戦略を生むだけでなく、戦略が技術を生むことでもあります。ロマン・ローランはフランスの理想主義的ヒューマニズムを代表する作家。戦争反対を世界に叫び続け、多くの支持者を得ました。ノーベル文学賞を受賞した “ジャン・クリストフ” はベートーベンをモデルにした長編小説。ベートーベンは “シンプルさ - 単純な音の組合せによる深遠なる表現” が本質との見立て。学生時代に夏休みの大半をこの本と格闘したことを懐かしく思い出します。 “世間の鐘の音色は学問の音色とは多分に異なる” という言葉が今でも記憶に鮮明です。 “ジャズではミスが素晴らしい効果を生むこともある。直感が大事であり、心に感ずるままに従え” とのクリント・イーストウッドの言葉がピッタリ合いますね。
“学びをせんとや生れけん” 「学」
未来へ向けて鼓舞しながら生きること 一通りできてやっと下手
善意や道徳観に頼る仕組みは限界 いい人生だったと思えば勝ち
自分がどこへゆくのかわからない時が一番向上する、とニーチェ
グローバリズムの主要要素は “民主主義・市場主義・科学技術・リベラルアーツ“ だといわれます。そのど真ん中で面白おかしく生きること。善意や道徳だけを振り回さず、ひたすら夢中になれる者が勝つ世界。創造性の量と質は用途イメージの発想数に比例する空間。ドイツの哲学者ニーチェは “デカダンス” “ルサンチマン” “超人” “永劫回帰” などの独自概念を生み出しました。絵でいうと “形而上絵画” 。現に生きている人間自身の探求、自己と社会・世界との関係について考察、人間は理性的生物でなく恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとしました。 “人間の文化・思想・論理などはマングローブの根のようにぐにゃぐにゃつながっている。また、3000年前と今も、やはりマングローブのように強くからみあっている” と洞察したのは小田実です。
「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」
今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(九)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。
「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/
(第20回了)
大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール
大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/) 石川県七尾市出身。 筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。 主な著作物:
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はじめにで書かれている。「そんなに怒らなくてもいいのに。と今になってはおもいます。でも泣きたいくらいのお母さんの、今の気持ちに寄り添いたいなとも思います。」 この本を前にして、私は「一歩を踏み出すために何をこの本から聞き出したいかを考えていた。一番言いたいことはなになのかということを?」そうすると一方からこんな声が聴こえてきた。「幸せって何?何が聴こえる?幸せの共有とは、方法とは?」 |
ここねさんは本名ではない。ペンネームである。不思議なことがあった。その時傍に心音さんがいたのである。美月さんもペンネームである。「瑠璃でもなく、玻璃でもなく」唯川恵著の主人公の一人が美月さんというのも思い出された。
この本はところどころに質問が置かれている。「しつもんは、なげかけておくと、自分のこころはその答えを勝手に探し始めます。」という。そして「くじけることも大事です。人間は自分の弱さを確認しながら強くなるんだよ。と言ってくれた友人がいました。」「私はいつも、~がない、~ができない、~しかない、~してくれない、と、ないの数ばかりかぞえていました。~がある、~ができる、と、あるの数を数える考え方にかわることができたら、案外幸せはちかくにあるのではないか。そう思えてきたのです。」
幸せって何?の質問には生きていること、取り組んでいること、という答えだ出そうである。ここねさんは「だいすきだよ。こころからあなたの幸せを願っているし、信じている。」といい、今を素直に生き、取り組まれている。何がきこえる?の質問には心の声を聴くようにしている、そのためにここねさんはいつも笑顔を絶やさない。はじける笑顔のなかに、深い愛情を感じる。幸せの共有とは(方法)?の質問には、どんな時でも、可能性を信じ続けよう、そう思えるようになる。そう答えているように感じる。本当に覚悟できているか?方法が決まったら、別の道を断つことだとも。
「一緒に成長すればいいや、と思うと少し気が楽になりました。聴こえにくくても、大輔がしっかりと自分の道を歩んでいけるように。また家族がみんな楽しく明るく積極的な人生を送れるように・・・。そんあ力を自分たちの中に持ちたいと思いました。」「「愛情って、どうやって伝わるのかな。」
本の中ほどに「最近、うれしかったことはなんですか?」の問いがある。見つけていく、つくっていく。実は誰にも当てはまること。自分では気づかなかったことがその問いに答えられる話の中に気づかされることがある。そして「効率よくすることも必要だけど、一緒にすることで楽しさがふくらむのだな、ということを体感したできごと。回り道も、寄り道も、たのしいものですね。」
不思議な本です。「聞くはただ耳で聞くだけれど、聴くという漢字は、よく見ると、耳に、目と心を+して、成り立っています。心の声を聴くには、耳も、目も、心も、総動員ですね。」教えられることばかりですし、心掛けをすることでさまざまなことが変わってくるように感じています。
帯にマツダミヒロさんは書いておられます。
「周りにある幸せが見えてきます。」
一枚の紙が入っています。 “サポート購入のおねがい” のことです。「今、わが子のハンディがわかったばかりで暗中模索のママやパパ。一人で背負って頑張り続けているママ。そのような方たちに届けたい。そんな思いからサポート購入が生れました。あなたが協力してくださったサポート購入分の本を、全国の難聴児親の会や、大学病院などの待合室、全国の難聴特別支援学校の保護者待機室、難聴学級がある小・中学校、子育て支援センターなどに寄贈する仕組みです。」
私も寄贈のお役にたちたいと思っています。ご連絡いただければ幸いです。
みなさん今日もお元気でありますようにお祈りしています!
(文:横須賀 健治)
売れるモノづくり特別セミナー(第一回)のご案内
売れるモノづくり特別セミナー(第一回)のご案内
— ユニークな経営者が「商売の秘訣」を語る —
地域経済の活性化やビジネスマッチングにつながる情報を目的に、年間400社以上の地域中小企業を取材している「かながわ経済新聞」に登場したユニークな経営者に「商売の秘訣」についてお話しいただきます。そのお話のポイントを「笑顔経営」の木下氏に解説していただき、参加者全員でディスカッションを行います。
第一回目は、横浜市鶴見区にある遠州屋酒店の代表取締役斎藤英雄氏です。
遠州屋酒店は創業80年以上の老舗です。社長である斉藤さん2代目で、若くして家業を継ぎ、以来、半世紀以上にわたり、日本酒を中心とした酒類販売の世界で生きてきました。「日本酒は原酒しか売らない」「扱っている商品はすべて問屋を通さず蔵元希望価格で売る」といった独自路線を続けています。大手スーパーの攻勢で、同業者である“町の酒屋さん”が次々と廃業していくなか、この路線が奏を功して、今や斉藤さんの選んだ本物の酒を求め、集客増を図りたい飲食店、日本酒愛好家などが全国から訪れています。数ある日本酒のなかで本物を見極める力、職人たちとの駆け引き・・・。仕事に対する姿勢や商売のやり方などをお話ししていただきます。
プログラム
基調講演 |
「日本酒ビジネス半世紀、商売人として伝えたいこと」 遠州屋酒店(鶴見区)代表取締役 三角大通り共栄会会長 斉藤 英雄 氏 ※かながわ経済新聞10月号8面掲載 |
講演ポイント解説 |
株式会社バイオクロマト代表取締役 「笑顔経営」セミナー代表 木下 一真 氏 |
グループ・ディスカッション | 参加者全員 |
日 時 | 平成26年11月18日(火) セミナー 18時30分~20時45分 |
会 場 |
神奈川県民センター 会議室 横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2 TEL 045-312-1121 http://www.pref.kanagawa.jp/… |
会 費 | 2,000円 |
参加申込はこちらから
https://www.supportyou.jp/monoken/form/11/
※かながわ経済新聞について
創刊1周年を迎える「かながわ経済新聞」は、地域の中小企業の動向とマクロ経済にスポットを当てた新しいタイプの月刊紙です。製造業が盛んな大阪で人気の「日本一明るい経済新聞」(竹原信夫編集長)と提携しています。
「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります
いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。
「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。
「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。
毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。
売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/
<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476
メディア掲載情報
- 2012年2月20日 神奈川新聞 横浜売れるモノづくり研究会代表・猪狩惇夫の記事が掲載されました
- 2011年11月11日 日本経済新聞 「この企業ここがポイント」内に横浜売れるモノづくり研究会についての記事が掲載されました
- 2011年11月9日 日刊工業新聞 「横浜売れるモノづくり研究会」活動の輪広がり100人規模目指す
- 2011年6月6日 「売れるものづくり」をどう実現するのか―「横浜売れるモノづくり研究会」の取り組み
- 2011年1月21日 ヨコハマ経済新聞
横浜で「売れるモノづくり研究会」が発足-中小企業を支援 - 2011年1月19日 カナロコ — 神奈川新聞社
売れるモノづくり研究会発足へ、中小製造業をコンサルらが支援
横浜盆栽カフェ(第2回) 黄金町盆栽カフェ御礼
