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私にとっての横浜は「Soul Place」です。
(株)五六(ふのぼり)代表取締役 平沼 五郎 成基さん

by staff on 2021/4/10, 土曜日

横浜市西区平沼はかつて平沼家が拓いた土地です。平沼家縁の施設は神奈川区三ツ沢町に、平沼記念体育館、三ツ沢総合競技場などがあります。「市民スポーツの父」と言われ、ロサンゼルスとベルリンオリンピックでは日本選手団団長を務めた平沼亮三氏の曽孫にあたる平沼五郎成基氏に、オリンピック・イヤーの今年(2021年)1月、平沼氏が経営されている元町のcafe Le Havre(カフェ ル・アーヴル)でお話を伺いました。

平沼 五郎 成基さん
 
平沼 五郎 成基さん
 
お名前 平沼 五郎 成基
(ひらぬま ごろう なるき)
お生まれ 1980年 横浜市西区
お住まい 横浜市西区
お仕事 ・(株)五六(ふのぼり)代表取締役
・cafe Le Havre、Gallery N 経営
・俳優 他
趣味 古武術(特に居合)、着流し抜刀術

 

横浜元町の気になる店 cafe Le Havre(カフェ ル・アーヴル)

老舗のショップが立ち並ぶ元町通りから1本山手側に入った道はクラフトマンシップ・ストリート、通称CS通りと呼ばれています。そこに世界初のコンテナ・鉄骨混構造のビルを2018年に建設しました。

既存のコンテナをただ積み上げて作ったビルは海外でいくつも事例がありますが、土地の面積や間口に対してコンテナの大きさがぴったりマッチングしない限りは土地が余ってしまいます。地代が高い都市部ではもったいない話です。ところが、コンテナと鉄骨を組み合わせる建て方は、無駄な空き地を作らない、建ぺい率を最大限有効活用できるビルを建設することができます。そこに気づき、世界初の『コンテナ・鉄骨混構造ビル』が出来上がりました。

世界初のコンテナ・鉄骨混構造ビル Le Noir 横濱元町
https://cafelehavre.owst.jp/

元町には街づくり協定があり、統一感のあるお洒落な景観が保たれています。建設計画に際し、元町の景観を損なわず尚且つ最大限斬新な意匠を目指して建築士の先生と協議を重ねました。そうして出来上がったプランを街づくり協議会に提出して許可を頂くわけですが、どんな厳しいチェックが入るかドキドキしながら協議に向かったところ、非常に気に入っていただけて、快く許可を頂くことができました。後日談ですが、街づくり協定を順守した上で景観に寄与した建物や店構えを表彰する第2回元町まちなみデザインアワードにてクラフトマンシップ・ストリート賞を受賞しました。

カフェではコンテナに見立てた「四角いシュークリーム」が人気です。俳優の藤岡弘、さんがコーヒー好きなあまり自ら最高の豆を探し、焙煎まで監修した「藤岡、珈琲」と一緒にお召し上がり下さい

『さびた街』平沼をお洒落な街へ

私が心を痛めているのは、かつて私の祖先が帷子川の河口の浅瀬を埋め立てて生まれた「平沼」という町(横浜市西区平沼地区)が需要をはるかに上回る投資用のワンルームマンションの乱立によって、横浜駅徒歩圏内という好立地にもかかわらずゴーストタウンに成りつつあることです。

かつて平沼は、平沼商店街が繁盛していました。登下校時のこどもの声、商店街の賑わい、お祭り・・・生きている「町」とは兎角、こどもの声のする町だと思っています。
横浜駅まで徒歩数分のこの地は、投資目的のワンルームマンションが乱立し、商店街も今や『シャッター商店街』の体を成し、買い物で行きかう人の姿、道端で遊ぶこどもの姿が見られなくなりました。

私が『家族』にこだわってマンションを考えるのは、平沼地区に活気が戻って欲しいと思ったからです。2014年に建てた、フランス語で「大家族」を意味する「グランファミーユ」は入居者同士の交流の場所を設け、マンション全体が大きな家族のようになったらという願いを込めて名付けました。計画に入る前に調査会社に市場調査をしてもらいましたが、その時点ですでにワンルームの供給率は300%を超えていましたので、グランファミーユは1Rや1Kの部屋はゼロ、ファミリー向けの部屋をメインとしました。

