第二回 『オッペケペー節』『横浜市歌』 ヨコハマドリームに満ち溢れた明治時代
横浜山手の事始め
歌でつづる横浜の歴史第二回です。 西洋文化がもたらした横浜山手の事始めは50を超えると言われています。そのうち私にとって代表的な3つを挙げてみます。まずビール。1870年(明治3年)、山手の湧水を利用してウィリアム・コープランドが、ビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」を開業しました。これは現在の麒麟麦酒株式会社につながっています。 二番目がテニス。日本で最初の様式公園でもある山手公園にテニスコートが作られました。1874年(明治7年)にイギリスでローンテニスが始まり、その2年後の1876年(明治9年)には山手公園で初めてテニスが行われています。山手公園には、ウィンブルドン選手権が始まった翌年(1878年)にできた歴史のあるテニスクラブがあります。 そしてヒマラヤ杉です。ヒマラヤ杉はブルックが、苗木をインドのカルカッタから、取り寄せて移植したのが始まりです。まっすぐ大きく育つヒマラヤ杉はヨコハマ山手付近だけでなく全国各地で見られますね。 心に自由の種をまけ横浜山手に西洋文化が入ってきたときの世相はどうなっていたのでしょうか。 慶応3年(1867年)、徳川幕府15代将軍慶喜が大政奉還して、翌年から明治時代となりました。いわゆる明治維新です。幕末から明治にかけて、世の中はめまぐるしく変化していきます。250年の鎖国の遅れを取り戻すべく、日本中が欧米並みの近代国家を目指してまっしぐらでした。「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」。明治政府は明治4年、断髪令を発令して、チョンマゲや帯刀はご法度。欧米並みの制度にどんどん変えていきます。そして日常の暮らしぶりにまで何かと干渉していったのです。ペリーが横浜にやって来たときに、一番驚いたという既婚婦人のお歯黒や男女混浴の習慣にもこの頃、禁止令が出ました。 明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が発布されますが、これは欽定憲法であり、国民の意思が反映されたものではありませんでした。国民の自由が制限されてゆく中で、川上音二郎(1864年~1911)という血気盛んな壮士は、自ら芝居の一座を興し、その幕間で強烈な政府攻撃を行いました。彼は関東での旗揚げに、この横浜の地を選びました。伊勢佐木町1丁目あたりにあった「蔦座」という芝居小屋がその場所だと言われています。明治23年(1890年)のことでした。 |
音二郎の人を食ったような口調で演ずる「オッペケペー節」の自由民権思想の口上は、庶民にヤンヤの喝采を受けたのです。うわべだけの文明開化風俗などを強烈に風刺しながら、「心に自由の種をまけ」とやったのです。横浜のリベラルな風土は、こんな歌を熱狂的に受け入れて、やがて「オッペケペー節」は全国に広まっていったのでした。
オッペケペー歌 (川上音二郎 作詞 作曲者 不詳) 亭主の職業は知らないが おつむは当世の束髪で 権利幸福きらいな人に 自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい |
川上音二郎 1864(文久4)年~1911(明治44)年 「オッペケペー歌」の一部をお聴きください Audio clip: Adobe Flash Player (version 9 or above) is required to play this audio clip. Download the latest version here. You also need to have JavaScript enabled in your browser. |
横浜市民意識の高まりと開港50周年の記念事業
明治政府は政治の近代化を求める自由民権運動には圧迫を加える一方で、「総選挙の実施明23年(1890年)で近代化を図りますが、これも選挙権は25歳以上で高額所得の男子に限るなどの厳しい制約がありました。近代国家の体裁と中身には大きな隔たりがあり、真の自由と平等を求める自由民権運動はその後も根強く進められていきます。
