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5月 10 12

セカンドライフ列伝 第4回 アルチュール・ランボー

by staff

榎本技術士オフィス/榎本博康

第4回 アルチュール・ランボー

「酔いどれ船」に導かれた人生

 時に天才は歴史の進行に必要ですが、そのそばに居る人たちは振り回されて大変な苦労をする覚悟が必要でしょう。(蛇足ながら、この逆はほとんどの場合正しくはありません。)フランスの詩人、アルチュール・ランボー(1854.10.20~1891.11.10)は正にそのような天才ですが、早熟な彼は16歳で「酔いどれ船」を引っ提げてパリの詩壇にデビューし、20歳までに総ての詩作を終えて、以降はアフリカで武器商人としてのビジネスに賭け、そして37歳という若さでこの世を去ってしまいました。彼の詩人としての作品は、唯一自分で編纂した「ある地獄の季節」の他は、遺稿から編纂された「イリュミナシオン」、「詩篇」、その他の断片と少数であるにも関わらず、その後の芸術思潮に絶大な影響を及ぼしています。

 彼のがむしゃらで短い人生は、その前後で全く異なっているため、それが多くの議論を呼び、多くの研究者の興味を惹き、そして各論者がそれぞれの解釈を試みてきました。このような状態こそ、私の勝手な妄想で綴るセカンドライフ列伝に格好の題材であります。一応の史実には則りますが、どこまでが本当かは保証しかねます。なお詩作を論じることは手に余るので、触れないようにしています。

成績優秀な少年

 1852年にフレデリック・ランボー陸軍大尉は、任地近くのフランス北東部のシャルルヴィルで、近在のロッシュから出てきたヴィタリーを見初め、結婚しました。翌年に長男のフレデリック(父と同名)が誕生、しかし大尉は任地を転々として帰宅する度に子供をもうけるという具合で、1854年にアルチュール(今回の主役)、57年に妹(しかしすぐに死亡)、58年に妹ヴィタリー、60年に妹イザベルが生まれるが、この年に決定的に別居し、父不在のまま、教育熱心で厳格な母のもとで成長することとなりました。

 彼はロサ学院に入学し、65年春にシャルルヴィル高等中学校に転校しますが、模範的な優等生で数々の賞を得たとのことです。

第一の人生~家出常習者から詩人へ

 ランボー15歳の1870年の1月にジョルジュ・イバンサール(21歳)が修辞学級教師として赴任し、一種の友情で結ばれます。そしてこの前年頃から詩の投稿を始め、幾つか掲載され、そしてぐれ始めるのです。男の子というものは、どうしてもそのような時期が必要なのですが、彼の行動力はけた外れでした。8月の末ごろに家出をしてパリに向かうものの、無賃乗車で逮捕という無鉄砲さでした。その間にナポレオンⅢ世はプロシアに敗戦し、フランスは第三共和制が布告されます。

 とても彼の全部の家出は書ききれませんが、1871年2月に汽車で再びパリに行き、金がないのでゴミ箱をあさる困窮の果てに、3月には250kmを徒歩で帰宅します。この3月18日にパリコミューンの成立が宣言されます。プロシアに屈服した政府への反抗と、労働条件の改善などを目指すものですが、ランボーはこの運動に共鳴し、参加しようとしたようです。しかしパリでは5月21日から「血の週間」での弾圧があり、多くのコミューン参加者が射殺、処刑、流刑にされたのです。彼が生活資金を持っていなことが幸いしました。しかもこの5月に今日では「見者の書」と呼ばれる2通の書簡を、教師のイバンサールと、若手詩人のドメニーに出しており、そこで自らの詩作のありかたを論じているので、ランボー研究の重要な資料となっています。イバンサールには、「あなたは新しい詩作については私の教師ではないから、この手紙に添削をするな。」という意味の高飛車な言い方をしています。このくらいの生徒がいると先生は幸せなのですが、なかなか。またこの頃の詩作ノートは友人に託されて、現在の我々に伝わっています。

 彼は「高踏派」の詩に感化され、ヴェルレーヌ(あの「秋風のヴィオロンの~」とか、「巷に雨の降るごとく~」で有名な)にコンタクトをとりたいと思いつつ、躊躇する日々が続いていたのですが、ついに9月に彼の詩を何篇か同封した手紙を出しました。すぐにヴェルレーヌはパリに来るようにと提案し、彼は「酔いどれ船」を携えて上京します。すぐに高踏派の夕食会でそれを朗誦し、絶賛されました。この時、ランボー16歳、ヴェルレーヌは27歳ながらかなり禿かかっていた。

 しかしヴェルレーヌと同性愛の仲となり、またランボーの乱暴な言動はパリ詩壇での孤立をまねいていました。そこで72年の9月にふたりでロンドンに住むのですが、その生活資金は親がかりのヴェルレーヌにさらにぶら下がるという不安定なものでした。この後、ヴェルレーヌは妻のマチルドとランボーの間で揺れ、何度も別れては共同生活を復活させるという、軟弱な態度を続けるのでした。だいたい、奥様方は亭主にできた女には対抗できますが、男色には自らの女を持ってしては対抗できません。もう訴えてやるとの修羅場で、財産分離請求など熾烈になりました。

 そして73年の7月10日、ヴェルレーヌは拳銃を買い、散々に酔っぱらった挙句にランボーを撃って左手に負傷させたのでした。ヴェルレーヌは逮捕され、懲役2年の刑に。
ランボーは8月にロッシュに帰り、「地獄の季節」を完成させて、ベルギーのブリュッセル(パリより近い)の印刷所に前金(母が出してくれた)を渡して500部を注文しました。しかし残りの金が払えずに見本刷りだけを手に入れて、友人たちに配ります。(残りは1901年にそのままの梱包で発見される。)

 1874年3月にパリに行き、今度は詩人ヌーヴォーとロンドンに行き、「イリミュナシオン」の清書を終えます。ヌーヴォーが帰国すると生活力の無いランボーはたちまちに困窮し、母にシャルルヴィルに連れ戻してもらいました。放浪力100点、生活力0点で、20歳になりました。

 そして1875年の3月に、刑期を早く終えたヴェルレーヌとシュトットガルト(ドイツ)で再開し、「イリュミナシオン」の原稿を託します。それはノートの切れ端など、いろいろな紙に書かれた束だったとのことです。

混乱の端境期

 1876年5月にブリュッセルで募兵業者にだまされてオランダの植民地部隊に入隊し、船でインドネシアに送られます。すると彼は現地で脱走して、偽名でスコットランド船に雇われて、アイルランド経由で帰国します。無銭旅行かつ家出常習犯の真骨頂でしょうか。翌年は自分がひっかかった募兵係の仕事をしたり、サーカスの従業員をしたりでしたが、秋には念願のアレクサンドリア(エジプト)行の船に乗ったものの、残念ながら病気で故郷に戻ってきました。78年は10月に徒歩でスイスを横切り、イタリアのジェノバから船でキプロスに行き、石切り場の現場監督として働きます。初めて比較的長期の仕事ができました。時に24歳。現代の母なら、やっと息子がフリーター生活から脱出したと泣いて喜ぶ場面ですが、彼の母は神の如く冷徹にフランスから見守るだけだったでしょう。しかし翌年の5月に腸チフスに罹り、フランスに帰ります。またも残念。

 フランスやイギリスで仕事に就けない彼は、ヨーローッパ人の少ない外国では働き場があることが、この足踏みの5年程度の中ではっきりしてきたのでしょう。それからは、彼が「ある地獄の季節」や「イリュミナシオン」で描いた遠い外国の幻影の中に、実際に飛び込んで行くことになります。彼の詩は、自らの死までの軌跡をあらかじめ描きつくしていたと見ることもできます。

 

第二の人生、ハラルの武器商人

 1880年には再びキプロスでイギリス総督の官邸建設の作業班長をするのですが、6月にはもう辞表を出してアフリカに出発します。実は労働者殺害により、居られなくなったとの説があります。紅海の港アデン(アラビア半島側のイエメン)に着きますが、アデンの市街は海に半島状にせり出した死火山のクレーターを利用した天然の要塞都市です。そこでバルデー商会の代理店として雇われ、東アフリカのアビシニア(現在のエチオピア)の内陸の町、ハラルの支店に配属されました。そこは5つの門を持つ城塞都市であり、当時でも4万人弱、現在は12万人が住む要地です。ランボーの暮らした家は、ランボー・ハウスと呼ばれて現存しているそうです。

 海岸から砂漠を通って、20日の苦しい道のりで12月に着任するのですが、1881年初めにはさっそく梅毒に罹ります。また待遇の不満で辞表を出すのですが、アデンに戻ってバルデー商会でしばらく働き、83年3月に2年契約で、今度は支店長として昇給してハラルに着任します。ところがアビシニアの政情が悪化し、84年3月に支店を閉めてアデンに退避し、この時期ハラルから連れてきたすらりとしたアビシニア女性と暮らすのでした。私としては親戚でもないのに、ほっとしております。一時の凪のような生活だったのでしょうか。要するに、かのクレオパトラも上ナイル出身、つまりアビシニア美人の系譜と言われており、世界の美人の産地ということになっております。真贋のほどを確かめにぜひ行きたいものです。(うんちくの部~クレオパトラのプトレマイオス朝はマケドニア人(ギリシャ北部)としての純潔を保っていたのですが、実際にはアフリカの混血にもなっていたとのこと。ランボーの彼女は色白であって、彼はフランス語を教えようとしていたとか。)

 さて「酔いどれ船」に乗り続けて旅をするランボーは、85年にバルデー商会を辞めて武器輸出でひと財産を作ると決め、ショア(エチオピア南部地域)の貿易商ラパチョと契約をしました。武器を当時有力であった、メネリク王に売るために、ショアまで運ぶ仕事です。フランス政府の武器輸出禁止令にもかかわらず、86年にランボーは例外的許可を得ます。ところがパートナーのラパチョが病気で死亡し、代わりにソレイユと組むものの、彼も急死してしまいました。10月にランボーはひとりで2万4千丁の小銃と、6万個の弾薬を満載した隊商を率いて海岸の町タジューラ(ジプチ)を出発する体制を整えます。100頭のラクダを率いる大キャラバンで、広大な砂漠や危険な部族の地域を通過して高地に至る、2か月に及ぶ大旅行でした。87年2月に荷を届けるが、足元を見られて安値を強要され、さらに死んだラパチュの負債の返済を迫られます。代金は手形で支払われ、マサウアー(紅海沿岸の現在のエリトニア国の市、当時はイタリアが実効支配。1991年に独立)で手こずりながらやっと換金ができました。家族への手紙には、「僕の髪の毛は完全に灰色です。」と書きました。彼は若くして老いを感じ始めていたのです。

 88年は懲りずに再びショアまで武器の隊商を送ろうとするのですが、今度は許可が出ません。フランス人、ティアンの出資でハラルに貿易代理店を設けて赴任します。織物や日常雑貨、装飾品などを扱いましたが、4千個のシチュー鍋が売れずに彼を苦しめました。生活習慣が違うからです。89年にヨハネス皇帝が戦闘で負傷して死亡すると、ショアの王メネリク(ソロモン王朝系)がアビシニア皇帝となりました。彼の願望は成就したのです。そして続く第一次アビシニア戦争で、イタリアの侵略に対するアビシニアの独立を確保しました。ランボーの運んだ火器がこのアフリカ最古の独立国、1270年以来の帝政を守るのに一役も二役も買ったのでしょう。相当に残酷な戦争だったようです。

旅の終わりに

 1891年の初めに、ランボーの右足に激痛が走りました。3月には歩くこともできなくなり、治療のためにアデン行きを決めます。担架に乗せられて、300kmもの道程をゼイラー(ソマリア)まで下りて行き、船でアデンに行って診察をうけました。膝のガンでした。5月にフランスに向かいます。マルセイユのコンセプシオン病院で診察を受け、右足を切断しました。そしてロシュに帰ります。しかしランボーの旅への想いは絶ち難く、アデンを目指してマルセイユに戻り、病状の悪化で再びコンセプシオン病院に入院するのでした。この間、ずっと妹のイザベルが付き添っていました。次のアデン行の船に乗せてくれるように懇願した翌日、11月10日に37歳で永眠しました。

中原中也としての再生

 ランボーの生涯を追っていくと、その言動に圧倒され、凡人は疲れ果ててしまうでしょう。詩作については、「酔いどれ船」を頂点とする新しい韻文詩から、「ある地獄の季節」以降の散文詩へと劇的な進化を遂げたのですが、その荒々しくも猥雑で崇高な原初の風景を予見する想像力からは、もう全ての世界の事物を見てしまったもののようです。20歳までに彼が想像したいものを想像し尽くしたランボーは、彼の想像の実像をアラブやアフリカに求めたのでしょうか。彼のアフリカ書簡に風景等の描写が乏しいのは、既に書いてしまったことなので、必要がなかったという考えもありますが、元々詩と考えられていたものから限りなく遠くに行こうとする彼自身の流れからは、当然のことかもしれません。

 1886年8月の手紙1)で、「たぶんぼくはザンジバルに行きます。そこからアフリカをずっと奥まで旅することができます。それからたぶん、中国か、日本か、どこへ行くかはわかりません。」と極東への想いを述べています。また1876年のインドネシア行の前に、キリスト教団の修道士に志願して、日本に渡ることを考えていたとも言われています。彼は宗教を否定していたからこそ、単なる乗り物として教団を使う発想があり得たのでしょう。もしも彼が日本に来ることができたら、彼の想像以上のことを見ることができたでしょうか。

 そこでランボーは中原中也(1907~1937)を通じて来日しました。中也は東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の仏語部で学び、「在りし日の歌」などの自作の他、3冊のランボオ(中也はこう書く)詩集を残しました。私は彼の出身地である山口県湯田温泉の中原中也記念館を訪問したことがありますが、彼の少年時代の成績は「優」しかなかった。しかし後にややぐれたこと、そして33歳で早世したことなど、酷似しています。彼の有名な写真、山高帽子、長髪、マントでランボーを気取っていると言われていますが、18歳の詩人としてのデビューの意気込みともとれます。彼が訳した「酔ひどれ船」を青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/001296/card47296.html)で楽しむことができます。

参考文献
1. ジャン=リュック・ステンメッツ著、加藤京二郎他訳:アルチュール・ランバオー伝、水声社、1999
2. 湯浅博雄:ランボー論<新しい韻文詩>から<地獄の一季節>へ、思潮社、1999
3. 鈴木創士訳:ランボー全詩集、河出書房新社、2010

(2012.4.30 榎本博康)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

5月 10 12

「レッドライト」(連載第13回) イン・ザ・クローゼット

by staff


「SHIP」内観

 横浜に「見えない町」がある。いわゆる「ゲイタウン」のことだ。

 ゲイタウンは「見えない」。しかし日ノ出町の成人映画館「光音座」のお陰で、なんとなくではあるものの、その存在は予想できる。「光音座」は「1」と「2」が併設されているが、「1」は全国でも数軒しかないゲイポルノ専門館だ(すぐお隣が全国チェーンのファミリーレストランというのが、この街の個性である)。

 5年ほど前に聞いた話によると、野毛には700店ぐらいの飲食店があるそうだが、そのうち50~60軒がゲイバーだという。そのほかに横浜全体で7軒程度のオカマバー(店員は女装または性転換者)もあるそうだ。新宿二丁目では店舗数の減少が顕在化しているが、野毛では現在も大きな変化はないらしい。

 神奈川県下最大のゲイタウン・野毛。しかしアジア最大のゲイタウンである二丁目や西日本で最大の堂山(大阪)がよく知られているのとは対照的に、この町のゲイシーンが語られることは絶無に近い。

 横浜市が「創造都市政策」を掲げるようになってから、大勢のアーチストが海外からやってくるようになった。滞在中、彼らは市内の様々な場所を案内される。行き先には黄金町や寿町、横浜橋などといったディープな場所も含まれている。しかしアーチストたちがゲイエリアに案内されることは、絶対にない。タブーと言うよりも、認知されていないからだ。これはなるべくしてなったことなのだろうか?

 わたしは自分の街のゲイシーンの一端に触れたいと思い、横浜駅から10分ほど歩いた場所にあるセクシュアルマイノリティのコミュニティースペース「かながわレインボーセンターSHIP」に足を運んだ。

若いときは恋愛したい

 「中学生や高校生は恋愛したいと思っているんです」

 「SHIP」代表のシンジさんは語った。

 「同性愛者の比率は世界人口の3~5%。厚生労働省科学研究班の調査では同性に魅力を感じる人の割合が4.3%でしたので、クラスの中に一人か二人、同性愛者がいる計算になります。

 しかし彼らは恋をしても口に出すことが出来ません。
 思春期にひとは、誰かを好きになるという大切な経験をします。それは『好き』という気持ちを抱き、『仲間と共有』することです。仲間との共有により自分の気持ちが高まり、他者よりも深い関係になりたいという感情や、相手を真に思いやる気持ち、それを通じて自分自身を向上させたいという気持ちに変わっていきます。男の子だったら『格好良くなりたい』とか、女の子だったら『奇麗になりたい』とか、自分を高めていこう、というポジティブな気持ちになります。
 しかし、同性愛者の場合は、その気持ちを誰にも相談もできないばかりか、身近なところで友人と語り合うことができないため自己肯定感が低くなる傾向にあります」

 「SHIP」は、2007年9月に神奈川県との協働事業によりオープンした。主な対象は10~20代の若者である。

 「異性愛者が異性を好きになるのとおなじように、同性愛は人を好きになる性的指向の一つです。自らの意志で変えたり選んだりできません。同性愛者の多くは思春期に『同性が好きな自分』に気づき、そのことに違和感を深め、異性を好きになろうと努力をしますが、思い通りにならずに悩んでいます。

 中学や高校はとても狭い環境のため、自分以外のゲイと出会うまでは大変です。テレビやメディアでゲイが取り上げられる機会は少なくありませんが、お笑いとかバラエティ番組中心です。それを見た当事者は、『自分も笑いの対象になるんじゃないか』と危機感を抱きます。だからますます言いにくくなります。

 親の問題もあります。子供は徐々に気づいていきますが、親は自分の息子が同性愛者だと知ったとき、突然現実を突きつけられるわけです。 親の多くは『自分の育て方が間違っていたんじゃないか』と苦しみますね。実際『うちの息子はゲイじゃない。洗脳しないでくれ』という苦情の電話を受けたこともありました。

 僕も親にはカミングアウトしていないんです。カミングアウトは全ての解決になりませんので、人には勧めません。親子がちゃんと向き合って話せればいいのですが、多くの場合はカミングアウトしても言いっぱなしになり、お互い、もうその話題には触れなくなります。親は『そのうち治るだろう』などと考えることがありますが、これでは本当の理解とはいえないと思います」

 シンジさんはしずかな口調でつづけた。

 「最近の中高生はインターネット経由の出会いを経験することが少なくありません。そこでは大人からの誘惑が多い。

 相手は身体目当てに迫って来る。思春期にいくら『きちんとした恋愛をしたい』と思っても、ゆきずりのセックスで終わる。その繰り返しでメンタルヘルスが悪くなる子をかなり見受けます。

 『きちんとした恋愛ができない』、これは同性愛の人特有の現象ですね。最初にセックスから入ってしまう。そこを変えたいんです。最初は友達感覚から入ってほしい。異性間がそうですよね」

 横浜駅西口というロケーションから、利用者は若者が多いようだ。最寄りがターミナル駅というアクセスの良さだが、人目を忍ぶため、人通りの少ない場所を選んでいる。

 「中高生(の同性愛者)が集まるために、こういう場所が必要です。未成年者である彼らはバーには行けませんし。『SHIP』ができた当初は高校生や近くの予備校生が来ていました。知っている人に見られないで同じ仲間が集える場所が大切なんです。

 とはいえ、若い人に訊くとなかなか入れなくて、何度も建物の前を行ったり来たりしてからようやく入るみたいですけど」

 野毛ではなく敢えて西口に設定したのは、未成年者のためだけではない。ゲイバーのコミュニティーから外れた人たちを受け入れるためだったという。ゲイの中には、ゲイばかり集う場所を嫌う人もいるのだ。インターネットが普及しているとは言え、対面型のコミュニティーでないと得られない体験もある。そういった人たちを対象にするため、意識的にゲイバーのある野毛から外れた場所を借りたのだそうだ。シンジさん自身、昔はバーに顔を出す方ではなかったという。

シンジさん

 「バーの中がどうなっているか、外からは分かりません。情報がなにもない。だからハードルが高い。昔は雑誌の広告だけが頼りでした。怖いからなかなか行けるもんじゃない。

 僕がはじめてバーに行ったのは27歳のとき。友達に連れて行ってもらったんですよ」

 短く刈り込んだ髪と白髪がちのあごひげを持つシンジさん。自身の出身地などプライバシーに関わることは明かさなかったが、高校時代の話をしてくれた。

 「同性に気がいってしまう自分に気がついたんですよ。最初につきあったのは女の人ですが、やっぱり同性が好きなんで無理していたんです。周りが異性とつきあうので、自分もそれに合わせていた。(同性愛者は)みんなそういう道を通ってくると思います。自分の気持ちを試して、最初はもやもやしていた気持ちがハッキリしてくる。そして段々認識を高めていくんです。

 初めて自分以外のゲイと出会ったのは、19か20の頃。東京に来てからです。最初は自分がゲイかどうか試すために、単にセックスだけの関係でした。初めてきちんと恋愛関係になったのは数年してから。相手は別の人です」

 ネットが普及しはじめた1990年代の後半、シンジさんは情報の発信を始めた。この頃シンジさんがつくったウェブサイトはいまも残っていて、偶然わたしも目にしたことがある。

 「『SHIP』をはじめたのは2000年の新木場の事件がきっかけです(註:2000年2月に東京都江東区新木場の夢の島公園でハッテン中の男性が中学生と高校生から成る不良グループに襲われて殺害されたという事件)。夜の新木場はハッテンバでした。ゲイの中にもハッテンバを嫌う人がいます。『ハッテンバに行く奴が悪い。殺されて当然』ってね。私もハッテンバを紹介するサイトをつくったことがあるので、バッシングされた経験があります。

 でも偏見や差別が悪いのであって、ハッテンバ云々ではないと思うんですよ。たとえば二丁目で殺されても『二丁目に行ったからだ』とはならないでしょう。『どこどこに行ったから悪い』はおかしいですよ。ハッテンバの話をすると「ゲイはセックスだけ」という変な誤解が生まれてしまう。『ハッテンバがエイズの温床になっている』とか。エイズはセックスで感染します。家でやろうとハッテンバでやろうと場所は関係ないと思うんです。

 活動を始めたキッカケは、2002年の夏に友人と一緒にハッテンバでコンドーム配りを始めたことでした。そして本格的に活動をしていこうと、半年後に『横浜Cruiseネットワーク』という任意団体を立ち上げて、コンドーム配布の場所をゲイバーに移したんです。

 2005年に『かながわレッドリボン賞』(註:エイズ・HIV の予防や啓発と感染者支援に努めた個人や団体を表彰する賞)を受賞したのですが、これがきっかけで県と繋がりが出来ました。2006年の9月に協働事業の申請をしたんです。応募が多くて狭き門でしたが、3次審査までうまく通りまして『かながわボランタリー活動推進基金』の枠で助成を受けることができました」

同性愛者のメンタルヘルス(心の健康)

 「厚生労働省科学研究班のデータによると、自殺未遂の経験者は同性愛者の14%に及ぶそうです。どうしても孤立することが多いので、鬱になりやすい。自殺しやすい年齢はまちまちで、若いときもあれば、年を取ってからも家族を持てないことを悲観して、ということもあります。

 最近はインターネットが出会いの場になってきています。でも一対一の繋がりでしかありません。ほんとうのコミュニティーとは言えないと思います。そうすると、なにかトラブルが起きても相談する相手がいない。失恋しても人に言えない。好きな人が出来ても言えない。いろんな場面で悩み孤立する可能性があります。

 一般社会の中で、自分たちのような存在を目にする機会はありませんからね。中高生のとき、自分の指向に気づいても『自分だけじゃないか』と思い込み、孤立していく。だから『身近なところに仲間がいる』ということを伝えたいですね。

 さいわい神奈川新聞や毎日新聞が取り上げてくれて、学校での理解がすすんできました。

 私たちは学校向けに DVD を作成しています(写真)。昨年と今年とバージョンのちがうものを千本づつ、教育委員会を通じて県立の高校全校に配布しました。私立高校と中学校には直接送付しています。

 それ以前(2008~2009年)は先生方に理解してもらうために、パンフレットをつくって配っていました。生徒向けにはポスターです。DVD は両方が対象ですね」

 神奈川県内には中学・高校併せて約700の学校がある。写真のような「愛の多様性」を謳ったポスターはそのすべてに送られてはいるものの、実際に貼り出すかどうかは学校の裁量に掛かっている。強制は出来ない。何割の学校がポスターを掲示しているのか、「SHIP」では把握できていないようだった。しかし意義のある活動であることは疑いようがない。

 「最近学校の先生も困っているんだな、という事がわかってきました。生徒から同性愛について相談を受けても、どうしたらいいか分からず迷っている。学校の中のことは情報が伝わってきません。先生も苦しんでいる。だから先生とこちら側で顔の見えるつながりを大切にしています。そうでないと相談しづらいですから。

 社会の理解が足りないのは仕方がありません。先生たちも何も学んでこなかったんですよ。これからは先生の養成カリキュラムの中にも、性的マイノリティーの話を入れて欲しいですね」

 シンジさんが活動の手応えを感じるのは、どんなときだろうか。

 「少しずつ輪が拡がっているのを感じ取れたときですね。学校、行政、市議会、メディア。協力してくれる人たちが増えてきました。

 昨年改訂された横浜市の「横浜市人権施策基本指針」の見直し委員会に入って、ヒアリングに協力しました。その結果、性的マイノリティーに関する記述が盛り込まれました。これは横浜の中の出来事として大きいと思います」

 ゲイコミュニティーの中での手応えはどうだろうか。

 「アンケートを取っているわけではないので、正直、分かりませんね。ネット上では県内の50%のゲイが認知してくれています。ただ、ネットでの調査ですから片寄りがあるはずです」

横浜のゲイシーン

 ゲイの世界では、自らの性的指向を隠している状態を「クローゼット」という。この言い回しを使うのであれば、野毛はクローゼットな町である。ゲイバーの多くはクローゼットだ。客はそこがゲイバーだということを認識しているが、もしマスターがそれを社会に対してオープンにしてしまうと、客が来にくくなる。だからバーの多くは「会員制」のプレートを掲げたり、単に「スナック」というふれこみで営業している。

 「二丁目もいまはオープンですけど、そこに行く人が全員オープンというわけではありません。一般社会のなかでなかなか言えない人は多いですよ。

 日本全国どこでもクローゼットで、オープンに出来るのは中核都市に呑みに行くときか、インターネットの中くらいでしょうね。結婚している人もいますから。

 横浜も中核都市ですが、地元生まれの人は言いにくいんですよ。逆に地方出身の人は言いやすい。東京が言いやすいのは、地方出身の人が多いからです。そうは言っても地元育ちの人が地元のゲイバーで呑むこともありますよ。

 横浜にも同居カップルはいるか、ですか? 横浜にもいますが、東京と比べて多いか少ないかは分かりません。別々に暮らしていて、週末だけ会う人もいますしね。町中でふつうに手を繋いで歩ければいいんですけど」

 横浜市内のゲイで、ゲイバーなどの利用者は主に三つの地域に分散しているという。

・横浜
・二丁目
・新橋

 新橋は二丁目の衰退と反比例する形でゲイバーが増加している地域である。仕事帰りや週末に会社勤めの男性同性愛者が訪れる場所のようだ。横浜以外の県内では川崎に数軒あるほか、ぽつぽつ点在している程度だという。

 「横浜にも年2回ゲイナイトがあります。クラブを貸し切ってやっていますが、毎回場所はちがいます。150人くらい集まっているでしょうか。

 イベント好きな人には横浜はもの足りません。だから東京に流れていきます。それで地元派と二丁目派に分かれていくんです」

横浜におけるゲイシーンの特記事項はありますか?

 「公園でちょこちょこ事件はありました。殴られるとか、恐喝されるとか。恐喝はゲイだと言えない弱みにつけ込んでいるので表に出てきません。僕も被害に遭ったことがあります。でも特記事項と言えるほどでは。

 横浜市の『人権施策基本指針』で取り上げられたことが、最大の特記事項でしょうね」

東京のように横浜でゲイパレードを行うことは可能でしょうか?

 「どうだろう(笑 成り立たないかな……。みんなオープンなわけじゃないから。

よその地域とのつながりはありますか?

 「店の人が繋がりを持っていれば、旅行で来た人が立ち寄ってくれることがありますよ。雑誌で紹介されていますし、毎年出ている『ゲイナビ』にも載ってます。ただし一般向けにはオープンになっていません」

市内の外国人も野毛に行くのでしょうか?

 「90年代までは野毛に外国人が集まるバーがありました。オーナーが英語を話せれば、そこに外国人が集まります。しかし現在そういう場所はないので、外国人は都内に遊びに行ってしまいます。東京では外国人のゲイと出会う確率が高いですからね」

若葉町で女装の男たちが客を引いているのは有名ですが、彼らを買うゲイはいますか?

 「分かりませんね。いるかも知れませんが、性欲処理のために男を買う異性愛者もいますから。それは同性が好き、というのと別の問題です。何とも言えませんね」

友達づくりのためのボランティア

 「SHIP」は性的マイノリティ同志の交流機会の提供や悩み相談、健康支援、HIV検査などを行ってきた。現在までに延べ6,300人の利用者があったという。

 「県内はもちろん、東京、千葉、埼玉からの利用者もありました。昨年の来場者は1,700人です。年齢別の割合で言うと、10代が3割、20代が4割、それ以外は30代か40代ですね。10代後半から30代前半がボリューム層ですが、進学や就職など節目の人がやって来るんですよ。あとは親から結婚を勧められたときとか。

 初めての人は2割で残りはリピーターです。ここの本を読んだり、来てる人同士で話したりしていきますね。

 「SHIP」では月に2回(金曜または土曜)20時~22時くらいまで、お揃いのユニフォームを着て、横浜のゲイバーにコンドームやパンフレットを配布している。ゲイコミュニティにセックスや健康のメッセージを届ける「デリバリーボーイ」というプロジェクトだ。そのほかに野外ハッテンバやクラブイベントでもアウトリーチ活動を行っているという。ボランティアの存在は不可欠だ。

 「『SHIP』には50~60人の登録ボランティアがいます。そのうちアクティブなのは20~30人くらいで、高校生もいます。人数としては足りていましたが、学校や仕事がありますから常時来れる人は少ないですね。

 友達づくりのために参加する人が割といて、友達ができたら来なくなっちゃうとか、就職したら顔を見せなくなるとか。ずっと続くものではありませんね」

今後のこと

 2007年9月のオープン以来、「SHIP」は性的マイノリティの支援に努めてきたが、神奈川県との協働事業が今年3月をもって終了した。

 「県の助成を受けたのは、結局狭いコミュニティの中だけでは充分な資金援助が得られないからなんです。一般社会の中から集めていかないといけません。しかしもう県からの予算はありませんから、今後は賛助会費や寄付金でやっていかないと」

 とはいえ自主財源では現在の施設を維持することが難しいため、同じ区内のワンルームマンションへ移転するという。組織も現在の任意団体からNPO法人へ脱皮してより社会性を高めるようだ。

 シンジさんの話で印象に残ったのは、「とにかく店の名前は出さないで下さい」と再三言われたことである。インタビュー中、具体的なゲイバー名がいくつか上がったのだが、10年以上も前につぶれた店の名前を出すことさえ渋っていた程である。いかに気を遣っているかが分かる。

 この事実は、ゲイの世界が遠い世界の出来事ではないことを証明しているように思える。見慣れた街角に、「見えない町」が暗号のように見え隠れしているのだ。

 都市を豊かにするのは住人の多様性である。

 結局のところ、大切なのは「誰にとっても居心地が良いかどうか」ということに集約されるのだろう。そのためにはゲイバーがあるだけでは充たされない。マイノリティーと街とが自然につながっていくストーリーが必要だ。大前提として、街が多様性を失っていないことが必要とされる。

 かつて横浜には異質さを受け入れる港町特有の土壌があった。街を歩けば素性の分からないアウトサイダーを当たり前のように見かけた。しかし港の時代が過ぎて、揺り戻しが起きた。横浜はどの街よりも異質なものに敏感だ。にもかかわらず、異質なものを過剰なくらい抱え込んでいる。

 昨年、横浜市内のとある町づくり勉強会に参加した。そのとき「選択と集中の必要性」を口実に、横浜西口~関内地区にあらゆる機能を集約しようとする役所の考え方を目の当たりにして辟易した(飛鳥田市長以降90年代までは、「六大事業」の原則に則って市内に複数の都心をつくる青写真があった)。「選択と集中」は「最大多数の最大幸福」という哲学命題にいきつく。それはマジョリティーを優先する思想だ。ビジネスの世界でいえばヒット商品の開発や販売に注力し、売れ筋の外にある製品を見捨てる戦略である。

 この方向で努力をつづけると、街から個性がなくなる。どの街に行っても全国展開する同じチェーン店が並ぶことになる。「そこに行かなければない出会えないもの」が失われていく。少数者は孤立し、窒息する。 こういう体質の街では多様性の確保はむずかしいと思われる。いまの横浜はマイノリティーにやさしいと言えるだろうか。

かながわレインボーセンターSHIP 公式URL http://ship.y-cru.com/
(URLは全角で記載してありますので、ブラウザーのアドレスバーに半角で入力してください)

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

「SHIP」代表のシンジさん

 

「思春期の恋バナ」と題した DVD のジャケット

 

2011年3月30日付「毎日新聞」で「思春期の恋バナ」 DVD が紹介された

 

「SHIP」が制作した思春期の若者向けフライヤーやパンフレット

<「レッドライト」は今回でファーストシーズンを締めくくります。今後の展開にご期待下さい。>

 

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

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大文字では表せない小文字の横浜の歴史「裏横浜研究会」。ノンフィクション作家檀原照和さん

 

5月 10 12

2012年5月 三ツ池だより 「選り好みしない」

by staff
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 庭に牡丹が咲き乱れている。それでも例年より咲いている期間が短いような気がする。雨でも降られるとあっという間に咲き切って花弁を落としてしまう。赤、ピンク、白が咲く日をずらしているかのように一緒には咲かない。友人が来るので、もうニ三日咲いていて欲しいと思うがそうもいくまい。

 一方でジャーマンアイリスが蕾を膨らせているが、こちらは秋に肥料が少なかったのか、例年15本位なのに、今年はわずか3個位の蕾である。チョコレート色の花が咲いてくれるといいがどうなるのだろう。

 さて、五月はどんな月になるのでしょう。以前よく言われた5月病は今や、5月にかぎらないようです。いつでも起こりうるとのことのようだ。連休の過ごし方によって、四月の不安が表れてしまうのか、全体的な気候のよさのせいなのだろうか。

 先日寺に行ったら、「至道無難」の言葉が語られた。物事を選り好みしてはいけない、逃げてはいけないと。迷いとは、選り好みしたり、執着するからだという。悪戯に考え過ぎて迷ってしまう。あるがままに、そのまま純なる心を持って行えば柳は緑、花は紅のままの世界とのこと。

菜の花や月は東に日は西に
与謝野蕪村
ちりてのちおもかげにたつぼたん哉
与謝野蕪村

 情景が見えてきます。

顔を出す長屋の窓や春の雨
正岡子規
春惜しむ一日画をかき詩を作る
正岡子規

 春は動き出す時、詩情を膨らませる時なのですね。

 4月の中旬に社内の経営計画発表会を行いました。創業48年だが、経営計画を来賓をよんではじめて27回目になりました。白いキャンパスに最初に筆を入れるのは社長の特権と言われてきた。これでいいのだろうかと思いながら社長を続けてきて、反省も様々にでてきています。
 今年は少し違ったように思います。やるべきことを昨年やってきたおかげで、今年はその延長のことと、新しく加味したもので、新鮮味も出てきました。

 顧客満足度の向上は口では簡単なことです。ほんとうにはどうしたらいいのでしょう。こうしたらいいと決められるものではありません。私のリーダーシップによるところ大です。皆が一人一人本当に真剣に取り組むことであり。一人ひとりが自分がどうしたらいいかを考え、改善し、壁をのりこえていくことなのです。それでこそ真のメジャーテックツルミになるのだと話をしました。シンプルに心掛けるようお願いしているのは、各部署の効率をあげたいからでもあります。

誰がやるんでもない
誰がさせるのでもない
  唯一人自分がいて
  自分の意志で進めて行く
こうしたいという想い
あーもしろといった声が響きあう
  そう響かせるのだ
  それぞれの楽器がなる
別々のようでいて
今を一緒に生きているのだ
  シンフォニーを奏でるように
  その役割を出番を
誰がやるのでもない

ただ聴き逃すまいとする己の心
  誰がさせるのでもない
  誰がやるんでもない

 忙しい人は頼まれると断ることはない、暇な人は仕事を断る。私は駄目ですよと言って、だからもっと暇になる。一度断るとつぎに仕事は来ないそうだ。と「至道無難」の法話はつづいていく。5月は何事もが動き出す時だから、少し忙しくなるかもしれない。だからこそ「頼まれごとはためされごと」率先して取り組んでみたい。なにかおきればそれは新しい課題が見つかったことだ。咲きほこる草花に刺激されて新しい月を楽しんで行く。ありがとうの五月なのですね。

 

Photos

(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)

     
     

(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

5月 10 12

書評 「ソフトウェア社会のゆくえ」 岩波書店 玉井哲雄 著

by staff
 

 25年ほど前、私は「増力のためのコンピュータ利用」というタイトルの修士論文と格闘していた。「増力」とは私の造語で「人間の能力を増す」という意味合いで使っていた。

 当時、私達の生活にインターネットは登場していない頃だったので、現在のように誰もがパソコンや携帯電話を使いこなすなんて、想像もできない時代だったが、私はコンピュータは、人間の能力を増すための存在に成り得ると信じていた。

 コンピュータが誕生してから今年で65年を迎える。誕生期からこれまでずっとコンピュータを動かしてきたのが「ソフトウェア」である。現代では

携帯電話、家電製品などあらゆる機器が「ソフトウェア」によって制御されている。「ソフトウェア」の役割は大きくなっているのに、目に見えない「ソフトウェア」を私たちは意識しなくなっている。そして「ソフトウェア」は正常に動くのが当たり前で、銀行のATMが稼働しなくなるなど、異常が発生した時だけ「ソフトウェア」はクローズアップされるのである。

 「ソフトウェア社会のゆくえ」(玉井哲雄著)は、そんなコンピュータのソフトウェアというものの正体を、一般人にもわかるようにわかりやすく解説してくれている。著者の玉井哲雄氏は、筑波大学の社会人大学院時代の私の指導教官であり、今年の3月まで東京大学で教鞭をとられていた、日本のソフトウェア工学をリードしてきた方である。

 冒頭で「肩の凝らない話をしていきたい」と玉井先生が宣言されているとおり、この本は技術書ではなく一般書として書かれたものである。

 第一章の「ソフトウェアの不思議な性質」では、「ソフトウェア」の語源について玉井先生ご自身がインターネットを使って調査をした様子が記述されていて、読み物ととしても引き込まれていく。

 第三章の「ヒューマンエラーの恐怖」には、東京証券取引所のシステムがプログラムのちょっとしたミスで大事件を引き起こしてしまう「ソフトウェア」の怖さが描かれていて、「ソフトウェア開発」を生業としている私にとっては他人事ではないノンフィクションである。

 第四章の「情報産業の盛衰」からは、日本の情報産業がどのような変貌を遂げてきたのか、ソフトウエアはなぜ輸入超過になっているのかなど、その歴史を窺い知ることができる。

 ソフトウェア技術の変化やソフトウェアの権利の変遷など、ソフトウェアを様々な角度からとらえ、分解してその全貌を明らかにしようという試みは、玉井先生の研究の集大成とも言えるものである。

 私が特に感銘を覚えたのは、第七章(最終章)の「これからの日本のソフトウェア」に書かれている「他の分野に学ぶ」である。「今後のソフトウェアは、計算機科学のみならず他の学問分野から学び、それを技術として発達させていく必要があるだろう。」と玉井先生は提唱されている。生物学、考古学、そして文化人類学と、人間を知ることがソフトウェア技術の発展につながるという玉井先生の言葉は、「お客様の立場にたって」をモットーにしている私にとっては、大いに共感するところであった。

 この本の最後を玉井先生は次のように結んでいる。「ソフトウェアがこれだけの社会の根幹を形作っているのに、社会がそのことを十分認識していない。そのために、ソフトウェアを作る人、組織、プロセスについての理解が不足し、それがさらに有能な人材がソフトウェア開発に携わることを妨げ、創造的なソフトウェアが生まれる状況を作り出せないでいるのではないだろうか。」

 私達「ソフトウェア開発」に携わる者たちが、玉井先生の言葉を噛みしめ、創造性の高い、「増力」のためのソフトウェア開発に邁進しなければならないと改めて痛感している。

 「ソフトウェア社会のゆくえ」は、日本社会の今後を考える上でも、ソフトウェアとは無縁の多くの方々に是非読んでいただきたい著作である。

(文:渡邊 桃伯子)

 

5月 10 12

書評 「脱原発で本当に良いのですか?」 ごま書房新社 金子和夫 著

by staff
 

 「中国のように経済成長が著しい国では、エネルギー需要の伸びをカバーするには原発が必要不可欠です。中国で原発事故が起きれば放射性物質は偏西風に乗って日本に飛来するわけですから、対岸の火事として傍観しているわけにはいかないのです。むしろ、そのような時のためにも、原子力の安全面での技術研究を進め、一刻も早く対応策を講じておくべきでしょう。」金子さんは安易に原発を再稼働しなさいとは決して言っておらない。「いまこそ日本人に必要な科学する心とは」と問いかけている。

 根源から問題を捉え直そうと語られる。「福島の原発事故が起きた直後、外資系のトップや在日大・公大使館の人々が、関西方面や国外に移動したという話が耳に入ってきました。放射能汚染で日本はもうダメだという風評も、国内外を駆け巡ったようです。政府やマスコミはパニックに

なるのを恐れて、報道を制御しようとします。国民はいまだに原発で何が起きたのか、今後どんな危険が起こり得るのか、詳細をしらされないままです。実は福島の原発では、2010年6月に外部電源喪失事故が起きていたことが判明しました。そして、あろうことか、これに対する何の対策も取らずにいたのです。」

 福島の原発事故は、明らかに人災ですといい、しかも誰に責任があったかも、いまになっては明白ですと。また新しい核燃料サイクルの提言としてトリウム溶融塩炉を考える会編の一文を掲載しています。原発か脱原発のどちらかと言うのではなく、むしろ二者択一の危うさを問いかけます。判断基準は「倫理観」だよと、論語の言葉から説きます。「君子は、どんなことでも好き嫌いで判断しない。かならず義という客観的基準にてらして判断するのだよ。孔子が言う、客観的基準とは道義(仁義)ということで、いわば倫理観です。日進月歩で進歩する科学技術は、放って置くと暴走する危険性もあります。それを正しくコントロールするのが、人間の倫理観なのです。現代の日本人に、これが欠けていることが、原発事故でいみじくも露わになったような気がしてなりません。」著者はドイツにおける原発の廃止にも触れている。10年の年月議論し、再生可能エネルギーを18%まで増やしている。日本はわずか1%。ドイツは脱原発を宣言しても、原子力の研究は続行すると表明していると報告している。

 著者は科学がどのように発展してきたのか振り返りつつ、ご自分と科学との関わりを論語を引用しながら綴っている。
 先生は言われた。「お前に知るということを教えよう。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこことする。それが知ることだよ。」
 先生は言われた。「人として仁でなければ、たとえ礼があってもどうしようもない。人として仁でなければ、たとえ楽があってもどうしようもないよ。」
 先生は言われた。「あるいは、ものしりでもないのに創作する者もいるだろうが、私はそんなことはない。たくさん聞いて善いものを選んで従い、たくさん見て覚えておく。」

 金子さんはつぎのように科学する心の話をします。「科学技術には、その基礎となる理論があります。理論を確立するには、仮説(推論)を立て、それを実験によって検証(実証)しなければなりません。検証されてこそ、初めて理論が確立するのです。(中略)多くの場合、仮説がほぼ正しいという検証結果がでれば、それを良しとしまいがちですが、確実性がない限り、それから先へ進むべきではないのです。」その場合は潔く仮説を捨てることの選択することを信条としてきたと語ります。

 「いまの日本は、明治維新にも相当する非常時といっても過言ではありません。その時に求められる人材は能く見る人であり、見て行う人であり、結果を出す人です。その三者が一体となった姿こそが、孔子の言う君子になると思います。残念ながら、日本の為政者や指導者達にそれを求めるのは困難な気がしてならないのは、わたしだけでしょうか。」金子さんは、足るを知る生き方、コメ作りの重要性、自然との共生を日本のあるべき姿ととらえています。「うまく生きていくには恕だ。自分が望まないことを人に施さないことだよ」論語の言葉で表現します。他者においても、他国に対しても「恕」で臨むことです。勇気をもって、今一度恕すなわち思いやりの心ももって進んでいくことを提言されます。

(文:横須賀 健治)

 

5月 10 12

第7回横浜売れるモノづくり研究会セミナーを開催いたします

by staff

第7回横浜売れるモノづくり研究会セミナーを開催いたします

今年度初めての研究会セミナーのお知らせです。
第7回は5月22日(火)午後2時30分から開催いたします。

横浜売れるモノづくり研究会
https://www.supportyou.jp/monoken/

今回は、横浜市中区の万国橋会議センター(第五回と同じ会場)で開催します。

第7回の研究会セミナーでは、「かながわのユニーク企業」として有名な株式会社片野工業の片野明夫社長に「除菌、消臭器、エアサクセスプロの 開発、販売戦略」というテーマで基調講演をしていただきます。

事例研究は、第一塗装工業株式会社の早川政男社長に「技術力の見える化、わが社の戦略」、株式会社スリーハイの男澤誠社長に「新製品、独自のプランディング戦略を展開」についてお話していただきます。

今回ご登場いただく企業はいずれも、厳しい経済情勢の中で独自の販売戦略を構築して業績を伸ばしています。

売れるモノづくりをどのようにして実現してきたのか、基調講演、事例発表を通して参加者全員で考えていきたいと思います。

多くの方々にご参加をお待ちしております。

参加申し込みはこちらからお願いいたします。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/3/

1.日 時 : 平成24年5月22日(火)午後2時30分~6時00分

2.場 所 : 万国橋会議センター 4F(横浜市中区海岸通4-23)
       Tel 045-212-1034
       http://www.y-port-kousei.or.jp/new_page_9.htm

3.内 容 :

基調講演
  「除菌、消臭器、エアサクセスプロの開発、販売戦略」
  株式会社片野工業 代表取締役 片野明夫
  http://www.katano.co.jp/

 
事例研究
  「技術力の見える化、わが社の戦略」
  第一塗装工業株式会社 代表取締役 早川政男
  http://www.daiichi-toso.co.jp/
 
  「新製品、独自のプランディング戦略を展開」
  株式会社スリーハイ 代表取締役 男澤誠
  http://www.threehigh.co.jp/

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

5月 10 12

もっと飲みたい!(その4)

by staff

 最近、横浜中華街を取材で訪れることが多くなり、横浜生まれ横浜育ちでありながら、中華街について知らないことが多くて驚きます。

 中華街、と言えば中華料理の街、昔から。程度の知識しか持っていなかった私。今でこそ横浜中華街は中華料理屋街で有名ですが、横浜開港の後、渡ってきた中国人たちの職業は違ったものだったそうですね。
 それは、土木建築関係、西洋家具製造、パン製造、洋裁、印刷、保険金融、写真技師など。先に開国した清国に欧米から入ってきた技術を利用した職業です。
 そのうちそれら技術職に日本人も加わるようになり、中国人たちは「三把刀(さんばとう)」と言われる刃物を使う三つの職業、料理人、裁縫師、理髪師の職へと就き移って行きます。

 そんな中、
 明治27(1894)年、日清戦争が勃発、
 大正12(1923)年、関東大地震が発生
 古いレンガ造りの建物が密集していた中華街は、壊滅的な打撃を受けます。
 さらに、
 昭和12(1937)年、日中戦争が勃発
 そして、
 昭和20(1945)年、大空襲で中華街は一面火の海。終戦を迎えます。

 昭和30(1955)年、中華街復興の願いを込めて、中華街大通りの入り口に「善隣門」が建てられます。ここでようやく、「唐人街」や「南京街」と呼ばれていた街の正式名称が「中華街」になります。
 その後、昭和47(1972)年の日中国交正常化が実現し、観光地として発展をとげるわけです…。

 やはり、同じ取材をさせていただくなら、歴史を踏まえた質問もしてみたいところ。公の歴史とはまた違った中華街もみえてくるはず!と思いつつ、美味しいものを食べると質問することすら忘れてしまうのですが…。
 横浜中華街、しばらく通いつめてしまいそうです。

Pick Up  横浜中華街【金香樓】

 JR石川町駅中華街側改札を出て、西門方面へ。西門をくぐりまっすぐ3分ほど歩くと正面に善隣門。鋭角に左へ曲がり20歩ほど進むと左手にあるのが「金香樓」さん。

 横浜中華街で唯一の香港スタイルで懐石を楽しむことができるお店です。さらに今回は、人気の水上庭園席でのランチコースをいただきました。

 まず最初に驚くのが、お店に入ったときの色合い!宮廷をイメージさせる黄色い屋根と赤い柱。床に張りめぐらされた水の青。一気に盛り上がる異国気分。この水上庭園席、人気なのがわかります。

 いただいたお食事は「中華懐石”雅”」(おひとり様5,775円)。お品書きを見ると、五種盛の前菜からはじまり、全11品。フカヒレ、蟹、海老、アワビ…、と贅沢この上ない。ホントに。コラーゲン入り火鍋なんて、女心鷲づかみなメニューもあって。もちろんデザートも。

 前菜が運ばれ出すと、最適なタイミングでどんどんお料理続きます。「蟹玉子入り海鮮スープ」、最高に美味しい!蟹玉子のゴロっとした食感とスープのアンが絶妙です。小ぶりな器かと思いきや、スープがなみなみと注がれ食べ応え十分。

 悦に入っていると次に運ばれてくるのは、「フカヒレの姿煮」。どっしりとしたその姿にとろとろのアンがまた美味しい。そして、「アワビのオイスターソース煮」。アワビと一緒に入っている大きめなキノコ類たちがアワビの歯ごたえとよく合います。ちょっと高さのある器もかわいくて、見た目も楽しめるのは嬉しい。

 続く「ヨシキリの甘酢あんかけ」の後に出た「ホタテ貝のガーリックパン風味」、これがまたいい。でもここで疑問。これが香港風というものなのか…?

 お店の方に伺ってみると、広東や四川、中華にはいろいろな味が楽しめるけれど香港風は濃すぎず辛過ぎず、らしい。結局どんなものなのか理解できていない私でしたが、もう「美味しいからいいや!」って気分にさせる美味しさ。美味しいからいいか。

 ここでお腹はすでに8分目越え。でもまだコース半ば…。そこに出てきたのが「豚肉のコラーゲン入り火鍋」。汁物、入るだろうか…。が!この薬膳スープが今までの脂っこさを流すかのように、スルスル入ります。数十種類がブレンドされた薬膳スープはクセになりそう。
 その後続く「えび入り揚げ餃子」「牛肉の山椒辛子煮込み」「チャーハン」も完食です。

 デザートにはとろけるような「マンゴープリン」。食べきった余韻に浸っていると人気デザートの「九龍球」をサービスしていただきました!かわいくて美味しい。美味しいものって満腹でも入るんだな、なんて再確認できてしまう「金香樓」さん、ごちそうさまでした!

 

住所・アクセス
  横浜市中区山下町200-9
  JR石川町駅から徒歩約5分
営業時間
  11:30~22:00
定休日
  なし
予算
  懐石料理おひとり1,500円~

 

(クリックで拡大写真)



( 文・イラスト・写真:(株)とらべるわん いいづかあや )

いいづかあや(飯塚 文) プロフィール

いいづかあや 飯塚文  

1974年、横浜生まれ横浜育ち。私立山手学院高等学校卒業後、文教大学短期大学部文芸科卒業。
父親の経営する(株)とらべるわんで幼いころから「旅」に携わる。
学生時代より同社のチラシ・DM・ホームページ等の制作をする。デザイン事務所・建設会社などの職業を経て現在は(株)とらべるわんのWEB責任者を務める。また、横浜元町で「ボディアートGlitta」でデザイナーとしても活動中。

(株)とらべるわん http://www.travel1.co.jp
ネイルサロンMINORITY http://www.minority-minority.com/
ボディアートGlitta http://www.minority-minority.com/glitta/index.html
   
いいづかあやTwitter http://twitter.com/zuka_aya
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5月 10 12

満開の桜の下、花まつりに出店

by staff

 

 4月8日(日)、快晴の中、恒例の境木地蔵尊での花まつりに今年も保土ケ谷宿名物会が出店させていただきました。
 桜の開花が遅れたこともあり、今年は見事に満開の桜の下での開催となりました。また、今年は5年ぶりに4月8日が日曜日に当たったこともあり、当日は開始前から境木地蔵尊前広場まで長蛇の列になるほどたくさんの方々にご来場いただきました。

 花まつりはお釈迦様のお誕生日を祝う催しで、境木地蔵尊では20年以上も甘茶掛けの行事が行なわれており、地域ではすっかりお馴染みのイベントとなっています。甘茶掛けをするともらえるお菓子を目当て(?)に、朝からたくさんの親子が地蔵尊を訪れます。今年は日曜日だったため、お父さんと一緒のご家族もたくさんいらっしゃいました。
 保土ケ谷宿名物会も、早いもので今回で7回目の参加となり、お参りだけでなく、名物会の商品も楽しみにお越しいただく方も随分と増えました。穏やかな陽気の中、幸せそうなたくさんのご家族で賑わうこの催しは、私たちも楽しみにしている行事の一つです。
 久しぶりの日曜開催に加え、開花時期もピッタリ合いそうということで、名物会各店もいつも以上の意気込みで、新調したのぼり旗を携え意気揚々と出店させていただきました。

 

イベント盛りだくさん!

 


花まつりの風景

 以前(第5回)にも書かせていただきましたが、保土ケ谷宿名物会が発足して7年。この花まつりをはじめ、お陰さまで随分とたくさんの地域のイベントに出店させていただく機会が増えました。
 今月も「ほどがや区民Day(横浜FC主催・13日(日)三ツ沢ニッパツ球場)、ほどがや花フェスタ(同実行委員会主催・19日(土)・星川広場)、7月には権太坂まつり(権太坂小学校PTA主催・7月14日(土)・権太坂小学校)他、たくさんの出店予定があります。
 みなさまも是非、お立ち寄りください。

 また、イベント出店ばかりでなく、引き続き「権太坂プロジェクト」として新商品開発にも取り組んでいく予定です。
 これからも、保土ケ谷宿名物会の活動にご期待ください。

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

5月 10 12

佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第5話『馬鈴蓋置と槍鞘建水』

by staff

 

 

 御茶道具には、年に一度しか使わないものがあります。今の時代、『無駄』とか『不合理』だとかおっしゃる方がおられるかも知れませんが、一見無駄に見える事に、生活のゆとりや美しさが潜んでいたりはしませんか?

