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横浜元町「洋食屋」 店長 大森浩幸さん

by staff on 2017/10/10, 火曜日

元町のメイン通りから1本山側に入った通りを元町仲通りといいます。最近は仲通りとそこからのびている通りで構成されるショッピング街を『クラフトマンシップ・ストリート』と呼ぶそうです。今回ご紹介するのは、最近リニューアルオープンした『洋食屋』さん。まるで昭和の時代にタイムスリップしたような懐かしさを感じさせるお店です。店長の大森浩幸さんにお話を伺いました。

横浜元町「洋食屋」 店長 大森浩幸さん
横浜元町「洋食屋」 店長
大森 浩幸さん
 
お名前 大森 浩幸(おおもり ひろゆき)
お生まれ 昭和55年11月11日
お住まい 日吉
ご家族 奥様と二人暮らし
趣味 スノーボードと野球観戦
お仕事 横浜元町「洋食屋」 店長

 

お誕生日はぞろ目

誕生日が昭和55年11月11日と同じ数字が2つずつ並ぶ「ぞろ目」なんです(笑) 小中高と地元の公立学校に通いました。子供の頃から野球をすること、走ることが大好きで、体育大会では短距離の選手に選ばれました。区のリレー大会では優勝したこともありました。

中学校の先生に是非ともと言われて陸上部に入りました。もちろん運動だけではありませんよ、勉強も頑張りました。数学が好きでしたね。高校は陸上部の強いところを先生に勧められて・・・ところが、1年生のときに足が疲労骨折をおこし部活について行けなくなりました。マネージャーになることを勧められましたが、小学生の頃から野球で鍛えた肩が幸いして、槍投げの選手として陸上部に残ることができました。

建築デザイナーを夢見た頃

高校卒業後は3年制のデザイン専門学校に行きました。料理人になりたいとは夢にも思いませんでした。

ものづくりが好きで、細かい作業が続く図面を引くことも嫌ではありませんでした。今とは違ってパソコンやCADといった設計ソフトの無い時代でした。デザイン専門学校から課題が提供され、宿題で仕上げた図面はくるくると巻いて、ゴミ箱に保管していました。 家族には「部屋に入らないで、片付けは自分でするから」と言っていましたが、大切な図面をゴミ箱にさしていたことが災いとなり、課題の図面はゴミとして捨てられてしまいました。事情を学校側は考慮してくれ、特別な条件を出してくれましたが、全てを1から作りなおす気の遠くなるような時間を考えると、投げやりな気持ちになりデザイナーをあきらめることになりました。

カナダへ

デザイナーを夢見ていた頃、『自分がデザインした店を持ちたい』と漠然と思っていました。今思えばこの頃が『飲食業』に興味を持った始めです。デザイナーの夢が途切れた時でも『自分の店』というもう一つの夢が私を支えてくれました。

トニーローマで2~3年、皿洗いやオーダーを取る仕事をしました。未成年だったこともあり、お酒を扱うことができませんでしたから。見習い修行といったところでしょうか?! 日韓ワールドカップが開かれていた頃のことです。カナダからサッカーを観戦しに来ていた人と知り合い、いろいろな情報を得て、ワーキングホリディーを使ってカナダに行くことになりました。

「何故? カナダ?」って訊かれると思いましたよ(笑) 中学の時、冬の体験学習でスキー教室に行きました。それが楽しかったので、その後も友人と新潟や長野にスキーやスノーボードをやりに行きました。ニセコのパウダースノーの体験は忘れることが出来ません。本当に感動を覚えました。

カナダのウィスラーは冬季オリンピックのスキー会場になったところで、世界一のスキー場と言われています。もちろん雪質も最高です。そこにあるレストランパブで仕込みの仕事をすることになりました。お店のオーナーがいい人で、店長が3人いました。朝・昼・晩と自分のポジションがしっかりと決められていて、英語が苦手な私のポジションは接客ではなく「仕込み」でした。回りがどんなに忙しくても、自分の担当の仕込み作業が終わればスキー・スノーボー三昧でした。私の英語力は中学生並でいつも電子辞書を持ち歩き、分からない単語はすぐに調べて覚えました。

