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セカンドライフ列伝 第8回 新島八重(山本八重子)

by staff on 2012/11/10, 土曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第8回 新島八重(山本八重子)

前しか見ようとしなかった八重子

 以前に見た白虎隊のテレビドラマで、彼らに砲術を教える若き女性がいました。 山本八重子(後に新島八重、1845~1932)です。 会津藩砲術指南の娘として生まれ、戊辰戦争のクライマックスである会津鶴ヶ城の籠城戦(慶応4年、1868年)をスペンサー銃と大砲を操って戦い抜き、落城の血涙を流して敗者の辛酸を舐めた後、明治9年に京都でクリスチャンの新島襄と結婚して同志社大学の創設に関与し、彼の死後は日清・日露戦争で篤志看護婦をするなどで、86歳(昭和7年)の天寿を全うした女丈夫(じゅじょうふ)です。

 セカンドライフ列伝は前回が土方歳三だったので、戊辰戦争つながりでそのうちに八重子をと思っていたのですが、昨年のうちに2013年のNHK大河ドラマは「八重の桜」に決まっているということを、私は迂闊にも最近まで知りませんでした。 そこで大河ドラマで一定の八重子像が作られる前に書いてしまおうと、無謀にも思ったわけです。

 彼女とその周辺の歴史資料は整っていないこともあり、ドラマでは史実外の展開も多いであろうと予想されていますが、私も誤解と願望に満ちた、虚実と言うよりは虚々取り合わせた八重子像に挑戦したみたいと思います。

 なお名前が八重なのか八重子なのかですが、本人が晩年でも八重子と署名していることもあって、私としては悩ましい所です。ここでは簡単に会津時代は八重子、京都時代は八重としました。

八重子の育った環境

 八重子は会津藩士・山本権八と佐久の子として会津・鶴ヶ城近くの市内で生まれました。ここで彼女の人生に欠かせないのが、17歳年上の山本覚馬です。 彼も砲術を学ぶのですが、さらに江戸へ出て佐久間象山の塾等で学び、勝海舟らとの交流も持ったということですから、文武両道の秀才です。 会津に戻って藩校・日新館で砲術などを教え、また蘭学所を設けて教授となりました。

 また2歳下の弟・三郎がいました。 兄はほとんど父親のような年齢であり、江戸での勉学の不在も長いものですから、八重子はこの三郎を可愛がり、二人は何をするのも一緒のように育ちました。 八重子は男勝りで、米俵を軽々と担ぎ上げる怪力でもありましたので、当時の男女かくあるべしという枠は自ずと超えていました。 八重子の砲術はこのような環境で習得されたものですが、三郎も姉を超えようと、研鑽を重ねたのです。

 さて、藩主・松平容保(かたもり)は1862年に京都守護職に任命されました。 これが会津藩の悲劇の始まりですが、会津の人々はこのように形容されることを決して望まないでしょう。 あくまでも将軍を守ることは会津藩の使命であり、当然のこと、名誉なことに他なりません。 江戸ではこの翌年早々に新選組の前身である浪士組が結成され、近藤勇、土方歳三らが上洛します。 そして将軍徳川家茂が上洛。松平容保も山本覚馬らを伴って上洛します。 この時に会津の下級武士を多く連れていったために、彼らの内職であったダルマが供給不足になったとか言われています。

 1864年の蛤御門の変では、覚馬は砲兵隊を率いて長州藩勢と戦って、鎮圧します。しかし次第に目が悪くなってきました。長崎に鉄砲の買い付けと共に、外国人医師の治療を受けに行きました。

第一の人生~川崎八重子として

 いきなり、何の前触れも無い小見出しで、ナンダコレと思われるかもしれません。 1865年に、八重子満19歳の時に但馬・出石(いずし)藩士の川崎尚之助(しょうのすけ)と結婚しました。 彼は蘭学者・砲術家ですが、江戸で覚馬と出会い、会津の蘭学所に招かれ、山本家に寄宿しました。 その時八重子は12歳です。 その7年後に結婚したわけですから、ずっとお兄ちゃん感覚であったのかもしれません。 覚馬の人脈による自然な成り行きとも思えます。 そして八重子は近所の白虎隊の少年たちに慕われ、砲術を教えています。 人生において若々しくバラ色の時期でした。