 今回のお話しは、その様な御道具の最たる物「馬鈴蓋置(ばれいふたおき)」と「槍鞘建水(やりさやけんすい)のお話です。

 「端午の節句」は、子供が無事に成長してくれるようにと願って、思いを込めてお祭り致します。その折に使われる御茶道具が、馬鈴蓋置(ばれいふたおき)と槍鞘建水(やりさやけんすい)です。

 「御茶人」と呼ばれる方達は、この様な「一年に一度しか使われない御道具」を用意する時は、1年ぶりの対面を喜び『心ウキウキ』と支度します。 茶室も侘びた風情の中、何とは無く華やかに感じられます。

 「馬鈴蓋置」は、馬の鈴を形取った蓋置きです。中に球が入っており『カラ・カラ』と音がします。何とも可愛い音です。

 御稽古に来られた御弟子さん達は、特にこの蓋置がお気に入り・・水屋で用意して居る時に、蓋置を振ってその音を楽しんでいます。 その姿は何とも可愛いものです。 私が『これこれ、そんなに大きい音出したらあかんわ!』と言うて注意しますと、 お弟子さん達は『は~~い』と言うて振っております。(笑)

 もう一つが、槍の鞘(さや)の形に似せた「槍鞘建水」です。「馬鈴蓋置」とこの建水は対で使われます。

 運び出しの折の持ち方は、馬鈴の蓋置きに柄杓を節のところまで通し、柄杓を建水に渡し掛け、馬鈴の蓋置きは建水の中です。

 そして、左手小指と薬指で柄杓を持ち・親指・人差し指・中指で建水を鷲が獲物を掴む様に『鷲掴み』にします。

 

 柄杓は少し浮かして持ち、直接建水に触れないようにします。

 

(クリックで写真拡大)


馬鈴蓋置と槍鞘建水

 運び出しの時とか、構えて蓋置きを定座に置く時などに、鈴が可愛く鳴ると、なんとなく和やかな気持ちに成るものです。でも、余り大きな音をたててはいけません。心静かに扱う物です。

 小さく何かの拍子に『カラ・カラ』と鳴る音に、同席なさって居られます皆様から笑みがこぼれます。

 皐月の空の日差しの中、物静かな茶室に釜の松風と蓋置きの『カラ・カラ』と云う音・・・庭には小鳥の水浴びをする羽音・・・心洗われる様でのんびりとして良いものです。

 この忙しくせつない世の中だからこそ是非、この様な一時をお持ちに成って頂きたく御話しさせて頂きました。

頓首

気軽にお抹茶はいかが?

横浜三溪園

(クリックで写真拡大)

  「望塔亭」
  (三溪記念館内のロビー)
  お抹茶1服500円
  京都/餡入り落雁付き
 
「待春軒」
  お抹茶1服650円
  栗鹿の子付き
 

(クリックで写真拡大)

岩谷学園「粋生倶楽部」

岩谷学園「粋生倶楽部」 「茶懐石料理を楽しむ」~茶懐石料理を笑顔で・造って・味わって~

和食を世界遺産の無形文化財に申請する運動が広がっています

第一回 4月25日(水)終了 「鴨の射込みロースと山芋の板摺り」の八寸2品
第二回 5月23日(水)11:00~13:00 「峰岡豆腐と椀物・小鉢」
第三回 6月27日(水)11:00~13:00 「鯛の酒〆と粽寿司」と(蘇民将来孫也のお話)、飾り付け

(クリックで写真拡大)

   

(岩谷学園「粋生倶楽部」茶懐石料理を楽しむ 第一回「鴨の射込ロースと山芋の板摺り」の様子)

参加費:1回毎 一般3,700円  会員3,200円

お問合せ/お申込み:http://www.ikiiki-club.jp/
 

匣SAYA

佐々木彬文の茶道教室 ○ 茶道教室(通常)
  5月20日(日)13:00~
  6月17日(日)13:00~
 
○ 立礼茶道教室(椅子でのお点前)
  5月24日(木)13:00~

参加費  1回毎 3,500円。 飲み方だけの方は2,000円

お問合せ/お申込み:https://www.supportyou.jp/saya

お抹茶を楽しみませんか?

小さなグループを集めてティーパーティはいかがでしょう!
茶道教室というと堅苦しいでしょう? 「茶話会」をご自宅で・・・「ご一緒にお抹茶を楽しみましょう」
 

日本画教室も随時開講中

佐々木彬文プロフィール 日本画家(彬文会主宰)
茶道講師(裏千家 佐々木宗秀)
クラッシックギター演奏者

文・絵・写真:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)高野慈子

 

5月 10 12

ドイツワインの日

by staff

4月28日は『ドイツワインの日』


『ドイツワインの日』宣言

 「日独友好150周年」迎え、日本ドイツワイン協会はこれを記念して、4月28日を『ドイツワインの日』と制定しました。そして、GW(ゴールデンウィーク)を「German Week」ドイツワイン週間と位置づけ、広く全国において様々なイベントを企画していくことになりました。

 その新たなスタートとして、同日『4月28日・ドイツワインの日』には記念式典と祝賀親睦会がグランドプリンスホテル高輪で開催されました。
当日は、ドイツからモーゼルワインプリンセス マリア・セイラーさんや、醸造家の方が来日、会場では、ドイツ各地の銘醸ワインをはじめ、素晴らしいワインと料理が用意され、盛大に行われました。

ワインブティック伏見主催「ワイン&グルメフェア」
日時:2012年5月26日(土) 11:00~19:00
    27日(日) 11:00~18:00
場所:ワールドポーターズ6Fイベントホール

 


モーゼルワインプリンセス マリア・セイラーさん


会場の様子

(文・写真:ワインブティック伏見)

 

ワインブティック伏見

〒232-0001 横浜市中区新港2-2-1 横浜ワールドポーターズ1F
Tel/Fax 045(222)2112

HP: http://winecom.jp
blog: http://wine1999.blog121.fc2.com
E-mail: boutique-fushimi@winecom.jp

 

 

5月 10 12

春すぎて 夏きにけらし 白妙の ころもほすてふ あまのかぐ山

by staff

♪春すぎて 夏きにけらし 白妙の ころもほすてふ あまのかぐ山♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:持統天皇(じとうてんのう)

 現代語訳・・・どうやら春が過ぎてもう夏がきているのね 夏になると白い衣が干されるという あまのかぐ山に まっ白な衣が干してあるわ。

 初夏の日差しの中で洗濯物を干した時の気持ちよさ!そんな爽快感が伝わってくるこの歌は、百人一首の第2番目に位置されていて、第一番目の天智天皇の歌と対になっています。

 歌われた 持統天皇は天智天皇の娘でその天皇の腹違いの弟 天武天皇のお妃様でした。

 十代で嫁いで、父親の天智天皇が亡くなり天武天皇が反対勢力として旗揚げした時に、夫と一緒に戦地に赴き天智側の勢力と戦っています。気丈な女性で過酷な運命にも負けずに政治的手腕を発揮して行きますが、夫亡き後に次期天皇になる自分の息子も病気で亡くしてしまいます。その後、結局自分が天皇になりました。そして、天智、天武の意志をついで日本の国家的地盤を築きます。彼女が天皇になったことによってその後ゆるぎない国家的体制が整ったといっても言い過ぎではありません。

 この時代は激動の時代、日本の歴史の中でも一番ドラマティックで揺れ動いていた時期なので、そのエネルギーに翻弄されて犠牲となってゆく悲劇の女性達も多くいましたが。持統天皇はそんな時代の女性達の中でひときわ異彩を放っています。もしかしたら中身は男だったかも・・・と思ってしまうくらいに、天智天皇の皇女、天武天皇の皇后という自分の立場を利用して強くたくましく生き抜いていきます。本当に政治家としての才能があったのでしょう。

 私には想像を絶する女帝の生き様です。が、この歌だけが、彼女の中にある女性らしさを感じさせてくれます。晴れた青空の下、真っ白な洗濯物を干したときの爽快感、そこには現代でも十分にわかりあえる移り変わる季節への喜びを感じることができます。私のイメージの持統天皇はちょっと小太りで大柄な女性ですが。皆さんはいかがでしょうか?

 最近の私は、この秋11月14日にみなとみらい小ホールで開催する”和歌うた10周年記念コンサート”で披露する新曲の最終的な詰めに入っていますが、その新曲「あね おとうと」はその持統天皇にいわれのない罪を着せられて自害させられた「大津皇子」の辞世の句とその姉の「大伯皇女」が残した弟を偲ぶ歌からなる組曲なんです。

 持統天皇の姉、同じ天智天皇の皇女で、これもまた同じ様に天武天皇の后となった大田皇女から生まれた大津皇子は悲劇の皇子です。もし自分の母、持統天皇の姉が丈夫で生きていたら、彼こそが天皇になる立場の皇子様でした。でも残念ながら彼がまだ子供のころに母の大田皇女は病気で亡くなってしまいます。

 その後、人間的に人望もあり天皇としての器も持っていた大津皇子は成長するに従って、同じように天武天皇に嫁いだ母の妹の持統天皇からうとまれていきます。持統天皇には草壁皇子という一人息子がいて、彼女は自分の息子にとって邪魔な大津皇子を最後にはいわれなき罪に陥れて自害させるのです。

 今回そんな女帝の暗黒面を知る機会を得て、その時代の運気の流れのすさまじさをため息と共に実感しています。

(早苗ネネ♪)

新宿シャンパーニュ ライヴ 5月15日 火曜日
6時30分~ 3回ステージ ¥5500ワンドリンク付き 入れ替えはありません。
出演:早苗ネネ パリ祭出演の歌手の方々2~3名。
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

5月 10 12

サッカーが得意、でも僕ボクサーなんだ。福原家の中心的存在、ボクサーのボウイ君

by staff

ボクサー犬のボウイ君

横浜市南区にお住まいの福原さんのお宅は、ワンちゃんとニャンちゃんに囲まれたとても温かい団欒があります。家族の中心的存在でボクサーのボウイ君は、人なつこくて甘えん坊で優しい性格。

「ボクサーといえば外見が怖そうに見えるけど、優しい性格とのギャップが魅力的なんです。アメリカでは、子守り犬として、よく飼われているんですよ。」と福原さゆりさんはおっしゃいます。

一緒に飼っているフレンチブルのトンペイ君に必ず先に水を飲ませてあげたり、トンペイ君が他の犬にいじめられていると、ボウイ君が吠えて助けてあげる頼もしい相棒のようです。

ボウイ君  ボクサー(ホーン)、オス7才(9月20日生)

ボクサー犬のボウイ君

ボウイ君の特技は、部屋の中でするサッカー遊び。ボールを投げてくれとせがんできます。
どうですか、この華麗なプレーは!
ハットトリックを決めようとしているところです。

  ボクサー犬のボウイ君

フレンチブルドックのトンペイ君

トンペイ君はおとなしく穏和な性格で、毎日平和な暮しを楽しんでいます。

トンペイ君  フレンチブルドック、オス7才(6月20日生)

チョビ君

チョビ君はオス15才のニャンちゃん。人なつこくて何にでも興味を持つ性格です。

  ココちゃん

ココちゃんはメス13才のニャンちゃん。気が強く皆のママ代りになってお世話をよくしてくれます。

福原ゆかりさん  

「この子たちは、私たちが留守の時でも一緒に仲良くお留守番をしてくれてます。私にとっては、大切な家族で、無条件の関係です。」と福原さゆりさんはおっしゃいます。

ボクサー犬のボウイ君

(紹介・文: 工藤 文子

 

5月 10 12

「横浜が生んだ世界一のパン職人」 株式会社ポンパドウルの佐々木卓也さん

by staff

 Coupe du Monde de la Boulangerie(クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・ブーランジュリー)2012年大会において日本代表チームが優勝しました。

 この大会は、フランスのMOF(国家最優秀職人)が中心となって設立された手作りパン振興会が主催する「ベーカリーのワールドカップ」で、1992年から開催されています。各地区の予選を勝ち抜いた12カ国が3人一組のチームになって参加します。3名はそれぞれ「バケット&パン・スペシオ部門」「ヴィエノワズリー(菓子パン)部門」「ピエス・アーティスティック(飾りパン)部門」を担当し、与えられたブースと限られた材料の中で、既定の品目を8時間以内に仕上げ、その技術・スピード・芸術性を競います。

 日本代表チームの優勝は2002年以来2回目の快挙です。
日本代表チームの一人である、株式会社ポンパドウルの佐々木卓也さんに横浜元町の本社でお話を伺いました。

株式会社ポンパドウルの佐々木卓也さん

C) 日本フランスパン友の会CDM実行委員会

 
お名前 佐々木 卓也(ささき たくや)さん
ご出身 横浜市戸塚区生まれ
年齢 42歳
ご趣味 パンについて考えること
自分の性格について 人見知り・引っ込み思案
(株) ポンパドウルHP http://www.pompadour.co.jp/

佐々木さんにとってパン作りの原点は・・・

 5~6歳の頃、パン作りをしている母を手伝って一緒にパンを作っていました。焼きたてのパンの匂いが大好きでした。母と一緒にパンの中にレーズンやチーズを入れたりして楽しみながらパン作りをしていたのが、今の私の原点になっていると思います。

小さい時からパン職人を目指されたのですか・・・

 手先は器用で、絵が好きでしたからデザイナーになるのもいいな・・となんとく思っていましたが、何の目的もなく他の人が行くからという理由で、大学に行きました。学部は経営学部でした。暇だったので、よくテレビを見ていたのですが、NHKで放映された「極める」という職人を紹介する番組がお気に入りでした。それを見ていると何だか血が騒ぐのです。自分は職人が向いているのでないかと、求人情報を見て「ポンパドウル」の就職試験を受けました。受験理由は、横浜にあって実家から近かったからです。(笑)適性試験では、販売と製造のいずれの適性もあったのですが、自ら希望して製造部門に配属になりました。

パン職人なってみてお仕事はいかがでしたか・・・

 予想していましたが、パン職人への道は厳しかったです。
研修後、平塚店で5年間働きました。早番のときは夜中に出勤です。新入はまず「仕込み」(パン生地を作る)を担当します。お店で販売できるフランスパンができるようになるまで3年かかりました。毎日必死で仕事していました。先輩達に追いつくのが大変でした。くじけそうになったことも何度かありましたが、元来、辛抱強い性格だったので、何とか持ちこたえられたのだと思います。

 「パンを作ることが好きで始めた仕事なのに途中でやめたら意味がない。」という想いで、ここまで続けてきました。今でも一人前になった気持ちはありませんね。100%のパンはまだできていません。一生勉強です。終わりがないのがこの仕事の魅力でもあります。
平塚店のあと上大岡店で1年間、逗子店で6年間働きました。逗子店は小さな店で、私は2番手だったので、何でもやりました。仕込みをやりながらパンを焼いてという具合で、オールマイティの力がつきました。効率よく作業を進めるにはどうしたらいいかということも学びました。

 その後、本社の製品開発課に配属になりました。毎月12日に発売する新製品を開発する部署です。ここに移ってから、製パン業界のコンテストに出したり、会社から3ヵ月のフランス研修に行かせてもらったりと、自分なりにパン作りの勉強をしてきました。

 これまで数多くの商品を開発してきましたが、自信作の一つは「クイニャマン」です。このパンはフランスの味を再現したもので、生地にバターと砂糖を練り込んで焼いたシンプルな菓子パンです。食感を現地のものに近づけるのに苦心しました。

世界一になるまでの道のりをお聞かせ下さい・・・

 ベーカリー・ワールドカップの日本代表選考会には、前回も出ました。その時は「バケット&パン・スペシオ部門」の二次予選で落ちました。自分のレベルはまだまだ未熟なのだと思い知らされましたね。
 2009年に、「ヴィエノワズリー(菓子パン)部門」で再挑戦しました。予選に出たのは110名くらいでしょうか。日本代表に選ばれた時は信じられない気持でした。

 日本代表チームとしての最初の大会は、2011年5月のアジア地区予選でした。これを勝ち抜かないと世界大会に出られないのです。幸いなことに他の二人が神奈川県内にいるので、三人で集まって何十回も合宿をしました。会社(ポンパドウル)もバックアップ体制をとってくれましたし、「日本フランスパン友の会」の方々も合宿に参加してアドバイスしてくださいました。

 アジア地区予選大会は、前日1時間、当日8時間の時間が与えられ、その間に7品のパンを作りあげるという厳しいルールの下で戦います。これまで日本は、シード権が与えられていてアジア地区予選に出たことがなかったので、必ず勝たなければいけないプレッシャーがありました。

 大会は中国の広東省広州で開催されました。パンを焼く窯の蒸気が出なかったり、ホイロの温度が調節できなかったりというハプニングもあり、出来上がった作品は満足できませんでしたが、なんとか時間内に作品を仕上げ、日本代表は一位になりました。アジアを突破することが第一目標でしたので、肩の荷がおりました。

 フランス・パリ北部で開催される世界大会はアジア大会よりも厳しい条件になります。アジア大会の作品に加えて自由作品が2品目増え、さらに3人での共同作業のサンドイッチの製作も加わりました。粉と水など主な原材料は現地(フランス)のモノを使用することが義務付けられています。日本での合宿からフランスの小麦粉を使って練習してきました。世界大会前も現地で直前合宿をして、大会に臨みました。

 フランスでの世界大会は3日間で、1日4チームずつ登場します。日本代表チームの出番は最終日で、他のチームの作業を見られましたので運が良かったですね。3月6日朝4時に集合して、午前5時から大会がスタートしました。12時45分に何のトラブルなく規定時間内に、すべての作品を作り終えたときは涙が出そうでしたね。自分達3人が今までやってきて、これで終わったんだという満足感で結果のことは頭にありませんでした。

 

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 結果発表は翌日でした。表彰式で3位から発表されて、最後に「Le JAPON!」と言われた時は、言葉になりませんでした。チームメンバー・監督と抱き合って喜びを爆発させました。何度も合宿して3人で一緒にトレーニングしてきたことが思い出され目頭が熱くなりました。

 

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 日本代表チームは、チームワークの良さや技術や作業の正確さ、そして作品の出来栄えなどが高く評価されました。作業中の清潔さも評価ポイントとなります。ミキサーも窯も1台しかないブースの中で、お互いに譲り合いながら作業を行わないと規定時間内に作り上げることはできません。作業中にぶつかっていた国もあったようで、「和」を尊ぶ日本人の本領が発揮できたと思います。

 世界一になれたのは私達の力だけでなく、応援して下さった多くの方々のおかげだと思います。「日本フランスパン友の会」は、会社の壁を超えてサポートしてくださいましたし、会社(ポンパドウル)には、自主トレーニングをバックアップしていただきました。日本のパン業界全体の想いが、今回の結果につながったと思っています。

 

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世界一になった作品は食べれないのですか・・・

 世界大会で作った作品を、順次お店用に作り直して販売する予定になっています。第一弾として、クロワッサンとパン・オ・ショコラを考えています。

世界一になって周囲の反応はいかがですか・・・

 想像以上の反響で驚いています。テレビ番組でも大きく取り上げられましたし、新聞・ラジオの取材が目白押しです。凄いことをやったのだと感じています。

 

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佐々木さんの次の目標は何でしょうか・・・

 世界一に恥じないように自分の技術をあげていきたいですね。パンについての勉強も続けていきたいと思います。そしてこれまで応援してくれた会社(ポンパドウル)の売上につながることをしていきたいと思っています。(笑)若い人たちへの講習会も積極的にやっていこうと考えています。

 アジア大会・世界大会に出場してみて、日本のパンのレベルの高さを実感しました。
日本のパンは種類が多いです。フランスパン・イギリスパン、お惣菜のパンなどこんなに種類の多い国はないのではないでしょうか。これからも新しい美味しいパンの商品を創り出していきたいですね。

横浜について一言・・・

 横浜にはスマートなイメージを持っています。
みなとみらいの近代的なビルや海の公園など、どれをとっても洗練されたイメージですよね。
その横浜の元町商店街というハイセンスなところで働けるのは、私の誇りになっています。

 

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株式会社ポンパドウルHP http://www.pompadour.co.jp/

とても40歳台には見えないほどお若い佐々木さんでした。引っ込み思案だと言われましたが、淡々とお話になる語り口には引き込まれました。きっと想像を超える精進を重ねてこられたのでしょうが、それを感じさせない爽やかな方でした。「パン職人」の道をこれからも極めていかれることだと思います。
「横浜が生んだ世界一のパン職人」にお会いできてうれしいひと時でした。

(インタビュー・文:渡邊桃伯子)

 

4月 10 12

ブラとも 「本町通り」は日本の銀行発祥の地

by staff

 桜木町駅から神奈川県庁までの通りは「本町通り」と呼ばれています。桜木町駅から馬車道のそばにある弊社事務所まで歩く道々の風景が私のお気に入りの一つです。

 「本町通り」は日本の銀行発祥の地であり、横浜の金融界の中心でした。

 明治2年(1869年)、本町三丁目に横浜為替会社が設立されました。「為替会社」は「BANK(銀行)」の訳語であり、日本の近代銀行の始まりとされ、全国に8社設立されました。横浜為替会社は、開港間もない横浜で生糸商人の資金需要に応じて、日本の経済発展に重要な役割を果たしました。

 この通りには、横浜が日本の玄関として賑わっていた頃に建てられた銀行の建物がたくさん残っています。どの建物も歴史があり、当時の面影を感じさせてくれるものです。

 今回の<ともの現場>は、私の拙い写真で恐縮ですが、今も残っている銀行の建物を紹介いたします。

 桜木町駅から馬車道方向に歩いて行くと、バルコニーが突き出ているよう
な建物が見えます。

 これは、昭和4年(1929年)に第一銀行横浜支店(1980年以降は横浜銀行本店別館)として建てられた建物です。先端の半円形の部分は吹き抜けになってます。現在は、「ヨコハマ創造都市センター」として様々な芸術的なプロジェクトがここで開催されています。

  (クリックして拡大写真をご覧ください)

 バルコニーの前に立って、本町通りを眺めると右前方に、ヨーロッパの建物のような緑色のドームが見えます。この建物は明治37年(1904年)に横浜正金銀行本店として建設されました。横浜正金銀行(東京銀行の前身)は外国貿易を専門とする銀行でした。威風堂々とした建物から、生糸貿易で隆盛を誇っていた横浜の力を感じることができます。今は、神奈川県立博物館として使われています。

 

 県立博物館の隣は高層ビル(日本興亜馬車道ビル)ですが、入口部分が格式ある作りになっています。ここはかつて旧川崎銀行横浜支店でした。この建物は大正11年(1922年)に建てられたものです。隣の博物館と比べると、大正という時代のせいかシンプルで柔らかい感じがします。

 

 県立博物館の斜向かい、本町通りに面している場所には、旧富士銀行(安田銀行)横浜支店があります。この建物も昭和4年(1929年)に建てられたものです。太い柱が特徴のこの建物はイタリア・ルネッサンス建築の影響を受けたものと言われています。現在は、東京芸術大学の大学院の映像研究科の校舎として使われています。歴史的な建物で最新の映像を学ぶというのも素敵ですね。

 

 本町通りにはビルが立ち並んでいますが、その中でもひときわ目立つ高層マンションの入口に大きなドアがあります。このドアは、昭和9年(1934年)に建てられた、旧東京三菱銀行横浜中央支店の名残りです。このビルの一階部分は、当時の外観意匠を忠実に復元しています。

 

 このマンションの向かいにあるのが、横浜銀行協会です。昭和11年(1936年)に横浜銀行集会所として建てられたこの建物は、米軍に接収されていた歴史を持っています。私は玄関前の柱の模様(コロニアル風と言うようです)がお気に入りです。玄関の風景も歴史を感じさせます。

 

 本町通りに建築された銀行の歴史的建造物の中で、唯一現役なのが三井住友銀行横浜支店です。この建物は昭和6年(1951年)に建てられたものです。80年前に建てられたものとは感じられないくらい外観もきれいです。中に入ると天井の高さに驚かせられます。私は月に何度かこの銀行に行っているのですが、天井の装飾も素晴らしいです。この装飾は三井本館と同じタイプだそうです。

 

 横浜には外国の銀行も沢山ありました。その中で唯一残っている建物が旧露亜銀行横浜支店です。この建物は大正10年(1921年)建てられたとされています。関東大震災でも倒れなかった頑丈な作りでした。ここは今まで閉鎖されていましたが、きれいにリニューアルされて昨年秋にブライダル施設としてオープンしました。

 

 桜木町駅からブラブラ歩いても30分足らずで、これだけの歴史的な銀行建築を見ることができます。これから散策が楽しい季節になります。是非横浜にお出かけください。

参考サイト
横浜の歴史的な建物
ノスタルジックなモダン建造物を訪ねてみよう(神奈川県編)

 

4月 10 12

2012年4月 三ツ池だより 「春を楽しむ」

by staff
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 樹々が朝陽を受けてざわめいています。つい「おはよう」「ありがとう」と言ってしまいます。悩んで悩んで新しい年度を迎えたとしても、四月は開放の月、あらゆるものを許してスタートする時です。悩んだからこそ開放すると新しい考えが浮かび上がります。シャンパングラスの法則があります。ツリー型にグラスを重ねた時に、一番上のグラスにシャンパンを注ぐと、上から溢れて下のグラスに入っていきます。一方、一つのグラスがあって、新しいシャンパンを注ぎこむには、グラスを満杯でなく空けておかないと入らずに溢れてしまいます。今、自分は、どちらにいるのかによって新しい手のうちかたが変わってくるのです。

「春の小川」
 
春の小川はさらさらゆくよ
岸のすみれやれんげの花に
姿やさしくみめうるわしく
咲いているねとささやきながら

 まだ50年前には横浜のあちこちに、歌詞の景色が見られました。原発もありませんでした。当時はまだ家族のために働きにでた時代でありました。

 さて平成24年度はどんな年になっているのでしょう。「心の豊さ」を問われます。心の豊かさとは、自分の心が晴れやかなこと、それは文化的な生活の一面ももっています。一方で心が貧しいこととは、おれがおれがで自己中心的な生き方をしている状態です。どちらが多数を占めているかと言うと残念な結果がでるのでしょう。だからこそ発想を変えて生きて行きたいと思います。

 四月の俳句には次の句があります。

今日来ずば明日は散りなむ梅の花
良寛
菜の花や月は東に日は西に
蕪村
世の中は桜の花になりにけり
良寛

 こんな句を作りました。

鶯やまだ明けやらぬ空をさく
横須賀詢

 三つ池の里は鶯の声で明けて行く。どんな一日であろうと、決意を秘めた四月の朝でした。

鶯の声新しき墨をする
横須賀詢

 新しい紙を取り出し、書こうとしています。昨日までの計画案をもう一度見直し、己を励ましてでもいくように。ここにも鶯が鳴いています。失敗を恐れない確かな足取りを感じたいのです。

 東北大震災があって一年がたちます。復興計画も見えはじめました。一人ひとりが何をしなければいけないのか。小川を埋め、地下に水路を持っていき、道路を拡張して経済発展をしてきました。私達はビジネスのなかに人間の本来持っている機能の回復を盛り込む事が必要なことに気づきました。古代に文明が栄えた地域で、唯一中国だけが今また発展をとげようとしています。なぜここまで中国が繁栄してきたのでしょう。考えてみれば共産思想になっているとはいえ、私達の文化は、中国から朝鮮を経由してきていることが多いのです。中国の農村の回復が進めばさらなる大国になるはずです。日本に本来近いのだから日本は中国の復活を歓迎していいのかもしれません。しかし古の歴史にあるように受け入れるべきは受入れ、侵略的行為があれば、それは断固と否定し対処していく態度をもたなければいけないのです。

 春は朧なりすぐ去りゆきます。シャンパングラスを空にし、新しいシャンパンを注ぎ入れて行く。豊な心を育むには絶好の春を、楽しみながら切磋琢磨していく。そして疲れた心を自然のなかに時にはおいて、新しい時代を考えていきたいものです。

 

Photos

(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)

     
     

(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

4月 10 12

書評 「3・11その日を忘れない。(歴史上の大津波、未来への道しるべ)」 島影社 飯沼勇義著

by staff
 

 「歴史に学べば、避けられたはずの悲劇 東日本大震災は人災以外の何ものでもない」
 おどろくべきことが書かれている。冒頭から刺激的だ。「今回の津波で仙台市宮城野区蒲生地区にあった我家を失ってしまった。津波研究家の私が津波で被災するというのは、実はこの地に居を構える際予想した出来事であった。」飯沼氏はずっと予測し講演も行い、対策も提案されていたのである。私はこの本を震災に関連するフォーラムに参加したあとの、仙台駅構内で手にした。

 2000年間の仙台平野の歴史津波の一覧表を提示される。その間なんと12回の津波があったと一つ一つを検証される。その事実から出された提案がある。だれも見向きもしなったというものである。

提案1 各地域の集落の中央部に避難することのできる鉄筋コンクリート三階以上のビルを建設すること。
提案2 海岸防潮林のチェックは完全でしょうか・・・?
提案3 仙台平野を流れる中小河川の河口よりの海には、さまざまな津波防災上の見直しを徹底する。
提案4 仙台湾岸の太平洋岸すべての海岸線に、津波防災上の諸施設の設置とその取付が必要になってきます。
提案5 少なくとも河口から内陸へ5~6kmまでの河川流域の堤防には立ち上がり1m程の壁の建造が要請されます。

 「大震災を経験した今、私たちが何千年も同じことを繰り返し、そしてすぐに忘却してしまうという悲しむべき事実におきづきでしょう。」歴史的な津波研究の紹介が出来る氏だからこその提案だったのだ。しかしながら現実に津波がおこった。その日何がおこったかを体験として章を立てて書かれる。

 「周辺の人に津波がくるからすぐに逃げなさいと大声で叫ぶのだが、みなぼんやりしている。強い地震で散乱した家財を片付けている人、余震でうっかり動くとかえって危ないと思った人もいるらしい。しかたなく私は車で高台にある友人の家を目指した。遮断機の下りた踏切も強硬突破せざるを得なかった。」そして次のように報告される。

 「二晩、高台にある友人の家に世話になった。その後、避難所にむかうことになるが、仙台市が指定した避難所ではなく、最も安全だと思われた宮城野区の高砂市民センターに向った。」ここで二ヶ月以上暮らすことになるが、臨時の避難所だという理由で、食糧、毛布等は正規の避難所の後だと言われ、館長は随分と奮闘された。「1200名の命は私が守る」と避難してきた人々にマイクで伝えた。彼は必死で応援物資の調達にあたった。そこは命を大切にしてくれる日本一の避難所だった。「同じ被災者なのに差別とか優先順位があっていいのか」

 次の言葉に茫然とし、耳を傾けなければ行けないと感じている長いが引用する。「私達の生き方がいま、根本的に問われている。私達が自分たちの意識を根源から変えることが今求められている。この限界を背負った惑星の中で生きているという自覚を持たない限り、王侯貴族のような生活を何十億もの人間がすることなど不可能であるとはっきり自覚する必要があるのだ。しかし、それは貧しい生活をするということでは全くない。贅沢三昧ではなく、自然に対しできるかぎりつましく、負担をかけないような繊細な感受性と、配慮に満ちた精神性をもつ必要性に迫られているのだ。どう考えても、それ以外に人類が選択できる道はないのである。」

 飯沼さんは、東北はまったく新たに最出発するだろうという。その精神を導くものは東北の詩人宮沢賢治の理想ではないかと。そして今もとめられているいのは、私達もまた、宮沢賢治のようにつましく、真摯に、ひたむきに、大地に頭をたれ、天の川の輝きに目をやり、一輪の花に無限の世界を想い、一匹の鳥にも愛を注ぐ、そういう生き方をするということではないだろうか、と語る。研究成果が生かされなかったことよりも、力になれなかった無念さが溢れている。ただこの震災に立ち向かう若い人たちに目を見張り、絶対に乗り切って行けるものを感じておられる。

(文:横須賀 健治)

 

4月 10 12

第6回横浜売れるモノづくり研究会セミナーを開催いたしました

by staff

第6回横浜売れるモノづくり研究会セミナーを開催いたしました

 2年目にして初めて横浜を離れて、川崎産業振興会館の会議室で開催しました。参加者も50名を超え、会を重ねるごとに盛況になってきています。

 研究会セミナーでは、売れるモノづくりとは何か、またそれを効果的に売るにはどのような方法があるのか、製造業の現場担当者の事例発表を通して、参加者全員で議論しました。

 基調講演は、当研究会のコメンテーターをやっていただいている、デジタルハリウッド大学院大学専任教授の松本先生に 「公開伝授!ビジネスでもプライベートでも役立つ図解思考の実践だ」 というテーマで、通常は一日かけて行う研修を60分に凝縮していただきました。あなたの製品の強みは?等様々な質問を記入シートに書きこんだ参加者からは、記入シートをそのまま、自社の会社案内に使いたいわ・・と好評でした。

 事例研究は、昨年町工場の職人集団として各メディアに登場した「チーム等々力」の代表の堀端さん(有限会社堀端製作所)に、日本初長周期地震動にも対応できる「免震テーブルMT-II型」の誕生について、お話していただきました。動画を使った製品説明は、町工場の技術力の高さを感じさせました。

 「テクニカルショウヨコハマ2012」で一番の人気ブースだった「第一回全日本製造業コマ大戦」について、心技隊隊長の緑川さん(株式会社ミナロ)に大会の模様を報告していただきました。「コマ大戦」の地方大会も開催されるということで、今後の発展が期待できます。

 5人の方々がミニプレゼンを行いました。千葉県柏市から牛刀を持参されたプレゼンテータもいらっしゃいました。

 川崎産業振興会館2階のカフェで開催された懇親会では、ミニプレゼンをされた企業から参加者にプレゼントもあったりして、参加者それぞれが交流を深めていました。

 次回の研究会セミナーは5月22日(火)を予定しております

第六回研究会セミナーの模様は下記をご覧ください。
(議事録も公開しています)
https://www.supportyou.jp/monoken/seminar/index.html

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

4月 10 12

東日本大震災・被災者に「本当に必要な」支援を! 株式会社エランビタールの取り組み

by staff

 あの3.11東日本大震災から、早いもので1年が過ぎました。遅々とした歩みながら被災地は確実に復興しつつあります。仮設住宅での被災者の新しい生活も、スタートして数ヵ月が経とうとしています。しかし、この新しい生活にはいくつかの難問が待ち受けていました。

写真家蓮井幹生さん
写真家 蓮井幹生さん

 

 写真家蓮井幹生さんは、震災直後から数十回も現地入してボランティア活動をしています。

 現地の人と交流するうちに、蓮井さんは仮設住宅が直面するいくつかの問題を知るようになりました。

蓮井幹生さんHP http://blog.mhasui.com/?pid=1

株式会社エランビタールHPhttp://www.elavita.jp/index.htm

 

マスコミでは報道されない仮設住宅の真実

 実は仮設住宅に移住してから「孤独死」が非常に増えています。マスコミでもたまに報道されますが、現実はそれをはるかに上回る数だそうです。

 避難所の時はお互い声を掛け合い、支援物資を分け合って不自由ながらも心を通わせて過ごしていました。でも、仮設住宅には自分しかいません。仕事もなく、将来の見通しが立たないまま、引きこもりになる人が多いのです。避難所のリーダー格の人がお茶会やお食事会、趣味の集いなど、少しでも皆が顔を合せる機会を作り、「孤独死」をなくそうと努力しています。

 住み心地の悪さ、不便さもはんぱではありません。寒冷地なのに仮設住宅の建材(韓国製)には断熱材が使われていないのです!

 俄かづくりの水道管も外に剥き出しのまま配管されています。そのため、凍結で破裂して夜になっても水が使えないケースが続出しています。

 そんな仮設住宅に嫌気がさして避難所に戻ったり、別の場所へ自主避難する人も出ているのが現状です。

  (クリックして拡大写真をご覧ください)


3月中旬の被災地(福島県)。
まだ雪深く、冷えが厳しい。


水道屋さん、我家を解凍お願いします

 

知られざる被災地の水事情

(クリックして拡大写真をご覧ください)

 

 さらに、水道水のまずさは言語を絶しています。
東京の水道水の20倍もの塩素が投入されているのです!

東京都目黒区の水道水 0.1mg/L
宮城県雄勝町仮設住宅の水道水 2.0mg/L

 ちなみにプールの水質基準での塩素濃度は0.4mg/Lです
(1.0mg/Lが上限値)。

 仮設住宅に住む人々は、私たちが「塩素が濃いな」と思う、あのプールの水よりも5倍も濃い塩素濃度の水で、毎日顔を洗い、ご飯を炊き、お茶を飲んでいるのです。もともと水の良い地域の人々にとって、これがどんなに辛く、ストレスになっているか、想像に難くありません。

 蓮井さんはそんな被災地のひとつ、宮城県雄勝町にボトル用水改質器具「エランビタール」を持っていきました。

 「こういうのが欲しかったんです!」
住民の皆さんに喜ばれたのは言うまでもありません。

 ボトルに入れた水道水に「エランビタール」を浸しておくだけで、あのまずい水道水の臭いが取れ、味もまろやかになって飲みやすくなるのですから。

 なぜ、「エランビタール」は被災地でそんなに歓迎されたのでしょう。それには訳がありました。

 実は震災直後、あるポット型浄水器メーカーが自社製品を無料で避難所に配ったのです。最初は喜んだ被災者も、カートリッジは有料と聞き、使わなくなりました。被災地にカートリッジを売っているお店なんかありません。命からがら逃げてきた被災者のなかには買うお金もない人も大勢います。膨大なガレキのそばで暮らしている人々にとって、使い終わればゴミになってしまうカートリッジには心理的な抵抗があったとも言われています。

  (クリックして拡大写真をご覧ください)

 それではどういう器具が被災地に適しているのでしょうか。地元の人々の声をまとめてみました。

仮設住宅の水を改善するための条件

1.塩素臭を軽減すること
2.カートリッジやフィルター(将来のゴミ)がいらないこと
3.長持ちすること(買い替えの経済的負担が少ないこと)
4.水の改質効果が長続きすること

 浄水型ポットの苦い経験から、被災地では上のような条件に合致する製品を求めていたのです。蓮井さんが持っていった「エランビタール」はまさにドンピシャの製品でした。

エランビタールの特徴

1.塩素臭を軽減する
2.カートリッジなし
3.長持ちする(2年以上)
4.水の改質効果が長続きする

 

被災者が「本当に必要な支援」を!

 同じものがダブったり、ピントがずれた品物だったり、と、現地の実情を把握していないと血の通った支援はなかなかできません。

 「エランビタール」を使って喜ぶ被災者を見て、蓮井さんは「これだ!」とひらめきました。

 「『エランビタール』なら、今仮設に住む人たちが一番困っている水の問題を解決できる。」そう思った蓮井さんは弊社に来られ、息長くこの「エランビタール支援活動」を続けるために是非協力をしてほしいと、頭を下げられたのです。

 私たちは蓮井さんの熱い想いと被災地の水のひどさに心を動かされ、できる限り協力を惜しまないことをお約束しました。

 そこで、蓮井さんは現地のNPO(DoTankみやぎ地域政策研究行動会議)と協力して、仮設住宅の居住者向けに「美味しいお水の支援キャンペーン」を立ち上げたのです。

目標 まずは、仮設住宅2000戸に、「エランビタール」を使って頂くこと
(将来的にはさらに増やしていく)

しくみ (1) 一口1,000円で募金を集める
(2) 蓮井・NPOが募金を取りまとめ、製品の購入・配布を担当する
(3) 株式会社エランビタールが製品を原価で提供する

 お蔭さまで現在エランビタール300個分の募金が集まっています。準備が整い次第、弊社も発送に取り掛ります。

 しかし、まだまだ目標には届きません。「よこはまNOW」をご覧の皆様にも(一口でも結構ですから)ご協力頂ければ大変うれしく存じます。
どうかご協力よろしくお願いいたします。

募金の振込先

七十七(しちじゅうしち)銀行 石巻支店
名義  特定非営利活動法人 Do Tankみやぎ地域政策研究行動会議
口座番号  普通 9247289

このキャンペーンに関するリンク先

株式会社エランビタールHPhttp://www.elavita.jp/index.htm

以上
株式会社エランビタール代表取締役  田尻成美

 

4月 10 12

第5回 どあっぷ「楽しく考えよう『シチズンシップ』わーくしょっぷ」やりました!

by staff

「横浜の県民サポートセンターにゴミ怪獣現る!」

 2012年3月11日(日)、NPO法人『ど・あっぷ!』は、神奈川県民サポートセンターで開催されている「市民活動フェア」において、「楽しく考えよう『シチズンシップ』わーくしょっぷ」を行いました。大人から子どもまで、みんなが楽しみながらシチズンシップについて考えるきっかけになればと思い、このワークショップをつくりました。今回はその内容について、実施報告とともにご紹介させていただきます。

 

「楽しく考えよう『シチズンシップ』わーくしょっぷ」

 

 今回のワークショップの構成は第1部と第2部に分かれています。第1部は馬場隊長による、ちょっと真面目なプレゼンテーション。まずは現代の社会には一体どんな問題があるのだろう?ちょっとしたクイズ形式で提示していきます。「東京ドームが3日間で一杯になる」ってなんのこと?実は日本中のゴミを集めると、たった3日で東京ドームを一杯にしてしまうということ。私たちの周りには、日ごろなんとなく知っているけど、実はよく知らない・・・。そんな問題がきっとたくさんあるかと思います。

 では、その問題に対して、自分はどうする?どう行動する?何もできない?本当にそうかな…?

 いいえ、そんなことはありません。どんなに小さなことでもいいんです。「あなただからこそできること」がきっとなにかあるはずです。そのなにかを、参考までにいくつかの事例を紹介した後に、皆さんに考えていただきます。そして、「私は明日から○○します」カードに記入していただきます。

 実は、ここで書いていただく「私は明日から○○します」カードが、第2部の紙芝居で重要になってくるのです…!

「3D紙芝居の始まりはじまり~!」

 さぁ、ここから『ど・あっぷ!』らしさがより発揮される第2部、3D紙芝居の始まりはじまり~。「ここはどあっぷタウン。どあっぷタウンの人々はみんなとってもいい人たちです。のぼるくんも、花子さんも、太郎さんも…」しかし、みんなのちょっとした「ま、いっか~」という人任せな気持ちがどんどん積み重なっていくと、いつしか…。

 

「いよいよこのワークショップの目玉です!」

 

 みんなの「ま、いっか~」がどんどん積み重なっていくと、いつしかそれが巨大な問題となってしまうことも…。その象徴として突如現れたのがゴミ怪獣!手下であるゴミレンジャー達と暴れだしてしまいます。実際にゴミ怪獣を目の前で見ると、かなりの迫力がありますよ…!

「みんなの力が必要だ!」

 ゴミ怪獣は、みんなの「なにか自分にできることをやっていこう!」という気持ちに弱いのです。そこで、第1部でみなさんに書いていただいた「私は明日から○○します」カードを読み上げると、ゴミ怪獣はみるみる小さくなっていきます。ゴミレンジャーも退散し、あなたの「なにか自分にできることをやっていこう!」という気持ちによって、どあっぷタウンは救われました。

「社会のために自分でできることを何かやろう」

 東日本大震災から1年。この未曽有の大災害に胸を痛め、「自分にはいったい何ができるのだろうか?」と、それぞれ多くの人々が自分自身に問いかけた1年であったのではないかと思います。そして、一人ひとりがその気持ちをいつまでも忘れずに、自分にできることを継続的に実行していけば、それはきっといつしか大きな力となり、社会をより良い方向へ動かす大きなパワーとなるのではないかと思います。その気持ちこそがまさにシチズンシップマインドとも言えるかもしれません。

 

 今回のワークショップ、ご参加いただいた方々から「楽しかった!」という声を多くいただくことができました。第2部では特に小学生や中学生の皆さんの心をつかむこと間違いなし!!ぜひとも違う機会でまた開催していきたいです。参加して下さった皆様、本当にありがとうございました!今回参加できなかった皆様、『ど・あっぷ!』はこれからも市民度を上げるための楽しいイベントを開催していく予定です。次の機会に、ぜひともお会いできることを楽しみにしております!

 

4月 10 12

もっと読みたい!(その2)

by staff

 私が気に入った本を繰り返し読む理由を考えてみました。

 まず、「本」でないと得られない達成感が好きです。

 映画ももちろん好きだし、ドラマも見ます。でも、本を読むあの面倒くささがないと、達成感は味わえません。字を目で追う、ページを捲る。読めない字もある。意味が分からない言葉もある。理解できなくてゆっくり読んだり、間違えて同じ行をまた読んだり。手が滑ってページを閉じてしまうことも。

 でも、1ページずつ進んで何日か掛けて読み終わったとき、何かを深く感じることができると心に「エリア」ができます。「その本エリア」です。そこはもうその本でなければ埋めることができない。やっかいなことに、一旦埋まればそれでいいかというと、日が経つと薄まってくる。エリアには穴だけが残る。だからまた読みたくなるんです。埋めたいから。

 でも本当に必要でなかった場合、その穴は小さくなっていってそのうち消えます。

 この感覚、実は本だけではないのです。

 何かを、誰かを、好きになってググっと付き合い、そこに深く感じるものができたとき、私の心に「エリア」ができます。そしてそこもやっぱり、その人でないと埋めることはできません。薄まったり、小さくなったりもします。エリアが確実に固定されている少人数が私の大切な人たちです。

 私にとって、本と人は似ているかもしれません。学ばせてくれて、気づかせてくれる。

 これからもよろしく。本たち。

Pick Up-1 村上龍【69 – sixty nine -】-集英社文庫

 1969年の長崎県佐世保市を舞台に村上龍自身の実体験を基にした青春小説。2004年に映画化もされた。

【あらすじ】

 1969年、東京大学は入試を中止した。ビートルズのメロディーが流れ、ローリングストーンズも最高のシングルを発表し、ヒッピーが愛と平和を訴えていた。多くの若者たちが何かをし始め、何かを変えようとしていた時代。

 無垢でやんちゃで爆発しそうなエネルギーにあふれた、当時高校3年生の作者村上龍が1969年に実際に起こした事件「佐世保北高バリケード封鎖事件」を中心にした作品である。

 

 村上龍といえば、そのえげつない、グロテスクな表現と暗さが私は好きなのだけれど、この作品はかなり異質です。まず、明るい。村上龍なのに。

 作者自身もあとがきの中で、「これは楽しい小説である。こんなに楽しい小説を書くことはこの先もうないだろうと思いながら書いた」と書いているほど。

 舞台は、まだ全共闘時代が終わらない1969年の佐世保。主人公ケンは大人になる不安と焦りに振り回されながらも、「女の子にモテたい!」一心で学生運動のまねごとをはじめます。それもお目当ての女の子の発した言葉を勝手に妄想・解釈して、高校のバリケード封鎖をしたり、見つかって停学になったり、ロックと自主制作映画のフェスティバルを計画したり。いつもの毒を含んだ比喩や言い回しも、この作品の中だと大人に対する反抗心として受け取れて、これから大人になる男の子の強がりみたいでほほえましい。悩んで、もがいて、わめいても答えが分からず何もできないのに、「モテたい!」という思いには突き動かされるわけです。その単純な仕組みが、いい。

 初デートの映画に知ったかぶりをしてカポーティ原作の「冷血」を選んでしまい、その惨殺シーンに気持ち悪くなって彼女お手製のお弁当が食べられないところも、また滑稽でいいです。失敗して恥をかいて、恥をかいてないフリをして。誰もが思い当たるこの時期特有の痛々しさがこれほど心地よく響いてくるのは、この作品以外で味わったことがないかも。

 普段の村上龍作品は「分からないなら読むな」とでも言われているような威圧的な印象があるけれど、「69」だけは、「分かるなら読んでみて」って誘われる感覚になるのも魅力。読んでみて「うん、分かる、分かる」ってうなずいてしまったら、もう物語に入り込んでしまっている証拠。そこには必ず自分のかけらが見つけられるはずですよ。

Pick Up-2 フィッツジェラルド【グレート・ギャツビー】(野崎孝-訳)-新潮文庫

アメリカの作家F・スコット・フィッツジェラルドが執筆し1925年に出版された小説。フィッツジェラルドの代表作であると同時に、現在ではアメリカ文学を代表する作品の一つであると評価されいる。

【あらすじ】

 豪奢な邸宅に住み、絢爛たる栄華に生きる謎の男ギャツビーの胸の中には、一途に愛情を捧げ、そして失った恋人デイズィを取り戻そうとする異常な執念が育まれていた…。

 第一次大戦後のニューヨーク郊外を舞台に、狂おしいまでにひたむきな情熱に駆られた男の悲劇的な生涯を描いて、滅びゆくものの美しさと、青春の光と影が漂う憂愁の世界をはなやかに謳いあげる。

 

 1920年代アメリカ、富裕階級が集うニューヨーク郊外で、華々しい生活を送る男・ギャツビー。彼の邸宅で夜毎繰り広げられる豪華なパーティー。実はギャツビー自身とはなんのかかわりもない人たちで溢れかえっているわけですが、ではなぜ、開かれているのか…。ギャツビーのかつての恋人との再会、またその財力によって失われた過去の時間と愛を取り戻そうとする物語が、彼の隣に住むニック・キャラウェイの目線で淡々と語られていきます。

 カタカナ名の登場人物が多すぎて内容が分かりにくくなってしまうのが洋書によくある難点ですが、そんな問題を感じさせないのが、まず好きなところ。主要なギャツビー、ニック、デイズィ、トム、の背景描写が繊細で魅力的。登場人物の多さがかえってスケールの大きさに一役買っています。

 ギャツビーがかつての恋人(デイズィ)と再会するための狂おしいまでのひたむきな情熱に感嘆の声をもらしつつ、ニックの冷静な視線にも共感できる。トムの放埓ぶりにあきれながらも、1920年代の財力というものにワクワクする。デイズィの揺れ動く様に苛立ちながらも、求められる美しさを好きにならずにいられない。そうこの物語は、主人公以外の視点からの読み方もできるのです。

 そして、かつての恋人同士が再会したあとの迷いやとまどい、いまある生活との折り合い、周りの状況も視点を変えて楽しめる。

 全編に流れる純粋な想いの終わらせ方、栄えた者の終わり方、残されたものの生き方、生きにくさの結論はもちろん人それぞれで、結論が必要なのかさえも読者に委ねた終わり方になっています。そこが繰り返し読みたくなるしかけになっていて、好きになると何度も読む私としては嬉しい。

 フィッツジェラルドの書籍は、今ではアメリカの高校で教科書として用いられていますが、彼は1920年代アメリカのいわゆる「ジャズ・エイジ」や「フラッパー」の象徴としてその華やかな私生活が土台となっている物語が多いのが特徴です。この「グレート・ギャツビー」もフィッツジェラルドやその妻ゼルダが随所でモデルになっていたり、物語の登場人物だけではなく、フィッツジェラルド自身の視点にもなれるのが、ファンには堪りません。

( 文・イラスト・写真:(株)とらべるわん いいづかあや )

いいづかあや(飯塚 文) プロフィール

1974年、横浜生まれ横浜育ち。私立山手学院高等学校卒業後、文教大学短期大学部文芸科卒業。
父親の経営する(株)とらべるわんで幼いころから「旅」「食」に携わる。
学生時代より同社のチラシ・DM・ホームページ等の制作をする。デザイン事務所・建設会社などの職業を経て現在は(株)とらべるわんのWEB・DTP制作責任者を務める。また、「ボディアートGlitta」「ネイルサロンMINORITY」ではデザイナーとしても活動中。

(株)とらべるわん http://www.travel1.co.jp
ネイルサロンMINORITY http://www.minority-minority.com/
ボディアートGlitta http://www.minority-minority.com/glitta/index.html
いいづかあやTwitter http://twitter.com/zuka_aya
いいづかあやFacebook http://www.facebook.com/iizukaaya

 

4月 10 12

東海道保土ケ谷宿を和菓子で表現!

by staff

 

菓匠 栗山

 

 境木地蔵尊から徒歩3分の『菓匠 栗山』は、境木のおじぞうさんにちなんだ「おじぞうさんもなか」をはじめ「ごん太餅」「品濃一里塚」など東海道保土ケ谷宿を和菓子で表現した商品が盛り沢山。

 その他、巧の技を施した季節の上生菓子なども多数あり、また、今やすっかり地域でお馴染みとなった和菓子で作るクリスマスケーキは珍しいばかりでなく、卵や乳製品のアレルギーを持つ子どもでも安心して食べられると、大人気です。

 境木の地名は、文字通り「境に立てられた木」。境とは、武蔵国と相模国の国境。それを示す一本の杭が立てられていたことに由来しています。
 また、この地蔵尊の由緒もとてもユニークです。

 昔々、腰越の漁師の夢枕にある晩、浜に打ち上げられたおじぞうさんが現れ、「私を江戸に連れて行って欲しい。途中で動かなくなったらそこに置いていって構わない」と言いました。慌てて飛び起き、浜に急ぐと夢は誠。漁師は是非も無く、牛車におじぞうさんを乗せ、仲間と一緒に江戸に向かいました。
 ある村まで来ると、牛車は突然動かなくなりました。お告げの通り、そこにおじぞうさんを置き、漁師たちは腰越へと帰りました。
 今度は、困ってしまったのは村人たち。ある日、突然、自分達の村におじぞうさんが置かれているのです。どうすれば

 

六角詰め合わせ

良いか困り果てていると、おじぞうさんは「どんな粗末なものでも良い。ここにお堂を立ててほしい。願いを聞いてくれれば、この村を栄えさせる。」と言いました。村人たちは是非も無く、村にお堂を立てました。
 その村こそ、武蔵国と相模国の境にある境木でした。境木は、権太坂と焼餅坂(やきもちざか)の間にあり、かつては、旅人達にとって、宿場に辿り着くために急ぎ越えなくては行けない場所でしたが、お堂ができて以来、お休み処として茶屋が繁盛するようになり、多くの旅人で賑わうようになりました。また、このおじぞうさんは商売繁盛や金運のご利益があると言われ、多くの参拝客が訪れるようになりました。

 栗山さんは、この由緒を地域の宝として、とても大切にしています。参拝はもちろん、地蔵尊のお掃除をしたり、小中学校に保土ケ谷宿やおじぞうさんのお話をしに行くなど、地元の宝を守り伝え続けています。
 毎年4月8日に境木地蔵尊で行われる「花まつり」(お釈迦様の生誕祝い)には、保土ケ谷宿名物会も参加させていただいています。
 このような地道な活動を長い間、続けてきた今、菓匠 栗山は、各メディアが保土ケ谷宿を取り上げる際には欠かせない存在となっています。

 毎月1回、行なっている保土ケ谷駅構内での出店も、それを楽しみにしている多くのお客さんで賑わっています。
 地域への愛情が詰まった銘菓を是非、お試しください。

【お問い合わせ】 菓匠 栗山 保土ケ谷区境木本町1-33 Tel.045-713-2515
 http://www.wagashi-kuriyama.co.jp

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

4月 10 12

佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第4話『桜道』

by staff

『sakura』 作:佐々木彬文

 

 今年も何もなかったかの様に桜が咲いてくれます。「毎年、時が繰り返される事が平和と申すのでは?!」と安堵いたします。

 横浜にも桜の名所は多々在ります。三渓園・根岸公園・桜木町・外人墓地・掃部山等々それらは皆様が良く御存じの名所です。ここは私ですから普通の御案内では有りません。さぁ、ご一緒に「桜道」を散歩しましょう!

