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書評 「たちどまって考える」 中公新書ラクレ ヤマザキマリ(著)

by staff on 2021/3/10, 水曜日
 
タイトル たちどまって考える
新書 256ページ
出版社 中央公論新社
ISBN-10 4121506995
ISBN-13 978-4121506993
発売日 2020/9/8
購入 たちどまって考える (中公新書ラクレ)

著者のヤマザキマリさんは漫画家であり文筆家とあった。行きつけの本屋さんで「たちどまって考える」の本の内容紹介を読んで、この本に取組みたいと思った。「パンデミックを前に動きを止めた社会。世界を駆ける漫画家・ヤマザキマリもこれほど長期間家に閉じこもり、自分や社会と向き合ったのは初めてだった。しかしその結果“たちどまることが実は必要だったかもしれない”という想いにたどり着く。ペストからルネッサンスが開花したようにまた何かが生れる?混沌とした日々を生き抜くのに必要なものとは?自分の頭で考え、自分の足でボーダーを超えて。あなただけの人生を進め!」そしてはじめにでつぎのように語る。「その景色の先にみえてきたあれこれは、不確実で、不条理な毎日を過ごすことになるかもしれない現在の私たちにとって、きっと支えにもなってくれるはずです。また歩き始める、その日のために。」

第1章の「たちどまった私と見えてきた世界」で「3月8日にイタリア北部で個人の移動が制限される首相令が出て、前月までカーニバルだったベェネツィアが封鎖されたことには、驚きました。」「世界中から集まっていた観光客たちは皆ベェネツィアから立ち去るを得なくなり、この時期人でごった返しているサン・マルコ広場はほぼ無人状態になりました。だれもいなくなったのはヴェネツィアだけでなく、フィレンツェのシニョリーア広場も、ミラノのドゥオーモ広場も同じです。レストランやバールなどもすべて絞められ、開いているのは病院と薬局、そしてスーパーマーケットなどの食料品店のみのという徹底ぶりです。法の強制力があるとはいえ、普通はてんでんバラバラに好き勝手なことをしているイタリア人たちが、都市封鎖という行動の自由に制限をかける施策に従っていました。」「そのイタリアの本気度に驚いたことを夫との電話の際に告げたら、“何を言ってるのさ、人の命のほうが優先されるのは当然じゃないか”と即座に返ってきました。“とにかく、命さえあれば復興出来る。歴史もそれを証明している”と答える声に戸惑いはありません。」イタリアの家族たちはよくチャットしあっているようです。

「パンデミックが比較して見せたリーダーの姿」で、各国のリーダーたちの姿も、いつになく浮彫になりました、と演説の素晴らしさという点でつぎのような例を出されます。「欧州のリーダーに必須だとされるのは、自分の言葉で民衆に響く演説ができるかどうかですが、その点において素晴らしかったのが3月18日、ドイツのメルケル首相が国民に対し、新型コロナウイルス対策への理解と協力を呼びかけたテレビ演説です。テレビの前にいるであろう、一人ひとりの目を見据えているかのように、彼女が落ち着いた面持ちで語ったその言葉は、感染が広がるなか未知のウイルスに対して不安を抱える人たちが求めていた“安心感”をまさに与えるものでした。その訴求力たるや、ドイツ国民ではない日本の人たちまでもが絶賛し、全文を翻訳したものがSNSで拡散されたほどでした。」政治家たちがもつ言葉の力。その背景には、弁償力こそ民主主義の軸と捉える古代ギリシャ・ローマから続く教育がゆるぎなく根付いていると感じられる、と言われます。そしてつぎのように語られます。「リーダーが民衆に届く言葉を備えられるかどうかは、自分の頭で考えた言葉として、人々に発信できているかどうか。“言わされている”言葉には、人に届くのに必要なエネルギーが発生しません。」と述べている。