10年前くらいから相鉄線の都内乗り入れの話がちらほらと出始めました。(当時はまだ西谷から分岐するという情報はなかったので、)都内に勤める方が帰宅するのに、横浜から各駅停車1駅の平沼橋で中途半端に高くて狭い部屋に住むより、都内から急行に乗って二俣川まで行って庭付き一戸建てに住んだ方がいいよなぁと考えると、ドーナツ化の可能性に怯えざるを得ませんでした。この危機を乗り越えるためには平沼という町の価値を高めるしかありません。コスト重視のワンルームマンションの単調な街並みがどうしたら個性あるきれいな街になっていくかということをずっと考え、出した結論が、とびきり意匠性の高いマンションを建てて、次に建てる人も意識するようにしたら、その連鎖できれいな町になっていくのではないかということです。突拍子もない話に聞こえるかもしれませんが、現状その作戦は成功しつつあると言えると自負しております。

最近ではこうした経験を活かして、築古マンションのエントランスのリニューアルも手掛けています。分譲マンションの場合、管理組合として総会で承認を得る必要があり、予算取り、意匠コンペ、相見積、住民説明会等、非常に時間と労力のかかる過程ですが、町が生まれ変わるきっかけになるものですし、住民の皆さんの反応が楽しみで、とてもやりがいがあります。

会社名の五六(ふのぼり)の由来

平沼家というと未だに「大地主」だと思われがちですが・・・
先祖が平沼の地を拓いて150年弱が経過した今日、借地権の創設や相続の繰り返し等時代の変遷によって猫の額ほどになり、先祖代々の不動産を管理する会社として祖父の五郎が創業した弊社も、私が入社した2008年には赤字になり、消えゆくのを待つのみという状況でした。

祖父は、私が5歳の時に亡くなっているので、いわゆる「おじいちゃんとの想い出」もほとんどないのですが、死に物狂いで会社を立て直している間、ふと祖父の想いに触れる機会が何度もあり、これまで以上に祖父への感謝や敬意が自分の中で育っていきました。

ある時、某メーカー企業さんが、代々社長に就任する際に創業者の名前を襲名しているということを知りました。創業者に対する感謝や敬意をこうして形に残すのは素晴らしいなと思い、私自身も祖父の遺してくれた会社を守るため、平沼家を守るための覚悟を込めて、2017年12月に祖父の名前を襲名したいという話を祖母にして襲名の許可をもらいました。「あら、そう。」と言って嬉しそうに微笑んだ祖母の顔は今でも鮮明に覚えています。

22歳 祖父五郎 17回忌

こうしてなんとか40周年を迎えた2018年に、社名を株式会社北軽井沢エンタープライズから株式会社五六(ふのぼり)と変えました。祖父愛が止まらない私は、社名にまで祖父とのつながりを残したいと思い、五郎をもじって56を社名にしようと色々考えているうちに、ふと「ふのぼり」という読み方に行きつきました。

将棋で「歩の駒が盤の5六の位置から1マス上ると敵陣に入り『と金』になることから、『五六から歩がのぼる』と「ふのぼり」と言うようになったと言われています。負を金に変える縁起の良い名前だとされています。それだけでなく、五郎が56に掛かっているのは言うまでもありませんが、金に「成る」で私の名前にも掛かっている、これは完璧だ!と思い、即決しました(笑)

さらにその後、曾祖父亮三が国民体育大会の炬火リレーで駆け上がった炬火台の階段も56段だったという資料に出会い、これほどに縁のある数字だったのかと驚きました。

スポーツマン一家

曾祖父の亮三、祖父の五郎、そして父と慶應義塾大学に籍を置いていたため、私も憧れて必死に勉強してなんとか念願の慶應義塾中等部に入ることができました。

曾祖父の亮三は福沢諭吉先生の門下生で、大学野球部では4番打者として活躍し、東京六大学野球連盟会長も務めました。1979年には特別表彰で野球殿堂入りを果たしております。野球以外にも全日本体操連盟の初代会長、日本陸上競技連盟初代理事長、日本バレーボール協会初代会長などを歴任し、ロサンゼルスオリンピック、ベルリンオリンピックでは日本選手団団長を務めました。その業績は神奈川区にある「平沼記念体育館」に資料として展示されています。

