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しあわせの「コツ」(第51回) 「感性」の国、日本

by staff on 2021/3/10, 水曜日

第51回 「感性」の国、日本

やちや酒造杜氏 山岸昭治さん

金沢市に「やちや酒造」という加賀藩前田家御用達の酒藏があります。有名な「加賀鶴」を製造している創業400年を超える酒蔵で、私の会社の装置を使ってくださっています。そんな伝統ある老舗の酒蔵とご縁ができているのはとてもありがたいことですが、今回書かせていただくのはその話ではありません。

杜氏の山岸昭治さんのことです。

何といっても酒は水が命。杜氏は、いわば「水のソムリエ」です。「加賀鶴」は地元の医王山の伏流水を使っていますが、季節や気候によって微妙に変わる水の味を見極め、400年間変わらぬ味を維持しています。杜氏の山岸さんは独特のやり方で水を口に含み、まるで玉を転がすように口の中で水を転がします。外からは窺い知れぬやり方で五感のすべてを口の中の水に集中させ、その水がどんな水かを見極めます。能登杜氏四天王の一人、杜氏歴21年の山岸さんの舌は、味覚センサーでは分析しきれない微妙な水の特徴が分かるのです。まさに「酒の匠」といったところです。

清酒「加賀鶴」と「前田利光公」のラベル

酒蔵に限らず、日本の「職人」と呼ばれる人々には、高度な技術を裏打ちする「磨き抜かれた感性」がありました。ただ技術がうまいだけではいい職人になれません。技術の背後にある「感性」を磨くことで、技術のレベルも向上していくのです。

大工、左官、指物師、染物師、板前、等々すべての「職人」は、木や水や食べ物など、自然のものと向き合い、それとの対話を通じて作品を仕上げていきました。そのために五感を研ぎ澄まし、鋭く豊かな感性を育んでいったのです。

というより、江戸期までの日本では、五感を研ぎ澄ますことは「大人のたしなみ」として、当然の事でした。日本在住の湿板写真家、エバレット・ケネディ・ブラウンさんによれば、今でも長野県の山奥に、きれいに花を生けられない男性は「成人」と認められない村があるそうです(エバレット・ケネディ・ブラウン著『失われゆく日本』p.134)。

エバレット・ケネディ・ブラウン著 「失われゆく日本」小学館

如何に「感性を磨くこと」が重要視されていたかが分かりますね。

歌道、茶道、華道、香道、およそ「道」とつくものは、そうした五感を磨き、自然の微細な変化にも反応できる身体感覚を鍛え、それを通して「感性を磨き上げる」ためのもので、単なる習い事ではありませんでした。その証拠に、生け花やお茶は、公家や武士など男性が身に着ける「大人のたしなみ」だったのです。歌を詠み、書をしたため、舞を修め、笛や鼓などの楽器を操り、花を生け、茶を点(た)てるーこうした芸事を、貴族だけなく、武士たちも嗜んでいたことに、かつての日本の文化の奥行きを感じないではいられません。武将たちはただの「戦士」ではなく、茶人であったり、歌人でもある「風流の人」だったのです。

「かえらじと かねて思えば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」

この和歌は、楠正行(くすのきまさつら)(楠木正成の嫡男)が最後の合戦に出陣する前に読んだ歌です。正行自身が吉野の如意輪堂の木の扉に矢じりで刻んだ歌で、今も残っています。以前夏休みに家族で当地を訪れ、流麗に刻まれた現物を見てきました。
この和歌を扉に残した後、散華したのだなぁ、と思うと、23歳で散った命に切なさを覚えると同時に、死を決意した瞬間まで和歌を詠める精神状態に感動してしまいました。正行だけでなく、ほとんどすべての武将が巧拙の違いはあれ、和歌を嗜んでいた当時の文化度に、ふと憧憬のような思いが生まれてきたのを覚えています。

楠正行像 飯盛山山頂 右手に筆、左手に短冊を持っている

「平家物語」に、平忠度(たいらのただのり)が都落ちする際に、「世が治まって、勅撰和歌集を編纂する時があれば、自分の歌を一首でも入れてください」と和歌をしたためた巻物を藤原俊成に託した逸話があります。

「さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」

勅勘を賜った忠度の和歌は、その後、名前を秘して「読み人しらず」として「千載集」に載せられていますが、それほどに武人が和歌にこだわっていたのです。

水の流れ、風の音、花の香り、鳥の鳴き声、月の明かり・・・。そうした微細な自然現象を理解する、繊細で、鋭くて、奥行きのある感性。それが身分の上下を超えて、日本人全体に共有されていたのでした。そして、その感性の元には、独特の自然観があったのです。
それは、自然に飲み込まれた形で一体になるのではなく、程よい距離感を保ちつつ、時には自然の一部をカスタマイズしながらかかわっていく。そんなかかわり方で「編集した自然」を日本人は愛でたのです。「花鳥風月」という表現は、まさにこの日本的に編集した自然にほかなりません。

「自然を編集する」。耳慣れない言葉かもしれませんが、日本人の自然とのかかわり方を一言で表すなら、こうとしか言えません。編集工学研究所を主宰する松岡正剛さんも、「日本とは何かを考えていった時、その独自性は歴史的建造物や伝統芸能にあるのではなく、自然の切り取り方、物事への接し方、という『方法』にこそ、その独自性がある」ということを仰っています。そこから松岡さんは「方法日本」というコンセプトを提示して、様々な角度から日本とは何かを研究されています。

松岡正剛氏

こうして独自に「編集された日本の自然」を味わい、その中に住まうには、それにふさわしい「感性」が必要になります。「感性」は誰にも備わっていますが、「編集された日本の自然」を感得し愛でるためには、より鋭く繊細になるような訓練が必要です。それが華道や茶道という、「道」とついた五感を磨くシステムだといえましょう。

私は、歌詠みに代表されるそんな感性にこそ、日本文化の神髄があると思っています。それを伝えない限り、いくら歴史的建造物や古典芸能を見せても、決して日本文化を世界に発信することはできないでしょう。それらは文化の表面にすぎません。日本の本当のありようはその奥にある「感性」なのです。

それは、匠と呼ばれる職人たちが体現していた、超五感の世界に触れてしまうほどに五感を磨きぬいた先に開ける世界にほかなりません。最新の高性能センサーでも測れないこの感性を、かつての日本人たちが共有していたことに、驚きを禁じえません。しかし、残念なことに、それこそが今の日本から失われているのではないでしょうか。

0.1ミリの狂いも許さない職人技 バット職人とわっぱ職人

最近、俳句がちょっとしたブームになっています。自然の光景の一瞬を切り取る俳句的感性は、日本人が連綿として持ち続けてきた上述の感性の復権を感じさせてくれます。柔らかで、繊細で、しかも鋭く、時として知的でさえある感性―実は、デジタル的な知の対極にあるこの日本的感性は、五感のないAIが決して獲得できない資質でもあります。なぜなら、感性は「今」に反応するもの、過去のデータの集積から導き出せるものではないからです。

五感を鍛え、磨く。AIに負けない道は、直観と感性の精度を上げることで開けてくるかもしれない、と本気で思うこの頃です。

筆者紹介

 
本 名 田尻 成美 (たじり しげみ)
略 歴 著述家・都市拡業株式会社取締役
著書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)
主な訳書「都市革命」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「空間と政治」(H・ルフェーブル著 晶文社)、
「文体論序説」(M・リファテール著 朝日出版社)
比較文化的視点から、日常の出来事をユーモアを交えて考察していきます。
著 書 「しあわせのコツ」(幻冬舎)



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