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PROLOGUE 連載に寄せて私たちは、豊かな水と四季折々の美しい自然の中で暮らしています。大自然に抱かれて生活しているわけではありませんが、世界的に見てうらやましい自然環境であることは間違いありません。しかし実感している人はあまりいませんし、感謝(誰に?天に!)している人は少ないです。 私は家業である造園工事業を営み、外仕事でもあるので明日の天気や風向きが気になりますし、移ろう季節を感じやすい状況にあると思います。このたび横浜盆栽カフェの連載を通じ、限られた鉢という環境の中で繰り広げられる、美しく、力強く、繊細な自然的造形美の盆栽を紹介し、四季や身近な自然環境と向合い、誇らしい地域(横浜)を感じていただきたいと思います。 |
横浜盆栽カフェ(第2回) 黄金町盆栽カフェ御礼
棚場の下
子どもの頃の楽しみに、父と鉢物の仕入れに行った事を思い出します。園芸農家に仕入れに行くと大きな温室があり、シクラメンやプリムラ(サクラソウの類)が咲き綺麗で、必ずおとなしく可愛い犬がいました。一通り荷が積み終わると、暖かな縁側でお茶を飲みました。手作りのおはぎやお新香、煮物や果物が沢山出てきます。しかし、何よりも嬉しかったのは、有明のハーバー、亀屋万年堂のナボナ、神田精養軒の赤と青のアーモンドピット、超一流の菓子をポケットに入りきらないほど頂いた事でした。
かわって市場では慌ただしく人が動き、スピーカーを通した大きな声、始まりを告げる鐘の音にビクビクしていた思い出でがあります。
あるとき今日はラーメンを食べに行くからと聴いたつもりで、仕事の車DATUSANトラック(日産の1t車)に乗り込みます。着くといつもの釜利谷にある長嶋農園さんです。最近シイタケ栽培で有名な長嶋さんとは40年以上前に親父の代からのお取引があったのです。長嶋さんの作るシクラメンは品質が良く、他の園芸農家価格よりも高ったですが、売価を高くしても良く売れたそうです。肝心のラーメンはシクラーメンだったのです。
盆栽カフェ3月の『のきさきアートフェア』から盆栽の販売を開催し、盆栽を通じたコミュニティや盆栽の魅力をお伝えしてきました。ことあるごとに常設した盆栽カフェができないか人に伝えたり、想いを巡らせておりました。お伝えするみなさんからは大きな賛同を受け、商売としてのスキームを視野に入れながらますます考えるようになりました。 |
(クリックで拡大画像) (写真提供:石井直樹) |
そんな7月の20日頃、願ってもないことに盆栽カフェを運営してくれないかと黄金町エリアマネージメントセンターからお誘いがありました。内容はイベント開催日以外の比較的人が少ない日に、海外アーティスト及びスタッフの滞留できるカフェ、アルバイトに対するランチや珈琲の提供でした。準備期間が2週間ということもあり、私は盆栽の提供は出来るものの、カフェ運営が難しいと思いましたが、誰かパートナーがいれば出来るのではないかと可能性を模索しました。その頃、私の友人が経営する大桟橋にある喫茶店《横浜観光取引所 道中(どうちゅう)》という店の経営権を譲ってくれるように掛け合ってくれないかと無理なことを言う人が現れました。一度お断りしましたが、黄金町で期間限定で一緒にカフェをやらないかとお誘いしたところ快諾頂き、それが逗子葉山倫理法人会で知り合った平田氏でした。
盆栽カフェでどのぐらいの集客ができるのか見当がつかないので、アルバイト雇用もままなりません。そこで、インターンシップやバイターンを手掛けるNPO法人アクションポート横浜の高城さんにお願いをして、担当を一人出してもらいました。
アクションポート横浜はカフェ運営のホール係とホームページによる情報の発信、平田氏はカフェ運営、石井造園は盆栽の普及販売。企業とNPOとのコラボレーションと一口に言いますが、3者の強みを持ち寄り盆栽カフェが生まれたのです。
開店まで10日間という準備期間でしたが、この共同企業体が存在する価値をアピールするため、まず最初に階段広場周りの造園工事を施し、掃除を徹底的に行い、憩いの空間を創りだしました。
8月2日の開店以来多くの出会いとご縁を頂きました。メディアにも取り上げて頂き、今回の連載のお話も頂きました。11月3日をもって横浜トリエンナーレ2014が終了し、『仮想のコミュニティ・アジア-黄金町バザール2014』も盛況のうちに終わりました。前回の横浜トリエンナーレでは、新港村に高さ13m長さ33mの巨大な緑のカーテンを出展することができ、株式会社での参加は弊社だけでした。今回のトリエンナーレでも何かのかたちで参画できないかと思っていましたが、声が掛かったのにも関わらず、弊社の失礼によりBankART様の植栽工事を逃してしまい、諦めておりました。いかし、この様なかたちで横浜トリエンナーレに関わりあうことが出来たことを嬉しく思います。
3ヵ月限定の盆栽カフェを恙無く終了することをできたことに満足しておりますし、関係してくださった皆様に深く感謝いたします。
今月も11月8日土曜日は中華街パーキング様の軒先をお借りして、11月9日日曜日は黄金町かいだん広場でのきさきアートフェアに、出店して盆栽の魅力をお伝えし販売をいたします。また、石井造園敷地内栄区笠間4-11-5にて『お客様の逸品を地域の皆様へ』のコンセプトのもと、第5回カサマルシェを開催いしその中でも盆栽を販売いたします。
今月の逸品落葉したウメモドキ 秋口に緑の実を付けたウメモドキは、実が一回り大きくなり真っ赤に色付きました。幹肌も美しく、実りの秋には赤い実が似合います。 |
(クリックで拡大画像) (写真提供:石井直樹) |
(石井造園株式会社 代表取締役 石井直樹)
石井造園株式会社
〒247-0006 神奈川県横浜市栄区笠間4-11-5
TEL.045-891-1501 FAX.045-891-2785
Websie http://www.ishii-zouen.co.jp/
本牧ラプソディ(第5回) LONDONレポート
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サロン・アカデミー「sho & jeric」チーフベリファイア 久留原 昌一郎 PROLOGUE 連載に寄せて初めに。 |
本牧ラプソディ(第4回) ホンモクDNA
先日美容学校の先生方を同行して毎年LONDONで開催される美容業界のエキビデション “Salon International 2014” に行ってきました、世界中で活躍している有名な美容家が集うヨーロッパ最大の美容業界のイベントです。
私はかって毎年参加していましたがここ数年は機会にがありませんでしたので4年ぶりの参加でした。
久しぶりに会う知人や友人達と会いとても愉しい時間を共有でき幸せでした。しかし共通の話題は新技術の開発がどうしてもスタイリング器具やヘアケアー剤を組み入れた技術になってしまいカット技術に特化すること難しい現状でした。
会場では業界の有名ブランドメーカー(ロレアル、ウエラ、資生堂、シュワルツコフ、タカラ、TG)などが有名なスタイリスト(ヴィダ-ルサッス-ン、TONI&GUY,TGチーム、など)のセミナーをサポートして情報を発信しています、同行した美容学校の先生や私たち美容師にはとても刺激的で勉強になります。
ロンドンは私たち美容師にとっては20世紀美容文化の発祥地です。ロンドンなくして現代の美容文化はありませんのでかっては年間3000人以上が美容留学していました。また他日にはロンドンの “アルバートホール” で、ロイヤルファミリーのウエデイングドレスの展示会や私の友人Tony Risso氏が発起人の白血病チャリテイーヘアーショー “Alternative Hair Show” を鑑賞したりしました。どちらもとても素晴らしいギャラリーとヘアーショーでした。
滞在中にロンドンの有名なアンテイックマーケット “ポーベロマーケット” で銀細工やクリスタルグラスを探索したり市内中心にある “コベントガーデンマーケット” で大道芸を観て久しぶりのロンドン休日を愉しみました。
今回のロンドン視察であらためて感じたことは “本牧DNA” です。十代に体験、経験した本牧パフォーマンスが私のその後の人生に大きく関与して美容業界でグローバルな活動が出来ていることです。
YOKOHAMAはグローバル都市です。この環境で生活されている皆さんは自然とグローバルに活動できるDNAをお持ちですので “激動のアジア” の21世紀をパフォーマンスしてください。
最後にこの度 “本牧ラプソディ” の掲載企画を組んでいただいたヨコハマNOW編集局、アジアで活躍されている美容市さん、写真提供の大谷氏の皆さんのご協力を感謝しております。
来年古希を迎えますが生涯現役の美容師を目指し後輩のよきサポーターとして活動しますので宜しくお願いいたします。有難うございました。
LONDON Photos
(クリックで拡大画像) | ||||
(サロン・アカデミー「sho & jeric」 チーフベリファイア 久留原 昌一郎)
サロン・アカデミー「sho & jeric」
〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町184-21 2F
TEL.045-625-0515 FAX.045-625-0515
営業時間:AM10:00~PM8:00
定休日:毎週火曜日+1日(平日不定)
Websie http://sho-jeric.com/
気が付けば、概ね(?)10周年みたいです。
秋のイベントシーズン! なのですが。
秋のイベントシーズンです。 今年の10月の週末は散々でしたね。 イベントに関しても、それらの影響で涙を飲んだ主催者・出店者・出演者、その他各関係者も多かったのではないでしょうか? 一方、そんなアンラッキーさえなければ抜けるような青空が広がる気持ちの良い季節。 そんな感じで、荒れたり晴れたりに振り回された10月のイベントですが、お陰様で無事に終了しました。 |
(クリックで拡大画像) |
保土ヶ谷宿名物会・第100回月例会議開催!
2014年10月24日(金)、保土ヶ谷宿名物会、100回目の月例会を開催しました!
・・・と言っても、私のカウントが間違えていなければ、の話ですが。
たしか、最初に各店に声を掛け、集まっていただいたのが2004年の秋だったと思います。
例年、8月は納涼会、12月は各店多忙のため、月例会はお休みしています。なので、平均的に年10回開催のペースです。
恐らく、正式に会として設立する前からのカウントになっていると思いますし、中には8月も月例会をやったり、他の月にお休みしていることもあったと思います。
ということで、ま、概ね合っているでしょう。
つまり、ナンダカンダでお陰様で10周年。
正式に会としてスタートしたのがその半年後くらいだったと思います。
(いい加減だ・・・)
なので、来年春ごろには、何か「10周年記念」みたいなこともできればと思います。
そんな訳で、本当にナンダカンダで10周年です。
皆さまのお蔭です。
各店主も相変わらず元気です!