1年間の滞在と期間が分かっていたので、4ベットルームのある家を借りてオーナーになり、ルームシェア募って部屋を貸していました。『シェアルーム空いています』と近くのカフェに貼紙を出してもらったりと・・・いろいろな生活の知恵やノウハウを教えてくれる周りの人に恵まれました。日本に帰る1ヶ月前には貯めていたチップやボーナスを使ってアメリカ旅行をしました。いわゆるバックパッカーです。 バンクーバーからシアトルへ、シアトルではマリナーズのイチロー選手の記録更新のシーンを観ることができました。ラスベガスでは無料のアトラクションを楽しみ、グランドキャニオンからテキサス、ニューメキシコと行って、そこから北上しワシントンからニューヨークとアメリカを縦断するとナイアガラからカナダへ、そしてバンクーバーにもどりウィスラーで借りていた家を解約して日本に帰ってきました。

アメリカンレストラン?

日本に帰るとすぐ就活をしました。PCで「アメリカン レストラン 横浜」で検索をして、働く場所を探そうとしたら元町の『アメリカンハウス』が出てきて(笑) ちょうどランドマークの系列店で新規スタッフを募集していると知りました。ホールスタッフということで、スタッフをまとめ、シフトを作り、店内の全てに気を配る仕事でした。トニーローマやカナダの店舗での経験を活かせると思いすぐ応募。そして見事合格することができました。ここではいろいろな経験をさせてもらいました。中でもららポート横浜(鴨居)の系列店のオープニングスタッフになり、店舗の立ち上げの手伝いをした経験は貴重なものになりました。

ランドマークプラザにある15坪ほどのJo’s BARを任せられ、ランチで店の常連を増やすことができました。小さい店でしたから料理を教えてもらう時間もあり、夢である『店をやりたい』にグーッと近づいた気になりました。



洋食屋さん

今まではランドマークやららぽーとと言った巨大施設の中のお店でしたが、原点に返って『路面店』を任されたのがこの『洋食屋』です。昭和の味のある店です。テーブルの紅白のビニールコーティングされたテーブルクロス、銀色に光る金属の皿、メニューもオムライスやえびフライ、ハンバーグがメインです。親、子、孫と三代にわたって一緒に楽しめるお店です。お孫さんに『昔はレストランでお食事をいただくのはハイカラなことだったのよ。エビフライにはタルタルソースが定番だったのよ』と懐かしそうに話している年配の方。『オムレツは今風のふわふわオムレツよりも昔風にケチャップで食べたい』といったリクエストにも応じられるお店です。



「キッチンが見えるので、調理する場所の近くは女性陣に占領されますね(笑) フライパンの中で溶かし卵を上手にオムライスにしていく過程を「はは~ん、そうやるんだ」と見て帰られる方もいますよ。キッチンが見られるということはこちらも緊張します。いつも清潔に整理整頓に気を配っていないと・・・絶対に気は抜けませんね。」

夜遅くに「店に明かりがついているから、まだ食べられる?」と入ってこられるお客様、雨宿りに、元町散策の休憩場所に、読書に、おしゃべりにと・・・お店の明かりを灯台や道しるべのようにして、人がここで集ってくれるのが夢です。

あなたにとっての横浜は?

妻との出会いがありました。ランドマーク時代にランドマーク内の別の店で働いていた彼女が仕事帰りに食事に来てくれたことがきっかけです。このどこか懐かしく温かい洋食店が二人のデートの場所でした。閉店間近なひと時を二人で過ごすことで随分と癒されました。

小さな幸せが感じられる場所を自分が提供できたら・・・私も幸せだと思います。
お腹も満たし心も満たせる『洋食屋』になれるように努力していきたいと思います。
横浜はそんな若者の夢を応援してくれる町です。

(あなたにっとっての横浜とは?)私にとっての横浜とは「人と人をつなぐ場所」です。

私にとっての横浜とは「人と人をつなぐ場所」です

(文:高野慈子

 

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