桜木町から3番乗り場21番(市電保存館行き)に乗って下さい。約20分で柏葉(柏葉橋では有りません)のバス停に到着!

 バスを降りた前の横断歩道を渡り路地の石段を上って行くと、桜の大きな古木が崖下に見えてきます。『永代桜』とでも呼べばと思われる程の妖艶な

桜の木です。毎年、七分咲きから満開少し前の桜の木から醸し出される妖艶な空気は、日の出前から9時頃までしか楽しめません。そしてこの不思議な時間は3日間ぐらいしか見る事が出来ません。朝日の上る前 周りの空気の透明感・・・不思議な安堵感が有ります。

 さて、其の儘坂を上がり農林省の研究センターの裏を右手に進んで下さい。100m程進みますと今度は見上げる桜です。風が吹くと桜吹雪が楽しめます。辺り一面桜色に染まる瞬間です。

  (クリックして拡大写真をご覧ください)

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 そのまま進み元町下の交差点からの上り坂に出くわします、名前は『桜道』!共立女学校のテニスコートの壁沿いに左を見ますと五岐路があります(五岐路の一番右手)山手のバス道の石畳を楽しみながらそぞろ歩いて下さい。

 この辺りは個人宅のお庭にも立派な桜の木があります。それらを愛でながら左手に外交官の家の案内板が見えて来ますが今日は立ち寄りたいのを「我慢!」「我慢!」。

 真直ぐ行きますと山手カソリック教会が見えてきます。その先がフェリス女学院。教会の桜もフェリスの桜も見事な桜が迎えてくれると思います。

 バス道を辿り左手に日本郵船の山手倶楽部の桜。その先にベーリック・ホール・エリスマン邸と続きます。

 そろそろ喉が渇いてきたのでは?エリスマン邸の1階喫茶室の窓際の席に座って下さい。外人墓地の谷を見下ろしながら桜の景色が楽しめます。

 エリスマン邸を出ましたら桜のアーケードです。斜め迎えの234番館に寄って見ましょう。2階の窓からこの桜のアーケードを見下すのも楽しいです。隣の山手聖公会の教会の桜も見事!此処で困って下さい。外人墓地の左手の階段を下って元町に出る道も、途中元町公園の桜を見ながら・・・しかし、外人墓地正門の右手の道を進みましても、横浜の気象台の桜を愛でながら・・・どちらも『うちきパン』(http://www.uchikipan.com/)の前に出ます。どちらを選んで頂いても御損はさせませんが・・・『悩んで下さい!』。

 元町商店街でショッピングを楽しんでも良いですが、今日は商店街を右手に進み、元町中華街駅前のバス停から観光市バス『赤い靴』(100円)でワールドポータースへ行きましょう!

  (クリックして拡大写真をご覧ください)

 

 ワールドポータース1階の赤レンガ倉庫寄りの角に『ワインブティック伏見』(http://winecom.jp/)が在ります。

 気に入ったワインを買い、グラスを借りてお店の前のテーブルでゆっくりと今日の思い出をお話しなさるのが通の遊び方でしょうか?!

 ワインで頬が桜色になったところで、『伏見』の前のナビオスから汽車道を桜木町駅にぶらり歩きはいかがでしょう? この道も桜がいっぱいです。汽車道では水面に目を向ければ花筏も!

 「お疲れ様でした。」 私と一緒に歩いた「桜道」はいかがでしたか? 交通費310円のコースでした。

和食を世界遺産の無形文化財に申請しようとの運動が始まりました

 ちょうどタイミング良く岩谷学園にて『茶懐石を楽しむ』という会を開きます。毎回1~2品のお調理を皆さんに体験して頂きながら、懐石を頂く作法を勉強する教室です。4月25日から月に一回のペースで始まります。 皆様奮ってご参加ください。楽しいですよ!先生が僕ですから!(笑)

  (クリックして拡大写真をご覧ください)

岩谷学園「粋生倶楽部」 「茶懐石料理を楽しむ」~茶懐石料理を笑顔で・造って・味わって~

第一回 4月25日(水)11:00~13:00 「鴨の射込みロースと山芋の板摺り」の八寸2品
第二回 5月23日(水)11:00~13:00 「峰岡豆腐と椀物・小鉢」
第三回 6月27日(水)11:00~13:00 「鯛の酒〆と粽寿司」と(蘇民将来孫也のお話)、飾り付け
参加費:1回毎 一般3,700円  会員3,200円(会員は全3回で9,000とお得です)

粋生倶楽部の詳細は:http://www.ikiiki-club.jp/
http://yokohama-now.jp/home/?p=4053

佐々木彬文プロフィール 日本画家(彬文会主宰)
茶道講師(裏千家 佐々木宗秀)
クラッシックギター演奏者

文・絵・写真:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)高野慈子

 

4月 10 12

ファルツ地域名門御三家の筆頭バッサーマン博士家

by staff

ファルツ地域名門御三家の筆頭バッサーマン博士家


バッサーマン・ヨルダン博士家のエチケット

 広大なハールト丘陵の裾野に広がるファルツ地域(Pfalz)は、ドイツワイン生産地の25%を占める24,000haの大生産地です。その南ドイツの肥沃な大地の中央をドイツワイン街道が横に貫いています。その中央に位置する街、ダイデスハイム(Deidesheim)周辺ではファルツ地域の高品質ワインが産出する多くの銘園があります。その銘園を所有する3Bと呼ばれる三つの名門醸造家があります。3Bとは、バッサーマン・ヨルダン博士家(Dr.von Bassermann-Jordan)、ビュルクリン・ヴォルフ博士家(Dr.Bürklin-Wolf)、ブール長官家(Reichsrat von Buhl)の三家で、ともにイニシャルがBで始まるため、3Bと呼ばれています。その3Bの筆頭が格式高いバッサーマン博士家で、ダイデスハイム(Deidesheim)、フォルスト(Forst)、ルッパーツベルグ(Ruppertsberg)に50haの銘園を所有しています。土壌はローム状砂地、風化粘板岩、黄土等複雑で混成され、快いエレガントなワインから、力強い生き生きした華麗なワインまで、高品質のワインを造りだしています。

 バッサーマン家の歴史は1718年、シュパイヤー大司教の領地を引き継ぎ葡萄栽培をおこなってきました。一族のルードヴィッヒ・A・ヨルダン(Ludwig A. Jordan)は帝国議会議員を務め、フリードリッヒ・フォン・バッサーマン・ヨルダン(Friedrich von Bassermann-Jordan)はワインの歴史家として国際的に認められています。彼の著書『葡萄農業の歴史』は、現在も権威ある参考文献として葡萄農業に大きな影響を与えられてきました。また醸造所の中にはワインの資料館があり、古代ローマの遺品の他に、世界で最も古いといわれるローマ時代のワインが保管されています。

(文・写真:ワインブティック伏見)

 

ワインブティック伏見

〒232-0001 横浜市中区新港2-2-1 横浜ワールドポーターズ1F
Tel/Fax 045(222)2112

HP: http://winecom.jp
blog: http://wine1999.blog121.fc2.com
E-mail: boutique-fushimi@winecom.jp

 

 

4月 10 12

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか

by staff

♪恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:壬生忠見(みぶ の ただみ)

 現代語訳・・・恋をしていると言う僕の噂が もう立ってしまった。誰にも知られず密かに思い始めたばかりなのに・嬉しいはずの恋が壊れてしまいそうだ。

 この歌は先月ご紹介させていただいた平兼盛の歌と「天暦御時歌合わせ」の際に競いあい、不運にも負けてしまった歌なのですが、今でも、こちらの歌の方が好きだと言う方がいて、本当に甲乙つけがたい名歌とされています。作者の壬生忠見は下級官人で少年のころから歌作りの才能を示しました。家が貧しくてある時、公の席に歌いに来いと招かれて、乗り物がないため行く事が出来ずに断ったところ、竹馬に乗って来いと言われ、こんな歌を作っています。 ”竹馬は ふしかげにして いと弱し いま夕影に 乗りて参らん”

 物理的にお金がなくても、その豊かな感性は時の村上天皇にも愛され、官士として仕えた後には度々歌を取り交わしていたと言われています。この時の歌合わせも、只の貧乏地方官だった彼に歌の堪能を持って勅命で内裏に召されました。彼は感激して任地で着ているそのままの格好「田舎の装束のままにて 柿の小袴衣を今に持ちて肩に懸く」で上京し、この歌を詠んだとされています。そして判者達にも甲乙つけがたく、引き分けとなるところだったのですが、ふと天皇様が「しのぶれど・・・」と兼盛のうたをつぶやいていたのを聞き、軍配が平兼盛に上がってしまいました。そしてその後にこんなエピソードが。

 競者達はそれぞれ別の部屋で勝敗の知らせを待っていました。平兼盛はその朝早くから衣冠装束に身を正し陣内に座っていましたが、勝ったと聞くや、喜びを抑えきれずそのまま後の勝負は聞かずに退出しました。一方他の部屋で判定を待っていた忠見は、晴れがましい歌合わせへの招聘に、その名誉に喜びつつも、自分自身は勝ちを信じていたのでしょう。負けたと聞くやショックを受けて、その後食事も喉を通らずに(不食の病になり)ついに死んでしまったということでした。じっさいには彼はこの歌わせの後も長く生きて他の歌も残していますが、落胆のあまりに死んでしまった。というエピソードがまことしとやかに語り伝えられて二人の名前と歌は永く人々の口に上り記憶に残されてゆきました。このエピソードは「沙石集」に記されているそうですが、「沙石集」の編者はどんな思いでこのエピソードを残したのでしょう。私は田舎者の恰好で堂々とはせ参じた壬生只見の人間性に魅かれますが、現代国語の感性で読むと、しのぶれど・・の方がスムーズに理解できました。この言葉の普遍性って大きいかもしれません。貴方はいかがですか? (早苗ネネ♪)

毎月第2金曜日 4月13日
6時30分~ 3回ステージ ¥5500ワンドリンク付き 入れ替えはありません。
出演:早苗ネネ パリ祭出演の歌手の方々2~3名。
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

4月 10 12

ヨコハマ・ファニー・ドッグス・クラブ(その2)

by staff
ヨコハマ・ファニー・ドッグス・クラブ  

街角でみかけたワンチャン。みんな個性があって面白いですね。ワンチャンが主役のヨコハマ・ファニー・ドッグス・クラブ。生来の愛犬家工藤文子さんが街でみかけたなにげないワンチャンをスナップ。第二弾です。

入江町公園でお散歩中のJB

僕はオスのキング!ジェイビーは僕の奥さん。あーあ~。。。のどかで幸せだな~。。。

私はハッピー。。フムフムフムフム。今、幸せについて考察中、何てね(^^)

僕は迷い犬であと数日で天国に行く運命を救われた、超ハッピーな黒のラブです。Wありがとう!W

(写真・文: 工藤 文子

 

4月 10 12

創業は昭和4年。伝統の味を守りながらも新しい味に挑戦する
株式会社美濃屋あられ製造本舗 取締役 小森 健太郎さん

by staff

 「あられ」と「おかき」はもち米です。「あられ」をキーワードに横浜を世界に紹介したいと思います。米と醤油にこだわりを持ち続け、伝統の味を守りながらも新しい味に挑戦し「ナポリタン味」「とんこつラーメン味」といったあられを作り出しました。本牧小港の「美濃屋あられ」で小森健太郎さんにお話しを伺いました。

小森健太郎さん  
お名前 小森 健太郎
(こもり けんたろう)
年齢 30歳
ご出身 横浜市中区本牧
ご家族 祖父・父母・妹二人の長男
お仕事 (株)美濃屋あられ製造本舗 取締役
4代目になります
ご趣味 演劇の観賞
ご性格 穏やか
HP http://www.minoya-arare.com/

 

創業は昭和4年「小森商店」として曾祖父が創めます。今の「美濃屋」の屋号には曾祖父の思いが込められています

 曾祖父は岐阜の農家の三男坊で、横浜に出稼ぎに来ました。「横浜あられ:注1」で修業をし、その後「小森商店」として独立、現在の磯子プールセンター前で製造小売りを始めました。

 戦争を乗り切り、祖父の代の昭和32年、本牧小港の埋立地にあられ製造工場をつくり、社名を『株式会社美濃屋あられ製造本舗』といたしました。(注釈:港北区にある「株式会社美濃屋あられ」はのれん分けした会社で、製造方法や商品へのこだわりは違うものとなっています。)

  (クリックして拡大写真をご覧ください)


(株)美濃屋あられ製造本舗
本社/製造直売所

 

先見の目があった祖父のおかげで今の美濃屋あられが
あります

 物流網を作ったのが祖父でした。一斗缶(いっとかん)に商品を詰めて背中に背負い電車で運んだ時代に、車を導入し倉庫で商品を管理しました。車の導入で会社の業績は飛躍的にあがりました。

 昭和42年第6回食品審査会(ベルギー ブラッセル)/モンドセレクションで金賞を受賞しました。食品部門では日本で3番目、穀物部門としては初の受賞でした。実は、この受賞は、私共が出展したというよりは、海外での評判により出展されたという経緯がありました。美濃屋のあられは、ハワイに住む日本人・日系人に愛されて、販路をサンフランシスコ、ロサンゼルス、シアトルそしてニューヨークへと広げていきました。やがてヨーロッパに渡り、ベルギー・オランダ・ロンドンと広がって行き、この受賞に繋がったのです。

 海外での評判から「丸清(まるきよ)ブランド」や「TOMOEブランド」が出来ました。平成23年に「丸清ブランド」の商標・営業権を取得し、海外向けの直営ブランドとして販路拡大に努めております。

丸清ブランドとは:http://www.marukiyo.net/index.html

 


モンドセレクション受賞記事
神奈川新聞


株式会社美濃屋あられ本舗発足時の社長ご夫妻


TOMOEブランドは、輸出商社の奥様のお名前「ともえ」から付けられました

国内での評価と販路には「こだわり」との苦しい決断がありました

 昭和27年全国菓子大博覧会名誉金賞牌受賞、昭和29年5月に神奈川県指定銘柄に指定、神奈川の銘菓として登録されました。

 昭和54年には永谷園と取引が開始され、絶頂期に入りました。全国チェーンの大型スーパーが台頭してきた時代です。大量生産と大量消費の時代が始まりました。この流れに乗るのか乗らないのか、苦渋の選択に迫られました。結果「乗らない」道を選びました。

 誤算もありました。スーパーからコンビニへと消費は移り、町からお菓子屋さんが消えて行きました。直接に卸していた小売店さんや問屋さんが店を閉めていったのは大きな誤算でした。

 この大型消費の流れに乗った某メーカーは、東南アジアで製造を始めます。袋詰めまで全て機械化です。当社も一部の製造過程で海外工場や機械を使いますが、最終過程は日本で自分達の目でチェックを行い、手作り感を大切にしております。 この「こだわり」が伝統だと私は思っております。

 

私が4代目になります。伝統を守りながら新しい味に挑戦していきます

 あられの味のベースは醤油と塩とざらめ(砂糖)です。 おのずと限界があります。

 父が「わさび味」「チーズ味」「梅しそ味」「辛しマヨネーズ味」のあられを考案しました。そのDNAを受け継いで私が考案したのが「ハバネロ柿のたね」です。これはトマトと玉ねぎの風味を生かしたメキシコのサルサソース味、辛いものブームに乗って売れております。

 自分の中での自信作は「横濱ビア柿」です。横浜がビール発祥の地だということで、横浜ビール社長太田氏からヒントを得て考案しました。 太田社長から繋がって、岩井の胡麻油を使ったあられを考案しました。

 「知り合いの良いものを紹介したい」という気持ちが今後の展開になると思います。 新山下のとんこつラーメンの人気店「げんきや」とコラボしたあられ、その名も「げんきや」とか、 落語の馬生一門や大日本プロレス、シドモア桜100周年・・・人と人との繋がりがら商品が生まれています。

 日本ナポリタン学会との絡みで「ナポリタン味」のあられを作りました。ナポリタンは横浜が発祥の地です。「名古屋のイタリアンと横浜のナポリタンとどっちが美味い?」ということになり、横浜のナポリタンを応援しようと思いました。社内では猛反対になりましたが、横浜土産として人気が出てきております。

 わたしは横浜が好きなので、あられをキーワードに横浜を紹介してみたいと思いました。「味を作る」ことは大変ですが、とても面白いことに気がつきました。 若手の職人と食べてみては試行錯誤、イメージを膨らませて商品にしていきます。商品になるのは、年に3種類くらいですが挑戦は続けていきます。今、横浜中華街をイメージした「マーボー豆腐味」を商品化しています。中華街でお土産として売られることを望んでおります。

  (クリックして拡大写真をご覧ください)


「ナポリタン味」のあられ

(クリックして拡大写真をご覧ください)


 

 

 また、食材としての「あられ」をミクニヨコハマとコラボしてみました。フランス料理と「あられ」素敵な組み合わせでしょう? 

 「あられ」とか「おかき」というとなぜか年配の人のイメージが強い気がします。若い人はスナック菓子でしょう?! 極端な油を使わない「あられ」は健康的なおやつとして、お子さんから大人まで、幅広い人達に、安心して美味しく食べていただきたいです。

 私の代で(株)美濃屋あられ本舗は創業100周年を迎えます。伝統を守りながらも変化していく当社の「あられ」を、今後ともよろしくお願いいたします。

小森健太郎さんにとっての横浜は?

(クリックして拡大写真をご覧ください)


(株)美濃屋あられ製造本舗 取締役
小森健太郎さん

 

 大都市だけれど田舎・・・田舎と言って語弊があるかもしれませんが、人との絡み方が他人事ではない、外国文化を取り入れた町だからでしょうか、外を受け入れることに寛容だと思います。そんな横浜が大好きです。

 わたしにとっての横浜は「大都市だけど田舎風な人情があるまち」です。

(インタビュー:渡邊桃伯子  文・写真:高野慈子

注1:「横浜あられ」の情報をご存じの方はご連絡ください。

 

「ヨコハマNOW」で「美濃屋あられ」様の商品のご購入ができます。ご購入はこちらからです。
美濃屋あられ横濱シリーズ詰め合せ(小袋4種10袋)

 

3月 23 12

横浜ゾリステン~指揮者のいないオーケストラ~5月公演(Carmen × Aconcagua)のご案内

by staff

指揮者のいないオーケストラ~「横浜ゾリステン」

昨年11月のドヴォルザークに引き続き、今年で結成三年目を迎える「横浜ゾリステン」のみなとみらい公演です。
 
結成当初より指揮者のいない演奏スタイルで演奏者ひとり一人の自主性や独創性に音楽の創造を委ねているオーケストラ。
何といっても音が生まれる瞬間の緊張感は筆舌し難い。指揮棒から発せられるのでなく、呼吸、息、気、といった目に見えない何かによって生み出される音の説得力には何故かやはり引き込まれてしまう。
 
今回の中南米音楽との繋がりを持ったプログラムはなかなか興味深い。
まず南米出身の作曲家ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ第6番」
これはオーケストラ作品ではなくフルートとファゴットによる二重奏の作品だが極めて高度な技術を要する。横浜ゾリステンの両奏者がどのような対話を聴かせるのか非常に楽しみな作品。
またリベルタンゴなどの作曲で有名なバンドネオン奏者ピアソラ作曲のバンドネオン協奏曲もなかなか聴く機会の少ない名曲のひとつ。ソリストであるバンドネオン奏者の仁詩氏の本場仕込みのバンドネオンの音色にも注目したい。
 
メイン曲のビゼー作曲「カルメン」。こちらも実は中南米音楽と関わりの深い作品。あの有名な「ハバネラ」は実はキューバは発祥と言われている。
 
昨年11月のドヴォルザーク「新世界より」の新大陸アメリカを南下していくと、そこには心揺さぶる、情熱的な音楽が。。
 
5月1日のカルメン&アコンカグア公演へ是非お越しください。

 

横浜ゾリステン5月公演 (Carmen × Aconcagua) のご案内

    プログラム
♪ヴィラ・ロボス ブラジル風バッハ第6番
♪アストル・ピアソラ バンドネオン協奏曲(Aconcagua)
♪ビゼー カルメン組曲
 
2012年5月1日(火)開場18:30、開演19:00
みなとみらい小ホール(みなとみらい線 みなとみらい駅)
全席自由(前売):2500円〈当日券:3000円/高校生以下:1500円〉
チケット申し込み:横浜みなとみらいホールチケットセンター
横浜ゾリステンHP:http://www.yokozori.jp/(HPからもチケット申込可能)
お問い合わせ:横浜ゾリステン事務局(住田 045-541-6763)平日15:00~20:00

 

3月 10 12

ブラとも 「大通り公園」

by staff

 「大通公園」と言うと、札幌が有名ですが横浜にも「大通り公園」があるのをご存知ですか。

 運河を埋め立てた公園で道路のように全長1.2kmの細長い公園です。JR関内駅前から市営地下鉄の伊勢佐木長者町駅を経て坂東橋駅までの間にあります。

 

(画像をクリックして拡大写真を
ご覧ください)

大通り公園の掲示板

 この公園を歩いていると、「横浜の町の今」を観察することができます。関内駅を出発するとすぐに、オーギュスト・ロダンの「瞑想」という彫刻に出会います。

 

瞑想

 ここは「石の広場」と呼ばれ、フリーマーケット等が開催されています。一般人も出店できますが、人気があるのは古着屋さんのようです。

 

古着屋

 伊勢佐木長者町駅に近付くと、水が流れていて「水の広場」のエリアになります。「水の広場」には、ヘンリー・ムーアの「三つの部分からなるオブジェ」という彫刻があります。

 

水の広場

三つの部分の彫刻

 ここではいつも路上で将棋を打っている人たちを見かけます。またこの付近にはアジア系の方々が多く住んでいるので、公園で聞こえてくる会話は中国語や韓国語などが多いです。

 

将棋の人

 横浜の「大通り公園」は、札幌と違って、何本のも道路で分断されています。信号を何回も渡らないといけませんのがちょっと残念です。

 ブラブラと歩いて行くと横浜で元気な商店街の一つ、「よこはまばし」商店街の入口に到達します。

 

道路に分断

 商店街の入口のそばに一本の紅枝垂桜が立っています。この桜は福島県三春町にあり、国の天然記念物に指定されている日本三大桜のひとつ「三春滝桜(みはるたきざくら)」の子孫です。

 2011年2月に、横浜橋商店街の創立80周年を記念して植樹されました。この桜は、横浜橋通商店街協同組合の名誉顧問を務める落語家の桂歌丸師匠にちなんで、「歌丸桜」と名付けられています。

 

歌丸桜

 「みどりの森」というエリアは大きな木々が生い茂っていて、周りに立ち並んでいるマンションからはきっと素敵な風景に映っていると思います。

 夕方に歩いているとワンちゃんたちの散歩に遭遇します。小型犬が多いようなので近くのマンションのワンちゃんたちなのでしょうか。

   

 この公園の西端にひっそりとあるのが、1945年5月29日の「横浜大空襲」の平和祈念碑です。白昼の空襲で10,000名の方が命を落としたそうです。この公園の近くにある京浜急行の黄金町駅付近では、たくさんの焼死体が折り重なっていたという記録が残っています。毎年5月29日、大空襲の犠牲者を悼む平和祈念碑の内部が公開されています。

 

平和祈念碑

 地下鉄坂東橋の駅が見えると、横浜の大通り公園の端になります。往復でも一時間もかからず、天気の良い休日などの散歩コースには最適な、私のお勧めの横浜の大通り公園です。

 

お勧め

 

3月 10 12

セカンドライフ列伝 第3回 榎本武揚

by staff

榎本技術士オフィス/榎本博康

第3回 榎本武揚

地球をポケットに持ち歩いたボイラーキッド

榎本武揚像

榎本武揚像
(東京都墨田区堤通 梅若公園内)
筆者撮影(2012.2)

 

 今回は至高のセカンドライフを送った榎本武揚(1836~1908年)です。

 長崎の海軍伝習所とオランダのハーグ留学で工学、国際法、語学を学び帰国した年が慶応3年(1867年)で大政奉還の時でした。その後の一連の戊辰戦争の終結となる函館戦争に至る過程で、函館の五稜郭を拠点に蝦夷共和国を樹立し、諸外国の承認も一部とりつける外交手腕を発揮しました。

 しかし戦いに敗れ(1868年)、自刃しようとする所を捨て身の側近に止められ、また敵将の黒田清隆にその才能と人物を惜しまれて死を免れ、東京で幽閉された後に赦免(1872年)されたのです。

 さっそく政府に登用され、北海道開拓使を始めとして、駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約(明治8年(1875年)、日本は樺太を放棄し、千島18島を得る)の締結に成功しました。

その後内閣制度が整うと、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任したのです。

 学術面では東京農業大学の設立し、また日本化学会、電気学会、気象学会等の設立にかかわり、初代会長として学術の振興に努めました。凡人にはその片方、いや1項目だけでも難しいのに。

争えぬ血筋

 武揚の父、箱田良助(1790~1860) は今で言う広島県福山の庄屋の次男であり、伊能忠敬の第七次測量(1809~1811)から参加しているのです。そして忠敬の死(1818年)後の大日本沿海輿地全図などの完成(1821年)に大いに貢献があったようです。そしてこの輝かしいキャリアと資金で榎本家の婿養子となり、榎本円兵衛武規と名乗ったわけです。(ちゃんとセカンドライフ列伝の第2話とつながっている。)

 武揚はこのバリバリ理系の家の次男として生まれましたが、幼名は釜次郎でした。(ちなみに兄は鍋太郎。)これはすごい名前です。要するに「ボイラーキッド」なのです。釜→缶→罐→ボイラーです。実際に彼は長じてオランダで熱力学や汽罐学(つまりボイラーですよ)、航海術を学び、蒸気船駆動の中核となる技術を押さえることになるのです。当時のボイラーは最先端技術であり、現在に生まれていれば、「あいぱっど次郎」とかでしょうか?これ、いやだなあ。

第一の人生、幕府のテクノクラート

 さて、まずは昌平坂学問所で儒学を学ぶのですが、ここでは余り成績がよろしくありませんでした。総合成績が丙だったとのことで、要するに卒業はしたが中央官庁系の就職は無理だね、というものだったようです。一方ジョン万次郎について英語の勉強をしているので、勉強が嫌いだったわけではないのでしょう。そして19歳で樺太探検に参加するのですが、この調査はクリミア戦争が終結した後のロシアが、またまた東方への膨張を図っていたことに対応しているという説があります。そして20歳で長崎の海軍伝習所の2期生として学ぶのですが、ここで一気に才能が開花しました。理系科目に抜群のセンスを発揮したのです。(1年上に勝海舟がいました。)そして選ばれて26歳から4年間をオランダのハーグに留学します。彼のミッションは幕府が発注した軍艦「開陽」の建設に立会い、それに乗船して帰国することにありました。ここでは工学科目ばかりでなく、国際法も学んだことが、後の彼の活躍の大きな基盤になっています。また観戦武官という制度を利用して、デンマークとプロシア・オーストリアの戦場視察を行い、当時の最新の戦争とはどのようなものかを学んでいるとのことです。

 しかし帰国の年に大政奉還があり、榎本武揚は幕臣としての彼の度量が試される真っ只中に飛び込むこととなりました。世の中が大政奉還だけですんなり収まるわけもなく、鳥羽伏見の戦いとなり、その最中に徳川慶喜は艦長の武揚に無断で「開陽」を使って江戸に帰ってしまいました。残された武揚は、大阪城が薩長軍によって火が放たれる直前に、城中の御用金18万両余りを持ち出したのですが、これこそが蝦夷共和国設立の資金であったわけです。

 さて、彼は海軍の軍人であったと理解することもできると思いますが、私は彼の本質は優秀な技術者にあると思い、小見出しをテクノクラート、すなわち「高級技術官僚」としました。明治維新後の日本が、驚くほどのスピードで近代化を達成していますが、それは幕府も留学生達を送って相当の準備をしていたからとも言われています。哲学、経済学などの西周(にしあまね)のような文系組も武揚と共にハーグで勉強をして、新国家の建設に貢献しました。

第二の人生、何でも解決仕事人大臣

 「忠臣は二君に仕えず」という言葉があります。福沢諭吉はその「瘠我慢の説」で勝海舟と榎本武揚をこの視点から非難しています。武揚に対しては、函館戦争での「忠勇は天晴れな振る舞い」と持ち上げながら、また幽閉中に武揚赦免の嘆願運動も活発に行った一方で、でも明治政府に協力するのではなくて、もっとやせ我慢、つまり反抗の精神は無いのか、と問いただしたものです。この「説」には両名からの反論も掲載されていますが、武揚は「そのうちに愚見を申し上げましょう。」とだけで取りあいませんでした。

 武揚が考えていたのは国家、国益です。自分からは決して大臣にしろとかは言わなかったそうです。ただ、頼まれればできる限り頑張る、でも成果は吹聴しない、旧体制側だった人間の能力、胆力を示すことで、五稜郭で死んだ土方歳三や多くの僚友達の無念に応えるという思いだったのではないでしょうか。さらに彼の命を助けた黒田清隆(第2代内閣総理大臣)は薩長の両勢力の軋轢の中で、武揚を緩衝剤として便利に使ったという事情もあるようです。初代伊藤博文内閣に旧幕臣からただ一人の入閣でした。

 冒頭にあげた「樺太・千島交換条約」、これは19歳で樺太探検をし、また地政学的な視点から世界を見、さらに国際法のセンスを身に着けている武揚にしかできない交渉であったようです。過大にふっかけておいて、落としどころに収めるような駆け引きも用いたとのこと。千島列島を取る方が、太平洋を庭と考えれば、日本にとって有益との判断でした。

 それから明治15年(1881年)に清国特命全権公使になりますが、これは現在の韓国ソウルでの争いに起因して日本と清国の関係が悪化した情勢を踏まえて、両国の関係修復が役目でした。清国側の交渉者は李鴻章であり、武揚は胸襟を開いて話し合える信頼関係を築いたのです。そして明治18年の天津条約で、朝鮮半島から日清両国の軍隊が撤退することなどで、日清間の当面の緊張は解かれたのです。(その後、日清戦争は明治27に起きます。)

 外務大臣も、大臣の椅子のたらいまわしで回ってきたものではありません。明治24年(1891年)に起きた大津事件の後始末です。これは日本を訪問中のロシア帝国ニコライ皇太子(後のニコライ2世)が滋賀県大津で警備にあたっていた警察官に斬りつけられて負傷した、暗殺未遂事件です。これで外務大臣と内務大臣の首が飛んでしまい、その後任と言ってもみんな尻込みして、そんな貧乏くじ大臣をやりたがりません。じゃあ、ロシアと貧乏くじと言えば榎本しかいない、となったわけです。武揚の頑張りもあって迅速な処理がされ、ロシア側から賠償請求もありませんでした。駐露特命全権公使時代の人脈も有効だったのでしょう。

 何よりもロシアは武揚を信用していたとの説があります。駐露公使を離任する時に、シベリヤ旅行をしているのですが、これをロシアが許可した理由は何かということです。一説には武揚が国際的な視点での判断力を持っているから、どんどんと見せておいた方が、将来の日本が間違った判断をしないだろう、という意味での信用だというのです。

 さて、日露戦争は明治38年(1905年)に起きます。物事は単純ではありませんが、武揚の清国とロシア帝国との外交交渉が少しでも両国との開戦の時期を遅らせ、緊張緩和に役立ったとすれば、発足したばかりの明治政府の足腰が強化される時間が得られたことになります。日本の独立を維持するための時間稼ぎができたのです。実は榎本海軍はまだ素人レベルだったのです。咸臨丸の太平洋横断や、開陽のハーグからの帰国航海は、実質的に欧米人の指揮下でのものであり、日本人はまだ自力では国際的な外洋航海ができていなかったのです。開陽丸は木製3本マスト補助蒸気機関付きで2,900排水トンの船でした。いよいよ意を決して函館に向かう時に、天候の判断ができず台風でマストを折り、最後は函館湾で座礁してしまいました。いろいろな意味で諸外国列強との実力差を知る武揚は、並々ならぬ思いで外交交渉に心血を注いだのでしょう。

 明治27年(1894年)に農商務大臣となるのですが、これは足尾鉱毒事件という大きな懸案があったからです。当時としては画期的なことに、私的ではあるが現地を訪れ、これは私企業対付近住民の問題ではなく、国家が対応すべき公害であるとの認識を得て、抜本的な対策への先鞭をつけ、自身は引責辞任をしたと言われています。

 さて最近は、現代に武揚が居ればなあと思ってしまうような政治課題が山積みです。あなただったら、どの大臣をやってほしいですか。

ポケットの中の地球

蝦夷共和国の位置づけ

蝦夷共和国の位置づけ

 

  武揚は地球的な、地政学的な視野があったことは間違いありません。しかも武力征服ではなく、経済圏の構築を日本の安全保障とする考えがあったものと思います。彼が外務大臣時代に始めたメキシコ移民計画は、後に榎本移民と呼ばれますが、環太平洋国家という理念の実現であり、侵略でもなく、出稼ぎ移民でもなく、移民先の国家の発展を図りながら、日本との外交的な、商業的な、そして文化的な信頼関係を築くことで、国家日本の将来にわたる発展と安全保障を確保しようとしたものと理解しています。(実は移民自体は成功とは言い難いのですが、心に滲みる実話が幾つもあります。)

 蝦夷共和国は、榎本海軍が北方に追いやられて、遁走の末にたどり着いた袋小路ではありません。武揚には、蝦夷共和国が十分に国際的な国家の一員としてやっていける可能性が見えていたのでした。それは彼がオランダに留学して得た発想でしょう。太陽の動きが樺太と同じような北の地で、こんなに豊かな国が築かれていると。その頃の函館は日本の果てだったかもしれませんが、当時は米国の捕鯨船の格好の寄港地でもあり、世界の通商という視点からは十分にハブの要所であったわけです。

 幼い武揚は、父の地球儀を飽かずに回して好きな所で止めては、見入っていたことでしょう。そして19歳で樺太に行った彼は、緯度というものを体感しました。それからというものは、武揚のポケットにはいつも地球が入っていたと、私は思うのです。
(注:筆者は武揚とは別の家系です。)

参考文献
1.榎本隆充、高成田亨編:近代日本の万能人 榎本武揚、藤原書店、2008
2.上野久:メキシコ榎本移民、中央公論社、1994
3.佐々木譲:武揚伝(上、下)、中央公論新社、2001

(2012.2.29 榎本博康)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

3月 10 12

ソーシャルメディアの正体(第八回、最終回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.ソーシャルメディアと他のメディア

 第二回で紹介した他のメディアを眺めてみると、情報発信としての手段が多様であることが分かる。企業としては効果的で合理的な手段を選ぶのが妥当と言うところであろう。ただ、今回取り上げるのはブランド作りで、ただ闇雲に広告宣伝をすればよいといったことではない。

 前回述べたように、モノやコトを行う手前の、商品やサービスのブランド作りが重要である。しかも、これまでのように、企業の商品企画部門だけが行う業務といった閉鎖的な活動ではなくなってきている。それは、生活者がソーシャルメディアを手に入れたことから、企業にとって需要(ニーズ)の把握が簡単に出来ることになった半面、逆に企業の活動が生活者の目線で賛同できるものでなければ、企業への批判はもとより、他社商品への乗り換え、購入のボイコット、極論でいえば、信頼の失墜まで引き起こす可能性が増えたことになる。

 ペイド(有償)メディアであるマスメディア、企業のオウンド(自己所有)メディアとは異なって、生活者のメディアとしてソーシャルメディアを位置づけると、使う側や買う側の意思を、マスメディアやオウンドメディアと同等の伝搬力を得たともいえる。第5回で「ソーシャルメディアの光と影」で紹介したのは企業からの目線であったが、生活者と企業とは、インターネットを通じて対等のメディアを手に入れた状態と理解しておこう。

2.ソーシャルメディアを使ったブランド作り

 さて、インターネットを挟んで対等に会話や情報交換ができる生活者と企業。この状態で、企業の商品の価値を高めて「ブランド」として確立するのは、一見簡単そうであるが、それほど単純ではない。

 ソーシャルメディアの強みは、口コミである。さらに言えば参加者のボランティアで成り立っている信頼関係の輪に根ざしている。友人の推進が、企業の営業マンよりも商品の購買に影響を与えていることも多くのマーケティング分析で分かっている。友人という信頼関係を損なわずに、商品を担ぐ企業とどうやって信頼関係を創り、ひいては他の商品よりも自社商品を買ってくれるブランドになるのか、これが「ソーシャルメディアを使ったブランド作り」の課題である。

 前回のモノとコト創りを思い出してみると、良心計画の例もローソンの例も、インターネットであれ、店舗であれ、生活者を参加させることで、信頼関係を慎重に創っていき、ブランド化に成功している。決して性急ではなく、何度も生活者の声を傾聴しながら進めていく根気が必要な作業である。つまり、「ソーシャルメディアを使ったブランド作り」には、信頼関係を創るために参加しやすい雰囲気やルール作りが必要ともいえる。こう言った雰囲気や暗黙のルールを生むには長時間の慎重な信頼関係が必要である。

 参加しやすい雰囲気は、投稿や傾聴のしやすいコンテンツ(コト、モノ)を準備する必要があり、暗黙のルールというのは、企業側のソーシャルメディア担当者が、自社の経営方針に従って、丁寧でしかも、タイミング良く、的確に回答することで、「荒れた」関係ではなく、フレンドリーな関係を維持するものである。

 ここまで来てお分かりだと思うが、情報発信それ自身は単純だが、ブランドを築くまでは、信頼関係をつくるための多くの努力が必要であることが分かる。

 再度、第四回の情報発信の際の注意点を振り返っていただき、ソーシャルメディアとの信頼関係の維持に自社は何をすべきかを検討することをお勧めしたい。

3.ソーシャルメディアに法人が参加することに、未だに違和感があるのは何故か

 統合戦略が、ソーシャルメディアでのブランド確立には必須である。理由は、統合戦略まで成功できれば、企業が傾聴から始まる努力を怠らず、信頼関係を生活者と結ぶことができるからである。

 しかし、未だ、企業アカウントでのソーシャルメディアの参加に違和感があるのはどうしてだろうか。

 この違和感の根源は、企業が血の通った人間でないことにあると、私は考えている。論理的ではあるが、感情の動物である人間に、企業が変わることはできない。ただ誤ってはいけないことは、ソーシャルメディアの参加者は、そんな人間臭い企業を欲していないことである。やはり、企業は生活者の奉仕者であって、価値を与えるものである。ソーシャルメディアでの企業の役割は、人間臭い会話を行うことが目的ではなく、参加者の意図や信頼をもって、自社が何か手を差し伸べる価値はないか、奉仕できるところはないかといった、謙虚なソリューション(解決手段)を提供することにあろう。やがて、このような多くの価値が提供できたところで、「ブランド」が生まれてくるのである。A社は期待を裏切らない商品・サービスを提供してくれるとなれば、すでにA社やその商品・サービスはブランドとなっている。

 ソーシャルメディアの正体を暴くべく、長期間にわたってマーケティング、ブランド、企業人格力といった活動に触れてきた。最後に、これまでのポイントを理解してもらって、生活者としては、より良き商品・サービスを提供してもらい、企業としては、生活者の声に耳を傾けるためにソーシャルメディアを活用して頂ければ幸いである。

【読者の皆様へ】

 ヨコハマNOWで昨年8月から連載してきた「ソーシャルメディアの正体」を長期間、お読み頂きありがとうございます。得体の知れなかったソーシャルメディアからその活用法や得失まで、少しはその正体を分かっていただれば、筆者としてうれしい限りです。

 なお、本連載にあたり、事務局の渡邊桃伯子さんら関係者の皆さまの助言やご支援に感謝する次第です。

 また、現在、別途連載を企画中ですので、またヨコハマNOWにご期待頂ければ幸いです。

松本 英博

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

3月 10 12

「レッドライト」(連載第12回) ホテルニューグランド

by staff


「軽井沢ニューグランドロッジ」のレストラン(「ホテルニューグランド」営業企画課提供)

 明治・大正・昭和初期の日本において、西洋式のホテルはひじょうに敷居の高い宿泊施設だった。旅先の宿は民宿か和風旅館が当たり前。そもそもホテルの絶対数そのものが少なかった。ホテルの大衆化が進むのはずっと先のことで、当時の顧客は西欧人か日本人のエリート層に限られていた。

 ホテル業界の黎明期というべき時代。しかし意外なことに、昭和初期は日本のホテル業界最初の黄金時代だった。なぜか。それは日本が帝国主義国家だったからだ。

 日本の中国大陸進出が非難されていたきな臭い国際情勢のなか、政府は日本のイメージ向上を図るため、外国人客の誘致に努めた。その一環として西欧式ホテルの建設が進められたのである。

 横浜が誇るクラッシックホテルといえば、ニューグランド である。開業は昭和2年。開業当初は外国人専用で、支配人もアルフォンソ・デュナン(Alfonso Dunant)というスイス人だった。広く知られるとおり、このホテルは関東大震災からの復興事業として建設されたのだが、同時に上記文脈に沿って「戦前の『ようこそニッポン』」とでもいうべき国策にも寄与した。

 政府は外客誘致のために、鉄道省の外局として「国際観光局」を設置した。1930(昭和5)年のことである。政府の特別融資によって、現在、クラシックホテルと呼ばれている多くのホテルが誕生した。具体的には、上高地帝国ホテル、蒲郡ホテル(現・蒲郡プリンスホテル)、雲仙観光ホテル、川奈ホテルなど15軒で、山口由美・著『消えた宿泊名簿 ホテルが語る戦争の記憶』(新潮社 2009年)によると、ホテル二ューグランドも増改築に伴う特別融資をこのとき受けているという。

 ニューグランドは積極的なチェーン展開に打って出た。

軽井沢ニューグランドロッジ (昭和4年開業)……リゾートホテル
東京ニューグランド (昭和9年開業)……レストラン
富士ニューグランドホテル (昭和11年開業)……リゾートホテル
川崎ニューグランド (昭和15年開業)……レストラン

 「軽井沢ニューグランド」がオープンしたのは、初代支配人であるデュナンが帰国した昭和4年である。当時海外にはマリンリゾート・ホテルが存在していたが、戦前の日本では、リゾートホテルとは山や高原にあるものと相場が決まっていた。横浜に住む西欧人たちは夏になると毎年のように軽井沢や箱根に集団移動した(*註)。その様子は、外国人居留地がそのまま引っ越してきたかのようだったという。この「民族大移動」を見逃す手はない。事実、夏のバカンスシーズンになると横浜の宿泊客は明らかに減少しており、対策を立てなければならなかった。

 「軽井沢ニューグランド」は軽井沢の建設業社・野沢組が所有する雲場池(通称「スワンレイク」)の北側の建物を借り、毎年7月15日から9月10日までの期間限定で営業した。敷地内にはレストラン棟をふくめ、42棟のコテージが点在した。宿泊客はテニスやゴルフ、乗馬、水泳、ボート遊びなどで楽しんだ。週末には映画会やディナーダンス・パーティーが開催された。その様子の一端は、横浜の作家で「日本最初のモダンボーイ」と称された北林透馬の『街の国際娘』(昭和5年)の作中で伺うことが出来る。

 「軽井沢ニューグランド」は正確には「ニューグランドロッジ」という名称だったが、「ニューグランドホテル」と記した記録も少なくない。もっとも宿泊者の多くが外国人だったため、日本語の記録そのものの絶対数が多いとは言えない。戦時中の休業と米軍による接収を経て昭和34年に廃業。ロッジが建っていた場所は、一面コケむした平地になっている。

 今となっては想像しがたいが、ニューグランドは都内に直営レストランを開いている。昭和9(1934)年に、外堀川や数寄屋橋を望むマツダビルの8階にオープンした「東京ニューグランド」である。西欧料理の伝道者的な役割を担っていた料理長のサリー・ワイルの指揮下、バラエティーに富んだメニューを提供した。その多彩さは目を見張るほど。あるときなど217もの一品料理がずらりと並び、さらにメニューの下に「コック長はこのメニュー以外のいかなる料理にてもご用命に応じます」と添え書きされていたという。

 この店では、後のホテルニューグランド総料理長・入江茂忠、同じく後のホテルオークラ総料理長・小野正吉、後のプリンスホテル総料理長・木沢武男といった有名シェフが腕を振るっていた。

 同店はかなりの成功を収めたらしく、気をよくしたニューグランドはその6年後に川崎にもレストランを開業している。

 「東京ニューグランド」はおよそ40年間営業をつづけた。そして石油ショックの影響による国際イベントの中止と収支悪化をうけて、1975年に閉店している。

 「富士ニューグランドホテル」は、昭和11年7月に山中湖畔に開業した。オープンに伴い、国際観光興業が子会社として設立されている。同ホテルは木造3階建て・一部鉄筋コンクリート造りで40の客室を擁した。英国のハーフティンバー様式とスイス・シャレー様式が混ざったこのホテル棟のほかに、「富士ニューグランドロッヂ」と名付けられた35棟のコテージが併設された。興味深いのはニューグランドの代名詞とも言えるフランス料理の他に、東京・銀座に店を構える関西料理の「出井(いずい)」も入居していたことである。このあたりのことを突っ込んで調べたら、なにかおもしろい事実が発見できるかも知れない。

 戦禍の深まりとともに世相は厳しさを増す。「富士ニューグランド」は昭和19年9月に横須賀海軍部隊に賃貸借り上げされ、営業が休止。つづいて翌昭和20年12月28日にGHQ 専用ホテルとなり、立川・横田の両基地と契約して賑わった。 昭和27年6月30日に契約解除となるのだが、現在のように国民にリゾートを楽しむ余裕がなく、また営業期間が夏の3ヶ月間だけに限られていたため財政が極端に悪化。赤字を垂れ流しながらも本社からの補てんで生きながらえていたものの、「ニューグランドロッヂ」は昭和36年4月に花月園に買収され、ホテル本体は昭和50年5月に閉鎖された(閉鎖理由は、防火設備改善に多額の費用がかかるため)。現在はコテージのみが、「山中湖ロッヂ花月園」として営業を続けている。

 野心は行き場を失った。港の価値が相対的に低下していくのより一足早く、ニューグランドは拡大路線から退行路線へと転換していった。それは山手の外国人コミュニティーが縮小していくタイミングと比べても早かった。先に引用した『消えた宿泊名簿』の著者である山口由美は「富士屋ホテル」の創業者を曾祖父に持つ人物で、クラッシックホテルの歴史に造詣が深い。その山口によれば、箱根、日光、軽井沢といったリゾート地から外国人の常連客の姿が見られなくなったのは1970年代に入ってからで、意外なことに戦争の前後を通じて、ずっと同じような夏が続いていたという。しかし「富士ニューグランド」や「軽井沢ニューグランド」が縮小、あるいは廃業したのは、それより10年早い時期だった。

 横浜はしばしば「日本らしい文物がほとんど存在しない街」だと評される。この街は近代化する日本のショーケースであり、表通りに土着の文化があったのでは都合が悪かった。だから横浜の人々は、記念館や資料館を建てて地元出身の文化人を顕彰することを避ける傾向にある。例外と言えるのは、文明開化に貢献した明治期の偉人くらいだろう。その流れは現在も続いている。ホテルというものは、そもそも日本の文化でなかった。長い歴史を経て街の人々が受け入れてきた事実は否定しないが、依然として西洋文化の象徴であることも又否定できない。街の迎賓館とでも言うべきこのホテルが、「鬼畜米英」「八紘一宇」の声高かった戦時中どのように西洋と、あるいは外地と向き合ったかという問題は、非常に興味深いテーマである。

 帝国ホテルや丸ノ内会館、万平ホテル、京都の都ホテルなど、静々たるホテルが軍が南方で獲得した名門ホテル経営のために、アジア諸国に進出している。たとえばシンガポールのラッフルズ・ホテルは日本軍に接収され、陸軍将校の宿泊施設となっていた。軍にはホテルを運営するノウハウがない。したがって内地のホテルが軍から経営の委託を受けて、世界的名門ホテルを廻していたのだった。どさくさ紛れと言ってしまえばそれまでだが、これはある意味でホテルマンたちの夢の実現と言えた。しかしニューグランドが外地へ進出した気配はない。外国人専門のホテルだったため、なにか勝手が違ったのだろうか。あるいは当時会長職にあった野村洋三、もしくは支配人だった光正が安易な外地進出を良しとしなかったからなのか。

 ホテルマンの外地進出は必ずしも道徳的に咎められるものではなかった。万平ホテル前社長である佐藤博美は次のように説明する。
「内地にいても兵隊にとられる時代でしたから、社員たちをホテルマンにさせておける唯一の方法が、南方のホテル進出だったのです。終戦後は、命からがらの帰国となりましたが、それまでの間は、楽しいことも多かったと聞いています。インドネシアを一緒に再訪した杉井や森は言っていましたよ。ジャワが青春だった、とね」(山口由美・著『消えた宿泊名簿 ホテルが語る戦争の記憶』より)

 事実、占領地ホテルの運営に関わらなかった終戦間際のニューグランドには、女性と中高年を中心とした25名程度の従業員しか残っておらず、支配人である光正も徴兵されていたという。

 さらに不思議なのが、戦時中の在浜外国人コミュニティーとニューグランドの関係である。昭和18(1943)年以降、日本に滞在している枢軸国や非対戦各国の外国人たちは、政府が強制疎開地として指定した軽井沢や山中湖周辺に疎開させられている。一般人のみならず、ソ連、フランス、トルコ、スイスなどの大使館も軽井沢に疎開している(ソ連大使館は、後日箱根に移転した)。

 つまり戦時中は外国人のほとんどは母国へ帰国、あるいは強制疎開していたのだから、横浜市内にとどまった外国人は極端に少なかったはずである。外国人専門ホテルだったニューグランドの経営は、都内のホテルに比べてかなり苦しかったのではないだろうか。ニューグランドの社史である「50年史」には、昭和18年を過ぎると英米人は姿を消し、1階にあったバー「シーガーディアン」に顔を見せるのは枢軸国のドイツ人とイタリア人、そして中立国のスイス人くらいだった、と記されている。

 ニューグランド本店は政府機関や軍関係から強制借り上げを受けなかった。とはいえ、明記こそされていないが、軍は大事な顧客となっていたらしい。空襲のあった昭和20(1945)年5月の宿泊客は数える程度だったが、横須賀鎮守府海軍施設部の将校や東芝の徴用工たちが客室を占領していたという。

 よく知られるとおり、戦時中は英米語の使用が忌避された。野球のスター選手であるスタルヒンが「須田博」に改名したほどである。当然ニューグランドにも改名のお達しがあった。しかし大佛次郎ら常連客に考えて貰った名前のうち良さそうなものは、すでに本牧のチャブ屋(欧米人相手の「あいまい宿」)で使われている。あれこれ候補を探しているうちに終戦になった。あくまで結果論ではあるが、ニューグランドは諸外国にも知れ渡った名称をなんとか変えずに済んだのである。

 昭和20年8月にマッカーサーが来訪したときの有様は繰り返し語られてきた。しかしその直前の数年間の様子はかなりあやふやである。戦争中の高級ホテルは「インターナショナルなセイフティーゾーン」として機能し、 国際政治の舞台にもなる。ニューグランドが平時同様、外国人専門のホテルであったとしても、そうでなかったとしても、戦時中の経営を追求していくと語られなかったドラマが明らかになる可能性がある。

 ニューグランドというと港とセットで語られるのが常である。しかしその歴史を見返してみると、それが一面的な認識に過ぎないことが分かる。横浜が港だけの街ではないように、ニューグランドも港町のホテルとして単体で語られるほどスケールのちいさなホテルではなかったのだ。

*註) 夏は軽井沢、冬は箱根といわれ、クリスマスシーズンは箱根に集まる人々が多かった。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

スワンレイク湖畔と「軽井沢ニューグランドロッジ」の外観(「ホテルニューグランド」営業企画課提供)

 

「富士ニューグランド」の外観

 

東京ニューグランドからの眺め(「ホテルニューグランド」営業企画課提供)

 

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

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3月 10 12

2012年3月 三ツ池だより 「春の音を聞きにいく」

by staff
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 お雛様が終わった頃にヨコハマnow3月号がでる。でも書いている時は雛飾りの時だ。奇数が陽で、二つ並ぶと陰になる。それを打ち消すための祝宴が行われたのがお節句の始まり。今は奇数の並んだ時はお祝いの時になっている。

 いよいよプロ野球のキャンプが始まって、様々な話題が入ってくる。興味深いことは今年の采配はどのようになるかということだ。ジャイアンツの東野選手は次のようにコメントしている。「杉内さんが入って、教えられることが多い」と。今迄力みが先行していて崩れてしまうことがあった。悩みに悩んだ昨年だった。杉内さんを見ていると、打者の手元で球が生きている。早い。見習いたいということであってそれはそれでいいのだが、そこに疑問を感じてしまった。

 今までの首脳陣はなにをしていたのと思ってしまう。東野選手が自分との戦いに入っていることは良とする。首脳陣は選手の指導をどのようにしているのだろうかとふと考えてしまう。一方で昨年の覇者のソフトバンクの秋山監督は、有望な若手を二軍に落としたという。迷い、遅刻する選手を即決で判断した。私は今回二軍に落とされた選手は必ずや這い上がってくる。それは一見厳しいが、奥に潜む暖かい眼を監督に感じるからだ。妥協は許されない。

春の音津軽三味線行灯消す   詢

浅草は地口の語り春やたつ   詢

 地口とはだじゃれ、行灯に絵を描いて祭を彩る。浅草の伝法院通りにいくつか飾られている。いよいよ春がくる。春の音に誘われて浅草にでてきた。津軽三味線の勢いがほど良く行灯を消した。それではお近づきに一献。春は少しづつちかづいている。やっとというのか、やっぱり三月だなとおもうのか。今入試がほぼ決まり、落ち着く頃になるっているのだろうか。ここが肝心だと思う。さて、希望どうりだからいいとか、希望どうりにならなかったから残念だというのではない。自分の将来をどのように見据えていくかを考える重要な時なのだと思う。自分の人生をどのようにしていくか、考えていい時期なのだ。自分がどんな人に興味があるかがはっきりしていれば、そこから入ってもいい。調べてみる、本を読んでみる。訪ねてみる。様々なトライの仕方がある。

「美しい月に」
 
神様がくれた試練は
小さいものもあり
大きいものもある
  神様がくれた恵みとそれはいう
弥生三月は恵みの月
難しい時であり
苦難の時でもある
  だからこそ楽しみな時
春がもうそこにきている月

 3月の決算がみえて、もうどうにもならないと考えている人もいるかもしれない。そこで残りの取組をどのようにし、少しの望みにもチャレンジしていくことを考えてみたい。上に立つ者の役割がそこにある。四月が新しい年度のスタートなのではなく、もうすでに始まっている。どのように新年度につなげていくのかのたゆまぬ仕掛けも求められている。どれだけ相手先のことが理解できて、こちらが役に立つことができてきていたのか。今は何が求められ、これから先はどのようなものが求められてくるのか。そこに提案が生きる。受験生は己に問いかけ、己の求めを見つめていく。経営者は弥生三月夢の月に方針を熟成させている。

 ますます栄えていく三月でありたい。

 

Photos

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(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

3月 10 12

「妻を看取る日」 新潮社 垣添忠夫著

by staff
 

 「私はずっと無宗教で生きてきたし、超自然現象に興味を持ったこともない。第六感とか、虫の知らせといったものも感じたことがなかった。」
「妻が、肺の小細胞がんを患ってから、そうした感覚が急に身近に感じられるようになった。あとから考えればあれが・・・・と思い当たることが幾つもある。」
著者は国立がんセンター名誉総長は語られる。
「医者の不養生と言われても仕方がない。妻を亡くした私の支えになったのは酒だった。」
「うつ状態になっていた私には、この酒がちっともうまくなかった。というより味がしない。ただ辛い気分を麻痺させるたびに盃を重ねた。」
「もしかしたら、これは悲しみをわすれる最良の方法ではないか。そう気付いた私は、ますます目の前の仕事に没頭していった。問題は夜である。

寒風の吹き付ける中、コートのえりを立てて帰宅すると、明かりひとつ点いていない家が待っている。祭壇の写真の前に座り、妻にきょうの出来事を報告する。だが、いくら話しかけても答えは返ってこない。妻はもういないのだ。この事実が堪え難かった。」

 この本は読みたいと思っていたある時に、計量の仲間から、「それ同級生だよ。読んだよ。だけど重くてかみさんにみせられなかったよ」と紹介された。クリスマスの日付の入ったメーセージと一緒に送られてきたのだった。そして今再びテレビの映像として登場してきた。

 著者はエピローグに書いておられる。
「冬を過ぎたころのある晩、気が付くと線香を半分に折り、折った二本に一度に火をつけていた。燃え尽きる時間も半分になり、遺影の前に座している時間は十分程度になった。」
「帰宅後にしなければならない家事も多く、無意識のうちにこうするようになったのだろう。妻が一番喜ぶのは、私が自立してしっかり生きることだ。どうすれば一人できちんといきていけるだろうかと考えるようになったのも、その頃のことである。」
「食生活、運動、健康管理を一つずつ改善し、妻と楽しんでいたカヌーや登山を再開した。まったく新しいことを始めようと、居合いにも挑戦している。」

 その一こまが綴られている。いつもカヌーを漕いでいるときも歩いているときも、心の中ではひたすら妻に話しかけているという。
「滝を見上げて疲れを癒していると、一羽の蝶がフワリ、フワリと飛んできた。透き通るようなブルーを黒で縁取った羽根を広げ、滑らかに宙を舞う。その優雅な飛翔が、ふっと妻の舞い姿に重なった。」「ほら、奥様がよろこんでいますよ。奥日光の仙人と呼ばれる案内の友人が声をかけてくれた。」
「極め付きは九月に行った北海道のトムラウシ山だ。あまりの悪条件に途中でイヤになって、ふと立ち止まると、ハイマツの茂みから褐色のナキウサギが飛び出してきた。私の左袖に触れるように駆け抜け、反対側のハイマツにサッと身を隠す。」「あっ、妻だ!」「私はとっさに思った。妻が励ましに出てきてくれたのだ。この一瞬の出来事で私は再び気力を取り戻し、無事に登頂することができた。」

 最愛の人との出会いは患者と医者としての恋。それは12歳年上の既婚者との出会いであった。「結婚相手を見つけた私は、迷うことがなかった。しかし、前途はあまりにも多難だった。結婚までには、長く険しい茨の道がまっていたのである。」記録はそこからはじまっている。
日本のがん医療の最高峰に立ち続ける著者が、自らの体験を赤裸々に綴っている。

(文:横須賀 健治)

<Amazonで購入>

 

3月 10 12

もっと飲みたい!(その3)

by staff

 美味しいものを食べる、美味しいお酒を飲む。「美味しいね」って言い合いながら。いろんな話をして、聞いて、また話して。また、飲む。

 私たちは職場や家庭、地域などの日常生活の中で多くの人に接するわけだけれど、一緒に食べたり、飲んだりする機会っていうのは実はそうないですよね。お仕事上知り合った方たちとお食事会というのももちろんあるけれど、知り合った方全体の数からしてみるとわずか。名刺交換して、情報交換する仲にはなったけれどその先の交流が密になる人はまれ。友達だってもう学生時代のように暇を持て余してる年じゃない。家族だって全員が同じ時間に揃うとは限らない。

 だとすると、「美味しいね」って言い合える時間、言い合える相手ってすごく貴重なんだな、って最近思います。同じ時間を共有して、さらにそこに美味しいものがある。
 それって最高!