前述の第100回会合でも、(決して大きいネタではありませんが)今後に向けて発展的なアイデアがいくつか出ました。
今後も、ゆるく楽しく、そして前向きに活動を続けていきたいと思います。
引き続き、ご支援の程、よろしくお願いいたします。
レポーター プロフィール
山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)
合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局
1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。
合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com
各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。
業務内容 :
●シンボル制作
ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
●広報(コミュニケーション)媒体制作
・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
・ニュースレター(A4版)制作
その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など
ヨコハマNOW掲載情報
横浜宝石物語(第1回) 創業者の祖父(戦前編)
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横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子 PROLOGUE 連載に寄せて私は横浜でおそらく一番古い宝石商の三代目です。 創業者の祖父、二代目の父、三代目の私とそれぞれの時代で宝石商としての形態は違っていますが、良い宝石を選び、作りの良いジュエリーを製作して、ご提供するということについては、3人とも拘ってやってきたと思います。 祖父が宝石の製造メーカーとして地位を築き、父が小売店として皆様に愛されたからこそ、今、私が宝石商としてやっていられますので、いつか祖父のこと、父のことを書いてみたいと思っていました。 |
この度、横浜宝石物語の連載のお話を頂きましたので、念願が叶い、とても嬉しいです。横浜の歴史も交えながら、祖父、父、私の宝石物語を綴っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
宝石商の三代目私は現在、横浜の馬車道で「横濱宝石美術館エメラ」という宝石店をしております。 横浜の景色や思い出をジュエリーにした「横浜ジュエリー」などオリジナルジュエリーの製作と販売、デザイナーやアーティストの作品の展示販売、お客様のご要望をかたちにするリフォームやオーダージュエリーのご注文を承っています。 私の宝石商のルーツである創業者の祖父のことからお話しさせて頂きたいと思います。 祖父を語る祖父は明治34年に新潟の三条で生まれました。 実業学校を出た後、16歳で横浜に出てきて、常磐町の今の横浜スタジアムの近くにあった宝飾工房に丁稚に入りました。 祖父は手先が器用でなく、口が達者だったので、職人でなく、外回りの営業に回されたそうです。 山下町にあるイギリス商館やインド商館に出入りして、ダイヤモンドやルビーやサファイアなどの宝石を買い付け、全国に卸す仕事をしていました。 関東大震災の時には横浜スタジアムの横にあった横浜公園の池に逃げたそうですが、火がものすごい勢いで迫ってきて、池の中まで熱くて、隣にいた方が布団を水に濡らして祖父にもかけて下さったので、生き延びられたそうです。 その後、知り合いの紹介で祖母と結婚しましたが、祖父はまだ20才そこそこの若さでした。 昭和5年、父が生まれた年に祖父は独立して、宝飾品を作って卸すメーカー的な仕事を始めました。 昭和10年に曙町に店を構え、全国への卸しの仕事もしながら、買取りや小売など一般客向けの仕事もしていました。当時、曙町辺りには花街があって、賑やかだったようです。 全国に卸す仕事をしている祖父は出張に出かけると一ヶ月も帰ってこない時もあり、祖母は店番をしたり、子供を抱えて大変だったようです。 ダイヤモンドの鑑定をルーペも使わずに見ることができるほどの目利きだった祖父は、戦争中は国が供出させたダイヤモンドや宝飾品の鑑定人もしていました。 国の依頼で上海にダイヤモンドを売りに行く話もあったようですが、戦争が激化したので、その話はなくなったそうです。 曙町の店は横浜大空襲で焼けてしまったそうで、根岸にあった家を処分して、長野に疎開しようとしたところで終戦を迎えました。 戦後の話は次回に続きます。 |
(クリックで拡大画像) (写真提供:大島貴子) |
(横濱宝石美術館エメラ 代表 大島貴子)
横濱宝石美術館エメラ
〒231-0011 横浜市中区太田町5-61 馬車道商栄ビル1階
TEL.045-681-0603 FAX.045-228-9828
Websie http://emera-yokohama.jp/
第26回 八景-洲崎町の町屋
株式会社鎌倉設計工房
代表取締役 藤本 幸充
八景-洲崎町の町屋
洲崎の町屋には現在20代から80代までの、各年齢層の方々が住んでいる。
右手の白壁の椅子の向こうに共同のダイニングキッチン入口
其の奥に明るい出入り口が見えるが、その手前が共同のラウンジとなっている。
最近の賃貸住宅でも共用部分の豊かさが入居の良しあしにつながっている。
それと同時に、このようなシェアハウスにおいては、住んでいるオーナーさんは個々の住人にかかわらざるを得ない。
おせっかいお母さんも程があるがオーナーさんとしては一人暮らしをするよりも、子どもの様な世代と日常的にかかわれる、近所の仲間が自然に集まる、など地域社会とのかかわりが格段に増える。
季節のイベント企画や週末のお茶会など、忙しさがそのままオーナーの生きがいになっている。
また若い人にとっては一人暮らしのアパートに帰るより、大きな一軒の家に帰る、家族みたいな顔ぶれがいるところに帰る、それは心の中の豊かさに通じるという。
世の中、空家問題が身近になってきている。私の住む鎌倉、湘南も周辺の分譲地は老人の一人暮らしが多かったり、家を引き払って老人ホームに移ったり空家が増える要因に事欠かないがオーナーが住む古家を自主管理型のシェアハウスにして若い人たちとともに暮らすまた同世代、あるいは気の合った仲間と住むことも賃貸という、一つの事業の形をとれば大いに入りやすいと思うのだが。
「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
AA STUDIO ナビゲートサービス
中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談 無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案 ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
北島 俊嗣 | http://kitajima-architecture-design.com |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
高橋 正彦 | http://www.takahashi-arch.com |
廣田 裕一 | |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
古川 達也 | http://furukawa-arch.com/ |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第29回 第6章 社会人編 1
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HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
横浜、街と風(社会人編) 15(30)
有名コーラスグループのオーディション
ここで前回出た有名コーラスグループのオーディションについて一言。某グループは男女2人づつの珍しい混声グループで、1979年頃2曲の大ヒットを出し紅白にも出場。二人がグループを抜ける為新しいメンバーを探しているところでした。カーボーちゃんから紹介していただき半月ほど前に三曲の譜面とカセットを受け取り、その中にはあの有名曲も、、、。4声なので自分のパートは下から二番目のかなり難しいパート。そのメロディだけ歌うと訳わからないほど不思議なメロディ、それほどコーラスに入れ込んだことがなかったので覚えるのに苦労しました。
やがて当日、東京のレッスンスタジオにいくと他にも確か5名位いたと記憶していますが、床は板張り壁はガラスばりの広いスタジオにひとりづつ通され、そこにはテレビで見ていたメンバーが長テーブルを前に座っていました。他にも関係者らしき人たちが数人。まずは面接、音楽的な話など色々聞かれた後待合室で待ち、全員呼ばれるとダンスのインストラクターがいて、そこでいきなりダンスステップを覚えさせられます。
最初は簡単でしたが、かなり高度になっていき、ダンスが苦手な自分は一人中々覚えられず回りが待っている始末。こりゃダメかなとこの時思っていました。そして控えの廊下で待ち、やがて又一人ずつ呼び出されると、コーラスの時間であの有名なご本人たちが自分の隣に立っています。それだけですっかり舞い上がってしまいましたが、オケに合わせ何とか彼らとコーラスをしましたが上手く出来たかどうか全くわかりませんでした。まあ落ちたという事はそういうことだったのでしょう。ただとても丁寧に扱ってもらえたオーディションでしたので感謝しています。
バンドマン流転
カーボーちゃんも忙しくなり、バンドマン仲間の紹介で東京のバンドに入ることに。そのバンドの衣装は米軍のアーミールックで、デザインは一緒ですが色がカラフルで一人一人違っていました。東京のディスコなどを転々。時には鶴見のバーホール。一番長かったのは上野で終わると終電はなく、週に何回かはメンバーと飲んで時間つぶし、そうでない時は24時間営業の喫茶店で(多分マイアミ?)インベーダーゲームをやったり居眠りしたり、こんな生活に疲れ、すっかり東京に通うのが嫌になりました。更に東京ではあまり受けず少し自信を喪失しかけていたのかも知れません。今思えば自分の未熟さを棚に上げ東京の客は冷たい、音楽を聞いてくれないなどと愚痴っていたようです。
結局又、横浜のバンドに戻りますが、今度はナイトクラブで2ヶ月目にはギャラが遅れ出し、結局半月位のギャラがもらえないまま解散してしまいました。
超高級クラブ