 しかしながら将軍家茂が大阪城で亡くなり、徳川慶喜が将軍に、そして慶応3年(1867年)の10月に大政奉還をしました。 その翌年、慶応4年早々に会津藩兵らの幕府軍は大阪城から京都に向け進軍して、薩摩藩兵らとの武力衝突に至ります。 1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いです。 この戦いは幕府軍劣勢の中、将軍徳川慶喜の戦線離脱で早々に集結しますが、戊辰戦争の始まりであり、八重子の運命の転換の始まりでもありました。

 この時に兄の覚馬は京都の寺で眼病の療養中だったのですが、会津藩軍に開戦前に接触して、朝敵になってはならないと諭そうと道を下るのですが、避難する人々の混乱で進めず、仕方なく戻って朝廷に会津藩の真意を奏上しようとする所を、薩摩藩に囚われてしまいました。

 一方弟の三郎は会津藩兵として参戦していたのですが銃弾を受けて負傷し、会津に戻った後に死亡、21歳でした。八重子は兄と弟を同時に失ったのです。

第一の人生~弟三郎として

 戊辰戦争の戦線は次第に北に上がってきました。そして一連の会津戦争という局面になります。 また新政府軍に対抗するために、慶応4年5月に奥羽越列藩同盟が成立します。 この間、すでに白河口で激戦が繰り広げられており、薩摩藩を中心とした新政府軍により落城するものの、その後も3ヶ月間旧幕府軍は奪回を試みたが果たせませんでした。戦後の小峰城はほぼ全焼し、石垣さえも崩れているという惨状であり、いかにも重要拠点の攻防戦であったかが分かります。

 この終盤近くに、二本松城が手薄の所、虚を突かれて落ちます。 そしてさらに守備の手薄な母成(ぼなり)峠の戦いに敗れ、新政府軍は一気に会津若松城(鶴ヶ城)の攻防戦に至ります。 8月23日に電撃的に城下に侵攻し、会津藩士達は家族ともども籠城し、齋藤一率いる新選組などの外人部隊が城外での遊撃戦を繰り広げました。

 この時、川崎尚之助は覚馬不在の穴を埋めるべく、砲兵隊を率い、獅子奮迅の活躍をしました。 そして八重子は髪を切り、死んだ弟三郎の筒袖の軍服にたっつけ袴を穿き、後込め式7連発スペンサー銃を携え、大小を差して登城したのです。 100発の弾丸を体に巻いていました。 当時最高性能の銃を使って、その腕を存分に振るったのでした。 また連戦の夫尚之助に休息を取らせて、自ら大砲を指揮したのです。 その時はさらにマントを羽織っていたといいます。 さらに城外に出ての夜襲にも参加したのですから、敵弾を撥ね返す位の勢いがありました。

 鶴ヶ城には容赦なく砲弾が撃ち込まれます。寝ていた負傷兵が、ある1日の分だけで2500発を数えたと言います。 八重子は不発弾を手に入れて、城主松平容保(かたもり)の御前でそれを分解し、火薬の装填状態や散弾が飛散する原理などを理路整然と説明したということです。 その容保の義姉が照姫であり、籠城戦における女性陣の指揮をとったのですが、八重子は照姫の御傍役(おそばやく)を申し付けられていました。

 八重子は傷病兵の看護にもあたると共に、休戦中には炊き出しにも参加しました。 大量の玄米を備蓄してあり、それを握り飯にするのですが、熱くて掌が焼けるので、水で冷やしながらになります。 ここでも豪快に作り続けました。 そんな時に着弾すると、天井の泥が落ちて米が汚れるのですが、それは女達が食べました。 ひとつぶの米も無駄にできない状況です。 高い役職の家の女性達こそ率先して働いたということで、女たちの士気は高いものでした。 多くの女性が死を決して、白無垢で登城して着の身着のままで30日の攻防を戦い抜きました。 ある女性は鮮血にまみれた姿で登城してきました。 身内の臆病者を始末してから来たとのことです。