Pick Up-1 横浜中華街 【四五六菜館(別館)】

 JR石川町駅から徒歩約5分。中華街西門をくぐり独特の街並みが見えてきたら正面に善隣門。そのすぐ左が老舗の上海料理店「四五六菜館(別館)」さんです。

 今回は中華街本通りを見下ろせる開放感いっぱいの展望個室で飲茶ランチコース。かなりのボリュームです。前菜から始まり10品。どれもこれもガツンっとくる美味しさで昼間からビールが進む。

 「取材させていただきたい…」というわがままに、飲茶だというのに撮影しやすいよう全てのお料理を同時に出していただけたり。さらに撮影後には、お料理を温めなおす配慮。「おいしく食べてもらいたいから」という松原社長の気遣い、見習いたいです。

 コースメニューとは別にお薦めなのが、孫オーナーシェフの「麻婆豆腐」。青唐辛子、赤唐辛子などの二十数種類の食材と、 包丁で叩いた牛ヒレ肉が美味しさの秘訣。 辛味とコクの絶妙なバランスがお見事。ザーサイの味も効いてます。四川料理の麻婆豆腐は有名だけど、上海料理の麻婆豆腐があってもいいのでは…、という老舗でありながら新しいものに挑戦していくその姿勢、人気店にならないわけがない!

 横浜中華街には500店以上のさまざまな店舗があるけれど「四五六菜館」さん、私はかなり好きです。

住所・アクセス
  横浜市中区山下町202-1
  JR根岸線石川町駅北口から徒歩約5分
営業時間
  月~金 11:30~22:00(L.O.21:30)
  土   11:00~23:00(L.O.22:00)
  日・祝 11:00~22:00(L.O.21:30)
  祝前  11:30~23:00(L.O.22:00)
定休日
  なし
予算
  おひとり2,000円~6,000円

 

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)



 

Pick Up-2 横浜野毛 【RUMbar One Many】

 JR桜木町駅から野毛方面へ向かい3分ほど進み左折。さらに進むと、昭和な香りただよう「たべもの横町」が左にひっそり。その横町をややおっかなびっくり歩くと…、看板。
Bar「One Many」。

 「RUM」と謳っているように、通にはたまらないラム酒専門のBarです。

 ラム酒も常時20~30種類はあるので、利き酒なるものに挑戦するもよし、お気に入りの瓶を斜前に眺めながらじっくり飲むもよし、大人な雰囲気にはどちらも似合います。なかなか手に入りにくいラムも揃っていて、眺めてるだけでも楽しい。横浜一の品揃えだそうですよ。

 カウンター7席だけというのもかっこいい。扉ノブもまた洒落た感じで、オーナーの遊び心がニクイです。だってカギがノブ。ノブなのにカギ。

 他にも3店のBarを経営する二人のオーナーが行き着いた納得の「OneMany」は、しっとり飲むのにおすすめですね。

 語りすぎず、こだわりを見せすぎないオーナー達のファンは男女ともに多いはず。

 営業時間は翌10:00まで。朝方までディープな野毛に酔いたい日には是非。

住所・アクセス
  横浜市中区野毛2-75 食べもの横丁内
  JR桜木町駅から徒歩約5分
営業時間
  19:00~翌10:00
定休日
  なし
予算
  おひとり2,000円~3,000円

 

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)



( 文・イラスト・写真:(株)とらべるわん いいづかあや )

いいづかあや(飯塚 文) プロフィール

いいづかあや 飯塚文  

1974年、横浜生まれ横浜育ち。私立山手学院高等学校卒業後、文教大学短期大学部文芸科卒業。
父親の経営する(株)とらべるわんで幼いころから「旅」に携わる。
学生時代より同社のチラシ・DM・ホームページ等の制作をする。デザイン事務所・建設会社などの職業を経て現在は(株)とらべるわんのWEB責任者を務める。また、横浜元町で「ボディアートGlitta」でデザイナーとしても活動中。

(株)とらべるわん http://www.travel1.co.jp
ネイルサロンMINORITY http://www.minority-minority.com/
ボディアートGlitta http://www.minority-minority.com/glitta/index.html
   
いいづかあやTwitter http://twitter.com/zuka_aya
いいづかあやFacebook http://www.facebook.com/iizukaaya

 

3月 10 12

佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第3話『糊零(のりこぼ)し』という名のついた椿の和菓子(本牧 喜月堂)

by staff

『糊零し』 作:佐々木彬文

 

 弥生の月になりました。この頃、関西の茶人が特に大切にしている御菓子に『糊零し(のりこぼし)』があります。明治33年横浜本牧に開業した和菓子の老舗「喜月堂」にお願いして椿の和菓子を作って頂きました。関東の『糊零し』です。なぜ椿の和菓子が『糊零し』と呼ばれるようになったのでしょうか? そんなお話しです。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

喜月堂作 「糊零し」


良弁椿
 
喜月堂本店
 
喜月堂店内

椿『良弁椿』

 東大寺の開山堂に『良弁椿』という名の斑入りの椿が咲いております。修二会(注1)の時に飾る椿を僧侶の方々が和紙で作るのですが、うっかり糊を真紅な和紙に零(こぼ)してしまいました。その風情が良弁椿に似ており、それから東大寺では、白地の花弁の中に1.2枚の真紅の花弁を添え『良弁椿』に似せた造花で飾り付けを行うようになりました。この造花を別名『糊零し(のりこぼし)』と呼び愛でております。この頃のお茶事では、「糊零し」に似せた御菓子を頂きます。「糊零し」の真紅と白の華やかさが、一足早く春の訪れを感じさせてくれます。

 
良弁

和紙

 京都の植物染の第一人者の吉岡幸雄氏が、毎年この椿に使う和紙を古来よりの染め方で染め、東大寺に納めております。やはり古よりの色合いでないと風雅さが出ないと思います。言葉には表せない気品があります。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

吉岡幸雄氏の和紙

本牧喜月堂の季節の和菓子

 関東の和菓子屋さんで「糊零し」が作られていないことを残念に思っておりました。横浜の中区千代崎町バス停前の「喜月堂」にお願いしたら「勉強になります」と快く引き受けてくれました。「喜月堂」は、こうした我儘に応えてくれる和菓子店です。

 喜月堂は神奈川県指定銘菓「喜最中」で有名です。「誰からも愛され喜ばれる最中」と、最良のあんがはみ出すほど盛り込んだ「喜最中」を明治43年に生みだし、昭和27年に神奈川県指定銘菓に認定されました。

 「季節の和菓子」も大切にしています。

 可憐な職人さんが作る、喜月堂の意匠の「季節の和菓子」、和菓子から旬を楽しむ日本文化が息づいています。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

明るくて広い喜月堂店内
 

社長と可憐な和菓子職人

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)


神奈川銘菓 喜最中
 
春の和菓子 ゆず
 
春の和菓子 さくら
 
春の和菓子 うぐいす

本牧喜月堂 http://www.kigetsudou.co.jp/

お水取りの面白いお話!

若狭井
若狭井
 

 修二会(注1)が初めて執り行われました折、観音様が全国の神様のお名前を読み上げられました。 遠敷明神(おにゅうみょうじん)様の名を読み上げても、遠敷明神様は若狭の遠敷川(おにゅうがわ)で川漁をしており、一昼夜遅れての出仕となりました。そのお詫びとして、遠敷川の水を修二会の折に「香水」として御供えさせて頂きますと願い出ました。

 すると東大寺若狭井では、黒と白の2羽の鵜が飛び立った跡より水が湧き出し、それを『閼伽水』として毎年御供えする事に成りました。その水を汲み御堂に御供え致します行事を『お水取り』と呼んでおります。

 この行事に先立ちまして、福井県遠敷川の鵜の淵では、遠敷明神の神社(若狭神社、今は若狭神宮寺)の神主が今も遠敷川の水を守り、無事、奈良東大寺の若狭井に届きますようにと神事『お水送り』を執り行っております。

 面白いでしょう?! 若狭の遠敷川から、二羽の鵜が東大寺の若狭井に潜って行ったと伝えられております・・・若狭の『鵜』畏るべし!!

ご案内

 挿絵は『糊零し』の葉書絵と手紙に添える文香を描いてみました。
文香の作り方、絵手紙・御抹茶の頂き方・茶道教室を開いております。ご興味をお持ちの方はお問い合わせください。

rinbun@ac.auone-net.jp  080-6554-6822(佐々木まで)

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挿絵 『糊零し』

注1)旧暦では如月1日から東大寺『二月堂』で行われた行事ですので『修二会(しゅうにえ)』と呼ばれます。新暦ですと本行が3月1日からです。『お水取り(お松明)』(3月12日)が知られております。

文・絵・写真:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)高野慈子

 

3月 10 12

フランケン銘醸、ユリウス慈善協会のワイン

by staff

フランケン銘醸、ユリウス慈善協会のワイン


写真) ユリウス慈善協会醸造所

 バイエルン州の北部を流れるマイン川の流域では、ライン川流域のワインとは味香の異なる力強い辛口のワインが産出されます。特にマイン川の中央に位置するヴュルツブルク(Würzburg)市街を見下ろす小高い丘の上にはマリエン城がそびえ、選帝侯の華麗な宮殿の地下にはドイツ最大のワインセラーがあります。

 フランケンワインは独特のボックスボイテル(Bocksbeutel)と呼ばれる袋状の扁平瓶に詰められています。これは『山羊の睾丸』と言う意味で、高級ワインはすべてこの瓶に詰められています。このユーモアあふれる呼び名は国際的にもフランケンワイン限定瓶となっています。

 ヴュルツブルクにはフランケンワインを代表する三大銘醸造所があります。ユリウス慈善協会(Juliusspital:ユリウスシュピタール)、ビュルガー慈善協会(Bürgerspital:ビュルガーシュピタール)、宮廷醸造所(Hofkeller:ホフケラー)で、現在はいずれもバイエルン州とヴュルツグルク市の公的事業として、フランケンの銘園を所有し慈善事業の運営に貢献しています。

 ユリウスシュピタールの歴史は、1576年、時のヴュルツブルクの司教、ユリウス・エヒター・フォン・メスペルブルン候により創立され、司教により次のような設立の趣旨が掲げられました。「貧しき者、病める者、医者の手を要する者、みなしご、など加護を要する者へ施療が行われるべし」。そして司教は、田畑森林ならびにブドウ畑を含む広大な領地を施療院に寄贈されました。

 特にブドウ園はヴュルツブルクを見下ろす南向き丘陵に並ぶシュタイン(Stein)『石』の銘園を初め、フランケン各地の銘園を所有しており、ワインの収益は慈善事業の大切な資源となっています。

 またユリウスシュピタールには、病院と付属の医科大学が併設されていて、世界各地より留学生も迎えています。このユリウス・マキシミリアン大学では1895年有名なレントゲン博士(Röntgen)がX線を発見して現代医学会に大きな貢献をした由緒ある大学でもあります。

 

フランケン地域独特のワインボトル

ユリウス慈善協会醸造所

シュタインの銘園

(文・写真:ワインブティック伏見)

 

ワインブティック伏見

〒232-0001 横浜市中区新港2-2-1 横浜ワールドポーターズ1F
Tel/Fax 045(222)2112

HP: http://winecom.jp
blog: http://wine1999.blog121.fc2.com
E-mail: boutique-fushimi@winecom.jp

 

 

3月 10 12

「シドモア桜100年」の足跡 ~花が心を繋いでいきます~

by staff

 横浜から日本全国に、そして世界に広がります。ヨコハマNOW2月号「ともの現場」でご紹介した「シドモア桜」を、新しい横浜の名物にしていこうと頑張っている仲間を「3月号」でご紹介いたしましょう。桜の花が人と人の心を繋いでいきます。ワシントンではもうすでに桜は満開を迎えているようです。

横浜港出港100周年記念「カクテルとジャズの夕べ」

 

昨年(2011年)のワシントン桜まつりのお土産品(全米桜祭協会から)

 

全米桜祭協会の名刺とピンバッチ。
漢字で「全米桜祭協会」と書かれてあります。(カウントダウン交流会で)

 

100年前の横浜で活躍した女性ジャーナリスト エリザ・シドモアを称える
横浜港出航100周年記念
カクテルとジャズの夕べ
イベントチラシ(PDF)

(2012年2月14日 午後6時30分~ 横浜港出港100周年記念「カクテルとジャズの夕べ」に参加して)

 

シドモア桜100周年を日本とアメリカで応援します((株)美濃屋あられ製造本舗)

 

横浜で「美濃屋」の名前で皆様に愛され続けて83年。「美濃屋」のあられは、昭和29年に神奈川県指定銘菓に指定されるなど、県内でも他にはない評価を頂いております。

シドモアの眠る外人墓地の麓の会社として、地域のストーリーやスポットを、当社の美味しいあられと共に皆さんに知って頂けるように努めていきたいと思います。
取締役(品質管理・企画担当) 小森健太郎氏

 

桜あられは海苔がついた桜の形のあられです。今年、限定パッケージを発売いたしました。マル清ブランドは海外展開しております。「桜あられ」で日本から、アメリカから、シドモア桜100周年をお祝いいたします。
http://www.minoya-arare.com/

焼きたて 煎りたて 作りたて
(株)美濃屋あられ製造本舗
神奈川県横浜市中区小港町1-6
http://www.marukiyo.net/

   

本牧/小湊 美濃屋あられ工場兼店舗入口と店内

 

「シドモア・カクテル」を横浜のカクテルに!  白井純平氏

 

東京江戸川区に在住の建築設計家:白井純平氏は2012年7月29日(日)ローズホテル横浜で行われる「ヨコハマカクテルコンペテション事務局」に「シドモア桜カクテルデザインコンペティション」の企画書を提出いたしました。「留学していた港町バルセロナの景色に似ている横浜が好きになった」と語る白井氏は26歳。青年の熱意が周りを動かしました。

横浜はカクテルの街でもあります。「バンブー」「ミリオンダラー」「ヨコハマ」「チェリーブロッサム」といった著名なカクテルがここ横浜から誕生しました。

2012年2月14日には社団法人日本バーテンダー協会横浜支部の協力で「カクテルとジャズの夕べ」が行われ、横浜カクテルコンペティションへの参画を通して、後世に残る新しい横浜の名物として「シドモア・カクテル」を世に送り出そうということになりました。

 

右側/柳澤一樹氏「横浜ロイヤルパークホテル スカイラウンジシリウス」キャプテン カクテル「ヨコハマ」を提供。

左側/小泉明日香氏「ヨコハマ グランド インターコンチネンタルホテル ミュージックラウンジ スターボ」バーテンダーカクテル「バンブー」を提供。

 

佐藤健太郎氏 「Bar Day Cocktail」オーナーバーテンダー。横浜カクテルコンペティション2010年グランプリ獲得カクテル名「Glitter」を提供

「Bar Day Cocktail」ホームページ

 

白井純平氏と白井貴子氏・大内えりか氏。

歌手・白井貴子氏はシドモア女史を映画化する「人力車旅情」の女性監督を務める。
http://www.takako-shirai.jp/index2.html

大内えりか氏は「シドモア桜100周年・里帰りを喜ぶ市民の会」会長

 

白井純平氏とバーテンダーの皆さん 右は司会の有田王城氏。

有田王城氏は「Bar Halekulani」のオーナーバーテンダー、日本バーテンダー協会横浜支部 代表代理

(撮影:2012年2月14日「カクテルとジャズの夕べ」横浜メディアセンター)

 

くらしの器と絵「匣」SAYA  重田葉子氏

毎年日本からワシントンの桜まつりに行くお客様用に、桜の器を揃えておりました。

市川徹監督の映画「TAKAMINE」を見て、日本と日本の桜を愛したアメリカのジャーナリストシドモア女史を知り、今年はシドモア桜100周年を記念して、エリザ・シドモア女史をイメージした桜の器を色とりどり集めてみました。
http://yokohama-now.jp/home/?p=2360

   

 

日本の桜をサウジアラビアへ  横浜在住 寺井由紀子氏

 

今、サウジアラビアは日本ブームになっています。教育の場では、生徒が学校をお掃除してから帰るようになりました。TVでも日本のマンガが観られているようです。日本のマンガの背景に「モコモコとピンク色に描かれているものは何?」と子供たちが親に疑問を投げかけるようです。サウジアラビア人の多くが桜を知りません。

かつてシドモア女史が贈った「桜」は民間外交の正しく「華」になりました。サウジアラビアで桜を満開に咲かせることが私の願いになっております。気候も環境も異なるサウジアラビアで桜を咲かせるために、横浜植木株式会社に協力をお願いしております。横浜植木㈱は、かつて、シドモア桜が海を渡った時にお世話をされた120年も続く会社です。

横浜からサウジアラビアへ、花が心を繋いでいきます。

 

「鹿芝居」三遊亭圓朝作「人情噺芝浜革財布」(シドモア桜100周年・橫濱里帰り記念公演)

 

2月25日・26日に横浜にぎわい座 芸能ホール落語家によるお芝居について、金原亭馬吉さんが楽しみ方を伝授。台本どおりには進まない落語家のお芝居、「シドモア桜」を馬生一門と同志師匠たちがどう料理するかが楽しみにです。


シドモア桜についてシドロモドロ語られるシーン
   
イベントに合わせた限定パッケージあられで
「鹿芝居」を応援!

日米桜交流100周年記念シンポジウム~ワシントンに花咲くシドモアのこころ~

 日本からワシントンに桜が贈られて100年。桜並木誕生の功労者で山手の横浜外国人墓地に眠るエライザ・シドモアを中心に、日米交流と横浜の歴史を振り返ります。

日時:2012年4月7日(土) 14:00~17:00
場所:横浜開港記念館
詳細:イベントチラシをご覧ください(PDF)

(取材・文と写真:高野慈子

 

3月 10 12

忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

by staff

♪忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:平兼盛(たいらのかねもり)

 この歌は、訳さなくてもきっと誰にでも思い当たる体験や情景があるのではないかしら、そんな思いが強いのであえて現代語訳は省きました。私の場合は恋に落ちたときは自分がとても弱く傷つきやすくなってしまうので、誰にも言いたくありません。でも不思議です、そういう時に限って不意を突かれるように「あら貴方、最近恋してるんじゃない?」なんてズバッと言われてしまいます。後になってみればなんて素敵な体験だったのかしら、もう一度恋してみたい。と思えるのですが、恋に落ちているその瞬間はハートの真ん中が制御不可能になって、むき出しの心にちょっとした風もひりひり痛んで大変だったのを覚えています。「恋してるんでしょう!!相手は誰?」なんて他人に茶化されたくもありません。「恋わずらい」とは

よく言ったもので、恋とはそのくらいデリケートな感情です。霊視能力のある知人に聞いたところオーラがピンク色に変わるんですって。

 さてこの歌には国文学史上から見ても、特筆すべき、有名なエピソードがあります。
 時は西暦960年(天徳4年)の3月30日に宮廷で催された歌合わせでの出来事。
 この歌合わせの事はとても有名で「天徳内裏歌合わせ」と言われて歴史に残されています。この歌合わせのスタイルが以後のお内裏で行われる「歌がき」セレモニーの模範になったそうです。時の村上天皇は、ばりばりの35歳。インテリで芸術的な事にはとても積極的な人でした。きっと華麗で豪華な歌合わせだったのでしょう。そんな一世一代の歌わせで、最後に競われた恋の歌の部門。大詰めのクライマックスに披露されてもう一つの歌(壬生只見の首)と甲乙つけがたく、その場にいた審判や選者達はみんな引き分けと思っていたのですが、ふと村上天皇がこの歌を口ずさんだので、この歌に軍配が上がったと言われています。私にとってこの歌は、初めて「和歌うた」の組曲として第一番目に選んだ歌なので感慨深いものがあります。マウイ島のカレッジ在学中に、コンピュータラボでネットを通して見つけた百人一首から無心に選んだこの歌に、超有名なエピソードがあったなんて。

 1052年前に生きていた35歳の村上天皇がふと口ずさんでいた。と言われるこの歌の素晴らしさは、その美しい音としての響きの中に、そして現代語訳を見なくても殆どの日本人が理解できてしまう普遍性の中にあるのでしょう。この歌の持つ「事の葉」の響きに時代を超える大和言葉の美と生命力を感じてしまう私です。
 次回はこの歌とペアで競われた恋の歌です。 早苗ネネ♪

毎月第2金曜日 3月9日、4月13日
6時30分~ 3回ステージ ¥5500ワンドリンク付き 入れ替えはありません。
出演:早苗ネネ パリ祭出演の歌手の方々2~3名。
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

3月 10 12

ヨコハマ・ファニー・ドッグス・クラブ

by staff
ヨコハマ・ファニー・ドッグス・クラブ  

街角でみかけたワンチャン。みんな個性があって面白いですね。ワンチャンが主役のヨコハマ・ファニー・ドッグス・クラブ。生来の愛犬家工藤文子さんが街でみかけたなにげないワンチャンをスナップしました。

カメ太郎
お前まで巣鴨かよ!歩くのがいやで自転車の荷台でくつろぐカメ太郎

ケイ君
僕を写してどーするの?僕、今忙しいんだよ。。。

ジョン君
ビビリのジョン、、お散歩帰りでヘロヘロ!

シロクロの騎士
僕のご主人様、おばあちゃんを僕は守ってるんだ!
と堂々と踏切が上るのを待っていた。

バビー
やんちゃ盛り。おめめもキラキラバビー!「お座り!」

ボウ君
ボウは見た!カーテン越しからジーッと見つめるその先には。。

豆柴のテツ
お日様がキラキラしていて、、、思わず瞑想にふけるテツ

名無しのワンちゃん
いきなりオシッコしてる時に写さないで、、、あれ?恥ずかしいよ~

(写真・文: 工藤 文子

 

3月 10 12

『横浜』という名を製品に使っているから、『横浜』を皆さんに伝えることが使命です。
株式会社横浜ビール 代表取締役社長 太田 久士さん

by staff

 「若い時は前に進むことしか考えなかった。 ある時、上空300mから自社を見ようと思った。すると地域が見えてきた。自分がどの位置にいて、何をすべきか見えてきた」・・・『横浜』という名を製品に使っているから、『横浜』を皆さんに伝えることが使命になりました。 横浜ビール「驛の食卓」で、太田社長のお話しを伺いました。

太田久士さん  
お名前 太田 久士
(おおた ひさし)
ご年齢 49才
ご出身 香川県
ご家族
ご趣味 ボクシング・バイク(スピード系)・ランニング・バンド(ドラム)
ご性格 短気・せっかち・・・じっとしていられない
ご職業 株式会社横浜ビール 代表取締役社長
直営レストラン「驛の食卓」 横浜中区
直営レストラン「創菜Patio」 江東区有明
直営レストラン「Blend Meister Caf?」 江東区有明

 

地元の食材を使った食文化を伝えていきたいと思っています

 横浜ビールの直営レストラン「驛の食卓」のメニューは手書きです。 活きのいい魚が入った時は「刺身」で出します。 食材が一番美味しく食べられる調理方法を提供しているので、「揚げ出し豆腐」が「本日のおすすめ」(写真)に載っています。 始めた頃は、料理長から「うちはイタリアンでは?」と訊かれたこともありました。 岩井の胡麻油と横浜醤油で作った旨ダレで食べる「横浜 はまポークの小龍包」は美味しいですよ、中華料理ですがね(笑)・・・ 

 新鮮な食材を新鮮な内に食べてもらうためのメニューだからこそ、手書きに成らざるを得ない。以前、食べて美味しかったからと来られても、今日のメニューに無いことが・・それが「新鮮」とか「旬」であることの「こだわり」だと思います。 いつ行っても同じメニューなのを不思議に思わないと・・・ね!

驛の食卓の手書きのメニュー「本日のおすすめ」

驛の食卓の手書きのメニュー「本日のおすすめ」
画像をクリックしてPDFをご覧下さい

 

 安政4年創業の「岩井の胡麻油」、明治29年日本初のトマトケッチャップを作った「清水屋ケチャップ」、大正12年創業の「みやぎやの豆腐」、昭和6年創業の「ヨコハマハム」・・・横浜土産に推奨されていても、横浜で普段使いされているかと言えば「そうでない」・・・横浜は3日住めば「ハマッ子」だと言われるように、生粋の横浜人は少ないから、「知らない」のだと思いますよ。 生産者を知れば、そこで作ったxxxとか、あの人が作っているxxxとか、生産者の思いに触れることができます。その思いに共感し「好き」になれば、その「思い」を他の人に伝えたくなります。こんなに良いものがあるのだと自慢

したくなります。それが人に誇れる「食文化」に繋がるのだと思います。 生産者と消費者の距離を埋めることが、私の使命です。

苦手だから客観視することができました

 以前は地ビールが苦手でした。約20年前に酒税法が変わり、最低製造数量基準が2000klから60klに緩和されたことを受けて、地域密着型、町おこし・村おこし型の地ビールブームになります。横浜ビールもその流れから生まれたのです。前任の社長はお酒が飲めない人で、私はビジネスパートナーとして「横浜ビール」を引き受けました。

 苦手が幸いいたしました。地ビールは、xxxピルスナーとかxxxヴァイツェンとか舌を噛みそうな名前で、味はいまいち、値段は高いものだと思っていました。横浜ビールも引き受けた当初はそうでした。自分の苦手だと思うところをカバーできたら、ビジネスチャンスはあると思いました.。自分の体感したものを具現化することで横浜ビールを変えていくことができました。

 もし、地ビールが好きで始めていたら、違った方向に行っていたと思います。この店も無かったかもしれません。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

株式会社横浜ビール 太田社長

魚屋気質・・・今も気持ちは町の魚屋さんです

 香川県からバンドがやりたくて上京して来ました。アルバイトをするなら、時給が良い所を探そうと、上野アメ橫の魚屋で働くことになりました。朝5時から夜中の1時まで働きました。辛くなかったと言えば嘘になりますが、当時18歳だったのでみんなから可愛がられました。個性の強い人間が、最後に行きつく吹溜りのような町でした。いかにお客様にアピールするか、どう演出して成績を上げるか、一生懸命に考えました。

 魚屋気質も身に着きました。1日のたらこの販売量でトップになりました。この記録はまだ破られていないと思います。ものを売るのが天職だと思いました。上野に5年、それから渋谷の魚屋で働いた後、オーブンに料理を入れるコックの姿に憧れて、赤坂のレストランに勤めました。これがきっかけで料理の世界に入り、料理が面白くなりました。

自分の住んでいる町に誇りを持つこと・・・桃ビールのはなし

 昨年3月11日の東日本大震災から、人の心が大きく変化したと思いました。信頼できる本物が求められました。また、自分の町のこと、身の回りのことを知ろうとする動きがありました。自分の町に何があるのか、知れば知るほど人や町が好きになります。好きになること・・・愛情が「誇り」になるのだと思います。

 綱島はかつて桃の産地でした。西の岡山、東の神奈川と言われるほどの桃の産地でしたが、現在、桃農園は池谷さんしか残っておりません。綱島が桃の産地だったことすら知らない世代も増えました。その池谷さんが丹精込めて作っている桃の中に、商品規格に外れたものが出るという話を聞いて「もったいない」と思いました。こうして、規格外の桃を使った「桃ビール」が生まれました。 

 

 桃の箱のラベルをビールのラベルにしました。この桃ビールを綱島で売り、綱島の人に買って欲しいと思いました。綱島が、かつて日本一を競った桃の産地であったというストーリーと、生産者の「誇り」を、ビールに変えて綱島に伝えたいと思います。

点と点、線と線を繋げて面にする役目が自分だと思っています

驛テラス
(画像をクリックして
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 食材だけでなく、横浜の良さを伝えていくのが自分の役目だと思っています。レストラン驛の食卓の店前のスペースで毎週火曜と金曜に「驛テラス」といった昼市・夕市を開き、生産者が直接消費者に「こだわり」を売っております。

 また、生産地の枠を電気屋、印刷屋、造園業などにまで広げ、仮想商店街を実現しています。映画や音楽、落語、その他数々のイベントの後援も引き受け、食文化から芸術・芸能文化の良さも伝えていこうと思っています。

あなたにとっての横浜は?

横浜ビール、岩井の胡麻油、清水のケチャップ、横浜醤油と太田社長
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 生産者の思いを料理に変えて伝えます。美味しいと思っていただけたら、それを身近な方に伝えてください。こうして、地元を知ることから地元が好きになり、「地元に誇りを持つ」ことに繋がると思います。

 私にとって横浜とは、「土着性の強さ」だと思います。横浜に住んでいる人は、横浜が好きですよ。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

1F 横浜ビール 工場

1F 横浜ビール工場の一角で大川印刷の横浜新100景のイラスト展が開催されていました。

2F直営レストラン「驛の食卓」

 「ヨコハマNOW」では、太田社長にご紹介いただいいて今年は横浜の「食文化」を創り出している方々をご紹介していく予定です。

(インタビュー:渡邊桃伯子  文・写真:高野慈子

 

2月 10 12

ブラとも 「シドモア桜」

by staff

 みなとみらい線の元町・中華街駅を出てすぐ、元町交番の後ろに「シドモア桜」という文字が書かれた説明板が建っているのをご存知でしょうか。説明板には、紀行作家で「日本・人力車旅情(Jinrikisha Days in Japan)」の著者であるアメリカ人女性、エリザ・R・シドモア(1856~1928年)さんの写真が掲載されています。

 シドモアさんは1885年(明治17年)頃、ジャーナリストとして日本各地を人力車で訪ねて、日本の文化や風俗を欧米に紹介した方です。この文章が「日本・人力車旅情」というタイトルで出版されました。日本語訳は横浜の有隣堂から出版されています。(現在は有隣新書になっています)

 アメリカに帰国後シドモアさんは、日本の桜並木の素晴らしさ母国でも再現したいと、ワシントン市のポトマック河畔に桜並木を作りたいと提案しました。シドモアさんや世界的化学者で実業家でもある高峰譲吉氏の尽力があって、1912年(明治45年)、東京市から寄贈された6000本の桜の苗木を積んだ「阿波丸」は、2月14日横浜港から出航しました。3月27日にワシントン市で開催された植樹式にはシドモアさんも参加されたそうです。

 ポトマック河畔の桜並木は、世界的な桜の名所になっています。毎年3月末から4月初めのシーズンには、「桜まつり」が開催され、多くの観光客が訪れています。

 シドモアさんはスイスで亡くなりましたが、日本政府は彼女の死を悼み、お母様やお兄様が眠る横浜の外人墓地に埋葬したのです。平成3年(1991年)、ポトマック河畔から里帰りした桜がシドモアさんの墓の傍らに植樹されました。その桜が「シドモア桜」と呼ばれているのです。

 大勢の観光客で賑わう元町の橋のたもとにひっそりと「シドモア桜」は並んでいます。そこから、港が見える丘公園を目指して、坂を登った所に外人墓地はあります。外人墓地の入口にある展示室には、埋葬されているの著名外国人の中に、シドモアさんの写真もありました。外人墓地は毎年3月末から12月末まで毎週土・日。祭日(雨天を除く)に「一般公開」されますので、桜の季節にはシドモアさんのお墓参りをしたいと思っています。

 

(画像をクリックして拡大写真を
ご覧ください)

シドモア桜

シドモアさんの説明板

外人墓地の様子

 ポトマック河畔に桜の苗木が送られてから今年でちょうど100年になります。横浜では「シドモア桜100周年 里帰りを喜ぶ市民の会」を中心に様々なイベントが開催されます。

 また、ミュージシャンの白井貴子さんは映画監督の初作品として「サムライガール エリザ・シドモア(仮題)」を製作中です。(6月頃公開予定)

 日本の文化をそして桜を世界に広めてくれたシドモアさんを多くの方々に知っていただきたい、そしてイベントにも是非参加していただきたいです。

<シドモア桜100周年記念イベント>

2012年2月14日
横浜港出航100周年記念 「 カクテルとジャズの夕べ 」
梱包された桜が日本郵船「阿波丸」でアメリカに向けて横浜港を出航してから100年目の2月14日に開催されるシドモア桜市民の会主催のイベントです。
シドモアさんをイメージしたカクテルが出るそうです。

 
2012年2月25・26日
シドモア桜100周年・横濱里帰り記念公演
「馬生ハマ寄席 第十六回興行」
落語家さんたちが芝居をするという珍しい鹿芝居の中にシドモア桜のお話がでてくるそうです。
 
PDFを表示する

 

シドモア桜100周年 里帰りを喜ぶ市民の会
http://nogehanahana.org/project/sidmore/about

馬生ハマ寄席
http://www.ad-pla.net/cosmostage/hamayose.html

ミュージシャン白井貴子さん 映画監督に初挑戦
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120122/kng12012221450006-n1.htm

 

2月 10 12

セカンドライフ列伝 第2回 伊能忠敬

by staff

榎本技術士オフィス/榎本博康

第2回 伊能忠敬

配偶者の死に開放される才能

井上ひさしの「四千万歩の男」

井上ひさしの「四千万歩の男」

 

 さて、セカンドライフ列伝は第1回の紫式部に続いて、今度は正確な日本地図を作成した伊能忠敬(1745~1818)です。彼は造り酒屋である伊能家の婿養子となり、実質的な家長である妻のミチに一切の道楽を禁じられ、徹底的にシゴかれていたという話を聞きました。忠敬はわき目も振らずに事業に精を出し、その成果として傾きかけた伊能家を見事に再興させました。その妻が先に死ぬと、やがて50歳で家督を息子に譲って、自分は天文学を学び、やがて日本全国の海岸線地図を作成するための、長い旅にでます。その動機は子午線1度の距離を正確に計測し、地球の大きさを知ることにあったといいます。

 紫式部の夫が先に死ななかったら、源氏物語を書くことが無かったであろうように、伊能忠敬も妻が先に死ななかったら、到底測量の旅には出られなかったでしょう。これは夫婦というものを考えさせられることでもあります。ただし皆さん、だからと言って離婚を急いではいけません。我々凡人には、離婚後に開花すべき才能は備わっていないのですから。それでは、今回も史実の正確性はそこそこに、私の妄想による忠敬のセカンドライフの観察におつきあいください。

どん底の少年期

 忠敬の子供時代は悲惨でした。当時は「家」が経営の母体ですから、男子が居ない場合には女子に婿養子をとり、家を維持していきます。実は彼の父も婿養子だったのです。ということは、将来「家」を託すに足りる優秀な人材だったのでしょう。

 彼は1745年(延享2年)に、その次男三次郎として誕生したのですが、6歳の時に母みねが亡くなってしまいました。すると父は兄、姉と共に実家に帰されてしまい。彼だけが残されました。やがて生家は叔父さんが継ぐことになり、(むむ、母には男兄弟がいたんだあ、)三次郎も10歳の時に父の元に引き取られました。三次郎は幼いながらも利発な子どもであったので、後継ぎの保険として残されたのでしょうが、幼くあっては権力争いができるわけも無く、掛け捨て保険に終わってしまったのです。つらかったろうなあ。

 このどん底こそ、三次郎が大きく育っていく土壌になったことは疑いがありません。その後の彼は寺の住職に就くなどして勉強をしたとのことです。当時でも日本の教育レベルは世界的な高さにあったと思われます。現在で言えば経営学部卒くらいになっていたのでしょう。数学や医学も学んでいます。この並外れた数学力が後に第二の人生の基盤になりました。

第一の人生、佐原の実業家時代

 18歳(現代の満年齢では17歳)で、現在で言う千葉県佐原市の酒造業、伊能家の婿養子になりました。当時、伊能家は傾きかけていたがゆえに、彼の才能が必要とされたのでしょう。格の高い家の養子となり、家格を合わせての結婚でした。妻のミチは再婚で年上の21歳でした。このミチは実にしっかりとした人で、家業に厳しく、忠敬には一切の道楽を許さなかったそうです。だいたい一般に男と言うものは、ちょっと手を緩めると糸の切れた凧のように、どっかに飛んでいきかねないものですから、ミチはそんなことは十分に承知していて、徹底的に支配したのでしょう。

 でも忠敬夫妻の信頼関係は相当に深かったと思います。夫婦と家の経営という、2つの事業を共有するというのは、相性の良い夫婦でなければできません。サラリーマン家庭の人には到底理解が及ばない生活でしょう。私は忠敬がぐぐっと我慢していたとは思いません。彼は家業に励み、その興隆を楽しんでいたに違いありません。事業領域を拡大し、また36歳で佐原本宿の組名主になっています。地域貢献も多くして、人望が厚かったといいます。佐原は江戸に近いという地の利もあって、相当に商業の盛んな土地であったようです。

 しかし、それから間もなくミチは亡くなります。すでに実績のある忠敬は、父のように実家に帰されることはありません。既に伊能家は忠敬そのものであったわけですから。その後二人の後妻をもらいますが、いずれも早くに死去してしまいました。忠敬はミチの死後、道楽を始めます。その道楽とは天文学でした。彼のビジネスでの物流、金流と共に、当時最先端の学問の情報も、江戸から流れてきていたのでしょう。「THIS IS IT」(これが求めていたそれだ)と、マイケルジャクソンより2百年以上早く言ったとか、言わなかったとか。

第二の人生、天文・測量学者の時代

 忠敬は数えの50歳で、家督を息子の景隆に譲って、自分は江戸で好きな天文学の勉強を本格的に始めました。先生として私淑した幕府天文方高橋至時は当時30歳くらいで、とんでもなく老人の弟子を持ったわけです。今でこそ、定年後に大学で博士号に挑戦する人は珍しくありませんが、当時としては大変なことです。

 その忠敬が地球の大きさを知りたいと、蝦夷地への測量を企画し、寛政12年(1800年)に数えの56歳で実行します。その前年に幕府が東蝦夷を直轄地としたことが背景にあり、幕府から測量の許可を得ています。また地球の大きさの測量には江戸から北への距離が長いほど適しています。日本の地形が関東から北に立ち上がっているのは、何という幸運でしょうか。この測量旅行の事情は井上ひさし氏の小説「四千万歩の男」に詳しく書かれています。小説であるからには面白おかしくするために、史実には無い事件がいろいろと起こりますが、測量旅行自体は史実の日程に忠実だそうです。昼間は測量、夜はその日のデータ整理と天測という毎日の繰り返しであり、大変にハードな旅であったことが描かかれています。

 測量は、車付の箱を曳くと距離が分かる歯車内蔵の量程車は車が滑るので精度が悪く、歩測の精度が良かったとのことです。小説では忠敬は2歩で1間(約1.8メートル)を歩いたとありますが、これは大変で、実際は0.7メートル程度だったようです。方角は磁石を使った小方位盤、緯度は象限儀(しょうげんぎ)という装備で、10名程度の部隊でした。

 ところで、この時の費用は忠敬の自弁です。幕府は許可を呉れただけで、経費は出しませんでした。小説では、家督を譲りうけた息子の景敬が、どうぞお使い下さいと、ポンと出して呉れたというのですから、ここだけはうちの息子にも読ませたい。いい言葉なのでもう一度、「お父さん、どうぞお使い下さい(ポン)」息子。

 後年には、幕府がその価値を評価し、予算もついたので全国の地図が完成しました。第10次測量までの成果は、「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」(合計225枚)と「大日本沿海実測録」(14巻)として1821年にまとめられました。ただし忠敬は1818年に死去していて弟子たちが完成させたわけですが、その死は秘密にされ、成果とともに初めて公表されたと言います。

 忠敬の業績は測量にあることは事実ですが、その動機が地球の大きさの計測にあり、また金星の南中の観測や、日食の予測計算をしたことから、私は天文学者と考えています。

再考、少年期

 ところで、6歳での母の死後、生家で10歳までを過ごしますが、その間は本当に掛け捨て保険君だったのでしょうか。私の妄想はむらむらと沸き立ちます。

 父と姉、兄は実家に帰された中で、彼だけは残されました。そこには母の父、つまり祖父の心があったのではないでしょうか。娘の遺児を手元に置き、四季折々の自然や仕事を体験させ、用水路のなりたちなど人の英知を教え、読み書きそろばんの基本、そして月の満ち欠けや地球が球体であることも話し聞かせたのではないでしょうか。16世紀のマゼランの世界一周航海による地球が球体であることの実証から既に百年以上、それが日本の知識人の常識であってもおかしくはありません。忠敬は母の面影を一番星に見ながら、人の世のはかなさとともに、宇宙のなりたちの深遠さに目覚めていったのでしょうか。幼き忠敬は祖父にインキュベートされつつある、ベンチャーキャピタルの秘蔵っ子、天文学の幼きアントレプレーナーであったと、私は夢想するのです。

(2012.1.31 榎本博康)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)
榎本博康氏による2歩で1間(1.8m)の実験

榎本博康氏による
2歩で1間(1.8m)の実験

 

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

2月 10 12

ソーシャルメディアの正体(第七回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.ソーシャルメディアでモノ・コト創りを考える

 第二回で紹介したグランズウェルで考えると、企業としては、ソーシャルメディアに関わるのだから、高度な支援戦略や統合戦略まで漕ぎ着けたいところが本音であろう。

 支援戦略は、顧客のニーズにあった解決法(ソリューション)をソーシャルメディアの環境で生み出そうという戦略である。具体的にはお客さまが参加する商品企画などがこれに当たる。商品開発の初期の段階にお客さまに絡んでもらって、売れる商品づくりを目指そうという考え方だ。

 よく引用される事例として、「無印良品」を展開する良品計画がある。今ではフェイスブックページ(フェイスブックでの企業ページ)の成功事例として引用されるが、成功に至るまでの多くの努力が背後にあることも忘れてはならない。フェイスブックをやったら、すぐに成功するといった単純なことではない。積み上げた努力が重要だ。

 良心計画ではネットを使った顧客との共創の模索は、2001年にさかのぼる。もちろん、ツイッターやフェイスブックといったソーシャルメディアも存在しないときである。当時は、「ものづくりコミュニティー(現『くらしの良品研究所』としてリニューアル)」を設置し、生活者との交流によって、生活者視点の商品開発を進めていた。すでに、このサイトから「体にフィットするソファ」といったヒット商品も生んでいる。

 現在開発中の「スマートフォンでも使用可能な手回し充電付きラジオ」も顧客の声に応えた商品づくりだ。東日本大震災以後のエコと防災グッズのニーズを巧みに捉えている。

 先ず、お客さまがどのように商品企画に参加するのかを見てみよう。

 商品企画のプロジェクトに参加するには、同社サイトのメンバー登録を行う。登録完了後、掲示板などに投稿を行い、次々と投稿される内容から、「これは」と思ったアイデアを開発テーマとして選定するといった流れである。最終的には、ソファの場合「すわる生活」といったテーマで紹介され、良品計画自身がコンセプトを設定する。更に顧客の知恵の集約である複数のコンセプトに対して、顧客が人気投票する。その後は、通常の同社の商品設計、商品開発、販路設定を経て、確定された商品案に、購入予約を募る。購入予約数が一定の予定ロットを越えた時、初めて商品販売の段階となる。

 ここでの良品計画の姿勢が重要だ。実店舗と同様に、ネット上でお客様の声を聴き、要望からニーズやアイデアを取り上げていく姿勢が活かされていることである。フェイスブックページを運営する「中の人」(=社員)も同社の実店舗での販売経験があることから、さらに具体的な商品化に持っていくノウハウがこのあたりにある。

 良品計画の事例は、多くのネット上のファンを捉え、ソーシャルメディアによるモノづくりの枠組みを提供した好例である。

 モノづくりには、企画に顧客が絡むことでオープンであり、顧客同士や企業も加わったことによる「面白さ・楽しさ」が重要である。市中で購入できないレアな(稀な)商品は、初めて提案した顧客にとって、決してレアとは思わないが、企業から見れば、希少品(レア)である。その後、コミュニティーの中で、購入したい顧客同士の交流によって潜在需要が広がることで、レアから企業が扱える相当数の商品に変化する。と同時に、企業は、売るべき顧客像や商品イメージを手に入れられるというわけである。

 売るべき商品を買うべきお客様に届ける。最もマーケティングで達成したい環境が拡がる。

 それでは、コト(イベント)ではどうだろうか。

2.ソーシャルメディア・マーケティングで集客を考え、イベント開催する

 店舗への集客では飲食業や小売、コンビニエンス・ストアなどが事例として挙げられる。中でも、コンビニエンス・ストアでの取り組みで集客をコトで進める「クーポン」の効果は大きい。すでに、グル―ポンなどのクーポン連動型SNSが話題に上り、利用した読者もあるだろう。

 国内で最初にコンビニエンス・ストア業界で、ソーシャルメディアをマーケティング戦略として取り組み始めたのは、ローソンやファミリーマートである。ローソンは、2010年4月からツイッターを皮切りに、同年8月にはニコニコ動画、ミクシィページなどを設定、公式アカウントが15サイトと拡げている。

 重要なのはその対応の速さ。ソーシャルメディア参入を企画からソーシャルメディア・ポリシー策定、経営会議の承認、ツイッターの運用開始まで約2カ月で行った。そこには大手広告代理店が入る余地はなく、自社チームで、メディアや提携企業と直接取引で運営しているという。更に重要なことは、クーポン発行というコトに対する評価を設定したことである。評価は、自社サイトへの流入数とクーポン発行数、そしてPOSで分析できるクーポン発行による店舗への来店数である。これを従来の購入メディアで概算すると、10年度の流入数はバナー広告概算で4億円相当の効果があったという。

 商品キャンペーンや新商品発表会、サービスの開始と言ったイベントには、今後お客さまを無視できないのと同様に、ソーシャルメディアも無視できなくなるだろう。イベントでの販売促進は、自社商品のファンを増やし、継続的に商品を手に入れてもらわなければならない。生活者だけでなく、最近はB2B(企業間取引)でも、顧客である企業のファンも、自社のファンになって頂くといったマーケティング戦略が必要となっている。

 良品計画やローソンの事例から分かることは、これまでのマスメディアの専門家(広告代理店)ではなく、自社商品を良く知っている「中の人」(=社員)が対応していることだ。大きな広告宣伝費をかけて一過性のお客さまを得るのが目的ではなく、中長期的にファンとなるお客さまを捉えるなら、「中の人」がうってつけというわけである。ファンの心理としては、相手が社員であれば、企画や開発への自分のアイデアを盛り込んでもらえるのではないか、という期待が大きいと思われる。実際に、良品計画のような商品づくりに参加した場合、その満足感は大きいだろう。この満足感や期待感が引き金となって口コミを生み、ファンの獲得につながるというわけである。ただし、第五回でも述べたように、顧客の期待を裏切ってはならない。期待を裏切り、信頼を失ったときのしっぺ返しは、「炎上」事件を引き起こし、果ては会社の存続も危うくするだろう。

 これまで何度も説いてきたようにソーシャルメディアを挟んで、ファンと企業が対峙するのではなく、同じ視点で立ち、自社の経営理念が、全社員、ピタッと一致しておれば、ソーシャルメディアに危機感を持つ必要はない。

3.統合戦略は「何でもござれ」ではなく、ブランド作りに通じる一貫性を持とう

 統合戦略は、自社の経営理念を元にしたブランドに共感を覚えるファンを支援し、商品の企画から販売までお客さまと共創する戦略である。好きなブランドに自分の思ったモノを作ってもらい、自分も参加して、購入するといったサイクルである。企業にとっては、正に「夢のサイクル」であろう。

 では、ここで言うブランドとは何であろうか。マーケティングの専門的な話はおいて、ここでは、ソーシャルメディアとして次のような経営理念を社員と共有していることである。つまり、

  • 経営理念に基づく自社の社会的な使命、ミッションが明確であること、
  • 自社がもつビジョン、つまり商品やサービスを通じて進めていく将来像が明確であること、
  • 自社が社会的に存在する意義と強み(コア・バリュー)が明確であること、

である。

 ソーシャルメディアでは、お客さまの声がすぐに聞き取れ、対話ができる利便性ゆえに、企業としては、経営理念を社員で共有していないと、個々の社員が、ブランドイメージにそった回答が出来ないことになる。つまり、統合戦略では、お客さま側に社員が更に踏み込むことが多くなり、ブランド作りに通じる一貫した応対が基本となる。お客さまも経営理念を十分に知っており、ブランドイメージに共感しているからこそ、社員は、その応対に「変わらない経営理念」とブランドイメージを念頭におかねばならない。極端に言えば、この一貫性がないならソーシャルメディアには関与出来ないともいえる。

 変わらないものから、「変えるべき」ものは、刻々と変化するニーズに対して常に自社の商品やサービスを進化させ、提供する組織や知恵もどんどん進取していかないとおぼつかない。広く社外の知恵を傾聴して、公開していくとともに企業の構造もニーズにあった形態に変わる必要があろう。

 次回は、ソーシャルからみた企業イメージ、ブランドについて考える。ソーシャルメディアだけでなく、他のメディアとも連携して、よりお客さまから愛されるブランドとなることについて詳しく見ていこう。

次回の予告:
次回は、いよいよ最終回。「ソーシャルメディアと他のメディア」と題して「ソーシャルメディアを使ったブランド作り」を解説しよう。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

2月 10 12

「レッドライト」(連載第11回) 美学を継ぐ匠・三代目彫よしの仕事部屋

by staff


伊勢町の仕事場。デザインの参考にするため本が多い

 「これは機械彫りだね」。
 開口一番、三代目彫よしは断言した。
 前回紹介した開港初期の彫り師・彫千代のデザインしたアルファベットのカリグラフィー(前回未掲載)を見ての発言である。
「おなじ幅の線が二重になってるでしょう。これは手でやったら大変なことになる。手で彫るとチクチク刺しながら、滲んで拡がった血を拭いていかなきゃならない。細い線を、しかもカーブがかかっているのを二重に彫るのは、これだけで大変な時間と労力がかかる。機械なら40分くらいだけど、手だと5~6時間かかる」

 そこには厳しい職人の目があった。
 日本はイタリアやドイツと並んで職人に敬意を惜しまない国だ。しかし国内よりも、むしろ海外で評価される名人もいる。その一人が三代目彫よしである。
  静岡出身の彫よし氏は、横浜の西区伊勢町に住む初代彫よしに手紙で弟子入りを志願した。三代目は初代の血縁者ではないのだ。しかし返事がなかったため、飛び込むようにして横浜にやってきたという。

 「もし弟子入りできなかったら、どうするつもりだったんですか?」
彫よし氏は破顔一笑。
「一晩座り込んで、それでも駄目ならヤクザにでもなればいいやと思って。短絡的だったね」

 彫よし氏は、北野武映画の常連で三谷幸喜の『ザ・マジックアワー』やテレビドラマ『逃亡者 木島丈一郎』などで知られる俳優の寺島進に似ている。 江戸っ子ではないが、かなりちゃきちゃきした人だと感じた。それは生来のものかも知れないが、職業柄と言える部分もありそうだった。