もう音楽から離れようと思いしばらく又学生時代世話になった新聞配送の仕事に戻りました。このままもう二度と音楽を仕事をしないと思う反面、日々が経てば経つほど歌いたいと思う気持ちは募るようになります。そんなある日、ある人の紹介で東京の音楽事務所の人から横浜のお店で弾き語り探してると連絡があり、そのつてで又弾き語りの仕事をやることになりました。ギャラはズバリ月12万円日曜休みで7時から11時45分まで。
まずその事務所と契約を済ませるとテーラーの人が体のサイズを測りに来てくれ真っ白なスリーピースのスーツを仕立ててくれました。そんなホストみたいな服を着てマネージャーに連れられ現地に行くと、そこは関内常盤町2丁目にあった超高級クラブ「ホワイトホース」(仮名)。内装はヨーロッパの王朝造りで床やテーブルは全て大理石。通路には赤い絨毯がひかれ客席は低くゆったりとしていて席と席の間にはミロのビーナスの様な1メートル強の白い彫刻がいくつも飾られていました。ステージは一番奥にグランドピアノがあり一段高い所にステージがあって壁一面がアメリカのホワイトハウスの写真でした。
営業が始まると豪華な和服やきらびやかなドレスをまとったホステスさんが30人位ズラリ。なんとも19歳の自分にはあまりにも異次元の世界でした。
こんなところで一体何を歌えばいいんだと思いながら流行歌や陽水などを歌っていたら和服の40歳位のホステスさんがステージに近づいてきて「先生、リクエスト!」。
先生って俺のこと? と思いながらが見ると割りばしに1万円札を挟んでいました。(当時はまだ絵柄が聖徳太子、当時の1万円札は今にすれば倍以上の価値) びっくりして「はい、曲はなんですか?」と聞くと「無法松の一生、度胸千両入りで!」 え!? ど演歌? 聞いたことないよと思いつつ、「スミマセンやってないんですけど」と答えると大きい声で怒り「あんた、それでもプロ?」と一万円札を放り投げられてしまいました。ウエイターがすっ飛んできましたが、こりゃとんでもないとこへ来ちゃったなと思いました。
リクエスト
しかし音楽事務所に拾ってもらい、スーツまで買ってもらった手前、ここで弱音を吐くわけにはいかないので“何クソ”と思い、ギャラもらってんだからとりあえず何でもリクエストには答えてやろうと思い、片っ端からもらったリクエストをメモっておき、翌日レコード屋へ行き即覚えました。まだCDもyoutubeもない時代、新曲はレコード買うしかありません。歌詞カードにコードだけふって数で勝負してやろうと。若かったから一日3曲覚えたこともありました。もっともこの頃の歌は単純で16小節位が繰り返し3番まであるのがほとんどでした。ただ本気で歌おうと思ったら奥は深いですが、これで自分を評価してもらいたくなかったので「あの先生は演歌下手なのよ」でよかったのです。
まず3原則1、コブシを回さない。2、ビブラートをかけない。3、ムード歌謡のように裏声に返さない! これを守れば演歌をニューミュージックのように歌えます(笑)
でもさすがに下手でもリクエストした翌日歌えばお客さんやホステスは驚き、感謝されます。そのお客さんの顔を見たら即好きな曲を歌えば、そのお客さんは喜び「あいつはいつも俺の顔をみると好きな曲やってくれるんだよな」と自分のことも覚えてくれます。時にはチップが飛びました。こうして3か月後位にはホワイトハウスで社長にも顔を覚えられる位になりました。
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL DATAMAP
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
やすらはで 寝なましものを 小夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな
♪やすらはで 寝なましものを 小夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな♪
絵・千絵崇石 |
読み人:赤染衛門(あかぞめえもん) 現代語訳・・・貴方がくるとおっしゃったので、ぐずぐずと明け方になるまで・西の山に月が沈むのを見るまで時をすごしてしまいました。ためらわないでさっさと寝ればよかったわ。 このところ男性歌人が続いたので今月は 女性歌人のうたを紹介します。 このうたは作者の姉妹の恋人が「今夜行きますよ」と約束をしておいて来ませんでした。 |
それに対して赤染衛門が姉妹のために代作をして、つれない恋人におくった歌だそうです。百人一首には同じ男性へのうたがもう一首残されています。(54番 儀同三司の母)
それもほとんど同じ時期にお付き合いしているようで、といって、二人の女性が完全にダブっていたのかは、わかりません。 20歳から23歳ぐらいまでのモテる男性にとって半年や一年に相手が変わることはありえそうです。推測ですが赤染衛門の姉妹はそれ以降のご縁は無かったようで、もうひとつの歌のほうはその恋人の心を射止めて、その後めでたく妻になった女性が、お付き合い始めの頃に彼に送った歌です。相手の男性の名前は藤原道隆といって赤染衛門の姉妹とお付き合いしていた頃は少将でした。
前途有望な貴公子だったのでしょうね。ハンサムで性格も良くて明るい。その上家柄も良くて誰もが憧れる好青年だったようです。その後彼は中の関白まで出世しました。
もてる男性の気持ちはどんな感じなのでしょうか? 私自身はアイドル時代に色んな男性から好かれる事がいかに大変なことか良くわかったので、女性がもてる悩みには理解があるのですが、男性の方はさほどの悩みはなさそうで、一度男性目線で体験してみたいです。
作者の赤染衛門は才女で人格者。彼女の事を調べてみるとマジに優等生なので私はコンプレックスを感じたくらいです。おしどり夫婦といわれて良妻賢母の赤染衛門は夫の仕事にも時々助言をして内助の功を発揮したらしく、その上姉妹が恋に悩んでいる時にその恋人を、さらっとおしゃれになじる歌まで代作してしまう良い意味でのスーパーウーマン。
あの有名な紫式部日記の中でも彼女への評価は高くて、人間としても品格があって、そのうたにはこちらが恥ずかしくなる程の格調高いものがあると書かれているそうです。
30代の頃はふらふらしていて、50歳過ぎてやっと自分のライフワークを見つけた私などは、どうしたらそんな風に若い時から立派に生きられるのかしら? と、人間としての質の違いを感じてしまいます。きっと魂の成熟した、徳の高い人だったのでしょう。
その赤染衛門お姉さま。母としての素晴らしいエピソードが残されています。
息子が重病になって明日をも知れない時に、ある方に住吉の神様の祟りではないかといわれて彼女は住吉神社に息子の回復を祈願してうたを奉納します。
♪代わらむと 祈る命は をしからで さてもわかれん ことぞ悲しき♪
現代語訳 息子の代わりに死んであげたい、と祈る自分の命は惜しくありません。でもその願いが叶い、彼が元気になった時に自分が別れてゆく事が悲しいのです。
神様にその願いが届いたのでしょう。息子は全快したそうです。めでたしめでたし!
(早苗ネネ♪)
- GGつよし「こんばんは」放送2周年記念
- 不登校・引きこもり支援 ボランティアチャリティ 早苗NENE和歌うたコンサート
- 日時:11月22日(日) 開場 17時30分 開演 18時
- 会場:浜松市福祉交流センターホール
〒432-8035 静岡県浜松市中区成子町140-8
TEL 053-452-3131 FAX 053-452-3133
http://www.h-fukushikoryu.jp/ - 入場料:前売り¥3,500円 当日¥3,800円
- お問い合わせ 053-463-6221 浜松カウンセリング学集会事務局
カップエージェンシー kap@po3.across.or.jp
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
「ヴァンゴー・ウォッカ」と呼ばれ、ファンの間では親しまれているオランダの天然フレーバー・ウォッカをご存知ですか? 125年余の経験と伝統の技を持ち、優れた品質と信頼性から、2005年にベアトリックス女王から「ロイヤル」指定を受け、また、世界的な権威から「極上の味わいのフレーバー・ウォッカ」と最高ランクの5つ星の評価を受けた「フレーバー・ウォッカ」です。 お店に置いてある種類では横浜一、いえ日本一だと言われるBarが野毛にあります。今回は野毛のBar Pracebo(バー プラシーボ)の伊藤大介さんをご紹介します。
Bar Placebo オーナーバーテンダー 伊藤大介さん |
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フレーバー・スピリッツは100種類揃えています
スピリッツとは、「ジン」「ウォッカ」「ラム」「テキーラ」のことで、これらは世界の四大スピリッツと呼ばれています。「ウォッカ」というとロシアのウォッカだと思われますが、「フレーバー・ウォッカ」というのは別のジャンルです。ウォッカというよりは「リキュール」にあたります。
海外では「フレーバー・ウォッカ」の人気は高く、定番のフルーツ系やコーヒーやチョコレートなどのナッツ系の味と香りはもとより、いたずら心やウィットに富んだ奇抜でユニークな味と香りを提供し、それを楽しむお酒の文化があります。「シャレているでしょう?!」
どんな味か気になりませんか? 例えば、「きゅうりのウォッカ」、当店では罰ゲーム用にオーダーが入ります。私は「カメムシ」の香りだと言っていますが、結構人気があって減るのが早いですよ(笑) 「ピーナツバター&ジェリー・ウォッカ」はアメリカ人ならば子供の頃にお母さんが作ってくれたサンドウィッチ、懐かしいおふくろの味のウォッカです。トリュフの味なんていうのもありますよ。
私のお勧めの味は、「ダブル・エスプレッソ」と「ざくろ」と「パイナップル」です。特にダブル・エスプエッソは人気が高く手に入りづらい商品です。 このままオンザロックで飲むことをお勧めします。 ざくろやパイナップルはソーダ―で割っても美味しく飲めます。飲みやすいからと言ってアルコール度が30度を超えることにご注意を! 飲みすぎるとすぐ足にきます。(笑)
妻も私もお酒が好きですね。美味しいお酒を求めて二人で旅行することもあります。集めたお酒を店に置いています。並べているお酒の種類は500以上あると思います。その内の100種類がフレーバー・スピリッツです。
「ヴァンゴーウォッカ」に魅せられて
当店のフレーバー・スピリッツを代表するのが、フレーバー・ウォッカ『Van Gogh VODKA』(ヴァンゴー・ウォッカ)です。 オランダを代表する画家ヴァン・ゴッホの名前が付いています。オランダの南部ロッテルダム地区のシーダムにある『ロイヤル ディルクス ワーヘル蒸留所』で丁寧に手作りされています。 2005年にベアトリクス女王より「ロイヤル」の指定を授かった蒸留所です。ボトルには『ヴァン・ゴッホ』の絵が描かれています。 ボトルの中身が減っていくと、パノラマのように絵が見えてくるのが不思議です。 酒類の専門誌や評論家の間では「業界最高のフレーバー・ウォッカ」と絶賛されています。 私もこのウォッカの香りと味、色、そしてボトルの美しさに魅せられファンになりました。 |