 薙刀を武器とする娘子隊(じょうしたい)という女性部隊がありました。 特に美貌の薙刀の名手、中野竹子は当時19歳位ですが、母や妹たちと組んで敵に切り込んで行きました。 しかし銃弾を受けて即死、その首級を奪われることを防ぐために、妹が首を城に持ち帰りました。 竹子は今も地元では、会津のジャンヌダルクとして高い人気があるということです。 なお八重子は美貌とは無関係です。

 戦争はついに彼女の父をも奪います。 終戦間際の9月17日に戦死、61歳でした。 22日に降伏。 この夜に八重子は城の壁にかんざしで痛恨の思いを歌にして刻み込みました。

 さて、翌日に婦人、子供、老人(60歳以上)はお構いなし、その他は猪苗代謹慎を命じられました。 八重子は山本三郎と称して、男装で謹慎の隊列に混ざりました。 彼女の袴には被弾した孔が開いていましたが、夢中で戦っていたので、いつ被弾したか全く気づきませんでした。 ただ、道中の累々たる死屍に胸が塞がれる思いでした。 彼女の隣には、夫の尚之助が歩いていました。 彼らは無言のまま、長く深い会話を交わしたのです。 この時間だけ、三郎から八重子に戻っていました。 彼らの背後には大きな秋の空と、軒がひしゃげ、屋根瓦がずれとんだ鶴ヶ城がありました。

第一の人生~追放・疎開の日々

 さて、男装とは言え女の八重子はお構いなしとなり、会津に戻りましたが、夫の尚太郎は取り調べのため江戸送りになり、離別しました。 彼は戦闘を担う中で会津藩士に取り立てられていたので、戦犯扱いされたのです。

 さて父、夫、兄、弟と家族の男達は全部居なくなってしまいました。 川崎八重子は母の佐久、覚馬の子の峰と何とかして生きていかなければなりませんが、いかに女傑とはいえ、その厳しさは想像を絶するものであったと思われます。 米沢に人手を求めている所があり、こじんまりとなった一族で疎開します。

 一方明治2年(1969年)に旧会津藩士は家族と共に、新しく斗南藩と命名された下北半島に移住させられました。 尚之助も翌年10月に斗南での謹慎処分となりますが、そこは痩せた北の果ての地であり、彼らの生活は凄惨を極めていました。 彼は人々の飢えを防ぐために立ち上がり、仲間と共同して外国人商人と契約し、米を調達しようとします。 しかしこの契約に何らかの問題があり、契約相手から訴訟を起こされます。 仲間は逃げ、彼は藩は無関係として責任を一身に背負います。 この訴訟は金額規模が大きく、相手が外国人であるため、裁判は東京で行われるので、川崎は明治5年8月に東京に戻ります。 身元引受人の許に身を寄せますが、その引受人が3度も変わります。 彼は浅草で塾を開いて糊口をしのぐのですが、劣悪な生活が続く中で慢性肺炎を患います。 裁判未決のまま、44日間の入院生活の末に明治8年3月20日に孤独な中で死去、39歳(数え)でした。

第二の人生~京都女紅場での飛躍

 一方米沢の八重子に会津を経由して驚くような手紙が届きます。兄の覚馬が京都で生きており、京都に来て一緒に住もうと伝えてきたのです。 他に頼るあてもなく、明治4年に八重子、母、姪の3人は上洛しました。