 しばしば話題になる「和彫りと洋彫りのちがい」に話が及んだときだ。氏はこんな風に説明した。
 「あるお客さんに隠し彫りすることになったんだけどね。肩に鷹が彫ってあるのよ。隠し彫りっていうのは、その裏側、二の腕の内側に絵柄を入れることなんだけど、何にしようか、って話になったとき『富士山の絵と『鷹』という漢字、それからナスの絵を三つ入れたら良いんじゃないか』と提案したわけ。一富士、二鷹、三茄子だよ。水商売の女の人にカニを彫ったこともある。『客を挟み込んで離さない』っていう意味でね」
 「戦国時代の兜の前立(まえだて)もそう。 バッタとか毛虫とか弱そうなのをつけてる。でもそこには『葉(刃)を喰う』っていう意味がある」

 和彫りで大事なのは、そういった言葉あそびや洒落っ気を絵柄に変えていく精神なのだそうだ。そういう基本的な考え方は師匠についているときに学んだという。
 「先生はどんな絵柄を入れているんでしょうか」
 「オレ? オレの腕には金魚が彫ってあるんだけど『煮ても焼いても食えない』っていう意味がある」
 「粋」を売りにするのは花柳界ばかりではないのだ。

 この記事の取材は主に吉田町の居酒屋で行われた。まず約束の段階で、二ヶ所ある氏の仕事場のうち、お気に入りだという伊勢町の方へ伺ったのだが、「呑みながら話した方が時間の短縮になるでしょう」ということになり、ビールジョッキを空けながらの楽しい会話になった。

 

人間関係の美学

 「初代は弟子だけでなく、お客さんからも尊敬されてた。威張るわけでも叱るわけでもないけど、威厳があった。小さくて汚い仕事場だったけど、『真剣勝負の道場』で、初代が来るとガラス細工のような心地よい緊張感が走る。咳払いも出来ないほどピンとしてね。たまに『あの頃に戻りたい』と思うけど、そんなこと話す相手もいないしね」
 「師匠は背も高いし、粋で金離れも良いし。こういう人になりたいな、という憧れの存在だった。芸人が来ればご祝儀積んだり。
 40年くらい前は堅気の客もチップを置いていったよ。三千円の彫り賃に対して五百~千円くらい。ヤクザだと一万円くらい。今では夢物語だけどね。
 オレよりちょっと上の彫り師で、でかい新築の家を土地ごとチップで貰った人もいたよ。門も玄関もついた何千万もするご祝儀。土建屋のオヤジに気に入られたからだって。今まで聞いた中で一番すごい話だ。時計やスーツなんてざら。身体を預けているから、身内以上の関係が成立する」
 「江戸時代はもっとすごい。一蓮托生。おなじ罪の意識を背負った、もっと深い繋がりがあった。贔屓にしてくれた人と彫り師の間には、人間関係の美学があった」
 「昔の彫り師は一年の半分しか仕事が出来なかったんだよ。冷房も扇風機もない。夏はお客が汗をかくじゃない? でも氷柱を立てるくらいのことしか出来ない。そんな訳で墨を入れられない。冬はこたつくらいしかなくて、寒いから裸になれない。だから働けない時期が半年あった。で、その当時の人たちはどうしてたかって言うと、パトロンになってくれる人がいて面倒を見てくれてたわけ。面倒を見るっていっても飯を食わせてやるだけじゃなくて、小遣い渡して遊び代も払ってやってる訳よ。明治・大正の頃なんか刺青は禁止だったから、面倒を見ていた彫り師が捕まるかも知れない。だから恩返しが期待できるわけじゃない。それでも世話を焼いていた旦那がいたわけだ」
 「これは日本独特のものだと思う。欧米はもっと打算的じゃないかな。でも日本ではそれはかっこ悪い。『人間どうせ一遍死ぬんだ』という死生観が流れている」

 

彫千代

 「暇なとき、よく紅葉坂にある県立図書館に通ってたんだ。明治時代の三面記事を片っ端から読むようになってね。いろいろ面白いことが分かる。
 大正時代だったと思うけど、関脇で彫ってるのが二人いた。写真や番付が見つからないけど、相撲取りで刺青は珍しいから、記録が残っているはずだよ。昭和に入ってから土佐の素人相撲でやっぱり刺青してるのがいた。でも江戸時代にはいなかったと思う」
 「国内でピストルを通販で売ってた時代もあってね。だから一般の人がピストルを持てたんだよ。彫千代(前回登場)がピストルで心中したのも、それでだね。古本屋で銃砲店のカタログが出ていることがあって、当時の値段も調べられるよ」
 「心中は一種の美学で流行的な側面があった。でも心中を刺青の絵柄にするのは、粋とか野暮以外のものだよ。殺しの場面はありうる。仇討ちとか恨みを晴らすのは、絵になる。しかし心中は情けないという感覚があるね」
 「彫千代の小説を途中まで書いてるんですよ。有島生馬の原作を読むと、空白の期間が数年ある。そこが一番おもしろくできるところ。
 彫千代についていろいろ調べていて、スタジオがあった場所も見当がついてる。結構いい暮らししてたんじゃないかな。治外法権だった山手に住んでたからね。出世欲や行動力があり、頭もいい人だったのは間違いない。でもどうして自殺したのかが分からない。
 発作的にやったんじゃないことは確か。『金がなくて』という話になってるけど、自殺につかった拳銃は金になる。日本中に無責任に借金を残すような真似もしていない。彫千代は博打が好きだったけど、死ぬ前に最後の大勝負をしていない。望みを捨てたんだろうね」

 

アーティストではなく、職人

 「アーチストと言われるのはいやだね。仏様を彫る仏師は、アーチストじゃないでしょう? 左甚五郎(江戸初期の宮大工・彫刻師)は芸術家ではなし、職人としての誇りの方が勝っていたと思うよ。芸術論を読んでもまったく曖昧で、芸術がなんなのかよく分からないし。出来たものは第三者が評価するものだから、自分から芸術家というのはね」
 「刺青を茶の間に持ち込んじゃいかん。高倉健の映画の中とか、非日常の場面でこそ意味がある。町中にあふれると日本文化の崩壊に繋がるよ。ここ十年くらい松田修の『日本刺青論』 (青弓社、1989年 *註)は間違いなかった、と感じる」
 「刺青はアウトローのものであって欲しいという気持ちがあるが、ある面では認めて貰いたいとも思う」

*註 「刺青こそ全マイナスを逆転して芸術に高めた至高にして、唯一の芸術である」と論じた書籍。

 

修行

 「最初は師匠の横にいて見ていたんだけど、覚えない。十日見て、あとは自分で三ヶ月やってみた方が覚える。自分で自分の脚を彫って師匠に見せた。師匠は『ううん』。それだけ。その『ううん』を自問自答しながら考えることで進歩する。具体的なアドバイスといっても、せいぜい『もう少しそこは濃く』とか、その程度。絵柄や線がどう、ではないのよ」
 「年数やってる人は、かならず良いことがある。それは巧い下手ということではない」
 「『この仕事は死ぬまで修行だ』と言われたときは、『なんだよ、それは』と思ったが、知れば知るほど分からなくなる。禅の公案とおなじ。説明がつかない。
 『下駄はいてニューヨークに行ってこい』。この師匠の問いにどう答えるか。先生の日常の考えから盗んでくる。武道や職人の世界とおなじ。師匠と話しているなかで考え方や生き方を学んでいく。子供は親の背を見て育つ」
 「初代が彫錦(横浜の彫り師。故人)に総身彫りを彫ったんだけど、背中から足首に掛けての部分。あれはいい。あれ以上のは見たことがないね。あの味は出せない。あれを越えるのが目標。
 人からは『師匠を越えた』と言われるが、オレのなかでは全然越えてない。越えられなくて、逆に幸せだと思ってる。永遠に師匠だと思ってるからね。
 初代がいたお陰で今のオレがいる。自分には親が三人いたと思ってる。両親と師匠。誰か一人欠けても今のオレはいない。感謝の気持ちを忘れちゃいかんと思ってる」

 

団鬼六

 泣く子も黙る SM界の巨星、団鬼六と彫よし氏は非常に仲が良かったという。二人は野毛が誇る裏文化の双璧だった。
 「鬼六さんのことは『おやじ』と呼んでた。鬼さんが野毛に住んでた頃は、よく遊びに行ってたよ。お手伝いさんがいて、普通は取り次いで貰ってから上がり込むんだけど、オレは勝手知ったる調子で上がり込んで冷蔵庫を空け、呑みながら待ってた。で、鬼さんが来たら『おやじ、一緒にどう?』って」
 「北方謙三は鬼さんのことを『おじき』とよんでた。オレは『おやじ』とよんでた。で、北方さんと会ったとき、北方さんが『負けた』と思ったみたい」
 「おやじの野毛の家は、建てたときは4億の価値があった。それから8億に値上がり。『ここだけの話だけど、近いうち10億に上がるんだよ。銀行が言ってるんだから間違いない』『4億も儲かってるんだから、いい加減売った方がいいんじゃない?』『あと2億儲かるんだよ』と話していたら、バブルが崩壊しちゃった」
 「あのひとは豪放磊落というか。生き方は不器用だったけど、死に方は見事だった。人生を楽しむ達人だったんじゃないかな」

 

猿屋敷

 彫よし氏の左手は、指先が欠損している。ペットのアライグマに噛み切られたのだという。
 「ウチのかかあが動物好きで、猿を12匹飼ってるんだ。オレが病気でも寝ているくせに、猿が病気だと真夜中でも病院に連れて行く。一種のビョーキだね。普段はケージに入れてるんだけど、震災のときは何事もなくて良かった。
 アライグマだけど、噛まれたとき万力で締め付けられるみたいになって『これは千切れるな』と。千切れた指先をすぐに氷で冷やして医者に行ったんだけど、『付かない』と言われた。しばらくの間、寝るときは手を上に上げていたよ。
 『指つめと刺青とどっちが痛いか』って話があるけど、墨を入れる方が痛いね。両方体験したから間違いないよ」

 

タトゥー・ミュージアム

 西区平沼の線路沿いに建つ「文身歴史資料館」をご存じだろうか。三代目彫よしが運営する私設タトゥーミュージアムである。鉄製の出入り口が極端に狭いせいもあり、「禁断の部屋」といった趣がある。欧米のタトゥースタジオにありがちな美容院のような明るさはない。取材の一環として見学させていただいたのだが、刺青の長い歴史を凝縮した密度の濃い空間だった。許可を取って撮影したので、このページの末尾にその一部を紹介した。
 「ここには彫よしの絵はほとんど飾っていないんですよ。それをやると個人の資料館になってしまうから」。受付にいた彫よし夫人は語る。
 「熱心な人は何時間も見ていくんですよ」
 「シャロン・テイト事件」の首謀者、チャールズ・マンソンが獄中から送ってきたファンレターやブラジルの刑務所のなかで実際に使用されたタトゥーマシン、過去の名人たちがつかった針やインク、そして彫よし氏のフィギュア(!)など興味深い品々がびっしり展示されている。2階の奥には数十個の段ボール箱が仮置きされているが、中身はすべて雑誌や本だという。展示しきれない氏の本や掲載雑誌が収納されているのだとか。
 「今年はロンドンのサマセットハウス(Somerset House)で個展を開くんですよ。刺青ではなく、墨絵を中心とした絵の展覧会です。多少彫り物の写真も出しますが、多くはありません。画家が本業ではないのに、贅沢な経験をさせてもらっていると思いますね」
 広大な敷地を誇るサマセットハウスだが、氏とほぼ入れ替わりで展示されるアーティストも興味深い。北京オリンピックをはじめ、70を越える建築・都市開発プロジェクトに携わって評価と名声を確立した著名アーティストでありながら、人権活動家として中国政府と戦い続けている艾未未(アイ・ウェイウェイ)なのである(詳細=Ai Weiwei – Circle of Animals / Zodiac Heads)。英国における三代目彫よしの位置づけがうかがえるエピソードではないだろうか。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

伊勢町の仕事場の前で腕を組む(2006年撮影・彫よし氏提供)

 

「せんとくん」をデザインした彫刻家・藪内佐斗司の作品。資料館の展示物。

 

10年ほど前、森日出夫氏が撮影したパネル

伊勢町の仕事場にて。落ち着くので、絵を描くときはいつもここ

 

展示ケースでいっぱいの文身歴史資料館内部の様子

   

 

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

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大文字では表せない小文字の横浜の歴史「裏横浜研究会」。ノンフィクション作家檀原照和さん

 

2月 10 12

2012年2月 三ツ池だより 「学ぶこと祈ること」

by staff
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 今年ももう一ヶ月を過ごしましたが、新年の計画は進んでいますか。

「シンプルに」
1・決めておく  2・続けて行く  3・マニュアル化しておく  4・改善していく
 
これは新年の年頭挨拶で話をしたことです。

 丁度ISO9001の更新審査を、社長と品質管理責任者を兼任しての1月16日を迎え、無事に再認証通知を頂いた。審査に参加した社員から「これからの品質管理の取組が楽しみになった」と反応がありました。年頭に話したことは、昨年後半から感じていたことであったので度々の会議でも話されていたことでした。学びそして実行していくこと、中身はシンプルにそして改善に結びついていけばいいとおもっています。

 個人的な計画も進みはじめましたか。健康のことであったり、社会との繋がりであったり、自己学習の事であったりします。当然のことながら、基盤になる家庭の事も入っているでしょう。遊びも入っているでしょう。先日は「かわさき映画の街」の話を伺いました。年100本も鑑賞するようですが、私も昨年の3本から今年は6本ほどの鑑賞をしたいと思います。

 計画は続けることであり、いかに連帯ができているかではないかと思います。自分の持っている時間の大半を占める会社経営はまさにその場です。お互いを尊重しながら折り合いをつけていく。尊重と折り合いは経済にも言えることです。グローバル化とローカル化を共に進めてことに繋がるのではないかと思っています。

 グローバル化は海外に向うユニクロに見られる。アイデァを製品し生かし、標準化し国際化していく。ローカル化は地域の活性化につながること。多摩地区でメロンの人口栽培を始めて成功した事例を大学の先生から聞きました。今はやりの植物工場ではなく、地熱利用のようです。杉も薪としてエネルギーに変えて行く。樹木も30年を超えると森の循環から切り倒した方がいいとのこと。森の活性化にもつながる。日射の方法も改善し糖度も申し分なくなったようです。費用を考えると一個1万円してしまうのが課題。しかし多摩地区産のメロンと言われると「美味しい」イメージが連なります。

「今をいきて」
風がつよくて
夢もしばれる
  降るな降るなよ
  津軽の雪よ
体が震える
涙がこぼれる

 
正秋バンドの声が震える
静かな視線が舞台にむかう
  誰かがこの場をつくったから
  こうして人は繋がれる
共に生きるということの
織りなす刻の癒やされる

 
今を生きてという唄を
谷村がおくったという詩を
  光りがあって命があって
  今を喜ぶ声がある
唸りが命を揺さぶって
涙のこぼれる今がある

 正秋バンドの歌を聞く機会があった。三重苦を背負った盲重複障害を持った高橋正秋さんが天才的な音楽センスを生かして障害を乗り越え仲間たちと作ったバンドであった。その日は「祈りある行動が奇跡を起こす」という遺伝子学の権威者村上和雄先生の講演があった。誰でもが持ってる遺伝子の95%は共通しているのです。その書き込みは「誰が書いたのでしょう」と問います。「だれも分からないのです。目に見えない存在があるのです。」人と人の差はどこにあるかというと、あなたの思いなのですと話される。「あなたの思いが遺伝子をかえます。」だから笑うことが必要ですと話をし、目に見えないものへの祈りが大切なのだ。「日本人は祈りの民族なのです」だからこの震災も乗り越えられるのです、のりこえましょうといわれた。

 新年の抱負・取組のなかに「笑いと祈り」を追加して書き込んだのでした。
 一人ひとりの自立が求められる時だからこそ、今一度日本人としての誇りについて考え行動してまいりたいものです。

 

Photos

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(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

2月 10 12

「アファメーション」フォレスト出版 ルー・タイス著苦米地英人監修

by staff
「アファメーション」フォレスト出版 ルー・タイス著苦米地英人監修  

 新しい年にどのように向き合うのか考えていたときにこの本に出会った。ある数字が目標をクリアーしそうなことがわかって、さてどうするかを考えていた。この時期に何かラッキーなことが重なったのではないか。これからの難しい時をどのように乗り切るかを考えていた。ルー・タイスは次のように言います。「自分はこの程度じゃない。もっといい結果が出せるんだ。そして先へ進むのです。」そうだ、達成できたことはやることをやってきたからの結果で、今後も燃えさかる理想を内部に持ち続けることなのだと示唆をうけたのだった。

 「スマートウォーク」という言葉をご存知ですか。「一日中座って、達人の手腕を眺めるばかりでは、自分のパフォーマンスを改善することになりません。

今いるところから腰を動かし、達人がしていることを自分も試してみようと思った時に初めて成長できるのです。十分な実力がつくまでスタートをまつことはありません。今いるところから出発して、向上していけばいいのです。」

 パイロットの事故遭遇におけるシミュレーターで身につけた習慣、予行演習を例にします。言われてみれば自動車運転でもそうでした。最初は体も頭もついて行かなかった。そして「実行の伴わない計画は自分に対して不正です」「知識をもつだけでは不十分です。」と言い切ります。

 さてアファメーションとは何なのでしょうか。「成長と変化のための設計図です。」といいます。
 「どこを変えるかかを考える」
 「目標を書き出す」目標をわすれないため、目標を偶然や幸運の領域から切り離すため、文字にすることで容易かつ安全に目標を達成することができるからです。
 「実際に経験している自分をイメージする」
 「細かい部分を描写する」望むことを具体的な件数や量や距離、正確な収入や仕事として表現することが不可欠です。
「ポジティブなイメージを使う」
「現実的な目標を設定する」五割の実現可能性くらいに思える目標がいいでしょうといいます。
「すべての目標は、自分を中心に書いてください」
「意志を貫く」意志の空っぽな言葉は価値のないただの文字にすぎません。
「個人的な目標を設定するときは、最初はそれを自分だけの秘密にしします」
「目標を人生の使命と調和させる」
 設定した目標をアファメーションによって潜在意識に鮮明なイメージとして取り込み、将来の目標を現在の現実にする方法でした。

 「コンフォートゾーン」という言葉をご存知ですか。「自分と同じ宗教、肌の色、職業、収入、コンフォートゾーンを持っている人たちで自分の周りを固めようとするのです。」気楽にしてくれる、安楽にしてくれる領域のこと。コンフォートゾーンを超えて成長するのにはどうして行くのだろうか。選択技を考える人間、建設的に自分との対話ができる楽観的な人間になることだといいます。「楽観的な人は、悪いことが起こると、それはすべて自分の責任ではなく、その日一日は台無しになるとしても、人生が台無しになることはないと考えます。良いことがおきると、私の力があったからだといいます。」

 著者ルー・タイスは「視覚化とアファメーションのプロセスを使い、リーダーらしく振舞うことを始めれば自主的なリーダーとして、あなたは自分の部署や組織を成長させることができます。」監修者の苦米地は「あなたの使う言葉が、あなたの人生を決定していることを心において、本書を読み進めてください。」とまえがきにかえてに述べている。

(文:横須賀 健治)

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2月 10 12

日本人の底力 世界は「わが民族の叡智」を求めている PHP 北尾吉孝著

by staff
「日本人の底力」PHP  北尾吉孝著  

 この本は時を得ている。しかし冒頭に書いているように世の大勢とは反している結果になっている。だからこそこの本を今一度読み直してみたい。

 「今日大衆の勝利がもっとも高度に達している諸国家を吟味してみると、驚くべきことに、その国の人々は政治的にはただその日暮らしをしていることが明らかになる。この政治の中では、未来はまったく予知されておらない。」スペインの哲学者であり文明評論家の1929年の文章を北尾さんは紹介し、次のように切って落とす。「大衆が社会的権力を直接行使する場合には、権力は古来いつでもこのような性格を帯びてきた。そもそも大衆は目標なく生き、風のまにまに動く人間であるからだ。」

 「個人が努力を重ねてこそ維新がおこる」「まず忙を癒やす」「読書で精神を磨く」そして「自己維新の三つのプロセス尽命、知命、立命」これを知るべきと語ります。安岡正篤、森信三がベースになっている。注目したいのは「経済的国際化は日本人の特質をなくすことでない」「民族の特質をしれば、なすべきことも見えてくる」大事なことは日本人としての自信と誇りを取り戻そうということだ。「日本民族の特質は西洋のものを取り入れ、吸収し、それを生反合でさらに偉大なものにつくりあげていくことだ。それを生かし、世界文明の中に貢献していけばいい」

 それは可能なのであろうか。
 日本語の特質と島国に育まれた伝統として、その枠を乗り越えて諸政策を進めていくこと。人・もの・金の開国を提案される。森信三さんの東西文化の懸け橋になる、を紹介している。「われらの民族の使命はいかなるものと言うべきであろうか。それは端的には、人類がそのはるかなる未来において、何時かは成就するであろうところの、東西文化の融合という究竟目標に対して、一つの縮図を提供すること、少なくともそのために一つの”架橋”になることこそ、われわれの民族に課せられた、おそらくは唯一にして、かつ最大の使命と言うべきであろう。」

 北尾さんは「主体性を確立せよ」といいます。幕末の坂本龍馬をはじめ幕末志士がそうだったといいます。「一国の安全や防衛を他国に依存しているが故に、おもねたり、へつらったり、こびたりするのです。そのような甘え心やもたれ心を、人においても、国においても一切なくすことが非常に大事であるとおもいます。いずれ憲法改正も必要になってくるでしょう。」自分の国は自分が守るというような気概が必要だと尖閣列島の報道をみてとして述べます。

 「危機の内包を自覚せよ」といいます。日本語を禁止されたらどうしますかと問われます。「そのような危険なくしては、前進の可能性のないところに、この地上の現実界の冷厳さがある」という森信三さんに共感されます。人の問題では移民政策と介護分野から徐々に始めることを提唱されます。TPPの問題に触れています。鶏卵の96%は国内生産ですが、飼料を輸入しているため、自給率は5%とカウントされているといいます。生産額ベースでいうと自給率役70%といいます。「仮に参加するとしても、いかに農業の生産性を向上させて、生産額ベースでの自給率の大幅な低下を避けるかを数値化により厳密に管理することを並行すべきと考えています。」問題は何の青写真も持たず現状のままに参加すれば将来に大いなる禍根を残す可能性を指摘しています。

 金の開国にも触れています。そしていままでのODA(政府開発援助)のやり方を変え、対象国の産業づくりに官民共々がダイレクトに貢献すべきと考えている。そして、観光と留学で人の交流を活性化することも提唱されます。さらには日本からの海外留学生の減少を心配されます。語学力を磨くためでもあり、視野を広げるためです。北尾さんは「これからは、あらゆる面で通念を打破、ことなかれ主義や日和見主義の徹底排除が必要だ」と最後を締めくくられています。

(文:横須賀 健治)

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2月 10 12

第6回横浜売れるモノづくり研究会セミナー

by staff

第6回横浜売れるモノづくり研究会セミナー

 売れるモノづくりとは何か、またそれを効果的に売るにはどのような方法があるのか、製造業の現場担当者の事例発表を通して、参加者全員で考えていきたいと思います。

 2年目にして初めて横浜を離れて、公益財団法人川崎市産業振興財団様のご厚意により川崎産業振興センターで開催いたします。

 第6回の研究会セミナーでは、これまで当研究会のコメンテーターをやっていただいている、デジタルハリウッド大学院大学専任教授の松本英博氏に 「公開伝授!ビジネスでもプライベートでも役立つ図解思考の実践だ」 についてお話していただきます。

 事例研究は、昨年、町工場の職人集団として各メディアに登場した「チーム等々力」の代表の堀端明雄さん(有限会社堀端製作所)に日本初長周期地震動にも対応できる「免震テーブルMT-II型」の誕生についてお話していただきます。

 売れるモノづくりとその効果的な売り方に興味のある方のご参加をお待ちしています。

1.日 時 : 平成24年3月2日(金)午後2時30分~5時30分

2.場 所 : 川崎産業振興センター (川崎市幸区堀川町66-20)
       Tel 044-548-4111
       http://www.kawasaki-net.ne.jp/kaikan/hall_guide.html#map

3.内 容 :

講 演
「公開伝授!ビジネスでもプライベートでも役立つ図解思考の実践だ」
デジタルハリウッド大学院大学専任教授
NVD株式会社 代表取締役 松本英博
http://www.nvd.co.jp/

 
事例研究
チーム等々力の挑戦~「免震テーブルMT-II型」の誕生~
チーム等々力代表
有限会社堀端製作所 代表取締役 堀端明雄
http://www.saturn.dti.ne.jp/horibata/index.htm

 

「テクニカルショウヨコハマ2012」の見学会を行いました

 2012年2月1日~2月3日まで開催された「テクニカルショウヨコハマ2012」には昨年、「横浜売れるモノづくり研究会」に登場してくださった皆様が大勢出展されました。

 そこで「横浜売れるモノづくり研究会」ではメンバー有志が集まって知己の企業のブースを訪問いたしました。今回訪問した企業ブースは次のところです。

 どのブースでも企業の方々に丁寧に製品説明をしていただきました。専門的な質疑応答もあって、有意義な見学会になりました。

 詳しくは下記をご覧ください。 ⇒ https://www.supportyou.jp/monoken/

 「横浜売れるモノづくり研究会」では、今後も展示会場をメンバー一同で見学する、今回のような見学会を開催していきます。

コマ大戦の様子

 

見学会の様子

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

2月 10 12

第4回 ど・あっぷ! 「楽しく考えよう『シチズンシップ』わーくしょっぷ」開催します。

by staff

 

 シチズンシップ教育に関するワークショップを行っている、NPO法人ど・あっぷ!(DO UP)です。
最近日本でも注目されているこのシチズンシップ教育っていったいなんでしょう?

シチズンシップ教育とは・・・

 イギリスで発祥し欧米で取り入れられている教育プログラムで、公の中の自分の役割を考え、行動する必要性を学ぶもの。私的な事ではない社会の出来事を「誰かに委ねる・任せる」のではなく、「自らが請け負う」ということを学ぶ教育とも言えるでしょうか。

今こそシチズンシップ!

 震災から間もなく1年が経とうとしています。
 遅々として進まない東北や福島のレポートをTVで見るたびに、こういう時だからこそ、シチズンシップマインドが大きな鍵を握っているように思えます。
 もし、日本中の人が、ほんの少しずつ、ひと事でなく「自らが請け負う」気持ちを持ち続けたら、それはそれは大きなパワーです。だからこそ、大それたことではなく、自分らしいシチズンシップを、少し考えてみたいを思いました。

「楽しく考えよう『シチズンシップ』わーくしょっぷ」

■ 開催日:3月11日(日)
■ 場所:神奈川県民サポートセンター 11階コミュニティカレッジ1
  www.pref.kanagawa.jp/cnt/f5681/p16362.html
■ 開演時間:①11:00~ ②13:30~
■ 入場:無料
■ 主催:NPO法人ど・あっぷ!

 

 ■ 市民活動フェアとは:1年に1回行われる、神奈川県の市民団体が集まるお祭りです。
 ■ イベントチラシ(PDF)

 

2月 10 12

もっと読みたい!

by staff

 本が好きです。

 流行りの小説から、時代小説、推理小説、恋愛、冒険、ビジネス書、なんでも。ページをめくって、本が自分の手に馴染んでいく感覚も心地いい。カバーは付けない。くたびれていく表紙が愛おしい。そして、特に気に入った本は何度も何度も繰り返し読みます。流行りなんて全く関係なく。誰かと感想を言い合ったりもほとんどしない。薦めもしない。だから、当然のように、私の好む本はかなり偏りがあります…。解釈も相当自分勝手。

 でも、それが私にとっての読書の醍醐味なんです。勝手に読んで、勝手に納得。 読書はそれが許される。最高です。

 本との出会いは様々。発売前から興味を持ってワクワク挑むものや、なんで買ったのか覚えてないくらいに影の薄いものもあったり。たまたま人から借りてびっくりするくらい面白い出会いもありました。感動して泣きながら読んだこともあります。

 私がただのらりくらりと生きているだけでは到底出会えないような感情や出来事が、そこには書かれています。ただフィクション、ノンフィクションの括りではなくて、書いているその人の世界観はその人だけのもので、私のそれとは違います。当たり前ですが。

 そこに衝撃を受けるんです。
 秋が読書の季節とよく言われますが、私にとっては春夏秋冬、読書の季節。オールシーズン衝撃ウェルカム!
 さてさて、今日も読みますよ。

Pick Up-1 村上春樹【ノルウェイの森】-講談社文庫

 村上春樹の名前を一躍有名にした代表作。
 1987年発売からの累計発行部数は上下巻合計1000万部を突破。

【あらすじ】

 語り手「僕」がハンブルグ空港に着陸する直前の飛行機の中でビートルズの「ノルウェイの森」を耳にするところから始まる。その曲が「僕」を18年前の回想へと導く。
 大学に入ったばかりの「僕」は、自殺した親友の恋人「直子」と週末ごとにデートを重ねていた。親友の死により心を深く病んだ二人は、友情とも愛情とも言えない感情、心の震えと喪失感の行き場所に身悶える。

 初版本の帯には「限りない喪失と再生 100%の恋愛小説!!」(上)、「激しくて、物静かで、寂しい 100%の恋愛小説!!」(下)とうたっていたノルウェイの森。

 多くの方が当時読んだとは思いますが、恋愛小説ではないですよね、これは。

 

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という「僕」の考えが常に全編に流れていて、「死」のイメージが漂うだけでなく、多くの「死」が登場します。

 また、露骨な性描写が多い、哲学的な構築がされていない、人物設定が不自然、まるで娼婦小説、などなど批判的な評価もよく取り上げられていました。

 確かに、親友が自殺した本当の理由も分からなければ、「直子」を助けるにはどうするべきだったかのかも分からない。「僕」の選択も正しかったのかどうか…。他の登場人物たちも「僕」を中心とした関係図であって、彼ら同士の交流はほとんどない。交わらない。一人ひとりの背景が細かく説明(設定?)されていないので、登場人物たちのことがよく理解できない。

 じゃあどうして私がこの作品を好きなのか?
 それは、理解できないところ、なんです。妙にリアルに感じられる。

 実際私たちが生活している今、世の中には理解できない、納得できないことがたくさん。人づきあいでも、なにごとも白黒ハッキリさせたがる人ばかりじゃないですよね。むしろ、曖昧に、何気なくやり過ごすことを望んだり望まれたり。それを自分なりにどうやって消化するか。何度読んでも毎回違ったものを感じることができる、リアルな曖昧さが私は好きです。

Pick Up-2 ラ・ロシュフコー【箴言集】-岩波文庫

 作者ラ・ロシュフコー(ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世・1613-1680)はフランスの名門貴族出身。この「箴言集」は彼の名を文学史上に不朽なものとした代表作。

【あらすじ】

 「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」――よく知られたこの一句が示すように、ラ・ロシュフコー(1613-1680)の箴言は、愛・友情・勇気など美名の下にひそむ打算・自己愛という業を重い律動感のある一,二行の断言であばき、読者を挑発する。人間の真実を追求するフランス・モラリスト文学の最高峰である。

 まずはこの本の中に出てくるいくつかの箴言をご紹介。

「人は決して自分が思うほど幸福でも不幸でもない」(49)
「人はふつう誉められるためにしか誉めない」(146)
「うんざりすることが許されない人を相手にしていると、ほとんどきまってうんざりする」(352)
「愛し合わなくなったときに、愛し合ったことを恥ずかしく思わない人は、めったにいない」(71)
「われわれが小さな欠点を告白するのは、大きな欠点は無いと信じさせるために過ぎない」(327)
「人生には時として、少々狂気にならなければ切り抜けられない事態が起こる」(310)

 

 訳語も古く、日本語として読みにくい個所もあったり、読み進むにつれて矛盾している点もチラホラ…。

 アクが強い。鼻につく。ロマンチックでもないし、センチメンタルな気分になれるわけでもなく、即使えるような自己啓発プロセスのふろくが付いているわけでもありません。

 でもここまで「それを言っちゃ身も蓋もない…」ことをズバズバ言われるとかえってスッキリするものです。「そうか、自分だけが頑張ってるわけじゃないんだ」「たいしたことじゃ、ないのか」「うんざりして、いいんだ」。箴言に含まれた意味を生かすも殺すも自分次第で、いいんです。一見堅苦しそうなこの本に私が出会ったのは18歳の頃。数行で言い放たれる箴言は、その時々で心に響くそれもコロコロと変わります。それが許される「箴言集」、まだまだこれからも長い付き合いになりそうです。

( 文・イラスト・写真:(株)とらべるわん いいづかあや )

いいづかあや(飯塚 文) プロフィール

いいづかあや 飯塚文  

1974年、横浜生まれ横浜育ち。私立山手学院高等学校卒業後、文教大学短期大学部文芸科卒業。
父親の経営する(株)とらべるわんで幼いころから「旅」に携わる。
学生時代より同社のチラシ・DM・ホームページ等の制作をする。デザイン事務所・建設会社などの職業を経て現在は(株)とらべるわんのWEB責任者を務める。また、横浜元町で「ボディアートGlitta」でデザイナーとしても活動中。

(株)とらべるわん http://www.travel1.co.jp
ネイルサロンMINORITY http://www.minority-minority.com/
ボディアートGlitta http://www.minority-minority.com/glitta/index.html
   
いいづかあやTwitter http://twitter.com/zuka_aya
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2月 10 12

伝統技法で手間を惜しまず、愛情タップリに焼き上げる、本格的炭火手焼きのお煎餅

by staff

 

 谷中の名店「嵯峨の家」での修行を経て、今年で開業40周年となる保土ヶ谷せんべいは、本格的な炭火手焼きが自慢のお煎餅屋さん。
 上下に炭を備えた窯で両面を同時に焼き上げる昔ながらの手法にこだわった煎餅は、一度食べたらクセになること間違いナシ!

 「手間を惜しんでは美味しいものは作れない」
という言葉の通り、一枚一枚に愛情がタップリ込められています。
 開業以来、長い時間を掛けてコツコツと、まじめに地道に積み重ねてきた信頼と実績は、今では地域に広く浸透しています。
 毎年、保土ケ谷宿名物会で出展している「ほどがや区民まつり」や「花まつり(境木地蔵尊)」でも、お店から離れた地区にお住まいのお客様たちから、
「中々お店に行けないので、こういう機会を楽しみにしている」
という声も良く耳にします。

 堅焼きやザラメなどの定番商品はもちろんだが、コーヒー煎餅なども大好評。甘味を抑え、コーヒーの風味を前面に出しつつも、不思議なくらい煎餅に良く合うこちらの商品は、他店にはない逸品と言えます。このコーヒー煎餅も、開発時には失敗を繰り返し、それでも手間を惜しまず諦めず、まじめに地道に何度もやり直しながら出来上がったとのこと。

 柔らかいのにパリッとした食感が人気の「秋の夜」は同店の看板商品!

 今ではめっきり少なくなってしまった本格的な手作りの味、ぜひ一度、ご賞味ください。

  (画像をクリックして拡大写真を
ご覧ください)

保土ヶ谷せんべい

味のつどい

【お問い合わせ】
  炭火手焼き 保土ヶ谷せんべい
  保土ケ谷区岩井町243
  Tel.045-713-1029

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

2月 10 12

佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第2話「ダンススタジオで初釜」

by staff

「初釜の風景」 佐々木彬文 作 (2012年)

茶人の皆さんは『なんじゃ、こりゃ?!』っておっしゃると思います。
第2話はそういうお茶会の話。それは睦月七日に催されました。
場所は桜木町のとあるダンススタジオ。
スタジオ初めて(?!)のそして新年初の・・茶会・・
Wお初の初釜でした!

ダンススタジオですから、炉が有る訳が無く床に穴掘る訳にも行きません。
故に、御茶の先生方には大目玉を頂きそうな朝鮮風炉を使った長板総飾り!
「冬に風炉?!」だけでも偉い先生方には叱られそうですが『御茶を体験したい。』『日本の文化を知りたい』そういう方達に少しでも「茶道」を体験して頂きたく、また、「茶道を始めたい」との気持ちに成って欲しくて、お叱り覚悟で催しました。

道具を車で運んで、ビル4階のスタジオまで。
屏風に釜・長板・皆具・茶碗・柄杓・灰・炭etc、総て運んで準備完了!
さぁ、茶事の始まり~始まり!

お琴の演奏付きで雰囲気はまさにお正月です。

一般の方は初炭のお点前って余り目にする事が無いと思いますが、冬は『火』が御馳走なのです。今でこそ、コンクリートや新建材に囲まれて隙間の無い暖房の利いた建物で暮らしていますが、昔の家は隙間だらけ、故に、冬の一番の御馳走は『火』です。 また、その様な環境・時代だからこそ生まれた「心使いと気働き」その美しさと、(本当は此処からがお茶の始まりを観て頂きたく)初炭から、お茶事の流れを説明しながら、お薄茶を召し上がって頂きました。

是非にとの僕の思いは『皆さんに御道具に触れて頂く事』でした。
この日の初釜に来られた方は初めての方が多くいました。
皆さんがお道具の事は何も知らないから、「もしも事故があって壊れでもしたら」と考えて、こちらが適当な事をすると・・・人は、お茶の事は知らなくても「適当」をすぐに感じ取るものです。だからこそ僕は、「本物」に触れて頂きたいのです。人は、「本物」だと分かると大切に扱おうといたします。大切に扱おうとする所作が「美しい所作」になります。『本物に触れる事』が茶道のお手前を一番に理解して頂ける事だと思います。

『道』と付いた習い事を一つで良いから始めてはいかがでしょうか。
手順やマニュアルとは違う、師に直接教えを乞わなければ伝わらない事が沢山あり、物の見方も変われば『気』の配り方が変わってきます。

私のお弟子さんでお能のシテの方が居られますが、その方とお話していましても『足の運び方』『所作』『呼吸』、ジャンルは変わってもみな底辺では共通している事に驚きます。
日舞の先生や香道の先生・華道の先生等とお話していましても通じるものが多々有ります。
お互い相手に対する心配りが感じられ気働きが見えて参ります。
こういう事を『お行儀』と申すのだと思います。若い方ほど『道』と付く門を一日でも早く叩いて欲しいと思います。身のこなしが綺麗になり素敵ですよ!

人は、出世すればする程、身に付けておかなければ成らない事が多く有ります。その時に、慌てたり恥を被いたり、お付き合いを遠慮しなければ成らなかったり、大切な人間関係を諦める様な事に成らない為にも、是非『道』を始められたらいかがでしょうか?

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)






文・絵:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)
写真:高野慈子

 

2月 10 12

トリアー選帝侯の不治の病を癒したワイン

by staff

トリアー選帝侯の不治の病を癒したワイン


写真) ベルンカステルとドクターの畑

 中央モーゼルの代表の町ベルンカステル(Bernkastel)は、切妻屋根の美しい伝統の木組み建築がつづく、お伽のような町並みです。14世紀のころ、その町を見下ろすように丘の上にそびえるランズフート城に滞在中のこの地方の領主トリヤー(Trier)の選帝侯(ベームント2世)が、不治の病に冒されました。侍従の医者たちはあらゆる手を施しましたが病は治らなかったため、大公は「誰かわが病を治す者はいないか」と国中におふれを出しました。

 ある日のこと、大公の前に一人の農夫が樽を担いで現れ、「これは先祖より伝わる我が家の妙薬す。毎日この杯で一杯お飲みください」と差し出しました。大公は藁をもすがる思いで飲んだところ、大変おいしく、つい2杯、3杯と毎日杯を重ねていくうちに、やがて病は治まり元気になって参りました。

 そこで、彼の農夫が再び訪れた際、大公は「これは如何なる妙薬ぞ」とお尋ねになりました。すると農夫は「これは先祖より伝わるブドウ園で、丹精込めて造りましたワインです」と答えました。大公は、その畑に『ドクター(Doctor)』と名付けるよう命じ、農夫には数倍のブドウ畑を褒美として与えました。

 現在そのブドウ園は、「ターニッシュ博士家(Dr.Thanisch)」が代々所有しています。ターニッシュ博士家は、ランズフート城をモーゼル川対岸に臨む場所に、石造りの重厚な館をかまえ、毎年素晴らしいワインを造りだしています。

 現在の当主はソフィア・ターニッシュ(Sofia Thanisch)夫人で、ワインは造る人の心情を表すと言われる通り、このドクターのワインを味わえば、その優雅で上品な味香は、かつてトリアー大公の不治の病を癒やした物語も納得できる、飲む人の誰をも癒すワインでしょう。

 

ターニッシュ博士家の領主館

エチケット

ベルンカステルの木組みの家々

(文・写真:ワインブティック伏見)

 

ワインブティック伏見

〒232-0001 横浜市中区新港2-2-1 横浜ワールドポーターズ1F
Tel/Fax 045(222)2112

HP: http://winecom.jp
blog: http://wine1999.blog121.fc2.com
E-mail: boutique-fushimi@winecom.jp

 

 

2月 10 12

忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

by staff

♪忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:右近(うこん)

 現代語訳:
「あなたに忘れられてしまった私はかまいません。でも『貴女への僕の愛は変わりません!もし変わったら、神よ!裁いて下さい』とあの時誓ったあなたの身が心配です。」

  この歌は、私のアルバム ”花のいろは” の「逢坂ラブストーリー」というタイトルの中で歌っている一首ですが、いつも歌っていてこの歌詞の所に来て、私の感情は複雑に亀裂が入って分裂してしまいます。最初にこの歌の現代語訳を読んだ時に、生じた感情が尾を引いていて、いまだにうまくおさま

りません。神に愛を誓った男女がいて、心変わりをしたら僕を裁いてくれとまで言った相手の男性の心が何時しか冷めてしまって、捨てられてしまった女性の方が、誓いを破った相手の男が神様から罰を受けることを心配している。

  最初に読んだ現代語訳者が男性だったからかもしれないけれど。
 自分が捨てられたことなどは気にせずに相手の事を案ずる素晴らしい女性として訳されているのを読んで、「うそ!」って思ってしまった私がいるのです。その訳を読んでこんな強烈で嫌みな歌は無いと思えたからです。でもそれを美しい簡素な言葉で表現していることに脱帽。右近という女性のすごさを感じました。でも女の本音はきっと自分を捨てた男なんかさっさと地獄にでも落ちて頂戴!と言うくらいの悔しさがあるのが普通なんではないかしら、自分の良心や相手に対する思いやりの気持ちを持ったままで男女の別れが済んでくれたら、失恋の悲しさや苦しさによって産まれる人生ドラマは平坦でつまらないものばかりかもしれません。実は、私自身も20代で結婚をして22年間暮らしていた最愛の夫に好きな人が出来て離婚しました。まあ一言でいえば右近のように捨てられたケースなんですが。その時の事を思い出せば自分の内側に醜い嫉妬心や、相手の女性を恨む気持ちや、色んな苦しい気もちが湧いてきて七転八倒した経験があります。それらを乗り越えて愛と感謝の思いを相手の男性に持ち続ける事の難しさは大変な努力を必要としました。愛する彼の新しい関係性を祝福する、私にとってこうでありたいと思う理想の気高い心持ちとは全く正反対の恨みや憎しみや悔しい気もちが湧いてきて、振り子のように揺れて、最後にはそんな相いれない心持ちのために真二つになってしまった心の狭間に落っこちてのたうちまわっていた頃があります。今思えば貴重な素晴らしい体験だったと思えるのですが、そんな自分の経験から踏まえてこの歌の本当の意味は
「私を忘れてしまったあなたなんか、許せない!罰でもなんでも当たればいいんだわ!でも!やっぱり貴方が死んでしまうのはいや!ちゃんと生きていて欲しいの」

  百人一首は色んな方が書かれた現代語訳を読ませて頂いていますが、最近田辺聖子さんの現代語訳を読んで、この右近の歌は自分の解釈と同じだったのでとても嬉しかったのを覚えています。愛するって・・・こわいの・・よ ね! 早苗ネネ♪

毎月第2金曜日 2月10日
6時30分~ 3回ステージ ¥5500ワンドリンク付き 入れ替えはありません。
出演:早苗ネネ パリ祭出演の歌手の方々2~3名。
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

2月 10 12

ワンチャンのおもしろ画像投稿サイト www.funnydogsite.com

by staff

今月のモトマチワンヌはちょっとショートブレイクして、世界の面白いワンチャンの画像投稿サイトをご紹介します。それは、「Funny Dog Pictures | Funny Dog Site」 www.funnydogsite.com
下の画像はほんの一例。もっともっと面白い画像を探してみてください。

Clip from the www.funnydogsite.com

 

2月 10 12

総合ブライダルプロデュース事業を積極的に展開。株式会社ムービー企画、株式会社アディック、葉山庵グループ 山坂 秀樹さん

by staff

 1969年父が株式会社ムービー企画を横浜の平沼に創立。創業当時は横浜市内を初め、東京都内のホテルや結婚式場で8ミリを撮影するサービスを行う。現在はブライダルの映像制作を中心に一般企業向けのVP制作音響、演出、WEBサイト制作を行う。ブライダルで培ったノウハウを活かし、1998年にブライダルプロデュース会社を設立、2004年にはレストラン事業aprecier葉山庵を設立し、3本の事業体を展開しております、山坂秀樹さんにお話しを伺いました。

山坂 秀樹さん  
お名前 山坂 秀樹
(やまさか ひでき)
生年月日 S49年12月生まれ 37歳
ご出身 鎌倉(祖父と父は横浜育ち)
ご家族 既婚 男の子(4歳)女の子(1歳)
ご趣味 学生時代は野球、バスケ、アメフト部に所属。スノーボード、ボルダリング、マラソン、旅行、映画鑑賞、ビリヤード、カラオケ等
ご職業 株式会社ムービー企画
http://mov.co.jp/
株式会社アディック
http://www.adicwedding.net/
葉山庵グループ
http://www.hayamaan.com

 

原点~ムービー企画創設の思い~

 43年前、父母が結婚する際に、父の友人に結婚式を8ミリ撮影してもらった事で、それを見て感動したそうです。その喜びをきっかけに記録の大切さをサービスとして提供する事に使命感を抱き、ブライダルの企画及び映像制作会社を立ち上げました。その当時、主流は8ミリビデオで結婚式を撮影するサービスは珍しかった様です。

思春期~サービス業への第一歩~

 私は3人兄弟の3男として鎌倉で生まれ育ちました。幼少期は兄弟喧嘩も絶えない生活で、勉強は2の次で体育と休み時間になると目がキラキラと輝く運動が大好きで活発な学生でした。就職を考えだした頃、家業を継ぐ事は全く考えずにむしろ「親のレールに敷かれない人生を築きたい」と考え、飲食や美容系のサービス業を中心に仕事をしておりました。

転機を迎える。

 21歳の時に転機が訪れます。ある日、異常なまでの脱水症状を伴い、食欲やめまいと嘔吐に苦しみ、「死に至る病気を患った」と感じておりましたが病院に駆け付けたところ、IDDM(I型糖尿病)と診断されました。後に先生からは数日遅れたら生死に関わる程の症状だったと聞きましたが、インスリン注射をする事で健常者同様の生活を行える事の出来る病気である事を聞き、悲しむどころか命拾いをした事が何より嬉しかった事を今でも覚えております。

 そこから今までの仕事を離れ、3カ月以上の闘病生活を送っている時に父から仕事に誘われました。ムービー企画の仕事はお客様に感動や喜びを提供する事の出来る究極のサービス業である事に気付き、父の会社に入社させてもらう事を決意しました。
そこで結婚式の現場管理や撮影業務にも携わる中で責任を感じるとともに、新郎新婦に喜んで頂ける姿を見てやりがいと喜びを仕事に感じる事ができました。

最近のブライダル映像について

 ムービー企画の業務は最新のマルチメディアや技術を駆使し、一般企業向けの商品紹介や会場紹介、記録等の映像制作やブライダルの記録映像や演出映像を行っております。ブライダルで現在、人気の高い商品はエンドロールという映像演出商品で結婚式にご参列全員の方のお名前を入れ、当日撮影した映像と合わせて披露宴のお開き時にスクリーンに映し出すものです。参列者の方は、結婚式を一緒に演出した一体感と感動を得られております。一方、裏方の映像制作班は限られた時間の中で制作しているので胃が縮む思いをしているのも事実です(笑)

 この様にエンドロールは会場の反応を伺え、涙まで流して頂ける方もいらっしゃる程、感動に包まれるのでクオリティーの高い作品作りを目指して日々奮闘しております。

事業拡大

 ムービー企画は成長期を迎え、結婚式の映像制作業務に携わりながら培ったノウハウを活かし、株式会社アディックを設立結婚式のトータルプロデュース業ADIC WEDDINGとレストラン事業を展開しました。レストラン事業は葉山庵というブランド展開で乳製品等の使用を極力控えたナチュラルフレンチレストランです。食材は三浦・佐島漁港等のこだわりの生産者が作る希少価値の高い食材を利用し、現在は東京青山、横浜みなとみない、埼玉大宮の3箇所でレストラン展開をさせて頂いております。
結婚式とは新郎新婦が新たなる門出に誓いをたて、日頃よりお世話になってる方々の前で未来に向けて絆を結ぶ大切な場だと思います。また新郎新婦を通して新しい家族どうしの繋がりが生まれます。ですので新郎新婦からおもてなしとして日頃よりお世話になってる方々に美味しい料理を代って提供する事が私たちの使命だと感じております。レストランは新郎新婦の誓いの場所としてお2人の記念日等にご利用頂ける事は何より嬉しいです。

アディックウェディング

 現在、年間70万組以上の方が入籍をされておりますが、約半数の方は結婚パーティーを挙げられない状況です。その主な理由としては経済的な理由やおめでた等の原因が大きいのですが、その様な方でも気軽に挙げられるプランをアディックウェディングではご用意しております。

 特に人気が高いのは49,800円で挙げられるプリティチャペルプラン(挙式・ドレス・タキシード・小物一式・ヘアメイク・写真・控室利用料等含む)や、披露パーティーをされない方も山下公園、グランモール、三渓園等横浜エリアの素敵なロケーションで写真で残す横濱挙式プランや妊娠中のご新婦様に合わせたマタニティプラン等は人気が高いです。またご出産された後にお子さんと一緒に結婚式を行うケースも増えております。

上海万博ウェディング!!

 アディックウェディングプロデュースの一例として2010年に開催された上海万博の日本産業館ブースでのYokohama Weekに合わせて一般公募した3組の日本人カップルに結婚式を挙げて頂きました。結婚の証人は会場にいらした方々でステージで行う2人の結婚式を溢れるばかりの拍手で祝福して頂いておりました。3組のカップルにとっては、忘れられない思い出になったことかと思います。この企画はあくまでもお客様主体のプランではございませんが、アディックウェディングでは経験の多いプランナーがお2人の夢を実現できる様にご提案させて頂いております。

婚活ブームの到来と恋活パーティー

 婚期が高齢化する背景に女性の定職率が高まった事や草食系男子の結婚意識の低さ等が婚活ブームを招いた要因のひとつだと思います。私の周りでもまだまだ未婚者の友人・知人がたくさんおりますが、新しい出会いの場がない事も起因していると感じております。ですので新しい出会いの場を提供できる様に未婚者限定の恋活パーティーを企画しました。恋活パーティーは婚活パーティーよりカジュアルなパーティーで未婚者であれば誰でも気軽に参加できます。参加者は25~45歳前後の未婚者を中心に参加型ゲームやスピリチュアルブース等で楽しめる空間づくりを目指しております。

今までカップルとなり成功した人は?

 私の知っている範囲で10組以上の方がパーティーで知り合った方同士でお付き合いする事になっております。参加者の方は積極的な方ばかりではありませんから、ゲーム等を通してお互いに興味がある異性の方に話掛けやすい環境をつくり、距離を近づけております。パーティー参加者の方は彼氏・彼女となる理想の出会いを期待して来られるケースも多いですが、そんな映画の様な運命的な出会いを求めずに、「今日は異性の友達を作りに来た」程度にハードルを低くして楽しんで頂ければ何より嬉しいです。

 恋をするのに年令は関係ないと思いますので、今後はシニア限定の出会いパーティーも提供できる様に視野に入れております。恋をする事で自然と気持ちが若返りますよね!

恋活セミナー

 場になじめない人や、チャンスはあるのに話しかけるきっかけが掴めない人等・・様々な方がいらっしゃいますので、そんな方に向け異性との会話術や異性とのコミュニケーションの取り方等のセミナーも展開していきます。

自分との戦い~フルマラソン出場~

 仕事をしてから体を動かす時間ときっかけがなくなっておりましたが、2年前に幸運にもフルマラソンの出場権を頂きました。昔から長距離は苦手だったのですが、何より子供に親父の背中を見せたかったのと、同じ病気で苦しんでいる人にハンデがあってもやれば出来る事を証明する為、目標に向かって準備を進めた結果、完走する事ができました。仕事にも共通するのですが、事前の準備を行えば夢を実現できると自信を持てたのは私にとって何より大きな収穫でした。タイムは聞かないで下さいね。(笑)

私にとっての横浜とは?

 過去に本牧や関内で働いていた事や新横浜の事務所にいる事も多いですし、買い物も横浜まで足を伸ばす事も多いので最も身近な場所です。特に好きな場所は海がある景色と近代的な建物と歴史のある建物と融合したみなとみらい・関内エリアや懐かしさを感じる事のできる野毛・伊勢佐木町エリア等私にとってどれも魅力的な場所です。

 これからの横浜は新羽田国際空港が出来た事で船を通して横浜港とパイプラインを結ぶ計画もありますので、今まで以上に世界各国の観光客が訪れる観光都市となりますので、日本・横浜の魅力となる歴史・文化等も勉強して伝えていきたいと思います。

漢字で「絆」を書いた理由は?

 東北大震災もそうですが世界各国からたくさんの援助を受けております。これも国と国を結ぶ絆があってこそ助けられていますよね。これは個人にも置き換えられると思います。私自身、家族や友人や会社の社員・・・たくさんの人の支えや幸運があって今があると確信しており、現に何度か死んでもおかしくない状況の時も幸いな事に助けられています。

 私自身の力は無力だと思い、自信も持てていないのですが、幸いにも素晴らしい出会いと環境に恵まれておりますので、少しでも恩返しが出来る様に社会や個人の人と人を繋げて絆を結んでいきたいと思っております。
 これからも応援の程、宜しくお願いします!