祖父の五郎は親のやっていなかったスポーツをやろうと、亮三に帯同してベルリンオリンピックに行った際にフェンシングを日本に持ち帰り、慶應義塾大学にフェンシング部を創立しました。

私はと言えば、中等部では馬術部に入部しました。横浜市港北区日吉にある大学の馬場に練習に行きました。当時大学生のコーチから、中学で体育会所属なのは馬術部だけなのだと聞かされましたが、この時はまさか自分が貴重な10年体育会選手になるとは夢にも思っていませんでした。

14歳 馬術部 オール慶応で総合優勝

高校では体操部に入りました。「『バク転』ができたら面白そう」という軽い気持ちで入部したのですが、6種目(男子は床・鞍馬・吊り輪・跳馬・平行棒・鉄棒)すべてを行わなければなりません。怪我も大きいし、恐怖や痛みと隣り合わせのとんでもない世界に入ってしまったことに気づくのに時間はかかりませんでした。

顧問の首藤先生からは常に「基礎を大切にしろ」と言われ続け、体操だけでなく人生全般に共通することを身体を通して文字通り身につけさせて頂けたことは大きな財産だと思います。

「出来ない」ことをネガティブに考えるのではなく「出来ないならどうすれば良いのか」 「することに必要な事は何か」とポジティブに考えることを学び、高校3年間で私の人生感が大きく変わりました。体型も筋肉質になり高校3年間で胸囲が20cm、体重も20Kg増え、まるで別人になりました(笑)

やりたいことが見つかった大学生活

大学では商学部でマーケティングを学びました。父は経済学部へ進むことを望んでいましたが、やりたいことを実現するにはマーケティングを学ぶ必要性があると考え、父を相手にプレゼンテーションしたことを覚えています。

大学時代はやりたいことが見つかって、自分でも驚くほど勉強しました。キツイと言われている齊藤通貴先生のゼミに入ろうと、先生の授業に1年からモグリで参加していました。入ゼミの面接の際に、「先生の授業は1年生から受けていました」と答えたら驚かれました。それもそのはず、大学ではフェンシング部に籍を置いていましたから、体育会の生徒が齋藤ゼミを受けるというのは本当に大変なことだったのです。齊藤先生からはマーケティング理論の他に、福澤イズムや慶應イズムを教わりました。

フェンシング部に入部したのは2年生からでした。周りの部員が皆、中学からフェンシングをやっている中、2年生からのスタートという大きなビハインドに加え、体操で膝を怪我していたので大きなハンデも背負ってのフェンシング生活でした。

21歳 フェンシングの試合風景

ここでも恩師首藤先生の教えが活きました。量で勝てないのはわかりきったことですから、いかに質で勝つかを常に追求していました。質=基礎であることを知っていたので、膝が痛むときも独りで壁に向かって黙々と剣さばきの練習をしたり、チューブトレーニングをしたりしました。足が使えないという弱点をカバーでき、4年生の時には台東区のオープン大会で2位になりました。

ベンチャー企業に就職したが

大企業でも潰れる時代、大学卒にとっては大氷河期と言われた時代に就職活動をしました。いずれは家業を継がなければならないと考えていました。それには大学で学んだことを即実践できる会社に入り現場経験を積もうと思い、ベンチャー企業(商社)に就職することに決めました。父は反対でしたが、またまた父を説得するためにプレゼンテーションを行いました。

入社した商社では営業を任されました。多い時は全国130店舗の取引先を担当していました。すべての店舗の担当者の方の名前を覚え、出張先から携帯電話でお問い合わせを頂き、在庫の確保や見積をし、発注頂いた商品をスムースに出荷手続きしつつ次々と取引先を訪問、週末には最終新幹線で戻って来るといった生活を月の3/4くらい送っていました。