 覚馬は鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に囚われ、すぐに殺されるところを、たまたま彼を知る者があって、一命を許されて京都の薩摩藩邸に幽閉されていたのですが、この間に完全に失明し、脊椎も患って自分では動けない身となりました。 しかしその年(慶応4年)の5月に「管見」と呼ばれている建白書を口述筆記させて、薩摩藩に提出します。 内容は議事院設立、学校教育、商工業の奨励、製鉄業、貨幣改鋳、暦法の改正などを論じたものでした。 これは薩摩藩主島津公に提出され、その達見は西郷隆盛ら幹部の知る所となり、待遇が改善されます。 京都の仙台藩邸の病院に移されると、岩倉具視とも知り合います。 翌明治2年に朝廷は覚馬を用いることの必要性を知り、京都府顧問としたのです。 この役職は明治10年まで続くのですが、病院や学校、化学工業局の設立など、保守的な京都にあって行政の進歩的な改革の原動力になり、明治5年からは京都博覧会を毎春開催して産業と貿易を盛んにし、明治13年に京都府議会が創立されると身体的なハンディにもかかわらず初代議長に就任し、また京都商工会議所の会頭も務めたのでした。

 明治5年に覚馬の建策で誕生した女紅場(じょこうば)に、八重は権舎長兼教導試補として就職しました。 これはその当時全国に作られたものですが、女性の公的な教育・職業訓練機関であり、京都のものは後に府立第一高等女学校となります。 彼女にはうってつけの職場であったと思われます。 そこに、後に彼女の第二の夫となる新島襄が見学に来ました。 丁度英国人教師から英語を習っている所で、よくそんな難しい本を習っているなと驚いたと言います。 襄との最初の出会いはさらに少し前で、宣教師ゴードンの家に八重がマタイ伝を読みに行くと、そこで靴を磨いている男がいるので、ゴードンの下男と思い、挨拶もしなかったとか。これではドラマにならないじゃないか。

第二の人生~同志社学長新島襄の妻として

 ここで新島襄の略歴ですが、1943年に上州安中藩祐筆(書記)新島民治・とみの長男として神田一ツ橋の安中藩邸で誕生します。 八重の2歳年長です。 上の4人の子が女だったので、祖父は思わずしめたと叫び、七五三縄(しめなわ)と掛けて七五三太(しめた)と名付けられたとか。 後に藩主に抜擢されて蘭学を学び、更に幕府の軍艦教授所で数学・航海術を学び、英語も学習を始めました。 そして函館経由でアメリカに密出国します。 彼の祖父だけは予めそれを見抜いていたとのことです。 襄がアメリカに向かい、最後にボストン港に向かう船が、幸運にも貧困から大富豪となったハーディの所有船であり、彼の保護でフィリップス中学、アーモスト大学、アンドバー神学校等で勉強できました。 ハーディ自身が若い頃にフィリップス中学に学び、将来は牧師になることを夢見ていたものの、貧困のために中退した過去があったという背景があります。 初めて会った時にハーディが船長に、あの日本人の名前は何かと尋ねると、実は船長は知らなかったので、適当にJohnと答えると、じゃあJosephと名付けようということになり、帰国後は襄と名乗ったのです。

 彼が米国滞在中の明治5年に岩倉具視使節団と会い、欧米教育制度調査の委嘱を受け、団に随行して欧米各国の教育制度を視察するという幸運もありました。山本覚馬をこの時に知ったとも考えられます。

 さて襄の帰国は、宣教師としての日本派遣という立場でした。 彼が属したのはアメリカン・ボードというアメリカ最古のミッションであり、彼が死ぬまでずっと給料はここから出ていて、後に彼が創設して校長となる同志社は全く給与を払っていないそうです。 1874年(明治7年)11月に横浜に上陸し、大阪に配属され、先任のゴードンの許で、同僚の米国人達と教学校設立に向けた活動を始めます。 しかし江戸育ちの襄が関西では何のつてもなく、言葉も違うので全くうまく行きません。 健康もそこねたので、翌1875年(明治8年)4月に京都観光に行きますが、ゴードンから紹介されて山本覚馬を訪問するのです。 襄がキリスト教教育の必要性を説くと、覚馬が即座に賛成し、京都府から誘致されるような形で京都での同志社英学校設立がとんとん拍子で進み、同年11月に開校しました。 社員(理事)は襄と覚馬の二人だけでした。 本来は襄の宣教師としての役目としては教会を先に作らなければならないのですが、教育が先行したのは、彼らの一致点がそこにあり、また京都府の支援も受けやすかったのでしょう。 教会は翌年末に3箇所設立されます。