第2章の「パンデミックとイタリアの事情」で「なぜイタリア人はマスクをきらうのか」を述べている。そして「イタリアでは“ソーシャルディスタンスは1メートルで”とされています。おそらく、その距離が彼らにとっての限界ギリギリの線なのだろうと思います。イタリア人たちは相手の顔を見ながら近くでしゃべりたいのです。そうでなければ彼らのコミュニケーションは成立しません。それを精一杯我慢しての“1メートルイ”なわけです。」イタリアは紀元前165年や紀元前250年には天然痘が、17世紀には北イタリアでペストが発生していたと言われます。「今までだってこういうことは何度もあった。幾度もくりかえされてきたパンデミックを超えてきた人々の末裔がつまり俺たちであり、こうして生き残ってきたDNAがあるかぎり、のりこえてられないわけはないと思うんだよね。」「その根拠として引き合いに出されるのが、過去です。歴史のなかに記録として、残されているもの、また絵画のなかに描き留められているもの。それらをすべてを踏まえたうえで、“生き残っている俺たち”という自信が舅のなかに確率されているんだと思います。」

「世界のなかでいち早く北イタリアで感染が爆発した背景には、中国との経済的な関係の深さがあることを先にお話ししました。イタリア人たちがこのことで中国に恨みのような感情を特別抱いている気配はない、と話すと、日本人は“そんなはずはなかろう”と驚きます。今のイタリアにとって、中国との経済的な結びつきはなくてはならないものです。また中国にとっても、イタリアはそれなりに重要な取引相手。そうした関係性もあり、イタリアが今回のパンデミックによって医療崩壊に陥ったとき、中国からは医療機器などの提供とともに医療支援団が派遣されてきました。」古代ローマ崩壊後、分裂国家になってからも、フランスやイギリスやスペインのように自分たちが他国を侵略してきた経験よりも、されてきた経験のほうが圧倒的に多い土地ですから、経済面での干渉にもメリットがありさえすれば、特別虚勢をはるようには思えません、彼らには、金銭にはかえられない、確固たる歴史と文化へのプライドがあるからかもしれないと語られます。「イタリアでは社会でも家庭内でも、歴史が引き合いに出される機会がとても多いのです。だから今だけを見る短絡的な視点から右往左往してパニックを引き起こすのでなく、“そう言えば過去に周辺の民族が押し寄せてきた時代もあったな”“経済的なダメージが起きたときは、こういう現象がおこりえるな”と、時の流れや出来事の推移を長い目で見られるのだと思います。」

第3章の「たちどまってかんがえたこと」で「人間にとって最終的に頼りになるのは、自分自身以外にありません。自分の人生に対する答えを出せるのも、その本人でしかありません。だからこそ自らを見据え、鍛え、頼りがいのある自分を私たちはつくっていかねばならない。他者との交流に制限がかかるパンデミックの時代に、私たちは自身と向き合い、自分を逞しくする、いいきっかけをあたえられているのかもしれませんね。」本を読んでいても、自分のなかでの思考の細胞分裂の活発さが、コロナ以前よりもずっと増している、と言われます。

「昆虫好きの私の家には、カブトムシの幼虫が53匹います。私が飼育しているのですが、カブトムシは幼虫である時期のほうが成虫として生きる時間よりも長い。幼虫の間にいい土を食べ、丸々と太り、そして強靭なカブトムシへと成長していくんですね。その幼虫たちを見ていると、このパンデミックの時期を土中での成長期として捉えてみるのも、一つの考え方ではないかと思えてきます。パンデミックの先がどんな世界につながるかは、私たちの意識次第です。しかし今のこの時期は成虫になる前の準備段階であり、14世紀イタリアのルネッサンスや戦後の日本のように文化が開花するための熟成期間にだってなりえるのです。」「耳の痛いことを避けず面倒なことからも目を逸らさず、この時期をいかに過ごすかによって未来はかわってくる。一人ひとりがルネサンスを起こさせるかの岐路に、今、私たちは立っているのかもしれません。」