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サラリーマンからバーテンダーに転職しました
北海道の札幌で生まれ、5歳の時に横浜(緑区)に引っ越してきました。小学生の頃は、本を読むのが好きで「社会」や「歴史」が得意科目でした。反面、パンクミュージックに夢中になり、スタイルも髪型も「パンク」にはまっていました。中学校では部活の吹奏楽で打楽器(太鼓/ドラム)を担当していました。高校は演劇部でした。演じるよりも脚本を書くのが好きでした。ロマンチックな詩を書いたりもしました。高校卒業後は専門学校に入り、IT関連の仕事に就きました。 当時、IT業界はITバブルと呼ばれた時期で、広い業界の中で、似たようなジャンルの合併や一部の譲渡、分裂などが繰り返されていました。私は金融システムなどを手掛けていました。銀行のシステムなどを設計する仕事です。家族的で自分に合っていると思われた会社が、合併を繰り返し大きくなっていく中で、「自分はここに居てもいいのか?」といった疑問が湧き、私を苦しめ疲れさせました。 実際、残業も多くなっていました。 仕事帰り、残業の疲れを癒してくれるBar・・・「これをやりたい!!」と思いました。関内のBarを100軒以上飲み歩き、いろいろな店の味やサービスの仕方、インテリアを勉強しました。14年間のサラリーマン生活に終止符を打ち、オーナーバーテンダーとして再出発しました。2013年5月20日に、英国風なゴシックの内装でロックが聴けるBarとして「Bar Placebo」が誕生しました。 Placeboとは「えせ薬」のことです。「疲れた時、嫌なことがあった時、お酒を飲んで楽しくなればいいじゃない」と、妻と「えせ薬」という名を考えて付けました。ロックミュージックの聴ける店として、若い方、音楽好きな方に来てもらいたいと思っています。 野毛界隈にはBarや居酒屋、レストランなど お酒を置いている店が沢山ありますから、特長を持たせることが重要です。フレーバー・スピリッツと音楽が当店の特長になれば良いなと思っています。 集客は大変です、野毛のお祭り(ハロウィンや野毛の大道芸など)には積極的に参加しています。 大道芸の時は昼間も店を開けてみたり、お客様の流れを試しています。最近は、ホームページを見て来られる方も増えています。 |
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29年ぶりに妹と初対面し、その妹とCDを出します
家庭の事情で知らなかったのですが、出身地の北海道に住む叔母から「妹がいるのよ」と聞かされ29年ぶりに連絡を取りました。兄妹とは言っても血のつながりは1/2なのですが、初めて会って思ったのが「似ている」ということ・・・性格がそっくりなのに驚きました。 妹の咲花はイラストを描くのが好きで、CDをデザインしてくれることになりました。作詞、作曲は私のオリジナルでキーボードでの「弾き語り」で歌を入れました。 タイトルは「最終進化論」とちょっと固めなタイトルですが(笑) やっぱり血のつながった兄妹だと思いました。29年のブランクがあっという間に埋りましたから。。。妹って良いですよ。 |
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私にとっての横浜は
初めて店に来られたお客様はちょっと驚かれるかもしれません。シャイな性格の照れ隠し(?)にちょっと化粧をしています(笑) パンクやロック好きの方には違和感はないかと思いますが、初めてのご来店の方はビックリされるかもしれません。(笑) 店に来たら、是非、カウンターにお座りになって、「ヴァンゴー」のボトルに注目してください。 私ではなく(笑) 私にとっての横浜ですか? 「モダンで住みやすく人が優しいまち」だと思います。 |
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インタビュー/文/写真:高野慈子
左から、ボリビア二世で株式会社建装取締役 金城博文さん、日本ボリビア協会専務理事 杉浦篤さん、シニア海外協力隊で9月までボリビアに赴任されていた平野正さん、そして私です
2014年9月24日、ボリビアから帰国された直後の平野さんにお会いしました。 2013年11月に平野さんは、指導先の職業訓練校で「コマ大戦」ボリビア場所を開催されました。それからボリビアでのコマ大戦熱は盛り上がり、2014年7月には、コマ大戦世界大会の代表を決める大会が行われました。その大会で優勝したコマと準優勝のコマを平野さんは、私たちに見せてくださいました。 平野さんから、中南米最貧国と言われているボリビアの厳しい現実を伺いました。現在、ボリビアは米国との関係が悪くて、経済状態もよくないそうです。しかし、金銀銅など鉱物、ウユニ塩湖のリチュームなど地下資源が豊富で、可能性が秘められている国だとお話になっていました。 ボリビアは教育制度が脆弱で、教師のレベルが問題になっているそうです。そんな中、平野さんは2年間2回にわたって、鋳造技術を指導し、冶金分野の企業に対する技術講習会の開催や個別巡回訪問を行ってこられたのです。平野さんはおおらかな人柄は、ボリビアの方々に大人気なようで、また来てほしいと懇願されているそうです。 平野さんは私たちに・・何度もおっしゃいました。 「ボリビアの若者は皆、貧しく日本への渡航など考えも及ばなかったことが、今回のお話で、夢のようだと大変喜んでおります。皆様のお力で、コマ大戦参加を是非実現させてあげてください。」 ボリビアは、第二次世界大戦後、沖縄の方々を3,000人以上も移民として受け入れてくれた、とても親日的な国です。そして神奈川県には、ボリビアからやってきた日系ボリビア人が沢山います。その一人の金城さんも今回の募金活動を積極的に支援してくれています。 「僕たちの父の世代がボリビアから受けた恩恵を、今度は日本にいる僕たちがボリビアの若者たちに返したい。そんな気持ちで、ボリビア・コマ基金に取り組んでいます・・。」 ボリビアの若者を日本に招聘することは、彼らの人生まで変えてしまうかもしれない出来事なのです。ボリビアの若者に日本のものづくりを見て感じてもらいたいのです。そして日本での経験をボリビアの仲間たちに伝えてもらいたいのです。 おかげさまで多くの方々から募金が寄せられていますが、まだ目標の半分にも到達しておりません。皆様、「ボリビア・コマ基金」にご協力のほどよろしくお願い申し上げます。 |
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「ボリビア・コマ基金」へご協力をお願いいたします。
いくらでもかいません。皆様のお気持ちを・・・・
●「ゆうちょ銀行」からお振込みいただく場合は
「記号」10250 「番号」88379271
●「ゆうちょ銀行」以外の金融機関からのお振込みの場合は
「銀行名」ゆうちょ銀行 「店名」〇二八(ゼロニハチ)
「預金種目」普通預金 「口座番号」8837927
「口座名」全日本製造業コマ大戦協会
「ボリビア・コマ基金」のチラシを作成しました。皆様のお知り合いにこのチラシを渡していただきたいのです。またこのURLを転送していただきたいのです。
http://yokohama-now.jp/pdf/bolivia.pdf
平野さんが、ボリビアで撮影した様々な写真を組み合わせて、「ヨコハマNOW」の辰巳編集長が「ボリビア・コマ基金」の動画を制作してくれました。ご覧ください。
「ボリビア・コマ基金」への想いを動画にしました。皆様のお知り合いにご紹介してください。
全日本製造業コマ大戦協会会長 緑川賢司
「ヨコハマNOW」主宰 渡邊桃伯子
浜じぃの横浜漫歩(第6回) 山手カトリック教会
横浜らしい所とはどこだろう。 しかし幕末の頃から海外との交易の窓口となった横浜としては、やはり外国とのつながりを強く感じさせる山手、それも外人墓地辺りが観光地としても誰もが納得する横浜らしい場所ではないだろうか。 外国人居留地であった山手ゆえ西洋館や教会も多くある。 例えば、山手カトリック教会だ。 ここは、やはり横浜にある日本で最初の「物事」の一つで、「日本で最初に建った聖堂」なのだそうだ。 1976年に、松任谷正隆と荒井由実が結婚式を挙げた教会としても有名だ。 カトリックとあって、聖堂は尖塔アーチの窓に背の高い鐘塔を持ったネオゴシック様式というもの。 私の大好きなフェリス女学院の傍だが、あちらはプロテスタント系。 そして栄光学園、上智大学のラインがカトリック系だ。 やはり高い尖塔が、空に映えて実にカッコよい!! 山手にはこのほかにも、イギリス国教会の流れをくむ「山手聖公会」や一般的にはモルモン教と呼ばれる「末日聖徒キリスト教会」や「ユニオン教会」などが、馬の背のようになって走る「山手本通り」に沿ってある。 ひょっとして山手はキリスト教系の「寺町」(?)なのかも知れないですぞ。 |
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第14回 メディアリテラシーを考えてみる
「○○なんだって。新聞に書いてあった」「TVで言ってた」「ウィキペディアに載ってた」。
誰もが一度は口にした事のある言葉ではないだろうか? でも、それって本当に正しいの?
「事実」だけど、「真実ではない」。それってどういう事?
情報が氾濫する時代、その受け手の能力(メディアリテラシー)が問われている。
今月は、先月開催されたイベントをご紹介しながらメディアリテラシーについて考えてみたい。
横浜JC主催の粋なイベント
先月9月27日、関内の横浜メディア・ビジネスセンター(TVK本社ビル)にて、横浜青年会議所(以降横浜JCと記述)主催のイベントが開催された。 イベントには「関心十筆(かんしんとふで)」という主題がついており、Town(みんなが暮らす街)、Future(明るい豊かな未来を)、Design(あなた自身が描く)という意味が込められている。 ゲストのしずるさんの他、講師に元TBSキャスターの下村健一氏、進行役にNPO法人Youth Create代表の原田謙介氏が登壇された。 事前に横浜JCの方にお話を聞く機会があったのだが、今回のイベントを企画するに当たり、かなりの試行錯誤があったようだ。 |
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若者の投票率低下の問題は、長い間叫ばれ続けてはいるものの、一向に改善はしていない。これらの傾向をJCとして憂いてはいても、JCとして何ができるのか? JCらしい活動とは何か? という事が絶えずテーマになるそうで、今回もその点が議論されたそうだ。JCのメンバーは40歳までという年齢制限があるため、メンバーが絶えず入れ変わり、長期に渡り継続した活動を展開していく事が難しいとう問題がある。そういう中では、例えば、若者の投票率向上一つをとっても、それを継続して活動するNPOや学者の方には、知識や活動量は及ばない。
ではJCとしてどんな活動ができるのか?