恋活パーティーにご興味のある方はこちらまで:info-koikatu@gmail.com

 

1月 21 12

号外・ともの現場 横浜市が宮城県山元町を継続的に支援することになりました!~私達の力が横浜市を動かした~

by staff

 横浜市が宮城県山元町に対して継続的な支援を決めたことが1月19日、発表されました。
各メディアで大きく報道されたので、ご存知の皆様も多いと思います。

http://yokohama-now.jp/home/postbook/20120110/tomo.pdf

 東日本大震災発生後の4月4日、「ヨコハマNOW」は多くのボランティアの皆様の力を借りて、支援物資を宮城県山元町に運びました。

 何もかも津波に破壊されてしまった、「坂元駅」のプラットフォームに立って、私達に何ができるのだろうと茫然としていました。

 横浜に帰ってきてから、坪倉良和氏に山元町の商店街の幹部を紹介してもらい、「山元町」つながりで支援していただけないかとお願いしたところ、商店街の皆様はすぐに行動に移してくれました。

神奈川新聞
同じ名前の被災地の山元町に支援、日用品など提供呼び掛け/横浜 (2011年4月7日)
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1104080007/

 

 山元町商店街による支援活動は、継続的に続けられ、2011年4月と6月には山元町を訪問して義援金と支援物資を届けたのです。

物資携え宮城訪問、中区山元町が同名町民を支援/横浜 (2011年4月22日)
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1104220014/

津波被害の同名「山元町」を支援、中区住民らが宮城に支援物資/横浜 (2011年6月10日)
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1106100038/

 私も6月の訪問に同行しましたが、横浜市の山元小学校の生徒さん達が書いた激励のうちわを見て、本当に心のこもった支援だと感動しました。

http://yokohama-now.jp/home/?p=5169

 その後も山元町商店街での募金活動は続いています。

 そして商店街の支援活動がなんと横浜市を動かしたのです。横浜市は宮城県山元町に対して、職員派遣など継続的な支援を決めました。

 私達の活動が、「復興支援プロジェクトチーム」につながったのです。1月19日、横浜市役所を訪れた宮城県山元町の斎藤俊夫町長が、林文子市長に特産のイチゴを手渡したのを見て、涙があふれてきました。

 本当に感無量です。
 これまで応援して下さった皆様に、感謝の気持ちでいっぱいです。
 ありがとうございました!!

 でも復興は始まったばかりです。
 これからも「ヨコハマNOW」では、宮城県山元町を応援していきます。
 皆様のお力を貸してください。よろしくお願いいたします。

産経新聞
「山元町同士」が結ぶ縁、横浜市が宮城の町を継続支援(2012年1月20日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120120-00000514-san-soci

 

山元町のボランティアセンターが制作した動画。『10か月がたって』。

ビデオに登場する「心をひとつに」のボランティアTシャツは、ヨコハマNOWの辰巳編集長がデザインしたものです。

 

1月 10 12

ブラとも 「今年は、復興の年です」

by staff

 2011年12月26日、思いがけないクリスマスプレゼントをいただきました。

 それは宮城県山元町の社会福祉協議会から送られてきた「いちご」です。
とても良い香りの大きないちごが4パック入っていました。
「いちご」には、「感謝の心 復活へ」というラベルが貼られていました。

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宮城県山元町の社会福祉協議会から送られてきた「いちご」

 宮城県山元町は、「東北の湘南」と言われる温暖な気候を利用して、「いちご」のハウス栽培が盛んでした。海岸沿いには大きなビニールハウスが並び、「いちご御殿」と呼ばれる豪邸がたくさん建っていました。

 それが3月11日、東日本大震災とその後の津波によってすべて破壊されてしまったのです。95%の農家が被災して、「いちご」農家のビニールハウスで残ったのはたった一軒でした。

 日本全国から来てくれたボランティアの方々が、ビニールハウスの泥をかき出しす作業を毎日続けてくれました。そして、いちごの苗を接ぎ木してクリスマスに間に合わせるようにしてできた貴重な「いちご」を送って下さったのです。

 社会福協議会の方々の心意気に感動して、すぐ電話しました。電話口に出られた佐藤さんは「ようやくできたいちごを、お世話になった方々に食べていただきたかったのです。」と仰って下さいました。

 「ヨコハマNOW」では、サポーターの皆様にお世話になりながら、3.11以降、宮城県山元町の復興支援をしてまいりました。

横浜市中区山元町から宮城県山元町へ~ヨコハマから支援物資を送ろう~
http://yokohama-now.jp/home/?p=4807

 特に横浜市中区山元町の商店街の皆様には、様々なイベントを通じて継続的に支援活動を行っていただいております。

横浜市中区山元町二丁目商栄会 東日本大震災<宮城県亘理郡山元町>応援
http://e-yama2-mall.com/2011sinsai.html

 また「ヨコハマNOW」編集長の辰巳がデザインしたTシャツは、「心をひとつにTシャツ」として、多くのボランティアの方々に着ていただいております。

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「ヨコハマNOW」編集長の辰巳がデザインしたTシャツ

 送っていただいた「いちご」は、もったいなくて・・・どうしようかと思いましたが、山元町商店街の皆様にも味わっていただきたいと、二パックお渡ししました。ちょうど商店街の会合があったそうで、皆様に食していただけました。

 残りの一パックは弊社の納会(12月28日)にスタッフ一同でいただきました。とても香りが強く美味しかったです。

 あと一パックは、12月29日、父母の墓参りで訪れた仙台市若林区の叔母夫婦にプレゼントしました。叔母の「うちはいいから他の人たちを助けてあげて」の一言が、宮城県山元町につながったのです。半壊だった叔母の家は12月中旬にようやく屋根のふき替え工事が終わっていました。

 墓参りを終えて仙台市から車で一時間ほどの山元町に向かいました。「仮設住宅の方々のケアがあるので、年末年始も変わらずにやっていますよ。」と伺ったので、横浜からささやかな差し入れを持っていきたいと思ったのです。

 半年ぶりに訪れた社会福祉協議会の横には、「やまもと復興センター」の事務所が建てられていました。このセンターのロゴマークには、ボランティアTシャツのマークが使われていました。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

「やまもと復興センター」の事務所のロゴマークには、ボランティアTシャツのマークが使われていました

やまもと復興応援センター http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid

 事務所にいらした女性スタッフの方は、「いつまでも下を向いていられない。これからは前を向いていかなければ・・・。山元町だけで仮設住宅が八か所あって、2000人を超える方々が住んでいます。まだまだ支援が必要ですからこれからです。」と私に話してくれました。お話を伺っていて、彼女の決意に涙が出てきました。

 事務所を出て坂元駅に向かいました。4月に訪問した時に駅舎がぐちゃぐちゃになったままでしたが、その駅舎はなくなっていました。ただホームはそのままです。そしてそこから海までは何にもない荒涼とした野原になっていました。3月11日まで走っていた常磐線は、もうここを通ることはありません。2015年度の再開を目指して山の方に新しい駅が作られることになっています。

 12月29日、空は青く海は穏やかでした。あの日の惨状が信じられないほど静かな空気が流れていました。

坂元駅(2011年4月)

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坂元駅の階段はぐちゃぐちゃにされ、線路は大きく曲がっていました

 

坂元駅のホームは地盤沈下していてアスファイルトはうねっていました

坂元駅(2011年12月)

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坂元駅(2011年12月)

 

坂元駅のホーム(2011年12月)

 津波に襲われた民家がまだそのままになっているところが多いことに驚きました。時はまだ止まっているようです。比較的復興が進んでいると言われている宮城県山元町でもこの状態なのです。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

民家

 

海のほう

 昨年11月に、山元町の方々がまとめた復興計画が発表されています。計画によると平成30年度まで、あと8年間もかかるのです。

山元町震災復興計画 http://www.town.yamamoto.miyagi.jp/fukkou/pdf/kihon_kousou.pdf

 2012年が始まりました。今年は、復興の年です。
私達一人一人の力は小さいかもしれませんが、皆の力が集まったら何かはできるはずです。
「ヨコハマNOW」では、復興支援を継続していきます。
今年も皆様のご支援をよろしくお願いいたします。

 

1月 10 12

セカンドライフ列伝 第1回 紫式部

by staff

連載開始の御挨拶

布袋像と榎本氏
台湾の台中市にある宝覚寺の30m高の布袋像です。腹を撫でると金満になるとか。

 

 セカンドライフ(第二の人生)を充実して過ごすことは不可避の課題です。ひとつは寿命が延びたことで、60歳定年とした場合に、女性で28年、男性で23年(厚生労働省統計)もの長いながい老後があります。この一方で終身雇用が、特に民間では維持が困難になり、大規模リストラや事業整理、倒産などによって、人生のまだまだ半ばと考えていた時期に転職を余儀なくされています。また子育てや介護を終えた人が、自分のために残りの人生の時間を有効に使いたいという意識が高まっています。さらに意欲的な事業主では、天職としてその仕事に打ち込むことはもちろんであるが、同時に趣味以上の何かに取りくみ、引退後の活動につなげたいと準備し、また実践している人が多いように思えます。

 このような時代に、我々の先人たちのセカンドライフの事例を集めてみることは、大いに参考になると考え、シリーズとして書かせていただきたいと思いました。いろいろと応援いただければと思います。

第1回 紫式部

その生没年

 さて初回は源氏物語54帖などの作者、紫式部である。生没年は不詳であるが、970年代の生まれは確実であるという。与謝野晶子らの978年説もあるが、ここでは私の趣味にして小説的な想像力を働かせるために、生まれの早い973年説を採用する。一方没年であるが、更級日記の作者である藤原道綱の母は熱烈な源氏物語読者であり、その全巻を叔母から貰うのが1021年、しかし作者に会いたいとの記述がないので、この時期には死去していたと考えて、これに整合する1016年説を採用する。いずれにしても400年近く続く平安時代の中期であった。

 

 紫式部はシェークスピアと並んで、おそらく現代において文学博士を最も多く輩出させているのではないだろうか。源氏物語は外国の大学の文学部のサイトにも研究用に掲載されている。それが書かれたのが千年の昔であることは驚きであり、しかも女性であることは類を見ないと言われている。

第一の人生

 そんな彼女の人生は、受領(ずりょう)の妻として始まる。現代流に言えば、中央から派遣される県知事の妻である。彼女の家系は藤原氏の中枢につながるが、祖父の代から受領階級であり、これは中央政権から外れたということになる。父の藤原為時は越後(今で言う新潟県)の知事の時代があり、彼女も赴任先での生活を経験しているという。そして彼女の夫になる藤原宣孝も筑前(福岡県の一部)や山城(京都府南部)の受領であった。受領は中央から見れば位は低いが、蓄財ができるそうだ。まんざらでもない。

 夫の宣孝は彼女より20歳程度も年長であり、最近流行(はやり)の「年の差婚」である。紫式部は997年に越後から帰京し、998年に結婚、1000年に賢子を出産している。25歳の結婚は時代を考えれば遅いようだが、更級日記の作者は30歳過ぎでの初婚であり、事情次第と言うことか。その宣孝は何と1001年に急逝してしまう。

 <閑話休題>
 確か2001年の東映「千年の恋 ひかる源氏物語」では主演の紫式部役の吉永小百合が垂衣(たれぎぬ)をつけた市女笠(いちめがさ)を被り、杖をついて単身で上京する場面があったが、それは違うのではないか。あの更級日記の作者は、上総(千葉県の一部)の受領の子であり、信州の受領の妻であることから、紫式部と全く同じような階級であるが、石山寺縁起絵巻には、彼女の一行が参詣した時の様子が描かれている。彼女自身は車に乗っていて姿を見せないが、我々が牛車して知るものと同じ立派なデザインのリムジンであり、それを4名が徒(かち)で引く。さらに騎馬の供が4名、徒の供が2名の10名と言う構成であり、騎馬のひとりは身の回りの世話をするための女性である。紫式部も県知事の娘であるから、それなりのお供があったはずだ。

モラトリアム期

 さてこの「年の差婚」を不幸と見る説もあるようだが、私は幸せであったと想像している。この夫は極めて外交的であり、一方彼女は内気な質であった。そこに良い調和があったのではないだろうか。

 突然の夫の死後、1年程度で源氏物語の執筆を始めているという。それを近しい友人達に見せては、巻を重ねていったらしい。このきっかけは、亡き夫へのオマージュという側面も、必ずあったと思われる。

第二の人生の開始

 彼女の運命を変えることとなる幾つかのことが同時に進行していた。時の一条天皇には990年に藤原道隆の娘、定子が嫁いだが、995年に関白道隆が死去し、後に権力を掌握する藤原道長の序列がぐんと上がる。999年に定子は敦康親王を生むも、同時期に道長は娘の彰子を入内させる。1000年に定子を皇后、彰子を中宮とする二后冊立となるが、この年末に定子が次女の出産で死亡してしまう。当然道長の次の望みは彰子の男子出産である。そのような流れの中で、既に源氏物語の作者として知られ始めていた紫式部が招集された。その狙いは彰子のサロンに天皇をなるべく多く来させ、長く滞在させるための戦術の強化である。紫式部は1005年の12月に初出仕した。(1006年説もある)

 しかし紫式部はそこになじめず、何と5ヶ月も引きこもってしまう。やがて復帰するが、なかなかプロの女房とはなりきれないでいた。この時代の女房とは天皇や貴族に仕えて庶務係、家庭教師、秘書などの公的な役割をするものであり、彰子のサロンには中央政権に直結するような血筋のものも多くいて、なかなか人間関係としても大変な世界であったようだ。紫式部は中途半端にお嬢様であったのだ。

自分の殻からの脱皮

 最初はプロ意識が欠如していて、いつも遅刻すれすれだった。しかも同僚は源氏物語の作者であることを知っており、30歳過ぎで結婚経験があるので、それなりに世間も知っていて才能を鼻にかけている、高慢な気難しがり屋だと思っていた。だれも打ち解けて話ができる相手が居ない。そこで紫式部は内心を押しとどめて、周囲との軋轢を極力排除し、おとなしくている作戦で対処することで、やがて前評判ほどのつきあいづらい人ではないらしいとの評価が出てくる。

 そして2,3年程度で紫式部は7番目位の序列に出世している。(私は全部で何人かは知らないが、移動で車に乗れる身分であった。)そして1008年の彰子の出産に際して、その記録係を担当した。紫式部日記はこの記録も下敷きにして、1010年に執筆したものと言われている。

 この日記は「突撃宮廷レポート」とも、「女房は見た」とも言えるもので、道長や彰子のすぐそばで見聞をしているので極めて具体的で興味深い。彰子は36時間の難産の末に、男子を生む。そこに至る僧侶達の祈祷のすさまじさはもとより、朗報を聞いた女房ら全員のよろこびようは、化粧がはげて誰だかわからないとリアルに表現している。出産は実家に帰ってのことなので、そこには道長がいる。道長は赤ん坊(親王)の首も座らないうちから抱っこしたりして大喜びだ。その親王が道長に抱かれた状態でおしっこをしてしまう。そのおしっここそは、極めて男性的なシンボルからのものであり、嬉しくて仕方ない。女房に服を乾かさせながら、几帳の陰でこれぞ念願が叶った証拠だと喜びを隠さない。

女房としての成長

 そしてこの彰子出産レポートを担当することで、彼女の意識も変化してくる。実は貴族の間では、定子のサロンが面白かったとの評価が、その死後10年でも衰えず、一方で彰子のサロンはみんな引っ込み思案でつまらない、取り次ぎさえ満足にできないと酷評されていた。定子のサロンのエースは、あの清少納言である。(二人は時期が違うため、宮中では会って無いらしい。)既に存在しない定子のサロンを超えることが、自らに課せられたミッションであるとの認識を深め、紫式部は外向きのサロン形成に努力する。

 所で一条天皇は、源氏物語を読んでいた。そこで道長は、源氏物語が天皇と中宮(彰子)との共通の話題であるとの認識から、豪華本の制作を命じる。これは天皇が今までに読んだことのない話を含む、書き下ろし版でもあった。どうしたか。紫式部の京都の実家から書きかけを含めた原稿を、本人が知らない間に持ち出して、清書して作ってしまったのだ。でもこの甲斐あってか、1009年に第二皇子の出産となる。後には漢文好きの天皇との会話のために、彰子に白居易の白氏文集の中でも、もっとも硬い新楽府(政治的な内容を含む)を進講している。そう言えば彼の長恨歌は源氏物語に影響を与えているという。女性は漢文をやらないのが建前の時代のことである。

まとめ

 さて、既にかなり長くなってしまったので、そろそろまとめに入ろう。
 紫式部は当時の女性としては並外れた漢学を含む教養を備えていた。紫式部日記では、弟が素読するのを聞いてすらすらと覚えてしまい、父親にお前が男だったらなあと言わせたとある。しかし彼女自身は世間知らずで、引っ込み思案であった。それはめったに家の外の人とは顔を合わせない時代の良家の少女としては当然でもあった。そして結婚し、経済的にも安定した生活であったろう。しかし夫の死によって人生最初の挫折を味わう。傷心の中で、源氏物語を書き始める。元々学問ができるとの評判があった上に、この著作という実績である。道長に所望されて中宮の女房となった。それでも最初は内気なお嬢様、紫式部は世間に擦れていなかった。でももまれる中で、持ち前の才能と、鋭い人間観察眼に加えて、彰子サロンを盛り立てるミッションの自覚により、平安期第一級の女房に育っていった。

そして死

 父の藤原為時は1011年に再び越後の受領に任命されて赴任したが、任期を1年残した1014年に突然辞任して京都に戻ってくる。紫式部の病によるとの説がある。為時は紫式部を死の床で孤独にさせず、暖かく看取ったのだろう。どんなに大切な子どもであっただろうか。

(主な参考文献 山本淳子編:紫式部日記、角川ソフィア文庫、2009年)
(注:紫式部に係る年代は私の独断であり、根拠に限界があります。内容も思い込みが先行しており、事実としては限定的に受け止めて下さい。)

(2012.1.1 榎本博康)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

1月 10 12

ソーシャルメディアの正体(第六回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.ソーシャルメディアを科学する

 企業の論理としては、ソーシャルメディアで起こっていることが何であるのか、どうなろうとしているのかを知りたいところである。これまで述べたように、生活者の行動やプロフィール、嗜好、慣習などが直接ビジネスに関係する大きな要因であれば、なおさらである。

 そこで、実際にインターネットで流れている情報量はどの位なのかを検証してみよう。

 総務省の今年7月13日に公表された『情報流通インデックス研究会』報告書によると、以下のようなデータとなっている:

 先ず、数値の定義をみると、流れている情報量、すなわち、

流通情報量=受信された情報量×単位情報量(ビット)・・・(1)

ただし、受信された情報量は、通信時間、視聴時間、販売部数等から算出、単位情報量については、アナログ情報は同品質のデジタルデータとして換算し、印刷物はテキストデータではなくすべてグラフィックデータと見なして換算する。
また、情報が利用される量、すなわち、

消費情報量=利用時間×消費単位情報量(認知情報量:ビット)・・・(2)

       =流通情報量×消費率(平均利用認知率)・・・(3)

としている。ただし、認知科学分野での研究を参考に、受け取った情報のうち、人間が実際に認知した情報量を計量する。また、Card等の情報認知モデルをもとに、認知レベルでの時間当たり消費単位情報量を以下のように設定している。要は、大人が読んだり、見たり、聴いたりして意味がわかる情報量を示すと、

視覚情報の消費単位情報量=223(ビット/秒)

聴覚情報の消費単位情報量=105(ビット/秒)

としている。

 このような仮説で試算した結果をみてみると、平成19年度の流通情報量(1)は5.99×1021 ビット(約6ゼタビット)、消費情報量(2)、(3)は2.96×1015 ビット(約300ペタビット)と推計できた。このような結果から、同報告書では、次のような傾向を報告している。

  • 近年、特に流通情報量の伸びが大きくなっている。
  • 流通情報量の98.5%、消費情報量の77.4%を放送メディアが占めている。
  • メディアグループ別の推移を比較すると、流通情報量ではインターネットの伸びが突出して大きい。
  • 消費情報量でもインターネットの伸びは大きいが、流通情報量ほどではない。
  • インターネット以外のメディアの消費情報量は、横ばいか漸減傾向にある。

 ここで、ビジネスプランの概算で、よく使うフェルミ推定で考えると、流通情報量は6の後に21個ゼロが並ぶだけの量、消費情報量は、3の後に15個ゼロが並ぶ量、つまり、流通情報量は、消費情報量の10万倍流れていると予測されており、その量も、年を経るごとに総量が増えているというのだ。さらに、そのほとんどがマスコミの名の通り、放送メディアが情報の流通と告知を行っており、インターネットだけが、他のメディアを抑えて急成長している。

 さて、数値を追うのはこれくらいにして、インターネットの利用が大きいといっても、やはり放送メディアには広告の費用対効果が大きい。ソーシャルメディアといっても総量が、あまりにも違うことを覚えておこう。

2.流通情報の分析とマーケティング

 では、この大量の情報をどう扱い、分析し、求める顧客情報として利用できるかという話が当然でてくる。すでにIT企業の多くが、口コミ分析あるいは、ソーシャルメディア分析、ビッグデータ分析なる名前で取り組み始めている。

 多くの手法は、ツイッターやフェイスブックなどのAPI(アプリケーションインターフェイス;公開されたシステムの外部から情報のやり取りを行う仕組み)を使って適当なデータを保存することから始める。蓄積量は、調査会社によって異なる。調査依頼者の要望に応じて、データを抽出、統計データを取って、テキストマイニング(意味抽出など)技術を駆使し、その傾向を図示あるいは生データを提供する。つまり、ソーシャルメディアは流通情報といえども、システム側の情報提供に依存しているわけで、ツイッターやフェイスブックのAPIの仕様が変わったり、削除・修正されたりすると、希望するデータが採取できない可能性も出てくる。

 さらに厄介のことに、効果を見る指標が情報量として測定できないと意味がない。著者も鳥取大学 石井晃教授と共同でソーシャルメディアの数理モデルを研究しているが、ブログやツイッターの効果を見るにも、数値として入手できる映画の興行収入や広告費、テレビの視聴数といったマスメディアの流通情報を必要とする。一般的にこのような情報は研究用途以外では高価で、分析する対象商品の広告費に対して結構な負担となる。

 流通情報に注目するのではなく、消費者の受信によって消費される場合、口コミのように再度消費者から発信される流れに注目するアプローチもある。つまり、同じ情報でも口コミの範囲、口コミを受け取り、再び発信する消費者と消費者のつながり方などによって、拡散したり、消滅したりすることが知られている。つながりの数を次数、消費者一人一人をノードとみたネットワーク構造に焦点を当て、情報の広がりを研究する分野もある。複雑ネットワークと呼ばれる分野で、今経済学と物理学の学際的な研究として「経済物理」として取り扱われている。株価や為替の取引、ブログやツイッター、SNSの情報の広がりを説明するモデルも数多く提案され、今世紀に入ってからインターネットの普及により、統計情報との比較が簡単になって検証も進みつつある。

 マーケティングとしては、傾聴戦略も重要だが、定量化も重要なデータである。従って、調査会社に口コミ分析サービスを依頼することになるが、傾向は読めても、予測や予想には向かない。むしろ、依頼した側が分析をする必要がある。

【仮説と検証】

 多くのマーケティング戦略では仮説を立て、企画を推進する。仮説の多くは、顧客へのアプローチでの反応であり、B2C(対一般消費者の事業)だけでなく、B2B(対企業向けの事業)などにも利用される。アプローチによって購買行動に移り、購買し、その価値に対してフィードバックするといった一連の流れに対して仮説を立て、検証することになる。もし、その仮説が検証されれば、以後、そのアプローチを続けることによって、売上を向上されることができる。一方、検証できなければ、その要因の分析と対策を打たねばならない。

 ソーシャルメディアでの商品にまつわる分析を行うことを考えてみよう。

 例えば、高級チョコレートをネットで販売することを考えてみる。一般的に消費者は、女性や子供であろうが、あえて、男性に販売する場合の仮説と検証を考えてみよう。

 時期的に、聖バレンタインデーといった特殊な時期ではなく、通常の販売を考える。

 先ず、仮説として、男性がチョコレートを食べることから考えてはいけない。男性がこの高級チョコレートを「買う」ことを考えるのである。つまり、男性が、女性あるいは家族、あるいは職場や取引先等のために購入する「贈答用」と自分で購入して食べる「自家用」とに分けられる。そこで、仮説として、贈答用を増やすためには、他の贈答品よりも購入する確率を上げる必要があろう。自家用は、自宅よりも職場なども含まれるかもしれない。このように考えると、この高級チョコレートに関するソーシャルメディアでのうわさやメッセージが気になるだろう。チョコレートの贈答用としての競合は何であり、自家用は男性では少ないのか否か?

 このような情報を得たいなら、ターゲットとなる消費者(男性)にアプローチする必要がある。例えば、高級チョコレートのキャンペーンであり、試食会、デモといったアプローチで男性に無理なく近付き、その反響や反応を観察できる「しかけ」が必要だ。

 「しかけ」とそれを観察できるツールを準備し、例えば、キャンペーンでのアンケートやツイート、フェイスブックのメッセージでの反応などを分析して、購買行動の仮説を検証するのである。

3.AISASからAIDEESへ

 これまでマーケティングの入門書では、ネット販売で有効とされた理論にAISAS理論が紹介されている。消費行動をプロセスととらえ、

  • Attention」(注意が喚起され)
  • Interest」(興味をもち)
  • Search」(検索し)
  • Action」(購入して)
  • Share」(情報を共有する)

とした一連の段階を踏むというのだ。しかし、この理論はさらにソーシャルメディアの普及に伴って、進化し始めている。つまり、プロセスも単線的ではなく、ブログなどで爆発的に拡がるようなAIDEES理論が着目されている。

  • Attention」(注意が喚起され)
  • Interest」(興味をもち)
  • Desire」(欲しくなり)
  • Experience」(購買あるいは無料体験し)
  • Enthusiasm」(心酔し)
  • Share」(成功体験を共有する)
  • Attention」(新しい消費者に認知され)

 このAIDEES理論のポイントは、体験による共有を口コミの原動力している点である。ソーシャルメディアのマーケティングでの注意点はまさに、記事や投稿で消費者の体験が語られているかというところで、その善悪も容赦なく共有される可能性も示している。利用体験に対するアプローチを用意する場合、共有される情報が、自社の意図したものでない結果になることも念頭に置かねばならないのである。

 公になっている事例があまりないが、ネット大手もソーシャルメディアの取り扱いが戦略的になってきていることから下表にその一部を載せたので参考にして頂きたい。

表 ネット大手のソーシャルメディアの取り組み(一部)

企業名 サイトの性格 ソーシャルメディアに対する戦略
楽天 電子商取引 ファイスブックなどと連携。SNSで知人と対話しながらお買い物を楽しんでいただく。(顧客層へのアプローチを増やす)
ヤフー ポータルサイト ツイッターと連携。ツイートのリアルタイム検索を機能を提供。(広告出現率を上げる)
エキサイト ポータルサイト 音楽情報の共有サプリを提供。音楽を軸に交流機能を順次整備。(広告の出現率を上げる)
ニフティ プロバイダー SNSを利用した企業の販促支援会社コムニコを買収。(販促支援で事業を拡大)
ソネットエンタテイメント プロバイダー SNSゲーム「aima」を運営するACCESSPORTと連携。ユーザはソネットIDでaimaのゲーム20タイトルを無料で楽しめる。(SNSゲームへの事業拡大)
オウケイウェイブ 質問回答サイト Q&Aサイト「おけったー」で商品の内容などについて企業が質問を投げると、ツイッターなどでSNS利用者から回答が届く(B2B2Cへの展開)
カカクコム 価格比較サイト 気になったニュースやブログにコメントをつけて投稿する「juke」を開始。(情報内容の充実)

 次回は、「しかけ」について詳しく見ていこう。

次回の予告:
次回は、「ソーシャルメディアでモノ・コト創り」と題して「ソーシャルメディア・マーケティングで集客・イベント開催」を解説する。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

1月 10 12

「レッドライト」(連載第10回) 刺青から学ぶ封印された外交

by staff

彫千代の写真(長崎大学付属図書館所蔵)
 

 ミナトといえば船乗り。船乗りといえば、二の腕に入れた刺青である。横浜港は日本で一番大きなミナトだ。そういった意味で、横浜は日本で一番刺青が似合う街だった。

 ミナトと刺青が分かちがたく結びついていたのは、そう遠い昔のことではない。三島由紀夫から自決の十日前に入墨を依頼されたことでも知られる横浜の彫り師・彫錦こと故・大和田光明氏は「ミナトで積み荷の点検を行う検数員には、刺青を入れた人が多かった」と述懐している(山田一広・著『刺青師(ほりし)一代 大和田光明とその世界』神奈川新聞社 1989年)。

 ミナトと船乗りと刺青の三位一体。それは開港とともに始まった。欧米の水夫や水兵たちには、立ち寄ったミナトで土産代わりの刺青をしていく習慣があった。航海の無事を祈り、ラッキー・アイテムを彫り込むこともあれば、ピンナップ・ガールや異国の意匠を刻むこともあった。

 当然、横浜に立ち寄った外国人たちのなかには、伝統的な和彫りのタトゥーを入れていく者も少なくなかった。開国当時、日本の刺青は世界最高の水準に達していた。他国の彫り師には真似の出来ない「ぼかし」の技法、龍や虎、鯉といったオリエンタルな図称、絵柄に隠された意味合いや物語性などが受けたのだろう。招かれて欧米に渡った彫師も何人かいたそうだ。

 そうした時代、西洋で「刺青界の皇帝」と呼ばれた日本人がいた。元町を仕事場にした彫千代である。
 彫千代は謎の多い人物だ。西洋では日本を代表する彫り手だと考えられていたが、国内ではまったくと言って良いほど名が売れていなかった。したがって資料は皆無である。わずかに有島生馬(横浜出身の画家・作家。有島武郎の弟、里見 弴の兄)の小説「彫千代」( 『婦人世界』大正13年1月~5月、8月~10月に連載)や洋画家の藤田嗣治(*註1)が譲り受けた彫千代の見本原画27枚などによって、かろうじてその輪郭がつかめるだけである。

 実像がさだまらない男が「皇帝」と称され、伝説化したのはなぜか。それはイギリスのアルバート・ヴィクター王子とジョージ王子に刺青を施したのが、彫千代だとされたからである。

 当時欧州の王室や貴族の間では刺青が流行っており、外交で来日した際、肌に絵図を入れていく事も珍しくなかった。とくに英国の王室では、日本に来たら刺青を彫るのがある種の決まりのようになっていたという。

 海外で喧伝された彫千代の伝説は、つぎのようなものだった。

 

  1. イギリスのアルバート・ヴィクター王子とジョージ王子に刺青を施した
  2. ロシア皇太子ニコライ2世やギリシャ皇子・ゲルギオス をはじめ、欧州の王室関係者に刺青を施した
  3. ニューヨークの富豪マックス・バンデルに招聘され、数年間滞在してセレブたちに刺青を彫った(彼の離日は1896(明治29)年12月26日付「毎日新聞」や27日付「中国民報」で報じられた)。

 上記三つの伝説は自然史と超常現象の専門家ガンビア・ボルトン(Gambier Bolton) が「ストランド・マガジン」 というシャーロック・ホームズ・シリーズが35年間連載されたことで知られる雑誌に書いた「人間の肌に描かれた絵」という記事(1897年4月号)に由来している。

 彫千代と欧州王室の刺青について研究した小山騰(のぼる)氏によると、残念ながら伝説はすべて誤っているそうである。英国やロシアの皇太子たちが日本で刺青を入れたのは事実であるが、それは別人の仕事だった。ニューヨークの富豪からの勧誘は完全に否定できないものの、彫千代は一生涯日本から離れなかったのだ。

 ボルトンは1893年頃、実際に横浜の彫千代のスタジオに赴き、自身の肌に彫り物を入れて貰ったという。にもかかわらず彼の記事は正確ではなかった。

 おそらく彫千代が英文の日本旅行ガイドブックにうった広告(このページ下段の写真)に尾ひれがつき、「日本で刺青をいれた王室関係者は全員彫千代に入れて貰ったに違いない。ならば、きっと日本で最高の彫り手だろう」ということになり、名声が一人歩きをしてしまったようなのである。

 当時の日本は「野蛮」の名の下に刺青を禁止したが(明治5年/1872年)が、それでも名人と呼ばれる職人たちがいた。明治10~15年頃は、まず彫岩に筋彫りをして貰い、ぼかしの名人である達磨金にぼかしを入れて貰い、最後は唐草権太に朱を入れて貰うのが最上と言われた。その後、彫岩や彫兼といった匠たちが出現。後を追うように、日本の歴史上最高の名人だと考えられる彫宇之(本名は亀井宇之助。明治35年から大正時代にかけて活躍 *註2)が登場した。しかし彼らは海外ではまったくの無名だった。

 海外で名を馳せたのは、彫千代ただ一人だった。その理由として以下のようなことが考えられる。

  • この時代の彫り師としては珍しく、英語を話すことが出来た
  • 写真や絵はがきの販売を手がけるなど新時代に対応する柔軟さを持ち合わせていた
  • 藍色、朱、茶色というそれまでの和彫りの世界にはなかった色彩を持ち込んだ
  • カリグラフィーの意匠など外国人ウケする絵柄にも積極的に取り組んだ

 彫千代の功績として重要なのは、扱う色彩の幅を拡げたことだった。従来の和彫りは、わずか数色の色彩しか用いていなかったのである。しかし肝心の絵柄の方は必ずしも一流とは言えず、日本人よりも西欧人に受けそうなタイプだった。とはいえ、アルファベットを図案化した絵柄をデザインするなど、江戸時代に生まれながら和彫りの枠に収まらない異能の人物だったことは間違いない。

 前述の通り、彫千代に関して分かっていることは断片的だが、おおよそ以下のようなことが明らかになっている。
 本名を宮崎匡(ただし)といい、幕末にあたる1859(安政6)年に静岡市水落町で生まれている。実家は士族で次男坊だったが、19歳のとき失踪し、31歳の時立ち戻りの届けが出されている。実家に現れたとき、彫千代はすでに一端の彫り師だった。

 彼が彫り師を志した理由や、修行中のエピソードに関する記録は皆無である。ガンビア・ボルトンの記事によると、師は名人・彫宇之の兄弟弟子・彫安で、彫千代は師匠の身体に刺青を彫ったという。彫千代本人が顧客に配っていたビジネスカードによると、若い頃絵画教育をうけたらしく、デザインや技術に関しては和彫りの基礎を押さえつつ、独自に研鑽を積んだようだ。

 いつから彫り師として仕事をはじめたのかは分からないが、遅くとも1885年(26歳のとき)には外国人相手の施術を行っていたらしい。
 彼は仕事場だった「アーサー&ボンズ・ファイン・アート・ギャラリー」のオーナーであるホーレス・フランク・アーサーの妾・渡辺ふみと結婚。アーサーとふみの娘・しづの他に二人の子供をもうけた。しかし1900(明治33)年3月17日、満40歳のとき北海道で札幌の娼妓と心中している(有島生馬の小説では日露戦争中、旅順で戦死したことになっている)。その経緯も不詳である。彫千代には彫清という弟子がいたが、彼もまた1904年頃死亡しているという。

 書物によると、彫千代は写真を撮るのが好きで、自転車を乗り回したり、友人と共同でビリヤード場を経営するなど、かなり開化趣味に富んだ人物だったそうだ。

 彫千代らが触媒となり、日本の刺青の技は英国に伝えられた。英国社交界では19世紀後半刺青が流行している。明治政府は刺青を禁止したが、その刺青を「文明国」である欧州の王侯貴族が競ってもとめたという逆説は皮肉である。

 火付け役となったのはエドワード7世で、20歳の時(1862年)、エルサレムの刺青師フランシス・ソウワンに入れて貰ったのが最初だった。20年後、二人の息子(長男アルバート・ヴィクターと次男ジョージ王子)も同じくソウワンからエルサレムの十字架を彫って貰っている。その後、1870年に英国最初の刺青師デイヴィッド・パーディが英国内に初めてタトゥーパーラーをオープン。上流階級を顧客に取り込んで繁盛した。明治時代には五人の王子が来日しているが、そのうち少なくとも四人は日本で刺青を入れているという。

 このブームを背景にイギリスの四大彫り師(サザランド・マクドナルド、トム・ライレー、アルフレッド・サウス、ジョージ・バーチェット)と日本の刺青師が名声を欲しいままにしていたが、アメリカのサミュエル・オライリーがタトゥーマシンを発明したことをきっかけに流れが変わっていく。オライリーの弟子の一人が有名なチャーリー・ワーグナー(1890年代から第二次大戦後まで活躍)で、タトゥーマシンを改良し、1904年に特許を取得した。機械が普及するにつれ、刺青の中心はアメリカへと移っていった。日本やイギリスがタトゥーの先進国だったのは第一次大戦のあたりまでで、その後は国籍よりも「個々の職人の腕次第」という状況になっていくのである。

 1910年代半ばから1930年代にかけて流行したアールデコはジャポニズムの流行から派生した側面があるといわれるが、彫千代らが英国に広めた和彫りも一役買っていたかもしれない。

註1)藤田は手ずから指輪や時計の刺青を彫り「入墨嗣治」と自称していた。

註2)元内閣総理大臣・小泉純一郎の祖父・小泉又次郎は逓信大臣を歴任した政治家だったが、全身に見事な刺青があり「いれずみ大臣」と
  よばれた。この刺青を彫り上げたのが、彫宇之である。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

昭和初期から10年代にかけてバンドホテルやグランドホテル(原文ママ)などで販売されていたポストカード類。横浜が海の玄関口であったことから、このようなカード類が海外から持ち込まれ、一方外国人たちは逆に日本の刺青風俗の写真を蒐集していった(西区の「文身歴史資料館」にて展示しているものを撮影)

 

水町通りと海岸通り12番地に店を構えていた「アーサー&ボンズ・ファイン・アート・ギャラリー」の広告。タトゥースタジオが併設されており、彫千代はここで働いていた。のちに独立して自身の仕事場を構えている。
下段文面の和訳:
彫千代……アルバート・ヴィクター王子およびジョージ王子両殿下のご贔屓を受けた高名な刺青師。芸術的な刺青作品によって世界中にその名を知らしめていますが、我々の専属なのです。刺青のデザインや見本は施術室で御覧頂けます。

 

彫よしの見本画

 

彫よしの見本画

主要参考書籍)
小山騰・著「日本の刺青と英国王室」(藤原書店 2010年)

 

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

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大文字では表せない小文字の横浜の歴史「裏横浜研究会」。ノンフィクション作家檀原照和さん

 

1月 10 12

2012年1月 三ツ池だより 「夢を描く1月」

by staff
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 箱根駅伝を見ながら考える。区間新をまじかにする選手は「周りの人おかげです」と言ったという。ラストをずっと離されて、いまにも歩きそうになりながらも「田舎のご両親への誓い」を胸に走り続ける選手がいる。今生きていることに、命が躍動していることに注目する。

 夢・希望を語る前に、新年の新聞六紙から感じたことがある。どれもこれもヌルマ湯の中にいる、なんとも妙な気分を受けた。その中で産経新聞の曽野綾子さんの正論が異彩を放っていた。 「人間にとって故郷とその絆は、なつかしくもあり、うっとうしくもあり、悲しくもあり、胸うずくものである。」「絆はそれによって得をするものでない。相手のすべての属性を受け入れることだ。美点も難点もすべてうけいれることが、絆を大切に思う姿勢というものだろう。」「絆は、むしろ苦しむ相手を励まし、労働によって相手を助け、親切に語り、当然金銭的な援助さえもすることなのである。受けるだけの関係など絆ではない。むしろほんとうの絆の姿は、与えることなのである。自分が与える側に廻ることを覚悟する時、人は初めて絆の中に立つ。」我々の人間性復活のために、大きな気づきをいただいた。

「音」
部屋を暖かくするストーブが
唸り声をあげている
 我が心をうごかしている心臓が
 何の音も立てずにいる

動と静
一体として今にある
 魂は音もなく
 宇宙と交信している

「石」
坂道を登りながら
こう考えた
 この一歩こそが今の歩み
 この一段こそが今の行動

一人ひとりが進んでいくとぶつかりあう
そのぶつかりこそが大切なエネルギー
 ほっておくとその一瞬が化石になる
 お荷物になってしまう

 新しい年の願いは、感じた絆を生きる喜びに繋げていくこと。思ったけど何もできなかったのではなく、できることの小さな歩みを重ねていくこと。クリスマスにメロディベルを衝動的に買ってしまった。家族の集まりに使うことを考えていた。ところが8音だったので、家にあるエレクトーン用の楽譜ではどれも演奏できないことが分かった。クリスマスを目前にしていたのでお店に走った。12音にしたいと思った。四つの追加がきかなければ20音のメロディベルを買うことも覚悟した。店員さんと40分位相談をしていていた。「今日8音の曲集が入りました。如何ですか!1500円です。」この店員さんの行動に今年のヒントを感じたといったらオーバーかもしれない。商売は売りたいことと並行して、相手が何を求めているかを知ること、それを実現していくこと。

 お正月はあまりに穏やかで、そのうえにお風呂に行くことが出来た。近くの縄文天然温泉の志楽の湯 である。

初春を味噌樽風呂に浮かべけり   詢

 風呂に入れたから異変を感じているというのもへんな話だが、風呂には初春の光が浮かんだ。その光を両の手でかき寄せた。光が両の手からこぼれた。

 このお正月の各紙の論調が低調なのは書きようがないのかもしれない。今期待されているのは声なき声の主体者の悲痛な叫びを吸い取ることだ。叫びたいことがないということはあるまい あきらめているということもあるまい。なにをどうしていいのか戸惑っているというのか 。行っては返る樽のなかの手で送るお湯。両の手からこぼれる初春のひかり。一石を投じる勇気が待たれている。その一石とは、人と人、人と食糧、食糧と大自然、大自然と環境、環境と技術、技術と発想、発想と共存、共存と人、と様々である。

 絆とは糸を半分づつ持つということのようである。どんなにか細い糸かもしれない。その糸をいくつか持てる歩みをしていきたい。
 いよいよ新しい年は始まった。

 

Photos

(下の画像をクリックすると拡大写真が表示されます)

     
     

(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

1月 10 12

もっと飲みたい!(その2)

by staff

 「ヨコハマNOWの取材」と勝手に称して、いろんなお店に行っています。
 もう何年も通うお店や、久しぶりのお店、友人知人に勧められた魅力的なお店などなど。横浜市内の私の行動範囲だけでも本当にたくさんの飲食店があります。そしてお店の魅力も、そこに来るお客様層も、私が好きになる理由もそれぞれ。でもそれらを文章にまとめる時に、必ず思うことがあるんです。

 それは「人」。
 オーナーだったり、バーテンダーだったり、料理長だったり。
 当たり前のことですが、木やコンクリートでつくられたお店という箱に「味わい」をプラスできるのは調度や設備ではなくて、中にいる「人」なんですよね。お客様に、美味しかったって思ってもらいたい、楽しかったって帰ってもらいたい。さらに、その中の「人」達が今を楽しんでいるか、その「気」がお店ごとの「味わい」になっているのではないかと、あらためて、そして毎回思うんです。
 美味しいお料理のお店はたくさんあります。美味しいお酒にこだわったお店も、かっこいい店内に仕上げた有名なお店も、たくさんあります。
 でも、もう一度行きたいか?と考えた時、「YES!」なお店ってなかなか無いもの。

 当たり前だけど忘れてしまいがちな「人」の力を感じながら飲むのも、いいかもしれないですよね。

 さて、次はどこに飲みに行こうかな。

Pick Up-1 【カフェレストラン 道場】

 ランチでも夜でもホントよく行きます「道場」さん。

 一言で表させていただくなら、「気取らない洋食屋さん」。最近は全面禁煙をうたうお店も多い中、テーブルには灰皿常備。それもこの界隈のサラリーマンたちに人気の秘密かも。平日のランチはいつも外に数組並んでいます。

 夜はカップルや家族連れを多く見かけますが、ランチ時は男性客が多いですね。パスタもピザもお肉料理も、結構なボリュームで、ライス大盛りなんてかなりてんこもり。このボリュームも魅力なのかな。

 ベーコンとアスパラのぺペロンチーノも、ピザも、カレーも美味しいんですが、私が好きなのはなんといっても「道場オリジナルハンバーグ」。デミグラスソースとホワイトソースがきれいに半分ずつかかってるんですよ。幸せな気分になれます。

 食後に出してくれるコーヒーも苦みを感じられるくらい濃い目なのが、さらに私のツボ。

 おまけに今回「取材と写真を撮らせていただきたいんですが…」という私に、「あー、あなたよく来てくれるね」と笑顔で快諾してくださったオーナー。そんなオーナーの穏やかな雰囲気がお店の中にも漂っていて、やっぱり私は「道場」とても好きです。

住所・アクセス
  横浜市保土ヶ谷区天王町1-4-6石田ビル1F
  相鉄線天王町駅より徒歩約2分
営業時間
  ラストオーダー PM9:00 閉店 PM10:00
定休日
  日曜
予算
  おひとり1,000円~3,000円

 

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)


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Pick Up-2 【TAMUZO】

 入り口はガラス張りで中も良く見えるのに、なぜかちょっと入りにくい…。いつも「仲間」が集ってるイメージの「TAMUZO」さん。

 でも実は、ダーツ好きが集まる、でもダーツやらなくても全然オッケーな懐の広いBar。私もダーツ、やってません…。ドリンクも各種カクテルから、お茶ハイなんかも出してくれます。

 タコライスも美味しいですよ。カウンターだけじゃなく奥にはテーブル席もあって、ゆっくりしっかり食事もできます。

 頑固なこだわりは不要!「飲みたいもの出すよ」なんて、堅苦しくないところがまた行きたくなります。

 ダーツイベントは結構頻繁に開催しています。年末のイベントもかなり盛り上がってましたよ。特にイベント開催の日でなくても、ダーツ好きが集まれば即ゲームスタート。好きなお酒を片手に自然と会話も進みます。「オレはたいして上手くないけど」って言うオーナーのその非ストイックさが、居心地の良さにつながってるのかもしれませんね。

住所・アクセス
  横浜市保土ケ谷区天王町1-1-10 第一アカネビル1F
  相鉄線天王町駅より徒歩3分
営業時間
  19:00~翌5:00
定休日
  なし
予算
  おひとり2,000円~3,000円

 

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)


大きな地図で見る

( 文・イラスト・写真:(株)とらべるわん いいづかあや )

いいづかあや(飯塚 文) プロフィール

いいづかあや 飯塚文  

1974年、横浜生まれ横浜育ち。私立山手学院高等学校卒業後、文教大学短期大学部文芸科卒業。
父親の経営する(株)とらべるわんで幼いころから「旅」に携わる。
学生時代より同社のチラシ・DM・ホームページ等の制作をする。デザイン事務所・建設会社などの職業を経て現在は(株)とらべるわんのWEB責任者を務める。また、横浜元町で「ボディアートGlitta」でデザイナーとしても活動中。

(株)とらべるわん http://www.travel1.co.jp
ネイルサロンMINORITY http://www.minority-minority.com/
ボディアートGlitta http://www.minority-minority.com/glitta/index.html
   
いいづかあやTwitter http://twitter.com/zuka_aya
いいづかあやFacebook http://www.facebook.com/iizukaaya

 

1月 10 12

「ごん太じいさんのおだんご」発売!

by staff

 

  12月10日(土)に権太坂小学校で開催された「ごんたいち」に保土ケ谷宿名物会も出店させていただき、「ごん太じいさんのおだんご」を販売しました。

 おだんごは、保土ケ谷宿名物会が取り組んでいる「権太坂プロジェクト」(第3回参照)の一環で、7月に同校で開催された「権太坂まつり」で、子供たちにアンケートに答えてもらい決まった、ごん太じいさんの好物です。

 今回、保土ケ谷宿名物会のメンバーである菓匠栗山が「ごん太じいさんのおだんご」としてオリジナルパッケージを作成。子供たちが7月のアンケートを覚えていてくれたことはもちろん、同イベントの主催者であるPTAの事前のPRのおかげで当日はたくさんの親子がごん太じいさんののぼりをめがけてお団子を買いに来てくれました。

 おかげさまで、75パック用意したおだんごはほどなく完売。追加で販売した30パックもすぐに売り切れとなりました。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

ごんたいち

ごん太じいさんのおだんご

 権太坂まつりに続き、今回も強力にサポートしてくださったPTA初め、関係者の皆さんに、心から感謝いたします。地域力の強さを改めて感じたイベントでした。

 権太坂プロジェクトでは、今後も各種イベントへの出店、新しい商品企画、新キャラクター(ごん太じいさんの家族など)作り、キャラクターが登場する絵本の製作など、いろいろな活動を予定しています。

 もちろん、今後も権太坂小学校PTAのみなさんにご協力いただき、「権太坂まつり」や「ごんたいち」への出店をはじめ、様々な企画を考えていく予定です。

 引き続き、ごん太じいさんの活躍にご期待ください!

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

「ヨコハマ保土ヶ谷」ボランティアライター募集
応募〆切:2012年1月31日
詳細はコチラ

ヨコハマNOW掲載情報

 

1月 10 12

佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 1話「レトロカフェ」

by staff

レトロカフェの絵(佐々木彬文 作 (2012年))

 石川町駅、昭和の香り漂う古い元町側の改札を出て、外交官の家に続く道に出ると、直ぐに郵便局が・・・郵便局の裏手にその昭和が薫る店が有ります。その店の名は「RETRO CAFÉ」。私にとっての昭和の色は「鉄皮色」だったり、「焦茶」だったり・・・その様なお店です。

 店にはきさくなマスターと中々の腕前のシェフ、ああ、忘れてはいけないのがこの店で働きながらジャズを勉強している素敵なお嬢さん、3人でやりくりしています。

 店に入ったらカウンター席がお勧めです。カウンターの一枚板に気づきましたか? 大工さんが丁寧な仕事をしていて縁も段差もないのです。カウンターの上の小さな黒板に「今日のSpecialite」と定番料理が書かれています。食材は三浦の野菜だったり、産地がわかる魚を使っていて、お料理に対する3人の心意気が伝わってきます。

 お酒? お酒は、清酒・焼酎・ウィスキー・ブランデー・ラム・ウォッカ、そしてワイン・・・120本入るワインクーラーに入ったワインコレクション・・・思い出深いワインは1997年のバローロ、これだけ年取ったワインは頂く前の儀式が大切! 急に目覚ましてはワインが乱れます。静かに・・・それで居ながら、呼吸させてやらねば、香りが周りを包んでくれます。お味? 味は、丸く、深い味わい「大変、結構であります」と満足満足。

 店の雰囲気は、英国風のBARのようです。お料理も中々美味です。女性一人でも安心です。独りの時はカウンター越しにマスターと会話を楽しみましょう。

 そこで、マスターを困らせる「遊び」を一つ伝授いたしましょう! カクテルをその日のイメージで注文してしまいましょう! 「えっ、どういうこと?」って思われるでしょう。例えば「ハワイで寛いでいる白クマをイメージしたカクテルをお願い」なんていうのは如何でしょう? むしゃくしゃしていてスッキリしたい気分なら、お勧めのカクテルですよ(笑)

 人寂しくて温かく包まれたい時などは「暖炉で燃えている薪の炎を作って」なんて如何でしょう? カクテルって本来はバーテンダーの創作で作られてきた一種の芸術品なのです。日本人だけですよ、堅苦しく考えて、あれこれ知っているって難しいことを言っているのは(微笑) 「ブラック・ベルベットを知っている」では無く、マスターとのコミュニケーションとマスターの芸術を楽しませていただく、そんな大人の洒落たお遊びを是非!