第4章の「パンデミックと日本の事情」で日本語の飛沫リスクを語っています。「日本人は欧米人と比べると小さな声で静かに話す人が多いようですし、私は普段イタリア語と日本語、ときどきポルトガル語と英語を使いますが、それらを比較してみると、日本語の発音自体、飛沫を飛ばしにくいもののように感じます。破裂音や濁音など、言語の音には種類がありますが、海外の人に“日本語はどう聞こえますか”と尋ねたところ、“はひふへほ”の音がとても印象的なのだそうです。フランス語などでもそうですが、イタリア語には“H”の音がありません。そしてこの“はひふへほ”、唾がほぼとびません。でも“ぱぴぷぺぽ”と破裂音になると飛沫がでるのです。」

「日本美術の疫病と民主主義」の項で、日本の疫病は日本の美術でどう描かれているかを語っています。NHKの日曜美術館の放送から「残虐に人を殺す死に神と、人間と対等にネゴシエーションをして納得する妖怪。面白い対比ですよね。その妖怪の姿を見ながら、日本における疫病は森羅万象の一つで、その蔓延は自然の現象としてとらえられていたことが見えてきました。天災大国の日本では、じつは疫病に対してもむやみに争うものでない、という感覚が、人々の意識の奥底にあるのではないか。妖怪たちの絵巻と日本における新型コロナの向き合い方を考えると、どうもそんな気にもなってきます。パンデミックが始まって以来、躊躇なく竹を割ったようにまっすぐにな対策を断行する国がある一方、日本政府の足取りは定まりきらず、進め方が遅く、決定事項の背景は不透明だし、融通が利かないようにも見える。」「果たして、西洋式の民主主義は日本に向いているのだろうか。言うまでもなく日本は民主制の国ですが、その体制のなかで政府が行おうとする感染予防対策に、どうしても不自然さと違和感を覚えてしまうのです。」

第5章の「また歩く、その日のために」での「日本を見る、日本人を知る」で次のように言われます。「ここまで書いてきて感じているのは、日本はもしかすると、成熟すること自体に興味がない国なのかもしれない、と言うことです。日本へやってきた多くの外国人がかって覚えた印象通り、無邪気で天真爛漫で、ときどき背伸びを楽しみたいだけの国なのかもしれない。」「だとしても、世界的な先進国の基準にあわせたいという必要性があるのなら、時々でも俯瞰で、自分たちの生きる国にどういう特徴があり、どんな歴史をたどってきたのか、そして私たち日本人はどういう民族でどんな性質をもっているのか、振り返った方がいい。過去の失敗も欠点も反省点も踏まえたうえで、文化人類学的な視点も借りながら客観的に見直す目を、もっと養ってもいいような気もします。」

「もう一人の自分とオーケストラ」で「先ほど、ストレスをため込んで爆発しそうになったら、情動から自分を引きはがせばいいという話をしました。うちなる自分と外側の自分を分離させるのは、苦境を乗り切る一つのテクニックです。つまり、自らを観察するもう一人の自分の感覚を持つ。そうすると、自らの言動を客観的に、冷静に見ることができる。そして生まれた冷静な自分は、意外と頼りがいがあったりするのです。人間は群棲の生き物ではあるけれど、ムクドリやイワシの群れのようにいきているわけではありません。阻害されないように、村八分にされないように、と群れから完全に分離されることを恐れつつも、私たちは皆個人であり、考え方も生き方もバラバラです。」いつまでも個人としての自由や判断を押さえて、群れに身を委ねたまま生活していれば、たちまちそこにいる全員が感染し、死をもたらすことにもなりかねない新型コロナウイルスの蔓延。それは、自分たち人間の習性や性質、世界の在り方、そして未来へのビジョンなど、今までなら深く考えもしなかったような、強く生き抜いていくためのあらゆることを我々に問いかけている気がしています、と著者は結んでいます。

(文:横須賀 健治)

 

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