「ぶっちゃけ、我々(JC)の強みは何かと考えると、資金力なんですよ。内容は専門の方にお手伝いいただいて、資金はJCにお任せください、という形がベストだと思うんです。」と幹部役員の方にお話いただいた。さすが、優秀な経営者の多いJC。自己分析が適格だ。
正に今回の企画は、このJCの強みをフルに生かした、JCならではの企画に仕上がっていたように思う。
美しい会場に若者を意識したゲスト。加えて、構成も、講演やトークライブ、トークセッションなどと工夫され、飽きることなく、難しいテーマを考えられるものになっていた。
確かにその通り!「メディアリテラシー」って習ったことないよね
イベントの第一部は下村健一氏の講演。「情報に惑わされないための4つの“ハテナ”」というテーマで、メディアリテラシーに関する講演が行われた。これが実にわかりやすく有益な情報がてんこ盛り。今回はこの講演内容についてご紹介したいと思う。
下村氏は1999年TBSキャスターを退職後フリーとして活躍される中、2010年から2年間、内閣広報室審議官としても活躍されている。現在は大学で教鞭を取られる一方、市民メディア・アドバイサーとして市民団体や学生、子どもたちのメディア教育や制作のアドバイザーとしても活動されている。
メディアリテラシーと聞くと、自分が騙されない(被害者にならない)ための知識というイメージがある。勿論、それも重要なのだが、加害者にならない事も重要な要素としてある。
ネット社会の現在、TVや紙媒体が主流だった昔と大きく異なる点は、私たち一人一人が、情報をいとも簡単に拡散させることができるという点だ。
FacebookやTwitterに代表されるSNSでも、ボタン一つで情報を多くの人に知らせる事ができてしまう。転送により情報を知った人が、また転送拡散。その先の先の人がまたまた転送拡散。正にネズミ算式にものすごいスピードで、広範囲に情報は伝達されていく。
もしその情報が、誤報だった場合はどうなるだろう。おおもとの情報の発信者が誤報の訂正をしたとしよう(訂正すらしない場合もあるが)。誤報情報を転送してしまった人が、同じように、訂正情報を転送してくれるだろうか? 「ああ、間違いだったのか」と終わらせてしまう人が大半ではないだろうか。仮に訂正転送したとしても、その先の人は? そのまた先の人は?
誤報が拡散された経路と同様の経路で、情報の訂正が拡散されていくだろうか?
さらに加えて、一度ネットで拡散された情報を完全に消去させる事はできない。いつでも検索できるというリスクが残る事になる。これは騒ぎが収まった後も、何年経っても、またその情報が湧いて出てくる可能性を意味している。
これらネットの持つ、広域的、時間的リスクを、下村氏はご自身が実際に被害を受けたある個人のブログを紹介されながら詳しくお話された。
全く事実無根の情報が、あたかも事実のごとく掲載された事例だ。後に訂正はされたものの、発信者の職業や使われている言葉によって、その信憑性は高そうに映ってしまう内容だった。これを真に受け拡散すると、悪意はなくとも誤報拡散の加害者となってしまうという実際の事例だった。
現代社会ではこのようなリスクを誰もが追っているものの、そのリスク回避については、これまで誰も教えてはくれていない。今や小学生でもパソコンや携帯を使いこなす時代だというのにだ。
これらの状況を危惧し、下村氏は学校教育の一環としてのメディアリテラシー教育の重要性を訴え、ご自身も学校を回っておられる。有難い事に、今回はその中で使われている教材も用いてのお話だったので、実に分りやすく、短時間で理解が深まる内容だった。
ポイントは「4つのハテナ」
では、被害者にも加害者にもならないために、どうすればよいのか。
そのポイントが、下村氏が言う「4つのハテナ」である。
- それは事実か?意見・印象か?(まず「仕分る」=意見・印象はウ呑みにしない)
- 事実だとしても・・・他の見え方はないかな?(1つの見方に偏るな)
- 偏らなくても・・・何か隠れてないかな?(スポットライトの当たっていない周囲を見よ)
- まだわからないよね?(結論を即断するな)
少なくとも、4だけでもすぐに実行すれば、安易に被害者や加害者に転落する事は避けられる。まずここからはじめ、徐々に1~3を身に付けていけば良いとの事だった。
明快でわかりやすい4点だと思う。しかし、4以外はそれなりのスキルがいるかもしれない。
どういう事かご紹介したい。
なるほどそういう事か「4つのハテナ」
下村氏はここでもわかりやすい事例を取り混ぜ、解説された。そのままではないが、私なりに意訳してご紹介する。
ハテナ1.それは事実か?意見・印象か?(まず仕分る=意見・印象はウ呑みにしない)
次の文章で事実はどれだろうか?
「タレントAはこそこそと裏口から出ていった。」
事実は「タレントAは裏口から出ていった」である。それ以外は記者の印象だ。
もちろん、記者の意見・印象などは情報としては絶対悪で、排除せよと言うものではない。記者の意見や印象は言わば味付けの調味料のようなもので、これが全く無い事実だけの羅列だと、味気なくつまらない情報となってしまう。調味料はある意味、必要悪な要素でもあるのだ。そこで、情報の受け手側の心得として、情報とは、事実・意見・印象が混在するものである事を認識し、意見・印象の部分はウ呑みにしないと意識せよという事だった。
考えてみれば、このような表現は日常茶飯事に毎日配信されている。新聞でもTVのニュースでも、味付けなしの情報はほとんど無いと言っても過言ではないくらいだ。しかし私はこれまで、事実か?意見・印象か? などと考えて情報を受信した事などは一度もなかった。
毎回明確に仕分けられるかは別として、今回改めて、情報の「仕分け」作業を意識してみたが、仕分けを試みるだけでも、情報に対して冷静になれる事は間違いない。私にとっては正に目からウロコの方法で、最も印象深い内容となった。
ハテナ2.事実だとしても他の見え方はないかな?(1つの見方に偏るな)
自分の事は棚に上げ、後姿で、「おおっ!イケメン」とか「おっいい女!」と思って正面にまわったら「げっ!」という経験は私にはある。同じものを見ていても、角度を変えると別なものが見えてくる。
情報の場合、見せられる「順番」や「角度」、「立場」が変わると、全く異なる印象の記事になると下村氏は言う。つまり、情報の発信者が、どのように情報を捉え、配信したのかを順番や角度、立場などから見出し、そこに映し出されなかった “見え方” も他に存在するかも知れないと気付こうね、というものだ。
ここでは、情報を発信する側が順番・角度・立場を実際に変えた事例を紹介し、解説された。
まずは、「順番」について。2つの絵を使われた。
1枚は①:犬が走っている絵、もう1枚は②:人が走っている絵だ。①②の順番で絵を1枚ずつ見せられた場合、どういう印象になるだろう。ほとんどの人は犬が逃げて、人が追いかけている印象を受ける。だが一方、②①の順番で見せられるとその逆の印象となる。
たった2枚の絵だけでも、順番一つでこうも印象が異なってしまう事に改めて驚く。TVなどでは無数の情報の連続となる。映像の順番しだいでは大きく異なった印象となるケースは多々存在する。製作者側が意図する、しないにかかわらず、「順番」にはそういう力がある事を知っておく必要があるという事だった。
実は、この「順番」が今回の話の中で、一番難しく感じられた。配信された情報の順番を変えた場合、どのような印象になるかを想像する事が難しいからだ。「なぜこの順番で報じたのか?」と考える事はできても、その他の順番については、カードが2枚の場合とは異なり、組み合わせは無数に存在する。しかもTV映像などの場合、情報はどんどん流れていってしまう。
しかし、「順番」については、先述した通り、印象をガラっと変える大きな力がある事がわかった。その認識を持っているだけでも、情報の受け止め方は更に冷静になれるだろう。個人的には注視してみたいポイントだ。個人的には注視してみたいポイントだ。
次に「角度」についてだ。
ここでは「いじめの相談が去年より増加した」という情報をどう見るかと問われた。
良いニュース(相談の受け皿が増えた)とも取れるし、悪いニュース(いじめが増えた)とも取れるというのである。扱う記者の見方によって、違う印象の記事になり得るという事だ。
この件については、私たちも日ごろからなんとなく感覚的に認識がある。新聞社や、TV局によっても、ニュースの論調が異なる事は誰にでも認識がある。その為、会社のカラーが明確に表れるような政治や国際問題のような記事ならば、情報の受け手側も、取り上げ角度を意識しながら情報を受信する人も多いかもしれない。
しかし、「いじめの相談件数」のようなニュースになると、記者の取り上げ角度や読者(自分)の受け止め角度を意識する人は希なのではないだろうか。だが、実際にはどんなニュースでも、ある一定の角度から見られた情報であり、映し出されなかった側面は存在しうるという事なのだ。今回改めて再認識した。
最後に「立場」について。
「立場」を変えても事実は異なる見え方をする。
例えば「人里に猿が出た」というニュース。立場を変えて「猿里に人が出た」と表現してみると違う印象となり、別な問題さえも見えてきたりする。
思えば、現在、世界中で起こっている国や民族の様々な問題なども、共通する点は、一方向の立場から見た主義・主張の押し付け合いが根幹にあるのではないか。もし、お互いが、それぞれ両者の立場から問題を多角的に見る事ができたなら、相互理解が深まり、もっと建設的な意見の交換が進むのかもしれない。
そう考えると、全世界中の人々が、高度なメディアリテラシー感覚を持ち合わせたとしたら、争い事は減少するのかもしれない。(私見&余談だ)
ハテナ3.偏らなくても・・・何か隠れてないかな?(スポットライトの当たっていない周囲を見よ)
以前、新型インフルエンザの問題があった。もしあなたが記者で、「新型インフルエンザを取材してこい」と言われた場合、マスクをしている少数派とマスクをしていない多数派のどちらを撮るだろうか?