頓首

RETRO CAFÉ 詳細 http://r.gnavi.co.jp/e384900/

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文・絵:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)
写真:高野慈子

 

1月 10 12

国賓を持て成すエゴン・ミュラー醸造所のワイン

by staff

国賓を持て成すエゴン・ミュラー醸造所のワイン


写真) 領主館と葡萄園

 モーゼル川上流に流れ込む支流のザール川流域は、世界に知られる銘醸ワインの産地です。なかでもエゴン・ミュラー醸造所(Weingut Egon Müller)の造るシャルツホフベルガー(Scharzhofberger)は世界に知られる三大デザートワインの筆頭とも評価されるワインです。

 ザール渓谷に面した小高い丘の斜面に広がるシャルツホフベルク(Scharzhofberg:宮廷山)葡萄園を背後に威厳のある領主館と葡萄園は、西暦1030年よりトリアーのマリエン修道院(St.Marien)により維持されてきました。その後、1796年ナポレオンの勅命により還俗され、1797年からはエゴン・ミュラー家が所有しています。現当主はエゴン・ミュラー4世で、先祖から伝わる木製の搾汁器を使用するなど、栽培から醸造までこだわりのある維持と管理がなされています。木樽の中で清潔に寝かされたエレガントで生き生きしたリースリングからは、気品のある華麗なワインが誕生します。

 かつて昭和天皇両陛下が英国を訪問の際、エリザベス女王の歓迎晩餐会の白ワインは、このシャルツホフベルガーが供されました。その後、答礼に訪日されたエリザベス女王と夫君エジンバラ公を迎えた宮中晩さん会の白ワインもシャルツホフベルガーで持て成されました。

 毎年誕生するシャルツホフベルガーの中でも、特別に醸造された特選ワインはゴールドカプセル(Goldkapsel:金冠)と呼ばれてトリアーの競売会に出品され、常に並び入る出品ワインの中で超高額で落札され、毎年その価格が話題となっています。現在2005年シャルツホフベルガー・リースリング・トロッケンベーレンアウスレーゼ(Trockenbeerenauslese:貴腐ワイン)は日本の市場では百万円の価格となっています。

 

エゴン・ミュラー4世

エチケット

領主館と葡萄園

(文・写真:ワインブティック伏見)

 

ワインブティック伏見

〒232-0001 横浜市中区新港2-2-1 横浜ワールドポーターズ1F
Tel/Fax 045(222)2112

HP: http://winecom.jp
blog: http://wine1999.blog121.fc2.com
E-mail: boutique-fushimi@winecom.jp

 

 

1月 10 12

君がため 春の野に出て 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ

by staff

♪君がため 春の野に出て 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:光孝天皇(こうこうてんのう)

 現代語訳:
「今日は七草 あなたのために 若菜を摘みに来ました 早春の野雪が 私の袖の上で 楽しそうに遊んでいます 今年も お健やかで ありますように」 現代語訳:千絵崇石

 新年にふさわしいこの歌は、第58代の光孝天皇がまだ親王でいた頃に、ある女性に若菜を贈る際に添えられた歌。と記されています。若菜とは七草の事「なずな すずしろ(大根) せり ごぎょう(ははこぐさ)はこべら すずな(かぶ) ほとけのざ(コオニタビラコ)」

 本来は旧暦なので、だいたい一月の後半から二月の後半ぐらいの季節を七草というそうで本当に寒い時期です。早春の野原で萌えたばかりの若菜をつむハンサムなプリンス。その彼の袖先にちらほらと淡雪が舞いおちてゆく。とてもうつくしい光景が目に浮かびます。そして読み手の暖かい心根が伝わってきます。この歌は、きっとだれもが好きな歌の筆頭に挙げられるのではないかしら。大和言葉の優雅な美しさをひしと感じる一首です。

 光孝天皇は55歳まで親王のままでした。若いころから人柄もよくて温厚、インテリで気品があってハンサムだったと言われています。社交界では人気者でしたが本人は野心等全くなかったのでしょう。本人も含めて誰もがこの素敵な老親王はそのままで一生を終ると思っていましたが、彼が55歳になった頃に天皇を退位されたのが・・・あの陽成院。
 2011年10月号で紹介させていただいた凶暴な性格のため17歳で退位させられてしまった陽成天皇でした。光孝天皇は陽成天皇退位の後、空白となってしまった天皇の座に時の権力者藤原基経に推されて事態の収拾のために帝位につきました。皇位継承者は沢山いたけれど幼かったり臣籍に下ったりして継承者選びは揉めにもめたそうです。この混乱をどう収めるのか、最終的に誰もが納得できる皇族男子は55歳になっていた時康親王。彼しかいませんでした。そして在位4年。年号が「仁和」であったため「仁和の帝」と呼ばれました。
 一説によると、あの源氏物語の光源氏はこの光孝天皇がモデルだとも言われています。

 2012年。今年は元旦から関東地方は揺れたりして、内側からも外側からも古い世界システムから新しい世界観へのパラダイムシフトがますます顕著に現れてきそうです。揺れ動く心がよりどころを求める時代には、温故知新と言う言葉がぴったり。日本文化の根幹に和歌があります。大和言葉の響きの中に日本人の持っている美感覚、美意識が呼びさまされてこれからの未来に反映されてゆくのを心より願っています。
 今年も明るくおおらかに清明心で生きて参りましょう。早苗ネネ♪

毎月第2金曜日 1月13日 , 2月10日
6時30分~ 3回ステージ ¥5500ワンドリンク付き 入れ替えはありません。
出演:早苗ネネ パリ祭出演の歌手の方々2~3名。
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

1月 10 12

横浜市港北区の会社有限会社蛭田幹建設の愛犬ラッキー君は、ボーダーコリーのお利口さん。

by staff

 横浜市港北区の会社有限会社 蛭田幹建設の愛犬ラッキー君は、ボーダーコリーのお利口さん。毎朝4時に家族を起こして散歩(というよりはトレーニングかな(笑))に行くとてもエネルギッシュなワンチャンです。

名前 ラッキー
犬種 ボーダーコリー オス
年齢 5歳
性格 甘えん坊


二代目の蛭田恭章さんは、クレー射撃で国体(神奈川県代表)に出場された腕前。30代で始めたドラムは近くのライブハウスで披露しているとか。クレー射撃とドラムは大切な趣味です、とおっしゃいます。
 
有限会社 蛭田幹建設
〒222-0035 横浜市港北区鳥山町641-2
TEL:045-471-6178 FAX:045-473-2236
土木工事、外装工事、塗装工事、解体工事など

近くにお住まいの恭章さんの妹さんの愛犬モカ。犬種はポメラニアン。3歳のオスです。
 
ラッキー君とモカ君

 

1月 10 12

美容の国境をなくしたい 横浜からAsian Standardを!
サロン・アカデミー「sho & jeric」チーフベリファイア 久留原 昌一郎さん

by staff

 

久留原 昌一郎さん  
お名前 久留原 昌一郎
SHO KURUHARA
ご出身 広島県安芸高田市
年令 66歳
家族構成 妻・母と三人暮らし 子供は三人 孫は七人
ご職業 サロン・アカデミー「sho & jeric」
チーフベリファイア
http://sho-jeric.com
趣味 海釣り(最近は行っていませんが・・・)
ご性格 チャレンジャー ポジティブ志向

 

なぜ美容師になったのですか。

 大学在学中に夜学の美容学校に通っていました。自立心が強かったのでしょうか、サラリーマンにはなりたくなかったのです。今から45年以上前ですが、35人のクラスで10人くらい男性もいましたよ。大学卒業後、赤坂の美容室で働きました。お客様は、ほとんど料亭の女将さんや芸者さん、日本舞踊のお師匠などでした。日本髪を結わせられて、とても勉強になりましたね。当時、給料と同じくらいのチップをもらっていたので、赤坂の時代に結婚しました。

美容室を持たれてから、会社員になったのですよね。

 赤坂に4年くらい、その後横浜中区の関内の美容サロンに短期間勤めて、磯子区杉田に自分の美容室を出しました。そのときにはすでに子供が2人いましたね。
 店は一生懸命やりましたよ。10年くらい経営していました。それ以外に取引業者に頼まれて6年目ぐらいから他の店の美容師を指導も始めていました。人に教えるのが向いていたのかもしれませんね。
 また、美容関連会社から頼まれてセミナーの講師を務めたり、自分でセミナーを企画して海外の有名スタイリストを招聘し、その通訳をやったりしていました。美容室の経営との「二足のわらじ」が厳しくなってきて、その美容関連会社に就職しました。

英語はどこで勉強されたのですか。

 特にどこかに行って勉強したわけではありません。しいていえば、私の英語は「本牧英語」ですね。少年時代に、ベース(米軍住宅)の若者たちとカフェやボーリング場に一緒に行って学んだものです。結構ワルガキだったのですよ。(笑)

その後、英国にアカデミーを創立されましたね。

 会社員としては優秀だったらしく、年棒も1000万円を超えていました。
 その当時(1980年代後半)、美容師は勉強に行くのは英国がメッカで、年間3000人を超える若者が美容の勉強のために英国に行っていました。日本が元気だったときですね。現在は1000人もいないかもしれません。私も仕事の関係で英国に研修や交渉に何度か行きました。そして現地での日本人の美容師の実態を見るにつけ、何のために行っているのか言葉もろくにできないので、技術を学ぶこともできない、遊んで堕落してしまう人間も多い、これではダメじゃないかという気持ちが強くなってきました。
 そこで思い切って、イタリア人のビジネスパートナーと一緒に英会話を勉強しながら、美容技術を学ばせるアカデミーサロンをケンブリッジに創設したのです。午前中は英会話、午後は美容の勉強というカリキュラムで一年間のコースになっています。年間に100人くらいの日本人学生が在学しました。私の長男と長女も美容師で、このアカデミーで勉強させました。私は7年間、このアカデミーに関わっていました。
 残念なことに、ビジネスパートナーの事情で、アカデミーを閉鎖することになってしまいましたが、アカデミーを巣立った弟子たちが日本全国で活躍しているのがうれしいです。私の長男はアカデミーで知り合った静岡県掛川市出身の女性を結婚しました。

日本に戻られてから横浜元町で美容室を開店されたのですよね。

 1996年、私は50歳になったとき、横浜元町に美容室「CAM Hair」を開店しました。横浜の元町に美容室を開くのは若いころからの長年の夢でした。
 「CAM」はケンブリッジ(Cambridge)と私の姓の久留原(くる)をかけてつけました。中華街・元町エリアには60軒以上の美容室がある激戦区です。開店当初はお客様がいないので、英国での経験を生かそうと、山手のインターナショナルスクールに行って、チラシをまきました。外国人用の美容サロンがなかったことも幸いして、外国人のお客様がボチボチ来店されました。そうすると、日本人には「英会話を楽しみに来て下さい」ということで宣伝しました。当時は店内で、ワインパーティーやクリスマスパーティーを開催したりしましたね。山手の横浜カントリー&アスレティッククラブ(YC&AC)に出張カットに行ってお店に誘導したりもしました。
 外国人のお客様が多かったので「日本人はやるのですか」と言われたこともあります。今でも外国人のお客様が多いですね。

「CAM Hair」は繁盛されたそうですね。

 2001年ぐらいにホワイトメッシュでギャルが集まってきました。口コミで広がって、月に400人以上の来店がありスタッフも8人までになりました。そして2002年に静岡県掛川市から長男夫婦が帰ってきてスタッフに加わりました。その後、縮毛矯正がブームになって月100人ぐらい新規顧客がくることもありましたね。

英国の職業能力評価制度NVQ(National Vocational Qualification)を日本で広める活動をされていらっしゃるそうですね。

 英国では86業種がNVQの対象となっていて、美容も対象業種で、国際美容技能証明として通用しています。英国政府の支援のもとで、ヘアドレッサーやビューティセラピスト(ネイル・メイク・エステ等)のスキルスタンダード(技能評価基準)があります。英国では、美容業に携わる70%の美容師が「NVQ」を取得し、現場で活躍しています。
 日本では、株式会社HABIA JAPANが、この「NVQ」の国際版である「HIQ/NVQ」の、日本における認証機関になっていて、ヘアドレッシング、メイクアップの2セクションで、LEVEL.1~3の各レベルの「HIQ/NVQ」を認証・授与しています。
 私は、HABIA EASTのNational Chief Verifier として、日本で唯一「NVQ」のレベルを決めることができる資格を持っています。この資格は現在アジアで持っていたのは私だけです。「NVQ」を広めようと日本で120名を超える認定トレーナーを育成し認証てきました。

株式会社HABIA JAPAN http://www.japan.habia.org

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

Habia本社にて

Habiaのイタリアにて

経営者として大切にしていることは?

 座右の銘は「信じる者は救われる」です。出会った人たちとの関係を大切にしながら楽しく関わることが仕事につながっていくと思います。経営していると葛藤する場面はいろいろありますが、笑う門には福来る、の言葉通り、自分が楽しくいることが大事と思っています。

 このあたりの地域は、昔から地縁が強いんです。父母の代からの信頼をベースに誠実に仕事をしていくことが大切だと思っています。「のりちゃん」と父母の代からのお客様にかわいがって頂くと、とてもうれしいです。

国際的に活躍されてきたわけですが、昨年新たなアカデミーサロンを始められたとか。

 昨年(2011年)長男夫婦が独立して、本牧に美容室「CAM Hair本牧」を開設したので、私はセミリタイアを考えていました。そのことをシンガポールの美容師仲間であるJericに伝えたところ、シンガポールに5店舗ある自社のスタッフ達を教育してほしいと言われたのです。

 ちょうどその頃、長男の同級生で、横浜で手広く不動産業を営む株式会社三峰の繆雪峰 Setsuhou Miyo 氏から、中国広東省の中山に美容室を出したいという相談が持ちかけられました。繆雪峰氏の祖父様は孫文の後援者として有名な方で、孫文の生誕地である中山とも深い関係があります。
 Jericのスタッフは中国語が話せるので、私が仲介して、Jericのお店を中山に出してもらおうということになりました。

 株式会社三峰のモデルハウスが、港の見える丘公園に向かう坂道の途中にあるので、そこを美容サロンにして、スタッフ教育も兼ねたアカデミーにしようという話がとんとん拍子で進みました。そして、昨年の10月に「sho & jeric」というアカデミーサロンを開設したのです。このアカデミーサロンはJericが出資し、株式会社三峰が保有不動産を提供し、私の美容技術を生かすという、シンガポール・中国・日本が一体となったGlobalなプロジェクトです。
 会社の名称はAsian Futureにしました。ここでAsian Standardを確立したいと思っています。

 「sho & jeric」は、サロンワークをOJTで勉強するアカデミーで、インターシップをベースにしています。「NVQ」のカリキュラムに基づいた技術を学び、日本独自の接客を学んでもらいます。
 アジアの美容業界では資生堂の接客マニュアル ”おもてなし” がバイブルのようになっています。
 Jericのスタッフも日本の「おもてなし」の心や「気配り」の精神を学びたいという気持ちが強いです。私は、お客様第一主義だけでなく、清掃や整理整頓も学ばせたいですね。

sho & jeric http://sjs-academy.com/

 中山(中国広東省)店は1月にオープンする予定です。中山店の店長候補は、ここに三週間研修に来ていました。今後はシンガポールのスタッフは、二週間くらいOJTで研修させて行く予定です。また自分でお店を持っている美容師については、10日間くらいの研修ツアーを組んでいくことになっています。

アカデミーサロン「sho & jeric」で目指すことは何ですか。

 私は、「稼げる美容師」を育成したいのです。そのためには技術力・接客力をつけていなかいといけません。若い人たちには、もっともっと頑張ってほしいです。そして、美容の国境をなくしたい。日本の品質は高い、技術は世界一だということを誇っていたいのです。
 今、ファッション情報が氾濫している中で、何がいいのかコーディネート力が必要となってきます。美容室もヘアだけでなくネイルやフェイス、リラクゼーション等の総合的に美(beauty)を追求することが求められます。「sho & jeric」では、これからの美容室の形も見せられるようにしていきたいですね。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)






以上、sho&jericの風景

オープン当時の写真

中山に華僑の方々と行った時

久留原さんの今後の目標はありますか。

 「想って行動すれば夢は実現する」というのが私の信念です。これまで色々なことにチャレンジしてきましたが、想いを持てば何でもできるという気持ちで臨んできました。これからも同じ気持ちです。それから今後ですか・・孫から美容師が出て欲しいですね。その可能性は十分ありますよ。(笑)

ご自身の横浜歴についてお話し下さい。

 大鳥中学校三年生から横浜にいるので50年以上に横浜歴はなりますね。
 私は家庭の事情で、小・中学校で8回も転校していますから新しいところになじむのが得意です。横浜にもすぐなじみました。海が大好きで横浜ではずっと海のそば、三渓園のそばに住んでいます。私の中・高校時代は、本牧にはまだベース(米軍住宅)があって、アメリカの若者たちともよく遊びました。本牧にはアメリカンの雰囲気が漂っていましたね。

横浜に対する思い入れは・・・

 横浜は大好き街ですね。何がいいかと言うと、何でもはじめて、というのがいいです。
 バーバーショップ(西洋理髪)の発祥も横浜なんですよ。海の潮風が感じられることも気に入っています。世界のどこにいても横浜に戻るとホットします。元町や本牧は昔から住んでいる人たちが多くて、地元横浜に対する愛があります。それに対して東京は出身地がバラバラな人たちの集まりで、かえって洗練されていない感じです。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

お孫さんたちと

横浜の魅力を一言で表すとしたら、何?

 横浜はインターナショナルな国際都市です、21世紀のアジアン文化の礎になると確信しています。

元町・中華街駅から港が見える丘公園に向かう坂道の途中に「sho & jeric」はありました。とても素敵な場所で、前面の大きな窓からはイタリア山公園が見えます。天井も高く、美容室と言うよりはまさにサロンという雰囲気です。久留原さんは、国際的な活躍をしている方ですが、気負いなく淡々と新しいプロジェクトについてお話くださいました。
 
何でも最初の「横浜」から、日本の美容技術が世界に羽ばたいていくことを応援していきたいと思います。

 

12月 20 11

馬生ハマ寄席 第16回興行(シドモア桜100周年・横濱里帰り記念公演)
鹿芝居 人情噺芝浜革財布

by staff

馬生ハマ寄席 第16回興行(シドモア桜100周年・横濱里帰り記念公演) 鹿芝居 人情噺芝浜革財布

埋もれかけていたシドモア桜のエピソードが100年の時を経て日米友好のシンボルとして今横浜の地で蘇る。
落語界に歴史ある「鹿芝居」の保存と継続を願い活動を続ける馬生一門と同士師匠たち。
今回、「長屋の花見」で蘇るシドモア桜の逸話話とご存じ・名作「芝浜」・・・お楽しみに!

馬生ハマ寄席 第16回興行(シドモア桜100周年・横濱里帰り記念公演) 鹿芝居 人情噺芝浜革財布ポスター

 

12月 10 11

もっと飲みたい!(その1)

by staff

 12月、忘年会シーズン到来ですね!
 今年の巷の忘年会予算は減少傾向にあるようですが…、12月ですよ!飲まなきゃ飲まなきゃ。みんなで楽しく「今年も俺たち頑張った!お疲れー!」の乾杯がなきゃ、年は越せないというもの。
 お酒の歴史は相当古く、中国では紀元前7000年ごろの遺跡から出土した陶器片から醸造酒の成分が検出されたとか。
 エジプトではピラミッド工事の労働者たちにビールが支給させていたそうですよ。肉体労働の後のビール、美味しそうです。
 日本で「忘年会」の起源とされているのは室町時代。「としわすれ」という言葉が文献から見受けられるようになります。近年のような祭的な「忘年会」が広まったのは明治時代で「無礼講」なんてフレーズが出てきたのはこの頃だそうですよ。

 お酒が入ると陽気になったり饒舌になったり、泣き上戸や笑い上戸、良くない酒癖もあったりしますが、お互いいつもと違う面を見られます。お酒の美味しさももちろんですが、宴の席でのコミュニケーションって面白いですよね。意外とカワイイとこがあったり、しっかりしてたり、話題が豊富だったり。
 たいしてお酒の強くない私が「お酒」を好きな理由は、このコミュニケーションにあるみたいです。
 好きな人たちのことをもっと知りたい、まだあまり親しくない人たちの素敵なところを見つけてみたい、そしてたぶん、もっと自分も知ってもらいたい。それが「飲む」につながっているんですね。

 さて、次はどこに飲みに行こうかな。

Pick Up-1 【天王町まんさく】

 旬の鮮魚が自慢の【まんさく】さん、よく利用させていただいてます!地酒や焼酎の種類も豊富で、品のいいおつまみと一緒に今日もまたお酒が進みます。

 私が【まんさく】さんを好きな理由は、まずこのおつまみの量。多すぎず少なすぎず私好み。ボードに記載されたおすすめ料理もしっかりおいしいし、汚れたお小皿を頻繁に取り替えてくれるとこも好印象。

 そんな中でも私の大好きなおつまみは、ごぼうスティック!湯呑状の器に無造作に盛られたそれは、派手ではないけど誰もが最後までついつい手を伸ばしてしまう、そんな存在。お代わりしてしまったこともあります。

 店内の仕切りが「ない」ようで「ある」ところも好きですね。全体を見渡せる程度の何気ない仕切りなのに、隣席の会話は聞こえてこない。居心地いいです。トイレが清潔なところも女性に好まれるポイントだと思いますよ。

 それから、下駄箱。長さのあるブーツも余裕をもって入れられる。もっと詰めた設計の店内にしたら席数も増やせるだろうに、こういった余裕をもった内装にオーナーの懐の深さを感じます。

 毎回ついつい長居をしてしまうんですが、時間や人数の増減にいつも柔軟に対応していただけて、かなり嬉しいです。

住所・アクセス
  横浜市保土ケ谷区天王町2-37-2ウラノスビル3F
  相鉄線天王町駅より徒歩約1分
営業時間
  18:00~翌1:00
定休日
  日曜・祝日
予算
  おひとり3,000円~5,000円

 

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Google Map

Pick Up-2 【Bar Inferno 元町店】

 石川町の駅から向かうとまず目に入る大きな扉。でも一体どこから入ればいいのか…?っていうのが一見さんお断りっぽくてカッコいい【Bar Inferno】さん。

 でももちろんそんなことはなく、中に入るとかわいい女性バーテンダー達が笑顔で迎えてくれます。女性…といってもキャバクラやスナックの趣ではなく、ホントにお酒が好きな人たちが集まるそんなお店。バーテンダー達もおいしいお酒をお出しするために日々練習しています。

 私はこちらのお店で毎週金曜日にボディアートを営業させていただいてるので、彼女たちが開店時間前にカクテルの指南書を片手に練習しているのをよく見かけます。彼女たちの作るお酒、自信を持ってお薦めできます。

 女性お一人でも入りやすいですよ。カウンターだけでなく奥にはテーブル席もあります。

 自慢のおつまみは何と言っても「生ハム」。オーダーが入るとその場で骨付き原木からカットしてくれます。私も生ハムカットに挑戦したのですが、難しい!あの美味しい薄さにカットするのもやっぱり練習が必要なんですね。

 営業時間が翌朝4:30までというのも、締めのお店としていいかも。

住所・アクセス
  横浜市中区石川町1-35-8 RUF元町1F
  JR線石川町駅南口徒歩約1分
営業時間
  19:00~翌4:30
定休日
  なし
予算
  おひとり1,500円~3,000円

 

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)


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( 文・イラスト・写真:(株)とらべるわん いいづかあや )

いいづかあや(飯塚 文) プロフィール

いいづかあや 飯塚文  

1974年、横浜生まれ横浜育ち。私立山手学院高等学校卒業後、文教大学短期大学部文芸科卒業。
父親の経営する(株)とらべるわんで幼いころから「旅」に携わる。
学生時代より同社のチラシ・DM・ホームページ等の制作をする。デザイン事務所・建設会社などの職業を経て現在は(株)とらべるわんのWEB責任者を務める。また、横浜元町で「ボディアートGlitta」でデザイナーとしても活動中。

(株)とらべるわん http://www.travel1.co.jp
ネイルサロンMINORITY http://www.minority-minority.com/
ボディアートGlitta http://www.minority-minority.com/glitta/index.html
   
いいづかあやTwitter http://twitter.com/zuka_aya
いいづかあやFacebook http://www.facebook.com/iizukaaya

 

12月 10 11

ブラとも 「山手本通り」の教会

by staff

 

 12月になると街はクリスマスの飾りや音楽で溢れてきますね。山手には歴史ある教会がいくつもあり、クリスマスの季節は荘厳な感じに包まれます。

 私の散歩道でもある「山手本通り」の教会をご案内しましょう。

 中央大学山手中・高校の向かいにあるのが、薄緑色の尖塔のカトリック山手教会です。この教会の前身は、1862年(文久2年)に山下町に建設された日本初のカトリック教会です。その後現在の地に移ったそうですが、当時の建物は関東大震災等で倒壊し、現在の天主堂は1933年(昭和8年)に建設されました。ゴシック様式の建物はヨーロッパの教会のような風情を漂わせています。

 我が家の宗派は日蓮宗で私は仏教徒ですが、この教会の前を通るときに必ず立ち寄るのが庭にあるマリア像です。このマリア像は1868年(明治元年)にフランスから贈られたものだそうです。それから140年以上経っていますが、純白のマリア像は清らかなままです。

 3月11日の大震災のとき、中央区の築地小学校で眠れぬ夜を過ごした私は、翌日の早朝元町・中華街駅から山手本通りを通って自宅に戻りました。その途中、マリア像に立ち寄り聖母マリア様に「日本が大変なことになっています。どうか日本を守ってください。」とお願いいたしました。

カトリック山手教会 http://homepage3.nifty.com/catholic-yamate/

 港の見える丘公園の方に向かって歩いて行くと、左手に末日聖徒イエス・キリスト教会があります。この教会は「モルモン教」の信者の方々の集会所として使われているそうです。私は中に入ったことはありませんが、立派な建物です。

末日聖徒イエス・キリスト教会 http://www.ldschurch.jp/

 末日聖徒イエス・キリスト教会のはす向かい、代官坂上に立っているのが「横浜ユニオン教会」です。この教会の歴史は日本初のプロテスタントの布教活動に遡ります。英語で礼拝を行う国際的なプロテスタントの教会として、1863年(文久3年)に設立されました。

 現在の建物は、現代的なスタイルです。礼拝が英語で行われるので、様々な国の方々が訪れているようです。結婚式もカウンセリングを受けることを条件に積極的に受け入れているようです。この教会では、ピアノコンサートなどが開催されることもあり、オープンな感じの教会です。

横浜ユニオン教会(英語版) http://www.yokohamaunionchurch.org/Welcome.html

横浜ユニオン教会(日本語版) http://www.yokohamaunionchurch.org/YUC-Japanese/youkoso.html

 外国人墓地の目の前にあるのが、イギリス国教会の流れをくむ「横浜山手聖公会」です。1863年(文久3年)、居留地(今の中華街)に最初の聖公会の教会(クライスト・チャーチ)が建ちました。1901年(明治34年)に現在の場所に煉瓦造りのビクトリア様式の教会が建てられ、その後アメリカ人建築家のJ.H.モーガンの設計により、中世の城砦のような建物になりました。この教会は空襲や火災など幾多の困難を乗り越えてきました。周囲が山手の洋館なので観光客で溢れていますが、教会の中は静かで広々としています。

横浜山手聖公会 http://anglican.jp/yamate/

 教会は扉が開いていて許可を得られれば、誰でも入ることができます。正面の十字架を見ると、キリスト教徒でなくても厳かな気持ちになることができます。日本ではクリスマスと言うと華やかなイベントが中心ですが、教会で過ごす静かなクリスマスはいかがでしょうか。

 

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)


カトリック山手教会


カトリック山手教会の聖マリア像


末日聖徒イエス・キリスト教会


横浜ユニオン教会


横浜山手聖公会

 

12月 10 11

「レッドライト」 (連載第9回) 窒息する水面、混沌の思い出

by staff


APEC開催に伴って撤去された船の休憩所「北斗星」。この手の船は「ドヤ船」とよばれ、終戦後の大岡川を中心に最盛期には一三隻浮かんでいた。しかし昭和28年8月、陸上宿泊施設がふえるに従って廃止され、引揚げられた。

 いまさら言うまでもないが、東京の中心は皇居である。私は右翼ではない。これは街の構造から明らかなことである。
 一方、横浜はどうか。横浜港が中心なのは、やはり論を待たないと思う。実際の所、象徴的にも地図の上でも中心を皇居に据えた東京とは異なり、横浜の地理上の中心は港ではなく、保土ヶ谷である。しかしここでは細かいことは言わない。
 さる知識人が皇居を「空虚」と呼んだように、見渡す限り水ばかり拡がる横浜港もまた広大な無である。なにもないからこそ、さまざまな可能性を見いだし得るわけだが、実際はそうでもないらしい。

 今年9月、赤レンガ倉庫の岸壁に接岸して行うはずだった「横浜ふね劇場をつくる会」主催の水上演劇祭が中止された。
 聞けば、港湾局の海務課長や昨年の暮れに新設された港湾局賑わい振興課、そして文化観光局といったセクションは乗り気だったらしい。ところが準備も順調に進み、参加劇団の選定も済んで、あとは9月半ばの本番を待つばかりとなっていたにもかかわらず、港湾局のトップが変わった途端、当局の態度が一変。
 「陸でできることをなぜ海でやる」
 「エンターテインメント的な興業に協力できん」
となり、イベントは中止に追い込まれた。

 それで思い出すのは APEC 開催に伴って、中村川から撤去された船の休憩所「北斗星」のことだ。
 かつて中村川には奇妙な船舶が、いくつも浮かんでいた。あるものはギャラリーやバーであり、あるものは劇場だった。川にユニークな船の浮かぶ情景はよその町にはない独特なもので、横浜らしい情緒を孕んでいた。いつの間にやら沈没したり、撤去されたりして、そうした船は消えていったが、しぶとく生き残っていたのが前述の「北斗星」である。

 「車橋」の若干上流に係留していたこの船は、事実上、寿町の一部が水面にあふれ出たものだった。要するに、寿のおじさんたちの寝床だったのである。とはいえ、トイレもなければ電気も来ていない。用を足すには、車橋の袂にある公衆便所まで行かねばならず、電気の方は近所のリサイクルショップから横流しして貰っていた。

 こういう状態だったから、法律の手前、とても「ホテル」は名乗れない。便宜上「休憩所」という名目で営業していたのだった。「休憩所」を名乗る前は、「船のビデオシアター」の看板を掲げており、実際天井からプロジェクターがぶら下がっていた。毎晩、任侠映画を上映していたと聞くが、夜の寝床を求めてやってきた利用者たちにはいい迷惑だったのではないか、といらぬ心配をしてしまう。

 私がはじめてこの船の存在を知ったのは、この「ビデオシアター」時代で、内部がどんな風になっているのか、想像をたくましくしたものだった。
 確か1999年の冬だったと記憶しているが、私はこの船を借り切って舞台公演を打つことにした。「横浜ボートシアター」で制作をしている一宮均氏にうかがった話では、水上で舞台公演を行った団体は当時三つしかなく、あなたが国内4例目だ、個人ではおそらく初めての例でしょう、とのことだった。

 通常の公演は劇場で行うため、一通りの機材が準備されているものだが、なんといってもこの船は「寝床」である。下見に行ってみると、内部は万年床がびっしり敷かれた状態だった。なかは以外に広く、25メートルプールくらいの広さはあると思われた。一応応接コーナーや軽食を売るブースも設けられている。とはいえ、鋼鉄製の艀(はしけ)を改造したものだから、夏は暑く、冬は体の芯まで冷えた。一日借りて料金は3万円だったが、朝はたしか9時頃からしか使えず、夜は宿泊者たちが戻るため現状復帰して返さねばならず、かなりあわただしい思いをした。

 印象的だったのは、朝、寝床からおじさんたちを追い出し、布団を積み上げて準備を始めたこと。布団はかなりの数で、両脇に積み上げると白い壁のようにみえた。公演中、船の脇を別の船が通過したらしく、突然船体が揺れ出したのは船劇場ならでは。客席からどよめきが起きたことをはっきり覚えている。
 お陰様で公演は好評のうちに終了したが、会場に住所がないためチラシに場所を書くことが出来ず、「中村川水上、車橋そば」と記したのは、かなり間抜けだった。

 それから15年ほどして船のオーナーが亡くなった。せっかくリサイクルショップの好意で電気を横流しして貰っていたにもかかわらず、電気代を滞納していたため、リサイクル店の店主は激怒。オーナーの死をきっかけに送電をやめてしまった。十数年ぶりに船内の様子を見に行くと、階下は完全な暗闇だった。墨を流したような暗黒の世界のかなり奥にろうそくの明かりが一灯。これ以上、関わろうという気になれなかった。

 後日、懲りずに足を運ぶと、戸口に張り紙があり、「ジョー」だったか「ジョージ」だったかという人物が、管理責任を引き継いでいることが分かった。この人物は、伊勢佐木町3丁目のマックの2階によく足を運んでいるらしく、「連絡が欲しい人は直接マックに来てくれ」とのことだった。電話番号の類は一切書かれていなかった。

 「北斗星」はその後数年間、雨水にさらされながら水面に浮いていたが、APEC 開催に伴い撤去されたのは前述の通りである。
 この船が浮いていた場所のさらに上流には、1980年代まで「横浜ボートシアター」の木造船が係留されていた。この船もやはり艀で、船内を常設の劇場として改装し、稽古もここで行っていたと聞く。ボートシアターといえば、銀座の「セゾン劇場(現「ル テアトル銀座」)」のこけら落とし公演を担った団体で、かなり名前を売ったものだった。しかし拠り所となる船劇場が二度にわたり沈潜してからは、活躍の声を聞く機会も減り、半ば顧みられなくなってしまった。

 一応、現在も新山下の艀溜まりの片隅に、三代目となったボートシアターの船が係留されている。消防法の関係上、劇場としてつかうことは難しいそうで、ときおり稽古場として貸し出されるだけである。「横浜未来演劇人シアター」の通し稽古が行われているとき、一度だけ内部を見学させて貰ったことがあるが、夏場だったため、その暑さは尋常ではなかった。文字通り蒸し風呂状態で、数台の扇風機が唸りをあげてフル稼働していた。船の劇場というといささかロマンチックな響きがあるが、現実的な話、快適な観劇環境とはいいがたい場所だった。反面、捨てがたい妖しい魅力が備わっていたことも否定しがたい事実であり、甲板から階下へ降りて行くとき、形容しがたい高揚感につつまれたことをきちんと記しておきたい。

 船劇場に興味のある読者は、遠藤啄郎・編「横浜ボートシアターの世界」 ( リブロポート  1986年)を一読されたい。また山田裕信の「ヨコハマ波止場懐古  ある海事記者の手記」(暁印書館  1984年)にも、ボートシアターの船へ観劇に行く話が掲載されている。

 まだ紙面に余裕があるので、あと一点触れておきたい。まだコンテナ船がなかった頃、中村川や大岡川の河口付近や、埋め立てられて今はなき派大岡川などには艀だまりができていた。香港製カンフー映画で目にするアバディーン(香港仔)の水上居民(中国では「蛋民(たんみん)」とよぶ)の世界とほとんど同じものが、横浜にも展開されていた。陸に土地をもたず、艀を家とし、水運などの生業を営む。西九州や瀬戸内海沿岸では家船(えぶね)とよぶそうだが、彼ら漂流民たちは、港に碇泊する外国船の貨物を岸部にあげるための短距離搬送を請け負った。言ってしまえば、トレーラーに一家で住んでいたようなものだ。子供たちは通常の学校ではなく、山手の丘の中腹にある「日本水上小学校」に通っていた。山下町で産声を上げたこの学校は、25年の間、家船の子供たちの学びの場となったが、昭和42年に閉校している。

 校舎はなくなったものの、じつはこの小学校、完全に消滅したわけではない。「港の見える丘公園」や「韓国領事館」にほどちかい山手の「聖坂養護学校」に引き継がれたのである。じつはこの学校、水上小学校のあった場所に建っているのだ。
 正確に言うと、「聖坂養護学校」の母胎となったのは、解散した水上小学校の方で、養護施設事業はその一部門にすぎなかった。昭和29年に養護施設事業は分離されたのだが、水上小学校閉校に伴い、養護施設部門を「聖坂養護学校」に改め、再出発を果たしたのである。
 「聖坂養護学校」は知的ハンディをもつ児童の学校として重要な役割を果たしているが、脚光を浴びる機会はほとんどない。しかし、横浜裏面史をひもとくとき、忘れてはならない存在として立ち現れる。
 エキゾチックな転用艀はみんなどこかへ消えてしまった。現存しているのは、石川町駅の南口付近に浮かんでいる右翼の艀くらいである。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

「北斗星」内部、フロント

 

「北斗星」内部、フロント脇の料金表

 

「北斗星」内部、売店

 

「北斗星」内部、ホリゾントのスクリーン

「横浜ボートシアター」の初代船劇場(写真提供:一宮均氏)

 

現在の船劇場内部での稽古風

       

日本水上学園→現在は「聖坂養護学校」 http://www.hijirizaka.jp/

横浜ボートシアター第21回公演「賢治讃の仮面劇」:2011年12月9日~11日
http://www.yokohama-boattheatre.com/html/kenji-kamen.html

 

中止になったふね劇場でのPAW’2011について http://paw2011.com/about/

 

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

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大文字では表せない小文字の横浜の歴史「裏横浜研究会」。ノンフィクション作家檀原照和さん

 

12月 10 11

12月 三ツ池だより 「12月はありがとうの月」

by staff
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 さまざまな出来事を載せて、なぜかゆっくりと大きな船がカーブを描いて進んでいく。船は残念ながら海図の前で議論がされるだけなので、氷山でも見つけて少し舵を切るぐらいのことしか出来ていない。船とは日本丸のこと。

 気仙沼で牡蠣の養殖をする畠山さんの話を聞いた。
 「先代の頃は黙っていても牡蠣が生育していた。昭和40年代から工業化が進み、開発のなかで公害が出てきた。気仙沼でも赤潮が出てきた。海にはいいプランクトンが必要なのだ。汚い海で発生したプランクトンが牡蠣の養殖場に来ると、真っ赤な果肉の牡蠣ができて、市場である築地からの電話でびっくりしたことがあった。陸は太平洋にむかっていて、太平洋銀行というくらいに恵みがあった。海と農家の関係は嫁をもらうと、米の心配、魚の心配がいらないと言われた。ロープのかわりは葡萄の蔓。蔓に捩り石をつけ艫に投げる。赤樫などで櫓をつくる。森との関係は強い。あるときに、久しぶりに田んぼに行った。源五郎、鮒、ばった、青大将、蜻蛉でにぎわっていた姿がなく、まさに沈黙の春だった。除草剤を使い虫が死んでいた。もっと上流に行った。川は削られていた。ダムをつくる話が聞こえた。川から生き物がいなくなってしまう。海が死んでしまう。栄養たっぷりな川の水が海でいいプランクトンを作り出す。ダム建設を反対しなければいけなかった。上流に木を植え、手入れをすることの必要を感じた。」

 「森は海の恋人」のスローガンは、苦心した後の土地の歌人との出会いから生まれたものだという。さて、ならば私たちは「田舎は都会の恋人」と言わなければいけない。日本という国を見たときに役割がそれぞれの土地にある。生きていくことは連鎖、生きていく空間があって、環境があって、食べ物があることである。生産したものを買ってもらう仕組みが必要だ。田舎という表現が正しいのかわからないが、農業と工業とサービスといった日本の国内のバランスをだれがコントロールしているのだろうか。国がどれだけの収入を最低必要としていて、バランスのとれた収支を考えているのだろうか。

 森は海の恋人に戻ろう。畠山さんは言葉には力があるといわれる。土地に根差した文化があって、そこに育つ歌人からのヒントで「森は海の恋人」が生まれたと話す。文化に根差した生き方、物を作り出すこと、日本が立ち返るところの必要なことである。どんなにつらい仕事でも「ありがとう」という言葉に凝縮されることで、救われるのではないか。

 日々適正な計量の確保における仕事においても、三ツ池の里で暮らすなかでも、しみじみと「ありがとう」を考える。「立ち直りますよ」と語る畠山さんに逆に励まされというのもへんだが、日本のあるべき姿の原点を見る。それはフランスの牡蠣の遺伝子が日本のDNAをもっていることに象徴される。「ルイビトンが応援してくれることになった。役員は皆牡蠣が好きなんです。鞄の芯のために森を持っているのです。今年は国際森林年なのです。ホレストヒーローに推薦されるのです。日本は森に手を入れる。そして人の心に木を植えるのです。日本は蘇ります。」

「明日がある」
森の滴といわれる海の幸
流れる絆と新鮮な命
海の幸がなくなることは
新鮮な命がなくなること

発信していくことは 
いろいろあるが大事なことは滴
命の源泉はどこにあるかと
いつも意識して行動していくこと

明日があるから生きていくのではなく
今日一日を最善に生きていく
小さな滴に気づいて
小さくても掬い上げていくこと

森の滴といわれる海の幸
知ってみるとそれらは
大きな宇宙の営みのこと
大切な水のおはなし

 60年前になるが学校から帰ると、友達と森や林に入って遊んだ。竹で小屋を作って住処にした。遊ぶものは自然しかなかった。その自然が遊びの対象ではなくなってしまった。それだけ恵まれた生活環境になっているという側面があることも間違いないことである。12月を「今あることにありがとう」、上流は下流にありがとう、下流は上流にありがとう、お互い様の関係づくりへの行動に目を向ける月なのだと思う。

 

Photos

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(文・写真:横須賀 健治)

 

12月 10 11

「創造的福祉社会 成長後の社会構想と人間・地域・価値」ちくま新書 広井良典著

by staff
書評「創造的福祉社会 成長後の社会構想と人間・地域・価値」ちくま新書 広井良典著  

 どういう社会を目指していったらいいのかを考えていたときに書店で目に留まった。

 「区民の幸福の総量」荒川区における取組の紹介などは驚くものがあった。従来のタテワリだった「都市政策」と「福祉政策」を融合していく取組であり「歩いて楽しめる街を作っていく」ことだった。ドイツにおける「座る場所が多くあり、人々がそこでくつろいだり、談笑したりしている光景」、ヘルシンキのバスターミナルを地下化し、その上に公的にするとともにカフェなどを配置した空間づくり、中国の無数の市場などが存在する濃密なコミュニティづくりを紹介してくれる。日本では静岡駅そば呉服街通りや香川の丸亀商店会の試みも伝えている。

 「地域の豊かさとは何だろうか」広井さんは若者のローカル化を次のように見ている。「若者のローカル志向を内向きになったとか、外に出ていく覇気がない、といった形で批判する議論が多いように思うが、それは全く的外れな意見だと私は思う。海外に進出していくのが絶対的価値のように考え、欧米=進んでいる、日本アジアは遅れている、といった固定的な観念のもとで猪突猛進してきた結果が、現在の日本における地域の疲弊であり、空洞化ではなかったのか。むしろ若い世代のローカル志向は、そうした日本や地域社会を救う萌芽的な動きと見るべきであり、そうした動きへのさまざまなサポートや支援のシステムこそが強く求められている。」と述べている。

 さらには中小規模の市町村の取り組みに触れている。「ローカルなまとまりを重視し、経済や人ができる限り地域の中で循環するような方向を目指すところが増えている。」「できる限りローカルなレベルにおいて地域内部で循環するような経済を築いていくという方向は、中小規模の市町村や農村部ではある程度浸透したものとなっていると言える。これに対し、平成の開国の下で推進されつつあるTPPのような政策は、一歩誤ればこうした方向を破壊していくものになってしまうことが危惧される。」

 大きな時代認識としてはグローバル化の先にローカル化というより究極的な構造変化が存在すると考えるべきで、各地域における具体的な実践とともに、そうした方向を支援する総合的な公共政策がもとめられている、とのべ松任谷由美の「生まれた街で」を紹介している。

生まれた街のにおい   やっと気づいた
もう遠いところへと    ひかれはしない
小さいバイクをとめ    風を見送ったとき
季節がかわったよ

 日本社会が直面している構造的な諸問題そのものは震災の前後で究極的には変わりはなく、今回の震災はそれを様々な面で、いわば先鋭化させたものとしてとらえ、従って、震災を契機に本来必要だった改革やパラダイム転換を加速させるという方向が重要ではないか。どんな社会をめざしていくのか。それは「いわば商店街やローカルな地域について考えることが、そのまま哲学あるいは普遍的、グローバルなテーマにつながるという、そうした時代になっているのではないかと思う。」という言葉になる。

 表表紙の裏には次のような紹介文が載せられている。
 「限りない経済成長を追求する時代は終焉を迎えた。私たちは、人類史上三度目の定常期に直面している。飽和した市場経済のもと、われわれの社会は”平等と持続可能性と効率性”の関係をいかに再定義すべきか。”危機の時代”に追求される荒田な価値原理とは、人間と社会をめぐる根本思想とは、いかなるものか。再生の時代に実現されるべき社会雑を、政策と理念とを有機的に結びつけ構想する」今足元をしっかり見つめる時。

(文:横須賀 健治)

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12月 10 11

ソーシャルメディアの正体(第五回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.ソーシャルメディアの光と影

 前回まで、どちらかと言えば、ソーシャルメディアの良さを活かす「傾聴」や「対話」戦略を述べてきた。ここでは、良さ、つまり光の部分ではなく、影、すなわち悪い点について、リスク管理とソーシャルメディア・マーケティングの2つの面で考えてみよう。

 こういった論議は二元論に陥りやすい。特に気をつけないといけないのは、現実は善悪、良否といった両極端で考えてはいけないことだ。例えば、クルマを例にとると、ネガティブ思考では、クルマは「動く殺人道具」であり、交通事故を起こすものである。しかし、ポジティブ思考で考えると、同じクルマが「有効な移動手段」となる。だからと言って、クルマ自体の善悪を説いても致し方ない。要は、運転者(利用者)の利用目的でもって、クルマが手段として適正かどうか判断するしかない。ITで、ソーシャルメディアを語るときも同じで、良くも悪くも活用できるという点で利用者側の問題であって、ソーシャルメディア自身に善悪を説いても意味がないことは読者もお分かりだろう。

 ここで注目するリスク管理とソーシャルメディア・マーケティングも利用する立場によって光にも影にも見えることを忘れてはいけない。

2.ソーシャルメディアのリスク管理

 リスクは、情報を発信する側、受け取る側の双方にあると考える必要がある。一般的には、情報を発信する側のリスクがクローズアップされるが、受け取り側も情報が悪意のものであればリスクも高くなる。

 さらに、ソーシャルメディアは前回までも説いてきたように、ヒトとヒトのコミュニケーションツールである。そこに、企業が入るわけだから、違和感以上に多くのリスクを伴う。ここでは、ソーシャルメディアによるコミュニティーに情報を発信する場合のリスクを先ず考えてみよう。

【発信情報のリスク】

 さて、発信情報のリスクは何だろう。メーカーやサービス業であれば製品やサービス情報となるが、前回のメディアの種類でいえば、購入メディアや自社メディアでは発信情報に多くのチェックや検査が行われるに違いない。倫理的や道徳的、社会的、さらに文化的に問題がないかは基本的な基準であろう。さて、ソーシャルメディアの場合はどうだろう。ツイッターやフェイスブック、mixiなどのメッセージは、「堅い」文章でもなく、カジュアルな雰囲気で行われることから、違和感を減らすためにも発信内容はこれまでのメディアとは違って、口調も柔らかいものとなるだろう。問題はここでの基本的な基準に対するチェックである。発信だけでなく、受け答えや対話が始まれば、これらのチェックはどうであろうか?

 もう1つ見逃せないのが発信情報として、ソーシャルメディアへ実際に投稿を行う担当の情報が挙げられる。テレビやラジオのアナウンサーやパーソナリティのように、人気がある担当者には、発信情報の内容に関わらずファンが生まれることがある。ポジティブには、ファンは企業にとって歓迎すべきことであるが、担当者のプライバシーにも考慮しなければならない。

【受信情報のリスク】

 コミュニティーから受け取った情報もリスクをもっている。コミュニティーというオープンで公共の場からの情報であるから。受け取る分には問題はなさそうだ。しかし、企業関係者がコミュニティーに参加しているという事実は、そこでの会話を理解、蓄積あるいは暗黙の受諾をしていると解釈されるリスクがある。もっと言えば、コミュニティーの参加者の情報はすべて把握していると思われている。

 参加者の投稿メッセージや回答も、企業参加者を意識したものであれば、リスクがある。つまり、参加者は、コミュニティーで発言の有無に関わらず(つまり、黙っていても)、企業参加者に意見を見られ、利用され、最悪は悪用もされかねないと思われているかもしれない。個人情報保護法と相まって、企業参加者には受信情報の秘匿性の確保はもちろんであるが、コミュニティーに関連する情報も個人の特定が可能な状況ではリスクがある。

【受発信のリスク】

 最初は緊張の溢れる会話で始まるが、コミュニティーからの反響で「慣れ」となった時のリスクである。いわゆる、炎上の火種がある可能がないか、現状から参加の継続できるかといった点検である。多くの企業参加者は目立つ。衆人環視の中で、ソーシャルメディアを通じて情報のやり取りができているかが重要なポイントである。

3.ソーシャルメディア・マーケティング

 傾聴や会話でのリスクとは裏腹に、企業として自社の顧客あるいは顧客候補の意見やプロフィールは最も手に入れたい情報である。企業がソーシャルメディアを活用したい理由も主に、この生の顧客の情報によるマーケティングが可能だからだ。自社の商品やサービスに対して、その反響や欲しい人の声が手軽に手に入るということはこれまでになかった。ソーシャルメディアはそれを実現し、正に「魔法のマーケティング」に見える。どの企業も、2.で述べたリスクを見て見ぬふりして参入しているのではないだろうか。光をみて影を見ずに戦略は立てられない。マーケティングも同じである。

 確かに顧客情報を手に入れることはたやすいかもしれないが、それは参加者の自社に対する信用や信頼に裏付けがあるからである。つまり、社会(ソーシャル)で認められる企業であることは、参加者と同様、人格を持ったものでなければ、マーケティング活動を行うことができない。

 ソーシャルメディア・マーケティングの難しさは、他のマーケティング以上に顧客からの信頼の上に成り立っていることを知っておこう。

 では、ここでソーシャルメディアの1つであるツイッターを例にあげて「顧客サポート」を行うことを考えてみよう。企業が人格者であるからには、

挨拶は必須

個人情報の取得はツイッター上で行わない

入口はツイッターだが、その後は、サポートの内容にあった方法で行う

サポートの回答前に、これまでの対応の履歴を確認する

といった「気配り」が必要となる。すでにお気付きだと思うが、このような運用ルールが、2.で述べたリスク管理の基本となる。担当のみならず、経営、現場でこのルールを徹底していなければならない。自社内は多くの部門があっても顧客にとっては「一枚岩」に見えるのが自社であるという自覚を忘れてはならないのである。

次回の予告:
次回の予告:次回は、「ソーシャルメディアを科学する」と題して「ソーシャルメディア・マーケティングのデータ分析など」を解説する。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

12月 10 11

「横浜売れるモノづくり研究会」の活動の軌跡です

by staff

「横浜売れるモノづくり研究会」の活動の軌跡です

2011年1月に誕生した「横浜売れるモノづくり研究会」は、この一年間で五回の研究会セミナーを開催し、納涼パーティーや映画の上映会も行いました。

第五回セミナーの報告は下記をご覧ください。

おかげさまで、研究会の活動がメディアに取り上げられるようになってきました。神奈川新聞・日刊工業新聞・日本経済新聞に掲載されました。

日刊工業新聞 横浜売れるモノづくり研究会の紹介(2011年11月9日)

日本経済新聞 ともクリエーションズ記事の中で紹介(2011年11月11日)

来年は2月の「ヨコハマテクニカルショウ2012」の見学会から始動いたします。

ヨコハマテクニカルショウ2012

2012年もよろしくお願いいたします。

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。
2011年の相談は終了いたしましたが、インターネットでは随時ご相談を受け付けております。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

12月 10 11

ITがつくる絆(同窓生のきずな)

by staff

 

 みなさんこんにちは。(株)ともクリエーションズの玉川です。
 今回は、同窓会で築くきずなについてご紹介します。

 先日、10年ぶりに高校の同窓会がありました。人集めは名簿がない状態から、Facebookや口コミなどで行い、結果、学年全体の約4分の1の出席となりました。

 名簿作りは通常、同窓会当日に受付で記入してもらうことになりますが、それでは記入に時間がかかったり、後の幹事の作業も大変なので、今回は、QRコードと名簿登録フォームのURLを記載した紙を配布して、後で名簿登録をしてもらうようにお願いしました。

配布チラシ

 

登録フォーム

 これで、自動でデジタル化した名簿が出来上がります。アラフォー世代の携帯の利用は個人差もあるようですが、2~3日で約7割の登録がありました。

 後で、同窓会当日に撮影した写真を送る際もサポチューのメルマガ配信機能で簡単に行うことができます。

 また、当日参加できなかった人にも名簿登録フォームのURLを連絡することで、名簿に追加することができます。

 当日の同窓会は大盛況で、思い出話や仕事・家族の話など、話しは尽きませんでした。幹事の方が、卒業アルバムを映像に編集して見せてくれたこともあり、高校時代がついこの間のことのように蘇る、心温まる同窓会でした。

 今回の同窓会をきっかけに、クラス単位や部単位での同窓会へとこれから発展していきそうです。

 幹事からのコメントもいただきました。

「卒業から20年以上経過しておりましたが、予想を上回る出席希望者に幹事一同喜びと共に、実はかなり慌てておりました。
というのも、10年前の同窓会の時に、出席者情報を幹事としてうまく引継ぐ事が出来なかった苦い思い出が蘇っていたのです。
開催までわずかとなり、もはや手書のみに頼るアナログな方法では対応しきれないと頭を抱えていたところ、玉川さんから「さぽちゅう」の利用の提案を頂きました。当日、受付で「さぽちゅう」による同窓生DB作成の案内を登録用URLを掲載して準備し、出席者へ登録の呼びかけしました。その場でQRコードで手軽に出来る事もあり、早々に多数の出席者が登録してくれていたようです。
そんな状況を横目に、手書きの情報登録受付は、30分の受付時間内に対応しきれず崩壊してました。(笑)
ひとつ、利用にあたり課題と考えていた登録率については、後日、当日撮影した写真の共有方法をメールで連絡する事をエサ(笑)にした事も功を奏したようです。
同窓会参加者との再会を、『さぽちゅう』へ登録してもらったデータのおかげで、より強い「絆」として形にできた事に安堵しています。
また、残念ながら不参加だった同窓生も、情報を聞きつけ、かなり登録を済ませているようで、最終的に予想をはるかに超える太い『絆』となりそうです。」

 このような大切な同窓生との絆づくりに、サポチューが役立つことができて本当にうれしいです。

 

「サポチューシステム」って?

 「サポチューシステム」とは、
   1.フォームを作成して
   2.データ(メールアドレスなど)を集めて
   3.メール配信する
ことが簡単にできるシステムです。

「サポチューシステム」なら、fcebookページにも入力フォームやアンケートフォームが
簡単に設置できます。 サポチュー(Supportyou)>ようこそ!