 さて開校直前の10月に、覚馬のとりなしで山本八重は襄と婚約をします。 先夫川崎との死別で山本姓に戻っていました。 そして翌年1月にプロテスタントの洗礼を受け、翌日に結婚しました。このカップルは世間の目から見れば変わり者同士でした。 人力車に乗るときに、レディーファーストで八重が先に乗ることを、街の人々は眉をひそめて見ていました。 また洋服が不十分な頃は、帽子、和服、靴という姿だったので、鵺(ぬえ)とも言われていましたが、後には堂々たる洋装を誇ります。 ついに一生会津弁が抜けなかったのですから、その面でも京都の人々には違和感があったとのことです。 しかしながら本人達は、そんなことはどこ吹く風であり、堂々たるマイペースであったようです。 キリシタン禁制廃止(1873年)から未だわずか、相当に飛んでる彼らでした。何と言っても京都は日本古来の伝統的な宗教の中心地ですから、かなり目障りな存在であったでしょう。

 しかし襄は八重に彼の理想の女性像を見ていました。 彼女を「ハンサム・ウーマン」として愛したのです。 でも彼女の肥満は悩みだったようで、彼が残した「漫遊記」の一節に「八重の脂肪を減ずるの法 三十日間 試行すべし」とあります。 心臓が弱かった襄は東京帝大のベルツ教授の診断を受けたついでに、八重のダイエット法を相談したようです。

 さて明治11年に自宅を新築し、八重は生涯そこに住み続けます。 これは「新島旧邸」として現存しています。充実した日々でしたが、八重はクリスチャンにはなりきれなかったようです。 彼女なりに襄の事業に協力するというスタンスであったように思えます。 その襄は健康を損なうことが度々となり、1890年(明治23年)の1月19日に大磯で療養中の襄の健康悪化を八重は電報で知り、20日には京都から着いて、23日に臨終を看取ります。 八重の腕の中で、「グッドバイ、また会わん」と言い残しました。余りにも早すぎる46歳でした。

 さらに2年後には兄の覚馬も永眠、66歳でした。 母の佐久もこの頃に亡くなりました。 襄の母登美は八重と同居していますが、襄の没後6年後に88歳の天寿を全うしました。

第二の人生~茶人新島宗竹

 八重は登美も亡くなると、独りの暮らしになりました。 登美が存命中は襄の気持ちを受けて洋装だったのですが、その後は和服に戻っています。全ての重しが取れて、本来の姿に戻ろうとしたのでしょうか。

 八重は日本赤十字に加入し、後に幹事でしたが、明治28年の日清戦争中は広島で篤志看護婦、明治38年の日露戦争中は大阪で篤志看護婦を務めました。 鶴ヶ城籠城戦を思い出しながらだったのでしょうか。

 晩年の八重は茶道に励みます。流派は裏千家で、女性として最高位まで上り詰め、新島宗竹という名を与えられました。自宅を改造して茶室を拵(こしら)え、家元に「寂中庵」と名付けてもらいました。 弟子をとり、各地の茶会に出かけると共に、自分でも開きました。 晩年のある初茶会では大勢の賓客を招いて盛大なものでしたが、床の間にあの照姫の短冊を飾りました。 さらに1932年(昭和7年)3月3日に最後のひな祭りを祝いますが、その時に写真には人形と共に床柱に照姫の短冊が掛けてあるのが見えるそうです。

 発病する3日前まで茶会に出ていましたが、急性胆のう炎で同年6月14日に永眠しました。86歳の天寿でした。

負け組の意地と、会津への原点回帰

 八重は強い女性ですが、その人生の流れは兄の覚馬が作ったと思えます。 夫となる川崎尚之助も新島襄も覚馬のお気に入りの洋学者であり、その性格も熱く優しいと言えます。 そして並外れた女傑である八重への包容力もありました。 しかし時代は、一旦は覚馬と八重が負け組に分類されることを強いるのです。 しかも薩摩藩に幽閉された覚馬は失明と言う追い打ちもあうものの、そこから「管見」を建白することにより這い上がります。