またもし、あなたが記者の上司だった場合、部下の記者がもし、マスクも何もしていない普通の人の写真を撮ってきたら、「なんだこれは!」と言わないだろうか?
当時、実際には、マスコミ各社は、全体から見れば少数派のマスクをした人の写真をとり上げ、新型インフルエンザを報じた。その結果、現地は危険という印象を全国に与え、修学旅行のキャンセルがあいついだというのだ。
メディアには時間や紙面の制約がある。流せる情報量には限界があり、全体情報の一部を切り取って報道せざるを得ないのだ。一部を切り取らざるを得なければ、おのずと象徴的な部分を切り取る。それがメディアだ。このように製作者サイドの事情も、受け手は考慮しながら情報を受信する必要があるわけだ。新型インフルエンザが発生した県内に、マスクをしている人がいるのはウソではなく事実だ。しかしそれが真実(全体を表している)と言えるかどうかは別問題なのである。
これら1~3で重要な事は、悪意のない多くの報道にこそ、メディアリテラシーが必要だという点だ。事実を伝えようと、誠意をもって取材されている情報でも、そこに映し出されない、多くの別の事実や見方が必ず存在しているという事を、受け手は知っておかなくてはならない。
しかし人は、映し出された情報を、それが全てだと思い込み、思考を停止させてしまいがちである。それが最も恐ろしい事なのだと下村氏は強調された。
ハテナ4.まだわからないよね?(結論を即断するな)
1~3では、敢えてわかりやすい事例があげられたが、実際には、なかなか判断がつかないケースも多い。
そういう場合には、情報を受信してから、早急に結論を出す事は避け、保留する事が大切なのだと下村氏は最後にまとめられた。はじめにも記した通り、情報を受信する我々は、被害者にも加害者にもなる危険性がある。一度情報を保留することで、少なくともそのリスクは回避できることになるのだ。
これを機に
以上、下村氏が唱えるメディアリテラシーのポイント「4つのハテナ」を、事例を抜粋・意訳しながらご紹介してきた。
知らなかった事、知ったつもりになっていた事、理解が深まった事など、今回の講演では数々の気づきや考え方のヒントをいただく事ができた。と同時に、メディアリテラシーのスキルアップには、日ごろからの意識的なトレーニングが重要になるとも感じた。人は(私は)すぐに目の前の情報に集中してしまい、思考停止してしまいがちだからだ。
今回の機会を無駄にしないよう、自らのメディアリテラシーのスキルを上げる努力をしてみたいと思った。
まずは、即決を避け、情報を仕分け、見方を変え、俯瞰して情報の周りを想像し・・・。
ふ~む。老化傾向の脳みそには、良いトレーニングになりそうだ。
今月の1枚
<コメント> |
プロフィール
ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。
皆様、いちじくはお好きですか?
最近では、ドライいちじくが、パンやお菓子、グラノーラなどに使われたりして、プチプチした食感が好まれています。あのプチプチした部分。それがいちじくの花なんです!漢字で『無花果』と書きますが、花は、実の中に入っているんですね。 栄養素的には、カリウム、食物繊維を多く含んでいます。カリウムは、ナトリウムの排出を助けてくれますので、血圧を下げたり、動脈硬化の予防。また、食物繊維は、便秘解消にも役にたちますよ。 |
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さて、生のいちじくは旬が短く、8月の終わりからぎりぎり、10月頭くらいまで。愛知産や和歌山産などが手に入ります。
そのまま召し上がるのもおいしいですが、コンポートにするのがフランス流。白ワインや赤ワインを使ってコンポートを作るとおいしいです。クローブ、シナモンなどのスパイスも一緒に煮てみて下さい。
また、ジュイエのレッスンでもお教えしたのですが、レバノン風のデザート。オレンジ、グレープフルーツを絞り、そのフレッシュジュースに砂糖を加え、沸騰させ、皮をむいたいちじくをかるく煮ます。冷たくして頂くと、さわやかな一品です。どちらも、煮るときは、一煮立ちでオッケー。元々果肉が柔らかいので、何分も煮てしまうとドロドロに崩れてしまいますので、余熱で火を通すくらいにしてください。
和食にも、いちじくを使えるのを知っていますか?
今回は、簡単な和食の一品をご紹介。旬のこの時期にぜひ、作ってみて下さい。
いちじくのごま酢和え
- いちじく
- 適量
<ごま酢>
- 練りごま
- 白ごま
- 醤油
- 砂糖
- 酢
- 水(出汁)
- 大さじ2
- 大さじ1
- 小さじ1
- 小さじ2
- 大さじ1
- 大さじ1
- 白ごまは、鍋に入れて煎ってください。いりごま、と書いてあっても、煎ってあげることで、白ごまの香ばしい香りがたちます!これは、胡麻和えのときにもぜひ、してみて下さい。
- すり鉢に入れて、白ごまをすります。
- 好みの加減にすったら、練りごま、砂糖を入れて良く混ぜる。
- 醤油、酢,水を入れてよくまぜる。 これでごま酢の完成です。
- いちじくは皮をむき、器に盛る。ごま酢をかけていただく。
この時期ならではの、上品な味をお楽しみください。
ごま酢は、他のお野菜にかけても良く合いますよ。
蒸した里芋、茹でたいんげん、ブロッコリーなど。
10月の料理コースのご案内
私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。
10月のコース内容
フランス料理基本コース |
『クラムチャウダー』 『オムライス』 『マロンタルト』 フランス料理じゃないメニューもあります。ちなみに、クラムチャウダーはアメリカのスープですね。スープは人気の高いメニューです。具材をそろえて切る、よく炒める、を守ることでとびっきりおいしいスープになりますよ。 オムライスは洋食ですが、ジュイエのオムライスはフレンチの技が凝縮されています。バターライスにはきのこを入れて。ふわとろオムレツは練習あるのみ!ですが、簡単にそれらしく(笑)つくる方法を伝授いたします。 マロンのタルトは本格的なフランス菓子。秋を満喫しましょう。 |
フランス料理応用コース |
『プーリア風フォカッチャ』 『アッシェ・パルマンティエ』 『かぼちゃのパウンドケーキ』 応用コースは、ジャガイモ&かぼちゃで秋の収穫祭です!ジャガイモ入りの簡単パン。フォカッチャ。ジャガイモと牛ひき肉の重ね焼きです。 デザートは、カボチャのパウンドケーキ。ハロウィンに作ってみませんか? |
家庭料理コース | さんまやさばのお魚料理、ビーフフシチュー、かぼちゃやキノコのおかずなどです。 |
受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。
http://www.7juillet.com/kyousitu.html
プロフィール
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フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ
女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得 |
2014年10月 三ツ池だより 「読書の秋でいいよ!」
読書の秋と言わなくなってしまったのだろうか。読む媒体が変わってしまったのだろうか。そういえば新聞が若い人にあまり読まれていないという現実がある。それは発信する方にも問題があるのかもしれない。世界中が異常気象であり、各国のあちこちで被害が起きている。報道されない。いや報道されないくらいに多い現象なのかもしれない。
読みたい本がないのか。読む時間がないのか。読む場所がないのか。考えるときに本がとても貴重な情報をもたらせてくれる。それはただ情報を届けてくれるだけでなく、考えるという無限の可能性を届けてくれる。そして現代はびっくりするような古本の市場形成があり、古本との新しい出会いがある。
先日960円の本に出会った。ラベルの下に1360円のもう一枚のラベル、定価は2500円である。安い高いというのでなく、400ページにも及ぶ大作が市場に流通しているのである。半年ほど前に、ふと手にした本が読み切れなかった。しかしなんとか読破しようとおもっていて、同じ著者の本がないかと思った。これだけの本を書く人ならば、私が知らなかっただけで、きっとほかの本もあるだろうと思って探した。同じ著者の3冊目の本にであったのだ。
10月に入って急に肌寒くなり、虫の音を聞き本が読みたくなる季節になった。
10月を俳句にみてみよう。
秋は何かを連れ去っていくようにさみしい。秋風吹くと夏の疲れをでてくるとでもいうようだ。
新酒が出る季節である。稲架から直行した米が麹によって発酵していく。
田舎ではさまざまな収穫がある。機関車にのって祭りに間に合うように帰っていく。
天候が不順でも一斉に咲いた曼珠沙華の不思議!