横浜の市制が敷かれたのもちょうどこの頃、明治22年(1889年)のことです。当時の面積は5.4平方キロメートルで今の西区より狭く、人口は12万人でした。規模は小さかったのですが、人口密度は360万が住む今の横浜市の3倍もありました。日本全国から「ヨコハマ・ドリーム」を求めて多くの人たちが集まってきていたのです。一旗あげたい人が続々と集まってきた当時の横浜市民のエネルギーは凄かったでしょうね。
明治42年(1909年)には、横浜開港50周年にあたるということで、この年に市のマーク「市章」と市の歌「市歌」が制定されました。
市章は市民から募集して作られたものです。当時の横浜市職員の応募作が採用されました。ハマの2字をデザインしたもので「浜菱マーク」と言われています。今でもマンホールの蓋で見ることができます。 |
横浜市歌の作詞は皆様よくご存じの明治の文豪、森鴎外(森林太郎)です。作曲は東京音楽大学助教授だった南能衛(よしえ)です。当時の5代目市長の三橋信方さんが直接、森鴎外に作詞を依頼したと言われています。まず曲が先に完成してそれに森鴎外が詩をつけました。
横浜市歌 (作詞:森鴎外 作曲:南能衛) わが日の本は島国よ (わがひのもとはしまぐによ) されば港の数多かれど (さればみなとのかずおおかれど) 今はもも舟もも千舟 (いまはももふねももちふね) |
「横浜市歌」をお聴きください Audio clip: Adobe Flash Player (version 9 or above) is required to play this audio clip. Download the latest version here. You also need to have JavaScript enabled in your browser. |
この市歌は今でも市立の小学校で歌唱指導されていて、開港記念日(6月2日)や卒業式、市大会などの行事で、演奏・斉唱されています。横浜で生まれ育った人は、小学生から高齢者まで誰でも市歌を口ずさむことができます。日本では類を見ない実に100年以上にわたって歌い継がれているまさに「100年市歌」です。
この歌で注目すべきことは、誇るべき港横浜の繁栄ぶりと共に開港前夜の横浜村の姿が描かれていることです。「~昔思えば苫屋の煙り、ちらりほらりと立てりし処~」の部分に象徴されます。もし1853年にペリー率いる黒船の来航がなかったなら、風光明媚な横浜村が開港場に選ばれることもなかったでしょうし、今の横浜もなかったでしょう。
開港50周年で忘れてはならないのは、開港記念会館が建設されたことですね。 開港記念会館は、現在も横浜市の公会堂として多くの市民に利用されています。 このように開港50周年の記念事業で行われたことは、今でも私たちの生活の中で息づいています。昨年の開港150周年と比べるとその違いがわかりますね。(笑) |
吹奏楽と国歌「君が代」の発祥も横浜
ところで、吹奏楽と国歌「君が代」の発祥も横浜なのですよ。 日本人によって初めて吹奏楽の演奏が行われたのは明治2年(1869年)です。薩摩藩の青年30名が横浜に派遣され、山手のわきにある妙香寺に合宿してイギリス陸軍軍楽隊長フェントンの指導を受けたのが始まりと言われています。 薩摩藩軍楽隊はめきめきと腕をあげ、翌年には完成したばかりの日本初の洋式公園であった山手公園の野外音楽堂で演奏会を行ったのです。 フェントンは明治政府に国歌の制定を進言し、その作曲を引き受けました。歌詞は、薩摩琵琶歌「蓬莱山」の一節「君が代は--」の部分を引用したものです。「君が代」は編曲が繰り返され、1880年(明治13年)に国家として公に披露されました。 妙香寺の境内には「日本吹奏楽発祥の地」と「君が代由緒地」の碑が建っています。毎年9月15日には本堂で吹奏楽の演奏会を行っています。 |
ヨコハマ・ドリームに溢れる街
開港50周年当時は、ヨコハマで一旗揚げようという「ヨコハマ・ドリーム」があふれていました。その当時の横浜市民の心意気や気概を今こそ見習いたいですね。 さて、時代は横浜港が世界に名前をとどろかせた大正に移っていきます。 |
参考サイト
ヨコハマNOW 動画
新横浜公園ランニングパークの紹介動画 | ||
ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。 |
横浜中華街 市場通りの夕景 | ||
横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。 |
Comments are closed.