当時はよく「出張が多いと色々な地方のおいしいものを食べられていいな」と言われましたが、一度の出張でより多くの取引先を回るため、昼はレンタカーで走りながらドライブスルーのハンバーガーやコンビニのサンドイッチ、夜は牛丼という日がほとんどでした。

出張から帰ってくるとデスクに仕事が山積みになっているので、週末も出社してせっせと仕事の日々でした。基本的に毎日終電、たまに泊まり込みでしたが、ごくまれに22時とか23時とかに退社すると、さらに仕事が振られるようになりました。
それでもがむしゃらに仕事をしていましたが、創業期から務めていた上司が異動で営業部に来てからパワハラを受けるようになりました。私が売り上げを上げるとその上司がかわいがっていた部下がかわいそうという理由で返品させられたり、毎週のように土日も出勤していたのに、ある時たまたま土曜に出勤しなかったところ、その週は上司が出勤したようで、毎週末出勤しろと怒鳴られたり。
心療内科で薬を処方されるようになって、医師から休職を勧められました。その後、広告代理店に転職しましたが、相変わらず毎日終電の生活を続けていたところ、日によっては起き上がることもできなくなり、ドクターストップでサラリーマン生活からドロップアウトしました。

古武術との出会いと役者への道

大学卒業後は、やはり身体を動かしたくて金子釋護(かねこときもり)氏に師事し、日本古来の身体操法である古武術を稽古し始めました。
古武術の剣術・体術・杖術・居合術を稽古しています。
先ほど申し上げたようにサラリーマン生活がかなり忙しかったので、稽古もなかなかコンスタントには通えませんでしたが、趣味として細々と続けている状況でした。
ある時『KATANA-MAN』という映画でエキストラを募集していたので応募してみたのですが、剣を扱えるし、バク転もできるしと思って特技の欄にそれっぽく「アクション」と書いて出したらなんと役を頂けることになり、映画デビューしました。

27歳 武楽座 銀座公演

2006年、武楽座の旗揚げ公演『鬼切』では主人公、渡辺綱役で出演、この時サラリーマン生活にピリオドを打ったのですが、怒りや悲しみといった感情を飲み込んで身体を壊したので、感情を吐き出したらよいのではないかと考え、本格的に役者への道を踏み出したのです。武楽座では武術考証の他に衣装も手掛けるようになり、和裁の勉強が役立ちました。
2007年の『きものクィーンコンテスト』ではベストメンズ賞を受賞しました。

小劇場の舞台では役者たち自ら舞台設営をするため、自然と大工用語を覚えていきましたが、これが後に大きく役立ちました。

2009年に舞台「マリア・ルス事件」をプロデュースできたこと。そして会社の再起をかけてリフォーム事業という未知の世界に足を踏み入れた際にも現場の職人さんと意思の疎通が図れたことなど、無駄な『経験』はないのだと思いました。

2009年、横浜開港150周年記念公演「マリア・ルス事件」

日本で初めての国際裁判にして清国人奴隷250余名を解放したマリア・ルス号事件。歴史的重要事件であるにもかかわらず横浜でも知る人がほとんどいないのが実情です。

ある団体が横浜開港150周年記念に舞台化したいと企画を立て、私に主演を依頼してきました。ところが、責任を押し付けられる形で企画から会場の交渉、脚本、資金集め、製作の総指揮を一手に引き受けざるを得なくなりました。
最後の追い込みは苛烈を極め、8月に入ってから14日の千秋楽が終わるまでの総睡眠時間は1ケタでした。

29歳 横浜西ロータリークラブでの卓話/マリア・ルス号事件について

紆余曲折がありましたが、「マリア・ルス号事件」をプロデュースできたことは人生に残る思い出となりました。1951年から59年まで横浜市長を務めた曾祖父亮三が横浜開港100年祭の実行委員長だったことを鑑みると、私が150周年記念行事に関われたのは感動的でもありました。