山頭火も彼岸花の赤さに鞭打たれたのではないだろうか。
ご先祖さまでいて、今あることへの感謝もできる。心に一抹の灯が灯ったのだ。
読書の秋に読みたい本がいくつか出てくる。そのなかでどのように本を選ぶか考える。大切なことは、読むことであり、考えをめぐらしていくことである。脳を使うこと、考えをめぐらせていくこと。気づきがあらわれること。よく言われることだが成功のひらめきは突然現れるのでなく、過去の経験の上に現れるのである。そして人生とはなにかを考えていて、パスカルは「人間は考える葦だ」と捉えた。自分の意志で生きているようでいて、なにか目に見えないものに導き出されて私たちは生きているように思う。
壁を感じたり、失敗と感じた時に、それが自分の歩む途上の出来事の一つと気付いた時に、私たちは明日に向かっての道を、勇気と希望をもって、自分の道として歩むことが幸せなことだと感じることが出きる。そう思いながら日頃の思いをマンダラチャートに書き込んでいたときに詩ができた。
苦しいことがあっても笑っている
悲しいことがあったから泪こぼしている
鏡に向かって演技していて
お前バカと言われそう
窓を開けて新しい風を吸い
野原に立って背伸びしてみる
大丈夫だと言ってみて
両手を広げて感じてみる
言ってみるのさ
話してみるのさ
命ある今を大切にし
近くにある命に触れてみる
大地にだってふれてみるがいい
寄せては返す波に触れてみるがいい
泪が幸せをもってくる
辛さが幸せを背負ってくる
(横須賀詢)
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(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第19回)
大浦総合研究所 代表/大浦勇三
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第19回)
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
- 梁塵秘抄 -
“日本企業は今なお社会的組織であって単なる利潤追求マシンではない” と見立て、いたずらに米国企業のマネをするな、日本企業の強みを生かして勝負しろと言い続けたのはジェームス・アベグレンです。本来の専門は人類学と臨床心理学で、関心は民族や組織の特質。イノベーションに国境はないが固有の文化・価値観を生かしたイノベーションはありうること、イノベーションの推進で文化風土の尊重は最優先課題であることを言い続けました。科学分野での論文不正が大きな問題になっていますが、米ハーバード大学の研究責任者は “研究開発では組織風土がすべて” と言い切ったのが印象的です。というのは、以前米国IBMのCTO(最高技術責任者)の講演で、最初から最後まで “イノベーションは組織風土が命” との言葉が繰り返されたからです。 “ポストイット” を生んだ米3Mはイノベーション企業として先頭集団。ただ、この製品は組織の産物というよりは個人の産物。しかし、その後の対応に組織のイノベーション感応度の地力が発揮されました。梁塵秘抄では “山城茄子は老ひにけり、採らで久しくなりにけり、あこかみたり、さりとてそれをば捨つべきか、措いたれ措いたれ種採らむ” とあります。熟した茄子も過ぎたるは及ばざるが如し。捨てるか、種だけ残すか、弱みも活かしようで強み。悪声を独特のせりふ回しで名人芸に高めた六代目尾上菊五郎を思い出しますね。
“遊びをせんとや生れけん” 「遊」
これでもういいかなと思う時はまだ目一杯やっていない時
整理・整頓の地味な作業を大事にしている組織が一番強い
下手な師匠に十年より上手な師匠に一年習う、と吾妻徳穂
吾妻流家元・宗家の吾妻徳穂さんは、稽古一筋で躍動三昧の舞踊家といわれました。少し前まで使われた “三度のメシより好き” “前後をかえりみない” という褒め言葉がぴったり。その芸の達人が、習う・学ぶことの真髄を “良い師匠について夢中で正しい稽古をやることに尽きる” と語っているのは核心的なこと。女子ゴルフのトッププロが “練習は大切、ただし正しい練習” と繰り返すのと通じるものがあります。もういいかなと思う時はまだ正しいことを目一杯やっていない時だということですね。 “創造的な仕事をするためには働くことを楽しむことが必要” と語るのは名車ポルシェを生んだ創業者。楽しみ・遊ぶことからのみ生まれた車といえるポルシェは今でも他メーカー用の設計開発の仕事が売上げのかなりの部分を占めるとか。遊んで楽しんで、役に立たないこと・余計なことをいろいろやらなければ、何が役に立つかもわからないということですかね。
“仕事をせんとや生れけん” 「献」
社長には大きな責任 MBAは、繰り返し使える道具を習得する場所
世界は未知の領域 既知の道具だけでは新世界の秩序を生き抜けない
零落の反対側に踏ん張る意欲が感じられない寂寥、と詩人の金子光晴
金子光晴は無頼で反骨の詩人といわれました。反骨という精神の復活が今こそ求められているのかもしれません。一方で恐るべき自己客観性と露悪趣味で人生を歩んだ怪物とも称されます。その金子光晴は以下を生きる指針としました。①書きたいことを書く ②身近な人間の生きざまを露出させる ③気にいらないことははっきり指摘する ④自分の情けない恥ずべき人生を隠さない ⑤自らを通して日本人と絶望の関係をはっきりさせる、というものです。その根底には、日本人に絶望しているというよりは “絶望を避けてあえて問題にしない日本人そのもの” を問題にしたかったようです。どんな領域であれ、限られた時間の中で自分が納得できる価値を生むには、絶望と対峙しながら好きなことをやるしかないということ。 “新製品開発の原動力は技術やカネではなく人間の想像力” との米HP創業者デビッド・パッカードの言葉には絶望と対決した気迫を感じますよね。
“学びをせんとや生れけん” 「学」
粛々とした時間の流れ、薄紙の積み重ね 言葉のパワーと抽象化の力
他人の生き方を栄養にしながら、狭い範疇内で安易に学んでいく怖さ
勉強する時間と世間の理不尽な壁との間の緊張感、と作家多和田葉子
多和田葉子さんはドイツの大学院を修了したドイツ在住の作家。知的創造力を鍛えながら世間の理不尽を批判するだけでなく、それと正面から向き合い、勉強する時間と世間の理不尽な壁との間の緊張感を大事にしました。 “言葉なしでものを感じ・考え・決心するようになった” との言に深い思索の跡が感じられます。これまで “抽象化” という言葉は多くは否定的に捉えられてきました。しかし、これだけ変化が激しい時代では、個別事象を表層だけ追いかけ回すだけでは大ケガをするだけ。米スタンフォード大学のデザインスクールはそれを先取りしている感があります。抽象力とは、どうデザインするかでなく何をデザインするか。 “状況が急激に変化すれば、現状を判断するための情報だけでは足りない。瞬時に判断せざるを得ない場合には、直感的で理想主義的な、当事者の倫理的な価値観を導きの糸として結論に向かうほかない” とは知の巨人・加藤周一。
「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」
今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(九)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。
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(第19回了)
大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール
大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/) 石川県七尾市出身。 筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。 主な著作物:
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書評 「自閉症の僕が跳びはねる理由」 エスコアール 東田直樹 著
放送を聞いて涙がこぼれたという話を友人から聞いていた。 はじめに書かれている。「自分が障害を持っていることを、ぼくは小さい頃は分かりませんでした。どうして、自分が障害者だと気づいたのでしょう。それは、僕たちは普通と違う所があってそれが困る、とみんなが言ったからです。しかし、普通の人になることは、僕にはとても難しいことでした。」 「僕は、会話はできませんが、幸いにも、はぐくみ塾の鈴木さんとお母さんとの訓練で、筆談というコミュニケーション方法を手に入れました。」そして東田君は言います。「自閉症を個性と思ってもらえたら、僕たちは、今よりずっと気持ちが楽になるでしょう。みんなに迷惑をかけることもあるけど、僕らも未来に向かって楽しく生きたいのです。」 |
前半は質問に答える形になっている。
「いつも同じことを尋ねるのはなぜですか?」 「僕は、いつも同じことを聞いてしまいます。聞いたことをすぐに忘れてしまうからです。よく分かりませんが、みんなの記憶は、たぶん線のようにつづいています。けれども、僕の記憶は点の集まりで、僕はいつもその点を拾い集めながら記憶をたどっているのです。」
「小さい子に言うような言葉使いの方がわかりやすいですか?」 「僕たちはだって成長しているのに、いつまでたっても赤ちゃん扱いされます。赤ちゃん扱いされるたびに、みじめな気持になり、僕たちには永遠に未来は訪れないような気がします。本当の優しさというのは、相手の自尊心を傷つけないことだと思うのです。」
はっとすることや気づいていないことや大事なところを見ていることに触れている所があります。
「物を見るときどこから見ますか?」 「みんなは物を見るとき、まず全体を見て部分を見ているように思います。しかし僕たちは、最初に部分が目にとびこんできます。その後、徐々に全体がわかるのです。物はすべて美しさを持っています。僕たちは、その美しさを自分のことのように喜ぶことが出来るのです。どこに行っても何をしても、僕たちは一人ぼっちになりません。僕たちは、一人に見えるかも知れませんが、いつもたくさんの仲間と過ごしているのです。」
インターネットから
「自閉症であり、自らも同じように過ごしている当事者、東田直樹さんが、なぜ自閉症の人はそうしてしまうのか? を書き綴ったエッセイが、海外でベストセラーに。多くの自閉症の親が、彼らの気持ちを理解できるツールとして国を数々隔てて翻訳も。社会で彼らを理解するツールとしても、活用してもらいたいです。自閉症の東田直樹さん。自閉症でありながら、会話ができないギャップを、文字への興味が高いことに気付いた親の指導でキーボードなどの利用を伝えていくことで、それにより自分の気持ちを伝える事が可能に。今現在、数々の本の出版からエッセイの執筆、講演会などをしながら、日々過ごしている」
もう一度、「自閉症の僕が跳びはねる理由」エスコアール 東田直樹著に戻ってみよう。
「時間の感覚はありますか?」 「僕たちの1秒ははてしなく長く、僕たちの24時間は一瞬で終わってしまうものなのです。場面としての時間しか記憶に残らない僕たちには、1秒も24時間もあまり違いがありません。いつも次の一瞬、自分は何をしているのか、それが不安なのです。」
「色んな物をまわしているのはなぜですか?」 「自分がくるくる回るのがのが好きだし、なんでもかんでも回しては喜んでいます。回っているもののどこが楽しいのか、わかりますか?普通の景色は回転しません。回転するものはとても刺激的です。僕たちから言わせると、それは見ているだけでどこまでも続く、永遠の幸せのようなものです。見ている間、回転するものは規則正しく動き、何を回してもその様子はかわりません。変わらないことが心地よいのです。それが美しいのです。」
東田さんは本の後ろの30ページに「そばにいるから」の題名で小説を書かれている。そしておわりに書き綴っておられる。
「僕が自閉の謎を説明することで、僕たちの障害が、決してわがままや自分勝手からきているのではないことを、みんなに理解してもらいたいのです。みんなが僕たちのことを分かってくれたらなら、僕たちは一筋の光を手に入れることができるでしょう。」
是非、理解と応援の意味で手元に置いてほしい本である。
(文:横須賀 健治)