この仕組みは、いろいろな所で絆をつくることができるのです。
これから少しずつ事例をご紹介していきたいと思います。

お問合せ

(株)ともクリエーションズ
231-0004 横浜市中区元浜町3-21-2ヘリオス関内ビル4F
tel 045-226-3475
fax 045-226-3476
E-mail info@tomocre.com

サポチューシステム:http://www.support-you.jp

担当:玉川郁子 プロフィール

   横浜市磯子区生まれ。港北区育ち。
メーカーの企画部を経て(株)ともクリエーションズに在籍。
サポチューシステム企画・販売・サポート担当など。
旅行が趣味ですが、今は2010年に誕生した娘を育てることが楽しいです。

 

12月 10 11

創業125年! 蕎麦と保土ケ谷宿を愛する人に愛される店

by staff

 

 JR保土ケ谷駅西口から徒歩3分。旧東海道を1本逸れた線路沿いに、今や保土ケ谷宿の名所と言っても過言ではない江戸時代の船宿のようなお蕎麦屋さんがあります。

 『宿場そば 桑名屋』。その名の通り三重県桑名市生まれ。1886(明治19)年に保土ケ谷に移転した老舗のお蕎麦屋さんです。

 「宿場そば」の名は4代目の現在のご主人が付けたもの。実はご主人の近藤さんは地元ではかなりの有名人。というのも、保土ケ谷で「歴史を活かしたまちづくり」に取り組む第一人者だからです。

 20歳の時に先代が急逝したため、突然お店を継ぐことになったそうですが、当時はお蕎麦屋さんの仕事がつまらなくて仕方なかったとのこと。
 「ウチならではのオリジナリティは出せないものか?」と試行錯誤した結果、辿り着いたのが地元保土ケ谷の歴史。かつて保土ケ谷が東海道の宿場町だったことを知り、目からウロコだったとか。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

桑名屋

抹茶そば

 さらに、安藤広重の『東海道五十三次』に描かれた『新町橋』(保土ケ谷宿)の袂に「ニ八」という看板があることを発見。
 「保土ケ谷には宿場の蕎麦屋があったんだ!」
 と衝撃を受け、区が主催する歴史の研究会に参加するなど、保土ケ谷の郷土史を猛勉強したそうです。
 周囲から「東海道バカ」と呼ばれるようになるまで、それほどの時間は掛からなかったそうで、以来、「保土ケ谷宿場まつり」の立ち上げを始め、「東海道シンポジウム保土ケ谷宿大会」「東海道ルネッサンス」「東海道400年祭」などなど、保土ケ谷宿のみに留まらず、各宿場町と連携した数多くの事業の他、新町橋モニュメント(天王町駅前公園)や境木の武相国境(ぶそうくにざかい)モニュメント、そして国道1号沿いの「保土ケ谷宿松並木プロムナード」など、様々なハード整備事業にも常に先頭に立って取り組んできました。もちろん、宿場時代の船宿をイメージした店舗作りもご主人のデザインです。

 また、(本業の)お蕎麦屋さんとしても一流の職人で、「鉄人」道場六三郎氏からも「良い蕎麦を打つ」と評されたほど。厳選されたそば粉で、ニ八どころか九割・十割で打つ蕎麦は風味も喉越しも蕎麦好きを唸らせます。さらに、その腕前を活かして読売文化センターを始め数多くの蕎麦打ち教室で講師を務めるなど、美味しいお蕎麦の普及にも一役買っています。

 せいろはもちろん、雪割り蕎麦・そばがきはオススメメニュー。
 年越し蕎麦(お持ち帰り)のご予約も受付中です。

●生そば
●生うどん
●せいろ
●天せいろ

 

2人前 1,300円
3人前 1,900円
1人前  750円
1人前 1,500円

 

【お問い合わせ】
 宿場そば 桑名屋
 保土ケ谷区岩井町21
 Tel.045-331-0233

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

「ヨコハマ保土ヶ谷」ボランティアライター募集
応募〆切:2012年1月31日
詳細はコチラ

ヨコハマNOW掲載情報

 

12月 10 11

ナーエ地域で最高評価のワインを造るデーンホーフ家と世界最高の栄誉を担うケラー醸造所をご紹介します。

by staff

ナーエ地域で最高評価のワインを造るデーンホーフ家


写真)ナーエ川&オーバーハウゼン村

 ライン川の支流ナーエ川の流域は、中世代の地殻変動期に形成された地殻が複雑に重なる地帯のため、様々な品種のブドウが栽培され「ナーエ地域はドイツワインの試飲会場」と言われるほどです。それぞれの土壌に合わせたブドウ品種の選択によりナーエ地域では様々な性格のワインが生まれます。それだけに醸造家の栽培と醸造技術により素晴らしい高品質のワインを造りだすことができ、名門の醸造家が競い合っています。中でも近年世界的に注目されている醸造家がオーバーハウゼン(Oberhausen)のヘルマン・デーンホーフ(Hermann Dönnhoff)です。

 ヘルマン・デーンホーフ家は、1750年よりこの地でブドウ栽培を行い、高品質のワインを造りだしてきました。現当主は、ヘルムート・デーンホーフ(Helmut Dönnhoff)で、ブドウの栽培から醸造まで当主自ら畑の作業を行い、厳しい管理のもとこだわりのワイン造りを行っています。特にヘルマン・デーンホーフ醸造所は世界的に権威のあるアメリカのワイン雑誌『ワイン・スペクター(Wine Spekter)』誌で部門別で最高評価を受けています。そして、2001年産のワインの総集編では、ドイツワイン醸造所として最高評価を受けました。また、1999年には、ドイツワインのガイドブック『ゴーミヨ(Gault Millau)』で最優秀醸造所の名誉に輝いています。

 ヘルマン・デーンホーフのワインは口に含むと「明るく生き生きとした印象を受け、その瞬間芳醇な果実の風味が心地よく寄せてくる。その果実味の引き波の後には、しっかりとした酸味とミネラルが何時までも残っていく」と表現されています。

 

エチケット

左:オーナーのヘルムート・デンホフ氏

 

世界最高の栄誉を担う、ケラー醸造所


写真)ケラー9代目クラウス・ペーター・ケラーご夫妻

 南から流れ下るライン川は、東から流れ来るマイン川と合流する地点で、ちょうど北緯50度に連なるタウヌス丘陵に阻まれ西に向きを変えます。かつて氷河時代には膨大な黄土層がこの地に積み重なり、ラインヘッセン(Rheinhessen)地域は広大で緩やかな起伏の連なるドイツワイン最大の生産地となりました。黄土層に覆われた地層に栽培されるブドウはミューラ・トゥルガウ(Müller-Thurgau)に最適な生産地で、柔らかい酸味のマイルドなリープフラウミルヒ(Liebfraumilch)『聖母の乳』で有名な大衆ワインの産地となっています。

 この大衆ワインの産地の一画に位置し、ドイツ最高級ワインが誕生しているのがフレアスハイム・ダルスハイム(Flörsheim-Dalsheim)です。ここには最も多くの賞を獲得しているワイン産地としてギネスブックに認定された、ワイン造りの名門ケラー(Keller)家があります。ケラー家の先祖は、1789年よりこの地でワイン造りを初め、現当主は8代目クラウス・ケラー(Klaus Keller)氏と9代目クラウス・ペーター・ケラー(Klaus-Peter Keller)氏のケラー一族によりドイツ最高品質のワインを造りだしています。

 

ケラー単独所有畑「ダルスハイマー・フーバッカー」

エチケット

 このフレアスハイム・ダルスハイムは一般的なラインヘッセン地域の土壌と異なり、地表近くまで石灰岩の岩板か連なり、先祖はブドウ栽培には困難を窮めていました。しかしケラー一族は永年をかけて岩板を砕き、急斜面のテラス状畑を改良し、この地に適したリースリングのクローンを探し求め、栽培から醸造まできめ細やかな愛情を注いでワインを造り続けてきました。これらの努力が実り完成したケラー醸造所のワインは、数々の賞を受賞しつづけています。

 2002年にはイタリアで行われた国際部門Vinitary Veronaで最高賞を受賞しました。(2001年はフランスのChateau Margaux、1999年にはアメリカのMondaviが受賞しています。)また、毎年発行されるドイツワイン・ガイドブック『Gault-Milau』では、1994年より今日まで毎年最高評価を獲得している唯一の醸造所でもあります。

 ケラー醸造所は、家族協力の下、ブドウの一房一粒に愛情を込めたワイン造りを行っています。その様子は、岩本順子氏の著書『おいしいワインができた』で紹介されています。専門家ではない岩本氏が、ケラー醸造所で初めてワイン造りにかかわった体験が生き生きと語られています。読めばケラー一家の暖かい家庭の中で、最高品質のワインが生まれる理由を知ることができるでしょう。文庫判の小さな本ですが、一読をおすすめします。

(文・写真:ワインブティック伏見)

 

ワインブティック伏見

〒232-0001 横浜市中区新港2-2-1 横浜ワールドポーターズ1F
Tel/Fax 045(222)2112

HP: http://winecom.jp
blog: http://wine1999.blog121.fc2.com
E-mail: boutique-fushimi@winecom.jp

 

 

12月 10 11

ベンベン姐さんの三味線はじめ (こんな女に誰がした?!) 其の六

by staff

地歌 上田恵子
佐々木 彬文画伯作「瀧」の前で撮影

地歌 「千鳥の曲」

 

ベンベン姐さんのライブインフォメーション

 

ライブインフォメーションはベンベン姐さんのHPをチェキ http://www.uedakeiko-ziuta.com/

 

お弟子さん募集

 

オリジナルCD 「月の光」

 

ベンベン姐さんこと 上田恵子さん プロフィール


今月の普段着
 

東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業後、地歌演奏家として研鎖を積む。
日本古来の伝統芸能「地歌」と言うジャンルの可能性を広げるべく、料亭・バーなどのスペースを中心に、ひとり地歌ライブ(三味線古典曲)で活動中。
自作曲の製作にはじまり、尺八・ギター・胡弓等との他ジャンルとの共演も精力的に行い、毎回ユニークなコンサートを行つている。

 

活動情報はオフィシャルサイトまで
http://www.uedakeiko-ziuta.com/

上田恵子オフィシャルブログ「峠の茶屋」
http://tougenochaya.jugem.jp/

 

12月 10 11

難波潟 みじかき蘆の ふしの間も あわでこの世を すぐしてよとや

by staff

♪難波潟 みじかき蘆の ふしの間も あわでこの世を すぐしてよとや♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:伊勢(いせ)

 現代語訳:
「難波潟に生えている蘆の 短い節と節のあいだの様なほんのひと時でも逢いたいのに あなたは恋しい人に逢わないで この世を一人で過ごせとおっしゃるのですか。」

 心変わりしたつれない恋人の手紙に対する返事。と彼女の歌集には書かれています。作者の伊勢は、それは美しい女性であったと言われています。きっと立ち振る舞いから、何もかもが上品で薫るような美しさがあったのでしょう。そんな女性でも恋人から心変わりをされて振られてしまうのですから、人生は不思議です。王朝の女流歌人の中でも小野小町や和泉式部に劣らないドラマティックな人生を生きた才気あふれる女性でした。

 伊勢は、宇多天皇のお妃さま、中宮温子に仕えていましたが。その頃彼女を見染めて求愛して、恋人関係にあった藤原仲平に振られてしまいました。この歌はきっとその時に書いたものかもしれません。傷心で実家に帰っていた伊勢は一年後に中宮温子の要請で又宮仕えを始めます。そして皮肉なことに今度は宇多天皇が彼女を見染めてしまいました。天皇様では彼女も拒むことはできません。宇多天皇には沢山の后がいましたが、彼女は寵愛されて行明親王を産みました。そしてそののち 宇多天皇は退位、落飾(出家)されて、かわいい息子の行明親王も幼くして亡くなってしまいます。それだけでも十分にドラマティックなのに、そんな悲しみにうれいている伊勢を今度は宇多天皇の第四皇子あつよし親王が見染めてしまいます。その時親王は25~6歳、伊勢は30歳を過ぎていたと言います。

 30代って女性の美しさのピークかもしれませんね。そして敦慶親王の子供を産みます。その頃のエピソードで、伊勢が宇多天皇の退位後 一度又実家に下がっていた彼女に、次の天皇、醍醐天皇の仰せで歌を作るようにとのメッセージを遣わされた使者が、御簾の陰から彼女の気配を感じて、その上品な美しさに「世の中にはこんなに素晴らしい女性もいるのか・・・と感じ入った」と書き遺されているそうです。彼女の存在は、小野小町や和泉式部の様に現代では余り知られていませんが、今後きっと何かの機会に取り上げられて、王朝の初期にあでやかに活躍した三十六歌仙の一人でもある女流歌人として、大きな話題になってゆく可能性がありそうです。

 今年もあとわずかですね。どうぞ良いクリスマスと素敵な新年をお迎え下さいませ。早苗ネネ♪

毎月第2金曜日 10月14日 , 11月11日 , 12月9日 , 1月13日
6時30分~ 3回ステージ ¥5500ワンドリンク付き 入れ替えはありません。
出演:早苗ネネ パリ祭出演の歌手の方々2~3名。
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

12月 10 11

僕をイヌ扱いしないでくれるかい。僕は横浜市港北区の柴犬、其の名は「小太郎」!

by staff

 横浜市港北区にお住まいの杉田さんの愛犬小太郎くんは、気が弱くて寂しがりや。家族の人が小太郎くんに気づかれずに外出した時、大変なことが起こりました。
 一人にされたことに気づいた小太郎くんは、ゴミ箱をひっくり返して家の中をごちゃごちゃにしました。
 「僕をイヌ扱いしないでくれるかい。みんなと同じ人間なんだ。」
 そう言わんばかりの剣幕だったそうです。

名前 小太郎
犬種 柴犬 オス
年齢 7歳
アレルギーがあり皮膚が荒れ易いので、漢方薬や海水浴、温泉入浴で治療しています。
(年に一度は海水浴に行きペット宿泊OKの湯河原 亀屋旅館http://www.kameya.net/に宿泊)

柴犬 小太郎くん

 

12月 10 11

具象と抽象の間、「生命」を描くユニークな日本画家。
日本画家・茶道(裏千家)講師 佐々木彬文さん

by staff

 始めて「チェロを弾いている婦人」の墨絵を見た時、色彩のない絵から不思議と色と音色を感じました。佐々木彬文さんは日本画家であり茶道の講師でもあります。そのかたわら趣味でギターの演奏をされています。2011年11月19日と20日の2日間、ワールドポーターズ6Fのワインのイベント(ワインブテック伏見/主催)でギター演奏をされると知りインタビューに伺いました。

佐々木彬文さん  
お名前 佐々木 彬文(ささき りんぶん)
(ご本名:佐々木 秀夫)
ご出身 兵庫県神戸市長田
お生まれ 昭和27年6月 蟹座生まれ
現在の居住 横浜市中区山元町
お仕事 日本画家(彬文会主宰)
茶道講師(裏千家/佐々木宗秀)
クラッシックギター演奏家
(教室/出稽古/演奏活動)
連絡先:045-641-6822
rinbun@ac.auone-net.jp
趣味 ドイツワイン・ワイン

具象と抽象の間、「生命」を描くユニークな日本画家と言われています。

 難しいことを言われていますが、描きたいものを描きたいように描いているだけです。

 「魚の有る風景」は魚を美味しく食べたいと思って描いてみました。

 「遊」という絵はパネルに和紙を貼っているうちに夜も更け、布団に入ると「遊」という字を描いている夢を見たのです。夢の中で何度も描いているので、すっかり目が覚めてしまい、夜中に起きて窓を開け部屋の空気を清めてから、筆を取り、一気に描き上げました。「遊」は描くというよりは、自己を開放し無の境地になり筆にまかせ筆の走るままに描いた作品です。

 このように墨の濃淡だけで一気に描きあげてしまう作風もありますが、大作「瀧」は完成に3年かかりました。「那智の滝」をイメージした作品です。健康を害してから大きな号数の絵はやめております。体力を消耗するからです。この「瀧」が私の作品の中では大作になります。

 日本画というと敷居が高い感じを受けますが、日本に西洋画が入って来た時ジャンル分けをする為に「日本画」という言葉を作ったのです。日本人が描けば「日本画」なのですから(微笑)。あえて言えば、チューブに入った水彩絵具や油絵具を使う洋画と、「岩絵の具とにかわ」や「墨」「うるし蒔絵の技法」を使ってかかれた絵が「日本画」という違いです。

佐々木 彬文画伯 日本画展の作品

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

作品「魚の有る風景」

作品「遊」

作品「瀧」

絵を描くようになったのは?

 神戸の長田に住んでおりました。そう、震災で大火事のあったあの長田地区です。
 父は抽象画家でした。油絵です。私は小学校1~2年生の頃から父の影響で油絵を描かせられました。とにかく厳しい父親で「教える」というよりも「いじめられた」という印象が強いです。ダメだしばかりでしたから(笑) 面白いエピソードがありますよ。

 小学生時代、動物園の写生会に父と一緒に行ったのですが、何度描いても父の「ダメだし」にあって、それならと父がスケッチしていたものをちゃっかりといただいて、コンテストに出したのですが・・・小学生の作品展に入選どころか「落選」しましたね。(笑)

 厳しい父でしたが、父のお陰で家には貴重な美術の本がありました。次から次へと本を読みました。日本画は独学に近いです。最初に油絵を父に習ったこともあり、日本画を描くようになっても、色を作る時に絵具を重ねる子供の時からの独特の癖がユニークな作風になったと思います。
 伊藤髟耳先生に色んなお話しを伺ったりしましたが、習ったと言えば、神戸の長田無線の2階に小笠原誠治先生が奥様と暮らして居られました頃にご教授いただきました。
 どの流派にも属さないので、絵画の発表の場といえば「個展」になります。イル・ジョカトーレ横浜公園店 イタリアンレストラン(http://youtu.be/BgP0U33CiZ)では展示販売もしています。

茶道は大好きだった叔父の点ててくれたお茶がきっかけです。

 私にとっての習い事は「茶道」になります。叔父はもの静かな人でした。父とは真逆の性格で、叔父に可愛がってもらいました。幼稚園の頃から叔父の嗜む茶道に興味を覚えました。茶道は床の間に飾るお花や、お茶席の作法、茶会席・・・所作から料理まで広く学ばなければなりませんでした。「知る」ことの楽しさを「茶道」から学びました。

 私は稽古に本物の茶器を使います。本物を使うことにより目を養います。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

佐々木 彬文さん

目を養うことで、良いものがわかるようになります。本物を大切にしようと思う気持ちが生まれます。「大事にする」という気配りが美しい所作に繋がります。お稽古ごとも普段の生活の中に活かせる所作や学びでないともったいないです。

 出稽古にも本物の茶碗を持って行きます。割れても「お茶碗の寿命」だと思う覚悟が要りますけれど、それでもお弟子さんには本物に触れて欲しいと思います。日本画家は漆に金箔を使うので、私は金継ぎができますから(笑)割れた時はね・・・・。

ギターが習いたくてクラッシックギター部のあった神戸商業高校を選びました。

 神戸商業高校に入ったのはクラッシックギター部があったからです。ギターは小学校4年生の頃に始めます。絵画だけでは食べていけなかった父は進駐軍のJAZZオーケストラで指揮棒を振っていました。家には五線譜やスコア集、世界の国歌大全集がありました。

 厳しい父のいる家から早く出たくて、人の紹介で神戸郵船のデーター通信室に務めることにしました。現在の郵船情報開発です。技術部に23年間務めました。

 その間、夜に神戸のレストランや芦屋のサロンで演奏したりしました。首の神経を痛めて指がしびれてしまい、以前のような大曲は弾けなくなりました。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

佐々木 彬文さん

近頃はこういったイベントのBGMを演奏しています。以前よりも気持ちはのびのびと弾けるようになりました。

阪神淡路大震災を経て横浜に。

 1993年11月千葉で病に倒れ国立千葉病院に入院。特発性拡張型うっ血型心筋症という難病だと分かりました。芹山先生に命を助けられます。翌年の1994年6月に退院し、長田の実家に帰ったのが1994年9月。そして1995年1月17日に震災に合いました。

 震災の後、実家の片づけ等は直ぐに手を付けることが出来ず放置されるままに、父の絵は全て雨などで傷んでしまいました。私は父があの世に持って行ったと思っています。 避難所の環境は、難病を持つ私にとって最悪の環境でした。私は鎌倉の友人を頼り、鎌倉へ移住。現在は横浜の中区山元町に住して居ります。

 日本画家にとって、岩絵の具の種類が豊富な「絵具屋三吉」が近いので横浜はとても便利な所です。(絵具屋三吉:http://www.sankichi.com/

あなたにとって横浜は?

 大病を経験し、大震災に遭遇し、命の重さを考えるようになりました。 私の絵が命の創造と終焉、神との相対そして命の再生だと言われるのはこうした理由からだと思います。心臓のリズムを感じて絵を描き、ギターを演奏しています。

 横浜に住んで見て、もっと美を身近に意識することを勧めていきたいと思っています。例えば、祭りや文化を発信する基地として「お寺」を有効活用したいです。「お寺ルネッサンス」とでも言いましょうか、

宗教というよりもコミュニティセンターとして、身近なお寺での「お茶会」や「絵画展」「音楽のコンサート」「お祭り」・・・かつて日本にあった寺を中心とした日常を取り戻したいと思っています。
 お寺が恒久的に成り立つようになって頂きたい思いと、皆様にはもっと身近にお寺や神社を感じて頂きたいのです。

 私にとっての横浜は「一息一休」です。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

私にとっての横浜は「一息一休」です

感謝をこめて、あなたへ(佐々木彬文さんの言葉のままに)

 鎌倉の聖テレジア病院の小嶋吾郎先生が病気に付いてお話しして下さった事が有りました。
 心臓移植とかしか根本的な治療の方法が無い病気ですが、移植は若い人順だからと話して下さり「私には移植のチャンスは来ない」と・・・・ 
 私の活動を普段から見守って下さっておられました先生でしたから『この病気は偉大な仕事を残す為の切符だと思いなさい。』とお話し下さった事が有りました。
 気持ちが楽になり競争とか人と比べるとかを捨て、思う儘に仕事をして参りました。笑って総てを受け入れ暮らせる様になりました。

 今迄、私を助けて下さった多くの皆様ありがとうございました。

(文:高野慈子

 

12月 10 11

業界では珍しい建材店の二代目女性社長
有限会社二瓶建材 代表取締役 湯川則子さん

by staff

 カラフル☆ヘルメットや防災グッズ。「何でも間に合う」をモットーに綜合建築資材販売店を経営する『美しすぎる建材屋』湯川則子さん。常に地域と調和する店づくりを目指していらっしゃる、業界では珍しい建材店の二代目女性社長、有限会社二瓶建材 代表取締役 湯川則子さんにお話を伺いました。

湯川則子さん  
お名前 湯川 則子(ゆかわ のりこ)
ご出身 横浜市港北区
年令 サンパチのうさぎ
家族構成 大切な一人息子がおります。
現住所ア 港北区新横浜
ご職業 有限会社二瓶建材 代表取締役
趣味 ゴルフ
「株式会社BBQ」と言われるくらい、バーベキューパーティを開いたり、実は料理も好きなので仲間とホームパーティもよく開きます。
ご性格 元来は非常にのんびりした性格で子供の頃は、父親からよく「のろ子」と呼ばれていました。今はまったく反対でとても素早く動けます。基本的にはとても明るい性格と思います。

有限会社二瓶建材 http://www.nihei-kz.co.jp/

 

横浜生まれの横浜育ち、ずっとこの地で育って暮らしてきたとのことですね。

 小学校は地元の公立に行き、中学・高校と私立捜真女学校に進学しました。小学校3年から二十歳頃まで、日本舞踊(若柳流)を習っていました。
小学校時代は今思えば、一生分くらいの勉強をしていたように思います。商売人の子どもは親にあまりかまってもらえないんです。下に妹と弟がすぐ生まれたこともあって、成績をよくすることで親の注目をひき、自分のポジショニングを作ろうとしていたんだと思います。
おかげで中学入学以降は全く勉強はしなくなり、芸能人や高校野球の追っかけや友人たちとショッピング等、遊んでばかりでした。入部した放送研究部で部長を務めて、とても和気アイアイと友人と過ごしました。当時は今ほど受験などにきびしい校風ではなく、みだしなみには厳しかったですが、のどかでおだやかな学園生活でした。お弁当時間に、おかずの持ち合いをしてバイキングにしてみたり、じゃんけんで負けてマックにハンバーガーを買いに行ったりと、とても楽しい6年間でした。今でもその時の友人たちとはとても仲良くして生涯の友を得たと思います。

そういう体験が、今の湯川さんの人間形成の基本になっているんですね。

 そうかもしれません。その頃の友達とは今もほとんどつながっています。とにかく友達づきあいが長いんです。あの頃と、みんな全然変わらないですよ。容姿はどんどん変わりましたけど(笑)。

その後はどんな進路を選択されたのですか。

 2年間専門学校に行って、広告のレイアウトとかキャッチコピーを考えたりするコースに通いました。実家の商売にも役に立つかもしれない、という気持ちもあってのことでしたが、実際やってみると、才能のなさに気づくことが多かったですね。自分としてはよくできたと思っていても、人から笑われることも多かったです。やはり才能の問題ですね・・・。その頃の友人たちで、才能がある子たちは今でも編集やっていたり、タウン誌とか、ミニコミで活躍していたり、大手広告代理店に職を得ていたり。今振り返ると、あのころが自分としては、低迷期でしたね。高校までのほほんと生きてきてしまったので、いざ就職活動となると、行きたいと思えるところには内定をもらえず、「もうちょっと勉強しておけばよかった」と思いました。自分作りをきちんとしなくては、と二十歳くらいの時に焦りすら覚えました。このころに異なる角度で、自分を捉えなおすよい機会になったと思います。
 結局、知り合いの紹介で、関内の法律事務所の事務の仕事に就きました。住んでる場所が横浜のド田舎でしたから、やはり活気のあるところで「花のOL」をやってみたかったのです。

 私は弁護士の先生の書類の作成や、銀行の業務、裁判所への届け物などの仕事をしておりました。4年半勤めて、少しずつ任せてもらえる業務の幅が広がり楽しかったです。
また、全国の法律事務員さんたちの交流会というのがあり、その年ちょうど横浜で開催されることになって、幹事の一人になりました。横浜の良いところを知ってもらうべく、名所のスライドを作ったり、企画に携わり、大成功でした。その縁でその仲間の方々とサークル「マリンオフィスクラブ」を立ち上げ、当時21歳だったのですが、なぜか初代会長になりました。年齢層も幅広かったですが、勉強会はもちろん、いろいろなところへ旅行に行ったりととても楽しい会でした。もちろんその時の友人とも今もおつき合いしています。

楽しいOL時代を過ごされたのですね。

 ええ、でも父親が会津若松出身ということもあり、封建的で、早く帰ってこないとこっぴどく怒られました。とにかく「挨拶」、「礼儀」、「靴の揃え方」、「食べ方」等に厳しい人でした。

法律事務所をやめ、家業を手伝うことになったきっかけは?

 封建的な家だったので、「一族郎党が総出で商売を行う」ことが当たり前の家庭でした。時代もあったのでしょうが、建材を扱う家業がどんどん忙しくなっていく中、長女が関内で働いているからといって、プラプラ飲み歩いて深夜に帰宅するというのは、両親としても許せなかったようです。早く家業を手伝ってくれ、と言われ続けましたね。そういうこともあって、もう4年半も働いたからそろそろ手伝うか、という感じで辞めました。24歳の春でしたね。

入社してからはどんなお仕事をしていたのですか?

 当時はバブルで建設業界はとてもいい時代だったと思います。建材店と生コン工場を運営していましたので、とても忙しかったです。店を切り盛りしていたのは母で、もっぱら父は現場です。母も営業を兼ねてお客様と出ることも多いので、やはり娘の私が側にいるのは安心だったようで、私と下の妹とで手伝っていました。私はお客様の対応と請求書などを作る業務です。とても忙しかったので、私もフォークリフトに乗ってセメントを積んだりもしましたよ。何度かダンプにぶつけては笑ってごまかしたりしてましたけれど。父や母のアイディアで日曜大工の物も置きだして、「何でも間に合う」を合言葉に一家で頑張りました。商売にはとても厳しい母でした。出産を間近にしてもお産は病気ではない、と働かされました。息子を産んでも、月末は忙しいのでミルクを飲ませながら車で集金などをして回りました。息子が一才の時に保育園に入れて、また本格的に仕事に戻りました。それまでの考えと大きく変わる商売への意欲のわいた時期だった気がします。子供と十分に接してあげれず悩んだ時もありましたが、できる限りの愛情は注いだつもりです。

この業界で、女性が社長を務められているケースは珍しいと思います。どういうきっかけで継ぐことになったのですか?

 母が脳梗塞で倒れ、その後父の病気をきっかけに、平成16年に、正式に経営者を引き継ぐことになりました。母が倒れて以来、資金繰り含め、切り盛りをしてきているという自覚はあったものの、やることは変わらないにしても責任を負ったな、と思いました。会社にいる従業員たちの面倒をみなければとか、業者に対しても責任を感じました。それまでは「社長の娘」という蓑の下で許されてきたことも、自分の中でそういう甘えは消したい、と思い、いろいろな試行錯誤をしました。

 母が脳梗塞で倒れた時、幸いにも命は取り留めましたが、左半身に麻痺が残り、足が不自由になってしまいました。母が動けるうちに社屋を建て替えてあげたいというのが私の夢でした。平成18年に建て替えることができたのですが、お客様にゆっくりしていただけるようなスペースも作りたいということでカウンターを作ったり、カフェを併設したりしました。そうすれば、地域の人にとってもほっとできる場になるし、母の居場所にもなるかな、と思って。

 今では女性であることの強みを考え「美しすぎる建材屋」と勝手に自分でキャッチフレーズをつけて皆様に大笑いされています。

経営者として大切にしていることは?

 座右の銘は「信じる者は救われる」です。出会った人たちとの関係を大切にしながら楽しく関わることが仕事につながっていくと思います。経営していると葛藤する場面はいろいろありますが、笑う門には福来る、の言葉通り、自分が楽しくいることが大事と思っています。

 このあたりの地域は、昔から地縁が強いんです。父母の代からの信頼をベースに誠実に仕事をしていくことが大切だと思っています。「のりちゃん」と父母の代からのお客様にかわいがって頂くと、とてもうれしいです。

今後は、どんな風に事業を進めていきたいですか?

 昨年、実はちょっと体調を崩して、弱気になったことがあったんです。もともと丈夫なわけではないのに、ずっと無理していたのかもしれませんね。ときどき大きな病気をすることもありましたが、昨年、体調がすぐれないことが長く続いて。今までのように、「どんどんあれをやろう、これをやろう」という企画が湧き上がってこなくなって、ピタッと止まった時、すごく焦ったし、精神的にもきつかったです。特に身体が思うように動かないことがもどかしくて、伏せることが多かったです。年齢の節目ですね。

 実は今年の春くらいまでそういう状態におかれていたんです。少し弱きでくじけそうでしたが「よし、あと10年頑張るぞ」とゴールを自分で設定したら少し気が楽になり、逆に励みになりだしました。実際はずっと頑張らざるを得ないのでしょうが、次世代に何を贈るのかという事を考えると、区切ってものを考えるのも一つかと思います。

 信条としては、クールに「区切り」を見据えて、今できることをやっていくだけだと思っています。10年頑張って、その先の展開はそれから考えようという心持です。よく後継者の問題はどこも頭を悩ませていると思いますけど、うちの場合も父が、事業に執着を持っている姿を目の当たりにしてきたので、私はそうはならない、と決めていました。息子が継いでくれたらそれに越したことはありませんが、息子が何を生業とするにも、息子の負担にならないように、息子にとって良い形になるようにしていきたいと思っています。

 最近は経営環境も変化してきていますし、ホームセンターで建材屋のようなところも増えてきています。私達も工事業とか、リフォーム業とか、間口を広げるようにしていて、頼まれたらやる、というスタンスをとっていますね。あとは土地の有効利用も意識して、貸し物件を造り、早い段階から対策を進めてきました。夢がないといえばないのかもしれませんが、現実と向き合うことも大切だと思っています。「何でも間に合う」努力はゆるめずにがんばる所存です。

湯川さんにとって横浜とは?

 お帰りと言ってくれる場所、です。
 二瓶建材のロゴは、仲間の会社にお願いして「楽しい感じ、かわいい感じで」とリクエストしたら、元気の出る黄色のニコちゃんマークのロゴになりました。最近、看板を新しくしたのですが、鳥山町に帰ってきた人が、「帰ってきたな~」とほっとできるようなそんな看板にしたいと思って作りました。地域の方々から、「ほっとする」と褒められると、嬉しいです。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

湯川則子さん

(紹介者:有限会社ニューイング 工藤 文子 文:NPO法人ETIC. 田中多恵)

 

11月 10 11

ブラとも 横浜「市民の森」がお気に入りです

by staff

 

 横浜と言えば、海や港のイメージですが実は山林もたくさんあるのです。

 横浜の山林や森を守ろうという制度が「市民の森」です。「市民の森」は、山林所有者のご好意により、市が土地を借りて、森の中を散策できるように整備して一般に公開をしたものです。昭和46年度(1971年)に始まった「市民の森」は、現在34か所、総面積が約460haにわたるそうです。

横浜市環境創造局「市民の森」 http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/green/shiminnomori/

 最近は、休日の朝のウォーキング場所として「市民の森」に行っています。「市民の森」は、通常の公園と異なり自然を生かした自然林です。中には急な山坂もあり、散策と言うよりはトレッキングと言った方がいいかもしれません。私が訪れた「市民の森」中からお気に入りをご紹介いたします。

 

称名寺市民の森

 世界遺産として申請中の称名寺境内をぐるりと取りまいた山林です。金沢区の海の近くにあります。金沢山のてっぺんの八角堂広場からは四方が見渡せて、とてもいい眺めです。

 称名寺は、13世紀半ばに建てられた金沢北条一族の菩提寺です。森の中には金沢北条一族のお墓もありました。上りはそんなに急ではありませんでしたが、下りの階段は狭くて急で、鎌倉時代の方々はこんなに急な階段を下りたのかと驚きました。

 称名寺の境内は阿字ヶ池を中心とした鎌倉時代の浄土庭園になっています。称名寺には大勢の観光客が訪れるようですが、「市民の森」にまで足を運ぶ方は少ないようです。

 称名寺に隣接して神奈川県立金沢文庫(中世歴史博物館)があります。散策の帰りに鎌倉時代の文化に触れることもできます。

神奈川県立金沢文庫
http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

 

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)


称名寺眺め


称名寺


称名寺

 

瀬上市民の森

 栄区の東部にあります。すぐ隣は円海山と氷取沢市民の森です。森の中に入ると急な山坂が続いています。水が豊かなせいか大きなシダやコケがたくさん生えていました。アップダウンを繰り返していくと中央に瀬上池があります。静まり返った森の中に突如として現れる池は神秘的な感じです。

 水面に浮かぶ木々を見ていると、横浜にいるのかしらと思ってしまいます。紅葉の時期はさぞかしきれいでしょうね。

 

舞岡ふるさとの森

 戸塚区にある地下鉄舞岡駅の近くにあります。自然のままの森が広がっています。そんなにアップダウンもなく歩きやすい森でした。

 市民の森に隣接する舞岡公園は、市内に4か所ある「広域公園」のひとつで28haもあります。園内は、田んぼや雑木林、広場などの緑地の他、戸塚区品濃町にあった古民家『旧金子家住宅母屋』が移築、復元されています。私達が訪れたときは、ボランティアの方々が田んぼなどを整備されていました。

 地下鉄舞岡駅から舞岡公園に至る歩道には、小川が流れていて「舞岡町小川アメニティ」と呼ばれています。途中には水車や休憩所などもあり、素敵な散策路になっています。

ふるさと舞岡ぶらりマップ
http://www.city.yokohama.lg.jp/totsuka/kusei/files/maioka.pdf

 

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)


瀬上散策


瀬上池


瀬上池

 「市民の森」ではたくさんのボランティアが活躍しています。横浜市では、「森づくりボランティア」の育成に力を入れていますが、ボランティアの高齢化が目立つようです。森は私達を災害から守ってくれる大事な自然資産です。かけがえのない自然をどのように守っていくのか、自分達への宿題として取り組まなければならないと思います。

 

11月 10 11

2011年11月 「ありがとう、スティーブ・ジョブズ!」

by staff

 このヨコハマNOWには、ジョブズのスタンフォード大学における2005年の卒業生へのはなむけの名演説が載っている。この演説は何度でも聞きたい普遍的な魅力をもつ。ジョウン・バエズの美しい旋律に乗せてキング牧師の鮮烈なメッセージを込めたかのようで、リンカーンのゲティスバーグ演説に匹敵する歴史を動かす珠玉の作品であると思う。

 突然の死からひと月もたたない間に100万部を突破した伝記が、日本語版も含めて世界同時発売されたスティーブ・ジョブズ。この天才的事業家の名前は既にエジソンやフォードと並ぶ名前となっている。彼の業績や人生はこれから何十年もの間、世界中の人たちから注目され続けるであろう。そして、その劇的な生涯を彼とともに生きてきた我々は時代の生き証人としての幸運を肌で感じ取れるのである。

 彼の亡くなった年齢を聞いてちょっと調べてみて、この魅力あふれる天才には有名な同級生がたくさんいることを知った。第二次世界大戦が終結したあの1945年。それから10年して、日本では55年体制と呼ばれたその年に生まれたジョブズ。彼と同じ年に生まれた人たちの中に、なんと、ビル・ゲイツがいて、また日本には、郷ひろみと江川卓がいるのをご存知だろうか。養子として育った天才的なスティーブは人生を走り抜け、その命は燃えつき夜鷹の星となった。ビルは巨万の富をもとに世界一の基金をつくり21世紀のカーネギーになろうとしているかの如くだ。郷ひろみは「君たち女の子いぇいいぇい」のティーンのアイドルから、日本発ラテン系エンターテイナーとしての新境地を開いている。怪物くん、江川は大学受験に失敗、空白の一日などを経て、《エガワる》存在から小林との和解と別れや事業の問題などを乗り越えんとし、数年のうちにはおそらくは遅咲きの巨人の監督として一時代を築くのであろうか。

 たまたまこの4人と同じ1955年にこの世に生を受けたわたくしは、どうゆうわけか、彼ら、「天才秀才鬼才美才」を常に同時代人(contemporary)のなかの同級生として意識して生きてきた。ゴウゴウ(55)から権六(56)となったわれら、55年体制世代は、《松坂世代》でも《ハンカチ世代》でもない《ジョブズ世代》であり、パソコン革命と通信革命の嵐をその身に感じて成長してきた。手書きの清書をする仕事が存在したころに社会人になり、ワングの英文ワープロからしばらくして東芝ルポの日本語ワープロが登場し、パソコンがいつの間にか必須用品となり、デスクの上に大きな場所を占めるようになっていった。そしていつしかインターネットというものが当たり前になり、携帯が小さくなり、メイルが送れるというiモードなるものが時代の先端となったかと思う間もなく、いまやスマホなどという変な名前が流行語となる時代だ。

 この間、バトンを受け取った我々の世代は世代間の架け橋となって、先輩世代の知恵や良心を受け渡す《ワン・ブリッジ》たらんとして懸命に生きてきた。そして今、ジョブズの遺言となったあのスピーチを何度でも繰り返し聞き直してみて、情報革命というものは何だったのかを振り返ってみたい気分になった。先日この《ヨコハマNOW》のものづくり研究会の企画で再度見る機会のあった木下徹監督の作品「さくらさくら」の高峰譲吉博士の精神 “Try, Try Again” を思い出した。偉人たちに共通するこのような不屈の魂をすべての世代とともに分かち合いたい気持ちで一杯だ。日本語でも英語でもその楽しみを同じ志や気質をもつ友人たちと分かち合って、天から与えられた生命の奇跡を深く味わっていきたい。そのためにはできればジョブズのスピーチを暗記してみるのがよいだろう。歌を覚えるつもりでこの若人たちへのはなむけの言葉の簡潔にして美しい英語の詩とその背後にある思想を味わおう。そうすれば知らぬ間に英語が上達しているのに気づくだろう。

 言葉は意味を噛みしめながらゆっくりとスローフードのごとくに覚えるといいと思う。外国人が日本語を覚えるのも同じだ。本日地域の国際交流座談会に出席してそう思った。8人のパネリストの中にタイからきて20年になる日本人と結婚した女性がいた。実にさわやかな人だった。彼女の好きな言葉に「幸福」というのがあった。彼女と話した。とても幸せな良い笑顔だった。そして幸せなのは、優しくて良いご主人とめぐりあってこの日本での生活を一生懸命生きているからだと分かった。ルイ・アームストロングの名曲が心に浮かんだ。What a wonderful world! IT革命を経験した我々は、人類の史上はじめて、地球人という感覚を日々感じながら生きているのだ。30年以上前に初めて行ったロサンゼルスのディズニーランドでBank of Americaスポンサーによる建物が気に入った。あの音楽が聞こえてくる。It’s a small, small world. 世界の子供たちの人形が歌う世界だ。

 11月の文化の日の翌日からの3日間、山口百恵と水谷豊の住む中央線の郊外の学園都市である国立市は天下市と一橋祭に沸いていた。われこそは、21世紀を、前世期までとは全く異なる《向上心》と《和解》そして《寛容》を基調とし、《競争のための競争原理》と《自己満足》からの脱皮を実現するひとりとならんと欲するものである。「われは海の子、白波の」の歌とともに《ジョブズ世代》の一員として、駅伝の選手として美しく突っ走っていきたい。宮澤賢治の「雨にも負けず」の精神でもって大震災後の世の中に新時代の指導理念を創出したい。自分はこの激動の時代に日本男子たることに幸運を感じるものである。

 ”Stay hungry, stay foolish. It was their farewell message. I have always wished that for myself. And now as you graduate to begin anew, I wish that for you. Stay hungry, stay foolish. Thank you all, very much.”

 スピーチの最後に響くギターの音色を胸に今日も明日も明後日も前進していこう。

 

小田切英治郎 プロフィール

昭和30年5月、北九州生まれ。牡牛座、A型。横浜と横須賀育ち、県立横須賀高校から一橋大学で国際法を学ぶ。米国駐在を含めた金融機関勤務、中堅企業やベンチャーでの仕事を経て、文化や経営、社会や歴史を中心とする翻訳や日本語や英語での執筆に従事。 米国のビジネス論文、大手企業の週刊文化発信、米国の社会改革の論文等の和訳に加えて、バイリンガルのライフスタイル雑誌・ウェブサイト・ブローシャー等の日本語版制作にも携わる。 ラッセル、ドラッカー、ガルブレイスに目を通し、中島みゆきに耳を傾けると、城達也の声や、淀川長治の顔が浮かんできた。21世紀の地球は、地上の星が満天の星と対等に挨拶できるような星になってほしい。三権+メディア+金融の五権の分立を基本として、ペンは剣よりも金塊よりも歯切れよく、人は大海に向かって船出し、笑顔で戻ってくるのだ。

 

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11月 10 11

ソーシャルメディアの正体(第四回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.ソーシャルメディアでつぶやきに挑戦

 前回の傾聴、つまり「きき耳をたてる」ことと、つぶやきの大きな違いは、ソーシャルメディアに参加している生活者や更につながっている生活者を含めた不特定多数に対するアクションであることだ。企業が取るアクションであるからリアクションもあるし、つぶやきに対するリアクションに責任を持つ必要も出てくる。

 ここでは、つぶやき、更に対話への戦略を考える前に、通常の企業の情報発信を考えておこう。というのは、一足飛びに顧客への対話に進む前に、従来の情報発信との違いを知ることだ。現段階で課題を抱きながら、対話戦略を取ることにリスクを伴うことを知っておこう。

2.情報発信の目的は?

 一般に、企業が情報発信する媒体(メディア)として、自営メディア、購入メディア、ソーシャルメディアがあると言われる。ソーシャルメディアは、すでに紹介しているので省くと、自営メディアは、広報部門や宣伝部門が所轄し、自ら情報を提供する。商品発表のプレスリリース等がこれに当たる。一方、同じ所轄部門でも広告代理店なども含めて企画をねり、自社ではメディア自身を持たずに、商品情報など情報の中身(コンテンツ)だけを提供し、出稿料を支払う購入メディアがある。

 さて、気付くべきは、自営や購入メディアは、自社からの一方的な情報発信であること。言い換えれば、生活者のニーズによって、受け入れが決まり、情報発信の良否が決まる。すでに購入した生活者なら、新製品の広告をしても、タイミングが悪かった、と悔いる情報になるし、未購入者で興味がなければ、騒々しいだけのものかもしれない。

 そこで、明確にすべきは、商品のを伝えたいのかということである。こう訊ねれば、経営者の誰しもが、「それは商品の良さ」と答えるかもしれない。しかし、本当に「良さ」が、とことんまで追求されているだろうか?また、それが今までの情報発信で明確に伝えられているだろうか?

 さらに、ソーシャルメディアにつぶやく前の点検として、以下の問いに答えていただきたい。

自社は社会の何に貢献しているのか。その価値を具体的にあげてみよう。

お客様にどのように貢献するのか。具体的なアクションをあげてみよう。

お客様も含め、取引先や仕入れ先、納入先や販売店など自社の関係者に、商品を通じて自社はどのように貢献しているか。

言行一致が約束できるか。一部が全体、全体が一部の代弁者となりうるか。

生活者(購入者とは限らない)と具体的に誰がどんな手段でどのように対話するのか。商品の開発、製造、物流、マーケティング・販売、サポートの各部門で、誰がどのように生活者の目線で対話ができるか。

 

 さて、これらの回答は、自社の対話戦略の設計図になりうる。なぜなら、これらが明確になった時、初めて、一方通行の情報発信に終始した自社が、一歩前に出るチャレンジの準備になるからだ。つぶやきのよる責任やアクションに対するリスクはある。しかし、ここで手に入る果実は、お客様の生の声という、自社のどの部門も喉から手が出るほど欲しい情報である。

3.対話へのいざない

 傾聴戦略が基本であることは、前回のべた。リスク管理は先ずは傾聴した情報から、上記の5つのポイントを明確にして、「小さく始めて、大きく育てる」戦略で進めよう。

 自営や購入メディアとは異なり、ソーシャルメディアは、自社を取り囲むファン候補が核になることが多い。ファン候補を本当のファンとして自社と対話してくれれば、ソーシャルメディアに期待する口コミやブランドの強化も可能となる。それでは、自社のファンを見つけ、活性化するにはどうすればよいのだろうか?

 基本的には、ツイッターやフェイスブック、MIXIのようなソーシャルメディア自身に自社のファンを見つけ、活性化する機能はない。これを見誤ってはいけない。あくまでも自社の方で、ファン化を進める準備することになる。その第一歩が、自社の人格力を代表する経営指針やお客様から見た自社商品の「良さ」を整理し、対話を行う現場に理解されていることである。全く常識的なことだと思われるであろうが、対話が進んだときに、この理解があやふやで不十分あれば、上記の(4)言行一致が約束されなくなる。そこでもう対話は途切れてしまう。

 現場の各部門で対話を行う担当であれば、是非読んでほしい参考図書が、『生協の白石さん』(白石 昌則著、講談社)である。単なる売り手でない白石さんのウィットにとんだメッセージから多くのヒントが得られるはずだ。

 準備ができたら、現場の対話担当が自ら対話を「体験」すること。そして、社内で情報を共有すること。傾聴した内容と突き合わせて分析すること。そして、アクションも共有した社内のメンバの協議の上、出来るだけ速く進めること。ここから先はPDCAサイクルだ。

 対話戦略に定石はない。しかし、自社「ならでは」のお客様との対話が身に付けば、ソーシャルメディアが自分たちのコントロールできるものではなく、むしろ、自社を知って身を投じる必要があることに気付くだろう。

次回の予告:
次回の予告:次回は、「ソーシャルメディアの光と影」と題して「リスク管理とソーシャルメディア・マーケティング」を解説する。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

11月 10 11

「レッドライト」 (連載第8回) ヨコハマで殺して

by staff


中華街の外人バーの生き残り「ノーザンライト」の店内。昨年取り壊された。

 アメリカ人ジャーナリストで、英語教師でもあるバーリット・セービン(Burritt Sabin)氏は、フリゲート艦の乗組員として1975年に横浜にやって来た。来日当初は米軍横須賀基地の一兵卒で、新山下にあった米軍独身寮(ベイサイド・コート)暮らし。元町のパブや中華街のジャズバーで日本語を覚えたという。

 そんなセービン氏が、横浜を舞台にしたとっておきの洋書を紹介してくれた。アール・ノーマン (Earl Norman) 作 “Kill Me in Yokohama”。ヨコハマで殺して。すごいタイトルだ。

 この本は1960年代に出回った「Kill Meシリーズ」という、日本を舞台にしたペーパーバックのミステリーシリーズのひとつだ。タイトルが「Kill Me」ではじまる一連のシリーズなので、こう呼ばれている。 翻訳家の宮脇孝雄氏によると、以前は古本屋によく転がっていたが、だいたい米軍払い下げのスタンプか押してあったそうである。つまり読者の大半は、日本にきた若いアメリカ兵だったのだ。彼らは日本での短い休暇を有意義に過ごそうと、ガイドブックの代わりに、「Kill Me シリーズ」を読みあさった。朝鮮戦争やベトナム戦争のさなか、外国人に受けた日本ものの小説は、こういう観光小説だった。

 作者の アール・ノーマンはハリウッドのスタントマン上がりで、本名はノーマン・トムスン(Norman Thomson) という。映画『黒船』(1958年)などでジョン・ウェインの吹き替えをしていたそうだ。日本には30年ほど住んでいて、座間や横田の米軍基地でエンタテインメント部門の仕事をしていた。

 ノーマンが生み出したヒーローは、バーンズ・バニオン(Burns Bannion) という私立探偵で空手の達人だった。第一作が発表された頃、日本では力道山が空手チョップで「悪人外人レスラーたち」をのしていたのだから、なんだか妙な感じである。バニオンは GI 崩れにふさわしいタフガイで、作品にはかならずボンドガールのような「ベイビードール」 たちが登場した。

 ”Kill Me in Yokohama”は国際都市だった横浜らしく、登場人物も多国籍で B級スパイ小説的な趣がある。31ページから描かれる中華街の外人バーの様子など、興味深い記述が散見されるので、日本語化したらコアなファンを獲得できるかも知れない。

「Kill me シリーズ」一覧
  —Berkeley Medallion—
Kill Me in Tokyo (1958)
Kill Me in Shimbashi (1959)
Kill Me in Yokohama (1960)
Kill Me in Yoshiwara (1961)
Kill Me in Shinjunku (1961)
Kill Me in Atami (1962)
Kill Me on the Ginza (1962)
  —Erle Publishing Corp—
Kill Me In Yokosuka (1966)
Kill Me in Roppongi (1967)

 その後、ノーマンは「Kill me シリーズ」を中断し、9年間の休眠期間に入った。そして1976年、長い沈黙を破るようにして、「リック・ショウ(Rick Shaw)・シリーズ」を開始した。リックの冒険は、”Hang me in Hong Kong”(1976) 、”Bang Me in Bangkok”、 “Maul Me in Malaysia”、そして”Club Me in Cambodia”で楽しむことが出来る。

 とはいえ、やはり彼の代表作は Berkeley Medallion から出版にしていた時期の「Kill me シリーズ」だ。青年時代、極東で戦ったアメリカの退役軍人のなかには、このシリーズのことをよく覚えていて、なつかしむ者もすくなくないという。青春時代の思い出は日本とともに……。日本人が感じるのとはひと味違う昭和のノスタルジーが、誰にも気づかれることなく、この国に沈殿していたのだ。

 バニオンが活躍したのは、1ドルが360円で首都圏一円に「小さなアメリカ」が広がっている世界だった。しかしタフな探偵や読者である米兵たちが世話になった米軍施設は、ことごとく閉鎖されてしまった。今訪れても区画が完全に変わってしまい、思い出の地を探り当てるのは困難だ。跡地の多くは、現在ショッピングセンターや公園になっている。

 この本を教えてくれたセービン氏は言う。
 「私は軍に所属していたとき、この小説のことをぜんぜん知りませんでした。でも私の友人が”Kill Me in Yokohama”のようなパルプ・フィクションのコレクターで、私が横浜に興味があるということから”Kill Me in Yokohama”のカバーを贈ってくれたのです。私は作者のことは知りませんが、友人は会ったことがあるかも知れません。」

 「Kill me シリーズ」のようなパルプ・フィクションは低級な読み捨て娯楽小説である。全盛期は20世紀初頭から1950年代にかけて。よほどの年寄りでない限り、知らないのも無理はない。

 英語圏の掲示板を徘徊していると、在日米軍基地のなかに存在していた学校の卒業生が、東京や横浜を再訪し、母校の跡地見学の報告や情報交換をしている模様に出くわすことがある(*註)。彼らの 「故郷」は跡形もない。だが、あのなつかしい世界は、ノーマンの小説をめくれば、追体験できる。

 作者であるノーマンは2000年にカリフォルニアで亡くなった。彼の作品は、ひとつも翻訳されていない。

*註)
1970年代に横浜の米軍基地で暮らした人たちのやりとりを読むことが出来る BBS の一例 ”Yokohama Navy Exchange was where?”
http://www.japan-guide.com/forum/quereadisplay.html?2+6789

 

 

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

”Kill Me in Yokohama” その1

 

”Kill Me in Yokohama” その2

 

シリーズ第一作”Kill Me in Tokyo” 表紙

 

”Kill Me in Tokyo” 裏表紙

 

檀原照和 プロフィール

1970年、東京生まれ。埼玉県立松山高校卒業後、法政大学で元横浜市役所企画調整局長の田村明ゼミに入り、まちづくりの概念を学ぶ。その後大野一雄、笠井叡、山田せつ子などにダンスを学び舞台活動に参加。2006年、「ヴードゥー大全」の出版を機に執筆活動を始める。他の著作に「消えた横浜娼婦たち」(2009 年)

ヨコハマNOW関連記事

大文字では表せない小文字の横浜の歴史「裏横浜研究会」。ノンフィクション作家檀原照和さん

 

11月 10 11

11月 三ツ池だより 「薄(すすき)をかざしけり」

by staff
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 11月は霜月です。例年よりは暖かいのですが、時に少し肌寒く感じます。そのくらい今年の夏は暑く、その後の気候も安定していません。庭には杜鵑が咲き乱れ、小ぶりですが鉢の菊が咲きだしています。玄関の横の侘助もふたつほど咲いています。これも小ぶりです。

 11月といえば「1」が二つ並んでいます。「禅シンプル発想術」枡野俊明著の中に「1日なさざれば、1日食らわず」という所がでてきます。「何のために働くのか」という項に出てきます。「自らが為すべきことを行わなければ、その分食事をしない」という労働も坐禅と同じ修行のひとつだという考え方のようです。

 社内で「何のために働くのか」を話し合ったことがあります。何故食べるの→何故生きるの→何故家族がいるの。なぜなぜなぜを続けるなかで「役に立ちたい」というキーワードが出てきました。人生が豊かになる”禅、シンプル片づけ術”で枡野さんはいいます。「まず、自分でもできると思えることから始めてみましょう。大切なのは、一時的に部屋をきれいにして満足することではなく、続けることなのです。」シンプルに考え、続けていくことの大切さを感じます。

 1はスタート。そのスタートが2つ並んだ月はもう1度スタートを見直す時です。
 そこで思いました。今年の初めにやろうと誓ったことで、続けてきたこと、できたことはどれだけあったのだろうかと。1月3日のノートから41項目でてきて、なんとか20項目やっていました。それでも50%を切っています。そのなかで続いていることに俳句があります。師匠の俳句に触れてみたいと思います。

 握手主宰磯貝碧蹄館の平成15年発行の句集「馬頭琴」からです。

天竺の空のあやしきどじょう鍋   磯貝碧蹄館

 今この句が出たらどんな評価がでるのでしょう。天竺が出てくるところが面白いところです。天竺だって空があやしくなる時があります。いつも晴れて乾燥しているとは限らないのです。どじょう鍋の絵柄がそれを受けています。美味しいどじょう鍋だけを思い描いていると、こういう句は現れません。ここで考えてみたいのは天竺とどじょう鍋の関係です。たかが「どじょう」されど「どじょう」です。師は「どじょう」の行く末を案じています。どじょうも、それを食する人も天竺を見据え、来る未来を、確かなものに願っているのです。師はその情景の前で照れています。いかにも道化師のように。

石門石鼓鬼女は薄を挿頭しけり   磯貝碧蹄館

 馬頭琴の中におさめられている句です。「挿頭しけり」は「かざしけり」と読みます。なんとも不思議な句です。「すすき」に込められた想いはどのようなものなのでしょう。以前「すすき」は寂しいものと感じていました。急速に葉の落ちる季節に入っていくからなのか、文字からくるのか。それが、孫がくるようになってお月見に薄を飾るようになってから薄が好きになりました。秋の味覚をお盆に載せます。その花と一緒に飾られた薄の向こうに月と雲が見えるのです。見ているのは家族みんななのです。

薄の穂揺れて小さき手握りしめ   詢

手を解き距離の広がる薊かな    詢

 師の薄は晩秋の景であるとおもいます。鬼女もかざしたいのです。苦楽を越えて生きていた証はなにも見えません。しかしながら歩みが今なのです。自分の存在を確かめたいのです。ふとすすきに手が届きそれをかざしたのです。途上にある私は、手を握りしめる確かな生きざまの所にあり、薊のなかに痛みを感じるのも生きている証しなのです。
 山茶花がさきはじめ、私には「たきび」の童謡が聞こえてきます。

「かきねのかきねのまがりかど  たきびだたきびだおちばたき
あたろうかあたろうよ       きたかぜぴいぷうふいている
さざんかさざんかさいたみち   たきびだたきびだおちばたき
あたろうかあたろうよ        しもやけおててがもうかゆい」

 日本の原風景はまだまだ探せばあると思います。しかし横浜にはなくなってしまったのではないでしょうか。なくなってしまった原風景を取り戻すということではなく、自然の風景そして子どもたち、そこを見守る大人たちといった、苦労しても安心して生活していることの、なんとも穏やかでほっとする光景。それを創り出していくことが必要なのです。やらなくてはいけないことであり、行動を急がなければいけないのです。

 11月は霜月です。今一度霜月を大きな楽しみの月にしたいと思います。

 

Photos

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(文・写真:横須賀 健治)

 

11月 10 11

横浜舶来館 ワイン&グルメフェア
同時開催:佐々木 彬文画伯 日本画展

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開催日時: 11月19日(土)~20日(日) 11時~

イベント詳細は、ワインブティック伏見HPまで http://winecom.jp/

 

11月 10 11

書評「日本企業にいま大切なこと」PHP新書  野中郁次郎/遠藤功 著

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書評「日本企業にいま大切なこと」PHP新書  野中郁次郎/遠藤功 著  

 「日本に欧米型のリーダーはなじまない。現場から遊離したカリスマ性など不要なのだ。逆に必要になるのは、民の国であり、現場の国だからこそ、民や部下から慕われ、尊敬される資質であり、言動である」ここに言わんとすることが集約している。著者の野中さんは長年海外にも指導にいかれ、世界的経営学者である。遠藤さんは「見える化」や「現場力を鍛える」に見られる現場に精通した経営戦略家である。

 リアリズムなき日本政治は「失敗の本質」を繰り返すといい、イデオロギーがもたらす単眼思考を戒めている。中国の今の急成長を「マルキシズムの思想と資本主義の手法をプラグマティックに現実に適応させた結果」と位置付けている。プラグマティズムは実用主義のこと。国家の枠を超えて知を結集し、収束にあたるべき原発事故において、IAEAをはじめとする世界は、

日本に不審の目を向けた。必要な時に必要な人脈をもっていることこそが政治のリアリズムであると論じる。経験がないから手が打てないではなにごとも始まらない。

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