また、主催団体によるスタッフやJASRACへの未払いを2年間ひとりで闘い続け、すべて支払わせるのは容易ではありませんでしたが、その間もいつも「大江卓ならみんなの為に絶対に諦めなかった!」と言い聞かせてなんとか折れずにいられました。
大江卓は会ったことはもちろんありませんが、人生の恩師であり、引き続き大江イズムの布教を続けていきたいと思っています。
プロフィール写真は2017年大江卓生誕150周年の時の写真で、我ながら似ているなと思いました(笑)

今年、2021年は大江卓没後100周年、2022年はマリア・ルス号事件150周年です。

コロナ禍で「住空間にこだわる」私だからできること

2020年2月から現在もコロナウィルスの蔓延は続いていて、マスク、手洗い、消毒、換気で自衛しなければならない毎日です。特に飲食店は自粛営業を余儀なくされ、苦しい状況が続いています。

私が「住空間を快適にする」ことを追及していて出会ったのが「オゾン発生器エアクローバ―」です。オゾンによって新型コロナウィルスを不活性化できるという研究発表が奈良県立医科大学および藤田医科大学からなされたことは周知のことですが、ともすると体に悪い影響をもたらすものや効果が薄いものが商品として市場に多く出回っていることに気が付きました。
そうした適正ではない商品を買ってしまう方をひとりでも多くお助けしたいと思い、オゾン安全管理士の資格も取得しました。決して安い買い物ではありませんが、換気で窓を開けながらエアコンをフル稼働させることを考えると、窓を閉めてオゾンで除菌することで電気代の削減で元が取れてしまいます。また各種補助金・助成金の対象になるケースもあります。余談ですが、花粉症対策やカビ対策等にも役立ってくれます。

cafe Le Havre(カフェ ル・アーヴル)ではエアクローバー代理店が運営しているわけですから、徹底した感染症拡大防止対策を心掛け、オゾン濃度・湿度の管理で空間まるごと除菌、テーブル等も飲んでも安全なトップレベルの除菌・抗菌剤によって拭き取りをし、最上級に安心・安全なカフェ空間をご提供しております。
エアクローバーは常時稼働しておりますので、ご興味ありましたら、カフェで実物をご覧ください。大事なことなので重ねて申し上げますが、オゾンによる感染症対策は濃度と湿度がとても重要です! 本当にその機械で適切な濃度になるかどうか、是非オゾン安全管理士の私にご相談ください!

「あなたにとっての横浜」とは?

私にとっての横浜は「Soul Place」です。

まさに生まれる前からの横浜との縁を感じずにはいられません。そして平沼の町が発展していたおかげで平沼家も存続してくることができました。
大事なのは恩返しのキャッチボールです。町が返してくれたボールをずっと持ち続けていて返していなかったから赤字転落の憂き目にもあったのでしょう。まずはボールを返すことを切々と父に説明して、実行していったことで会社を立て直すことができたと思います。

町が10年後、20年後にどう変わっているかは私たちの行動や決意にかかっていると言えます。投機目的の乱立するワンルームマンションに住民一丸となってノーと言えるまちづくり、家族が住み続けていける快適な住環境を提供できるように、負を金に変えるように、これからも頑張っていきたいと思います。

お仕事:

  • (株)五六(ふのぼり)代表取締役社長
  • cafe Le Havre、Gallery N 経営
  • オゾン発生器エアクローバー代理店
  • 水処理装置ELSE代理店
  • 俳優
  • カウンセリング/GFC yokohama
  • 社)日本電気通信媒介業協会 認定校
  • 横浜市体操協会 監事
  • 横浜カップジュニア体操協議会 常任理事
  • 横浜唐揚協会 会長

資格:

  • 社)日本唐揚協会認定カラアゲニスト、2級揚げ師
  • 米国NLPTM 協会認定 NLPトレーナー・コーチングトレーナー
  • 社)平和戦略会議認定 つきつめPGファシリテーター
  • 認知症ケア指導管理士
  • 少額短期保険募集人
  • オゾン安全管理士
  • 2級建築施工管理技士
  • 給水装置工事技術主任者
  • 1級リフォームスタイリスト
  • 1級リビングスタイリスト
  • 1級スマホマイスター

 

(取材/渡邊桃伯子 文/高野慈子)

 

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ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

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