 そこで覚馬が注目したのが教育の重要性、そしてキリスト教であり、かつて日本を二分した戊辰戦争とは別の価値観を軸として、そこを追及することで負け組でも勝ち組でも無い、まして逆賊や朝敵では無い、人々の平和や平等の基盤になり得ると考えたのでしょう。 新島襄はその真髄を学んで帰ってきました。 彼らが創立した同志社に神学部はありますが、全体としてはミッションスクールではなく、キリスト教精神に基づく教育が理念であり、その精神は「良心」です。 新島襄が同僚の外人宣教師から、おまえは教育ばかりで布教をしていないと、給料ドロボー呼ばわりされかねないような批判を受けたとのことですが、正にそこがポイントであったわけです。 日本はキリスト教の世界から見れば奇妙な所で、長年キリスト教徒は1%程度で、入信しても長く続かないことが多いと言われています。お隣の韓国ではキリスト教徒が3割であることと比較すると、大きな違いと言えます。日本では教育の精神として定着したのです。

 八重は洗礼を受ける前後の時期は、かなり懸命にキリスト教の勉強をしました。 朝敵と言われる側から、勝ち負けとは異なる世界への転身により、絶対的な勝者への道を歩もうとしたのでしょう。 それは負け組の意地でもあります。思想と風俗習慣の一致を実践しようとしての、彼女の洋装や作法に対する低俗な批判は湖面の波紋程にも感じませんでした。 覚馬も襄も女性教育の重要性を説いていたので、八重はその実践面での期待も担っていたと思われます。

 しかし余りにも早く新島襄は亡くなってしまいました。すると八重はその理念を生涯貫くよりは、茶道に道を求めました。彼女が得た名声を背景とした社交の場であったわけです。 これもまた、勝ち負けを超えた世界とも言えますが、その範囲は狭いわけで、むしろ彼女自身の心の置き場であったのでしょう、盛んに活動しました。

 さて、1924年(大正13年)に貞明皇后が同志社女学校の視察に訪れ、八重は単独で接見し、感涙にむせいだとのことです。 朝敵であるとの新政府側からの一方的でいわれのない決めつけからの誤解が解けたと感じた瞬間でした。 さらに1928年(昭和3年)に秩父宮雍仁(やすひと)親王と松平勢津子(せつこ)が結婚しました。 彼女こそ、逆賊とまで言われた旧会津藩主松平容保の孫です。 八重も心からこれを喜びました。 この結婚は貞明皇太后の意向があったとも言われています。 いずれにしても、全ては恩讐の彼方にということでしょうか。 また、会津籠城戦の昔話が彼女の十八番(おはこ)であったとのことです。

 結局八重は、山本覚馬や新島襄が目指した方向には突き進まず、旧会津藩の出身者に回帰して、朝廷との和解によって救われたのでした。 しかし覚馬や襄の元気のもとは八重であったことは確かです。 彼らが共に活動し、進んでいた時期に形成した流れは、彼らの後継者達によって、より大きな河となって受け継がれていきました。

(2012.11.1 榎本博康)

主な参考文献

  1. 早川廣中、本井康博共著:増補改訂 新島八重と夫、襄、思文閣出版 (2012.5)
  2. 本井康博:日本の元気印・新島八重 新島襄を語る・別巻(一)、思文閣出版 (2012.6)
  3. 同志社社史資料センター編:新島八重回想録、同志社大学出版部 (2012.9)
クリックで写真拡大。 榎本技術士オフィス/榎本博康(撮影)


白河口の戦いで焼失した小峰城は復元されたが、3.11の地震で石垣が大きく崩壊した。復旧はこれから。

 


八重の故郷である福島県では大河ドラマ「八重の桜」への期待が高まっています。

 


「八重のふるさと 福島県」
マスコットキャラクター「八重たん」

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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